『日本人はアメリカを許していない』(その四)

株式日記と経済展望より、『日本人はアメリカを許していない 』 西尾幹二(著) の書評を転載させていただきます。

 

西尾幹二著の「日本人はアメリカを許していない」は刺激的な題名ですが、歴史カードを中国や韓国のみならずアメリカが切り始めたことが問題だ。西尾氏は新版のまえがきで次のように述べている。

◆まえがき

 内閣が小泉氏から安倍氏に替わる直前にアメリカから雷鳴のようなニュースが届いた。平成十八年(二〇〇六年)九月十三日、米下院国際関係委員会(共和党のハイド委員長)が慰安婦問題に関する対日決議を行ったというニュースだった。靖国ではなく、ことあらためて慰安婦であることにわれわれは驚いた。すでに清算ずみの話だからである。

 法的拘束力を伴わない決議形式にすぎないが、慰安婦問題(強制連行説)は存在しないとしてきた日本側の議論への公式反論もあり、「学校教育での指導」まで言い出していて、これは歴史教科書の内容へのアメリカからの新たな干渉であるから、いったいこの間に何が起こったのか、日本側は不可解と不安の念に捉われた。

 次いでアメリカ下院外交委員会のハイド委員長は、同年九月十四日、靖国神社の遊就館の展示内容の変更を求める見解を公聴会で陳述した。民主党のラントス筆頭委員は、小泉前首相の靖国参拝を非難して、「次期首相はこのしきたりを止めなければいけない」と参拝中止を求めた。新首相誕生の直前に、さながら機先を制するかのごとき、タイミングを測ったアメリカからの素早い牽制であった。

 いったいアメリカはにわかにどうして中韓並みの反日政策に転じたのだろうか。中間選挙で民主党が議会の過半を占めたせいもあるといわれるが、下院外交委員会に、民主党マイク.ホンダ議員によって従軍慰安婦に関する対日非難決議案が上程されて、局面はさらに悪化した。十二月にいったん廃案になったが、平成十九年(二〇〇七年)一月に再上程され、三月まで議論は沸騰し、米国時間六月二十六日に採択された。本会議でも採択される可能性は高い(六月二十九日現在)。

 非難の内容は、二十万人の強制連行による性奴隷の制度を旧日本軍が管理したという荒唐無稽な暴論に蔽われている。アメリカ議会の中に、過去にどの国もが犯罪を冒し、アメリカを含めすべての国が十分に謝罪しているわけではない、とホンダ提案をたしなめる良識的見解を述べる議員もいて、反日色ですべてが塗りこめられているわけではない。

 しかし、その間に、「狭義の強制はなかった」とする安倍新首相の国会発言が出るや、たちまち議会は反日感情に傾き、シェーファー駐日大使のきつい安倍批判の言葉もあった。また、靖国問題については、ブッシュ元大統領(父)による日本の首相の靖国参拝反対発言があった。いったいなぜアメリカの論調はかくも変容したのであろう。

 歴史カードがアメリカからきたのだということが問題である。これが日本人に衝撃と不安を与えている新しい局面である。(P8~P9)

《私(株式日記と経済展望の著)のコメント》

「株式日記」では以前にも書きましたが、大東亜戦争は今でも終わってはいない。武力による戦闘は終わりましたが、思想戦、言論戦による戦闘はまだ終わってはいない。東京裁判で徹底的な思想改造が行なわれて、日本は侵略戦争を行った犯罪国家とされてしまいましたが、アメリカは勝手に戦争のルールを変えて日本を罰してきたのだ。

日本は今までのような限定戦争のつもりで開戦しましたが、アメリカは中国からの無条件即時撤退を求めてきた。しかしそれがいかに困難であるか、アメリカがイラクから撤退できない事からもわかるはずだ。つまりアメリカは無理難題を吹っかけてきて日本を戦争に追い込んできたのだ。まさに本土でアメリカインディアンを追い込んで絶滅させたのと同じ方法だ。アメリカはミスを重ねると何をやるか分からない恐ろしさを持っている。

日本人はアメリカを許していない』(その三)

株式日記と経済展望より、『日本人はアメリカを許していない 』 西尾幹二(著) の書評を転載させていただきます。

書評 / 2007年08月06日
『日本人はアメリカを許していない 』 西尾幹二(著) 歴史カードがアメリカからきたのだということが問題である。これが日本人に衝撃を与えている。

2007年8月6日 月曜日

◆『日本人はアメリカを許していない』 西尾幹二(著)

◆限定戦争と全体戦争

 もうひとつ忘れてならないのは、第二次大戦の緒戦における日本軍の行動の不審さである。これは、われわれがどう考えても、歴史を考えるたびに不思議でならない点だ。一九四一年七月、日本軍が南部仏領インドシナに進駐したとき、時の日本政府は、アメリカの経済封鎖による報復を予想していない。

