2084年―想像しても仕方のない話(一) 

ゲストエッセイ

(小石川高校昭和29年卒E組文集「復刊礎第8号―平成28年8月10日発行より」)
坦々塾会員 河内 隆彌

人生の先を読まないスマホかな

ある日の昼下がり、テレビのチャネルを変えているとき、どこかの局の川柳の番組で選ばれた?こんな作品が映っていた。一瞬で消えてしまったので、このとおりの表現だったかどうか危ういのだが、趣旨はこのようなものだった。

日頃、電車に乗っていて、向かい側の席が7人掛けだったとして、うち5-6人は同じようなうつむき姿勢でスマホいじり、一人が居眠り、ないしもう一人が読書というのが大方のパターンである。電車がホームに着いて乗り込むときにもスマホを覗いている人は一人二人ではない。ひとむかし前、携帯メールをカタカタならせてメールを打っていた人はいたが、近頃の、みなが押し黙って、指先で小さな画面をトントンと叩いていたり、ベロンベロンと横に滑らせている風景は異様といえば異様である。

別に自分がスマホを持っていないから、というひがみ根性で言っているわけではない。使っている人々も、インターネット、SNS、LINE、メールのやり取り、ゲームなどなど、または電子書籍による読書など、それなりの情報化社会との接し方を実践しているのだろう。一律に画一的なことをしていると批判?しているわけでもない。ただ、うつむいている人々には一様に、いま現在の「情報」に対する「渇望」があり、それを貪欲に充たそうとする心の作用が認められる。むかしから、電車の中で、人は別に深淵なことを考えたりはしないものだが、昨今のスマホ文化の蔓延は、情報からの疎外に対する不安感の裏返しとも思われ、冒頭の川柳は、その辺の機微を表現したものと解釈される。

デジタル・デバイドという言葉がある。デジタル文化に追いつけない「こと」乃至「ひと」のことをいう。わたしは自らをとくに、まったくのアナログ人間と思っているわけではないし、人並みにパソコンを使って、メール、インターネット、YouTubeを楽しんでいる。パソコンは会合の開催、人との待ち合わせ、乗り換え案内などなどに絶大な威力を発揮する。「復刊礎」の発刊もデジタル時代でなければここまで継続できなかっただろう。情報収集でも、たとえば、翻訳作業のとき、原語の読者には自明の事柄だが邦訳の読者には若干の解説を要する所謂「訳注」の作成にあたっても、本来なら図書館に数日こもり切りになるような作業(まずどんな資料に当たるのが近道か、などから考えることに始まって・・)が、数時間で終わってしまう。巻末の参考文献に邦訳があるかどうか、の検索にしても、国立国会図書館のホームページを開いてみれば、大方のことは判明する。文明の「利器」はその限りにおいて活用されるべきことに異論はないが、昨今のデジタル指向は、その域を超え、自己目的化してとどまるところを知らぬげである。自動車、航空機、TV、その他もろもろの、「文明の証(あかし)」である20世紀的発明品とは大いに異なり、いわば人間文明の「乗っ取り」を図るような危険性の匂いを感じる。

教育現場では、今後「デジタル教科書」なるものが取り入れられる気配もある。すでに「電子黒板」はほとんどの学校に導入されているそうだ。黒板消しを教室の入口の扉の上部に挟んでおき、先生が入ってきたときに上から落して、先生の頭に白墨の粉を降らせる、という悪戯の定番も、もう説明したとて理解できない世になるだろう。三年ほど前から、すでに「初等・中等教育におけるプログラミングに関する教育の充実」が、「世界最先端IT国家創造宣言」の一環として閣議決定されていることはあまり知られていない。これは2010年代中に「すべての小・中学校、高校」で教育事業のIT化を実現するという壮大な?政策である。「読み、書き、そろばん」を「検索、入力、計算機」に変えてゆくことはもう国是になっているのである。
実は、今の子供たちの教室の様子も勉強の仕方もよくわかっているわけではないが、通学の行き帰りの小学生たちは相変わらずランドセルを背負っている。少なくともまだ紙で出来た教科書、教材やノートが入っているのだろう。しかし、IT化の国策からすると、もう10年も経つとそのなかみはタブレットになり、どうかするとランドセルそのものも姿を消しているのだろうか?そうして育った子供たちが大人になったとき、電車の中で、新聞や本を読むとはあまり考えられない。ただし読み書きの手段は変ってゆくとしても、コミュニケーションの道具として、文字そのものが消滅することはない筈だ。(絵文字などが別途、進化してゆく可能性はあろうが・・。)物を書く(文字入力)場合は、書き順に留意する必要もなくなり、誤字よりも、変換ミスにさえ注意すればよいことになる。紙に字を書く作業は、もっぱら「習字・書道」の芸術活動に特化してゆくのだろうか?

