水のかき消える滝

来年3月の刊行を目指して編集を進めている西尾幹二全集第22巻A「運命と自由」に幾つかの随筆を掲載することになっていて、先生の心に残る随筆を探している中で、平成20(2008)年1月1日の日録に載せた「水のかき消える滝」が見つかりました。

嘗て西尾先生の小石川高校時代に同級生たちが編んだ文集『礎』を、年月を経て復刊することになり、先生が平成19(2007)年3月18日発行の復刊第2号に寄稿されたものが抑々の出典です。

初めての方も多いと思いますので、原文を若干加筆修正し再び掲載します。
珠玉の随筆をどうぞ味読ください。H.M.

水のかき消える滝
 

 七十歳を過ぎると、さすがもう時間は迫っているのだと、厭でも考えざるを得ない。しかし、日頃なにかと考えをめぐらし思い付くことは、仕事の上の新しい計画なのである。

 昨年と同じように今年に期待している、私という人間の鈍感さである。いつ急変が身を襲うかもしれないことに薄々気がついているのに、気がつかない振りをしている自分にたのもしささえ感じている。

 死の淵に臨む大病を二度しているので、あのときの感覚は分っているつもりだが、忘れるのも早いし、日々思い出すこともない。本当は分っていないのであろう。

 上田三四二という歌人がいた。何度もガンに襲われて逝った。私は彼の書いた私小説が好きで、好意的に論評し、文通もあり、死後彼の文庫本の解説も書いた。

 小説は病院とそれをとり巻く環境、たえず自分の死を見つめる心の弱さや自分への激励を書いていた。やさしい心の人で、文章も柔かく、しみじみとした味わいがあった。彼の書いた比喩の中に、死は滝壷の手前でフッと水が消えてしまう滝を上から見下ろしているようなものだ、という言い方があった。記憶で書いているので正確ではないかもしれないが、人間が生きているということは水量が多い川の流れである。それが滝になってどっと落ちる。落ちた水は滝壷に激流となってぶつかり、飛沫をあげるのが普通だが、この場合には落ちる途中でいっさいの水がいっぺんに消えてしまう場面を想定している。

 大量の奔流が落下の途中でフッとかき消え、その先はもう何もない。上田さんは、来世とか霊魂の不滅とかを自分は信じることができないと言っていた。大抵の日本人はそうであろう。仏教の教えは来世を期待することと同じではない。むしろ期待しない心を鍛えることにある。

 彼の小説を読んでいるとつねに自分の死のテーマにこだわっている。こだわり過ぎているとさえ思うことが多かった。あるとき、死を平生考えない人間がむしろ正常なのだ、という彼の感想があった。それはかえって彼における死の意識の深さを感じさせた。

 私は上田さん宛の手紙で、病いの中にあるときの私はあなたの作品に共感し、分ったようなつもりになっていたが、本当は何も分っていなかったのかもしれない。私はあなたが知っての通りどちらかといえば「社会的自我」で生きているタイプの人間で、かりに不治の病に仆れても、結局は今までの自分を変えることはできず、あなたから見て軽薄で、表面的な「社会的自我」で活動する人間であることを死ぬまで守りつづけ、追いつづけるほかない人間であろう、という意味のことを、いくらか自嘲気味に書いた覚えがある。

 苦悩する聖者を前にした浅間しい凡夫のような気持ちで、私は彼の作品を読み、論評し、かつ私的にも交流していた。

 私は本当には死の自覚を持っていない人間に違いない。一度だけこんなことがあった。

 都心から深夜高速に乗ってタクシーで一路自宅へ急いでいたときのことだった。点滅する前方の光の乱射がどういう心理作用を及ぼしたのか分らない。私は自分の意識が突然消えてなくなるということがどういうことか分らないのに、それが一瞬分るような、なにかでがくんと身体が揺さぶられるような、眩暈のような感覚にとらわれた。私はしばらく息を呑む思いがした。自分の意識が消えてなくなる?

 これはどういうことだ?

 自分がなにか違う次元の相へスリップインしたような、ついぞ体験をしたことのない異様な恐怖が私を襲った。

 うまく言葉でいえないが、それはたしかに恐ろしかった。私は目をつぶってやり過した。
 
 上田さんの、滝壷の手前で水がフッとかき消えてしまう不思議な滝の光景がしきりに思い合わされた。

 タクシーは間もなく高井戸から環状八号線に入り、いつも見慣れている馴染みの商店街を目にするにつれ、私は自分を取り戻した。携帯を取り出して、もうすぐ帰るよ、と自宅へ電話した。

 あっという間の出来事だった。

 (『礎』二〇〇七年復刊 第二号 二〇〇七年三月一八日発行からの転載)

東京は新型ウィルスに襲われている

 春らしからぬ春が過ぎ、夏らしからぬ夏が近づいています。三月末のある夕べ、近くの公園に入りました。満開の桜の通りを覗き見しました。驚いたことに人の姿がまったくありません。夕方の五時ごろでした。国民が素直に政府の要請通りに自宅に籠っていた証拠です。
 
 六月の中頃、友人と久し振りに、本当に久し振りにレストランに入りました。もともとスペースの広い店なのにさらに隣の机を空席にし、非能率の客対応に耐えていました。私と友人はその上さらにテーブルを三つ並べて両端に離れて坐りました。店内に若い男女がビールの杯を掲げて賑やかに叫び合うシーンは見られませんでした。
 
 人の姿のまったく見えない桜並木は何となく不気味なものでした。賑やかな声の聞こえない会食風景は、不気味ではありませんが、若葉の美しい時節にどことなくふさわしくないものに感じられました。

