『GHQ焚書図書開封4』の刊行(八)

 ゲストエッセイ 

小川 揚司:坦々塾会員

    「GHQ焚書図書開封4「国体」論と現代」を拝読して

 「GHQ焚書図書開封」シリーズの中でも「国体論」が取り上げられた第4巻を待望していた。そして、図らずもその恵贈に与り、胸を弾ませながら通読させていただき、猛暑の中で凛と冴え渡る麦酒を一気に飲み干したような爽快感に浸ることができた。しかし、底知れぬ格別の苦みも口中に残った。

 昭和45年の晩秋、三島由紀夫大人が市ヶ谷台で壮烈な自刃を遂げられた。その翌春、私は、防衛庁(当時)に入庁した。三島大人は、その檄文において「国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である」と辞立されたが、以来、建軍の本義の根幹にある「国体論」は、私の終生の研究課題となった。しかし、防衛庁内局のシビリアンが「国体論」を、延いては、その根幹にある「天皇・皇室」そして「神道」を、自らの価値観の中心に置きその研究にのめり込むと云うようなことは、当時は甚だしくタブー視されるところであったので、私は、自分の立場は異端視されるであろうことを十二分に自覚しながら、密かに研究を続けていた。しかし、研修論文等によりその色は自ずと滲み出るもので、入庁15年目に陸上幕僚監部に二度目の転出をして以来、退官に至るまで、私は再び内局に戻ることはなかった。

 三島大人の散華以来四十年の歳月を経て、また、先頃は田母神航空幕僚長の解任事件の大反響もあり、一面において世論も随分と変わってきたように見えるが、それでも戦前・戦中の国民精神昂揚期の「国体論」を正面から取り上げ、非を非とするばかりでなく是は是として堂々と論ずると云うことは、敗戦以降、国民精神が虚脱から虚無に向かって淫々と流れてきた現在時点においては、大層勇気の要ることであり、況してや文壇の重鎮と云うお立場にあっての西尾先生のこの御壮挙にはあらためて瞠目したところである。

 西尾先生のこの御著作を先ず通読させていただき、実に爽快に感じたのは、そのような事由にもよるが、更なる理由は、西尾先生が数多の「国体論」の中から取り上げて論じられたこの六篇の「国体論」の選定と配列の素晴らしさ、その絶妙なバランスに感銘し深く共鳴したことによる。

 西尾先生は、戦後教育の洗礼を受けながらも真摯に歴史の真実にアプローチしようとする後学達を念頭に、当時の国体論の全体像がどのようなものであったかを的確に理解させるため、ここに六篇・六様の「国体論」を選定され、噛んで含めるように懇切に平易に解説され、その是非を論述して下さっている。拝読しながら、その愛情溢れる老婆心に涙を止めることができなかった。
そして、この六篇・六様の「国体論」それぞれに対する評価と、その配列の絶妙のバランスは、西尾先生の、近代知識人としての深い洞察力と強靱な思想批判力を具えられた高い視座からの「心棒」が厳存してのことである、と感嘆した。

 然は然りながら、未曾有の大戦と云う国家存亡の危機に直面し、国民精神が沸騰するまでに昂揚した当時においては、また別の至高の「心棒」が厳存し、それがバランスの中心点となり、この六篇を始めとする数多の「国体論」が、それぞれに処を得て百花繚乱と満開したものと思われる。そして、尋常な大多数の国民、即ち、吾々の父祖達は、そのような時代の空気の中で実に「意気」高く、凛として深呼吸しておられたものと憶念する。而して、そのバランスの中心点、即ち、至高の「心棒」とは、昭和天皇の信仰心(御敬神)に外ならなかったものと敬信する。

 昭和天皇の御敬神の篤さは、単なる建前ではなく、また、宮中祭祀は単なる形式儀礼に留まるものではなく、皇孫として皇祖皇宗を斎き祭り玉ふ御奉仕は敬虔なものであり、その御信仰は真実深いものであらせられたと、文献情報に限らず、漏れ承る。そして、普く国民はそれを真実として敬信したことにより、見識の高い辻善之助先生や白鳥庫吉先生の「国体論」に負けず劣らず、田中智学翁の熱狂的な「国体論」や杉本五郎中佐の絶対的な「国体論」も大いに光彩を放ち、数多の心酔者や共感者を現出させたものと認識する。  
繰り返しになるが、戦前・戦中の「国体論」の「心棒」は「昭和天皇の御敬神」に外ならず、その昂揚は、それに対する国民の感応、即ち「国民の敬信の念」に外ならなかったものと確信する。

