最近困っていること

 必要があって2010年から今日までの私の出版記録をまとめてみた。私がこのところ記録を失っていたので、長谷川さんに整理してもらったら次のようになった。「めちゃめちゃ忙しいはずですよネ」と書いてこられた。

2010年 6月  草思社 日本をここまで壊したのは誰か
2010年 7月 徳間書店 GHQ焚書図書開封4
2010年 11月 祥伝社新書 尖閣戦争 (青木共著)
2010年 12月 総和社 西尾幹二のブログ論壇
2011年 7月 徳間書店 GHQ焚書図書開封5
2011年 10月 国書刊行会 全集第五巻『光と断崖』
2011年 11月 徳間書店 GHQ焚書図書開封6
2011年 11月 文芸春秋 平和主義ではない脱原発
2012年 1月 新潮社 天皇と原爆
2012年 1月 国書刊行会 全集第一巻『ヨーロッパの個人主義』
2012年 4月 国書刊行会 全集第二巻『悲劇人の姿勢』
2012年 7月 国書刊行会 全集第三巻『懐疑の精神』
2012年 8月 徳間書店 GHQ焚書図書開封7
2012年 10月 国書刊行会 全集第四巻『ニーチェ』
2012年 12月 飛鳥新社 女系天皇問題と脱原発 (竹田共著)
2012年 12月 祥伝社新書 第二次尖閣戦争 (青木共著)
2012年 12月 徳間書店 自ら歴史を貶める日本人(四人の共著)
2013年 2月 国書刊行会 全集第六巻『ショーペンハウアーとドイツ思想』
2013年 4月 飛鳥新社 中国人に対する「労働鎖国」のすすめ
2013年 5月 国書刊行会 全集第七巻『ソ連知識人との対話/ドイツ再発見の旅』
2013年 7月 ビジネス社 憂国のリアリズム
2013年 8月 徳間書店 GHQ焚書図書開封8
2013年 9月 国書刊行会 全集第八巻『教育文明論』
2013年 12月 ビジネス社 同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説く時がきた
2014年 2月 国書刊行会 全集第九巻『文学評論』
2014年 3月 徳間書店 GHQ焚書図書開封9
2014年 6月 国書刊行会 全集第十四巻『人生論集』
2014年 8月 新潮社 天皇と原爆(文庫)
2014年 8月 徳間書店 GHQ焚書図書開封10 予定

 最後の一冊は「維新の源流としての水戸学」かまたは「イギリスの地球侵略」のいずれかとなる。

 こうやって一覧してみると、全集が始まってから以後、私はろくな仕事をしていない。全集の刊行に良質の部分のエネルギーをほゞ吸い取られている。新生面を開くような企てがなされていない。このほかに『正論』連載があるからもう仕方がないともいえるが、人生最後の局面に新味の出せないこんなことでは情けないと思う。

 全集はたしかに容易ではない。精力の6~7割はこれに注がれている。しかもここへ来て編集上の困難とぶつかって立ち往生している。1980年代から以後の自分については「年譜」を先に作らないと、前へ進めないことが判明した。

 「年譜」とは各年・各月の寄稿記録・活動記録のことである。大学教師時代の最後の8年間は大学紀要に詳細な報告がなされている。国立国会図書館に約800篇の拙文が貯蔵されていて、うち166篇がある方の協力を得てすでにプリントアウトされている。各単行本の巻末にある初出誌一覧表を参考にする必要もある。現代日本執筆者大事典というのもある。それも利用する。新聞寄稿文は切り抜きスクラップが存在する、等々、いろいろ手はあるが、簡単ではない。

 はじめ私は大学ノートに書きだしていくか、もしくはカードを作成しようかと思ったが、これは古い世代のくせで、今ならパソコンを用いるのが最善であろう。ところがこれが私はまた苦手で、難関である。

 どうしてよいか分らないで昨日今日、呆然として手を拱いている。

 今までは私の若い時代が対象だったので自分の過去の仕事はよく把握されていた。巻が進み、1980年代より以後、そうは行かなくなってきた。

 今まで「教育」とか「文学」とか「人生論」とか、ブロック化できるものはまとめ易いので10回配本まで何とか乗り越えてきたが、いよいよそうは行かなくなって、途方に暮れている。

 とにかく「年譜」を先に作ってそれからでないと作品の読みと選択を行えないのが本当に頭が痛くなるほど辛いのである。

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第八回)

