呉善花さんの災難

お知らせ

 ★出版 5月号の月刊誌の私の仕事は次の二作である。

(1) ライブドア問題で乱舞する無国籍者の群れ
  『正論』45枚 短期集中連載「歴史と民族への責任」第3回

(2) 日本を潰すつもりか――朝日、堀江騒動、竹島、人権擁護法――
  『諸君!』45枚

 ★集会 ■■■■■■ 人権擁護法案を考える緊急大会 ■■■■■■
人権.bmp

▼登壇者
《基調講演》長谷川三千子氏(埼玉大学教養学部教授)
西村幸祐氏(ジャーナリスト)
与野党の“闘う国会議員”多数
拉致問題関係者、法曹界ほか各界及び一般市民から登壇予定

平成17年4月4日(月)日比谷公会堂
18:30開会(18時開場、21時終了)入場無料

主催:人権擁護法案を考える市民の会
事務局:東京都目黒区中央町1-14-11-303
メッセージの宛先 

チャンネル桜キャスター三輪の「報道ワイド」(3/31、20:00~)
ラジオ日本「ミッキー安川のずばり勝負」(4/11、13:00~)で人権擁護法
案を取り上げ縦横に斬りまくります

 ★出演 4月8日(金)午後9時~10時 日本文化チャンネル桜 
 私が次のトーク番組に単独出演します。ミュージック・スペシャル(第一回)
  司会 烏丸せつ子(女優)、扇さや(ジャズ歌手)

 私の少年時代、喧嘩、初恋、好きな女優、好きな音楽、好きな映画、カラオケなどを語る。そして私も一曲歌います。
(チャンネル桜をごらんになりたい方は Tel 03-6419-3911へ)

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 呉善花さんを災難から守ろう

 3月29日の路の会では、東中野修道氏に新刊の快著『南京事件「証拠写真」を検証する』(草思社、¥1500)の写真を143枚、インターネット画像で一枚一枚大写しして、解説していただいた。

 同書は8万部も出てベストセラーになった。しかし新聞に書評ひとつ出ない。3年かけて3万5000枚の写真を点検した研究成果である。

 同書の中国版と英語版をどのようにして世に出すか、みんなで相談した。どうしたらよいか、まだ五里霧中なので、いい智恵があったら教えてほしい。

 同書の中の幾枚かの写真は当「日録」でも後日にとりあげてみたい。今日は路の会に出席した呉善花さんが、今の韓国に起こっている反日の理不尽な嵐にまきこまれている苦境を会員に訴えられたことについて、ご報告する。

 この間韓国に行ってきたばかりの呉さんは、帰国後、出たばかりのご著書の新刊を手にした。『「韓流ブーム」ではわからない「反日・親北」韓国の暴走』(小学館、¥1400)である。

 この本が切っ掛けになって、『韓国日報』がホームページに批判文を掲げた。呉さんを非難する書きこみが2日で70以上、そのあとも次々と続けられている。

 ソウルの甥ごさんが「叔母さん、たいへんだ!」と電話をかけてきたそうである。

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韓国日報の記事

在日女教授日帝美化波紋
拓殖大呉善花氏「朝鮮発展寄与」本を出版

 日本内のある大学に在職している韓国人女教授が、日帝の植民地統治が朝鮮の経済と教育発展に大きく寄与したというなど、植民地支配を美化した内容を含んだ単行本を発刊し、波紋が予想される。

 呉 善花(49)日本拓殖大学国際開発学部教授は、29日東京市内書店で販売されている「反日・親北韓国の暴走」という本で「(植民地時代の間)日本が朝鮮に資本と技術、人力などを導入したおかげで北韓に大規模工業地帯が作られたし、南韓では資本主義的商業が大きく発達し、米生産が飛躍的に増えた」といいながら、「日本は朝鮮植民地経営に大きな利益を得たことがないし、むしろ投資過剰による赤字経営に終った」と主張した。

 呉教授は「日本は朝鮮の文化を踏みにじっていなかった」といい、むしろ「ハングルと漢字教育を通して就学率と文字解読率を高めたし、伝統的なチェサと民間信仰を保存させながら古い身分制度と土地制度を改革して近代化を推進した」と明らかにした。

 呉教授ははじめにの言葉で「国内親日一派一掃と親北統一が韓国現政権の最大政治課題」といい「そのような方向で南北国家連合が成れば前例のない強固な反日民族主義国家が登場することは明らかであり、日本はもちろん東アジアの地図が一変する」と加えた。

 呉教授は1983年に日本に渡って留学した後、東京外国語大学で修士課程を終え「反日韓国には未来はない」「チマパラム」など韓国に批判的な本を出した。

連合 入力時間2005年3月29日18時19分

3月29日にこの記事に寄せられた「意見」の例(同記事の下に掲載されている)
 

この狂い女め。あの女を拉致してすさまじい拷問を与えるべきだ。3時間だけ寝かせ、また拷問を与え、彼女に入ってくるお金を私が取る。

3月30日にこの記事に寄せられた「意見」の例(同記事の下に掲載されている)
 

呉善花、この野郎をつかまえて市庁前広場で公開処刑しよう!!!

