阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十九回」

 (5-1)本を読むことは、何事かを体験するための手段であり、ある意味では最も効率の低い媒体であって、それ以上でも以下でもない筈なのに、どういうわけか端的にわれわれの自己目的とさえなってしまう。それほどにもわれわれを取り巻いている言葉の世界は層が厚く、われわれは現実から無言の裡に距てられているためだともいえよう。

(5-2)教養主義こそが今日の教養の衰弱の原因である。

(5-3)私たち末流の時代の知識人は、ともあれ他人の言葉を手掛かりにしてしか物事を考えることができない(従って物事を書くことも出来ない)ことに慣れ切ってしまっている。私たちは研究とか、学問とか、評論とか称して、何か創造的に物事を考えた積りになっているが、所詮は古書と古書の間隙を逍遥しているだけである。今日に遺されているのは所詮古人の言葉にすぎまい。しかし言葉は何かの脱け殻であって、実体ではないのだ。しかもこの頼りない、表皮でしかない言葉をあれこれ吟味するのは、言葉の分析それ自体が目的ではなく、言葉の届かない、その先にある何かに接近することが本来の目的だということに、いったい今日の学者、批評家、知識人はどれだけ気がついているだろうか。

(5-4)歴史は客観的事実そのものの中にはない。歴史家の選択と判断によって、事実が語られてはじめて、事実は歴史の中に姿を現わす。その限りで、歴史はあくまで言葉の世界である。けれども、歴史家の主観で彩られた世界が直ちに歴史だというのではない。そもそも主観的歴史などは存在しない。歴史家は客観的事実に対してはつねに能う限り謙虚でなくてはならないという制約を背負っている。客観的事実と歴史家本人とはどちらが優位というのでもない。両者の間には不断の対話が必要な所以である。

(5-5)私たちはヨーロッパ近代を自分の前方に見据えながら、同時に自分の背後に克服していかなくてはならないという二重の芸当を演じて来たし、今なお演じつつある。

(5-6)ヨーロッパ的な味附けだけをしただけの日本の古典論とか、自分が近代的教育を受けて来たにも拘わらず、近代ヨーロッパからの「異世界」への問い掛けにあまり敏感でない自閉的な日本文化論などが、いささか無反省に流布しているのが、当代の知性の特徴であるように私には思える。

(5-7)ニーチェの本は何処から読み始めてもよいし、何処で読み終わってもよいのではないか。丁度音楽は何処から聴き出してもわれわれを引き摺り込んでしまうように、ニーチェの著作はあらゆる処に入口があり、出口があるのだ。論述的な著作の場合でも、文の構造が基本においてアフォリズムだということを物語っていよう。

(5-8)現在を否定し、批判する行為が、とりもなおさずそのまま理想への道だということが凡庸の徒にはどうしても分からない。代案は何か。具体的な方策を示せ。万人が歩める道を教えよ。彼らは必ず目的でなく手段を聞きたがる。(中略)自分で道を試すのではなく、人に道を教えてもらわなくては安心しない。

(5-9)現代はいわば価値の定点がどこにもない。すべての要素が同時に存在し多様化し、開放され、前進型のあらゆる試みがたちどころに古くなるような時代です。なにかの観念や、特定の視点というものは大抵相対化して、普遍的なものとしては成り立ちにくい。が、その反対に、いかなる視点も不可能になったという、いわば近代史を通じてくりかえされてきた自己解体の主題でさえが、ルーチンとなり、妙に安定した意匠となって、再検討を要求されている時代だともいえます。あらゆる問が並立しているのが、まさしくこの現代の姿なのです。

(5-10)虚偽なしで人は生きられない。その限りで虚偽は真理である。しかし真理はまた束の間に過ぎ去り、次の瞬間には虚偽に転ずる。

(5-11)真理は体系化できない。真理は容易に伝達し得ないし、認識し得ないなにかである。真理は認識するものではなく、わずかに接触することが出来るにすぎない。真理はときに言葉になり得ないものから、沈黙から、瞬間的に発現する。平生人は真理にあらざるもので表象し、行動する。真理とは生きるために人が時に応じて必要とするイルージョンである。

(5-12)歴史的教養で頭を一杯にして、自分が何をしたいのか、そして何を言いたいのかさえ分らなくなっている現代知識人の懐疑趣味、もしくは自己韜晦癖

(5-13)近世に確立した人間の主体的自我は、やがては自然を、世界を自己の外に客体化し、ねじふせ、加工し、利用する近代科学の自己絶対化をもたらすに及んだ。十九世紀は無反省なまでにその危険が増大した時代である。世界に存在するいっさいのものが主体的学問の対象となり、対象化できない心の暗部や信仰や芸術までをも解剖し、分析した。

(5-14)ギリシア人はつねに超時間的なもの、永遠なもののみを考えた。現在の瞬間に生きることが、同時に永遠につながる。自然は同一のものの周期する世界であり、悠久無辺である。時間には発端もなければ、終末もない。キリスト教世界のように、終末の目的が歴史に意味を与えるのではない。ギリシアにも歴史家はいたが、有限な時間が一つの目的へと向かう多くの人間的出来事の連続として、歴史が意識されたことはなかった。