36) 懐疑とは決断である。既知のことばを警戒する行動力である。
信ずる力があるからこそ、信じまいとする意志が可能となる。懐疑の反対は信仰ではなく、むしろ軽信である。疑ってばかりいてなに一つ行動ができないのは、疑っているのではなく、はじめから信ずる力をもたないから、なんでも信じ、なんでもゆるせるふりができるのだ。できあいの思想への無防備、軽信ぶりが全土をおおう所以である。

37)美徳ということばがあるが、やはり日本人にとって美意識がすなわち道徳なのではないだろうか。それが日本人の強さでもあるが、美は政治的な批判力にはなりにくい。美を基本とする道徳は、どうしても戒律や原理を基本とする道徳よりは弱いのである。

38)現代は知力はあっても、知性がない時代だ。現代の知性には節度と倫理性と想像力が欠けているのである。

39)人間は自分ひとりで、自分を支配することができない存在なのだろう。そんなに強い存在ではないのであろう。

40)われわれは生活の支配者であるつもりで、結果的には生活に支配されている。

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
36) P349下段より 
37) P364上段より
38) P369下段より
39) P402上段より 掌編 留学生活から
40) P410上段より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第七回)

31)教会の道徳と、世俗社会の道徳と、この二つはいわゆる政教分離以来、相関関係にあり、一つの社会に、二つの道徳が同時に並行して存在することが、道徳の画一化を救う要因となっていることは確かである。人々はつねに、絶対の世界と、相対の世界と、この二つに同時にまたがって生きることを要請される。

32)世捨て人の、すね者の孤独は、結局は人恋しさの裏返しでしかないだろう。敗北者の孤独は、人一倍に権力欲が旺盛だということでしかないだろう。

33)不安や恐怖は、他のいっさいの善なる感情より、積極的な感情である。そして不安や恐怖が、敵意や復讎心をはじめとする不合理な感情の母胎である。そして不合理な感情は、いつの時代にも、理性より積極的である。

34)外交は自他双方の悪の是認からしか出発しようがない。自分の愚かさと弱さを知ることも、一つの強さである。他人の悪をおそれ、避けるためには、自分の悪の自覚をも深めておかなくてはならない。善を行なうこともまた、悪の一手段であり、ときには自覚的に悪を犯すことが、善となる
 外交の場には絶対善も絶対悪も存在しない。

35)人間は束縛や桎梏(しっこく)を打ち破っても、自由にならない。人は不自由にぶつかってはじめて、自由の何であるかに触れうるのである。

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
31) P313下段より
32) P316上段より
33) P320上段より
34) P329上段より
35) P338下段339上段より

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第六回)

26)自動車や電気冷蔵庫やテレビの普及率の高さは人間の「幸福」とはなんの関係もないし、個人の生き方、あり方の充実というものを離れて「幸福」を考えられない以上、戦争にいたる八十年間は不幸の連続であって、戦後はしばらく幸福で、今また不幸がしのびよっているなどという政治的煽動家に特有の機械論的人間観に私は与(くみ)する気になれない。
 それではあまりに人間の主体性というものがなさすぎるではないか。

27)人間はどんなに不幸な時代にも、幸福を求めるものだし、また幸福になりうる存在なのである。また、外見上どんなに繁栄して幸福にみえる時代にも、いや、そういう時代であればこそ、かえって幸福になることはむずかしい。

28)自律とは、解放によってははたされない。むしろ帰属によってはたされるべき性格のものである。ただ、帰属とは同化であってはならない。自分と他人との区別を曖昧にし、肌暖め合う家族主義的集団のなかに没入し、同化することは、決して帰属にならない。

29)われわれはつねに複眼を要求される。

30)どんな個人もエゴイズムをもっている。他者配への欲望をもっている。「個人」の解放とは、原理的には、仮借ない自己拡張欲に火をつけることであり、その行きつく先はアナーキズムしかない。しかしまた一方では、個人はつねづねなにかある全体的なものに帰属したいという欲望し支配されてもいる。個人はなにものかに奉仕し、隷属することによって、自分のエゴイズムを滅却し、そうすることで、はじめて、ある精神的な安定を得たいと念願するものである。一方には自我の拡大欲があり、他方には自我の止揚と救済への意志がある。われわれは人間性の根本に根ざすこの二つの相反する矛盾した方向に引き裂かれつつ、自分の生の安定と統一を保っている

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
26) P254上段より
27) P254下段より
28) P282上段下段より
29) P288上段より
30) P295上段下段より

他ブログより

私の講演「日米戦争とその背後にある西欧500年史」は全三回放映されますので、ゆっくり見ていたゞくとして、その前に当ブログの管理人長谷川真美さんが16日に強く訴えた一文をご自身のブログに掲げました。共鳴協賛いたしますので、今日これをお示しします。

美容院で

女性自身最新号5月27日号(2633号)をぱらぱらめくっていて、
おっと驚いた。

沖縄の竹富町の記事だ。

女子中学生二人、男子中学生三人、
挟まれて小柄なちょっと年齢が多い女性の写真。

育鵬社の教科書を採択したのに、
寄付で集めたお金で東京書籍を使っているという、あの竹富町!

