本年(平成25年)10月4日午后6時30分より、市ヶ谷ホテルグランドヒルにおいて、宮崎正弘さんの出版記念が行われました。
発起人代表として私が僭越ながら最初に祝辞を述べさせていただき、次いで熊坂隆光産経新聞社長の祝辞があり、呉善花氏、日下公人氏と挨拶がつづき、村松英子氏の音頭で乾杯がなされました。そのあと宮崎氏自身の謝辞があり、しばらく休憩食事となりました。
スピーチが再開され、じつに賑やかで豪華な顔触れでした。井尻千男氏、加瀬英明氏、池東旭氏、中村彰彦氏、高山正之氏、宮脇淳子氏、黄文雄氏、ベマ・ギャルボ氏、田母神俊雄氏、水島総氏、堤堯氏。ここで時間切れとなり、予定されていた各種エキジビションはとり止めとなりました。最後に花田紀凱WiLL編集長が中締めを行い、藤井厳喜氏の元気のいい三本締めで8時30分にお開きとなりました。
しかしこれで終わらず、有志40名余が10時30分ごろまで同館内の別室で二次会を行い、カラオケ大会を開き、田母神氏の自衛隊を讃える(女性には聞かせられない)歌が拍手喝采でした。
さて、私の冒頭の祝辞は、次の通りの内容です(全文)。
宮崎正弘さん、おめでとうございます。
今日は宮崎さんの現代中国研究の恩恵をこうむり、感謝し、かつ感嘆している方々がここに多数お集まりだろうと思います。私もその一人です。宮崎さんの中国研究はすべて自ら脚で歩いて、見かつ聞いた現地情報を基本とし、それに中国語、英語のメディアからの驚くほど多数の情報をもの凄いスピードで日夜読みこなし、あの有名なメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」――本日10月4日で4037号を数えますが――にほゞ毎日、旅行中以外は休むことなく、ときに同じ日に2度3度と出すこともあり、ここで確認した情報をさらに整理し、ご自身の文明観や国際政治観を書き込んで、次々と本を出され、今日ここに160冊目となる一冊「出身地を知らなければ中国人は分からない」が出て、それを記念し、祝福したく、友人知人がこの場所に相集まった次第です。
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」は主に21世紀に入ってから書かれたもので、それ以前にも中国論は書かれていますが、この15年ほど広範囲の人々、政界・言論界はもとより、メディア以外にも学者や一般読者にも、中国が日本人にとって重大になるにつれてきわめて大きな影響力を発揮してきました。何より中国の全州に足を踏み入れ、いたるところを踏破し、新幹線ができてくればこれに全線全部乗り、北京と上海しか見ていない新聞記者顔負けの行動力で、どれくらい人の目を開かせ、日本人の知見を広めたか分りません。新聞社の中国特派員が宮崎さんのメルマガを見て書いていると聞いたことがあります。さもありなんと思いました。
宮崎さん以後、若い現代中国研究家が続々と出現しました。今日お集まりの皆様の中にもいらっしゃると思います。ある人は、世界各地にあふれ出し、欧州アメリカその他をボロボロにするほどに迷惑をかけている中国人移民の生態とその政治的なトラブルを主なテーマにしています。またある人は中国人労働者、農民工の生活の苦しい内実、ことに中国人女性の暮らしぶりやものの考え方について数多くの観察レポートを書いています。またある人は中国と日本政府、官僚、財界人の不正なつながりに光を当て、中国進出の日本企業の陥った非情なる苦境につい徹底的に追及しています。こうした多士済々な活動は、宮崎さんが一度は何らかの形で手を着け、すでに発言し、展開しているテーマのうちにありますが、しかし宮崎さんひとりでは追い切れない特殊テーマの個別的研究といった体のもので、よく考えると宮崎さんが広げた大きな展開図の中で、単身では及ばなかったテーマの個人的追究といったものであって、宮崎さんはいわば現代中国研究の総合的役割を果してきたのだなと思い至るのであります。後から来た世代は宮崎さんの仕事を横目で見て、それと重ならぬように、そこから漏れたテーマに焦点を絞って、意図的に個別の研究をすすめてきました。宮崎さんの中国ウォッチングはそれらの人々の前提であり、先駆でした。すなわち宮崎さんは黙って一つの「役割」を果していたのだな、と今にして思い至るのであります。
私自身は中国の現場についてほとんど何も知らず、160冊のご成果のあれこれについて意見を述べるのもおこがましく、今日お集まりの方々から各著作の特質について、専門的見地からの的確なお話が伺えるものと思います。だが、それほど重要な宮崎さんの現代中国探査報告、権力の中枢から市井の人々の呼吸まで伝えているレポートの数々は宮崎さんの著作活動の最初から存在したものではありません。今日入口で皆さまにお渡しした著作リストがありますね。後から前へと制作順が逆並びになっていて、最新作がトップに来ています。