 さらに、南方諸島を日本は破竹の勢いで攻撃したわけであるが、アメリカがやがて総力を挙げて反撃に出てくるであろうということも計算に入れていなかった。シンガポールを落としたところで、英米側は停戦を提示してくるのではないか、あるいは少なくともそういう有利なかたちで戦争を終結させ、日本は地歩を固めることができるのではないかと考えたふしがある。

 とてもではないが、自国の国力を考えたときに、英米と戦えるだけの潜在パワーがないということはよくよく分かる。中国大陸での戦争が泥沼に入っているときでも、日本は一方では中国のいろいろな関係者に協力してもらいながらかろうじて中国での戦争をした。日本と中国が戦ったのでは必ずしもない。日中戦争という言葉が間違いである。中国大陸において日本と他の欧米列強がぶつかったということなのだ。

 したがって、他の欧米列強の側に中国人の将軍がいれば、中国人の兵隊もいる。日本の側にも中国人の将軍がいれば、中国人の兵隊もいる。そして、それぞれの陣営を支援する中国人の商業資本があった。要するに、日中戦争というと日本が独立主権国家の中国を攻撃したのだというふうに考える人が多いかもしれないが、じつはそうではない。

 あれは、欧米列強を含む、世界の列強が中国のぶんどり合戦をし、それに苛立った日本が深入りをしたという話にすぎない。したがって、もし日本を支持した南京政府が日本政府の傀儡だと言うのであれば、蒋介石は紛れもなく英米の傀儡にすぎない。それははっきりしている。

 とにかく、日本側としては、どこまでも限定戦争でいけるつもりだったのではないか、そこに戦間期での欧米側の戦争観のルールの変更を見誤った日本の判断ミスがあるのではないか、という気がしてならないのである。

 つまり、シンガポールを落としたところで停戦ができる。たとえば、真珠湾攻撃で機先を制することで、やがてアメリカ側が構えていた罠にはまって、彼らが総力を挙げて日本に反撃してくるであろう、チャンス到来とばかりアメリカは待ち構えていた全勢力投入の機を利用してやってくるだろうと、そのことが分かっていたら、日本は真珠湾を攻撃するなどという愚を犯さなかったはずである。

 ところが、その攻撃、緒戦の奇襲作戦というものに対して、日本側には、これによってアメリカは怯んで、たじろいでしまうであろうという高を括った考え方も非常に根強くあったと言われる。繁栄しているアメリカのような国は戦争はしたくないのだ、イギリスもアメリカも、もう戦争には疲れていて、自分たちの平和主義ムードに現を抜かしている、享楽主義的、快楽主義的な欧米人は、日本の一撃にあったら、おそらく怯んで、停戦条約を示すであろうという、相手の心が見えない、ある意味では軽率きわまる態度で日本は立ち向かった一面があったことは間違いない。

 大胆とも臆病とも言えるこの不思議な日本の緒戦における行動は、結局、第一次世界大戦で全体戦争を経験した西欧世界の現実にふれなかった、ある種の感覚のずれではないかという気がしてならないのである。第二次大戦でも日本は全面戦争に参加するつもりが最初からなく、今度も第一次大戦と同様に、局地戦争・限定戦争で片づくのではないかという、そういう見込みで開戦に踏み切った一面があるのではないだろうか。

 ところが、大事なことは、アメリカやイギリスはいわゆる戦いのルールを第一次大戦と第二次大戦のあいだにがらりと変えていたという事情がある。そこに、日本の誤算があったと私には思えてならない。

 つまり、日本からすれば、戦争のルールを変えられてしまっていたということである。最初の戦争観、すなわち限定戦争と称するものを国際公法は認めていて、否定されたことは一度もない。戦争はどこまでも政治の手段と考えられていた。したがって、賠償を取ったり、領土を奪ったりする、いわばスポーツのゲームのようなものとして戦争が位置づけられていた。そういう戦争観は東洋にはもともとなかった。日本はそれを勉強し、身につけて日清・日露を戦った。

 言いかえれば、こういうことである。日本は幕末に薩摩がイギリス艦隊に砲撃される。あのとき、さんざん大砲を撃ち込まれていながら、薩摩藩は莫大なおカネを取られている。それから、下関でも英米仏蘭の連合艦隊と戦争になり、大砲を撃ち込まれ、敗北している。しかも賠償金を求められている。

 それで日本は初めて、戦争でカネが取れるというリアリスティックな現実を目前に見た。とすれば、なんとしても勝たなければいけない。負ければ名誉だけでなく、実利も奪われる。自分の力を示すことで相手から名実ともに勝ちとるのが正しいのだという西洋のやり方というものは、東洋にいままでなかった考え方なのであるが、それをここで導入し、アジアでいち早く日本が先鞭をつけたのである。

 中国と日本を考えたときに、いちばん大きな違いは、日本は武家社会であり、軍事力の意義について官僚国家であった中国よりも敏感であったということである。そして、中国は眠っていた。したがって、たとえば福沢諭吉は、日清戦争に対して好戦論者であった。その動機のひとつは、こういうことだ。