あんまり腹がたったので、出版社の光文社に抗議の電話をした。
そして、まとめた文章を書くことにした。

つっこみどころ満載の記事なんだけど、
むかむかして、
なかなかまとまらない。

いちばん腹立たしいのは、
子供たちの写真を掲載して、中学生を楯にしているところだ。

=================
美容院でたまたま女性週刊誌「女性自身」を見ていて、びっくりした。芸能人のあれこれが90パーセントの内容の中に、沖縄竹富町の教科書問題が「シリーズ人間」というコーナーで7ページに渡って取り上げられている。

女子中学生が二人、男子中学生が三人、その間に元教師で84歳の沖縄戦の語り部といわれるおばあさんがスクラム組んだ写真が、2ページにまたがって大きく掲載されている。そしてその上に重なって主題を訴えているのは、特大の文字の「中国より安倍さんがこわいです」。

竹富町の新聞沙汰になっている問題のポイントは、教科書無償措置法の中で、八重山地区の採択協議会で同一の教科書を使わなければならないという決まりに、竹富町だけが従わず、異なる教科書を使用していることなのだ。だから文科大臣が「大変遺憾」と言ったのである。もう一度強調しておこう。法令に則っていないことを「遺憾」と言ったのだ。文科省が育鵬社版を押し付けているのではなく、八重山地区で法令に則って決まったのが育鵬社版だから、法令に従えと言っているだけであり、そのことをまるで国家の圧力呼ばわりである。

本当の問題点にはほとんど触れず、まるでつくる会系の教科書を子供たちに使わせたら、再び「また子や孫が戦争にとられるの?」式の、平和念仏教の一種のためにする記事である。

つくる会系の教科書を、憲法改正やアジア地域の緊迫化を強調する、好戦的とも取れる教科書と決めつけている。好戦的とは何をさしているのかと思ったら、尖閣問題を取り上げているからのようだ。そしておそらく憲法改正が九条に関わるから、自衛隊を軍隊と位置付けることが好戦的ということになるのだろう。

現在、アジア地域が中国の強引なやり方に、緊迫の度を増しているのは周知の事実だ。ベトナムも、フィリピンもそうだし、日本にとって、尖閣問題は中国からの挑発そのものである。力を誇示して圧迫してきているのは中国であるのに、それに対抗した力を準備してはいけないということらしい。

沖縄戦の語り部という仲村貞子さんの語っている内容は支離滅裂である。そして、それをそのまま記事にしている女性自身の記者もものごとの道理が全く分かっていないように思える。

たとえば、「『死ね』と強要したのは日本人で、生かしてくれたのが『鬼畜』と教えられた米兵だったのだ。」というが、火炎放射器で洞窟に隠れていた沖縄の日本人を焼き殺していったのは米兵だ。町のそこらじゅうに死体が転がっていたといっているが、民間人も区別なく殺していったのは米兵だったのに、矛盾していないか。

沖縄の人が一人でも多く助かるように疎開させたのに、それが死者を増した原因であるかのように言う。

沖縄を欲しがっている中国にとって、この「女性自身」の記事は大歓迎の内容だろう。

女性自身はごくごく普通のおばちゃんが読む雑誌だ。こんないい加減な記事を書いて、竹富町の教科書問題はそういうことかと思ったらどうする。

「戦争は殺すか殺されるかですよね。そんなことにならないように頑張らなきゃ」
というなら、力には力を準備しなければならない。抑止力を持たなければ、やられっぱなしの悲惨さを味わうだけになるではないか。元寇のときに対馬の人々がほとんど皆殺しにあったようなむごいことにならないためにも、中国から近い沖縄が、守りの防波堤になってしまうのは必然ではないか。二度と沖縄が犠牲にならないようにするためにも、憲法九条を改正し、普通の国として手足を縛っていた鎖をほどき、日本だって無茶なことをしたら報復するぞという意思を示し、相手が手出しをできないようにしなければならない。

沖縄のためにこそ、つくる会系の教科書が必要なのだ。

「教科書問題は政治的・戦略的に位置づけられているんじゃないかと思う」と言っている人がいるが、
まさにそのとおり、そうやって今まで戦後教育がゆがめられてきたのだ。

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第五回)

