日本人が過去に世界に向かって本格的に自分の「意志」を構成する試みを行っていても、後世の人間がそれを率直に認めることに気遅れがしてしまうのは、日本文化の本来的特性に関係があるのだろうか。
日本人は言挙げしないとよくいわれる。自分から言葉でいちいち自分の立場を世界に向けて説明しない。分ってもらおうと敢えてしない。国内では日本人同士が交わるときには強い「意志」を示さない方がかえって相手の理解を得るのに良い場合さえある。
たしかに唯我独尊や夜郎自大はみっともないが、しかしノーベル賞をもらうたびに日本人が大騒ぎするのはさらにみっともないのである。日本人は「縮み志向」だということを書いた韓国人学者がいた。繊細な細工ものをよくする指先の器用さが民族的な特徴だというのだ。しかし必ずしもそんなことは言えない。古代の出雲大社の巨大階段の例もあるし、戦艦大和の例もある。『新しい歴史教科書』がこの二例をグラビアに掲げたのは、日本人が自らを矮小化したがる自己卑下の偏見を正したい思いがあったからだろう。
自尊を卑しむのは日本社会の美点かもしれない。しかしこれも度が過ぎると世界の中の自分の姿を正確に見ることにも差し障りが生じかねない。そして、そのような過度の自己矮小化はやはり第二次大戦の敗戦の後遺症の一つであり、教育の世界、ことに歴史学者に数多くの悪い先例があることはよく知られているが、最近も私は次のような例に出会った。それも秀吉の朝鮮出兵の論争点をめぐるもう一つのケースである。
私が福地惇、福井雄三、柏原竜一の三氏と共に月刊誌『WiLL』でシリーズ「現代史を見直す」の討議を連載していることはご存知かと思うが、それも最新刊の2月号では第9回目を数え「北岡伸一『日中歴史共同研究』徹底批判2」と題して、安倍首相の肝入りで始められた企てに対する文字通りの「徹底批判」であった。
対談内容は西安事件、盧溝橋事件、第二次上海事件、南京事件をめぐるテーマで、25ページ近くを「徹底批判」で埋め尽くしているから、秀吉が話題に入ってくる余地はないのだが、悪例のひとつとして私があえて取り上げた東大教授の歴史学者がいる。
私たちは波多野澄雄、庄司潤一郎の両氏を最初疑問の俎上に載せていたが、私はそこにもう一例を挙げた。日本では信頼される保守系の研究者といわれている波多野、庄司両氏が中国人相手の討議の場に出ると、説を曲げ、中国側に都合のいいように口裏を合わせる例がいかに多いかに、私たちはそこに至るまでにさんざん言及し、論破していたが、その途中で私は次のように発言した。
西尾:さらに付け加えると、東大教授の村井章介さんが書かれた「第一部 東アジアの国際秩序とシステムの変容 第2章 15世紀から16世紀の東アジア国際秩序と日中関係」について、指摘しておきたいことがあります。私は村井さんのことは非常に評価していて、拙著『国民の歴史』(文春文庫)の中でも秀吉に関して引用させていただきました。
「16~17世紀のアジアを見た場合に、ヨーロッパが出会う相手となったことだけが、この次期のアジアが世界史的文脈のなかで担った役割ではない。むしろアジア自身のなかで、この時代には大きなうねりが、ヨーロッパを必ずしもふくまないかたちですでに生じていた。(中略)
もうすこし具体的に言えば、最初にふれた日本史における統一権力の東條、中世から近世への移行という事態も、中国における明清交代という世界システムの激変と、共通の性格をもつものと考えるべきではないか。
その本質をひとことでいえば、世界システムの辺境から軍事的な組織原理で貫かれた権力があらわれ、あらたな生産力を獲得し、やがては中華に挑戦して崩壊させてしまう、という事態である。(中略)
豊臣秀吉はこの挑戦に失敗して自滅への道をあゆみ、秀吉を倒した江戸幕府は軌道修正に腐心することになるが、挑戦にあざやかに成功して中華を併呑(へいどん)したのか、女真族(じょしんぞく)の後金(こうきん)(のち清)であった。このようなアジアの巨大なうねりに重なるかたちで、ヨーロッパ勢力のアジア進出、地球規模の関連性の形成も生起した」(傍点引用者・村井章介『海から見た戦国日本』)
ところが、この日中歴史共同研究の報告書では全く違うことを言っているんです。村井さんは〈豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争〉と書いている。
福地:完全な二枚舌ですね。
西尾:〈1595年に至って、小西行長と明側のエージェント沈惟敬との間で講和条約が合意された。その結果、秀吉を「日本国王」に封ずる冊封使が発遣され、96年に聚楽第で秀吉と対面した。通説では、秀吉はこの会見で自身が明皇帝の臣下とされたことを知り、激怒して第2次の戦争を始めた、とする。しかし、これは江戸時代になってから現われる解釈であり、同時代の史料には、秀吉の怒りの原因は、彼が望む朝鮮南半分の割譲が無視され、朝鮮からの完全撤退が和平の条件であることを知ったことにある、と記されている〉。
秀吉の意思を、あっという間に矮小化してしまう。
そして、〈すでにそれ以前から、秀吉の獲得目標は、明征服ふぉころか、朝鮮半島南半の確保という領土欲に矮小化されていた〉。
当時の地球規模での行動と解釈せず、侵略戦争という書き方をしています。これも、それまでに村井さんが書いていることとは違います。波多野さんや庄司さんと同じようなものです。売国的行為と言わざると得ません。
福井:国際的な場に出て行くと、精神的に持ちこたえられないというのは日本人の国民性なのでしょうか。
柏原:これは間接的に聞いた話ですが、なにか問題になると代表の北岡さんが出て行かれて、調整してそれで強引に中国側と決めてしまったようですね。
西尾:つまり、波多野さんや庄司さんや村井さんの文章は、記名で書かれていますが、北岡さんが強引に進めてしまったということですか。
たとえそうであったとしても、波多野さんや庄司さん、村井さんには同情する気にはなれません。仮にそうであるならば、自らの学者の良心に従い、席を蹴って辞退すれば良い話ではありませんか。やっていることは犯罪行為ですよ。
村井章介氏は魅力的な研究書を書いてきた人で視野も広い学者のはずである。ちょうど今、吉川弘文館から他の二人の歴史学者と共編で、「日本の対外関係」(全7巻)のシリーズものを出している最中で、日本の歴史学会を代表している一人である。そういう人が、否、そういう人だからこそと言うべきかもしれぬが、この体たらくである。
学識もあり、経験も積み、研究歴も長い学者が、惜しむらくは世界と張り合うときに自分を貫く「意志」を欠いている。秀吉の海外雄飛を論じる資格なんかないのである。秀吉は「意志」の人である。どういうわけか東大教授にこういう例が多い。
日本の歴史を悪くしているのはこういう人である。日本の国益を損ねているのは政治家や外交官だけではない。この手の学者が輪をかけている。そしてそれが与える影響は裾野が広く、長期にわたり、見えない形で日本の知性一般を犯し、麻痺させている。
保守系の雑誌である『SAPIO』の編集者までが秀吉の「大言壮語」と書き、私に改められても「気宇壮大」にとどまり、「断固たる意志」という文字が使えなかったのは、この手の曲学阿世の徒の小さな臆病と卑劣が巨悪となって国民に降りかかった結果の一つにほかなるまい。
(つづく)