私は現実の政治や社会問題について発言するのをもう止めようかと思うことがしばしばある。年齢とともにそれは強まっている。けれども性分というものかもしれないが、なかなかやめられない。
現に今月もライブドアの株買収事件について『正論』に書き、朝日NHK贋報道事件、竹島問題、人権擁護法、ライブドア事件の四つに共通する底流について『諸君!』に書いている。
扶桑社の永年の盟友真部君が「先生よくいろいろなテーマについて次々と挑戦しますね」と言ったので、「いやあ、僕が挑戦しているんじゃなく、日本が僕に挑戦してくるんだよ」と言って、二人で笑った。
しかし本心はもっと別な仕事に心を傾ける時間が得られるようにしたいと思っている。ちょっと現実から離れたやりたい仕事があるのに、残された時間は少くなっていく一方だからである。
前段で紹介した小浜逸郎さんの拙著への解説の中で、私がハッとしたのは、最後から二行目の「いろいろやっているからこそ見えてくる物事について表現せずにはいられなくなるのだ。」の一行であった。
あゝそうか、そう言ってくれる人もいるのだ、と思うと少し迷いがフッ切れた。現実の問題と格闘して「いろいろやっていく」ことをやめてしまったら、恐らく他の何をやってもうまく行かないだろう。
現実への生き生きした関心を持続しつづけること、それが私の他の活動にも生命を吹き込む源泉となってくれるのかもしれない。
というわけで今月は経済問題にまで首を突っこんだ。対日投資会議報告書、米政府から日本政府への日米規制改革及び競争政策に関する要望書、法制審議会が決定した会社法制の現代化に関する要綱、経済産業省の日米投資イニシアティブ報告書、証券取引法などにまで踏みこんだ。
畑違いのさまざまな領域に関与するのを年寄りの冷や水といって嘲笑う向きもあるかもしれない。けれども現実への関心が尽きないのだからこれはまあ仕方がない。
最後に小浜さんが拙著の中から拾ってくれた二つの文章をここに掲げておく。
従って生きている限り、われわれは自分の生を総体として把握することを封ぜられている。それでいて、われわれは毎日のつまらぬ雑事、よしなしごとに果たして意味があるのかどうかを疑う心を持っている。それらの持つ全体としての意味が何であるかをあらためて問い直す心を持っている。しかしまた、同時に、それら雑然たる関心事や刺戟や用務の持つ個別の意味以外に何か究極の生の目的を見出そうとしてもそれは不可能だし、ドストエフスキーの描いた徒刑囚のように、人間が些少な個々の物事によってその日その日に自分の生を無言のうちに支え、自分をいわば生かしていることをもよく知っている。(「退屈について」・本文105P)
それなら過去に犯した罪や失敗に対し、われわれはどう対処したらよいのだろう。一切無視してしまえということなのか。考えないことにしてしまえばよいということか。諦めてしまえばそれでよいのか。私はそういう事を言っている積もりはない。むしろ、自分が何らかの行動をした結果がたとえ悪と判明したにしても、その結果から問題を判断してはいけないと言っているのである。自分が何かの行動をした――その時点での行動はそれなりに重いのであって、結果の善し悪しとは別に、そのときの自分をもっと尊重したらどうか、と言っているのだ。(「苦悩について」・本文215P)
小浜さんはこの二文について「正直なところ、いずれも難題を突きつけられている気がする」と書いているが、私にとっても「難題」であることに変わりはない。
今日取り返しのつかない失敗を私もしていないとも限らない。ただ「後悔」は不毛だというくらいの覚悟でせめて生きたい、と言っているだけである。
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現実の社会問題や政治問題についての発言というものは、その当時は影響力があったとしても、社会や政治の現実が移り変わるともう用がなくなってしまう性質のものであり、例えれば派手に打ち上げ花火を上げるようなもので、ある程度の満足感も得られるでしょうが、一抹のむなしさを感じざるを得ないものでありましょう。
それよりも、もっと人生の奥深さについて語った方が、とても深い論考が必要とされるのでやりがいもありますでしょうし、また、その発言の影響力というものも月日がたってもなかなか色あせないものであります。
物書きの情として、一時期だけ流行るよりも、後々までずっと読み継がれるような書物を書き残したいと思うものでありましょう。
実際のところ、社会に影響を与えるということでは、一時的に流行するものよりも、すぐには影響を与えないとしても後々まで読み継がれる本の方が、長い年月でみると社会に大きな影響を与えているのではないかと思われます。
そういうことを考慮すると、私も表面的な社会や政治の現象について論及するよりも、もっと深遠な考察というものをしたいという気持ちが強くあります。
ただ、現実的に考えた場合、人間は人生についての深い考察だけをして日々生きているのではなく、さまざまな社会や政治の表面的な変化の影響も大きく受けながら生活しているわけであります。
大学で哲学の研究をしている学者でも、大学内の政治や学会での力学、日々の経済活動の影響から全く隔離して生活することは出来ないわけです。
特に西尾先生の場合、政治や社会についての発言が他の評論家よりも抜きん出ているため、まだまだ論壇から必要とされているのであります。
私が見るところでも、西尾先生ほど鋭くて的確で、かつバランスの取れている評論というものにお目にかかったことがありません。
他の論者の発言では、どうしても物足りなさを感じてしまうわけです。
私も自分で物事を正確に見抜く力を養おうと思っていますが、まだまだ西尾先生の力を借りる必要を感じています。
若手の保守知識人の中で、西尾先生に匹敵するような評論を書くことができる人間が出てくるまでは、もうしばらくは政治や社会についての発言をする必要があるように思います。
これは、西尾先生に与えられた使命である、あるいは、宿命といってもいいようなことではないでしょうか。
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ゆえあって『人生の深淵について』を拝読しています。
まだ読み始めで「怒りについて」の章を読んだばかりです。
全く無学な私としては昔の学者さん(ニーチェとか)が出てきても
今一ピンとこないのですが、幸いにもそれらの方々のことを
知らなくても理解できる内容でホッとしています。
怒りというとマイナスイメージばかりがつきまとい精神的に
未熟な証拠だと決めつけるための材料にしかならないと思いつつも
いや違う・・・人間が人間であるためには欠くことのできない
感情のひとつではないのかと漠然と思っていました。
この本を読み始めてまもなく、
その漠然とした思いが、より具体化されたように思います。
感謝します。
このような感想になったのは、私自身の持つ怒りの感情が
極端に小さいためだと思います(・・・たぶん)。
続きも、よくよく吟味しながら読んでいきたいと思います。
余談ですがこの本と一緒に、王明という方の書いた『老子(全)』
という本も買いました。
ゆっくり併読・熟読していきたいと思います。
それでは。
>勝田さま
感想ありがとうございます。
最新著作「民族への責任」もタイムリーな本です。
よろしかったらこちらの方も読んでみてくださいね。