 眠れるアジアのなかで、黙っていれば世界の目は中国をアジアの中心と見なして行動するであろう。現実に、中国が四分五裂の状態になり、列強の分割の対象になっているのは、中国がアジアの中心であるからで、このアジアの中心をばらばらにしてしまえば、残りのアジアはヨーロツパ側の制圧下におかれるという考え方があったためである。それに対して日本はなんとしても抵抗しなければいけないと福沢は考えたのである。

 歴史的に、西洋人、いまのア人リカ人もそうだが、彼らの頭のなかでは、常に中国がアジアの代表であり、日本ではない。どうしても印象として中国に目がいってしまう。

 それに対し、福沢諭吉は、日本が眠れる中国とはまったく違った、活力のある国家として、文明国として、文明ここにありという意気を示す必要があると考えた。もはや中国は文明国ではない。中国よりも日本のほうが文明度が高い国だということを欧米諸国に知らしめるために、戦争に踏み切る必要があると説いた。

 つまり、そのときは武力が、戦争に勝つことが、より文明度の高さを証明する手段であった。時代がそういう時代だったのである。これが福沢諭吉の好戦論の論拠である。失敗すれば、日本は治外法権その他の不平等条約の撤廃をしてもらえないという事情があったからでもある。

 一八八四年一明治十七年一にフランスがベトナムに入ったとき、ベトナムは中国の植民地であったが、その属国だったベトナムがフランスにいいようにされるのに中国(清朝)は何ひとつ抵抗できなかった。それを目前に見た日本は、こんな中国を中心にしたアジアでは駄目だと考える。アジアの中心は中国ではない。ここにもうひとつ有力な文明国があるということを世界に知らしめる必要がある。さもなければ自分が危ない。

 それまで限定戦争、西洋で考えているような賠償と領土を手に入れるのが最大の目的で、戦争をゲームのようにして行う西洋的戦争観というものは東洋にはまったくなかった。これでは駄目だ、彼らと対抗するにはどうしたらよいか、日本は真剣に考えた。

 眠れる中国が西欧に侵される姿を見ながら日本は西洋からこの第一番目の戦争観、限定戦争観を学び、それによって日清・日露をかろうじて戦いぬいたと言える。そして、第一次大戦も日本だけはこれでなんとか成功し、第二次世界大戦まで、その同じ考えでずっと来てしまっていたのではないか。つまり、真珠湾攻撃まで同じ意識でいたのではないだろうか。

 しかし、明らかに欧米側は、戦間期に戦争のルールを変えているのである。これが、イギリスからアメリカヘ覇権が移動する微妙な時期と重なっている。同時に、アメリカは戦争を政治の手段として考える戦争観ではなく、平和の絶対価値を振りかざす挙に出た。

 ヨーロッパ人が、自らゲームのようにして戦争行為を当然視していたにもかかわらず、アメリカが戦争は文明に対する破壊であり、人類に対する犯罪だというような、第二次大戦以降、今日われわれはそういう戦争観に慣れ親しんでいるわけだが、それまでとはぜんぜん違った道徳主義、正義の平和論というものを持ち出した。

 しかもそれが、日本から見れば、英米の仮面であって、持てる国である英米が、持たざる国である日本を抑えつけるのに便利な、彼らに都合のいい理論だというふうにしか見えなかったし、また事実そういう側面があった。

 口で正義を言い、裏で不正を行う。たとえばアメリカは日本に、満州の門戸開放を正義であると言いながら、自国の権益を第一に考えていて、中南米の門戸開放を許さない。東ヨーロッパの民族自決を正義としながら、アジア・アフリカにはいかなる民族自決も許さない。

 ものごとのルールの変更がいかに自分勝手であるかは、アメリカという国の最近の動きを見ていても分かる。いまの貿易摩擦を見ていても、アメリカは好きなようにどんどんルールを変える。いちばん最初の日米繊維交渉のときから、今日までの変化を思い出してほしい。これはある意味では手に負えない。

 たとえば、自動車摩擦のときには自主規制をやらされ、それでも日本の黒字が減らないと分かると、日米構造協議で、日本の文化の構造にまで手を入れる。それでもうまくいかないと、今度は数値目標設定などということを言い出す。アメリカはどんどんルールを変える。どこまでもエゴイスティツクで、自国中心の、自国の利益を絶対第一に置いている国である。(P95~P101)文・西尾幹二

《私(株式日記と経済展望の著者)のコメント》

 今日は「広島原爆の日」ですが、8月は終戦記念日もあり先の大戦の事に関する話題も多くなります。しかしなぜ戦争に日本が踏み切ったのかという原因究明があまり進んでいません。国家元首だった昭和天皇自身も回顧録を書かなかったし、政治や軍部の最高幹部たちもほとんど回顧録を書いていない。