 このどことなく鬱陶しい、神経症的な雰囲気は、全国同じとは思えません。東京は特殊なのかもしれない。

 新型ウィルスの襲来以来、私はわが身にもとうとう来るものが来たのかな、などといったあらぬ思いが心中からどうしても拭えません。

 一人の喜劇タレントの死が切っ掛けでした。私は病気持ちの84歳で、彼よりずっと条件が悪い。感染したら万に一つ助かる見込みはありません。二、三週間で、片がつくでしょう。その間呼吸のできないどんな苦しみに襲われるのだろうか、と生物としての不安が急に想像力の中に入って来ました。テレビはかの喜劇タレントがひとつの骨壺になって遺族に抱かれて自宅に帰ってくるシーンを映し出しました。彼の兄らしい人物が、「恐ろしい病気です。皆さん、気を付けて下さい。」とだけ言った。病中の枕頭への見舞はもとより、遺体との接見も認められなかった事情を言葉少なに語りました。
 
 死後直ちに焼却炉に入れられたという意味でしょう。屍体の取り違えは起こらないのだろうか、などと私はあらぬ空想に走る自分が恐ろしかったのです。中世末期のやり方と同じだな、とも思いました。その後やはりテレビでブラジルやアメリカやイタリアやスペインの乱暴な遺体処理の現場の遠景を若干覗き見ました。やはり中世と変わらないな、と再び思いました。

 しかし考えてみれば、死は一つであって、自分の死は他の人からどう看取られ、社会的にどう見送られるかのいかんで変わるものではありません。やはり自分の身にも来るべきものがついに来たのだな、とむしろ納得しました。そして夜、秘かに考えました。万が一、高熱が三日つづいて、PCR検査で陽性ときまり、入院せよという指示が出されたとします。私はいよいよ家を出るときに妻にどういう言葉をかけたらいいのだろうか。戸口で永遠の別れになる可能性はきわめて高い。このことだけは考えの中に入れていなかった、と不図気がついて、ゾッと総身に寒気が走ったのです。

 あゝ、そうか、そこまでは考えていなかったなぁ・・・と思うと、さらに想像は次の想像を誘いました。老夫婦二人暮らしのわが家では一方が感染すれば他方もまた必ず感染するに違いありません。ウィルスが家庭中に乱入したら防ぎようがないのです。そして、その揚句、私の住む東京のある住宅地からとつぜん二人の姿が消え、そしてそのあと何事もなかったかのごとく、街はいつもの静けさと明るさに立ち還るだろう。あゝ、そうか、そういうことだったな、とあらためて思い至ったのです。

 そんなこと分かり切っているではないか。お前はこの七月で85歳となることを考えていなかったのか。そう呼びかける声も聞こえて来ました。そうです。考えていなかったのです。あるいは、考えてはいても、考えを継続することを止めていたのです。

 生きるということはそういうことではないでしょうか。迂闊なのですが、迂闊であることは正常の証拠なのです。

 三年前の致命的な大病の結果から脱出しつつある今の私は、日々仕事に明け暮れていた昔日の自分の日常を取り戻そうとしている最中でした。すぐ疲れ、呼吸は乱れがちで、万事をテキパキ手際よく処理して来たかつての能力も今や衰え、あゝこんな筈ではなかったと途中で手を休め溜息をつくことしきりでありますが、毎日何かを果たそうと前方へ向かって生きているのは動かぬ事実です。今は伏せておきますが、私の人生譜の中に出て来なかった新しい主題や研究対象にも少しずつ手を伸ばし始めています。しかし公開する文章はどうしても今までやって来た仕事上のスタイルやテーマに傾き易く、掲載を用意してくれる月刊誌が求めるのも今までの私の常道であった世界と日本の現状分析です。こうして新型ウィルスの出現に揺れる世界と今の私の関係について、二篇の論文を発表しました。周知の通り「中国は反転攻勢から鎖国へ向かう」(『正論』2020年六月号)と、「安倍晋三と国家の命運」(同誌七月号)です。

 この二篇は、自分で言うのも妙ですが、今のところ大変に評判が良く、世界や日本の現実を疑っている人々の心を的確に捉え得ている分析の一例に入るだろう、と秘かに自負を覚えています。しかし「死を思え」と夜半に私を襲った不安の概念と直接には何の関係もありません。私は私を直かに表現していません。自分の生活にも触れていません。自己表現は現代政治論の形態をとっています。だから私の心を揺さぶっている本当のテーマに読者はすぐには気がつかないでしょう。けれども、とつぜん国境を越えた疫病の浸透とその世界史的震撼の図は、日本の一市井人だけでなく、トランプや習近平の胸をもかきむしる根源的不安をも引き起こす「不安の概念」と無関係ではありません。自己の実存のテーマに思いをひそめている人の文章であるか否かは、読者ひとりびとりの判断によって異なるでしょうが、それは読者ひとりびとりの「死を思え」の自覚のいかんに関わってくることだろうと考えています。

 と、そのように私はいま平然と偉そうに語っていますが、万が一感染を疑われ、玄関口を出て入院用の車に乗るあの瞬間に私は妻に何というだろうか、その言葉はまだ用意されていません。それどころか、言葉が見つからず思い悩んだというこの一件を私は彼女にまだ敢えて洩らしていないのです。語らないで済めばそれが一番いい。それが日常生活というものだ、と考えているからでしょう。そして私は日常を失うのをいま何よりも最大に恐れているのです。

(令和二年(2020)六月十八日)

