『自ら歴史を貶める日本人』評(二)

自ら歴史を貶める日本人 (徳間ポケット) 自ら歴史を貶める日本人 (徳間ポケット)
(2012/12/20)
西尾 幹二、福地 惇 他

商品詳細を見る

 アマゾンの書評を掲示します。

By閑居人
レビュー対象商品: 自ら歴史を貶める日本人 (徳間ポケット) (新書)

表題は刺激的であるが、西尾幹二氏と現代史研究会の三人の論者が主張していることは、基本的にはきわめてまともなことである。それは、日本の近現代史を評価するには、その背景にある欧米、ロシア・ソビエトの外交政策とアジア諸国の当時の社会状況、中国国民党やコミンテルンと共産党の動向を、日本の政治外交軍事との関係でバランス良く見ていくことが大切だという観点である。
本書で、四人の論者が、具体的に取り上げて批判しているのは、加藤陽子「それでも日本は戦争を選んだ」、半藤一利「昭和史」、北岡伸一「日中歴史共同研究」である。
加藤氏と半藤氏の場合は、日清日露戦争以来、近代日本が戦った戦争の原因を主として国内的要因に求めて、日本の外交的選択を追い詰めていったアメリカやイギリス、ロシア、ドイツといった帝国主義諸国のアジア政策を十分に理解していない。また、コミンテルンの策動や中国国民党の宿痾にも関心がない。言われたくないだろうが、「東京裁判史観」のフレームから解き放たれていないということである。
また、西尾と福井雄三氏は、アメリカの宗教的動機が「文明の衝突」をもたらす根底にあることを指摘する。ウィルソンはアメリカの精神医学界の言葉を使えば「自己愛性人格障害」としか呼びようのない特異な人物だが、F・ルーズベルトの独特の人種差別意識、選民思想が対日戦争への強固な意志やソビエトを同志とみなす倒錯した世界観に変化していくことに注意が必要だ。
日米戦争の本質は、現代アメリカの政治学者ミアシャイマーに言わせれば「既に経済戦争を仕掛けられた日本はアメリカと戦って降伏するか、戦わないで降伏するかしかないところまで追い詰められていた。名誉を守るために戦ったことは、唯一の合理的な選択だった」ということなのだ。しかし、加藤、半藤は、日本には平和勢力もあったが、陸軍統制派と海軍艦隊派、それに日本国民のナショナリズムに引きずられて悲惨な戦争に突き進んで行ったと結論づける。日米で当時の様々な政府文書が公開されても、「それでも日本は戦争を選んだ」としか言えない歴史学者には失望するしかない。
北岡氏の場合は、中国や韓国の歴史学者と論争して「共同研究報告書」を作成する場合、それは「国益」とからむ「外交戦」の一環として位置づけられることをよく理解していたはずである。一番良いのは「これではまとまらない」と言って解散しその理由を世間に公表することである。しかし、北岡はそうせず、長文の報告書を「成果」として誇ってしまった。そのおつりはいずれ日本国民に投げつけられることだろう。
中韓の学者や識者と議論するときによくあることだが、反論されると怒って怒りまくる輩がいる。これはいつもの手である。また、途方もないことを主張して、絶対に譲らないという論者も現れる。これもいつもの手なのである。
北岡がまとめ役の一人となったこの研究では、「辛亥革命と五・四運動の影響で日本でも大正デモクラシーが起きた」と主張した中国人がいたそうである。日本側が唖然としたり、毒気を抜かれたりすれば、それは彼らの思うつぼである。日本側は、比較的穏やかな、まだまだまともと言える見解の学者に近づき、まとめようとする。このとき、日本側の妥協は、まだ僅かである。しかし、まともと見えた中国人学者を頼りに「報告書をまとめる」ことが決定されてしまえば、最終稿が完成するまでに、果てしもないハードルの上げ下げが続く。この戦いは通常日本側の一方的な妥協で終わらざるを得ない。相手は始めから譲る気などなかったからである。西尾が意外感を持って指摘する、篤実で実証的な研究で知られた一部の日本人学者の無残な敗北はその結果に他ならない。
多分、日本人の人間的魅力の一つなのだろうが、日本人は他国の悪意に無頓着すぎる。しかし、豊かな美しい国、誇り高い歴史を持つ国が、周辺諸国や世界のあちこちから挑戦を受けないことはあり得ない。
なお、この本で展開された四人の論者の近現代史についてのそれぞれの立場からの立論は、熟読吟味に耐える知的魅力に満ちたものである。文部省教科書調査官時代、日教組と外務省チャイナスクールに射された経験を持つ福地惇氏の近現代史への深い洞察。インテリジェンスに詳しい柏原竜一氏の視点。魅力的な書物である。