 唯一の例外は東京裁判における被告達の証言です。東條英機の『大東亜戦争の真実』という本を読んでも、戦争に至る状況が克明に証言されているのですが、仏印進駐を行っても「アメリカが全面的経済断交してくるとは思っていなかった」と証言している。まだ日米交渉で何とかなると考えていたようですが、経済断交で日米は実質的に戦争状態になってしまった。

 さらに独ソ戦の開始でアメリカの参戦の可能性はさらに強くなったのですが、「どのような段階を経て参戦してくるか分からなかった」と証言している。第二次近衛内閣の時であり、この時点で日本が妥協しなければアメリカとの戦争は避けられない状況になっていたのですが、アメリカと戦争すればどうなるのか近衛首相は考えていたのだろうか? 東條の証言によれば近衛はまだ日米会談で打開できると考えていた。

 ヨーロッパ戦線は拡大して独ソ戦も始まり、もしソ連がドイツに負ければ次の矛先はイギリスとアメリカに向かうだろう。そうなる前にアメリカは参戦してドイツを叩かなければならない。それは第一次大戦の経緯を見れば明らかだ。このような状況で日本は中国のみならず仏印まで勢力を拡大すればアメリカはドイツと日本に挟まれる事になる。

 アメリカは日本に対して中国からの即時無条件撤兵を要求してきたが、日本は条件付撤兵で解決しようとしていた。もし日本が北朝鮮のような金正日独裁体制のような国家なら鶴の一声で撤兵も可能でしたが、当時の陸軍は4年に及ぶ日中戦争で多大な犠牲を出し、アメリカの要求に従って無条件即時撤兵すれば、中国国民にバカにされると言うので日米交渉は暗礁に乗り上げてしまった。

 ならば日本はアメリカとの全面戦争をして勝てると思っていたのだろうか? 東條英機の証言によれば「陸海軍は2年足らずで燃料の欠乏で動きが取れなくなる」と証言している。つまり日本は2年以上の長期戦になれば負けることは分かっていた。にもかかわらず日米開戦に踏み切ったのはなぜか? 

 西尾幹二氏の意見によれば当時の軍部は日米戦争も限定戦争のつもりで開戦に踏み切ったのではないかと記している。東條英機の証言からも分かるように2年以上の長期戦になれば燃料欠乏で負けるかもしれないが、日清日露戦争や第一次大戦のように、たとえ負けても領土の割譲や賠償金の支払いで済むと思っていたのではないだろうか?

 当時の国民にしても戦争と言えば限定戦争の事であり、海外で戦争は行なわれて日本の国土が焦土と化す様な状況は想像もしていなかったに違いない。それが実際には原爆を二発も落とされて東京をはじめとして全土が焼け野原になってしまった。国民も全体戦争の恐ろしさが分かっていなかったのだ。軍部自体が全体戦争を知らなかったのだから国民は知る由もない。

 第一次世界大戦では日本は戦勝国であり、ヨーロッパの全体戦争の実態を知らなかった。イギリスはドイツの潜水艦の通商破壊作戦で窮地に陥りましたが、日本海軍はこのような潜水艦による通商破壊作戦をほとんど知らなかった。あくまでも日露戦争の時のような艦隊決戦で行なわれるものであり、通商破壊作戦は海軍の恥とされた。だからガダルカナルの時もレイテ湾の時もアメリカの輸送船団を前にして日本海軍はUターンして引き上げてしまった。

 このように日本の軍分は全体戦争の認識が無かったことが、安易に日米開戦に踏み切った原因でもあるのだろう。パールハーバーに一撃を加えればバルチック艦隊を失ったロシアのように講和し応じると思い込んでいたのかもしれない。しかし東條英機が真珠湾攻撃を知ったのは開戦後のことであると証言しているように、政府と陸軍と海軍はバラバラであり別々の戦争をしていたのだ。

 東條英機の宣誓供述書を見れば分かるとおり、東條は国家を担う首相の器ではなかった。戦争の原因を作ったのは近衛内閣であり近衛自身は戦後自殺してしまって証言は残ってはいない。東條が首相になった段階で中国からの即時無条件撤退を決断できれば戦争は回避できたのでしょうが、そうすると陸軍や海軍の責任問題となり、軍部はやぶれかぶれで戦争を始めてしまったようなものだ。

自由社の『自由』について

 日本人自身が、自国が自由主義陣営の国家であることをなかなか自覚できなかった時代、戦争が終ってまだ10年たつかたたぬ時代から一貫して自由主義の立場を唱えてきた雑誌『自由』の編集長であり、自由社の社主・石原萠記氏の大著『戦後日本知識人の発言軌跡』(909~911ページ)から、次の言葉を引用し、掲示します。