(5-15)思想は今や趣味の問題でしかなく、人間は生きるために生きる以外にどんな生の課題ももち得ず、またもち得ないことに疑問すら抱かなくなっている。それでいて世間は少量の毒ある刺激をたえず求めるが、しかし本気で毒を身に浴びる者はどこにもなく、なにごとにつけほどほどで、人々は怜悧(れいり)になり、あるいは歴史書に慰めを求め、あるいは永生きするための健康書にうつつを抜かす。
 こうした状況を「成熟」とか称して現状肯定する思想家がもてはやされ、その分だけ時代の文化は老衰し、活力を失っていく。だが、にぎやかな鳴り物入りの漫画のような思想は、時代の無目標をごまかすために、人々に一時の快い夢をみさせてくれる。

(5-16)なにもかもが煩わしいからわれわれは差別を恐れ、福祉を唱え、健康を重んじているのであろう。

(5-17)日本にはキリスト教がないからニーチェの言う「神の死」はわれわれの問題ではないという日本人がよくいる。しかし明治以来、近代化の洗礼を受けて、日本人をつつんでいた江戸文化の有機的統一体が失われ、今や国家にも個人にも目的がなく、「彼岸の世界」への信仰ももち得なくなっているのは、まさに現下のわれわれの問題ではないだろうか。「神の死」とはなにも西洋だけの問題ではない。われわれ近代文化全体をつつみこんでいる宿命である。

(5-18)いっさいの現象の仮面を剝いで、裏側の真実を見ようとすること自体が、ひとつの嘘になり、自己欺瞞を招きやすい。

(5-19)本当の不安のうちに生きるとは、ときに仮面を剝いでその裏を覗き見、ときに仮面をそのまま素朴に愛するということを交互にくりかえす以外にはない。いいかえれば、ときにあらゆる真理を疑い、いかなる信念をも使い捨てて、懐疑の唯中に立つかと思えば、ときに嘘と承知でなにかを信じ、いわば手段としての信念を気儘に用いる立場へと転ずる。立場は次から次へと瞬時に変わっていく。どこにも定点はないのかもしれない。

(5-20)一切の価値意識を排除して、純粋に科学的な、厳密に客観的な認識は不可能であるばかりでなく、真の学問にとって有害でさえある。認識には価値観が必要である。と同時に、行動を伴わない単なる認識はけっしてなにかを認識したことにはならない。行動や価値は過去の研究を通じてもなお現在に作用していなければならない。

(5-21)そんなことを言っても、もとより音楽の理解にはなんの助けにもならないが、音楽が一種の文学性(あるいは近代的な感傷性)をもつことによって、かえって音楽自身のために演奏されるようになり、他の従属物でなくなっていったということは、まことに不思議な逆説といえるかもしれない。

(5-22)実人生に敗れた弱い人間、社会の落伍者、失敗者に限って、自分の敗北にも意味があることを別の論理で拡大解釈しようとして、救済を自分以外の世界に求め、自分の弱さから目をそらし、弱点の正当化を試みようとしたがる。これは生命力の衰退のしるしであるが、しかしまた、この自己欺瞞は群をなして、集団力に危険な力として伝播して行く傾向がある。いわば「伝染的な作用をする」のである。

(5-23)デカダンスとは自分で自分を瞞して、眠らせる、麻薬のような世界である。当然、大変に心地良い世界だと言える。そして近代人ほど、幸福の原理でなく快適の原理を求めて倦み疲れている存在もないと言ってよいだろう。

(5-24)真理と名のつくものはことごとくフィクションではないだろうか?物という「概念」が発生したのは、到達できるたしかな「物」が存在しているからではなく、むしろ「物」が存在していないからではないだろうか?同じように、真理という「言葉」が発生したのは、「真理」が認識可能であるためではなく、むしろ逆に、「一つの」真理が必要から捏造(ねつぞう)されたせいではないだろうか?

(5-25)言葉の及ばぬ部分に、言葉を用いることで、なにかの真理が得られたためしはなく、多くの場合には、むしろ逆に、真理(16頁上段から下段「光と断崖」)

にあらざるものに真理という「言葉」を与えただけに終わってしまう(中略)それくらいならむしろ、嘘を嘘としてはっきり自覚した方がよい。言葉の及ぶ部分がどこまでであるかをよくわきまえていることが必要であろう。

(5-26)理解とは理解し得ない自分にまず直面することから始まる、という問い

(5-27)狂気の淵のそば近くまで歩み寄ることによって、正気はかえって明晰になり、洞察の目はますます深く、ますます鋭く物事の核心を捉える

出典 全集第五巻
光と断崖― 最晩年のニーチェ より
「Ⅰ 最晩年のニーチェ」より
(5-1)(9頁下段から10頁上段「光と断崖」)
(5-2)(11頁上段「光と断崖」)
(5-3) (16頁上段から下段「光と断崖」)
(5-4) (24頁下段から25頁上段「光と断崖」)
(5-5) (60頁下段「光と断崖」)
(5-6) (62頁上段「光と断崖」)
(5-7) (97頁上段から下段「幻としての『権力への遺志』」)
「Ⅱ ドイツにおける同時代人のニーチェ像」より
(5-8) (319頁上段)
「Ⅳ 掌篇」より
(5-9) (396頁下段「人間ニーチェをつかまえる」)
(5-10)(429頁上段「私にとって一冊の本」)
(5-11)(429頁上段「私にとって一冊の本」)
(5-12)(453頁下段「「教養」批判の背景」)
(5-13)(472頁上段「「教養」批判の背景」)
(5-14)(474頁下段「「教養」批判の背景」)
(5-15)(478頁下段「ニーチェと現代」)
(5-16)(479頁下段「ニーチェと現代」)
(5-17)(481頁下段「ニーチェと現代」)
(5-18)(486頁上段「実験と仮面」)
(5-19)(487頁上段「実験と仮面」)
(5-20)(493頁上段「批評の悲劇」)
(5-21)(496頁下段「ニーチェのベートーヴェン像」)
(5-22)(501頁下段から502頁上段「自己欺瞞としてのデカダンス」)
(5-23)(504頁上段「自己欺瞞としてのデカダンス」)
(5-24)(516頁下段「言葉と存在との出会い」)
(5-25)(522頁下段「言葉と存在との出会い」)
(5-26)(532頁上段「和辻哲郎とニーチェ」)
「後記」より
(5-27)(559頁)