「閑居人」さんの行き届いた批評に感謝します。

By スワン
レビュー対象商品: 自ら歴史を貶める日本人 (徳間ポケット) (新書)

本書の概要についていえば、「閑居人」さんが記しているとおりである。
付け加えるべきことは、ほとんどない。

ただし、わたしは本書の議論の進め方に不満を感じた。
それは、加藤陽子、半藤一利、北岡伸一各氏の著書を俎上に載せ、話を進めることに由来する読みにくさだ。

1)ややもすると、上記3氏の論を批判するのが<主>で、歴史的事件および出来事の解説が<従>になってしまうため、ある程度以上、近現代史の知識をもった読者でないと<日本の主張>のディテールが伝わらないのではないか、という怖れがある。
その一例。
《西尾 西安事件を抜きにして昭和史は語れませんよ》(108ページ)
とあるものの、あの奇妙な西安事件の謎めいた影やコミンテルンの暗躍が詳しく語られていないため、「?」と思う読者も少なくないのではあるまいか。

2)また、3氏への批判が、彼らの記述に沿ってなされるため、時系列的な流れが攪乱される。
満州事変のあとに日露戦争が語られたり、ノモンハン事件のあとにロシア革命が話題にされたり……と、頭に入りにくい。

3)上記3氏の論は、いずれも、つぎのような同じ欠陥をもっている。
・日本を取り巻く当時の世界史を視野に入れていないこと
・いわゆる「東京裁判史観」ないし「コミンテルン史観」に毒されていること
・戦前の日本は悪玉で、侵略された側は善玉だという紙芝居的な見方……
そのため、各章で、似たような批判が繰り返される。
批判はまったくそのとおりなのだが、それでも、「あ、またか」と食傷気味になってしまう。

戦前の世界史のなかで日本が置かれた歴史的立場、そしてそこから発する<日本の主張>を前面に打ち出した本書の意義は大きい。
それだけに、上のような議論の進め方が残念でならないのだ。

願わくば、この四氏で、<真正・昭和史>ないし<真正・近現代史>を語り尽くしてもらいたいものである。
リベラル左派的な議論など相手にせずに――。

 「スワン」さんの「議論の進め方に不満あり」はまことに尤もなご批判で、その通りと存じます。私ども四人の討論も先行きの見えない闇夜を四人それぞれが懐中電灯を照らしながら歩いたかのような手探りでした。一冊の本にまとめることが出来たのがじつは奇跡でした。

 今年再開します。加藤康男氏と福井義高氏の二人が加わり、六人の討論会になります。まとまりが悪くなるかもしれませんが、時代順に追求していく新プランで、満州事変→支那事変→ノモンハン事件→日米開戦の順序で辿る予定です。2-3年かかるでしょう。「スワン」さんのご批判を参考にさせていただきます。ご批評ありがとうございました。

 再開第一回目はたぶん『WiLL』8月号からで、「柳条湖事件が日本人の犯行だというのは本当か?」という、あっと驚く、ショッキングな主題をひっ提げて再登場します。ご期待下さい。

『自ら歴史を貶める日本人』評(一)

『WiLL』5月号 堤堯の今月の一冊より

 本書は、本誌に11回にわたって連載された討議のまとめで、連載中から次回を待ちかねて愛読した。こうして一冊になって通読すると、討議の意味合いが一段と迫力を増す。なにしろ目次が食欲をそそる。

