台風一過

 今日も32度になり猛暑日がつづくとか、今夜も熱帯夜だとかいわれていたのはつい先日のことだった。あっという間に寒い季節に入り、不思議な気がしている。

 「戦争史観の転換」(正論連載)の5回目を書いた。第二章「ヨーロッパ500年遡及史」の①にあたる。この連載は学問ではない。歴史の叙述ではあるが、歴史学には関知しない。学問の手続きをいっさいとらない。好きなように自由に語りたい。

 このところ人の話をよく聴きに行く。10月19日、若い研究家柏原竜一さんがロシア革命の余波をドイツがどう受けとめたかをフランスの情報網がとらえた論究を語った。じつに詳細な学問的追究のレポートだった。10月23日、旧友の河内隆彌君がアメリカの拡張主義と孤立主義の二大潮流をその代表ともいえるルーズベルトとリンドバーグの活動のなかに追跡した研究発表をした。どちらも興味深い内容だった。どちらも良く勉強しているな、といたく感心した。

 私はいま岡田英弘著作集(全八巻)の第三巻の月報を書いている。当ブログのコメント欄のどなたかが岡田先生を故人のように扱っていたので吃驚した。岡田先生は健在である。11月4日(月)午後2時半から山の上ホテルで岡田英弘著作集発刊の記念シンポジウムが行われ、先生も出席される。

 私は聴衆のひとりとして、シンポジウム「岡田史学とは何か」の話を聴きに行こうと考えている。話をして下さる方々は木村汎、倉山満、杉山清彦、田中克彦、司会宮脇淳子の諸氏である。ご関心の向きは会場に出向かれたらよいかと思うので、ご案内申し上げる。主催藤原書店(Tel,5272-0301)。

 「内村剛介著作集」(全7巻・恵雅堂出版)がこのほど完結し、10月26日、高田馬場のロシア料理店でお祝いの会があり、招待された。顔見知りはいなかったが、短い挨拶をした。内村先生は1920年生れ、15歳上であり、88歳で亡くなられた。革命と反革命が身体の中で一体化しているような個性的な思想家だった。

 10月27日、持丸博(正しくは松浦博)さんの追悼偲ぶ会があり、彼が三島由紀夫邸に私を昭和43年秋に連れて行ってくれた思い出を綴った昔の拙文「一度だけの思い出」を挨拶代りに、私は朗読した。持丸さんは三島さんの片腕で、楯の会を支えた人物だ。その人生は三島さんの死で燃え尽きたかに見える。しかし4人のまぶしいくらい立派なお子さんたちを残された。奥様は杉並区議で文化チャンネル桜役員の松浦芳子さんである。ご冥福を祈る。
 
 韓国の問題に目下日本人は苦慮している。私はいま、「北朝鮮よりももっと平和を乱す国・韓国」と題して少しまとまった論文を書こうと着手している。韓国の度が過ぎた対日侮辱には怒りや軽蔑の言葉が投げつけられているが、われわれは米中の谷間で自国の安全保障を守る見地から考えなければならない。

 韓国の中枢の指導者はいくら日本を侮辱してもいざ救いが欲しくなり、困ったときには日本は必ず助けてくれるという根拠なき確信をもっているように思える。その責任の一半はもちろん日本にある。これが問題を考える起点、基本のポイントである。

 さて、私の全集は第9巻「文学評論」の初校が出て、三人の校正の方々が見てくださっている。刊行は少し遅れ気味で、一月にずれこむかもしれない。

 私は次の巻のテキストの蒐集、整理編成、校正、関連雑務、今の巻の後期の執筆と相次ぐ作業に追いまくられている。

 ゆっくり自由な読書ができない。仕事の作業のための読書に限定されてくる。次々と送られてくる新しい雑誌も、新刊本もなかなか読めない。それが辛い。

 新聞にもあまり目が向かない毎日である。が、日本シリーズは気になっている。マー君は往年の稻尾のような巨人いじめをするのだろうか。

本の表題

本の表題  追想40年 『正論』」創刊40周年記念号より 

 1973年はまだ私がかけ出しの文藝評論家だった時代である。処女作にあたる二冊のヨーロッパ論のあとの三年間に私が出した単行本は、『悲劇人の姿勢』(1971年、新潮社)、『情熱を喪った光景』(1972年、河出書房新社)、『懐疑の精神』(1974年、中央公論社)、などだった。どれも大まじめに付けた表題で、これで通用したのだから、今思うと不思議である。