 西尾先生は、この御著作の「あとがき」において、「戦争に立ち至ったときの日本の運命、国家の選択の正当さ、自己責任をもって世界を見ていたあの時代の「一等国民」の認識をもう一度蘇らせなければ、米中のはざまで立ち竦む現在のわが国の窮境を乗り切ることはできないだろう」と指摘され、また「戦前も戦後もひとつながりに、切れずに連続しているのである。戦前のものでも間違っているものは間違っている。戦後的なものでも良いものは良い。当然である。日本の歴史は連続して今日に至っているという認識に何度でも立ち還るべきであると私は考えている」と結んでおられる。
全くそのとおりである、と私も考える。しかし「あの時代の「一等国民」の認識をもう一度蘇らせる」ためには、そして「日本の歴史は連続して今日に至っているという認識に立ち還る」ためには、当時の「天皇の御敬神とそれに対する国民の敬信の念」を再び現代に蘇らせることができなければならないのではないだろうか、そして、それが果たして可能であろうか、と云う大きな難問に直面する。

 この秋の夜長、御著作を折に触れて拝読精読しながら、そのことを考えて続けてきた。
先ず「昭和天皇の御敬神」について、大御心を手前勝手に忖度することは誠に畏れ多いところであり、そこで、存在の次元の差こそあれ、神道思想の系譜と格調の高さにおいて相似すると拝察される山田孝雄先生の「国体論」即ち、御著作第2章の内容に沿って、また「国民の敬信の念」については、第7章以降を切り口として、西尾先生の御解説・批評をなぞりながら、所感の一端を記述させていただくこととする。

 西尾先生は、山田先生には「ふたつの顔」即ち「学問的、実証的な立場を堅持した顔」と「ある種国粋主義的な立場の顔」があると指摘された。私は、それは、真摯な学者としての姿と、敬虔な信仰者としての姿であると拝察する。

 私は、大学時代、ニーチェ研究の碩学である明治大学教授(当時)の小野浩先生に師事した。その小野先生は東北帝大でゲーテ研究の碩学である奥津彦重先生に師事されたが、その頃の東北帝大に山田先生もおいでになったと伺う。

 当時の東北帝大の学風は「広く世界的高処に立って西欧文化を総合的に摂取しつつ、日本を基盤として民族文化の根底を培い、学問研究において広大無辺の皇恩に応え奉るべし」と云うものであり、山田先生は、北陸の御出身の苦学力行の篤学で、そのような学風の中で至誠一途に研鑽を積まれた碩学であった、と承る。

 凡そ学者がその研究に際し、何らかの信仰を基礎として出発してはならないことは勿論であるが、自由公平な立場から冷静・周密に研究を進めた結果、正しいと結論した認識に基づいて敬虔な信仰を持つことは尊敬すべき姿であると考える。山田先生の神道に対する篤い信仰心は、その真摯な人生観の表象であり、更には、吾が国・吾が民族の危機に直面しての熱い愛国心を反映してのことでもあると拝察する。私が、山田先生を深く尊敬する所以である。

 そして、その山田先生の姿と重ね合わせ、近代人として高い見識をお具えになりながら、神事を御歴代相承され、皇孫として古代人そのままに宮中祭祀を敬虔に御奉仕し玉う昭和天皇の御姿を彷彿と思い浮かべるものである。

 次に、「中今」の解釈について、西尾先生は、先ずここにポイントがあると着目しておられる。私も全く同感である。ただ、私は「中今」は、神道の基底にある「ムスビ」の思想、即ち「生成発展しながら現象として結び出された「現実」を尊ぶ」と云う価値観を如実に表す言葉であり、「終末」や「抽象」に帰結するキリスト教やインド思想とは根本的に異なる吾が民族の独得の考え方である、と云うことが眼目であると認識する。

 また、西尾先生は「時間論」についても懇切丁寧に御解説下さっているが、私は、神道の基底には、そもそも「時」と云うものは「無い」と云う思想があると認識している。即ち「万事万物の変化推移が時といえば時なのであるが、それは相対的なものに過ぎず、絶対的な時と云うものがあって万事万物が変化推移するのではない」と云う考え方である。(神道には浦島太郎の昔話のような古伝・説話が数多あるが、山田先生は復古神道の思想の流れを汲まれる学者として、これら古伝・説話にはあまり重きを置かない嫌いがあるように拝察するが、この問題はまた別に論ずることとしたい。)