台風一過

 今日も32度になり猛暑日がつづくとか、今夜も熱帯夜だとかいわれていたのはつい先日のことだった。あっという間に寒い季節に入り、不思議な気がしている。

 「戦争史観の転換」(正論連載)の5回目を書いた。第二章「ヨーロッパ500年遡及史」の①にあたる。この連載は学問ではない。歴史の叙述ではあるが、歴史学には関知しない。学問の手続きをいっさいとらない。好きなように自由に語りたい。

 このところ人の話をよく聴きに行く。10月19日、若い研究家柏原竜一さんがロシア革命の余波をドイツがどう受けとめたかをフランスの情報網がとらえた論究を語った。じつに詳細な学問的追究のレポートだった。10月23日、旧友の河内隆彌君がアメリカの拡張主義と孤立主義の二大潮流をその代表ともいえるルーズベルトとリンドバーグの活動のなかに追跡した研究発表をした。どちらも興味深い内容だった。どちらも良く勉強しているな、といたく感心した。

 私はいま岡田英弘著作集(全八巻)の第三巻の月報を書いている。当ブログのコメント欄のどなたかが岡田先生を故人のように扱っていたので吃驚した。岡田先生は健在である。11月4日(月)午後2時半から山の上ホテルで岡田英弘著作集発刊の記念シンポジウムが行われ、先生も出席される。

 私は聴衆のひとりとして、シンポジウム「岡田史学とは何か」の話を聴きに行こうと考えている。話をして下さる方々は木村汎、倉山満、杉山清彦、田中克彦、司会宮脇淳子の諸氏である。ご関心の向きは会場に出向かれたらよいかと思うので、ご案内申し上げる。主催藤原書店(Tel,5272-0301)。

 「内村剛介著作集」(全7巻・恵雅堂出版)がこのほど完結し、10月26日、高田馬場のロシア料理店でお祝いの会があり、招待された。顔見知りはいなかったが、短い挨拶をした。内村先生は1920年生れ、15歳上であり、88歳で亡くなられた。革命と反革命が身体の中で一体化しているような個性的な思想家だった。

 10月27日、持丸博(正しくは松浦博)さんの追悼偲ぶ会があり、彼が三島由紀夫邸に私を昭和43年秋に連れて行ってくれた思い出を綴った昔の拙文「一度だけの思い出」を挨拶代りに、私は朗読した。持丸さんは三島さんの片腕で、楯の会を支えた人物だ。その人生は三島さんの死で燃え尽きたかに見える。しかし4人のまぶしいくらい立派なお子さんたちを残された。奥様は杉並区議で文化チャンネル桜役員の松浦芳子さんである。ご冥福を祈る。
 
 韓国の問題に目下日本人は苦慮している。私はいま、「北朝鮮よりももっと平和を乱す国・韓国」と題して少しまとまった論文を書こうと着手している。韓国の度が過ぎた対日侮辱には怒りや軽蔑の言葉が投げつけられているが、われわれは米中の谷間で自国の安全保障を守る見地から考えなければならない。

 韓国の中枢の指導者はいくら日本を侮辱してもいざ救いが欲しくなり、困ったときには日本は必ず助けてくれるという根拠なき確信をもっているように思える。その責任の一半はもちろん日本にある。これが問題を考える起点、基本のポイントである。

 さて、私の全集は第9巻「文学評論」の初校が出て、三人の校正の方々が見てくださっている。刊行は少し遅れ気味で、一月にずれこむかもしれない。

 私は次の巻のテキストの蒐集、整理編成、校正、関連雑務、今の巻の後期の執筆と相次ぐ作業に追いまくられている。

 ゆっくり自由な読書ができない。仕事の作業のための読書に限定されてくる。次々と送られてくる新しい雑誌も、新刊本もなかなか読めない。それが辛い。

 新聞にもあまり目が向かない毎日である。が、日本シリーズは気になっている。マー君は往年の稻尾のような巨人いじめをするのだろうか。

本の表題

本の表題  追想40年 『正論』」創刊40周年記念号より 

 1973年はまだ私がかけ出しの文藝評論家だった時代である。処女作にあたる二冊のヨーロッパ論のあとの三年間に私が出した単行本は、『悲劇人の姿勢』(1971年、新潮社)、『情熱を喪った光景』(1972年、河出書房新社)、『懐疑の精神』(1974年、中央公論社)、などだった。どれも大まじめに付けた表題で、これで通用したのだから、今思うと不思議である。

 不思議と言ったのは私ではなく、最近ある編集者が今どきこんな題では本は出せない、まして若い評論家の自己主張の本にしては余りに否定的なトーンの表題で、読者受けしない、と言われてそんなものかと思った。しかし、世界や日本を否定するトーンの表題を私はその後もいっこうに改めなかった。『地図のない時代』(1976年、読売新聞社)、『智恵の凋落』(1989年、福武書店)、『日本の不安』(1990年、PHP研究所)、『自由の悲劇』(1990年、講談社)、『日本の孤独』(1991年、PHP研究所)、『確信の喪失』(1993年、学研)・・・・といった具合である。世界を否定的に語ることで自己を主張し、同時にそれが私の世界肯定の思想になるという逆説は、私にとっては生得的な何かであるのかもしれない。

 問題は私がそうした題を掲げるのを好んだことではなく、それが広い読書界で広く迎えられたかどうかは別としても、少なくとも許されたということである。否定がじつは肯定になるというアイロニーを理解し、愛好する一定数の読者に私が恵まれたことである。