第3章 加藤洋子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は青少年有害図書
第4章 半藤一利『昭和史』は紙芝居だ
第5章 北岡伸一『日中歴史共同研究』は国辱ハレンチの報告書
第6章 日中歴史共同研究における中国人学者の嘘とデタラメ
 
 といったメニューで、四人の料理人による味付けは、これでもかと激辛に徹する。

 小欄は加藤洋子の『それでも・・・・』の背文字を書店で見かけたとき、一瞬、「それだからこそ・・・・」の間違いではないかと疑った記憶がある。

 かつて本欄で、加藤氏の『戦争の論理』を取り上げたことがある。象牙の塔で育った27歳の「女学生」のメス捌(さば)きに、なるほど戦争を知らない世代はこうも解釈できるのか、ある種の新鮮味を感じて、結語に「若い女の歯科医に脳髄を刺激されるような思いを味わった」と書いた。

 その「女学生」が、いまや近現代史の「大家」と目され、半藤氏とともにNHK御用達となった。両氏のベストセラーの読後感をひと言でいえば、「歴史は善人には描けない」――つまりは「悪人にしか描けない」という言葉を思い出したというしかない。本書はその「善人ぶり」をこれでもかと剔抉(てつけつ)する。

 それ以上に問題なのは、北岡の報告『日中歴史共同研究』だ。5章と6章は、その論理矛盾、偽善、知的怯懦(きょうだ)をこれでもかと衝く。北岡は「日中戦争は侵略戦争であり、南京虐殺は事実だ、それを否定する歴史学者は一人もいない」と断じる。この前提で中国側と「共同研究」を行えば、結果はハナから見えている。

 歴史の「歴」は歴然の「歴」。歴然とは「明らかな証拠がつらなる様」をいう(広辞苑)。「史」とは記録の意。よって、「歴史」は「明らかな証拠をつらねた記録」となる。ところが、これほど明らかでないものはない。見る人、見る角度によって違う。第一、真の資料は50年から100年を超えてから表出する。

 北岡は「張作霖爆殺事件がコミンテルンの陰謀だったと言う説は、それこそ虚偽のデマゴーグだ」とする。しかし、ロシアで出版された『GRU百科事典』(08年刊行)は、「日本軍の仕業に見せかけた工作の成功例だった」とハッキリ記している。GRUはKGBの前身だ。これを北岡は何と説明する。

 小欄が南京の「屠殺紀念館」で購入した大部の写真入の解説書は、表題に「鋳史育人」とある。つまりは歴史を鋳型に嵌(は)めて鋳造し、これをもって人を宣撫するという意味だ。

 これを見ても「南京虐殺」、従軍慰安婦、尖閣問題・・・・中国側の意図は明らかではないか。ちなみに、教科書誤報事件をスクープしたのは、小欄が編集長をつとめた雑誌『諸君!』だったことを付記しておく。

 歴史認識こそは思想戦、心理戦、宣伝戦の中核だ。米中共同の製作になる「鋳型」からの脱却――これこそが本書の狙い・願いだ。是非にも多くの人に読んで欲しい。パール判事は言った。「罪の意識を背負わされたままの民族に明日はない」と。

5月26日(日)放送『新報道2001』

5月26日(日)フジテレビ 午前7時30分~8時52分頃まで

ゲスト:中山泰秀氏(自民党国防部会部会長)
    渡辺 周氏(元防衛副大臣)
    橋下 徹氏(大阪市長、日本維新の会の共同代表,大阪維新の会代表)
    笠井 亮氏(共産党拉致等特別委員)

コメンテーター
   :西尾幹二氏(ドイツ文学者)
    宮家邦彦氏(キャノングローバル戦略研究所研究主幹)
    古市憲寿氏(社会学者)

<「歴史認識」と国益の守り方と外交姿勢のあり方とは>

■ 慰安婦問題を巡る波紋

■ 慰安婦問題の本質と日本政府の役割とは

■ 歴史認識とは、どうあるべきか

慰安婦問題――ポイントを間違えるな

 このところ橋下大阪市長と西村眞悟衆議院議員の従軍慰安婦問題をめぐるイレギュラー発言がマスメディアで取り上げられ、騒がれています。お二人の発言の仕方はまずいなと私も思いました。内容ではなく、仕方、ものの言い方、テーマの選び方における「戦略」のなさです。