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十八回」

(4-26)現代では他人の信念は好んで疑うが、事実と名づけられてあればなんでも簡単に信じる人がふえているように、私には思える。語っているのは事物それ自体で、人間は介在していないという主張は俗耳(ぞくじ)に入り易いが、しかしそのようにして主張された事実もまた一個の観念であり、厳密に考えれば主張者の表象であることを免れることはできないのである。事実ほど曖昧で、無限の解釈を許すものもないからである。

(4-27)過去は現在に制約され、未来への意識とも切り離せない。

(4-28)過去を見る立脚点が、一般に十九世紀ほど安定していた時代はなかった。歴史とは何か、過去とは何かに関し共通の了解があり、人はその前提を疑うことを知らなかった。従って歴史に対する素朴な客観主義への信仰が十九世紀全体を蔽っていた。

(4-29)「先入見」を除いて人は過去を認識しうるというが、正確な客観性というような観念も、すでに一つの「先入見」ではないか。

(4-30)いかなる過去も、ついに正確に把握されることはなく、いかなる事実も、ついに完全に再現されることはない

(4-31)過去とは固定的に定まっているのではなく、生き、かつ動いているのである。文献学者の客観性への信仰は、過去を既に固定して考えているが、過去の事実とはニーチェが言う通り、「際限のないものであり、完全に再生産することのできないもの」である。と同時に、過去を認識する人間もまた、たえず動いている動態であり、なんらかのフィルターなしではなに一つものを見ることはできない。

(4-32)過去とはわれわれの目に見える光景なのであり、われわれがそれに問を発する限りにおいて存在するものである。しかしだからといってその問いは、単なる主観の反映として歴史を静的に捉えるのではない。そのような安定した構図は最初からわれわれには拒まれている。歴史に関する認識は所詮相対性から脱却することはできないが、われわれは自ら動かずして、同じような動かない過去を認識するのではない。認識するとは、生きながら、行動しながら認識することにほかならず、われわれの情熱は一定地点に立ち止まることを決して許さないだろう。

(4-33)言葉で表現し得ないなにかにぶつかって、初めて言葉は真の言葉となる。言葉では伝達しえないなにかが表面の言葉を支えている、

(4-34)結局過去の認識は現在に制約されているといえる。われわれの熟知しているごく近い過去の出来事ひとつの解釈にしても、じつに数かぎりない解釈が存在することはわれわれの通常の経験である。それはおおむね歴史家ひとりびとりの個人の主観の反映である場合が多い。あるいは時代の固定観念、すなわち通念の反映像という場合もありうるだろう。つまり過去像はそのときどきの現在の必要に相応して描き出されているのである。

(4-35)われわれが現在の価値観によって制約され、過去を認識しているにすぎないのなら、自分が未来に何を欲し、どう生き、いかなる価値を形成しようと望んでいるかを離れて、われわれの歴史認識は覚束(おぼつか)ない。過去の探求は、一寸先まで闇である未来へ向けて、われわれが一歩ずつ自分を賭けていく価値形成の行為によって切り開かれる。過去を知ってそれを頼りに未来を歩むのではなく、未来を意欲しつつ同時に過去を生きるという二重の力学に耐えることが、人間の認識の宿命だろう。

(4-36)行動とは、たとえいかように些細な行動であろうとも、およそ事前には予想もしなかった一線を飛び越えることに外ならない。事前にすませていた反省や思索は、いったん行動に踏み切ったときには役に立たなくなる。というより、人は反省したり思索したりする暇もないほど、あっという間に行動に見舞われるものだ。

(4-37)人はなんらかの行動を起すためには、そのつど仮面を必要とする。仮面と承知で素面(すめん)を演じるのではなく、素面であると信じ切ることなくしては、それが後で仮面であったと判明する事態も起こらないだろう。そのかぎりで人は騙されること、幻惑されることを自ら欲する瞬間もある。

(4-38)歴史の研究とは、過去を厳密に扱うだけでなく、自ら哲学的に過去の中へ思索するのでなければならない。しかしその思索は観照ではなく、観照する安定した立脚点は現代に生きる人間には与えられていないのであるから、たえず自分の立つ足場を取り外して歩んで行くようなことでなければならない。いいかえれば極度の不確定性の中に立ちつくすことである。

