『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(三)

長谷川三千子氏(埼玉大学名誉教授・哲学者)より

 拝啓 このたびはご著書『日本と西欧の五〇〇年史』をたまはり、有難うございました。自分の原稿書きにかまけて、御礼がおそくなつてしまひましたこと、お詫び申し上げます。御論の通り、五〇〇年前といふ時期は世界的な規模での大変換が起った時期で、私はこれは(以前『ボーダレス・エコノミー批判』に書きました通り)端的な崩壊現象だと見てをります。アダム・スミスの「楽天主義」も、むしろ無意識の内にそこから目をそむけてゐたが故のもの、と私には見えました。

 いづれにせよ、現在の世の中は、空間の秩序が壊れ、人と地、人と物、人と人の関係が稀薄になって、回復の道はどこにも見えない状態―そんな気がいたします。こんな時こそミネルヴァのふくろうが飛び立たねばいけないのでせうが・・・・・

 しかし、膵臓ガンからのご回復、本当にようございましたね!

 私の大学での同僚も、十年余り前に膵臓ガンの手術をいたしましたが、その後元気で本を書いたり講演をしたりしてをります。「憎まれつ子、世にはばかるって言ふぢゃない!」といつも彼女を冷やかすのですが、どうぞ大いに「憎まれつ子」の実力を発揮して、お元気でおすごし下さいませ。

                    かしこ

『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(二)

星野彰男氏より

追伸

 400頁を超える御著を拝読いたしました。こういう類書は日本史を除いたとしても、世界的にも無いと思われ、画期的です。欧米文明の暗黒史ですから、タブー視されて来たのでしょう。日本史側からも、少なくとも戦後には無かった。西欧世界のその暗黒史の見方に近い一例はスミス重商主義論です。彼はそれを『道徳感情論』では「ヨーロッパ人による人類史上、最も残酷な不正」(要旨)と言い、『国富論』でも「暴力的」と批判する。また、度重なる戦争を重商主義政策に帰します。

 英国が築いた貴論「海洋帝国」はWN(スミス国富論)の「植民地貿易の独占」批判にぴたりと符合します。前信でWN体系破綻説に反論するにはWN体系肯定説を採らざるを得ない、と書きましたが、同様のことはスミス本人にも言えそうです。つまり、彼は重商主義を「完全に除去」しようとし、それに取って代わるものが「自然的自由の体系」(「見えざる手」)とし、それを「ユートピア」とも言う。仮にそこに難点があると考えたとしても、その指摘をすれば、その分、折角の重商主義批判が割り引かれ、達成され難くなる。「楽観的」に見える根拠はそこにあろう。実際にはその重商主義批判は達成されず、その後、2度の世界大戦を含む史上最大の悲惨な事態を引き起こしてしまった。その点から見ても、「楽観的」とは言えまい。現時点でどうかは、また別の問題であろう。

 御著は「西欧」の暗黒史を総括的に鋭く解明した功績を認められるが、正にそれに取って代わるべき解決策に相当するのがスミス体系で、そこに社会科学の出番があろう。とすると、それは「楽観的」なのでなく、現実的なものであろう。そして改めてその妥当性が問われていく。他の代案があれば、それも一種の社会科学として受け止められていく。有無を言わさず、現実は戦後世界として動いており、その現実の実証的解明が必要とされていく。

 御著では欧米文化への肯定的評価も強調される。これは暗黒史の中から形成され、その論理を捉えた一代表例がスミス体系(市民社会)になると考えます。ルター等の「自由と必然」問題が大きな主題とされ、教えられますが、本件はヒューム(1739~)にもあり、スミス(1776)を介してカント(1781)が「二律背反」とした大問題で、時間・空間における有限・無限の矛盾律と同様に解決不可能とされた。ただしカントは「不定背進」(これに着目した例を寡聞にして知らない)により、その問題を経験的に論ずる他は無いと解した。これはWN体系視点の受容と思われ、経験科学の一拠り所を意味しましょう。

 マルサス(1798)以降はWN体系破綻説一辺倒で、ヘーゲル、マルクス等すべての論者がこの本来的な経験科学の実像を捉え損なって来た。こうしてその後の社会科学界は同破綻説によって、WN体系に含蓄されていた当の暗黒史告発から人々の目を逸らせて来た。御著は社会科学のその欠落を鋭く突いています。このような経過も含めて、御著の日本論を含む問題提起を改めて考えさせて頂きます。

2024年5月10日

『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(一)


星野彰男氏より


 この度は、ご新著『日本と西欧の500年史』をお贈り下さり、真にありがとうございます。これも代表作の一つに加えられる力作と拝察されます。また、アダム・スミス論に関わり、拙著(2002)を挙げて下さり、光栄です。ただしスミスの楽観論を厳しく批判されたことについては、改めて検討すべき課題として受け止めます。

 各拙著の課題は単なる肯定的評価ではなく、従来、根本的に破綻視されて来たスミス理解への肯定的反論に終始してきました。その限りでは肯定的ですが、その内容の全面的評価については、後の課題として留保してきました。このように分けて考えないと、従来の破綻説を克服できません。仮にスミス説への批判点があるにしても、それを隠して、破綻していない=肯定する立場を採らざるを得ません。今のところ、この私見への本格的な反論は寄せられていないので、その論争の手間は省かれつつあり、それを踏まえてスミス説への本格的な評価または批判をこれから考えます。その場合に、貴見の「楽観」論も従来のそれとは根底的に異なる視点からの批判ですので、容易ならぬ思想史上、社会科学史上の大問題ですが、残り僅かな生涯をかけて考えたいと思います。貴著全体については、従来、タブー視されて来た根源的問題提起であり、文明批評でもあるので、これらを受け止めつつ、先の観点を交えながら拝読します。読後感はその後にお伝えします。

 今、直感的に言えることは、貴著の西欧文明批判とスミスの重商主義批判とがほぼ重なり、それは西欧人としての内部告発でしょう。それ故にマルクスのスミス批判が援用されて、当の破綻説が19世紀以来、世論化した。「神の見えざる手」解釈もその一端です。高校の教科書で定番だったその解釈は、前世紀末頃までにほとんど単なる「見えざる手」に書き換えられています。かつてはそういう信仰を経済学に持ち込んだという理由で、破綻説を正当化してきました。スミス批判にはそういう不純な動機があったと解され、拙著はそれを追及し、払拭しつつあります。今世紀初頭の「ダンバー宣言」は私見の解するスミス視点に沿うものです。

 関東学院大名誉教授・アダム・スミス研究家 星野彰男