 呉善花売国奴野郎。父母、子ども、呉善花三代を滅しなければならない。学者?無知な者、きちがい、父母にも責任がありますよ。連座しなければならない、ペッ!

 あんな犬のような奴をぶっ殺す方法はないのか??

 あのサンヨン(下卑た女)の父母はいったい誰なのか??

 親日派先祖の下で見て学んだものがそれだけなんだから、そういう論理が出てくるしかない。

 お前たちはチンチンの味をわかっていてけなしているのか?ウエノム(倭奴)のチンチンの味を一度見て言え。チンチンの味もまともにわからないで、何をわかっているつもりでけなしているのか、本当に息苦しい。チンチンの味はなんといってもウエノムの味が最高よ。

 きちがい女ではないのか。そんなにチョッパリが好ければ国籍を変えろ。もしかしたら、チョッパリと結婚したのか疑わしい。それでなければ、先祖がチョッパリに忠誠をした売国奴なのかも、独立運動をした人々は全部悪者で、チョッパリに国を渡したイワンヨンなど売国奴は本当に国のための人だったと言うのか?

 呉善花!むしろ自決しなさい。お前のような人間がこの世に存在することが間違っているようだ。

 呉善花、お前は生きている価値がないのだ。

 サンヨン、死ね、日本で。

 危険性警告。韓国民であれば我らが見る観点から客観的に記述することが必要だ。我は被害者であって、日本国は加害者であり、その悲惨さは数百万の男女老小が味わった家庭ごともっている悲劇的な歴史として自明に証明されている。代表的な工場数十ヶ所・鉄道・港湾設備がこの悲劇を隠してなぐさめになったんだろうか?それすら朝鮮戦争のときに全部破壊されて、教育は我が式書堂中心ではなく技術はつまらない技術として伝わっていないし、ついには戦時動員と強制徴用として罪のない我が百姓(民衆)だけ数百万が、目もまともにつぶれないで死んで傷つけたのに呉教授はこれらすべての記述を省略して、日帝残酷史の結果をむしろ美化し賛美するからどうやら我が百姓の記述だと表することができるのか!呉教授はすでに我が土地で骨を受けた娘ではなく、日産エンジンを身につけた日本産なのだ。したがって、我が土地を踏む考えは再びしてはならない!危険だろう!!

12時現在でメール74件あり。     (以上 呉善花訳)

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 『韓国日報』といえばちゃんとした由緒ある新聞のはずである。メールによる書き込みには新聞社としての管理責任がある。

 韓国社会の民度の低さを哀れむばかりだが、これをこの侭放っておいてよいのだろうか。新聞のこの無節操な放言の垂れ流しに、日本の外交当局はなんの手も打たなくてよいのだろうか。彼女の身に危険が及ぶのを恐れる。

 いい智恵があったら教えてほしい。

 暴動になりかけている韓国の反日騒ぎに、日本社会がほとんど取り合わないで涼しい顔をして聞き流している――それがまた彼らの苛立ちと怒りと反発をかき立てている原因なのです、と彼女は分析していた。

お知らせ

 以下の会が開催されます。
この会の成功如何に、法案の成否はかかっているようです。
是非誘い合わせてご参加ください。

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「 人権擁護法案を考える緊急大会(仮称) 」
日時  : 平成17年4月4日(月)18:30開会
場所   : 日比谷公会堂 入場無料
登壇者 : 長谷川三千子氏・西村幸祐氏
主催   :人権擁護法案を考える市民の会

5月号月刊誌の私のライブドア論

5月号の月刊誌の私の仕事は次の二作である。

(1) ライブドア問題で乱舞する無国籍者の群れ
  『正論』45枚 短期集中連載「歴史と民族への責任」第3回

(2) 日本を潰すつもりか――朝日、堀江騒動、竹島、人権擁護法――
  『諸君!』45枚

 3月16日に書き始めて24日の夜中(25日の早朝)に最後の校正ゲラをもどした。脱稿は24日夕方である。9日間で90枚は私にしても珍しい集中度である。

 ライブドア問題は日替りでニュースが動くので、早めに書き出すことができなかった。ようやく書き出すと、また動く。

 (1)では新株予約権発行差し止めの判決の地裁までで時間切れだった。(2)は高裁判決を主に対象にしている。(1)を書き終えてから(2)を書いた。

 ライブドア問題については「日録」にはいっさい私見を述べなかった。述べている時間的余裕がなかった。私の分析と考察はこの二作にすべて投入されている。

 (1)で「無国籍者」と呼んだのは堀江貴文氏と村上世彰氏と鹿子木康裁判官である。判決文に対しては丁寧な心理分析をほどこした。

 みんな同じ穴の狢である。高裁の鬼頭判事も例外ではない。アメリカの法律で日本を裁いている不可解さ。

 校正ゲラを手直ししている日にソフトバンクの登場のニュースを知って大急ぎで加筆した。フジサンケイグループにとって前門の虎、後門の狼だと思った。誰かが「フジはチンピラが恐くてヤクザに救いを求めた」と言っていたが、そういうことかと思う。