 不思議と言ったのは私ではなく、最近ある編集者が今どきこんな題では本は出せない、まして若い評論家の自己主張の本にしては余りに否定的なトーンの表題で、読者受けしない、と言われてそんなものかと思った。しかし、世界や日本を否定するトーンの表題を私はその後もいっこうに改めなかった。『地図のない時代』(1976年、読売新聞社)、『智恵の凋落』(1989年、福武書店)、『日本の不安』(1990年、PHP研究所)、『自由の悲劇』(1990年、講談社)、『日本の孤独』(1991年、PHP研究所)、『確信の喪失』(1993年、学研)・・・・といった具合である。世界を否定的に語ることで自己を主張し、同時にそれが私の世界肯定の思想になるという逆説は、私にとっては生得的な何かであるのかもしれない。

 問題は私がそうした題を掲げるのを好んだことではなく、それが広い読書界で広く迎えられたかどうかは別としても、少なくとも許されたということである。否定がじつは肯定になるというアイロニーを理解し、愛好する一定数の読者に私が恵まれたことである。

 1979年に小林秀雄氏が『感想』という表題の評論集を出されて、私は日本経済新聞に頼まれてこの本の書評を書いた。内容よりも、表題に私はど肝を抜かれた。老年になっても私はおそらくこんな堂々たる題を付けた本は出せないだろうな、と予想したが、その通りになった。私がかりにいま『感想』という書を出せばどことなく滑稽にみえるだろう。で、私が本年出した評論集の題は『憂国のリアリズム』(2013年、ビジネス社)ということになる。世界と日本を否定するトーンの表題は行き着くところついにこういう仕儀に立ち至った。否定だけで肯定を含意した今までの打ち出し方はもう出来ない時代に面し、「憂国」という否定語に、「リアリズム」という肯定的主張語を組み合せざるを得ないことになったのだ。

 ものを書き始めた1960年―70年代初頭に、私は『新潮』『自由』『文学界』『季刊藝術』『批評』などに依拠していたが、丁度そのころ新左翼の出現と学生の反乱に危機感を深めた保守系知識人が日本文化会議を立ち上げ、その流れで1969年5月に『諸君!』が、73年10月に『正論』が創刊された。私も自然にそこに名を列ねるライターの一人となっていくが、当時世界や日本を否定するトーンの表題を自著に好んで付けたのは、この政治的流れと無関係ではないものの、それと必ずしも一致するものではない。私以外の世の多くの保守系論客は世界と日本を最初から力強く肯定的に語っていた。私が否定的に語ったのは、自分を否定することにつながり、自分を否定する契機を経ずして、世界や日本を簡単に肯定的に語っても、私の精神は伝えられないと考えたからである。

 当時の言論界は、何を語るかではなく、どう語るかつまり語り手の倫理的動機がたえず読者に意識され、共有されていた。政治や世相を語っても、単に政治や世相を事柄として語るのではなく、語り手の精神の高さがどの辺にあるのかが同時に問われていた。そういうことを気にしないで、乱暴に、人生の安易な生き方、面白い考え方を説いて読者を喜ばせる一方の人もいるにはいたが、政治や世相をどう考えどう論じたかではなく、論じた人の精神の高さがある意味で勝負だった。文章に現れた人品が問われることを書き手はつねに知っていなくてはならなかった。読者は本能的に人格を嗅ぎ分けていた。語り手や書き手の人間が問題だった。当時の言論界はまだ小さく、書き手と読み手の間の交流が感じられ、ある意味で関係は「私小説的」だった。小林秀雄が『感想』というほぼ無題のような評論集を出すことが可能だったのは、この精神的空間のゆえである。

