何を言っても、何を仕掛けても、この国の国民はもう反応する動きを見せない。私は今年も幾つもの石を投げ入れてみたが、国民の心は小波ひとつ絶たない泥沼のように静まり返っている。
私は沼のほとりに今立って、思い切ってもう一回大きな石を投げてみようかと思ったが、もう止めた。私の真似をして沼に石を投げ入れている人を最近はときどき見掛けるようになったが、彼らも物音の大きい割に、深い処に波浪を引き起こすことはできていない。
この国の国民はもう過去のことも未来のことも気に掛けなくなった。いま現在が幸せであれば、すなわち平穏無事であればそれで良いのである。
普通はそれに反発するのが若者というものである。しかしこの国の若者は冬に入ってもスキーに行かない。車に興味がない。外国に行きたがらない。留学とか外国体験とかはもう遠い昔の人の人生記録に出てくる死語と化している。外国に行ってみたい気はあるが、新婚旅行で行けばいいや、と思って、それ以上は考えない。
けれども本心は結婚もしたくない。男も女もこれから何十年かにわたって見ず知らずの一人の異性の運命と向き合って生きて行くのかと思うと気が重く、そこまでしないでもいいだろう、と他人ごとのように冷淡である。
この国の若者はこの国のことも考えない。この国の未来を考えていら立つ人を見かけると、何と愚かな人かと思うだけで、何の感興も持たない。
自分たちの給与は世界的にレベル以下だといわれるけれど、親の家に行くと冷蔵庫に物はいっぱい入っているし、親のいない人でもコンビニという「親の家」があって、不平さえ言わなければ、生きて行くのに不足はない。
彼らを働かせる方法を考え出すのが政府の責任だが、政府は教育無償化などと言って何もしない若者の何もしたくない感情をますます拡大することに手を貸そうとしている。
この国の若者はこの国を良い国だと思っている。世界一かどうかは分らないが、ネット情報で伝え聞く外国はどこもこの国より暮らしにくそうである。行ってみる気にもならないし、学ぶことなどなさそうである。政府はこの国は良い国だとしきりに言っているので、そうだと思っている。
彼らは真面目で、小心で、信じ易い人々である。疑うことは恐ろしいことである。そんなことはしない方が良いと心底信じ込んでいて、自分の小さなねぐらにもぐり込む。
そういう若者が中年にさしかかっている今、日本は寂として声のない深い沼に化している。私は沼のほとりに今立って、石を投げ入れようと思ったが、もう止めた。
私はたくさんの石を投げ入れてきたのだ。すべてはブクブクといって沼の底に沈んだ。
(二)
年をとって仕事の能率が悪い。病気になって忙しさの種類が変わった。現象に目をやってそれを切って捨てる仕事はもう飽きた。私がWiLLにもHanadaにも手を出さなくなったことに気がついた人は多いだろう。本当は正論にも手を出すべきではないのだ。現象評論はもう止めたい。
これが沼のほとりに立ちつくして石をもう投げたくない人間の正直な新しい心境なのである。
けれども自分に対するこの戒律を自ら破り、スキを作ると、次々と病気以前の昔に立ち戻ってしまう。すべて産經系だが、『正論』に1月号、2月号、別冊正論33号とに顔を出した。新聞のコラム『正論』にも求められるままに何度か書いた。
この間にインターネット・ジャーナリズムという名の新しい試みに誘われ、やめればよいのに旧知の仲間に引き込まれて、大きな時間を費やした。一応報告だけしておく。
公開は1月末か2月にかけてで、「文春オンライン」というのに3回顔を出す。同じく2月にダイレクト社・リアルインサイト共同のネット何とか(?)という大型番組で、2回計8時間の「日本通史」を語る。後者は大企画である。
沼に石を投げ入れ、この国を変えようなどという野心はもうさらさらない。ただこうした仕事をするのは今までの惰性であるのかもしれない。
(三)
石を投げ入れても効果のなかったこの国への絶望がいかに深いかは、年末に完成した西尾幹二全集第17巻「歴史教科書問題」の以下にお見せする目次を見ていただくときっと了解されるであろう。
この一巻の編集業務に一年を要した。全集作成上の関門だった。
ひとつ丁寧に見ていただきたい。1996‐2006年の間に何が起こったかを、これによりつぶさに思い起こしていただきたい。そしてぜひこの巻を手に取っていただきたい。あの時代に関するみなさまの自己検証のためにもきっとお役に立てる一巻ではないかと思う。
そして、沼に石を投げる徒労の大きさを知ることで、この国の正体をあらためて本当に知ることにつながるよすがとなるのではないかと考えている。
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西尾幹二全集17巻『歴史教科書問題』
目 次
序に代えて
めざしたのは常識の確立(二〇〇一年)
第一部
歴史のわからない歴史教科書
『歴史を裁く愚かさ』と『国民の油断』など
Ⅰ 背景と前提(一九九六年)
Ⅱ 問題提起のための藤岡信勝氏との対談本『国民の油断 歴史教科書が危ない !』( 一九九六年)
Ⅲ 起点と出発(一九九六~一九九七年)
Ⅳ 展開と抗議(一九九七年)
Ⅴ 公開討論『新しい日本の歴史が始まる』と『歴史教科書との15年戦争』(一九九七年)
第二部
理念の探究と拡大――『国民の歴史』と『地球日本史』
Ⅰ 理念の模索と探究(一九九〇〜二〇〇一年)
Ⅱ 理念の拡大――日本五百年史の必要(一九九〇~二〇〇五年)
第三部
検定と異常な騒音、『新しい歴史教科書』の誕生
Ⅰ『新しい歴史教科書』の検定(二〇〇〇年)
Ⅱ 市販本『新しい歴史教科書』のベストセラー化(二〇〇一~二〇〇二年)
Ⅲ 教科書採択と東アジアの政治情勢(二〇〇〇~二〇〇一年)
第四部
教科書採択と政治
1 匿名社会の出現と国家の漂流(二〇〇二~二〇〇三年)
Ⅱ 残された傷痕(二〇〇三~二〇〇五年)
Ⅲ 記録
Ⅳ 退任
追補1 西尾先生の努力は確実に実っている 渡辺惣樹
追補2 国民の歴史』を読んで 石 平
追補3 西尾幹二・ショーペンハウアー・ニーチェ 古田博司
後記