石原萠記『戦後日本知識人の発言軌跡』より

『日本文化フォーラム』の発足とその活動

 敗戦という戦後日本の特殊事情のなかで、知識人の戦争責任が問われたとき、戦前・戦中の非転向という事実を倫理的希少価値として主張する左翼知識人の発言は、それだけの重みをもち、論壇での主導権をもったことは確かである。しかし、これらの人々の発言は、戦前の非合法下に生きた前衛党の思考様式そのままの「敵と味方」を峻別するセクト主義で、思想界に対立を深め不幸な分裂をもたらしただけだった。このような戦後思想界混迷のなかで、『日本文化フォーラム』は発足したのである。

 発足以来の主な事業については、ここで詳述する必要はないが、内外知識人の親睦交流行事は数えきれず、懇談会、研究会は四百数十回をこえる。そしてその多彩なゲストは世界各国の一流文化人、政治家たちであった。

 高柳賢三、林健太郎、河上丈太郎、湯川秀樹、モクタール・ルビス、アムラン・ダッタ、福田恆存、エドワード・シルズ、河北倫明、E・サイデンステッカー、ダヴィト・ダーリン、J・ジェレンスキー、駒井卓、クラウス・メーネルト、高坂正顕、三上次男、スチヴン・スペンダー、アーサー・ケストラー、アルベルト・モラヴィア、シドニー・フック、エドウィン・ライシャワー、ダニエル・ベル、糸川英夫、K・ウィットフォーゲル、安倍能成、湯浅八部、平林たい子、円地文子、木村健康、フロッデ・ヤコブセン、関嘉彦、森戸辰男、伊藤整、清水幾太郎、G・ハドソン、中谷宇吉郎、チボー・メライ、桧山義夫、福井文雄、池田純久、大来佐武郎、中屋健一、吉野俊彦、滝川幸辰、大原総一郎、高橋正雄、ポール・ランガー、竹山道雄、横山政道、武藤光朗、長谷部忠、森恭三、野々村一雄、田駿、武者小路実篤、C・A・クロスランド、シブ・ナラヤン・ライ、王育徳、三宅艶子、岡本太郎、朝海浩一郎、ニコラス・ナボコフ、林房雄、村松剛、稲葉秀三、板垣与一、マクジョージ・バンディ、J・スミトロ、大島康正、ラドハビノット・パール、渡辺武、田中耕太郎、R・ガード、鈴木俊一、J・オッペンハイマー、中村菊男、ベンジャミン・シュバルツ、シニョル・ホセ、H・レーベンシュタイン、福沢一郎、馬場義続、森本哲郎、蠟山道雄、渡辺朗、C・ジョンソン、佐伯喜一、萩原徹、飯坂良明、藤原弘達、福田信之、江藤淳、ヨセフ・ロゲンドルフ、近藤日出造、楠本憲吉、阿川弘之、小山いと子、平岩弓枝、下田武三、神谷不二、会田雄次、内田忠夫、萩原葉子、三浦朱門、力石定一、俵萠子、川添登と内外一流の知識人を招いている。

 国内セミナーも、「日本文化の伝統と変遷」をはじめ「平和共存」、「労働者の経営参加」、「日本資本主義発達史」、「現代の思想」、「戦後教育の検討」、「中国問題と日本の選択」、「地方自治体の在り方」をはじめ、多くの問題を取りあげ実施したが、特に「日本文化の伝統と変遷」は、竹山道雄、高坂正顕らを中心に四年間にわたり毎年夏期に行った。このテーマは戦後、初めて日本の歴史を新しい視点から文化史的に検討したもので、その討議は高く評価された。記録は新潮社から単行本となるとともに、サイデンステッカー氏により英訳され、国際的にも紹介された。
(中略)

 
自由主義擁護の国際雑誌『自由』発行の経緯

 1959(昭34)11月から、『日本文化フォーラム』の運動に共鳴する人々や自由主義擁護のために闘う人々の雑誌『自由』が発刊された。

 この『自由』発行について、世間では『日本文化フォーラム』の機関誌と評していたが、確かに『日本文化フォーラム』の目的を、少しでも多くの人々に理解してもらうために出されたものである。しかし、当初から経理も編集も別であった。

 1957、8年頃、C・C・Fから私のところに世界各国で出している雑誌、「エンカウンター」(英)、「デア・モナト」(独)、「ブルーブ」(仏)、「フォールム」(墺)、「クェスト」(印)、「チャイナ・クォータリ」(英)、「サーヴェイ」(英)と提携出来る雑誌を、日本で発行出来るかどうかを問合せてきた。

 私としては『日本文化フォーラム』で発行するのが一番良いと思ったが、一般から機関誌視されるおそれもあり、また執筆陣の幅も狭くなるとの意見もあったので、別組織をつくり編集代表を竹下道雄氏にお願いすべく交渉した。幾たびかの交渉のなかで、「編集委員会」制をとるならという提案が出されたので、竹山氏を中心に委員として木村健康、林健太郎、関嘉彦、平林たい子、別宮貞雄、河北倫明(のちに福田恆存、西尾幹二)の各氏に承諾願って発足した。誌名『自由』は他に『フォーラム』をはじめ、幾つかの提案があったが、最終的には、笠信太郎氏の意見もあり『自由』に決った。そして、四号目から発行所として「自由社」を設立したのである。