 最後に登場した北尾という人を見ていると、「株屋」という顔をしている。そういえばホリエモンも村上ファンドも昔流にいえば「株屋」である。

 日本人にはお金が貯っても株を買う習慣はあまりない。普通の人は郵便局や銀行に貯金してきた。銀行が代表して株を買った。証券会社は個人投資家を育ててこなかった。

 最近しきりに会社とは何かが問われる。会社は経営者のものでも、従業員のものでもなく、株主のものだと盛んにいわれるが、そういわれてピンとくる日本人は少ない。

 日本の株主は経営に関心を持たなかったからだ。株の上り下りにだけ関心をもった。経営者はたしかにいわれる通り株主への利益配当に熱意がなかった。

 日本の経営者は自社の製品の市場に占めるシェアーに異常な関心を示す。テレビの経営者なら視聴率にのみ関心を示す。株主への利益還元は二の次だった。

 だから日本の企業は生産性は高く収益は上げているのに、時価総額が低い。アメリカとは逆である。敵対的買収者に狙われ易い構造である。これからはたしかに日本の経営者には辛い時代がくる。

 フジテレビが1000円の配当金を5000円にして、自社の株をつり上げ、防衛策とした。他のテレビ会社は渋い顔をしているに違いない。相次いで同じことをしないと自社の株主たちの不満を買うことになるからだ。

 フジテレビの事件は毎日関心をもって国中から見つめられ、他業種の経営者にもとてもいい教育効果があったはずである。系列内の株式の持ち合いに守られていた時代の安定度がきっと懐かしいだろう。日本の資本主義の良さはもっと顧みられてよいのではないか。竹中平蔵氏に丸投げしている内閣は困ったものである。

 昨日、フジテレビが優良企業50社に自社の株を買って保有してくれと頼んだのは「株の持ち合い」策の復活である。安定経営が大切なのはどの社も同じである。

 拙論二篇は以上述べたこととはまた別の、もっと重要な、数多くの論点――文明論を背景にした私なりの会社論――を書きこんでいる。いずれも月の初頭に店頭にでる。

『人生の深淵について』の刊行(三)

 贈呈本には、この本を作った洋泉社の編集者小川哲生さんが、愛情あふれる紹介文を書いて、それを同封して送ってくれている。以下に掲載しこの本の紹介とする。

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 拝 啓
 このたび、3月新刊として、西尾幹二著
『人生の深淵について』刊行のはこびとなりましたので、早速お届けいたします。

群盲象をなでるという言葉があります。まさしく、本書の著者・西尾幹二氏の八面六臂の活躍は、その読者によって、さまざまな姿があらわれます。ある人にとっては、保守派論壇の雄であり、ある人にとっては、ニーチェ、ショーペンハウアーの翻訳・紹介者であり、またある人にとってはモンテーニュやパスカル、ラ・ロシュフコーといった「モラリスト」の系譜に連なる人間観察者、その人という具合であります。

いずれもが氏の本質であり、どれか一つで氏の本質を表すことは難しいというのが本当でしょう。しかしながら、私一個の人間理解からすれば、もっとも氏の本質をあらわすのは、最後の「モラリスト」というのが、偽らざる実感です。

 イデオロギー的裁断ではなく、氏の冷静な人間観察と鋭い心理洞察力を備えた資質はまさに「モラリスト」というべき以外に言葉がみつかりません。


『人生の価値について』にかつて接した人間はいたく、そう感じざるをえません。そして思うのです。この『人生の価値について』に先行する「人生論ノート」という連載があり、それは優に300枚を超えた作品であり、それがまだ公刊されずにあるのだ、と聞いたのはいつのことだったでしょうか。

 記憶はさだかではないのですが、いつかきっと読みたいと長い間、考えてきたのは私だけではないでしょう。

 それが、2000年12月に突如、その片鱗を表しました(扶桑社版『西尾幹二の思想と行動③論争の精神』)。残念ながら、全体像ではなく、抄録という形でありましたが、その出現はわたしの期待を裏切ることなく、圧倒的な力をもって迫ってきました。しかしながら、本来の姿は、完全な形で現れなければなりません。著者の意図したものを完全に提供するのは、編集者の務めではないでしょうか。4年の歳月を経て、ようやく読者に全体像を示せるのは編集者冥利につきるといっても過言ではありません。

 なぜかくも本書の全体像が明らかにされるのが遅れたかについて、著者は次のように述べております。

 《それなりに自信があるのに、なぜ単行本にしなかったかとあらためて問われるなら、(略)身近なひとびとの気に障るような内容を相当に含んでいるのではないか、という心配がずっとあったからである。(略)政治評論では公的な誰かを槍玉にあげ傷つけているが、人生論では私的な誰かの心理の内部に食い入って、これを傷つけているかもしれないのである。(略)最近その心配がすっかりなくなったわけではないが、私も六十五歳になり、他人の思惑や不満は墓の中に持っていけばいいと、やっと心が定まったのだった》と。

 かくして、ようやく本書は陽の目をみることができました。内容はけっして古びることなく、かえって新鮮です。人生という永遠のテーマはけっして古びることはないからです。もっとも新しい衣裳こそもっとも早く古びることはあまりにも自明です。