 さて、西尾先生の御解説の中で、ニーチェとハイデガーにおける「時間と生」の問題に関連し、私は、真っ先に、前述の小野先生が、昔日、ハイデガー先生をお訪ねになり、ヘルデルリーン詩の「帰郷」をめぐり、「帰郷」と云うことの本質と可能性について質問され真意を正された時のお話を思い起こした。そこで、小野先生は「帰郷とは、歴史の流れの現在的時点と考えられるところから「始原」へ向かって逆に遡るのではなく、それは不可能であり、歴史の最深層へ向かって直下にボーリングを降ろし、幽深な「場」に達し、清冽な源泉に汲むことではないか」、そして「源泉の直流と歴史の流れとは厳密に峻別されるべきではないか」と問われた。この問答の終始についての記述は省略するが、私は、民族のミュトス(古代伝承)へのアプローチと云うことについて、ここに重要な鍵があるのではないかと考える。

 そして、西尾先生は「国生み」の神話、即ち「日本は「作られた国」ではなく「生まれた国」である」と云うミュトスに、そして、そこに「吾が国の「真実」が秘められている」と云う山田先生の所信に対し、ここがポイントであり、正に「国生みの物語は日本の国家原論」であると指摘された。私も全く同感であり、それこそが「国体論」の原点であると確信する。

 而して、そこから「国体論」即ち「国家観」の基盤となる「民族の世界観・神観」が顕れてくるわけである。即ち、吾が国のように「神を親として生まれた国」と云う民族のミュトスを国家観の基盤においてきた国家・国民と、ユダヤ教をルーツとしキリスト教を基盤として「神との契約により作られた国」と云う信仰を持つ欧米に代表される諸国家・諸国民との、神観・世界観の根本的な相違が顕在化してくるわけである。

 そこから「神と人とは血のつながる親子の関係にあり、神を絶対的に信頼しひたすらに神恩を感応し、感謝の誠を捧げる」と云う信仰に生きてきた素朴な吾々日本国民と、「神との契約を破れば恐ろしい神の怒り触れることとなる、人は神を畏敬するにも狡猾でなければならぬ(タルムード)」とするユダヤ教の信仰、それをルーツとするキリスト教など一神教を信仰する老獪な諸国民とは、大は国際政治・国家間の交渉・術策から小は個々人の人生観・処世の姿勢に至るまで決定的な隔絶があることを、そして、西尾先生が指摘されるように、吾々日本国民が本質的に抱える強さと弱さがあることも、能く能く肝に銘じて対処して行かなければならないものと考える。
 
 そして、キリスト教や仏教が国境を超えて広まった普遍宗教であり、神道は国境を超えない特殊な宗教であると云う見解にも、根本的な異論がある。
それについて、少し長くなるが、国体論の名著の一つである田中晃先生の「日本哲学序説」(昭和17年9月初版)の序言の一節をここに引用する。
「日本国体の尊厳は、日本国家の特殊性が、既に世界の普遍性を媒介して成立した所にある。この意味に於いて、真に世界的の名を冠し得る国家があるとすれば、それはまさしく日本国家でなければならぬ。

 日本は何故に世界の普遍性を媒介していると云はれるのであるか。それは日本肇国の精神が、まさに神より生まれる所にあったからに外ならない。日本に於ては、神は生むもの、国は生まれたものであった。しかして生みの根源力たる神は、まさに万邦に通ずるであらう。この意味に於て、神より生まれない国はなかったのである。しかるに、神より生まれることを以て、如実に国家成立の原理としたものは、不可思議にも、日本の外にはなかったのである。生みの根源力は普遍的であり、生まれたものは特殊的である。生まれたものが生まれた所以を自覚し、その自覚によって普遍を媒介したる特殊となったのが、まさに日本的特殊であった。

 しかるに他の諸々の国家は、生まれたものでありながら、生まれたことの忘却によって、みづから神より離れて国家を第二義的存在とするか、或いは逆に、みづから神となることによって、特殊をもって普遍を奪はんとする。前者はキリスト教的国家観であり、後者は侵略的帝国主義の国家観である。日本の国体は、これらのものと全く原理を異にする。神は国を生むことによって国を肇めたまひ、国は神より生まれることによって神を現はす。それが神国である。神と国、普遍と特殊、その媒介の実相は、まさに「生む-生まれる」にあるのである。それは神より生まれたが故に、みづから神の地位を奪うのでもなく、しかも神より生まれたが故に、却って神意の実現となるのである。」一面において、非の打ち所が無いような卓論であると思われる。

 しかし、この万邦無比の国体を誇る吾が国が、神国日本が、大東亜戦争に完敗した、と云う厳然たる現実がある。

 西尾先生の「それが破れたがゆえに、こんどは自分たちがもっていた強さ、すなわち「日本は神国である」ということが逆に弱みになって、いまこの国を呪縛している」と云う御悲嘆は、私にとっても、この上なく痛恨なのである。