 お二人はなぜアメリカ軍による日本人慰安婦の扱いを具体的に例をあげてきちんと取り上げないのでしょうか。誰でも「基地の女」ということばを知っているでしょう。全国いたる処、基地のあるところに日本女性がいました。朝鮮戦争のころ(1950~53年ごろ)はピークでした。殺人もよくありました。

 日本人は戦後、米兵にさんざんな目に遭ったのです。それでも世界の歴史の中では比較的ましな占領軍でした。それで日本人はずっと我慢して来たのですが、いまアメリカからありもしない日本軍による人身売買の人権侵害蛮行として道義的に批判される理由はまったくありません。

 橋下さんは沖縄の司令官に日本の風俗営業をもっと活用せよと言ったようですが、そんなことを言わないで、戦後の日本におけるアメリカ兵の蛮行のデータをきちんと調べて、あらためて批判するべきでした。また、慰安婦施設は世界中どこにもあった、などと漠然と言うのではなく、例えばシシリー島ではドイツ軍管理の慰安婦施設をアメリカ軍が働いている女性もろとも引き継いだ、という笑ってしまうような例――よく知られた話です――を取り上げて、大衆にもメディアにも文句の出てこないような話し方をすべきです。ワーワー大声でわめいている印象しか残らない彼の話し方は拙劣です。

 西村眞悟さんはなぜ韓国人売春婦の数が多いなどということを唐突に口走ったのでしょう。もしこれを言うなら事実例を挙げて、例えばごく最近も韓国で売春婦の大型デモがあり、白昼堂々と彼女らの権利が主張されている国であること、また米国務省の2011年6月11日付報告書で、韓国の売春婦は世界で一番多く、27万人、全人口の1.07%に及ぶというような驚くべきことを報道事例を掲げて、説明すべきだったでしょう。そうすれば女性議員の会が文句をつけたりできないのです。西村さんはなぜこんなにいつもスキがあるのでしょう。くりかえされる不用意なもの言いはそれ自体が問題です。きわどいことを発言するときには、それなりの準備と戦略が必要ではないですか。

 それから、申し上げたいのは今さら韓国を相手にこの件でものを言うな、ということです。またこのご両氏だけではなく、どなたでも弁解や言い訳に類することはもう一切口にして欲しくありません。言葉が通じない相手には――100年前からそうでしたが――何を言ってもダメなのです。

 いま外交的に面倒なのはむしろアメリカです。しかもアメリカ人は論理的に説明すれば分る人がまだいます。日本に慰安婦施設をつくらせたのはGHQです。アメリカが日本を非難する資格はありません。

 この件で世界に発信しているアメリカのサキ報道官(女性)に、国民みんなで抗議しましょう。彼女は「性を目的に人身売買された女性たちの身に起きたことを嘆かわしく、とてつもなく重大な人権侵害である」と日本を非難していますが、あなたはあなたの父や兄や祖父が日本で何をして来たのか、またアメリカ軍が何をしてきたのか知っているのですか、と訴えかけましょう。あんな風に日本人を見下すような物の言い方は許せません。国民みんなで声をあげましょう。そして韓国人は放って置きましょう。アメリカに抗議しましょう。反発するアメリカ人も出て来ますが、その通りだ、分った、というアメリカ人もいるはずです。これはそのようなレベルのテーマなのです。

(追記) 戦後の沖縄で米兵による狼藉がくりかえされ、今もなかなか止みません。アメリカ軍はアメリカの女を沖縄の基地に連れて来て、慰安所をつくり、日本人に迷惑をかけるべきではありません。旧日本軍がしたことはそのことでした。旧日本軍のほうがずっと正しいことをしていたのです。橋下さんは沖縄の司令官に日本の風俗嬢を使えというのではなく、アメリカから風俗嬢をつれて来いと言うべきなのです。日本政府もそう言うべきなのです。これは当り前なものの言い方で、たゞ内気になった日本人がこういう普通の言い方を忘れているだけです。アメリカにももっと胸を張って生きていきましょう。