 小林は自己表現の「自己」をいつも問題にした。自分を生かそうと敢えてしたときに自分は生きない。小林はだから「無私」ということを言った。福田恆存は自我の芯を剥き出しにして戦ってはならないとつねづね語った。自己の「隠し場所」が必要である、と。自己ほど手に負えないものはない、は福田の口癖だった。私が世界と日本を否定するトーンを表題に選んだのも、そこに関係があるのだが、私は「自己」を否定することで自分を生かそうというこわばった意識に囚われてきた点でまだまだダメである。「憂国のリアリズム」ではまだまだ青臭い。

 けれども今の言論界には語り手の精神を問題にする空気はもはやない。情報の量や出所がきめ手になった。素人でも新しい情報さえ手に入れれば言論界の主役になれる。どう語るかよりも何が語られるかだけが中心になった。勢い、本の表題は題材主義となり、過激になるか、長たらしく説明的になるかのいずれかになりがちである。

テレビ出演のお知らせ

 10月20日(日)放送「新報道2001」に出演します。

 今週、靖国神社例大祭が催され、安倍首相は近隣諸国に配慮して、靖国参拝の自粛を検討されているようです。しかし韓国は、日本からの歩み寄りの姿勢に一向に応じる気配を見せず、日韓関係修復への道のりが長期化するのではないか、と懸念が高まっています。

 フジテレビの「新報道2001」では、「日韓関係修復への道~なぜ韓国は喧嘩を持ちかけてくるのか~」をテーマに、討論を行う由にて出演を求められました。支障のない限り、出る予定です。

 出演日時 10月20日(日)午前7時30分~午前8時25分頃まで(生放送)

宮崎正弘さんの出版記念会

 本年(平成25年)10月4日午后6時30分より、市ヶ谷ホテルグランドヒルにおいて、宮崎正弘さんの出版記念が行われました。

 発起人代表として私が僭越ながら最初に祝辞を述べさせていただき、次いで熊坂隆光産経新聞社長の祝辞があり、呉善花氏、日下公人氏と挨拶がつづき、村松英子氏の音頭で乾杯がなされました。そのあと宮崎氏自身の謝辞があり、しばらく休憩食事となりました。

 スピーチが再開され、じつに賑やかで豪華な顔触れでした。井尻千男氏、加瀬英明氏、池東旭氏、中村彰彦氏、高山正之氏、宮脇淳子氏、黄文雄氏、ベマ・ギャルボ氏、田母神俊雄氏、水島総氏、堤堯氏。ここで時間切れとなり、予定されていた各種エキジビションはとり止めとなりました。最後に花田紀凱WiLL編集長が中締めを行い、藤井厳喜氏の元気のいい三本締めで8時30分にお開きとなりました。

 しかしこれで終わらず、有志40名余が10時30分ごろまで同館内の別室で二次会を行い、カラオケ大会を開き、田母神氏の自衛隊を讃える(女性には聞かせられない)歌が拍手喝采でした。

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 さて、私の冒頭の祝辞は、次の通りの内容です(全文)。

宮崎正弘さん、おめでとうございます。

 今日は宮崎さんの現代中国研究の恩恵をこうむり、感謝し、かつ感嘆している方々がここに多数お集まりだろうと思います。私もその一人です。宮崎さんの中国研究はすべて自ら脚で歩いて、見かつ聞いた現地情報を基本とし、それに中国語、英語のメディアからの驚くほど多数の情報をもの凄いスピードで日夜読みこなし、あの有名なメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」――本日10月4日で4037号を数えますが――にほゞ毎日、旅行中以外は休むことなく、ときに同じ日に2度3度と出すこともあり、ここで確認した情報をさらに整理し、ご自身の文明観や国際政治観を書き込んで、次々と本を出され、今日ここに160冊目となる一冊「出身地を知らなければ中国人は分からない」が出て、それを記念し、祝福したく、友人知人がこの場所に相集まった次第です。