 昭和天皇の篤い御敬神、宮中祭祀の敬虔な御奉仕は、敗戦後、様々な苦難・障碍を半ば奇跡的に乗り越えられ、寸毫も変わることなく、今上天皇も御歴代同様にそれを相承され、宮中祭祀を御奉仕し玉うと、公開情報に限らず、漏れ承る。しかし「国民の敬信の念」はと云えば、御著作第7章以降の記述にも見られるように、純粋・素直であるが故に日本人としての信仰の原型を必死に守り通そうとする心情と、同時に純粋・素直である故に信仰を裏切られ、更には見事に洗脳されてしまい、必死に守ろうとする心情に抗う拗ねた情念の葛藤が底知れない混沌として、今なお数多の国民の心底にわだかまっているように思われてならず、戦後六十余年の歳月を経た現在においても、これを蘇らせることは決して容易ではない様相を呈していると認識する。

 しかし、天皇御歴代の宮中祭祀が、向後も形骸化し途絶してしまわない限り、国体は護持され得るものと敬信する。そして、西尾先生のこの御名著の刊行が、普く国民の敬信の念を蘇らせる長い旅程に画期的な道標を打ち立てられたものであることを確信し、先生に満腔の敬意を表し上げるものである。

以上
文章: 小川 揚司
             

【正論】年頭にあたり 

 中国恐怖症が日本の元気を奪う

産経新聞「正論」欄2011.1.12 より

 これからの日本は中国を抜きにしては考えられず、特に経済的にそうだと、マスコミは尖閣・中国漁船衝突後も言い続けている。

 ≪≪≪対中輸出入はGDPの2%台≫≫≫

 経済評論家の三橋貴明氏から2009年度の次の数字を教えてもらった。中国と香港への日本からの輸出額は1415億ドルで、日本の国内総生産(GDP)約5兆ドルの2・8%にすぎない。日本の輸入額は1236億ドルで、2・4%ほどである。微々たるものではないか。仮に輸出が全部止まってもGDPが2%減る程度だ。高度技術の部品や資本財が日本から行かなくなると、困るのは中国側である。これからの日本は中国抜きでもさして困らないではないか。

 それなのに、なぜか日本のマスコミは中国の影におびえている。俺(おれ)たちに逆らうと大変だぞ、と独裁国家から催眠術にかけられている。中国を恐れる心理が日本から元気を奪っている。日本のGDPが世界3位に転落すると分かってにわかに自らを経済大国と言うのを止め、日本が元気でなくなったしるしの一つとなっている。

 だが、これはバカげている。日本の10倍の人口の国が日本と競り合っていることは圧倒的日本優位の証明だからだけではない。今の中国人は人も住まない空マンションをどんどん造り、人の通らない砂漠にどんどん道路を造り、犯罪が多いから多分刑務所もどんどん造り、GDPを増大させている。GDPとはそんなものである。

 
 ≪≪≪経済大国3位転落気にするな≫≫≫

 日本のGDPが下がりだしたのは、橋本龍太郎政権より後、公共投資を毎年2、3兆円ずつ減らし続け、14年経過したことが主たる原因である。効果的な支出を再び増やせば、GDPはたちまち元に戻る。子供手当を止め、その分をいま真に必要な国土開発、港湾の深耕化、外環道路の建設、橋梁(きょうりょう)や坑道の補修、ハブ空港の整備(羽田・成田間の超特急)、農業企業化の大型展開など、再生産につながる事業をやれば、GDPで再び世界2位に立ち返るだろう。

 わが国は国力を落としているといわれるが、そんなことはない。中国に比べ、国民の活力にかげりが見えているのでもない。拡大を必要とするときに、縮小に向けて旗を振る指導者の方針が間違っていて、国民が理由のない敗北心理に陥っているのである。

 しかし、いくらそう言っても、中国を恐れる心理が消えないのはなぜなのか。中国は5千年の歴史を持つアジア文明の中心的大国であり、日本はそこから文化の原理を受け入れてきた「周辺文明圏」に属し、背伸びしても及ばない、という無知な宿命論が日本人から元気を奪っているからだ。ある政府要人は日本はもともと「属国」であったと口走る始末である。日本がかつて優位だったのはわずかに経済だけである。それがいま優位性を失うなら、もはや何から何まで勝ち目はない。この思い込みが、中国をただ漫然と恐れる強迫観念の根っこにある。

 しかし、これは歴史認識の完全な間違いである。正しい歴史は次のように考えるべきである。

 
 ≪≪≪古代中国幕閉じ、日欧が勃興≫≫≫

 古代中国は確かに、古代ローマに匹敵し、周辺諸国に文字、法観念、高度宗教を与えた。だが、古代両文明はそこでいったん幕を閉じ、日本と新羅、ゲルマン語族が勃興(ぼっこう)する地球の文明史の第二幕が開いたと考えるべきである。漢、唐帝国とローマ帝国は没落し周辺に記憶と残像を与え続けたが、もはや二度と普遍文明の溌剌(はつらつ)たる輝きを取り戻すことはなかった。