「地表の三分の一を占めた覇権国英米への正当なる反逆」(GHQ焚書図書開封・第126回)

 韓国大統領が訪米し、生徒が先生に告げ口をするみたいにオバマ大統領に日本の悪口を言いました。「先生、あの子はむかし私を虐めたのに、もうあんなことは忘れたって言うんですよー。何とか叱って下さい。」

 そのむかし蒋介石夫人が米議会で反日演説をして拍手喝采され、政治局面が変わったことを思い出します。

 アメリカに睨まれると安倍さんの発言内容がトーンダウンするのが気がかりです。発言内容を単に縮小し無害化するのではなく、丁寧に意を尽くして、最初に言っていた概念をくわしく言い直した方がかえって誤解を妨げると思うのですが、安倍さんは言葉遣いが上手なのでやれると思うのですが、どうなのでしょうか。

 自分のことを「極右」とか「修正主義者」とかレッテル張りする中韓の議論に対してはきちんと反論した方がいいと思います。いま、この時点が時代の転換点です。大事な局面です。

 「侵略には学問的に二つの見方がある」などと抽象的に言うにとどまらずに、「日本は近代史70年(1868~1941)で侵略される側にあった。」とひとこと言うべきではないでしょうか。

 私の『GHQ焚書図書開封』126回「地表の三分の一を占めた覇権国家英米への正当なる反逆」(日本人が戦った白人の選民思想・後半)をぜひこの観点からご覧下さい。

もうひとこと申し上げる

 私より若い私の友人に青山学院大学教授の福井義高さんがいる。彼は会計学がご専門で歴史家ではないのだが、日本の歴史学者は歴史を知らないので、こういう人の発言が一番ありがたい。私と彼との『正論』誌上での対談は全体の三分の一だけすでにここに掲示されている。間もなく残りも提出する。

 日本の自虐的な歴史観、世界を鏡に自国の過去を「反省」ばかりしているわが国のほゞ全知性を蔽っている歴史観について、あるとき福井さんは「あれは皇国史観ですな」と仰言った。

 「皇国史観」の定義はここでは戦後悪口でいわれている言葉の用い方に合わせて自己満足史観のこと、自国が世界の中心で自国の善と美があまねく世界四方を照らし、世界史を動かして行くという普遍思想である。東南アジアの島々に神社を作ったなどもその現われである。神道にはそのような普遍性はない。ないところに強みもあると考えるべきである。

 戦後を支配した歴史思想、ことさらに自国の軍隊の欠点をあげつらい、罪と悪の日本史を仕立てて、日本はここで間違えた、あそこで判断を誤った、としきりに言い立て相手の軍隊の罪や悪をほとんど見ようとしない歴史観は、自己満足史観で、日本が正しい道を歩んでいたら戦争は起こらなかった、という前提に立っている。日本が道徳的に立派だったら、相手の軍隊も道徳的に立派に振舞い、戦争は避けられ、世界史の歩みは変えられた、という仮説の上でものを言っている。傲慢である。

 これこそまさに「皇国史観」の再来であろう。福井さんはそういう意味のアイロニーをこめて言ったのだと思う。けだし名言である。私より若い世代にこういうリアリストが出現したのが私にはうれしい。

 戦前も戦後も日本人の大半は世界の現実が見えない。最高学府の知性にも見えていない。戦争は相手があって初めて起こる、という子供にも分る常識から出発していない。反省と自己批判から出発している。しかもそれによって自己の誠実を証明し、自己の美化を企てている。救いがたい自閉的性格である。ここに普遍思想の生まれる土壌はない。

 戦前の「皇国史観」もまたマルクス主義が出現しなかったら生まれなかった反動的近代現象であって、日本文化の本来性に発していない。戦前も戦後も、日本知性の陥った過誤の性質は同質である。日本の知性のどうにも救いがたい欠陥である。

