謹賀新年
世界に渡り合う救国のネゴシエーター(交渉巧者)を日本の歴史の中から探し出し、三人挙げてほしい、というアンケートが年末にあった。『SAPIO』誌からの依頼である。私はあまり深く考えず、豊臣秀吉、小村寿太郎、岸信介の名を挙げた。簡単に理由を書けという欄があったので、豊臣秀吉は国内の英雄としてではなく、スペインの脅迫にたじろがず、東の涯から世界的覇者たらんとする声をあげ、その意志をスペイン国王フェリペ二世に伝えた人物として、日本史唯一のネゴシエーターの名に値するという理由づけを書き添えた。
小村寿太郎は風説と異なり、例のハリマンの満鉄共同開発拒否を積極的に解釈したいと書き、岸信介は国内の反対を抑えて日米安保条約を改訂し、米軍による日本防衛の責務を条文に明記させたことを評価すると書いた。いづれも国外に向けた「意志」の表現者・伝達者としての評価に基く。
まあ、あまり深く考えない人選で、アンケートに答えた後忘れていた。間もなく『SAPIO』編集部から私の挙げた三人が上位五人に選ばれているとの知らせがあり、少し驚いた。1位から10位までは次の通りである。1位 小村寿太郎、2位 黒田官兵衛、3位 豊臣秀吉、4位 鈴木貫太郎、5位 岸信介、6位 勝海舟、7位 大久保利通、8位 陸奥宗光、9位 川路聖謨、10位 徳川家康。そして3位に選ばれた豊臣秀吉について私に2ページの記事を書いて欲しいとの依頼があった。
私は戦国武将としての国内における秀吉の活躍については、子供のころにさんざん読んだ覚えがあるが、今さら興味はなく、ヴァスコダ・ガマからマゼランに至る大航海時代に雄飛した世界制覇への「意志」の表明者の中に秀吉を入れていいという考えから、朝鮮出兵を解釈し直したいとつねづね思っていた。『国民の歴史』16節「秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか」に同趣旨のことをすでに書いている。『SAPIO』誌には要点を短くまとめることにした。関係文献を少し読み直し、今まで書かなかった新しい知見も若干加味した。いま販売中の『SAPIO』2011年12・22/1・6号に掲載されている。
秀吉の攻略の目標が朝鮮を越えて大唐国(シナ)の明に据えられていたことはよく知られている。しかし関白秀次にあてた書状によると、彼の壮大な世界征服計画はそんなレベルにとどまっていなかった。
北京に後陽成天皇を移す。秀吉自らは寧波に居を定め、家臣たちに天竺(インド)を自由に征服させる。この構想は中華帝国に日本が取って代わるのではなく、東アジア全域に一大帝国を築き上げようとするものである。秀吉は北京にいる天皇をも自らは越えて、皇帝の位置につき、地球の半分を総攬すべき統括者になろうとするこのうえもなく大きな企てであった。これはすなわち中華中心の華夷秩序をも弊覆のごとく捨て去ってしまう日本史上おそらく最初の、そして最後の未曾有の王権の主張者の出現であったと見ていい。
これを誇大妄想として笑うのは簡単である。結果の失敗から計画の評価をきめれば、すべては余りに無惨であった。しかし彼は病死したのであって、敗北したのでは必ずしもない。秀吉はモンゴルのフビライ・ハーン、スペイン国王のフェリペ二世、清朝の祖・女真族のヌルハチと同じ意識で世界地図を眺めていた日本で唯一の、「近代」の入り口に立った世界史の創造者の一人であった、と私は考える。織田信長が生き延びていたら、やはり秀吉と同様の行動に出たであろう。
勢威ある国々から自らの「意志」で地球規模の歴史を築こうとした人間群像が次々と立ち現われた時代の感情、歴史の奥底からのうねりのようなものに参加した日本人が存在した、そのことが大切な認識なのだ、と私は言いたかったまでである。『SAPIO』誌にそのように書いて、原稿をファクスで送った。
ほどなくゲラ刷りが送られてきた。編集者がつけたタイトルは次のように記されていた。最後の四文字が私は不快だった。間違えているとさえ思った。私の文意が読めていない。
豊臣秀吉―覇者スペイン国王をも畏れさせた「神の国」からの大言壮語、となっていた。
論文のタイトルは書き手が空白のまま送り、編集者が付けるのがこの業界の慣習である。書き手が付けて送っても、取り替えられてしまうことがまゝある。
私はゲラを送り返すときに「大言壮語」はネガティブなことばです、止めて下さい、と記した上で、四文字を消し、そこに「断固たる意志」と書いて置いた。雑誌が完成して、配送されたページをすぐ開いてみると「断固たる意志」も採用されず、そこに「気宇壮大」という新しい四文字がはめこまれていた。
なるほど「気宇壮大」はネガティブな概念ではない。秀吉を貶めてはいない。しかし、必ずしもポジティブな言葉でもない。堂々として立派な良い性格を表す言葉と読めばポジティブにもなるが、読みようによってはネガティブにもなる。少くとも私が想定している秀吉の、日本人離れした「意志」を示す言葉としては必ずしも的確ではない。私はそう思ったが、もう雑誌は刷り上ってしまい後の祭りである。
『SAPIO』は保守系の雑誌として知られ、従ってこの号にも、錚々たる保守論壇のメンバーが小村寿太郎以下10人のネゴシエーターを解明する論説を掲げている。雑誌そのものの歴史観は決して自虐的ではないし、反日的でもない。むしろ逆である。自虐的反日的な歴史イメージを否定する論文を並べている。
それなのに、それを担当する編集者の意識に、世界に向かって日本人が一歩もたじろがない政治意志を示したという事跡に対し、そう表明することになんとなく気遅れがあり、後ろめたさがあり、ある種の照れ臭さ、あるいは恥ずかしさがあるように見受けられる。
フェリペ二世の「断固たる意志」を表現することにはまったくの躊躇はないのだが、しかし、秀吉となるとそう言ってはいけないとなぜか頭から思い込んでいる。私に指示されても、それに合わせられないでいる。
日本人が朝鮮を越え、シナを越え、インドを越えてものを考え行動するなどということはあり得るはずがない、と考えているのだろう。秀吉はフェリペ二世に挑戦状を叩きつけた、と私が秀吉の文面を引用してさえいるのに、それがどうしても信じられない。言葉にするのは憚れることだ、あってはならないことだと思い込んでいる。
これは一体何だろう。このためらいはどう考えたらよいのだろう。
(この項つづく)