 1979年に小林秀雄氏が『感想』という表題の評論集を出されて、私は日本経済新聞に頼まれてこの本の書評を書いた。内容よりも、表題に私はど肝を抜かれた。老年になっても私はおそらくこんな堂々たる題を付けた本は出せないだろうな、と予想したが、その通りになった。私がかりにいま『感想』という書を出せばどことなく滑稽にみえるだろう。で、私が本年出した評論集の題は『憂国のリアリズム』(2013年、ビジネス社)ということになる。世界と日本を否定するトーンの表題は行き着くところついにこういう仕儀に立ち至った。否定だけで肯定を含意した今までの打ち出し方はもう出来ない時代に面し、「憂国」という否定語に、「リアリズム」という肯定的主張語を組み合せざるを得ないことになったのだ。

 ものを書き始めた1960年―70年代初頭に、私は『新潮』『自由』『文学界』『季刊藝術』『批評』などに依拠していたが、丁度そのころ新左翼の出現と学生の反乱に危機感を深めた保守系知識人が日本文化会議を立ち上げ、その流れで1969年5月に『諸君!』が、73年10月に『正論』が創刊された。私も自然にそこに名を列ねるライターの一人となっていくが、当時世界や日本を否定するトーンの表題を自著に好んで付けたのは、この政治的流れと無関係ではないものの、それと必ずしも一致するものではない。私以外の世の多くの保守系論客は世界と日本を最初から力強く肯定的に語っていた。私が否定的に語ったのは、自分を否定することにつながり、自分を否定する契機を経ずして、世界や日本を簡単に肯定的に語っても、私の精神は伝えられないと考えたからである。

 当時の言論界は、何を語るかではなく、どう語るかつまり語り手の倫理的動機がたえず読者に意識され、共有されていた。政治や世相を語っても、単に政治や世相を事柄として語るのではなく、語り手の精神の高さがどの辺にあるのかが同時に問われていた。そういうことを気にしないで、乱暴に、人生の安易な生き方、面白い考え方を説いて読者を喜ばせる一方の人もいるにはいたが、政治や世相をどう考えどう論じたかではなく、論じた人の精神の高さがある意味で勝負だった。文章に現れた人品が問われることを書き手はつねに知っていなくてはならなかった。読者は本能的に人格を嗅ぎ分けていた。語り手や書き手の人間が問題だった。当時の言論界はまだ小さく、書き手と読み手の間の交流が感じられ、ある意味で関係は「私小説的」だった。小林秀雄が『感想』というほぼ無題のような評論集を出すことが可能だったのは、この精神的空間のゆえである。

 小林は自己表現の「自己」をいつも問題にした。自分を生かそうと敢えてしたときに自分は生きない。小林はだから「無私」ということを言った。福田恆存は自我の芯を剥き出しにして戦ってはならないとつねづね語った。自己の「隠し場所」が必要である、と。自己ほど手に負えないものはない、は福田の口癖だった。私が世界と日本を否定するトーンを表題に選んだのも、そこに関係があるのだが、私は「自己」を否定することで自分を生かそうというこわばった意識に囚われてきた点でまだまだダメである。「憂国のリアリズム」ではまだまだ青臭い。

 けれども今の言論界には語り手の精神を問題にする空気はもはやない。情報の量や出所がきめ手になった。素人でも新しい情報さえ手に入れれば言論界の主役になれる。どう語るかよりも何が語られるかだけが中心になった。勢い、本の表題は題材主義となり、過激になるか、長たらしく説明的になるかのいずれかになりがちである。

宗教とは何か(三)

 外国文学にせよ歴史にせよ、言葉の世界であり、文字表記の世界である。しかし涯(はて)しなく時間を遡れば、私たちは言葉も文字もない世界にぶつかる。空間を拡大しても同じである。

 宗教は「外国」や「過去」といった何か具体的な手掛かりのある有限なものを実在とするのではなく、何もない世界、死と虚無を「実在」とする心の動きである、とひとまず言っておきたい。これはしかし途方もないことである。

 宗教の中には死と虚無を認めない立場もあれば、時間と空間の涯に死と虚無しかないことをしっかり直視している立場もある。死ではなく永遠の生、虚無ではなく永遠の存在を信じ、これを主張し、防衛する立場が恐らく世の宗教組織、宗教教団、宗教思想の依って立つ立脚点であろう。数限りない世界の宗教、細分化される宗派宗門、それぞれ独自の経典とそれに基づく密儀秘祭の細則、修行の戒律、伝播と教育と教宣活動、そしていたるところに建立されてきた大伽藍。私はそれらのすべてに関心があり、すべてを等価と見る文化史的見地にどうしても立つので、どれか一つの宗派の選択だけが正道であるとする信仰者の強靭な生き方、聖アウグスチヌスが「まちがった魂を滅亡から救うためには、強制もまた止を得ない」と言ったあの不寛容への決意のようなものに自分を追い込むことは思いも及ばない。それでいて私は宗教人の頑迷さに似たものに敏感であり、信仰に似た心の働きにつねに敬意を抱く。

 人間は歴史をいくら遡っても、文字言語の確かめられる所までしか遡れない。文字なき以前の遠い時代に、民族の純粋な声を聞き取ろうとした本居宣長のような人もいるが、彼にしても死と虚無を「実在」として、その上に「自己」を組み立てていると見ていい。

 本居は既成のあらゆる存在の名、ことに中国伝来の「天」の概念も仏教や朱子学の理念も否定して、日本の神々の世界に「むなしき大虚無(オホゾラ)」が広がっていると言っている(『古事記伝』第九巻)。現代風にいえばニヒリズムの自覚である。