 この誌名の決定については、いくつかの秘話がある。当初、1951年1月に廃刊になった『改造』の商標権を買ってはという話があった。そこで三輪寿壮先生の関係で、私を援助してくれていた小島利雄弁護士が、商標権を預っているといわれた栗田書店の栗田確也社長と懇意であったので、打診してもらったが、何とも大きな金額で話にならず、ご破算になった。そして漸く『自由』に決ったので登記しようとしたら、この商標はS社がもっているという。そこで、弁護士をたてて交渉、譲渡料を支払って決着がついた。

 その後の『自由』の活動評価については、立場によって相違するが、『朝日新聞』(62・3・19)紙上で、横山泰三氏が政治漫画を描き、右に『自由』、左に『世界』そして、「両誌には相互排除的なところがある」と、わが国の思想界の対立状況を解説しており、更に都留重人氏(一橋大教授)も『朝日ジャーナル』(63・12・29)誌上で、

 「著者のなかに雑誌に対する選択性があるんだね。『自由』に書く人は『世界』に書かない。この両誌には相互排除的なところがある。『文春』も多少選択しますね」

 と語っていることを紹介すれば、60年安保後数年の『自由』が、それなりの役割を果たしたことを知って戴けると思う。なお、『自由』の創刊の辞は、竹山道雄氏の筆になる。

 「・・・・・・立場として守りたいのは、正しい事実の認識の上にたつ、正しい論理の追求である。真理の基準は、教義への適合ではなくて、事実と合致していることなのだから、事実と論理への誠意さえあれば、たとえどんなに立場がちがっていても、すべての人が話し合うことができるはずである。・・・・・もし他日になってふたたび社会の状勢が変って、万一にも、この立場を棄てて、ある特定の教義を強いられるようなことがあっても、それには従わない。時流によって性格を変えて左し右しはしない・・・・」

 というもので、これが雑誌『自由』の基本的立場である。

 『自由』を主導したメンバーが日本文化会議を創立し、その機関誌を文藝春秋から出す計画がありました。最終的には、機関誌ではなく、普通の雑誌スタイルにしたいとの社側の意向があって、月刊誌『諸君!』が発刊されました。

 『自由』を主導したメンバーは自由主義の立場を唱えるより自由な発言の場をさらに求め、産経新聞のコラム「正論」が立ち上げられました。新聞のコラムを月刊誌に再録したいという要望があって、雑誌『正論』が誕生しました。『正論』はむかし永い間コラム「正論」の記事を収録していたのを覚えている人は少なくないでしょう。

 自由社の『自由』は『諸君!』『正論』の母胎なのです。

(文・西尾)

小林秀雄に腰掛けて物言う人々(二)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

 ところで、武田先生の指摘に対しては、間髪をいれず小冊子で著者自身が、宣長について小林秀雄から格別に新しい知識を得たものではなく、方法論もアプローチの仕方もこの本は全然別ものであることを説明しており、真に師匠とあおぐ人に対する生きかたの厳しさも論じていて、これ以上、『江戸のダイナミズム』批評のズレを第三者がただす必要はないのだが、もうひとつだけ気になるところがある。

 著者は第一章「暗い江戸、明るい江戸」(二十五頁)で「私は『近代的なるもの』それ自体が今の二十一世紀初頭に崖っぷちに立たされているという認識に立っています」と重要な姿勢を表明している。これについて、武田先生は「どうして著者がこういう認識を持っているかと言えば、学問するとは、単なる認識の獲得ではなく、同時に、学問するというこの人間的営為には、必ず自己の魂の救いと言うことがなければならないと考えているからでしょう」と学問に立ち向かう著者の基本的態度を想像し、「『近代的なるもの』は、人間の生において、無価値ではないけれども究極的には人の魂の救いには無力です」と、示唆に富んだ評価をしている。

 私はたいそう意地悪な読み方をしているのかもしれない。が、聞いて下さるなら私の見解はこうである。

 西尾幹二という思想家は「学問するという人間的営為」でこんなものを書いているのではなく、また「自己の魂の救い」を無意識のうちにも意識して、ということでもないだろうと思う。『諸君!』連載当初からこの仕事は当人の著作行為の中でも格別な仕事の部類に入ると感じていたし、今でも感じているのだが、私は『江戸のダイナミズム』の読者の筆頭は実は、荻生徂徠その人だったのではないか、という気がしている。書き終えられて、どこか秘められた愉悦さえ感じられる。今はさしづめ読者なんか要らない、徂徠との対話を至深所の麓で行う。それは楽しいものだった、と。

 つまり、「自己の魂の救い」という近代的懊悩の課題などはそっちのけで、人類史の本源的な神秘を嗅ぎながら、人間存在と世界の始原に向かって、徂徠が佇んでいるすぐ隣にまで著者は行き着いて、深淵なる蒼古の宇宙を二人して並んで眺めていたのではないだろうか。著者を突き動かしたのは、おそらく遙かなる憧憬である。