 ことに、東アジアではモンゴルが登場し、世界史的規模の帝国を築き、中国は人種的に混交し、社会構造を変質させた。東洋史の碩学(せきがく)、岡田英弘氏によると、漢民族を中心とした中国民族史というものの存在は疑わしく、治乱興亡の転変の中で「漢人」の正体などは幻と化している。

 現代のギリシャ国家が壮麗な古代ギリシャ文明と何の関係もないほどみすぼらしいように、現代の中国も古代中華帝国の末裔(まつえい)とはほとんど言い難い。血塗られた内乱と荒涼たる破壊の歴史が中国史の正体である。戦争に負ければ匪賊(ひぞく)になり、勝てば軍閥になるのが大陸の常道で、最強の軍閥が皇帝になった。現代の“毛沢東王朝”も、その一つである。

 ユーラシア大陸の東西の端、日本列島とヨーロッパはモンゴルの攻略を免れ、15、16世紀に海洋の時代を迎えて、近代の狼煙(のろし)を上げた。江戸時代は17世紀のウェストファリア体制(主権国家体制)にほぼ匹敵する。日本とヨーロッパには精神の秩序があり、明治維新で日本がヨーロッパ文明をあっという間に受け入れたのは、準備ができていたからである。

 中国が5千年の歴史を持つ文明の大国だという、ゆえなき強迫観念を、われわれは捨てよう。恐れる必要はない。福沢諭吉のひそみに倣って、非文明の隣人としてズバッと切り捨てる明快さを持たなくてはいけない。(にしお かんじ)

坦々塾新年会(平成23年)の報告

  

平成23年1月8日(土)に行われた、坦々塾新年会の報告です。

 文章:浅野正美

 今回の坦々塾は従来と趣を変えて西尾先生のご講演と新年会の宴というプログラムで開催された。会場も定例の会議室を使用せず、最初から懇親会場の部屋に集合し、ここで西尾先生の講義を聴くスタイルとなった。

 当日は過去最高となる51人の出席者が集まり、宴会場の一部屋では収まりきらない人数であったが、何とか全員で膝を寄せ合い、かつての寺子屋を髣髴とさせる雰囲気での勉強会となった。

 西尾先生の講演は、田母神元空幕長解任における先生の強い怒りが、ある私的な感情に基づくことから語られた。西尾先生と当時の麻生内閣総理大臣とは古くから面識があった。マスコミが政権交代必至と扇情的に報じる時の世相において、先生は必ず読まれる手はずを整えて、麻生氏に手紙を書き送った。そこには、保守政治家を自負する麻生氏が、保守としてとるべき行動と心構えが具体的につづられていたが、麻生氏はその忠告に耳を傾けることなく、何者かにおもねるような政治姿勢を取り続けた挙句に、田母神氏解任という暴挙に出た。

 我が国は、戦後の見地からのみ戦争を批判するという宿痾に蝕まれ、勝敗とは別に、開戦前に立ち返っての大東亜戦争における必然性と正当性を深く思索するという営為を放棄してしまった。その結果、反戦、平和、民主主義といったものが、進歩主義として認識せられ、侵略戦争を否定するアメリカこそが侵略者であったという自明のことが忘れられた。 

 敗戦時、我が国で0時(国家の非在)を体験したのは、満州など外地からの引揚者、復員兵、昭和天皇だけであり、国民は「リンゴの歌」と「青い山脈」の能天気なメロディーに慰められて、それ以降の教育とマスコミによるばかばかしさの再生産は、今もやむことがない。ドイツの敗北後の惨状はこの比ではない。

 真に必要なことは、0時の時代の正確な認識を取り戻すことである。

講演終了後、20名に西尾先生署名入りの御著書が当たる抽選会が行われ、当選者には一番から順番に希望の書籍が贈呈された。この日のために広島から駆け付けた日録管理人の長谷川さんが一番くじを引き当て、長谷川さんによる乾杯の発声で新年懇親会が始まった。

 この日塾生一同は、新年の祝賀にも勝る慶事に沸いた。それは、西尾先生の個人全集が国書刊行会から出版されることが発表されたことである。全22巻、箱入り、二段組、年間4冊の予定で、完結は5年先になるという。この発表によって会場は大きな拍手に包まれた。懇親会は、お正月の華やかさに加え、この吉事により一層の歓びが重なった。

文:浅野正美

消された秀吉の「意志」(二)