 自己と事物一切の根底にリアルに潜む虚無が「自己」の前に立ち現れるとき、目前にあるのは名づけようのないものである。「大虚空」としか言いようがなかっただろう。それは古代初期ギリシャ哲学の時代にタレスが万物は「水」であると言い、ヘラクレイトスが「火」であると言った、等々のことに共通する何かであるように思える。

 私は特定の宗教に心を追い込むことがどうしてもできない。今なお死と虚無を「実在」とする立場なき立場に立ちつづけているが、それを「迷える子羊」だとも思っていない。

 だいたい宗教というこの二つの文字は、中国でむかし仏教の中の諸宗、各々の教えを呼んでいた言葉で、明治の近代日本がレリジョンの訳語に採用して以来、アジアの漢字文化圏に広がって、「宗教」は仏教の上位概念になって今日に至ったのである。ヨーロッパ語で宗教思想等が再編成されたときに、総括概念として使われたのが「宗教」で、それまでは仏教や神道やキリスト教や道教や儒教等々は存在したが、「宗教」は存在しなかったのだ。このことは案外多くを語っている。

 “宗教をどう考えるか”というようなこの稿の編集部からの質問が、すでに信仰の立場からではなく、近代の宗教学の立場からのアイデアである。

 宗教学者は信仰家である必要はないが、信仰がどういうことかを知っていなければ、信仰を学問の対象にすることはできないだろう。しかし信仰を知るとは物体の運動法則を知ることと異なり、あくまで自分の心が問われるのである。これは大矛盾である。信仰を知るとは何かの対象を「実在」として知ることと同じではない。対象化できない何かにぶつかることなのである。

 このように、学問と宗教は相反概念なのであるが、明治以来われわれはヨーロッパから近代の学問の観念を受け入れ、死と虚無を「実在」として生きているのが現実であるにも拘わらず、ニヒリズムの自覚に背を向け、誤魔化しつづけて生きている。そのため宗教とは何かを問われたり問うたりして平然として「自己」を疑わないでいるのである。

『悲劇人の姿勢』の刊行記念講演会は次の通りです。

  第三回西尾幹二先生刊行記念講演会

〈西尾幹二全集〉

 第2巻 『悲劇人の姿勢』刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。

ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。

   ★西尾幹二先生講演会★

【演題】「真贋ということ
 ―小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって―」

【日時】  2012年5月26日(土曜日)

  開場: 18:00 開演 18:30
    
【場所】 星陵会館ホール(Tel 3581-5650)
     千代田区永田町201602
     地下鉄永田町駅・赤坂見附駅より徒歩約5分

【入場料】 1,000円

※予約なしでもご入場頂けます。
★今回は懇親会はなく、終了後名刺交換会を予定しています。

【場所】 一階 会議室

※ お問い合わせは下記までお願いします。

【主催】国書刊行会 営業部 

   TEL:03-5970-7421 FAX:03-5970-7427
   
   E-mail: sales@kokusho.co.jp
se_map4-thumbnail2.jpg

・坦々塾事務局   

   FAX:03-3684-7243

   tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp

星陵会館へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650 FAX 03(3581)1960

宗教とは何か(二)

 私は外国文学研究家として漱石の苦闘に共感するが、歴史研究にも似たような矛盾撞着があると考えている。歴史研究家にとって認識の対象となる「実在」は過去である。最初は過去を「自己」の外に置いて眺めざるを得ない。だがこの起点に留まる限り、なにも始まらない。あらゆる過去はすでに確定し、現在から見て宿命であって、もはや動かないが、歴史は動くのである。歴史と過去は別である。

 歴史は記述されて初めて歴史になる。歴史は徹頭徹尾、言葉の世界である。記述に先立って過去の事実の選択が行われる。選択には記述者の評価が伴う。評価は何らかの先入見に基づく。歴史という純粋な客観世界は存在しない。それなら歴史は歴史家の主観の反映像かといえばそうはいえない。

 歴史は「自己」がそこに属する世界であり、「自己」より大きな、それを超えた世界でもある。何らかの客観世界に近づこうと意識的に努めない限り、歴史はその扉を開いてくれないが、しかし何らかの客観世界は「自己」が動くことによって、そのつど違って見える存在である。

 歴史家のヤーコブ・ブルクハルトは例えばツキュディデス(古代ギリシャの歴史家)のなかには今から百年後にようやく気づくような第一級の事実が報告されていると言っている。過去の資料は現在の私たちが変化して、時代認識が変わると、それにつれて新しい発見が見出され、違った相貌を示すようになるという意味である。歴史は歩くにつれて遠ざかる山の姿、全体の山容が少しずつ違って見える光景に似ている。それは歴史が客観でも主観でもなく「自己」だということである。

 歴史が「自己」だという意味は、過去との果てしない対話の揚げ句にやっと立ち現れる瞬間の出来事で、大歴史家はそのつど決断をしつつ叙述を深める。私が現代日本の大半の職業歴史家に不満と不信を持つのは、彼らが歴史は動かないと思い定め、固定観念で過去を描いているからである。何年何月に何が起こったかを知ることは歴史ではない。しかし彼らは歴史はあくまで事実の探求と確定だと思っている。

 ブルクハルトが歴史の中に「不変なもの、恒常的なもの、類型的なもの」を認めると言ったとき、それはイデアという一語に近いが、哲学者のようにそうは簡単に言わなかったのは歴史は、動くものだといういま述べた前提に立っているからで、動くものの相における普遍の「価値」に向かう姿勢を示している。