 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」は主に21世紀に入ってから書かれたもので、それ以前にも中国論は書かれていますが、この15年ほど広範囲の人々、政界・言論界はもとより、メディア以外にも学者や一般読者にも、中国が日本人にとって重大になるにつれてきわめて大きな影響力を発揮してきました。何より中国の全州に足を踏み入れ、いたるところを踏破し、新幹線ができてくればこれに全線全部乗り、北京と上海しか見ていない新聞記者顔負けの行動力で、どれくらい人の目を開かせ、日本人の知見を広めたか分りません。新聞社の中国特派員が宮崎さんのメルマガを見て書いていると聞いたことがあります。さもありなんと思いました。

 宮崎さん以後、若い現代中国研究家が続々と出現しました。今日お集まりの皆様の中にもいらっしゃると思います。ある人は、世界各地にあふれ出し、欧州アメリカその他をボロボロにするほどに迷惑をかけている中国人移民の生態とその政治的なトラブルを主なテーマにしています。またある人は中国人労働者、農民工の生活の苦しい内実、ことに中国人女性の暮らしぶりやものの考え方について数多くの観察レポートを書いています。またある人は中国と日本政府、官僚、財界人の不正なつながりに光を当て、中国進出の日本企業の陥った非情なる苦境につい徹底的に追及しています。こうした多士済々な活動は、宮崎さんが一度は何らかの形で手を着け、すでに発言し、展開しているテーマのうちにありますが、しかし宮崎さんひとりでは追い切れない特殊テーマの個別的研究といった体のもので、よく考えると宮崎さんが広げた大きな展開図の中で、単身では及ばなかったテーマの個人的追究といったものであって、宮崎さんはいわば現代中国研究の総合的役割を果してきたのだなと思い至るのであります。後から来た世代は宮崎さんの仕事を横目で見て、それと重ならぬように、そこから漏れたテーマに焦点を絞って、意図的に個別の研究をすすめてきました。宮崎さんの中国ウォッチングはそれらの人々の前提であり、先駆でした。すなわち宮崎さんは黙って一つの「役割」を果していたのだな、と今にして思い至るのであります。

 私自身は中国の現場についてほとんど何も知らず、160冊のご成果のあれこれについて意見を述べるのもおこがましく、今日お集まりの方々から各著作の特質について、専門的見地からの的確なお話が伺えるものと思います。だが、それほど重要な宮崎さんの現代中国探査報告、権力の中枢から市井の人々の呼吸まで伝えているレポートの数々は宮崎さんの著作活動の最初から存在したものではありません。今日入口で皆さまにお渡しした著作リストがありますね。後から前へと制作順が逆並びになっていて、最新作がトップに来ています。

 これを見ますと1971年三島論が処女出版で、中国論が出版されたのは32冊目、1986年です。その一冊からまた飛んで、15年間中国論はなく、次は1990年の28冊目にやっと二冊目の中国論が書かれています。そういうわけで、中国論がたくさん書かれるようになったのは2001年より後です。2001年から今日までの68冊のうち45冊が中国ものとなります。私がお知り合いになったのはそれより少し後です。

 では、それ以前の宮崎さんは何をしていたのか。経済評論家であり、アメリカ論者であり、資源戦略や国際謀略などに詳しいグローバルな動機を基礎に置いた国際政治に関する著作家でした。