(4-39)ヨーロッパでは、天地創造から最後の審判に至るまでの有限な時間の内部の、くりかえしのきかない(後戻りできない)事象の連鎖であると考えられる限り、歴史は反自然的である。なぜなら自然は永遠にくりかえす世界、悠久無辺、永劫回帰の世界である。歴史の基本は、自然と対立した、人間の一回的な行為の連鎖にある。一回的であるがゆえに、その都度の行為が等価値で、記録に値する。

(4-40)ギリシア人はつねに長時間的なもの、永遠なもののみを考えた。現在の瞬間に生きることが、同時に永遠につながる。自然は同一のものの周期する世界であり、悠久無辺である。時間には発端もなければ、終末もない。キリスト教世界のように、終末の目的が歴史に意味を与えるのではない。ギリシアにも歴史家はいたが、有限な時間が一つの目的へと向かう多くの人間的出来事の連続として、歴史が認識されたことはなかった。

(4-41)日本の近頃かまびすしい教育論争に一番欠けているのは、この理想の観点である。すなわち教育は無償の情熱に支えられるべきで、生活向上のためにあるのではないこと、定まった訓練や修行を経てはじめて真の自由が得られるのであり、青年に無形式の自由を最初から与え、自主性を育てるという考えはなんら自由でも自主性でもない(中略)ニーチェの言葉は現代日本の教育の弱点を的確に指摘している

(4-42)ニーチェが言葉化していることだけが彼の思想ではない。彼がある局面でなにも語っていないこと、つまり彼の沈黙の部分も彼の主張の一つである。

(4-43)人間の体験というのは、言葉になる以前のものを孕んでいるのが常で、後からそれを言葉で再現するのはどだい矛盾をはらんだ作業です。

(4-44)言葉の天才であればあるほど、言葉には及びがたいものがあるということを予感している

(4-45)学問研究は「物語」でなくてはいけない、

出典 全集第四巻
「第三章 本源からの問い」より
(4-26)(459頁上段)
(4-27)(461頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-28)(461頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-29)(468頁下段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-30)
(4-31)(469頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-32)(470頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-33)(489頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)
(4-34)(495頁上段から495頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)
(4-35)(495頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)
(4-36)(517頁下段「第三節 フランス戦線の夢と行動」)
(4-37)(518頁上段「第三節 フランス戦線の夢と行動」)
(4-38)(519頁下段「第三節 フランス戦線の夢と行動」)
「第四章 理想への疾走」より
(4-39)(609頁下段「第三節 歴史世界から自然の本源へ」)
(4-40)(609頁下段から610頁上段「第三節 歴史世界から自然の本源へ」)
(4-41)(616頁上段「第四節 十九世紀歴史主義を超えて」)
(4-42)(678頁下段「あとがき」)
(4-43)(733頁上段「渡邊二郎・西尾幹二対談「ニーチェと学問」」)
(4-44)(737頁上段「渡邊二郎・西尾幹二対談「ニーチェと学問」」)
(4-45)(778頁「後記」)

 

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十七回」

 

(4-1)ニーチェは多く読み、深く調べることで必ずしも「正解」に達するとは限らない思想家である。時代に応じ、個人に応じ、それぞれ異なった顔をみせてきた多面体である。

(4-2)われわれはとかく樗牛の時代の無理解や誤解を嗤うが、はたして当時よりもニーチェを多く知っていると言えるのだろうか。彼を概念で知るのみで、体験で知ることを忘れていはしないか。おかげでわれわれは樗牛の時代の人のように、ニーチェの言葉に対し素直に驚くことがなくなっているのではないだろうか。

(4-3)中世におけるように、もし超越せる神が実在するのなら、じつは道徳という人間的尺度は問題にならないはずなのだ。神が全能であるなら、人間の世界はすべて悪であり、道徳とか倫理とかに意味はなにもないことになるからである。

(4-4)歴史は言葉に支えられた世界であって、言葉を離れて事実そのものを捉えることが必ずしも歴史ではない。いったい歴史上の客観的事実なるものは存在するのか。

(4-5)ニーチェはさまざまな理想や道徳の背後に、自己錯覚の動機を発見して、それを根底的に追跡し、かつ情熱的に排撃した。彼は自己欺瞞をなによりも憎んだ。なぜなら自分を守るために自分でそれとは気づかずに嘘をついている自己錯覚を、理想や道徳として祀り上げるのは、自覚的に嘘をつくよりも、もっと許せないからである。ニーチェは無自覚の嘘、ないし無意識に犯す嘘を憎んだのであった。

(4-6)近代は日本人にとってときに追認の目標、そうでない場合でもせいぜい、自己の内部に侵入してくる厄介な異物、という意識であって、日本人が自己の内部にひそむ近代そのものの弱点と批判的に対決するという姿勢ではあり得なかった。

(4-7)ニーチェを全体として解釈するようなテーゼは存在しない。

(4-8)貧しい精神は自分の生立ちの経験をただ貧しくするだけで終わるのである。

(4-9)人は誰しも結果を予想して生きてはいない。ひとつの生涯は繰り返しのきかないその日その日の、生命の燃焼の連鎖から成り立っている。

(4-10)やり直しのきかない時間を、そうと知りつつ生きる以外に、人間の生き方というものは存在しない

(4-11)一人の思想家にとって、思いもかけぬ別のかたちで、後年の素顔をいち早く覗かせている少年時代とは一体なんなのであろうか。

(4-12)歴史と文学、史実と神話の接点において、歴史は文学の中に、史実は神話の中に姿を消して行き、その境界は定かではない。

(4-13)意識の表面に浮かぶ思想や観念は、肉体にどんなにあっさり裏切られるものであるか。いまの自分の肉体は、次の瞬間に変化している。意識は、ほとんど変化について行けないほど頼りない。言葉は、たしかにその変化の一点をとらえるのだが、次の瞬間には、なぜかもう嘘のように思える。