 最近、皇室問題がしきりに論じられるが、皇室が危機にあるからだと思う。私は日本文化の柱に皇室への崇敬があると信じているが、ここからだけでは普遍性は出てこない。「神仏信仰」という言葉があるように、日本人の信仰は「神」と「仏」の二重性によって支えられてきた。天皇もまた歴代仏教の信徒だった。地上の神と超越神との二重性である。後者は見えない遠い異国の唐天竺に浄土を求める心事にも発している。

 日本人が古代中国や近代西欧に理想のモデルを求めたのは、超越信仰の一種ではないだろうか。これがないと皇室も危うくなる信仰のパラドックスがあるのではないだろうか。アメリカは「見えない遠い異国の唐天竺」の代用になり得ないことが最近明らかになったわけだ。

 ならば何が「超越神」となるのであろうか。すぐには答の出てこない難問で、今の日本はその未解決の混迷の只中にある。皇室問題がしきりに取沙汰されるのもその不安の表現である。

ひとこと申し上げる

 私はいま雑誌『正論』で始めた長篇連載「戦争史観の転換」に一番大きな精力を注いでいる。全部で30回、約1000枚近い予定である。

 最近はこのブログ「日録」のコメント欄にも書きこんで下さる人が多くなってよろこんでいるが、どうか『正論』連載の内容などをも踏まえて書いていたゞけるとありがたい。連載は始まったばかりだが、どんどん新しいことを言っている。6月号は2回目である。

 アメリカ革命やフランス革命はある時期に世界史にたしかに新しい価値をもたらしたが、それは人類の普遍的価値ではない。二つの革命が時代とともに人類に災いをひき起こした面もある。

 今でもまだ戦勝国のアメリカが日本に民主主義や自由の理念をもたらしてくれたと思っている人がいるが、それは正しくない。ヨーロッパの古い文明はまだ有効性をもっているかもしれないが、われわれはそれを必ずしも模範として学べばよいという時代ではない。いわんやアメリカはもう日本のモデルではない。

 最近若い人がアメリカに留学しなくなった。日本人が内向きになったからだという人がいるが、私は日本社会がもはやアメリカを手本にしてわが身を正そうとしなくなったので、若い人がアメリカに行っても得をしないと思うようになったためだと考えている。アメリカが世界の普遍性の代表ではなくなったのである。

 5月1日付の「日録」のコメント欄のいくつかに私は異和感を覚えたので、ひとこと申し上げ、どうか是非『正論』の私のアメリカ論をよんで下さいと申し上げる。

 私はアメリカを否定する者ではない。もっと距離をもって捉えるべきだと言っている。アメリカは「世界政府」志向のグローバリズムの帝国で、それに対し日本はどこまでも単一民族文化国家であり、異なる独自の価値観に生きている。

 世界のあらゆる文明はそれぞれが独自であって、特定の文明が優位ということはあってはならない。

「戦中の日本人は戦後のアメリカの世界政策を知り尽くしていた」(GHQ焚書図書開封、第125回)

 4月13日の慰安婦問題への私の意見陳述に対し、今日までに多数のコメントを寄せて下さりありがとうございました。すべて丁寧に拝読し、学ぶ処多いことを発見しました。その中に英訳文がほしい、英訳があればアメリカで戦うのに役に立つ、というコメントがありましたので、ある方の協力を得て、急遽英文も提示することができました。

 あの戦争について戦後に書かれたすべての文章は、どんなに自国思いの文章、当時の日本を主張している文章でも、私の見るところ半分はアメリカの立場をとり入れて書かれています。日本は自分を閉ざしていて余りに愚かで、アメリカ文明の秀れた特徴が見えていなくて判断を間違えたのだ、と。

 そうではないのです。日本は戦後のアメリカの政策、NATOも日米安保の成立の可能性もある意味で見抜いていました。すべて運命を知っていて、それでも戦わざるを得なかったのです。それほどアメリカ(ルーズベルト)は理不尽で、道理を超えていました。日本人はこのことが今でもまだ分っていません。

 そのことをみなさんに知ってもらいたく、「GHQ焚書図書開封」第125回(4月24日放映)の「戦中の日本人は戦後のアメリカの世界政策を知り尽くしていた」(日本人が戦った白人の選民思想)をお届けします。1時間かかりますが、しっかり見て下さい。