 私は成程と思いました。中国語の読み書きはもとより、英語の能力が高い。新聞雑誌の英語をもの凄いスピードで読む。メディアの英語は学校英語と違って、背景の広い国際知識をもたないと読めないもので、難しいのです。びっくりするのは世界の無数の政治家、経済人の名前をつねに正確にそらで覚えている。欧米人だけではありません。中東から中央アジアの政局にも詳しく、キルギスとかトルクメニスタン、あのあたりに政変があると、片仮名で書いても長くて舌を切りそうになる固有名詞をそらで覚えていて、次々と出す。パソコンを片端から叩いて、何も見ていないのでしょう。全部頭に入っている。これにはたまげます。

 宮崎さんはどういう時間の使い方をしているのだろうか? いろいろな人の本を次々と書評もしている。私と同じ時期に送られてくる新刊本、整理べたの私がまだ本の封筒の袋を開けていないときに早くも宮崎さんのメルマガの書評欄にその本の書評がもう出ている。一体どうなっているのか。宮崎さんはどういう時間の使い方をしているのだろうか。ほとんど怪物だと思うこと再三でした。記憶力抜群、筆の速度の天下一、鋭い分析力と時代の動きへの洞察力――もう負けたと思うこと再三でした。

 中国論は世に多いが、経済の理法を知らなければ今の中国は論じられません。また逆に、中国の動向を正確に観察していなければ、今の世界経済は論じられません。宮崎さんの仕事は世に出るべくして出て来たのです。

 昭和前期に長野朗と内田良平という蒋介石北伐時代の中国ウォッチャーがいますが、宮崎さんはどちらが好きで、どちらが自分に似ているとお考えでしょうか。一度きいてみたいと思っています。どちらも愛国者ですが、長野朗は農本主義者で、内田良平は日本浪漫派風の国士でした。私は内田良平のほうに似ているのではないかな、などと考えています。

 宮崎さんは人情に篤い。多くの人のために出版記念会の舞台づくりをして下さいました。私もその恩恵に与った一人です。友人思いです。友人の死はもとより、その奥様が急死なさる――そういうとき彼は自分の仕事を捨てて飛んで行きます。友人のために働き、友のために気配りし、自分のスケジュールを犠牲にしてもいとわない。

 私はいつも思うのです。あの「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケズ・・・・・・東ニ病気ノ子ガアレバ行ツテ看病シテヤリ」そうなのです。本当にそうなのです。「丈夫ナカラダヲ持チ、欲ハナク、決シテ怒ラズ、イツモ静カニ笑ツテイル」・・・・・

 本当にそうなのです。仲間で言い合いがあって、少し激しくなってくると、宮崎さんはいつも茶化すような、思いがけない方角からの茶々を入れてみんなを笑わせ、一座の興奮を鎮めてしまう人です。

 「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」・・・・・宮崎さんの場合は玄米ではなく「一日ニ焼酎四合」と言い直したらいいでしょう。そして「少シノ野菜ヲ食ベ」というのは本当で、宮崎さんは飲み出すと物を食べない。これはいけない。健康に悪い。それからもうひとつ煙草を吸いながら酒を飲む。これもいけない。われわれが止めろといくら言ってもきかないのです。

 宮崎さんの生活行動は文学者のそれで、日本浪漫派の無頼派の作家、破滅型の作家のモラルに似ている処があって、そこが心配です。最近は酒の量が少し減っているように見受けます。メルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」の欄外に飲み歩きの記録、消息案内があるのですが、最近その記事がいくらか減っているようで心配です。二、三年前には、西荻窪から中央線に乗って途中で降りないで眠ったまま東京駅まで行ってしまうようなことがありましたが、いくら何でももうそんな無茶はしないで、大事にしていたゞきたいと思います。

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全集7巻について、西尾先生への手紙

武田修志さんから西尾先生への手紙

 