 ブルクハルトの歴史探求も私には宗教体験に似ているように思える。

つづく

『悲劇人の姿勢』の刊行記念講演会は次の通りです。

  第三回西尾幹二先生刊行記念講演会

〈西尾幹二全集〉

 第2巻 『悲劇人の姿勢』刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。

ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。

   ★西尾幹二先生講演会★

【演題】「真贋ということ
 ―小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって―」

【日時】  2012年5月26日(土曜日)

  開場: 18:00 開演 18:30
    
【場所】 星陵会館ホール(Tel 3581-5650)
     千代田区永田町201602
     地下鉄永田町駅・赤坂見附駅より徒歩約5分

【入場料】 1,000円

※予約なしでもご入場頂けます。
★今回は懇親会はなく、終了後名刺交換会を予定しています。

【場所】 一階 会議室

※ お問い合わせは下記までお願いします。

【主催】国書刊行会 営業部 

   TEL:03-5970-7421 FAX:03-5970-7427
   
   E-mail: sales@kokusho.co.jp
se_map4-thumbnail2.jpg

・坦々塾事務局   

   FAX:03-3684-7243

   tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp

星陵会館へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650 FAX 03(3581)1960

宗教とは何か(一)

 『寺門興隆』(興山社)という雑誌に「宗教とは何か」という文章を書いてほしい、という難題をぶつけられた。その四月号に次の文を記した。三回に分載する。

 私はドイツ文学の研究者から出発し、政治や歴史について考えたり書いたりする仕事を主にする人生を送った。特定の宗教に帰依したことはなく、信仰心を持つ人間とも思っていない。つねに宗教に関心を持ちつづけてきたが、文化史や政治史における宗教の影響力に関心があるのであって、したがってあらゆる宗教に関心があり、宗教そのものには関心のない人間なのかもしれない。教養主義は宗教の敵であるが、私はそれに毒されている。

 教養主義はさまざまな知識を横並びに広げ、あらゆる価値を相対化する。しかしさまざまな知識を潜り抜けなければ、いかなる価値も樹てられないという矛盾もある。宗教は価値に近づくのに異なる入り口から這入る世界なのかもしれない。異なる入り口から別の通路を抜けて一直線に価値に迫るのが信仰であろう。

 自然科学者は山川草木森羅万象を、社会科学者は社会、法、国家、経済組織等をそれぞれ「実在」と見なして、それらを対象化し、それらの理法を究めようとするのだが、認識主体である「自己」をとり立ててあまり問題にしない。人文科学ではそうはいかない。私はドイツ文学者であり、文芸評論家でもあったので、若い頃から外国文学を学んだり研究したりすることの矛盾に悩んできた。

 私が当時対象とする実在は「外国」であった。外国を主観と客観の対立する認識の相において客体として捉えようとするのだが、ここに留まっている限り、外国研究は実はほとんど前へ進まない。日本人である自己を捨ててある特定の外国の人間になり切るくらいの所まで行く、すなわち主観を捨てて客観の世界へ没入する所まで行く、そこではじめて何かが見えてくるといっていいだろう。私自身がそこまでやったという自覚はなく、私は中途半端だったが、自己を捨てることが必ずしも自己を失うことにはならない場合がある。

 夏目漱石のロンドンの憂鬱はこの点で示唆的である。図書館で万巻の英書を読もうとした漱石は自己錯乱の果てにふと悟るところがあって、外国は結局分らない、イギリス文学を知るのにイギリスの専門家の手引きにいつまでこだわっても駄目で、英書より漢籍のほうが良く分る自分の感受性を信じることが大切だと気づいて、「自己本位」ということを言い出した。

 これは漢籍が分る東洋人の自分の主観でイギリス文学を割り切ればいいという話ではなく、いったんはイギリス人になり切ろうと努力する「自己」が先行していた。しかしその「自己」が邪魔だということに気がついた。それはまだ、自意識の段階の「自己」だからであり、そこで悪戦苦闘して、万巻の英書を読破しようと思い込むなど錯乱に近い状態を経て、ふと悟るものがあり、外国という「実在」に直接するリアルな瞬間を持ったのである。

 漱石の外国体験は宗教的悟りに似ているといえないだろうか。

つづく

「朝雲」(一)

 過去一年間『朝雲』という防衛省の新聞にコラムを書き綴った。新しい日付から旧い日付のものへさかのぼって紹介する。最初は3月17日付であるが、3月11日午前中に送稿していて、地震の日だが、この稿を書いたときはまだ震災を知らない。

日本復活のシナリオは?

 ある雑誌の座談会に招かれて、標題を尋ねると「日本復活のシナリオ」であると知り、どこでも最近はこういう題が出されることに押しなべて今のわが国の不安と危機感が偲ばれる。民主党政権交替以来あっという間に国の格が下がっていく「日本没落」の感覚は目まいのような恐怖すら伴うが、問題の根はじつは深い。

 私の若い頃から一流の人間は政治家を目指さなかった。この国は政治家は三流でも官僚がしっかりしているから何とか持ったのだ、といわれていたものだが、最近はそうも言えなくなった。政官財のリーダーの国家意識の喪失は今や目を蔽うばかりである。