(4-14)外からくるどのような経験も、自分のなかにあるものの反映であって、自分の中にあるものと外からくるものとの戦いの中で、それははじめて経験となる。

(4-15)外国語で考えるのは、自分の内発的な感受性や思考力を一番大切なところでこわすことでもある。各国語を自在に操れる語学的天才といったタイプの人間は、その点に関し疑いを持っていないのが普通である。

(4-16)自分を他人の目にわかりやすくしようとする衝動は誰にでもあるだろう。自分を主張したり、説明したりする動機は、大抵そうした伝達衝動に発している。しかし他人の目に自分をわかりやすくする前提は、また、自分で自分をわかりやすくしてしまう欲望に通じてはいまいか。あるいは、自分で自分がわかってしまったとする傲慢に通じてはいまいか。人はなにか行動しようとするときには、自他に対するわかりやすさをともあれいったんは放棄してしまうほかない。

(4-17)なにかと手を切りたければ、まずそれをとことん相手にすることだ。やがて時間がくる。それより早くは駄目なのだ。手を切る時間をあらかじめ計算などしている者には、なにひとつ結果をもたらさない。

(4-18)感動はただ相手が与えてくれるものではない。自分の側の、瞬間から瞬間へと移り変わっていく意識、もしくは無意識の変化と不可分である。これは受け手側の、一種の化学変化であろう。

(4-19)無知は必ずしも偉大さを意味しないが、偉大さは無知、もしくは単純さを伴っているのが常である。

(4-20)研究論文を書くつもりで、安直な感想文や、センチメンタルな対象への主情の吐露に終わるのが、文学や思想を論じたがる青年の常である。文学部の卒論のたぐいを読めばすぐわかるのだが、ある対象に感激することと、ある対象を自分の言葉で客観化することとは全然別だということが、青年にはどうしてもわからない。

(4-21)多量の知識は人間をときに愚かにする。人生のもっとも肝心な知恵は、知識とは別だし、多く知っていることは、決断をにぶらせる。反省が増大することは、生産的でない。

(4-22)全体を知らずして、部分は存在しない。勿論、人間は全体を容易に知ることはできず、人間の認識は結局は部分にしか及び得ないのかもしれない。部分の中にわずかに全体が象徴的に予感できるだけかもしれない(ランゲを愛読した彼は全体知が容易に得られるとは考えていない)。しかし全体を知ろうとする意欲、もしくは全体への緊張をもし最初から欠いているならば、部分は単なる断片に終わり、知識は瓦礫となんら変わるところはないであろう。

(4-23)背景に闇があってこそ、光点はじめて輝くのである。われわれは過去の人間、とくにヨーロッパのそれを研究する場合に、背景の闇から掘り起こす基礎作業を、あまりにも怠っているのではないか。そして表面に現われた光り輝く結論だけに、あまりにも安易に飛びつきすぎるのではないか。

(4-24)その時代の中で生きている者には後世の人間にはわからない空気がある

(4-25)ただ、いずれにしても、資料はすべてを語り得ず、細かな事実の探求は一人の人間の統一性を解体させ、謎を残すばかりである。人間は複義的に生きている。

出典 全集第四巻 ニーチェ 
第一部
「序論 日本と西欧におけるニーチェ像の変遷史」より
(4-1) (28頁上段「Ⅰ 一八九〇年」)
(4-2) (45頁下段から46頁上段「Ⅱ 一九〇〇年―一九二〇年」)
(4-3) (55頁下段「Ⅱ 一九〇〇年―一九二〇年」)
(4-4) (66頁下段「Ⅲ 第一次世界大戦―一九三〇年」)
(4-5) (73頁上段から下段「Ⅲ 第一次世界大戦―一九三〇年」)
(4-6) (85頁上段「Ⅳ 一九三〇年―第二次世界大戦」)
(4-7) (95頁上段「Ⅳ 一九三〇年―第二次世界大戦」)
「第一章 最初の創造的表現」より
(4-8) (124頁上段から下段「第一節 早熟の孤独」)
(4-9) (135頁上段「第二節 思春期の喪神」)
(4-10)(136頁下段「第二節 思春期の喪神」)
(4-11)(186頁上段「第三節 ヘルダーリンとエルマナリヒ王伝説」)
(4-12)(195頁上段から下段「第四節 音楽と文献学のはざま」)
(4-13)(207頁上段「第四節 音楽と文献学のはざま」)
(4-14)(210頁上段「第四節 音楽と文献学のはざま」)
(4-15)(216頁下段「第五節 書物の世界から自由な生へ」)
「第二章 多様な現実との接触」
(4-16)(254頁上段「フランコ―ニアの夢幻劇」)
(4-17)(263頁上段「フランコ―ニアの夢幻劇」)
(4-18)(288頁下段「ショーペンハウアーとの邂逅」)
(4-19)(296頁下段「第三節 文献学者ニーチェの誕生」)
(4-20)(314頁上段「第三節 文献学者ニーチェの誕生」)
第二部
「第一章 自己抑制と自己修練」より
(4-21)(356頁上段「第二節 ラエルティオスとアリストテレス」)
(4-22)(356頁下段から357頁上段「第二節 ラエルティオスとアリストテレス」)
(4-23)(367頁下段から368頁上段「第二節 ラエルティオスとアリストテレス」)
(4-24)(384頁上段「第三節 恋とビスマルク」)
(4-25)(403頁下段「ライプツィヒの友人たち」)