 日本人が過去に世界に向かって本格的に自分の「意志」を構成する試みを行っていても、後世の人間がそれを率直に認めることに気遅れがしてしまうのは、日本文化の本来的特性に関係があるのだろうか。

 日本人は言挙げしないとよくいわれる。自分から言葉でいちいち自分の立場を世界に向けて説明しない。分ってもらおうと敢えてしない。国内では日本人同士が交わるときには強い「意志」を示さない方がかえって相手の理解を得るのに良い場合さえある。

 たしかに唯我独尊や夜郎自大はみっともないが、しかしノーベル賞をもらうたびに日本人が大騒ぎするのはさらにみっともないのである。日本人は「縮み志向」だということを書いた韓国人学者がいた。繊細な細工ものをよくする指先の器用さが民族的な特徴だというのだ。しかし必ずしもそんなことは言えない。古代の出雲大社の巨大階段の例もあるし、戦艦大和の例もある。『新しい歴史教科書』がこの二例をグラビアに掲げたのは、日本人が自らを矮小化したがる自己卑下の偏見を正したい思いがあったからだろう。

 自尊を卑しむのは日本社会の美点かもしれない。しかしこれも度が過ぎると世界の中の自分の姿を正確に見ることにも差し障りが生じかねない。そして、そのような過度の自己矮小化はやはり第二次大戦の敗戦の後遺症の一つであり、教育の世界、ことに歴史学者に数多くの悪い先例があることはよく知られているが、最近も私は次のような例に出会った。それも秀吉の朝鮮出兵の論争点をめぐるもう一つのケースである。

 私が福地惇、福井雄三、柏原竜一の三氏と共に月刊誌『WiLL』でシリーズ「現代史を見直す」の討議を連載していることはご存知かと思うが、それも最新刊の2月号では第9回目を数え「北岡伸一『日中歴史共同研究』徹底批判2」と題して、安倍首相の肝入りで始められた企てに対する文字通りの「徹底批判」であった。

 対談内容は西安事件、盧溝橋事件、第二次上海事件、南京事件をめぐるテーマで、25ページ近くを「徹底批判」で埋め尽くしているから、秀吉が話題に入ってくる余地はないのだが、悪例のひとつとして私があえて取り上げた東大教授の歴史学者がいる。

 私たちは波多野澄雄、庄司潤一郎の両氏を最初疑問の俎上に載せていたが、私はそこにもう一例を挙げた。日本では信頼される保守系の研究者といわれている波多野、庄司両氏が中国人相手の討議の場に出ると、説を曲げ、中国側に都合のいいように口裏を合わせる例がいかに多いかに、私たちはそこに至るまでにさんざん言及し、論破していたが、その途中で私は次のように発言した。

西尾:さらに付け加えると、東大教授の村井章介さんが書かれた「第一部 東アジアの国際秩序とシステムの変容 第2章 15世紀から16世紀の東アジア国際秩序と日中関係」について、指摘しておきたいことがあります。私は村井さんのことは非常に評価していて、拙著『国民の歴史』(文春文庫)の中でも秀吉に関して引用させていただきました。

「16~17世紀のアジアを見た場合に、ヨーロッパが出会う相手となったことだけが、この次期のアジアが世界史的文脈のなかで担った役割ではない。むしろアジア自身のなかで、この時代には大きなうねりが、ヨーロッパを必ずしもふくまないかたちですでに生じていた。(中略)

 もうすこし具体的に言えば、最初にふれた日本史における統一権力の東條、中世から近世への移行という事態も、中国における明清交代という世界システムの激変と、共通の性格をもつものと考えるべきではないか。

 その本質をひとことでいえば、世界システムの辺境から軍事的な組織原理で貫かれた権力があらわれ、あらたな生産力を獲得し、やがては中華に挑戦して崩壊させてしまう、という事態である。(中略)

 豊臣秀吉はこの挑戦に失敗して自滅への道をあゆみ、秀吉を倒した江戸幕府は軌道修正に腐心することになるが、挑戦にあざやかに成功して中華を併呑(へいどん)したのか、女真族(じょしんぞく)の後金(こうきん)(のち清)であった。このようなアジアの巨大なうねりに重なるかたちで、ヨーロッパ勢力のアジア進出、地球規模の関連性の形成も生起した」(傍点引用者・村井章介『海から見た戦国日本』)

 ところが、この日中歴史共同研究の報告書では全く違うことを言っているんです。村井さんは〈豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争〉と書いている。