 本書に展開されるテーマはいずれもが難題です。解説で小浜逸郎氏も述べているように、難題が難題であるのは、生きることそのものが難題だからである、と。けだし名言です。

 本書の一句一句がアフォリズム集の趣が無きにしも非ずといっても過言ではなく、またわたしどもの惹句の「生きることに不安を感じ、迷ったとき思わず手にとる本がある。それが西尾人生論だ!」が紛れもなく真実であることを一読して感じていただけましたら、ひろく読者に伝えるよう御高評などいただければ幸いです。なにとぞよろしくお願い申しあげます。

2005.3                         洋泉社編集部 小川哲生
敬具

『人生の深淵について』の刊行(二)

 私は現実の政治や社会問題について発言するのをもう止めようかと思うことがしばしばある。年齢とともにそれは強まっている。けれども性分というものかもしれないが、なかなかやめられない。

 現に今月もライブドアの株買収事件について『正論』に書き、朝日NHK贋報道事件、竹島問題、人権擁護法、ライブドア事件の四つに共通する底流について『諸君!』に書いている。

 扶桑社の永年の盟友真部君が「先生よくいろいろなテーマについて次々と挑戦しますね」と言ったので、「いやあ、僕が挑戦しているんじゃなく、日本が僕に挑戦してくるんだよ」と言って、二人で笑った。

 しかし本心はもっと別な仕事に心を傾ける時間が得られるようにしたいと思っている。ちょっと現実から離れたやりたい仕事があるのに、残された時間は少くなっていく一方だからである。

 前段で紹介した小浜逸郎さんの拙著への解説の中で、私がハッとしたのは、最後から二行目の「いろいろやっているからこそ見えてくる物事について表現せずにはいられなくなるのだ。」の一行であった。

 あゝそうか、そう言ってくれる人もいるのだ、と思うと少し迷いがフッ切れた。現実の問題と格闘して「いろいろやっていく」ことをやめてしまったら、恐らく他の何をやってもうまく行かないだろう。

 現実への生き生きした関心を持続しつづけること、それが私の他の活動にも生命を吹き込む源泉となってくれるのかもしれない。

 というわけで今月は経済問題にまで首を突っこんだ。対日投資会議報告書、米政府から日本政府への日米規制改革及び競争政策に関する要望書、法制審議会が決定した会社法制の現代化に関する要綱、経済産業省の日米投資イニシアティブ報告書、証券取引法などにまで踏みこんだ。

 畑違いのさまざまな領域に関与するのを年寄りの冷や水といって嘲笑う向きもあるかもしれない。けれども現実への関心が尽きないのだからこれはまあ仕方がない。

 最後に小浜さんが拙著の中から拾ってくれた二つの文章をここに掲げておく。

 

従って生きている限り、われわれは自分の生を総体として把握することを封ぜられている。それでいて、われわれは毎日のつまらぬ雑事、よしなしごとに果たして意味があるのかどうかを疑う心を持っている。それらの持つ全体としての意味が何であるかをあらためて問い直す心を持っている。しかしまた、同時に、それら雑然たる関心事や刺戟や用務の持つ個別の意味以外に何か究極の生の目的を見出そうとしてもそれは不可能だし、ドストエフスキーの描いた徒刑囚のように、人間が些少な個々の物事によってその日その日に自分の生を無言のうちに支え、自分をいわば生かしていることをもよく知っている。(「退屈について」・本文105P)

 

それなら過去に犯した罪や失敗に対し、われわれはどう対処したらよいのだろう。一切無視してしまえということなのか。考えないことにしてしまえばよいということか。諦めてしまえばそれでよいのか。私はそういう事を言っている積もりはない。むしろ、自分が何らかの行動をした結果がたとえ悪と判明したにしても、その結果から問題を判断してはいけないと言っているのである。自分が何かの行動をした――その時点での行動はそれなりに重いのであって、結果の善し悪しとは別に、そのときの自分をもっと尊重したらどうか、と言っているのだ。(「苦悩について」・本文215P)

 小浜さんはこの二文について「正直なところ、いずれも難題を突きつけられている気がする」と書いているが、私にとっても「難題」であることに変わりはない。

 今日取り返しのつかない失敗を私もしていないとも限らない。ただ「後悔」は不毛だというくらいの覚悟でせめて生きたい、と言っているだけである。

『人生の深淵について』の刊行(一)

 歴史とも政治ともまったく違うタイプの本が出版されて、すでに知っている人はともかく、オヤと思われた方は少なくないだろう。新刊
『人生の深淵について』(洋泉社、現在販売中¥1500)は、私がこれまでに書いた最高の作品と秘かに自認しているものでもある。

 文章書きは50歳代にあるピークに達する。それから次の段階へ自分を切り拓いていく。『人生の深淵について』はゆえあって執筆当時には刊行を見合わせていた。65歳で一度公刊した。評判を得たので、未収録稿を加えて、このたび完本作成を志した。

 50歳代に一番いい仕事をして、そのあと徐々に萎んでいくケースもあるし、逆に老年に新しい世界を切り拓くことができる人もいる。さて、私は果してどうか。それを決めるのはこれからの一、二年に未知の分野を学習し、自分を脱皮させることに成功するか否かである。