 吉田茂は憲法改正をしなかった。佐藤栄作は非核三原則などと自分から言わないでもいいことを持ち出して自分で自分を縛った。中曽根康弘は靖国参拝をとり止め、歴史教科書問題で中韓にすり寄った。小泉純一郎は靖国参拝をしたから偉いという向きもあるが、拉致問題で毎日のようにテレビのぶら下がり発言において、「ご家族のためを考えます」とは言ったが、「北朝鮮のしたことは主権侵害だ」とはただの一回も口にしたことはない。安倍晋三は慰安婦問題で何を勘違いしたかブッシュ大統領に謝罪した。終戦直後に日本人慰安婦が群をなして米兵の腕にとりすがった姿を忘れていないわれわれは、慰安婦問題は世界の軍隊の至る処にあり、アメリカはむしろ振り返って日本に謝罪すべきだ、となぜ言えなかったのか。

 最近米国務省日本部長メア氏の沖縄発言が問題になり、「ごまかし」と「ゆすり」が沖縄人侮辱と騒がれたが、米国政府が平謝りしメア氏を即座に更迭したのは、彼の発言中の「日本は憲法9条を変える必要はない。変えると米軍を必要としなくなり、米国にとってかえってまずい」というアメリカの本音、日本永久占領意思がばれて、物議をかもすのを恐れたからで、沖縄人侮辱発言のせいではない。日本列島はアメリカ帝国の西太平洋上の国境線であって、日本に主権はない。アメリカはここを失えばかつてイギリスがインドを失った場合のように世界覇権の座から滑り落ちる。だからアメリカが必死なのは分るが、それゆえにこそ日本も真の独立をめざして必死にならなければ「日本復活のシナリオ」は生まれてこない。日本の政治が三流に甘んじてダメなのはあらゆる点で主権国家であることを捨てているからである。

 かつて日本はアメリカと戦争をした。がっぷり四つに組んで三年半も近代的大戦争をくり広げた。日本は立派な主権国家だったのである。

三寒四温

 普通3月のお彼岸前に三寒四温ということがいわれるが、桜が散った4月半ばにこんなに寒くなったり、暖くなったり、気温が大きく動くのは珍しい。昨夜は会合があって外出したが、ひどく寒かった。

 東京は3月23日頃に開花した。そして4月13日、14日頃にようやく散り始めた。が、いっぺんに葉桜にならない。20日以上も開花したままの桜の姿を楽しめたのも寒さのせいと思うが、たえて例のない春だった。

 お花見は二度やった。宮崎正弘さんが主催する恒例の隅田川の遊覧船が3月27日、大石朋子さんが世話して下さった坦々塾の錦糸町公園が4月4日、どちらも二次会まであるお酒の会で、例によって花を愛でるよりも談笑が主で、しかも何を話し合ったかまったく覚えていないのもいつもの通りである。楽しさだけが心に残っている。

 4月10日に日比谷野外音楽堂で講演をした。例の平沼新党が誕生した日なので、平沼赳夫、与謝野馨、中川義雄の三議員といっしょに講演をすることになったが、私は新党とは関係はない。主催者団体が何を企図していたのかはよく分らないものの、信頼すべき方々が主催されていたので私は講演依頼を受けていた。

 この日は幸い日が照っていて一日中暖かった。日比谷の桜もまさに満開のままだった。桜のほかにもチューリップその他春の花が手入れよく苑内の花壇をきちんと整えていた。

 会場にはワック社『WiLL』編集部のNさんが駆けつけて下さった。独自に録音して、持ち帰ったものを文字におこした私の講演原稿は2日後に送られてきた。添え状にお世辞でも次のように記されていたのは嬉しい感想だった。

素晴らしいご講演を誠に有難うございました。
あの後、最後まで、全ての講演を聞いておりましたが、西尾先生のご講演時が最も聴衆が一体となり、湧き上がっていました。

昭和十七年の時点で、「日本が英米を指導しなければならない」と語っていた、哲学者がいたことに大変感銘を受けました。
日本がアジアの香港になってしまうこと、原爆を落とされた国が落とした国に向かって縋りついて生きている異常な構図がいつまで続くのか、という先生の問いかけが、非常に胸に響きました。

 題して「よみがえれ国家意識」という25分の講演は、『WiLL』の4月26日発売号(6月号)の巻頭論文にしてくださるそうで、昨日花田編集長からそう電話があった。

 日本人は高い意識を持たなければいけないのだ。世界は動いている。アメリカや中国の出方にいちいち振り回されていてはいけない。

 昨日も今日も雨模様で、東京は寒い。桜はすでに散ったのだが、まだ枝々は花の色をとどめている。私の家の周りにも桜の樹はいたるところにあり、犬を連れた散歩はこのところ毎日がお花見だった。

 『WiLL』5月号誌上の私と福地惇、福井雄三、柏原竜一の三氏による共同討議「現代史を見直す」シリーズ第5回「半藤一利『昭和史』徹底批判」には続篇がありますが、続篇の分量が多かったため、5月号で終わらず、6月号、7月号に分載されるとの連絡を受けました。3回連載となります。

ドイツ大使館公邸にて(六)

 最初に話ししたように、私はキルシュネライト教授とシュタンツェル大使に、文学に関する最新の自著を差し上げたいと考え、『三島由紀夫の死と私』を二冊持って行って帰りしなにお渡しした。

 教授は日本文学の専門家だし、大使も日本文学と中国文学の研究歴があり、若い頃に三島について論文を書いていることが大使館から予め送られて来ていた大使の略歴書に載っていたからである。

 公邸を辞して十日ほど経ってから、大使はご自身の二篇の論文のコピーを私に届けてくださった。その中に1981年に英文で発表された三島論があった。題してTraditional Ultra‐Nationalist Conceptions in Mishima Yukio’s ‘Manifesto’となっていた。ここで Manifesto というのは、三島が楯の会隊長の名で1970年11月25日に市ヶ谷台の自衛隊基地で切腹前に提示したあの「檄」のことである。