2084年―想像しても仕方のない話(二) 

ゲストエッセイ
坦々塾会員 河内 隆彌

いまウェブサイトの閲覧や検索履歴、オンライン・ショッピングの購入履歴、街なかで使う各種カードの使用履歴などなどはすべて膨大なデータベースとして、マーケティングに利用されているらしい。いわゆる「ビッグデータ」である。政府当局の成長戦略の一環として、ビッグデータの利用増大は社会的付加価値向上策として大いに推進されている。

これがマイナンバーと結びつくと、われわれの日常生活は丸裸にされてしまう。もちろん、1億2千万国民の全員の記録をとるわけにも行かないだろうが、いざとなれば、個々人を対象にそれが出来る体制になる、ということは薄気味悪い。われわれの目にあまり触れないところで、何か大きな物事が動いているのである。ちょうど防犯カメラ、監視カメラが気が付かないところにおかれて、日々、われわれの行動を見張っているように・・。

人権々、個性々、自由々、自己決定権etc.etc.リベラルと称される人たちがそう叫びつつ、社会的価値はそちらの方にウエイトが置かれるべきである、と思わせながら、世の実像は、自らを呪縛するような方向に動いているとしか思われない。

なるほど世の中は便利になった。1901年に、「100年後の世界」として夢想した事柄はおおむね実現している。たとえば、
無線電話で海外の友人と話ができる
いながらにして遠距離のカラー写真が手に入る
7日で世界一周ができるようになる
空中軍隊や空中砲台ができる
機械で温度を調節した空気を送りだす
電気の力で野菜が成長する
写真電話(テレビ電話)ができる
写真電話で買い物ができる
電気が燃料になる
葉巻型の列車が東京・神戸間を2時間半で走る
鉄道網が世界中に張られる
馬車がなくなり、自転車と自動車が普及する
無教育な人間がいなくなり、幼稚園が廃止され、男女ともに大学を出る

などなど。

いまではあたり前のことが、100年前には大真面目だったのだ。なかにはその後の半世紀ですでに現実となったものもある。100年前の人々のどちらかといえば牧歌的ともいえる夢は今はほとんど手に入るし、それもきわめて安価である。

ところで、現代人は100年後の世界をどのように想像しているのだろうか?いま萌芽期にある3次元プリンター、自動運転車、ドローン、ロボットなどなどはこの先10年位で一層の進化を遂げる予想は立つのだが、それは人間とどのような共生関係を保ってゆくのだろうか?(たとえば、ネット通販、テレビショッピングの蔓延によって、住宅地の狭い路地をクロネコ、佐川、カンガルーなど大小のトラックが駆け巡っている。そこで宅配便業者はドローンの活用を研究しているそうだが、今度はドローンが空中を駆け巡る?次第で、衝突しないか、人間に危害は加わらないのか?と素人は心配する)

本稿の題名「2084年」は、全体主義の悪夢を描いたジョージ・オーウェルの小説、「1984年」のもじりであって、それ以上の何ものでもない。本稿で「2084」という数字自体に何らか意味があるものではない。(「1984年」は、1949年に発表されたので、オーウェルは、35年後の世界を念頭においてこの本を書いた。だとすれば、本稿の題名も、いまから35年後の「2051年」としても一向に差し支えないのだが、そうすると一層何のことかわからなくなる。)「1984年」は、冷戦構造を背景に共産制全体主義国家の非人間性を、当時の物質的技術文明進化の予測を織り交ぜて描いたものだった。人々はその世界では双方向のテレスクリーンによって「ビッグ・ブラザー」と呼ばれる独裁者に常時監視され、命令も受ける。言語はといえば、体制にとって異端とされる思考を表す言葉はすべて廃棄され、最低限の意思疎通に必要な、極端に英語を簡略化したニュースピークの使用が強制されている。したがって人々は反体制的ないし、人間的情緒、感情を表現する手段を持てなくなっている。

いつの時代でも年寄りは、若いものの言葉遣いが気に入らないものだが、昨今の、抑揚の少ない話し方、形容詞の寒い、とか、うまいを、寒ッ、とか、うまッとかいう表現、早口の会話を聞いていると、やはりこれは一種のニュースピークではないか、と思われるのである。(政治家にも一定の言葉の多用が目立つ。たとえば、辞めた舛添前都知事は、「しっかりと・・」を連発、いまの安倍さんは、「~の中においてですね・・」がお好きである。)
全体主義(いまでも北朝鮮、中国などにしっかりと生き残っている)、民主主義の体制如何を問わず、いまの技術文明の趨勢とか、人々の思考の方向からして、わたしには、あまりバラ色ではない、寒々とした近未来の人間世界の光景が思い浮かぶのである。(まかり間違って核戦争で世界が消滅する、ということがないという大前提ではあるが・・)