21)なにか他を見るということは、その外側に目をさらしていることではなく、他から見られている自分を見ることであり、また、見ている自分を見ることを通じて、他を見ることなのである。言うは易いが、まことにこれほど難かしいことはない。

22)人はつねに自分にとって切実なことのみを語らねばならぬ。私には私自身に見えることしか見えない。君がもし、未来の世界についてかくあるべきと確信がもてるなら、そのような世界は、君にとって、生きる価値のない世界であることを知るがよい。もし未来が光輝あるものでなければならないと決まっていたら、君はいますぐ絶望するしかない。一寸先は闇である。だから生きるに値するのである。現実を解釈してはならない。君の隣人が善意でなかったことを怒る前に、なぜ君は自分の悪意に気がつかないか、自分の失敗を社会の罪にする前に、なぜ君は、成功だけは自分のせいにしたがる自分の弱さに気がつかないか。

23)もし現実の不平等にぶつかって腹をたてる人がいたなら、その人の意識はすでに平等である。平等でなければ腹が立つはずもない。

24)民主主義とは、人間相互のエゴイズムを調和させるために、ほかに仕方がないから、ある妥協の方法として生まれた消極的、相対的な政治形態でしかないのである。放置しておけば人間の欲望には際限がなく、エゴイズムの衝突は、必ず無政府状態か専制独裁か、そのいずれかに結果するしかないが、誰しも他人を独裁者にさせたくないという自分のエゴイズムをもっている。民主主義は、そういう相互のエゴイズムの調節手段としての、最悪よりも次善を選ぶ妥協の産物として成立したにすぎない。

25)人間はけっして平等にはなれない存在なのである。西洋ではそれは常識である。不平等を是認したうえで、それぞれが閉ざされた幸福を築くことをめざしていない日本のような社会では、優勝劣敗は歪んだ心理で意識下にもぐり、ただ欲求不満だけがときとして正義の仮面を被って他人への羨望の焔(ほのお)に身を焼きつくすことになろう。

出展 全集第一巻 
21) P221下段より ヨーロッパ像の転換
22) P225  ヨーロッパの個人主義
23) P235下段より ヨーロッパの個人主義
24) P241上段より ヨーロッパの個人主義
25) P244下段より ヨーロッパの個人主義

高橋史朗氏の本の書評

日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと 日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと
(2014/01/29)
高橋史朗

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日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと
高橋史朗著(致知出版)  評・西尾幹二

作られた対日誤解や偏見

 共産党の国際機関であるコミンテルンの歴史観は日清・日露戦争も含めて日本の近代そのものを侵略戦争の歴史だと考えていた。アメリカは戦後、そんな共産主義者を利用して占領政策を実施した。日教組をつくったのもその一つだが、ソ連のコミンテルン史観とアメリカの「太平洋戦争」史観が合体し、戦後日本の歴史教育の基本となった。日本人はいわば「義眼」をはめられ、それ以来70年も外せずに今日に至っている、と著者は言い、次々と気づかないで来た事例を挙げている。

 原爆投下に対しトルーマン大統領は「獣と接するときは相手を獣として扱わねばならない」と言ったそうだ。占領軍は欧米の帝国主義への批判は許さず、「日本人は生まれつき攻撃的・侵略的・軍国主義的な国民」であると決めつけた。たくさんの日本語の使用を禁じた。「国体」や「皇国の道」の禁止は知られているが、「国家」「国民」「わが国」が禁じられていたとは私も知らなかった。「わが国」の「わが」は愛国心に繫がるからだそうである。

 臆病なまでに占領軍に気がねし自主規制したケースとして「君が代」を音楽の教科書に載せなかった文部省の例がある。敗戦の衝撃の心理現象と見るが、アメリカでは日本人の民族的性格をフロイト流に病理学的に解釈したルース・ベネディクト『菊と刀』にみられる誤解と偏見が戦中にすでに設定されていた。日本は女性蔑視の国とか、弱者虐待の国とかいう思い込みが先にあり、それが「伝統的攻撃性」を生んだと勝手な解釈に及んでいた。

 本書が、ジェフリー・ゴーラーという社会人類学者の日本人の国民性の矛盾分析、乳幼児期の厳しい用便の躾(しつけ)(トイレット・トレーニング)に矛盾の原因があるとする、首を傾(かし)げたくなるような分析を取り上げ、ベネディクトへの影響を論究しているのは新発見である。

著者は本書を中国に起こった『菊と刀』ブームから書き始めている。欧米人の対日誤解や偏見は中国に受け継がれている。否、中国人は受け継ぎたがっている。そこに現代への本書の問いかけがある。

出展 産経新聞4月6日