 百年の書物は百年かかり、二百年の書物は二百年の生命を看取することのできる後学を要する。つまり、著者は或る統一感のもとで世界を飛翔して廻られ、人間世界が希求しながら獲得し、また獲得しえなかった根源なるものの全体を確かめられた。時代に起伏してあらわれた各民族の「精神の事件」をきちんと選り分けて、それぞれ処(ところ)と役割を得さしめたが、筆をはこんでほとんど最終行まで無私無雑ではなかっただろうか。

 思想家・西尾幹二は、私かに徂来に語りかけたにちがいない。そんな気がしているのである。この書物には「人の魂の救いに無力な近代」に対する歎きもすでに消えている。それを感じるとき、少なくとも私たちは西尾幹二より五千年くらい若い近代人であることを思い知らされる。

 書物は今いる人間のために書かれるとは限らない。そういう行為こそ大きな提示だとわかるような素地をもっていたい。

文・伊藤悠可

小林秀雄に腰掛けて物言う人々(一)

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、伊藤悠可氏によるゲストエッセイです。『江戸のダイナミズム』に触発されての論文「小林秀雄に腰掛けて物言う人々」です。

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

 本居宣長を知るのに小林秀雄を必要とするであろうか。われわれは古事記を知るには本居宣長を必要とする、というならそれは認めなければならない。しかし、宣長を読むために小林秀雄という通路を行き、門をくぐらなければならないか。

 あらたまってこのような問いかけをしたくなるのは、小林秀雄の影響下にあると自認している人が少なからずいて、その人たちが自分の思想や知見を語るつもりでいながら、実は小林秀雄をなぞっているばかりでなく、価値基準を小林秀雄という定規にあてて、思想と現実と人とを測ろうとしているのではないか、と言いたくなる場面に出くわすからである。

 その人にはおそらく自覚はない。自分で考え自分で語ったり書いたりしているつもりなのだが、その人自身、そこに不在であるという感じさえする。小林秀雄の真髄を知らない人間はまだ半人前だといいたげでもあり、こちらはあなたより(小林を)読んではいない、またあなたの指摘するところまでは読者として気がつかなかったという気持ちで「そうですか」と応えるしかないのだけれども、場違いな〈小林秀雄〉の割り込みということもありうるのだ。

 小林秀雄をこよなく愛しあがめて〈絶対教師〉のように信じている人は、多分、私より少し上の昭和二十年初頭の生まれから、下って十数歳くらいの間までの人々に多いと勝手に想像している。最近、或る機会に長く比較文学をなさってきた大学教授にこのことを伺ったら、同感だと仰言る。時代思潮を読むうえで、こんご昭和文学史における小林秀雄の位置づけと彼が風靡した世代の風向きをとらえる確認が分野の専門家によってなされるであろう。

 小林秀雄を〈絶対教師〉としてあがめて、何事につけても思考や思索の通路とする。私は仮にこれを「小林秀雄への盲目性向」と名付けおきたいが、尊敬した人間に対する問題、尊敬してやまない人間を他者に伝えるときにわきまえるべき作法の問題を投げかけており、意外と文学や思想の問題ではなく、行儀にかかわることだからやっかいでもある。

 或る物にふれておきながらその物の本質を味わうことをせず、小林秀雄という定規からはずれているものは価値がないという転倒的判断をしてしまう。或いは、小林秀雄はつねに最も高峰の、それも頂上に座していなければならず、そこから眺めてこの人は小林よりもこれだけ低い、かの人は頑張ってはいるけれどもせいぜい中間辺りの山を登っている最中である、といった品定めをしてしまう。たくさんの研究をしたであろう専門家や大学教官といった知識人の中にもこうした雰囲気を持っている人がいて、どうも二の句がつげないで背中をむずかゆくさせられる。

 小林秀雄に腰掛けて物を言うからである。

 『江戸のダイナミズム』出版記念会で配られた小冊子で、鳥取大学助教授・武田修志先生の寄稿文を読んだときの私の印象は、残念ながら「著者の思索の跡はたどらずに、はなから小林秀雄という秤を持ち出している」という心酔者の手つきであった。おそらく著者があとがきでふれた「名だたる文藝評論家」という表現が口惜しく思われたのかもしれない。

 「この名だたる文藝評論家が小林秀雄であることは、先生の読者なら、大抵の人には分かるのではないでしょうか。僅かにこれだけ書いただけで、小林の方法論を、正面から批評しなかったというのは、この著作をいささか軽いものにしている――」という妙に感情に傾いた辛い批評をつけている。しかし、なぜ『江戸のダイナミズム』の世界的本源的テーマにおいて、決してそこの住人ではない小林秀雄を論究しなければならないと著者に要求できるのだろうか。