 「われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ」で知られる有名な文章だ。「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。」

 シュタンツェル大使は「檄」の内容をきちんと正確に捉えていた。「三島の生涯はなんらultra-nationalism に捧げられたものではなかったが、しかし彼は何を措いてもまず ultra-nationalist であった。」

 「檄」は主要な四点から成ると捉えられている。すなわち、(一)現代日本の腐敗と空虚、(二)それに対決されるべき真の日本(天皇によって支えられる)、(三)その真の日本を実現する真の人間(ここでいう man は human ではなく male 、すなわち samurai )、そして(四)としてはsamurai の孤独死ではなく共同体の同志によって達成される行為、すなわち「軍」の果す犠牲的行動がなによりも高く評価されていると、彼は解釈している。

 経済的繁栄にうつつを抜かして自分自身を失っている堕落した現代日本に対する三島の憤りを、この論文はその文脈においてとりあえず正確に捉えている。そして、天皇に体現されるところの「真の日本」の実現をこそ三島が目指していた目的であると見て、その実行の要として国軍の復活を激越に求めていたと理解している。このシュタンツェル大使の「檄」の読み方は、概して誰しもが承知している理解の仕方といえるだろう。たゞなぜそれなら、三島のあり方を ultra-nationalism と呼ぶのであろうか。

 私が面白いと思ったのは次のような強調点だった。「三島は自国の外になんらの敵のイメージをも創り出さない。自国の悲惨がその国のせいだと言い立てるスケープゴートを国外に創らない。日本がアメリカの政治的リーダーシップ に従うあまり独立を失っているのは嘆かわしいと見ているけれども、それはアメリカが日本に敵意をもつ国だからではない。しかもアメリカ以外の国はどこも言及されていない。三島が主に苦情を申し立てているのは、自国の国内の状態に対してであって、敵対感情を投げかけてくるような外部からのいかなる脅威に対してでもない。」

 三島が死んだ1970年を考えれば、日米関係は最も安定していた。ドイツ人外交官の眼に、外敵の恐怖も脅威もない時代に、苛烈なナショナリズムを燃え立たせる三島の情熱は不可解なものに見えたのではなかろうか。「真の日本」などというものは今までどこにも存在しないとか、三島のいうsamurai の概念は道徳的であっても社会的ではない、等と野次をとばしているのも、浮世離れした行動に見えたからであろう。

 けれどもシュタンツェル大使はもう少し奥深いところを見ていた。ナショナリズムは他の国に対して敵意を持ったり持たなかったりするが、それは自国に対する外の世界の反応のいかんに応じてそうなるのである。それに対し ultra-nationalism は伝統的で民族的な文化の諸要素に頼ることで市民意識の中に nation の概念を固める目的を狙いとするようなイデオロギーであって、きわめて極端な種類のナショナリズムである、という言い方をしている。そして、三島を理解するのに江戸幕末期の「国体」の概念と比較することの必要を説いているのが興味を引く。

 古代以来の神話の伝承、天照大神の子孫としての万世一系の天皇家の統治に由来する「国体」の観念が、あの righteousness(義)とか truth(真)の概念を保証してきたのであって、三島がもち出したさまざまな概念と「国体」の概念との類似性は明瞭である、と断定している。そして吉田松陰は三島が「真」の日本人として心に抱いていた人物であった、と。

 しかしここから論旨は急に一転する。物事はだからすっきり明瞭になっているわけでは決してない、と彼が言い出しているのが私には面白かった。三島の概念も、また明治から昭和にかけての各種の「国体」の概念も、どれもとらえどころがなく、把握しがたいと彼は言う。はっきりした輪郭をもった一つの思想に還元されていない、と。天皇といい、侍といい、義といい、真といい、どれも巾広い含蓄のあるシグナルめいた言葉であって、あらゆる種類の具体的な政治的解釈を許してしまう恐れがある、と述べている。

 「(三島の檄に出てくる)典型的に urtra-nationalist の諸概念は、日本の国粋思想の伝統から真直ぐに由来している。それらは伝統主義者のカテゴリーにさかのぼって関連している。同時に、それらは漠然とした観念連合から成る信号めいた単語を多用しているので、巾の広い異なる政策の一連のつながりを理解することを許してしまうのである。」

 三島の思想と行動に江戸幕末の志士の「国体」論を結びつけて考える人はこれまで多くはなかった。ドイツ人がこの観点を引き出したことは興味深いし、評価できる。

 三島が南朝の支持者であったことを思えば光圀の水戸学とその幕末への影響と彼とを結びつけて考えることは少しも不自然ではない。また、江戸の国体論と昭和前期の国体論はつながっていても、大使の言うように、われわれ日本人にも「はっきりした輪郭をもった一つの思想に還元されない。」

 その意味で論文は私にも納得のいく内容であった。ただ、私が一読してハッと目を射抜かれたのはこの点ではなく、三島が自国の外にいかなる hostile enemy をも見ていないというあの個所だった。

 あれほどの激烈な行動が「敵」を欠いていたのだ。内省的、自閉的、ある意味で自虐的行動だった。外国人にあらためてそういわれた。そのことがいろいろな関連事項を私に考えさせ、私の心に一つの小さくない衝撃の波紋を広げたのだった。

 たしかに三島の行動は戦後の日本人らしく内向きだったといえるかもしれない。しかしその洞察と予見の力は大きく、「自民党が最大の護憲勢力だ」と言った彼の当時の言葉は、いま深く鋭く私たちの目の前の現実を照らし出しているのである。

(了)