福地:完全な二枚舌ですね。

西尾:〈1595年に至って、小西行長と明側のエージェント沈惟敬との間で講和条約が合意された。その結果、秀吉を「日本国王」に封ずる冊封使が発遣され、96年に聚楽第で秀吉と対面した。通説では、秀吉はこの会見で自身が明皇帝の臣下とされたことを知り、激怒して第2次の戦争を始めた、とする。しかし、これは江戸時代になってから現われる解釈であり、同時代の史料には、秀吉の怒りの原因は、彼が望む朝鮮南半分の割譲が無視され、朝鮮からの完全撤退が和平の条件であることを知ったことにある、と記されている〉。

 秀吉の意思を、あっという間に矮小化してしまう。

 そして、〈すでにそれ以前から、秀吉の獲得目標は、明征服ふぉころか、朝鮮半島南半の確保という領土欲に矮小化されていた〉。

 当時の地球規模での行動と解釈せず、侵略戦争という書き方をしています。これも、それまでに村井さんが書いていることとは違います。波多野さんや庄司さんと同じようなものです。売国的行為と言わざると得ません。

福井:国際的な場に出て行くと、精神的に持ちこたえられないというのは日本人の国民性なのでしょうか。

柏原:これは間接的に聞いた話ですが、なにか問題になると代表の北岡さんが出て行かれて、調整してそれで強引に中国側と決めてしまったようですね。

西尾:つまり、波多野さんや庄司さんや村井さんの文章は、記名で書かれていますが、北岡さんが強引に進めてしまったということですか。

 たとえそうであったとしても、波多野さんや庄司さん、村井さんには同情する気にはなれません。仮にそうであるならば、自らの学者の良心に従い、席を蹴って辞退すれば良い話ではありませんか。やっていることは犯罪行為ですよ。

 村井章介氏は魅力的な研究書を書いてきた人で視野も広い学者のはずである。ちょうど今、吉川弘文館から他の二人の歴史学者と共編で、「日本の対外関係」(全7巻)のシリーズものを出している最中で、日本の歴史学会を代表している一人である。そういう人が、否、そういう人だからこそと言うべきかもしれぬが、この体たらくである。

 学識もあり、経験も積み、研究歴も長い学者が、惜しむらくは世界と張り合うときに自分を貫く「意志」を欠いている。秀吉の海外雄飛を論じる資格なんかないのである。秀吉は「意志」の人である。どういうわけか東大教授にこういう例が多い。

 日本の歴史を悪くしているのはこういう人である。日本の国益を損ねているのは政治家や外交官だけではない。この手の学者が輪をかけている。そしてそれが与える影響は裾野が広く、長期にわたり、見えない形で日本の知性一般を犯し、麻痺させている。

 保守系の雑誌である『SAPIO』の編集者までが秀吉の「大言壮語」と書き、私に改められても「気宇壮大」にとどまり、「断固たる意志」という文字が使えなかったのは、この手の曲学阿世の徒の小さな臆病と卑劣が巨悪となって国民に降りかかった結果の一つにほかなるまい。

(つづく)

消された秀吉の「意志」(一)

 謹賀新年 

 世界に渡り合う救国のネゴシエーター(交渉巧者)を日本の歴史の中から探し出し、三人挙げてほしい、というアンケートが年末にあった。『SAPIO』誌からの依頼である。私はあまり深く考えず、豊臣秀吉、小村寿太郎、岸信介の名を挙げた。簡単に理由を書けという欄があったので、豊臣秀吉は国内の英雄としてではなく、スペインの脅迫にたじろがず、東の涯から世界的覇者たらんとする声をあげ、その意志をスペイン国王フェリペ二世に伝えた人物として、日本史唯一のネゴシエーターの名に値するという理由づけを書き添えた。

 小村寿太郎は風説と異なり、例のハリマンの満鉄共同開発拒否を積極的に解釈したいと書き、岸信介は国内の反対を抑えて日米安保条約を改訂し、米軍による日本防衛の責務を条文に明記させたことを評価すると書いた。いづれも国外に向けた「意志」の表現者・伝達者としての評価に基く。

 まあ、あまり深く考えない人選で、アンケートに答えた後忘れていた。間もなく『SAPIO』編集部から私の挙げた三人が上位五人に選ばれているとの知らせがあり、少し驚いた。1位から10位までは次の通りである。1位 小村寿太郎、2位 黒田官兵衛、3位 豊臣秀吉、4位 鈴木貫太郎、5位 岸信介、6位 勝海舟、7位 大久保利通、8位 陸奥宗光、9位 川路聖謨、10位 徳川家康。そして3位に選ばれた豊臣秀吉について私に2ページの記事を書いて欲しいとの依頼があった。