これを見ますと1971年三島論が処女出版で、中国論が出版されたのは32冊目、1986年です。その一冊からまた飛んで、15年間中国論はなく、次は1990年の28冊目にやっと二冊目の中国論が書かれています。そういうわけで、中国論がたくさん書かれるようになったのは2001年より後です。2001年から今日までの68冊のうち45冊が中国ものとなります。私がお知り合いになったのはそれより少し後です。
では、それ以前の宮崎さんは何をしていたのか。経済評論家であり、アメリカ論者であり、資源戦略や国際謀略などに詳しいグローバルな動機を基礎に置いた国際政治に関する著作家でした。
私は成程と思いました。中国語の読み書きはもとより、英語の能力が高い。新聞雑誌の英語をもの凄いスピードで読む。メディアの英語は学校英語と違って、背景の広い国際知識をもたないと読めないもので、難しいのです。びっくりするのは世界の無数の政治家、経済人の名前をつねに正確にそらで覚えている。欧米人だけではありません。中東から中央アジアの政局にも詳しく、キルギスとかトルクメニスタン、あのあたりに政変があると、片仮名で書いても長くて舌を切りそうになる固有名詞をそらで覚えていて、次々と出す。パソコンを片端から叩いて、何も見ていないのでしょう。全部頭に入っている。これにはたまげます。
宮崎さんはどういう時間の使い方をしているのだろうか? いろいろな人の本を次々と書評もしている。私と同じ時期に送られてくる新刊本、整理べたの私がまだ本の封筒の袋を開けていないときに早くも宮崎さんのメルマガの書評欄にその本の書評がもう出ている。一体どうなっているのか。宮崎さんはどういう時間の使い方をしているのだろうか。ほとんど怪物だと思うこと再三でした。記憶力抜群、筆の速度の天下一、鋭い分析力と時代の動きへの洞察力――もう負けたと思うこと再三でした。
中国論は世に多いが、経済の理法を知らなければ今の中国は論じられません。また逆に、中国の動向を正確に観察していなければ、今の世界経済は論じられません。宮崎さんの仕事は世に出るべくして出て来たのです。
昭和前期に長野朗と内田良平という蒋介石北伐時代の中国ウォッチャーがいますが、宮崎さんはどちらが好きで、どちらが自分に似ているとお考えでしょうか。一度きいてみたいと思っています。どちらも愛国者ですが、長野朗は農本主義者で、内田良平は日本浪漫派風の国士でした。私は内田良平のほうに似ているのではないかな、などと考えています。
宮崎さんは人情に篤い。多くの人のために出版記念会の舞台づくりをして下さいました。私もその恩恵に与った一人です。友人思いです。友人の死はもとより、その奥様が急死なさる――そういうとき彼は自分の仕事を捨てて飛んで行きます。友人のために働き、友のために気配りし、自分のスケジュールを犠牲にしてもいとわない。
私はいつも思うのです。あの「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケズ・・・・・・東ニ病気ノ子ガアレバ行ツテ看病シテヤリ」そうなのです。本当にそうなのです。「丈夫ナカラダヲ持チ、欲ハナク、決シテ怒ラズ、イツモ静カニ笑ツテイル」・・・・・
本当にそうなのです。仲間で言い合いがあって、少し激しくなってくると、宮崎さんはいつも茶化すような、思いがけない方角からの茶々を入れてみんなを笑わせ、一座の興奮を鎮めてしまう人です。
「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」・・・・・宮崎さんの場合は玄米ではなく「一日ニ焼酎四合」と言い直したらいいでしょう。そして「少シノ野菜ヲ食ベ」というのは本当で、宮崎さんは飲み出すと物を食べない。これはいけない。健康に悪い。それからもうひとつ煙草を吸いながら酒を飲む。これもいけない。われわれが止めろといくら言ってもきかないのです。
宮崎さんの生活行動は文学者のそれで、日本浪漫派の無頼派の作家、破滅型の作家のモラルに似ている処があって、そこが心配です。最近は酒の量が少し減っているように見受けます。メルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」の欄外に飲み歩きの記録、消息案内があるのですが、最近その記事がいくらか減っているようで心配です。二、三年前には、西荻窪から中央線に乗って途中で降りないで眠ったまま東京駅まで行ってしまうようなことがありましたが、いくら何でももうそんな無茶はしないで、大事にしていたゞきたいと思います。