九月にはいり、さすがの猛暑もいささか勢いの弱まった感じですが、西尾先生におかれましては、その後いかがお過しでしょうか。
 
 先日は出版社から御著書『日米百年戦争』が送られてまいりました。御手配、有難うございました。この書については、次の機会に感想を述べさせていただきます。

 今日は『西尾幹二全集第7巻 ソ連知識人との対話、ドイツ再発見の旅』を読了しましたので、この大著について、ひとこと読後感を申し述べます。
 第一部『ソ連知識人との対話』は、先生がご旅行をなさっているうしろから、とぼとぼとついていくような感じで、繰り返し二度ほど読ませていただきました。先生の好奇心の旺盛さが一番印象に残りました。「この大知識人は、純真な子供のように好奇心にあふれているナ」と、足早の先生を追っかけながら、何かたいへん愉快なものを感じました。通訳官のエレナ・レジナ女史も、次から次に質問を繰り出す先生を、なんと素直な、率直な人柄だろうと、ひそかに、たいへん好感をいだかれたのではないでしょうか。先生の飽くなき知識欲はやっぱりちょっと群を抜いていますね。批評家魂といった言葉が思い浮かびました。

 この書から教えられたこと、考えさせられたことはあまたありますが、思いつくままにいくつか挙げてみますと、まず、ソ連邦の人々の不親切、傍若無人な振舞い、官僚風な対応というのが、やはり印象に残っています。第十二章で語られている、哲学者川原栄峰氏の切符切り替えを助けようとした、日本へのあこがれを持ったあのイントゥーリストの係官の振るまいは、先生が御指摘のように「非常に象徴的」です。「ある面での善良さが、別の面での優しさや思い遣りや心づかいに決して繋らない。いかにもロシア人らしい、デリカシーを欠いた愚直な善人振りである。」この係官の振る舞い方は、我々日本人には全くの驚きであり、「不思議」でもありますが、まわりの人々の反応から見て、その傍若無人な振舞いは、ロシアでは、ごく一般的に認められている・・・。ある社会が、ある「文化」が、人の意識、人の振舞いをどういうふうに形成していくものか、深く考えさせられる場面です。そして、この点で、先生が、その原因を単に「ソヴィエト型社会主義の性格」に求められているのではなく、「ロシア的東方的な非合理な人間関係に起因するのではないか」と考えられておられるところは、私の大いに同感したところです。

 同じようなことですが、作家同盟の作家や評論家諸氏が、「ほとんどまる一日乗車し、同行した場合でも、彼らは運転手にまったく目もくれない」ーこの場面もたいへん印象に残っています。どうしてそういうふうになるのか、この点についての解釈はこの書の先生の論述にゆだねるとして、このあたりを読みながら、我々日本人の人間関係やそこで働かせている意識、感性というものは、たいへん独特のものがあるのだということを改めて考えました。(皇后陛下などが、被災者をお見舞になるときに、自らも腰を低くして言葉をおかけになるーああいう場面をロシア人などが見ると、どういう感想を持つのだろうかと思ったりもしました。)

 第五章「コーカサスの麓にて」では、エドゥガールという三十歳の「優男」の姿がよく描かれていて、印象に残りました。彼がどういう人柄の人であり、どういう考えの持ち主であるかが、巧まざる描写で少しずつ分かってくるのですが、最後に次のように締めくくられていて、これはうまいと思いましたし、またたいへん説得されました。
 「それでも私には、エドゥガールさんが公爵の末裔だと知ったときに、いくつかの謎が解けるような思いがした。なぜ彼だけが私たちの感情の動きを微妙に察した、礼儀正しい会話の仕方で私たちを心服させたのか、合点がいく思いがした。」「都雅、としか言いようのないもの」がエドゥガール氏を包んでいたのは、たしかに、彼が貴族の出であったことと深く関係していたと私も同じように考えました。ーこの本のおもしろさの一つは、先生自身どこかに書き付けておられるように、先生がお会いになった人々の「姿」がうまく描かれていることではないかと思います。 