 『人生の深淵について』の刊行で一番嬉しかったのは、畏友小浜逸郎さんに身に余る解説を書いて頂けたことである。20枚ほどもある力のこもった解説である。まず同書の目次を掲げ、次に小浜さんの了解を得て、解説の一部を紹介する。

目 次

怒りについて        007
虚栄について       027
孤独について       055
退屈について       078
羞恥について       108
嘘について         132
死について         152
宿命について       167
教養について       193
苦悩について       205
権力欲について      221

著者覚書          237
解説   小浜逸郎    241

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 解説 「思想」の大きさについて(抜粋)   小浜逸郎

 人も知るように、西尾幹二氏は、戦後の主流をなしていた軽薄な「進歩的知識人」たちや「西洋かぶれ」の言論風潮に一貫して抵抗してきた「保守思想家」の巨頭である。また国難の感知を言論にのみ表現して事足れリとすることを潔しとせず、歴史教科書問題のような運動のリーダーシップを発揮しないではおれない情熱的な「社会運動家」としての側面もお持ちである。多くの人は、ジャーナリズムが作り出すこの政治言論や社会運動の構図における一方の雄としてのイメージを通して、西尾氏の名を知ったであろう。

 しかし私の推測では、氏がじつは、モンテーニュやパスカル、ラ・ロシュフコー、少し時を隔てて、キルケゴール、ニーチェ、カミュ、我が国では小林秀雄や福田恒存といった、いわゆる「モラリスト」の系譜に連なる、冷静な人間観察力と鋭い心理洞察力をそなえた倫理思想や文学思想の持ち主でもある事実は、氏自身の華々しい活躍の陰に隠れて、案外知られていないような気がする。いや、知っている人はじつはたくさんいるがただ黙って読み味わっているだけで、私などがいかにも賢(さか)しらにその事実を言挙げする必要はないのかもしれない。

 けれども、ふつうの人間がみな思想家である以上、専門的な「思想家」が、その代弁者としてどれだけふつうの人生そのものについて含蓄の深い言葉を発しているかについて何か言ってみたくなるのが、西尾思想の一ファンとしての人情というものである。なぜなら、氏の言説のこの側面が、万一、政治的な言論枠組みの単純で声高な分類と理解によってかき消されてしまうようなことになったとしたら、それはどう見ても思想が思想として迎え入れられるべき公平さと自由の原理に背く仕儀となるからだ。

 本書は、その「モラリスト」としての氏の側面が遺憾なく表現された著作のひとつである。著者への失礼を顧みずに言えば、マイナーな雑誌に発表された連載エッセイから多く収録されていて、そのせいもあってか、かえって大舞台での公式言論の建て前が強制してくる窮屈な鎧(よろい)を脱ぎ捨てた、自由闊達、潤いと味わいに満ちた人生論集の一見本となっている。日常生活で出会うふとした経験の数々からの一瞬の感知を自ら過たず捕捉し、それを若き日々に積んだ読書体験による確乎たる人間観に結合させてゆく巧みな氏の手法は、並大抵のものとは思われない。

 泥濘(でいねい)のような政治言論や社会運動の世界に自ら飛び込んで八面六臂(はちめんろっぴ)の多忙さを引き受けてこられた西尾氏に、どうしてこのような人間観察を表現に定着させるだけの「ゆとり」が見いだせるのか、正直なところ不思議としか言いようがない。しかしよくよく考えれば、それだからこそ、と言えるのかもしれない。そういえば、マキャベリもホッブズもロックもゲーテもスタンダールもそうだった。いろいろやっているからこそ見えてくる物事について表現せずにはいられなくなるのだ。思想の大きさとは、そういうことかもしれない。

番匠幸一郎氏を囲んで (最終回)

西尾:まだご発言ない方、では三好さん。

三好:一つだけ質問いいですか。さきほど大使の方から周辺諸国の反米感情の話をされたんですが、防衛庁自衛隊内での今回のイラク派兵に対して派遣を潔しとしないような、そういう意見というのはあったんでしょうか。人道復興支援ということで、100%納得して行ったのかどうか。要するに、なぜ我々が行って、アメリカの戦争意思の後始末をせねばならぬかと、まぁそういう捉え方をする人もいたんじゃないかと思うんですけど、それについて番匠さん、いかがでしょうか。

番匠:私は中央での議論は承知をしておりません。私は当事、北海道の端の副隊長だったもんですから、どういう議論がなされたかよく承知しておりませんけれども、私が任務をいただいた時にですね、自分なりにいろいろなことを聞いて、整理した目的というのは、これは総理や長官もおっしゃっておりましたけれど、四つある。

 一つは今まさにそこに支援を求めている人がいるじゃないかと。戦乱の災禍の中で、人道的な支援或いは復興の支援を求めている人たちがいる時に、なんらの手助けもしないのか、ということに対する答えとしての、イラク派遣の目的。もう一つは、中東の安定というのは、我々の国益に直結するし、特に資源についても、中東が平和であるということは非常に重要だと思う。そのために日本として何をするかということ。三つ目に、防衛大綱の中でも、国際的な役割にどう貢献するかということがずっと言われてきていましたし、世界でこれだけの大国である日本が、何らかのことをしないということはないんじゃないかということ。そして日米関係、というこの四つを総理もおっしゃっているし、我々自身も整理しましたけれども、それについては余りえぇ?という疑問 の声が隊員の中であったとは思いません。