未来小説、未来コミックなどのジャンルは確立されている様子だが、わたしはいっさいそれらに目を通したことはない。何かジュラルミン色の衣服をまとったものたちが、宇宙を舞台に、光線銃を撃ちまくるようなイメージで、荒唐無稽という先入観がある。(そうでなければご免なさい)わたしはただ、淡々と現状の延長で近未来を推定している。1936年、チャップリンが「モダンタイムス」を制作して、機械文明に翻弄される非人間的な文明を警告したが、その後第二次大戦や冷戦の学習経験を経てなお、その趨勢に変化はなく、むしろ所謂グローバリズムと経済の新自由主義傾向の進展によって、強化されているのではないか?デジタル社会は、利器を操るものと操られるものを分断し、結果的に富の偏在をもたらす。一昨年、OECDは、世界の富裕層と貧困層の所得格差は、1820年代の状況に戻っている、と発表した。

この200年の文明の発達は一体何だったのだろうか?操られている側の人間は日常の安楽、快適を求めて無意識に未来を売り渡してしまったのではなかろうか?ビッグデータにしても、個人情報の漏洩はあるまじきものではあるが、操る側は自ら管理するデータを自由に処理できるわけで、たとえばマイナンバー制度が本格的に稼働すれば、目的別に備えられた(税務、社会保障、医療、銀行、証券、クレジット・カード各社etc.etc.)ホスト・コンピュータを密かにつなげる?ことも可能なような気がする。丸裸にされたわれわれは、まさに「ビッグ・ブラザー」に支配されることになる。
電磁的な記録保存の有効性も疑問の一つである。いまのわれわれは未来に対していかなる遺産を残すことができるのだろう。それはコンピュータのディスクの中に、1と0の信号として「永遠に」残るのだろうか?ひとむかし前のワープロ全盛時代にたくさん残したフロッピー・ディスクを見られる器械はもう存在しない。いまのオペレーション・システムは始終グレードアップされているが、古いもののサポートが終了すると終りとされ、アップデートしない限り続かない。その方法が永遠に継続するのか?古代の記録は粘土板、パピルス、羊皮に残っている。グーテンベルク聖書も残っている。しかし、21世紀文明の行く末を私が見ることは出来ない。以上、想像しても仕方のない話ではあった。

2084年―想像しても仕方のない話(一) 

ゲストエッセイ

(小石川高校昭和29年卒E組文集「復刊礎第8号―平成28年8月10日発行より」)
坦々塾会員 河内 隆彌

人生の先を読まないスマホかな

ある日の昼下がり、テレビのチャネルを変えているとき、どこかの局の川柳の番組で選ばれた?こんな作品が映っていた。一瞬で消えてしまったので、このとおりの表現だったかどうか危ういのだが、趣旨はこのようなものだった。

日頃、電車に乗っていて、向かい側の席が7人掛けだったとして、うち5-6人は同じようなうつむき姿勢でスマホいじり、一人が居眠り、ないしもう一人が読書というのが大方のパターンである。電車がホームに着いて乗り込むときにもスマホを覗いている人は一人二人ではない。ひとむかし前、携帯メールをカタカタならせてメールを打っていた人はいたが、近頃の、みなが押し黙って、指先で小さな画面をトントンと叩いていたり、ベロンベロンと横に滑らせている風景は異様といえば異様である。

別に自分がスマホを持っていないから、というひがみ根性で言っているわけではない。使っている人々も、インターネット、SNS、LINE、メールのやり取り、ゲームなどなど、または電子書籍による読書など、それなりの情報化社会との接し方を実践しているのだろう。一律に画一的なことをしていると批判?しているわけでもない。ただ、うつむいている人々には一様に、いま現在の「情報」に対する「渇望」があり、それを貪欲に充たそうとする心の作用が認められる。むかしから、電車の中で、人は別に深淵なことを考えたりはしないものだが、昨今のスマホ文化の蔓延は、情報からの疎外に対する不安感の裏返しとも思われ、冒頭の川柳は、その辺の機微を表現したものと解釈される。

デジタル・デバイドという言葉がある。デジタル文化に追いつけない「こと」乃至「ひと」のことをいう。わたしは自らをとくに、まったくのアナログ人間と思っているわけではないし、人並みにパソコンを使って、メール、インターネット、YouTubeを楽しんでいる。パソコンは会合の開催、人との待ち合わせ、乗り換え案内などなどに絶大な威力を発揮する。「復刊礎」の発刊もデジタル時代でなければここまで継続できなかっただろう。情報収集でも、たとえば、翻訳作業のとき、原語の読者には自明の事柄だが邦訳の読者には若干の解説を要する所謂「訳注」の作成にあたっても、本来なら図書館に数日こもり切りになるような作業(まずどんな資料に当たるのが近道か、などから考えることに始まって・・)が、数時間で終わってしまう。巻末の参考文献に邦訳があるかどうか、の検索にしても、国立国会図書館のホームページを開いてみれば、大方のことは判明する。文明の「利器」はその限りにおいて活用されるべきことに異論はないが、昨今のデジタル指向は、その域を超え、自己目的化してとどまるところを知らぬげである。自動車、航空機、TV、その他もろもろの、「文明の証(あかし)」である20世紀的発明品とは大いに異なり、いわば人間文明の「乗っ取り」を図るような危険性の匂いを感じる。