人工知能(AI)の進化もとどまるところを知らない。すでに決着のついていた将棋の世界を超えて、ついにグーグルの開発したAIのアルファ碁は世界最強の韓国棋士、イ・セドルを4勝1敗で破るまでの能力を備えるに至った。ディープ・ラーニング(deep learning)とかいう手法で、1日に3万局ほどの棋譜を読み込み、自己対局を繰返して、人間であれば悪戦苦闘する試行錯誤を一瞬にして成就してしまうという。将棋にしても囲碁にしても絶対AIに勝てないとなると、プロ棋士になりたいと思う者もそのうちいなくなるのではないか?人間同士で競いあってみても、勝てない相手がどこかに存在していると思えば、しらけてしまうのではなかろうか?いつの日にか紙媒体である新聞も姿を消してしまうとなると、新聞業界がリードしてきた囲碁・将棋が衰退することも目に見えるような気もする。そのかわり、機械同士の対決、すなわちAI開発プログラマー同士の対抗戦がとってかわるのだろうか?

10~20年後には、一般事務員、タクシー運転手、レジ係、警備員、ビル清掃員など、いまの人間の職業の半分ほどをAIやロボットで置き換えることが可能なのだそうだ。少子高齢化、労働人口減少による人手不足の問題はまず心配しないで済むのかもしれない。

社会を大きく変化させてゆく?もう一つの要素にマイナンバー制度がある。当局側には久しい昔から、共通番号で国民を管理しようという欲望があったが、その都度「国民総背番号制」反対という声に打ち消されてきていた。しかし「消えた年金問題」あたりからその声は減衰し、いつの間にやら実現することとなった。(かけ声とは裏腹にナンバーカード発給の事務は停滞しており、当方は抵抗し難しと、今年の1月に一応カード発給を申請したが、いまだに送られてきていない。あまりに遅すぎるので、だれか見知らぬものが、なりすましで手に入れたのかもしれない、という心配もあって窓口である総務省・地方公共団体システムに照会のところ、事務の遅延で8月ころになる予定と聞いた。)

当方のように年金生活者にとっては脱税の隙間もなく、所得、社会保障給付等、どう捕捉されようと全く問題はない。制度が脱税防止、社会保障制度の正確な運用、マネーロンダリングやテロリスト対策など本来の目的に使用されるかぎり、行政の効率向上というスローガンは納得できるし、時節柄已むを得ないものと考えるが、これを伝家の宝刀として、銀行口座、免許証、医療、クレジットカード、ポイントカードなどなど現代社会に氾濫するカード制度にすべて応用せんとする下心が透けて見えるところは大いに問題である。

たとえば過日、高市総務相は、マイナンバーカードにポイントカード機能を持たせる提案を行った。ポイント発行の各社が重複投資を行う必要もないし、人々もカードを一つ持っているだけで済むのできわめて効率的、というのがその理由だった。たしかに、銀行のキャッシュカードや、クレジットカード、病院の診療カード、図書館の利用カード、交通機関のパスもなどなど、日頃財布のなかに充満しているカード類が一枚になれば、たしかに便利は便利である。しかし、便利さは危険と紙一重である。もしカード社会でカードを紛失したり盗難にあったり、なりすましで悪用されたりすれば、被害はこれまでのものとはスケールが違ってくるだろう。もちろん、そのためには各種の差止手続や窓口の拡充、保険類の発達はあるだろうが、ナンバーカードの使用を一遍に拡大しようとすれば世間の猛反対を浴びるだろう。しかし、その拡大が知らず知らずのうちに少しずつ進展するとすればどうだろうか?わたしは今の風潮からすれば、そちらの方向が極めてありそうな気がする。世の中便利になりましたね、などとノホホンとしていると巨大なお釈迦様の掌の上で踊らされていることには気がつかなくなる。

つづく

“2084年―想像しても仕方のない話(一) ” への 2 件のフィードバック

  1. ;

    意思を伝えるのが、文字や言葉・音で在り。

    それを学問に据えたのが人類。

    AI が齎す学問はシュミレーションと場の提供。

    扱うのは人、繋がり方はその人次第。

    *

    13:03

    子路
    .

  2. ;

    こんばんは!!

    ・・・戯言なのですが、

    「おい、その辺で止めとけよ。」_とか、仲裁する人は居ないのでしょうか?

    世界の警察みたく大袈裟な規模ではなく、日々の日常の生活でもです。

    和解は素晴らしく、面倒だから法律に丸投げしてたら生き難くもなりますよ。

    *

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