最初に話ししたように、私はキルシュネライト教授とシュタンツェル大使に、文学に関する最新の自著を差し上げたいと考え、『三島由紀夫の死と私』を二冊持って行って帰りしなにお渡しした。
教授は日本文学の専門家だし、大使も日本文学と中国文学の研究歴があり、若い頃に三島について論文を書いていることが大使館から予め送られて来ていた大使の略歴書に載っていたからである。
公邸を辞して十日ほど経ってから、大使はご自身の二篇の論文のコピーを私に届けてくださった。その中に1981年に英文で発表された三島論があった。題してTraditional Ultra‐Nationalist Conceptions in Mishima Yukio’s ‘Manifesto’となっていた。ここで Manifesto というのは、三島が楯の会隊長の名で1970年11月25日に市ヶ谷台の自衛隊基地で切腹前に提示したあの「檄」のことである。
「われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ」で知られる有名な文章だ。「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。」
シュタンツェル大使は「檄」の内容をきちんと正確に捉えていた。「三島の生涯はなんらultra-nationalism に捧げられたものではなかったが、しかし彼は何を措いてもまず ultra-nationalist であった。」
「檄」は主要な四点から成ると捉えられている。すなわち、(一)現代日本の腐敗と空虚、(二)それに対決されるべき真の日本(天皇によって支えられる)、(三)その真の日本を実現する真の人間(ここでいう man は human ではなく male 、すなわち samurai )、そして(四)としてはsamurai の孤独死ではなく共同体の同志によって達成される行為、すなわち「軍」の果す犠牲的行動がなによりも高く評価されていると、彼は解釈している。
経済的繁栄にうつつを抜かして自分自身を失っている堕落した現代日本に対する三島の憤りを、この論文はその文脈においてとりあえず正確に捉えている。そして、天皇に体現されるところの「真の日本」の実現をこそ三島が目指していた目的であると見て、その実行の要として国軍の復活を激越に求めていたと理解している。このシュタンツェル大使の「檄」の読み方は、概して誰しもが承知している理解の仕方といえるだろう。たゞなぜそれなら、三島のあり方を ultra-nationalism と呼ぶのであろうか。
私が面白いと思ったのは次のような強調点だった。「三島は自国の外になんらの敵のイメージをも創り出さない。自国の悲惨がその国のせいだと言い立てるスケープゴートを国外に創らない。日本がアメリカの政治的リーダーシップ に従うあまり独立を失っているのは嘆かわしいと見ているけれども、それはアメリカが日本に敵意をもつ国だからではない。しかもアメリカ以外の国はどこも言及されていない。三島が主に苦情を申し立てているのは、自国の国内の状態に対してであって、敵対感情を投げかけてくるような外部からのいかなる脅威に対してでもない。」
三島が死んだ1970年を考えれば、日米関係は最も安定していた。ドイツ人外交官の眼に、外敵の恐怖も脅威もない時代に、苛烈なナショナリズムを燃え立たせる三島の情熱は不可解なものに見えたのではなかろうか。「真の日本」などというものは今までどこにも存在しないとか、三島のいうsamurai の概念は道徳的であっても社会的ではない、等と野次をとばしているのも、浮世離れした行動に見えたからであろう。
けれどもシュタンツェル大使はもう少し奥深いところを見ていた。ナショナリズムは他の国に対して敵意を持ったり持たなかったりするが、それは自国に対する外の世界の反応のいかんに応じてそうなるのである。それに対し ultra-nationalism は伝統的で民族的な文化の諸要素に頼ることで市民意識の中に nation の概念を固める目的を狙いとするようなイデオロギーであって、きわめて極端な種類のナショナリズムである、という言い方をしている。そして、三島を理解するのに江戸幕末期の「国体」の概念と比較することの必要を説いているのが興味を引く。
古代以来の神話の伝承、天照大神の子孫としての万世一系の天皇家の統治に由来する「国体」の観念が、あの righteousness(義)とか truth(真)の概念を保証してきたのであって、三島がもち出したさまざまな概念と「国体」の概念との類似性は明瞭である、と断定している。そして吉田松陰は三島が「真」の日本人として心に抱いていた人物であった、と。
しかしここから論旨は急に一転する。物事はだからすっきり明瞭になっているわけでは決してない、と彼が言い出しているのが私には面白かった。三島の概念も、また明治から昭和にかけての各種の「国体」の概念も、どれもとらえどころがなく、把握しがたいと彼は言う。はっきりした輪郭をもった一つの思想に還元されていない、と。天皇といい、侍といい、義といい、真といい、どれも巾広い含蓄のあるシグナルめいた言葉であって、あらゆる種類の具体的な政治的解釈を許してしまう恐れがある、と述べている。
「(三島の檄に出てくる)典型的に urtra-nationalist の諸概念は、日本の国粋思想の伝統から真直ぐに由来している。それらは伝統主義者のカテゴリーにさかのぼって関連している。同時に、それらは漠然とした観念連合から成る信号めいた単語を多用しているので、巾の広い異なる政策の一連のつながりを理解することを許してしまうのである。」
三島の思想と行動に江戸幕末の志士の「国体」論を結びつけて考える人はこれまで多くはなかった。ドイツ人がこの観点を引き出したことは興味深いし、評価できる。
三島が南朝の支持者であったことを思えば光圀の水戸学とその幕末への影響と彼とを結びつけて考えることは少しも不自然ではない。また、江戸の国体論と昭和前期の国体論はつながっていても、大使の言うように、われわれ日本人にも「はっきりした輪郭をもった一つの思想に還元されない。」
その意味で論文は私にも納得のいく内容であった。ただ、私が一読してハッと目を射抜かれたのはこの点ではなく、三島が自国の外にいかなる hostile enemy をも見ていないというあの個所だった。
あれほどの激烈な行動が「敵」を欠いていたのだ。内省的、自閉的、ある意味で自虐的行動だった。外国人にあらためてそういわれた。そのことがいろいろな関連事項を私に考えさせ、私の心に一つの小さくない衝撃の波紋を広げたのだった。
たしかに三島の行動は戦後の日本人らしく内向きだったといえるかもしれない。しかしその洞察と予見の力は大きく、「自民党が最大の護憲勢力だ」と言った彼の当時の言葉は、いま深く鋭く私たちの目の前の現実を照らし出しているのである。