教育現場では、今後「デジタル教科書」なるものが取り入れられる気配もある。すでに「電子黒板」はほとんどの学校に導入されているそうだ。黒板消しを教室の入口の扉の上部に挟んでおき、先生が入ってきたときに上から落して、先生の頭に白墨の粉を降らせる、という悪戯の定番も、もう説明したとて理解できない世になるだろう。三年ほど前から、すでに「初等・中等教育におけるプログラミングに関する教育の充実」が、「世界最先端IT国家創造宣言」の一環として閣議決定されていることはあまり知られていない。これは2010年代中に「すべての小・中学校、高校」で教育事業のIT化を実現するという壮大な?政策である。「読み、書き、そろばん」を「検索、入力、計算機」に変えてゆくことはもう国是になっているのである。
実は、今の子供たちの教室の様子も勉強の仕方もよくわかっているわけではないが、通学の行き帰りの小学生たちは相変わらずランドセルを背負っている。少なくともまだ紙で出来た教科書、教材やノートが入っているのだろう。しかし、IT化の国策からすると、もう10年も経つとそのなかみはタブレットになり、どうかするとランドセルそのものも姿を消しているのだろうか?そうして育った子供たちが大人になったとき、電車の中で、新聞や本を読むとはあまり考えられない。ただし読み書きの手段は変ってゆくとしても、コミュニケーションの道具として、文字そのものが消滅することはない筈だ。(絵文字などが別途、進化してゆく可能性はあろうが・・。)物を書く(文字入力)場合は、書き順に留意する必要もなくなり、誤字よりも、変換ミスにさえ注意すればよいことになる。紙に字を書く作業は、もっぱら「習字・書道」の芸術活動に特化してゆくのだろうか?

人工知能(AI)の進化もとどまるところを知らない。すでに決着のついていた将棋の世界を超えて、ついにグーグルの開発したAIのアルファ碁は世界最強の韓国棋士、イ・セドルを4勝1敗で破るまでの能力を備えるに至った。ディープ・ラーニング(deep learning)とかいう手法で、1日に3万局ほどの棋譜を読み込み、自己対局を繰返して、人間であれば悪戦苦闘する試行錯誤を一瞬にして成就してしまうという。将棋にしても囲碁にしても絶対AIに勝てないとなると、プロ棋士になりたいと思う者もそのうちいなくなるのではないか?人間同士で競いあってみても、勝てない相手がどこかに存在していると思えば、しらけてしまうのではなかろうか?いつの日にか紙媒体である新聞も姿を消してしまうとなると、新聞業界がリードしてきた囲碁・将棋が衰退することも目に見えるような気もする。そのかわり、機械同士の対決、すなわちAI開発プログラマー同士の対抗戦がとってかわるのだろうか?

10~20年後には、一般事務員、タクシー運転手、レジ係、警備員、ビル清掃員など、いまの人間の職業の半分ほどをAIやロボットで置き換えることが可能なのだそうだ。少子高齢化、労働人口減少による人手不足の問題はまず心配しないで済むのかもしれない。

社会を大きく変化させてゆく?もう一つの要素にマイナンバー制度がある。当局側には久しい昔から、共通番号で国民を管理しようという欲望があったが、その都度「国民総背番号制」反対という声に打ち消されてきていた。しかし「消えた年金問題」あたりからその声は減衰し、いつの間にやら実現することとなった。(かけ声とは裏腹にナンバーカード発給の事務は停滞しており、当方は抵抗し難しと、今年の1月に一応カード発給を申請したが、いまだに送られてきていない。あまりに遅すぎるので、だれか見知らぬものが、なりすましで手に入れたのかもしれない、という心配もあって窓口である総務省・地方公共団体システムに照会のところ、事務の遅延で8月ころになる予定と聞いた。)

当方のように年金生活者にとっては脱税の隙間もなく、所得、社会保障給付等、どう捕捉されようと全く問題はない。制度が脱税防止、社会保障制度の正確な運用、マネーロンダリングやテロリスト対策など本来の目的に使用されるかぎり、行政の効率向上というスローガンは納得できるし、時節柄已むを得ないものと考えるが、これを伝家の宝刀として、銀行口座、免許証、医療、クレジットカード、ポイントカードなどなど現代社会に氾濫するカード制度にすべて応用せんとする下心が透けて見えるところは大いに問題である。

たとえば過日、高市総務相は、マイナンバーカードにポイントカード機能を持たせる提案を行った。ポイント発行の各社が重複投資を行う必要もないし、人々もカードを一つ持っているだけで済むのできわめて効率的、というのがその理由だった。たしかに、銀行のキャッシュカードや、クレジットカード、病院の診療カード、図書館の利用カード、交通機関のパスもなどなど、日頃財布のなかに充満しているカード類が一枚になれば、たしかに便利は便利である。しかし、便利さは危険と紙一重である。もしカード社会でカードを紛失したり盗難にあったり、なりすましで悪用されたりすれば、被害はこれまでのものとはスケールが違ってくるだろう。もちろん、そのためには各種の差止手続や窓口の拡充、保険類の発達はあるだろうが、ナンバーカードの使用を一遍に拡大しようとすれば世間の猛反対を浴びるだろう。しかし、その拡大が知らず知らずのうちに少しずつ進展するとすればどうだろうか?わたしは今の風潮からすれば、そちらの方向が極めてありそうな気がする。世の中便利になりましたね、などとノホホンとしていると巨大なお釈迦様の掌の上で踊らされていることには気がつかなくなる。

つづく