全集7巻について、西尾先生への手紙

武田修志さんから西尾先生への手紙

 

九月にはいり、さすがの猛暑もいささか勢いの弱まった感じですが、西尾先生におかれましては、その後いかがお過しでしょうか。
 
 先日は出版社から御著書『日米百年戦争』が送られてまいりました。御手配、有難うございました。この書については、次の機会に感想を述べさせていただきます。

 今日は『西尾幹二全集第7巻 ソ連知識人との対話、ドイツ再発見の旅』を読了しましたので、この大著について、ひとこと読後感を申し述べます。
 第一部『ソ連知識人との対話』は、先生がご旅行をなさっているうしろから、とぼとぼとついていくような感じで、繰り返し二度ほど読ませていただきました。先生の好奇心の旺盛さが一番印象に残りました。「この大知識人は、純真な子供のように好奇心にあふれているナ」と、足早の先生を追っかけながら、何かたいへん愉快なものを感じました。通訳官のエレナ・レジナ女史も、次から次に質問を繰り出す先生を、なんと素直な、率直な人柄だろうと、ひそかに、たいへん好感をいだかれたのではないでしょうか。先生の飽くなき知識欲はやっぱりちょっと群を抜いていますね。批評家魂といった言葉が思い浮かびました。

 この書から教えられたこと、考えさせられたことはあまたありますが、思いつくままにいくつか挙げてみますと、まず、ソ連邦の人々の不親切、傍若無人な振舞い、官僚風な対応というのが、やはり印象に残っています。第十二章で語られている、哲学者川原栄峰氏の切符切り替えを助けようとした、日本へのあこがれを持ったあのイントゥーリストの係官の振るまいは、先生が御指摘のように「非常に象徴的」です。「ある面での善良さが、別の面での優しさや思い遣りや心づかいに決して繋らない。いかにもロシア人らしい、デリカシーを欠いた愚直な善人振りである。」この係官の振る舞い方は、我々日本人には全くの驚きであり、「不思議」でもありますが、まわりの人々の反応から見て、その傍若無人な振舞いは、ロシアでは、ごく一般的に認められている・・・。ある社会が、ある「文化」が、人の意識、人の振舞いをどういうふうに形成していくものか、深く考えさせられる場面です。そして、この点で、先生が、その原因を単に「ソヴィエト型社会主義の性格」に求められているのではなく、「ロシア的東方的な非合理な人間関係に起因するのではないか」と考えられておられるところは、私の大いに同感したところです。

 同じようなことですが、作家同盟の作家や評論家諸氏が、「ほとんどまる一日乗車し、同行した場合でも、彼らは運転手にまったく目もくれない」ーこの場面もたいへん印象に残っています。どうしてそういうふうになるのか、この点についての解釈はこの書の先生の論述にゆだねるとして、このあたりを読みながら、我々日本人の人間関係やそこで働かせている意識、感性というものは、たいへん独特のものがあるのだということを改めて考えました。(皇后陛下などが、被災者をお見舞になるときに、自らも腰を低くして言葉をおかけになるーああいう場面をロシア人などが見ると、どういう感想を持つのだろうかと思ったりもしました。)

 第五章「コーカサスの麓にて」では、エドゥガールという三十歳の「優男」の姿がよく描かれていて、印象に残りました。彼がどういう人柄の人であり、どういう考えの持ち主であるかが、巧まざる描写で少しずつ分かってくるのですが、最後に次のように締めくくられていて、これはうまいと思いましたし、またたいへん説得されました。
 「それでも私には、エドゥガールさんが公爵の末裔だと知ったときに、いくつかの謎が解けるような思いがした。なぜ彼だけが私たちの感情の動きを微妙に察した、礼儀正しい会話の仕方で私たちを心服させたのか、合点がいく思いがした。」「都雅、としか言いようのないもの」がエドゥガール氏を包んでいたのは、たしかに、彼が貴族の出であったことと深く関係していたと私も同じように考えました。ーこの本のおもしろさの一つは、先生自身どこかに書き付けておられるように、先生がお会いになった人々の「姿」がうまく描かれていることではないかと思います。 