 人によっていろいろあるかもしれませんけれども、私は総理が旭川で記者会見されたように、実際に我々に対して話をされたことに対しては、スーッと入って来ました。自衛隊でしか出来ないから行ってもらうんだと。それから日本人は試されているんだ、というフレーズを言われましたけれど、私はそこが非常にズシンと来ました。お前たちにしか、今やってもらえないんだ、だから頼むよと。それから、今日本人は試されているんだ、日本は試されているんだというのは、まさにそうだと、私自身、そう納得しました。隊員達もそうだと思います。いろんな意見があることは、勿論承知していますけれども、そう言われた時に、且つ法律が通って、いろんな国内の議論の結果、民主主義国家としてやるということが決まった以上は、それに対しては我々はもう、迷いも無く出来たんじゃないかと思います。

 先ほど訓練のことを申し上げましたけれど、私は義和団事件のこととか、或いはトルコの軍艦のエルトゥールル号のこととか、或いは台湾統治の時の日本精神とかいろんなことを隊員達と勉強し、議論しました。我々自身がどういうスタンスで、現地で仕事をしたらいいのか、歴史のことを申し上げましたけれど、最後は歴史上の責任ではないかなと自分でもそういうふうに思いました。私は鹿児島の出身で、大山元帥のこと好きなんですけれども、日清戦争の時に、二軍司令官として訓示した内容というのを正確ではないけれど、記憶しておりまして、

 「文明によって戦い、義をもって処す。世界が見ておる、よいか。」

 と言ったというふうに言われています。まさに私はそうじゃないかと、文明をもって支援をし、義、我々のその、なんていうか、日本人の心をもって現地の人を処する。そういうことを世界中が見ている。そういう仕事を我々がさせてもらえるというのであれば、そりゃあ自衛官として、この道に奉じている以上、潔くやろうじゃないかと、いうことです。あまりそういう意味では、今回のイラク戦争そのものに対する正当性の議論だとか、対米関係上の問題とかそういうことにはさして影響されずに、わりと単純にその辺のところは整理していたような気がいたします。

山口:今あげられた、1、2、3、4の中で私なんか一般国民から受け止めるとね、日本の自主的な判断で、今おっしゃった1、2、3、だから日本はやるんだ、自主的にこれはやらなきゃいかんのだと、それは分るんだけれど・・・小泉さんの発言は4が突出しちゃうんですよ。初めから協力ありき、それでむしろその理屈付けで、1、2、3が来るような感じを受けるんでね。そりゃあワシントンに行ってちやほやされますから。だけど、我々一般国民としてあらまほしき姿は、日本が自分の独立主権国家としての判断としてやるんだと、1、2、3をね、そして結果としてアメリカと歩調を合わせることになるというふうでないと。

西尾:首相の言い方は確かに間違っていると思いますが、私はイラク派遣は日本の独立への行動だと思います。日本の自主行動だと、日本が国家として本当に独立するための、少なくとも軍が独立していく為の初歩的な第一歩だと思いますけどね。

山口:そうですね、そういう位置づけで首相にきちっと国民に説明してもらいたい。

西尾:そう、首相の発言が変だということは事実ですけど、でも僕らはそう思っていますから。反米的な議論をする人がいることはたしかですけどね。

山口:そう、おっしゃるとおり、主体的にやったんだと。

西尾:主体性なんですこれ、日本の。「路の会」はそういう考えを持っている人の集りですけど、そうでない人が物を書いている人の中に多いのもご承知のとおりです。

(大笑い)

番匠:実はオペレーションは、非常に主体的でした。我々がやったことというのは、全部自分達が考えてやるんです。もちろん調整はありますけど、日本からの物資の輸送も、勿論クェートとかで米軍の協力は得ますけれども、基本的には自分達の考え、自分達の予算、自分達の計画、そして自分達のやり方でやるという・・・・

西尾:のみならず、アフガンの沖の、日本のインド洋でのアメリカへの支援というのは、他の国のまね出来ないことをアメリカにひとり日本が与えている凄い支援でしょう。あの海上からの支援は。はい、入江さんどうぞ。

入江:日本人の物の考え方です。第一次世界大戦はヨーロッパで戦っていましたから、いろんな利益が直接脅かされることがなかったんです。だけどイギリスが同盟国に支援を申し入れてきたんです。結局日本は多少支援をするんだけど、あの時の国内の議論はやはり、なんていうか、なんでイギリスの尻拭いをするんだとか、そういうことを言いたがる人が国内にいたんですよ。それはなんというか、戦後の日本人の悪い所にも通じるけれど、第一次世界大戦を見ても、そういう自分の世界に対する貢献というのをここでも言っているわけだけれども、その時もそう言っていたんだけれど、それをひやかすような人たちがいるんだね。それは私は日本人の大変悪い所だと思いますね。知識人の中にも多いですよ。

西尾:たくさんいますよ。

入江:イラク派兵反対だ、なぜかというと、日本の利益がなにもかかっていない、ただアメリカのためにやってやるだけじゃないかと。だけど世界の治安ということがあるんでね、日本にも非常に主体的な問題なんだから、それはね、そのことを何て言うんでしょ。それは私は自衛隊ではなく、そういうことを議論するのは、我々知識人の責任ですね。