もう一つ妙に印象に残っていることがあります。何章に書いてあったのかちょっと忘れてしまいましたが、我々日本人は、たとえば鳥取という自分の位置を、海に囲まれた日本全図を思い描いて人に示すのを当然のこととしているが、ロシア人はまずボルガ河ならボルガ河という大河を一本描いて、その西とか東、こちら側とか向こう側といったふうに説明する、ソ連全土というようなイメージはないのだーあの話です。これは、私は今まで人から聞いたこともなく、本で読んだこともなかったので、文字通り目から鱗が一つ落ちました。

 さて、「ソ連知識人との対話」は一九七七年のひと月余りの先生のソ連邦旅行体験を基にして、その後二年余りのうちに書き上げられた著述であり、いうまでもなく、この時期、まだソ連邦の崩壊は、内村剛介氏のような特別な人を例外として、ほとんど誰も取りざたしていませんでした。先生も、この御旅行の時点では、ソ連邦の崩壊というようなことは、まったくお考えになっていなかったと推察できます。しかし、ソ連が崩壊して今や二十年以上が過ぎました。今回私は特に「崩壊後の今から読めば、この本から何が読み取れるか」という観点を持って読んだわけでは全くありませんが、やはり、ソ連崩壊前の時代から崩壊後まで貫く問題は何かと、無意識にも注意を向けていたようにも思います。以下のような言葉が印象に残ったのは、そのためかもしれません。 

 「人間は制作し、工作する動物である。と同時に人間はなにごとかを未来に賭けて生きている存在である。社会主義社会は人間が自分の個性を試して生きようとするこの可能性を廃絶したのではないか。老舗や秘伝による伝統的職人芸ももう生かされないだけでなく、未来へ賭ける実験者としての生の形式もここでは認められない。社会主義は人間の心を尊重するというのはいったい本当だろうか。」(第九章)

 「個体が未来へ向けて自分を賭けて行く実験精神を殺すような世界では、学問や芸術や教育は本来の機能を発揮することは出来ないだろう。」(第九章)

これらの言葉は、社会主義社会が人間の共同体として致命的な欠陥を内部に抱えていたことの、的確な指摘となっています。
 しかし、先生の言説が今も魅力的なのは、ソ連社会の問題点を剔抉していきながら、常に我々の社会の問題点を糾問していくところでしょう。

 「しかし、他方、『全体』との深い関わりがなければ、『個』も生きてこないのである。」(九章)

 「自由とは善い自由と悪い自由を選択し区別する基準が、自分の内部以外にどこもないということに外ならない。自由とはそれゆえ危険なものなのである。」(第九章)

 「われわれのこの生にいったい究極目的は存在するのか?国家や社会の課題がわれわれの生に本来の目的や意味を与えてくれるのか?部分である我々は全体のどこに位置しているのか?個体をつつむ文化や伝統の有機的統一は今日では喪われ、世界を全体像としてとらえるパースペクティブは不可能になっているのではないか?}(第十章)

 「近代的自我は確立した瞬間からじつは解体と不安にさらされていたのだと言い換えてもよい。」(第十章)

 「二十世紀の人間が中心を喪失し、無内容になっている点においては、どちらの社会体制もほぼ同じではないかと私は考えているのである」(第十章)

 先生の読者としてはなじみの主題ですが、こういう我々の社会の抱える中心問題がソ連探訪記においても攻究されているところが、またこの本の魅力であると私には思われました。

 「ドイツ再発見の旅」の部もたいへんおもしろく拝読いたしました。しかし、ちょっとここまでの感想もだらだらとまとまりが無くなってしまいましたので、又の機会にしたいと思います。いつも尻切れトンボで誠に申し訳ありません。

 お元気で御活躍下さい。

     
    平成二十五年九月二日

                 武田修志

『天皇と原爆』書評/動画

 文芸評論家の冨岡幸一郎さんが二年も前に拙著『天皇と原爆』に対する書評をYou Yubeで流していることに気がついた。ずっと知らないでいた。遅ればせながら、ここに再現する。時間の短い寸感書評であるが、肝心なとことは捉えて下さっている。冨岡さんありがとう。