 私は戦国武将としての国内における秀吉の活躍については、子供のころにさんざん読んだ覚えがあるが、今さら興味はなく、ヴァスコダ・ガマからマゼランに至る大航海時代に雄飛した世界制覇への「意志」の表明者の中に秀吉を入れていいという考えから、朝鮮出兵を解釈し直したいとつねづね思っていた。『国民の歴史』16節「秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか」に同趣旨のことをすでに書いている。『SAPIO』誌には要点を短くまとめることにした。関係文献を少し読み直し、今まで書かなかった新しい知見も若干加味した。いま販売中の『SAPIO』2011年12・22/1・6号に掲載されている。

 秀吉の攻略の目標が朝鮮を越えて大唐国(シナ)の明に据えられていたことはよく知られている。しかし関白秀次にあてた書状によると、彼の壮大な世界征服計画はそんなレベルにとどまっていなかった。

 北京に後陽成天皇を移す。秀吉自らは寧波に居を定め、家臣たちに天竺(インド)を自由に征服させる。この構想は中華帝国に日本が取って代わるのではなく、東アジア全域に一大帝国を築き上げようとするものである。秀吉は北京にいる天皇をも自らは越えて、皇帝の位置につき、地球の半分を総攬すべき統括者になろうとするこのうえもなく大きな企てであった。これはすなわち中華中心の華夷秩序をも弊覆のごとく捨て去ってしまう日本史上おそらく最初の、そして最後の未曾有の王権の主張者の出現であったと見ていい。

 これを誇大妄想として笑うのは簡単である。結果の失敗から計画の評価をきめれば、すべては余りに無惨であった。しかし彼は病死したのであって、敗北したのでは必ずしもない。秀吉はモンゴルのフビライ・ハーン、スペイン国王のフェリペ二世、清朝の祖・女真族のヌルハチと同じ意識で世界地図を眺めていた日本で唯一の、「近代」の入り口に立った世界史の創造者の一人であった、と私は考える。織田信長が生き延びていたら、やはり秀吉と同様の行動に出たであろう。

 勢威ある国々から自らの「意志」で地球規模の歴史を築こうとした人間群像が次々と立ち現われた時代の感情、歴史の奥底からのうねりのようなものに参加した日本人が存在した、そのことが大切な認識なのだ、と私は言いたかったまでである。『SAPIO』誌にそのように書いて、原稿をファクスで送った。

 ほどなくゲラ刷りが送られてきた。編集者がつけたタイトルは次のように記されていた。最後の四文字が私は不快だった。間違えているとさえ思った。私の文意が読めていない。

 豊臣秀吉―覇者スペイン国王をも畏れさせた「神の国」からの大言壮語、となっていた。

 論文のタイトルは書き手が空白のまま送り、編集者が付けるのがこの業界の慣習である。書き手が付けて送っても、取り替えられてしまうことがまゝある。

 私はゲラを送り返すときに「大言壮語」はネガティブなことばです、止めて下さい、と記した上で、四文字を消し、そこに「断固たる意志」と書いて置いた。雑誌が完成して、配送されたページをすぐ開いてみると「断固たる意志」も採用されず、そこに「気宇壮大」という新しい四文字がはめこまれていた。

 なるほど「気宇壮大」はネガティブな概念ではない。秀吉を貶めてはいない。しかし、必ずしもポジティブな言葉でもない。堂々として立派な良い性格を表す言葉と読めばポジティブにもなるが、読みようによってはネガティブにもなる。少くとも私が想定している秀吉の、日本人離れした「意志」を示す言葉としては必ずしも的確ではない。私はそう思ったが、もう雑誌は刷り上ってしまい後の祭りである。

 『SAPIO』は保守系の雑誌として知られ、従ってこの号にも、錚々たる保守論壇のメンバーが小村寿太郎以下10人のネゴシエーターを解明する論説を掲げている。雑誌そのものの歴史観は決して自虐的ではないし、反日的でもない。むしろ逆である。自虐的反日的な歴史イメージを否定する論文を並べている。

 それなのに、それを担当する編集者の意識に、世界に向かって日本人が一歩もたじろがない政治意志を示したという事跡に対し、そう表明することになんとなく気遅れがあり、後ろめたさがあり、ある種の照れ臭さ、あるいは恥ずかしさがあるように見受けられる。

 フェリペ二世の「断固たる意志」を表現することにはまったくの躊躇はないのだが、しかし、秀吉となるとそう言ってはいけないとなぜか頭から思い込んでいる。私に指示されても、それに合わせられないでいる。

 日本人が朝鮮を越え、シナを越え、インドを越えてものを考え行動するなどということはあり得るはずがない、と考えているのだろう。秀吉はフェリペ二世に挑戦状を叩きつけた、と私が秀吉の文面を引用してさえいるのに、それがどうしても信じられない。言葉にするのは憚れることだ、あってはならないことだと思い込んでいる。

 これは一体何だろう。このためらいはどう考えたらよいのだろう。

(この項つづく)