西尾:同時に政治家の発言の問題ですね。今山口さんがおっしゃったように、総理大臣がものの言い方を知らないですよね。ただ第一次世界大戦の時も、ご承知のように駆逐艦隊が出て行ってですね、そしてマルタ島沖で商船を守って魚雷に自らぶつかって沈没した艦もありましてね、果敢に戦ったんですよ。あの時ね。その時はそれで、その事実は感謝もされ、それからベルサイユ会議における発言力もそれで増したんで・・・

入江:大変感謝されたんですね。

西尾:ただ陸上部隊は出さなかったですね。

入江:地上軍を出すべきだったと思いますけどね。出さなかったんですよ。

西尾:あの時地上軍を出していれば、シベリア出兵はまた違った受け取り方をされたと思いますね。日本はやらないんだよね。そういうことは絶対やらない。

○○:今日は番匠先生には最初に政治や外交の問題からは離れてお話いただく約束でしたよね。

西尾:政治からは離れて、(笑い)そうでした。我々が余計な話をしてはいけないと思いますよ。申し訳ありません。本当に今日はどうも有り難うございました。どうも、じゃあ

番匠:有り難うございました。

・・・・・・・・・・・・・・・・拍手・・・・・・・・・・・・・・・・

(追記:テープの聴き取りが小さな聴き間違いをしている場合があることをお断りしておきます。発言者のお名前が全員わからず○○になっているのは、テープの聴き取り者がお声を知らないためです。聴き取り者は広島の長谷川さんです。ご苦労さまでした。そういうわけでテープが私の手許にありませんので、おゆるし下さい。――西尾)

修正:3/21

「人権擁護法」という狂気の法案 (その八)

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「人権擁護法」という狂気の法案 (その八)

 17日付で拉致議連の会長平沼赳夫氏の名において、人権擁護法案を否定する拉致議連としての明確な反対声明が出された。私の11日付コラム「正論」と趣旨においてほゞ同一であるが、拉致議連が態度を表明したということに意味がある。

 これをみても単に「メディア規制条項」だけを外せばよいというほどの内容の法案ではなく、自由と民主主義を根底において侵害している法案である。「人権」という語に踊らされてこういう根本的なことが分らなくなる法務省の官僚の担当官僚、法務大臣、関係自民党議員たちが愚かというを越えて、私には空恐ろしい。

 19日、産経と朝日にそれぞれ考えさせる内容の18日の出来事の報道があった。

産経新聞・人権擁護法案、与党懇話会に差し戻し 
産経新聞・これも人権侵害? 全国弁護士会、次々「勧告」
朝日新聞・人権擁護法案、今国会の成立困難に 国籍条項で調整難航

 
以下に拉致議連の声明文を掲げておく。

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◆拉致議連が人権擁護法案で緊急声明  平成17年3月17日

人権擁護法案に対する緊急声明

 三年前に提出され、「メディア規制法」と批判を浴び、廃案となった人権擁護法案が国会に再び提出されようとしている。国民の生命と財産を守ることが国および政治家の責務との信念を持ち、北朝鮮による国家犯罪である拉致問題の解決のために被害者および家族の視点で活動してきた我々は、本法案が拉致被害者支援活動、さらには自由主義・民主主義の根幹である「自由な言論」までも侵害する可能性があると強い懸念を感じている。

 我々は、出生や国籍などを理由にした人権侵害は許されないと考えていることは言うまでもなく、本法案が目指している本来の趣旨である人権侵害に対し、救済措置を施すことに何ら異論はない。しかし、本法案は下記のような重要な問題を含んでいる。

この懸念が完全に払拭されるまで、本法案を国会に提出すべきではない。

 まず第一に、

 本法案では、「人権侵害」の定義があまりに曖昧である。第二条で「人権侵害とは不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為」と規定しているが、これでは「人権侵害とは人権侵害である」と言っているのと同じではないか。

 さらに「助長」や「誘発」までも救済措置の対象とされており、拡大解釈の余地があまりにも大きい。新設される人権委員会が「人権侵害」と認定する段階で、恣意的な解釈が可能であり、健全な言論活動は著しく侵害され、「言葉狩り」が横行する危険がある。

 例えば、北朝鮮の拉致問題への対応を批判したり、経済制裁を求めることまでも、在日韓国・朝鮮人への人権侵害を助長したと解釈されてしまう危険性がある。

 第二に、

 本法案は人権侵害に関する情報収集や被害救済・予防活動を行う人権擁護委員を全国で2万人委嘱されることを定めているが、その選考があまりに不透明である。

 市町村長が「弁護士会その他人権の擁護を目的とし、または支持する団体の構成員」のうちから推薦することになっているが、国籍条項はない。破壊活動防止法に基づき、いまだに公安調査庁の調査指定団体となっている朝鮮総連の関係者が委員になる可能性は否定できない。