もう一つ妙に印象に残っていることがあります。何章に書いてあったのかちょっと忘れてしまいましたが、我々日本人は、たとえば鳥取という自分の位置を、海に囲まれた日本全図を思い描いて人に示すのを当然のこととしているが、ロシア人はまずボルガ河ならボルガ河という大河を一本描いて、その西とか東、こちら側とか向こう側といったふうに説明する、ソ連全土というようなイメージはないのだーあの話です。これは、私は今まで人から聞いたこともなく、本で読んだこともなかったので、文字通り目から鱗が一つ落ちました。

 さて、「ソ連知識人との対話」は一九七七年のひと月余りの先生のソ連邦旅行体験を基にして、その後二年余りのうちに書き上げられた著述であり、いうまでもなく、この時期、まだソ連邦の崩壊は、内村剛介氏のような特別な人を例外として、ほとんど誰も取りざたしていませんでした。先生も、この御旅行の時点では、ソ連邦の崩壊というようなことは、まったくお考えになっていなかったと推察できます。しかし、ソ連が崩壊して今や二十年以上が過ぎました。今回私は特に「崩壊後の今から読めば、この本から何が読み取れるか」という観点を持って読んだわけでは全くありませんが、やはり、ソ連崩壊前の時代から崩壊後まで貫く問題は何かと、無意識にも注意を向けていたようにも思います。以下のような言葉が印象に残ったのは、そのためかもしれません。 

 「人間は制作し、工作する動物である。と同時に人間はなにごとかを未来に賭けて生きている存在である。社会主義社会は人間が自分の個性を試して生きようとするこの可能性を廃絶したのではないか。老舗や秘伝による伝統的職人芸ももう生かされないだけでなく、未来へ賭ける実験者としての生の形式もここでは認められない。社会主義は人間の心を尊重するというのはいったい本当だろうか。」(第九章)

 「個体が未来へ向けて自分を賭けて行く実験精神を殺すような世界では、学問や芸術や教育は本来の機能を発揮することは出来ないだろう。」(第九章)

これらの言葉は、社会主義社会が人間の共同体として致命的な欠陥を内部に抱えていたことの、的確な指摘となっています。
 しかし、先生の言説が今も魅力的なのは、ソ連社会の問題点を剔抉していきながら、常に我々の社会の問題点を糾問していくところでしょう。

 「しかし、他方、『全体』との深い関わりがなければ、『個』も生きてこないのである。」(九章)

 「自由とは善い自由と悪い自由を選択し区別する基準が、自分の内部以外にどこもないということに外ならない。自由とはそれゆえ危険なものなのである。」(第九章)

 「われわれのこの生にいったい究極目的は存在するのか?国家や社会の課題がわれわれの生に本来の目的や意味を与えてくれるのか?部分である我々は全体のどこに位置しているのか?個体をつつむ文化や伝統の有機的統一は今日では喪われ、世界を全体像としてとらえるパースペクティブは不可能になっているのではないか?}(第十章)

 「近代的自我は確立した瞬間からじつは解体と不安にさらされていたのだと言い換えてもよい。」(第十章)

 「二十世紀の人間が中心を喪失し、無内容になっている点においては、どちらの社会体制もほぼ同じではないかと私は考えているのである」(第十章)

 先生の読者としてはなじみの主題ですが、こういう我々の社会の抱える中心問題がソ連探訪記においても攻究されているところが、またこの本の魅力であると私には思われました。

 「ドイツ再発見の旅」の部もたいへんおもしろく拝読いたしました。しかし、ちょっとここまでの感想もだらだらとまとまりが無くなってしまいましたので、又の機会にしたいと思います。いつも尻切れトンボで誠に申し訳ありません。

 お元気で御活躍下さい。

     
    平成二十五年九月二日

                 武田修志

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です