 小林秀雄で頭がいっぱいになっている人々。告白すれば、私にもそういう一時代があって、その人々のうちに所属したかもしれない。インターネット日録で私は武田先生の名前を記憶していた。西尾幹二先生があるとき山陰に講演旅行かなにかに出かけられ、その夜久しぶりに歓談の機会を得られたという話が載っていて、また別の機会に「小林秀雄についてめっぽう詳しく研究している学人がおられてね」ということも伺ったことがある。 

 小林秀雄を研究している、と聞いただけで、私にはとても難題でありすぎて、あとずさりしてしまいそうだが、純粋に敬意をもってその御仕事(研究論文)を読んでみたいと思う。酒場のカウンターに小林秀雄が訳した「ランボー」を持っていって、一人でしこたま飲んでみたいといった青首ダイコンのような無頼派ぶった小林愛好家も居るには居たが、小林秀雄がどのように捉えられているのか、本筋の研究家の仕事を垣間見てみたいという思いがある。

 それゆえに、「小林秀雄の『本居宣長』が先行作品として存在しなかったら、この本は現在のものと相当違ったものになったのではないか」というような〈小林秀雄という定規〉を持ち出されると、ちょっと待ってほしい、専門家も大丈夫だろうか、という心細い気持ちになってくるのだった。

 一昨年の初夏の頃だったか、日比谷にある美術館で、めずらしく全国の秘蔵家が名作を持ち寄ったという「鉄斎展」を觀に行った。畳何枚にもなるほどの「富嶽」の大作の前には親切にも大きなベンチをしつらえてくれ、私は何十分でもそれを堪能することができた。ところが、ふと小林秀雄の『鉄斎』の文章が浮かんできたものだから、とたんに雑音が入り込んできたようでしばらく困惑し面白くなかった。小林秀雄が絵をみるときの邪魔になるのだった。

 私は鉄斎をみたいとおもって来たのに、小林秀雄が絵から受けた心の動きをたどらなくてはならない。小林秀雄の眼を借りて、一回切りの鉄斎を見たいとは思わない。それは自分が神経症的な癖をもっているからだろうか。或いは、世の中には小林秀雄に感化されて「鉄斎」を楽しく見る人もあるだろうし、あっても差し支えはない。それはそのとおりだが、私は先行知識というものはときどき人を困らせるものだという気がしている。

 『宣長』の先行作品が小林秀雄だというなら、国学者の蓮田善明のものも先行している。神道方面の遠い過去からの注解書においては、まだたくさん先人を見い出すことができる。小林の『本居宣長』をただ一つの鑑とすることは、文字なき時代の言語生活の完全さについて、「これらの洞察を深い理解をもってひろく我々に伝えてくれたのはやはり小林秀雄であった」と、武田先生が感謝をもって讃えることに異論はないとしても、「『江戸のダイナミズム』の中で取り上げるべきだった」というのは不必要な拘泥でしかないと言わざるを得ない。

 つまりこういうことである。本居宣長を語るには小林秀雄をまず読まなければならない、と思っている人を私は何人か知っている。「小林を読まずして宣長を語るなかれ」と直截的に言われたことはないが、ラストワークの『本居宣長』を読んだという人の中には、宣長を論じたいのか小林を論じたいのか、こちらには弁別がつかないまま、とにかくこの書物の賛辞を聞かされるだけという図式があり、こちらは「A」の話をしているのに相手は「小林が書いたA`」の話しか返して来ないというありさまとなる。それは少なくとも対話ではない。

 早い話、これは対話を拒否する態度の開始である。知的論議ではなく排他の表明でもある。「尊敬」ということばにしても、あまり出し抜けに人前で使うものではないと同時に、「尊敬の念」の表明の仕方も厳密にいえば、ある程度人間をやってみた人でないと美しく始末をつけられない六ケしい人間わざなのである。

 「尊敬」は勿論、美徳かもしれないが、時として「臭気」を発する恥ずかしいことを私たちが知っているからであろう。おそらく、「褒める」ことと同じで、「劣悪なるものはプラトンを褒めることは許されない」といったアリストテレスの忠言に含まれる羞恥や謙譲など繊細な感情を用意して、はじめて発せられる真っ裸の言葉だからであろう。私たちは師を褒める前に、私たち自身が向上しなければならないものである。昨今の学生が「尊敬する人は父です」とハキハキ応えて、なかなか素直な青年だと大人から讃えられる気持ちの悪い時代にあっても、やはり「尊敬」というものは用心深く扱われなくてはいけない、と私は思っている。

 実際、小林秀雄の『本居宣長』の正確な評価はまだなされていないのではないだろうか。「本論は物足りず、『補記』をもってようやく眼睛の開かれる一境地を得る」という批評もあるのである。もう一つ、小林秀雄は多分、自分に寄り掛かる人がやがて出てくることを知っていたと思う。定規にされて困っているのは小林秀雄自身であろう。彼はよく「自分で発明したまえ!」と叱咤していた人だった。

文・伊藤悠可
つづく