 また、北朝鮮などと連動して活動している日本の市民団体や特定の政党の影響を排除するための規定も見あたらない。

 第三に、

 人権委員会は人権侵害の特別救済手続きとして、出頭要請、押収、立ち入り検査など、いわゆる3条委員会としての強制力を持つ。法務省は「令状主義に反するものではない」と説明しているが、国民に畏怖、抑圧し、自由な言論を妨げることにつながる危惧は払拭できない。

 第四に、

 現行法上の人権擁護委員は、政治活動が禁止されているが、本法案上は、積極的な政治活動のみが禁止されているに過ぎない。

 まずは、ADRの充実や現行人権擁護委員の権能強化など司法制度改革を推進し、本当の権利侵害を受けた弱者が迅速かつ簡便な救済策を受けられる制度を充実していくべきである。

 以上われわれ「拉致議連」として、「人権擁護法案」は慎重に取り扱うべきであることを声明する。「表現の自由」は民主主義の根幹であり、すべての国民が有する権利である。我々はこの民主主義を守るために毅然とした姿勢を貫くことをここに誓いたい。

「拉致議連」(北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟)  会長 平沼 赳夫

「人権擁護法」という狂気の法案 (その七)

お知らせ

先日、横浜関内で行いました講演会の模様の放送が、日本文化チャンネル桜であります。日本文化放送チャンネル桜の申し込みはこちら(電話03-6419-3900)

後編 平成17年3月18日(金)夜12時~1時(今夜)

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「人権擁護法」という狂気の法案 (その七)

 18日昼食会をかねた自民党法務部会では、古賀誠議員が公明党を含む与党人権懇話会に法案を差し戻させてほしいと提言、これは筋が通らないと反対もあったが、最後には了承された。ただし自民党法務部会は今後も議論をつづけて行くことを約した。

 自民党内の合意がとれてから公明党のいる与党全体の場へもち出すのが物事の順序であろう。それをしないで、先に与党人権懇話会へ差し戻すのはなぜか。

 以下は私の推理と解釈である。

 人権擁護法を公明党は通したい。国籍条項なしにして、外国人を人権擁護委員にする方式にしたい。

 外国人の地方参政権をもともと要求している党である。

 古賀氏の下心は、公明党の外圧期待であろう。これを通さなければ次の選挙協力はしない。郵政民営化にも賛成できない、そう言わせたい。さらに公明党の選挙協力を必要とする議員をひとりひとり牛蒡抜きにしていく。そういう期待だろう。

 人権擁護法に反対する議員をだんだん萎縮させていく。いったいどの反対者が賛成者(法の推進者)に回っていくかをわれわれはとくと観察し、問い正していこう。

 自由と民主主義の根幹に関わる問題である。自民党がここで屈したら民主主義の終幕である。この点で共産党や社民党の出方を見たい。現代の「治安維持法」を彼らが歓迎するとは思えない。

「人権擁護法」という狂気の法案 (その六)

お知らせ

 先日、横浜関内で行いました講演会の模様の放送が、日本文化チャンネル桜であります。

前編 平成17年3月17日(木)夜12時~1時・・・・(今夜)
後編 平成17年3月18日(金)夜12時~1時・・・・(明晩)

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「人権擁護法」という狂気の法案 (その六)
 
 次の法務委員会は明18日正午に開かれると、今夕わかった。新しい動きがあればすぐお知らせする。

 世間の目はいまライブドアのフジ買収劇に向けられている。朝日-NHK虚報事件、ライブドアの株支配事件、商法改正問題(会社法制の現代化に関する要綱、2月9日法制審議会決定)、そして人権擁護法案をめぐる今度の事件は一つながりの問題である。

 私がいまライブドアの株買収劇についてどういう考えを抱いているかに読者のご関心は向いていると思う。月刊誌の〆切りが近づいて、私は現在このテーマを書いている。「日録」には発表しない。というより日ごとに情勢が動くので、書けない。読者の皆さんが持つ以上の新情報を私は持たない。私が雑誌に書くのは情報そのものではないからである。

 友人の編集者から次のファクスが入った。非保守系の出版社の方からである。ご参考までに紹介する。

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 ご無沙汰しています。先日は御著書と編著をお送りいただき、ありがとうございました。

 ところで、今回の「人権擁護法案」をめぐる騒動は、実に興味深いものです。いわゆる「リベラル」を信条とする人にとって、“自由”こそは何ものにも変えがたいものであり、それこそが“人権”の中核を成しているように思えるのですが、その“人権”を拡大していこうとすればするほど、それがそのまま“自由”を蚕食していくことになるという悲喜劇が展開されているように思います。

 しかも、そのことに敏感に反応したのが、世間では「超保守派」と思われている先生だったところに、世間の思考の退廃のようなものを感じないわけにはいきません。先生の場合は、今の日本で原理的に考えていくというご自身の行為が、結果として、いわば二役演じさせられてしまうことになっているのではないでしょうか。奇妙な連想ですが、グラムシが主張した“知識人”の役割を、いま目の前で先生が果たされているようにも感じました。

 さらに申し上げるなら、『新・国民の油断』の最後に「安井夫人」からの引用が置かれているということにも、先生のある種の“孤立”を感じます。日本人の静かな覚悟のようなものを見事に表現している小説のように思うのですが、それがあの本の最後に置かれていることに強い印象を持ちました。