自由社の『自由』について

 日本人自身が、自国が自由主義陣営の国家であることをなかなか自覚できなかった時代、戦争が終ってまだ10年たつかたたぬ時代から一貫して自由主義の立場を唱えてきた雑誌『自由』の編集長であり、自由社の社主・石原萠記氏の大著『戦後日本知識人の発言軌跡』(909~911ページ)から、次の言葉を引用し、掲示します。

石原萠記『戦後日本知識人の発言軌跡』より

『日本文化フォーラム』の発足とその活動

 敗戦という戦後日本の特殊事情のなかで、知識人の戦争責任が問われたとき、戦前・戦中の非転向という事実を倫理的希少価値として主張する左翼知識人の発言は、それだけの重みをもち、論壇での主導権をもったことは確かである。しかし、これらの人々の発言は、戦前の非合法下に生きた前衛党の思考様式そのままの「敵と味方」を峻別するセクト主義で、思想界に対立を深め不幸な分裂をもたらしただけだった。このような戦後思想界混迷のなかで、『日本文化フォーラム』は発足したのである。

 発足以来の主な事業については、ここで詳述する必要はないが、内外知識人の親睦交流行事は数えきれず、懇談会、研究会は四百数十回をこえる。そしてその多彩なゲストは世界各国の一流文化人、政治家たちであった。

 高柳賢三、林健太郎、河上丈太郎、湯川秀樹、モクタール・ルビス、アムラン・ダッタ、福田恆存、エドワード・シルズ、河北倫明、E・サイデンステッカー、ダヴィト・ダーリン、J・ジェレンスキー、駒井卓、クラウス・メーネルト、高坂正顕、三上次男、スチヴン・スペンダー、アーサー・ケストラー、アルベルト・モラヴィア、シドニー・フック、エドウィン・ライシャワー、ダニエル・ベル、糸川英夫、K・ウィットフォーゲル、安倍能成、湯浅八部、平林たい子、円地文子、木村健康、フロッデ・ヤコブセン、関嘉彦、森戸辰男、伊藤整、清水幾太郎、G・ハドソン、中谷宇吉郎、チボー・メライ、桧山義夫、福井文雄、池田純久、大来佐武郎、中屋健一、吉野俊彦、滝川幸辰、大原総一郎、高橋正雄、ポール・ランガー、竹山道雄、横山政道、武藤光朗、長谷部忠、森恭三、野々村一雄、田駿、武者小路実篤、C・A・クロスランド、シブ・ナラヤン・ライ、王育徳、三宅艶子、岡本太郎、朝海浩一郎、ニコラス・ナボコフ、林房雄、村松剛、稲葉秀三、板垣与一、マクジョージ・バンディ、J・スミトロ、大島康正、ラドハビノット・パール、渡辺武、田中耕太郎、R・ガード、鈴木俊一、J・オッペンハイマー、中村菊男、ベンジャミン・シュバルツ、シニョル・ホセ、H・レーベンシュタイン、福沢一郎、馬場義続、森本哲郎、蠟山道雄、渡辺朗、C・ジョンソン、佐伯喜一、萩原徹、飯坂良明、藤原弘達、福田信之、江藤淳、ヨセフ・ロゲンドルフ、近藤日出造、楠本憲吉、阿川弘之、小山いと子、平岩弓枝、下田武三、神谷不二、会田雄次、内田忠夫、萩原葉子、三浦朱門、力石定一、俵萠子、川添登と内外一流の知識人を招いている。

 国内セミナーも、「日本文化の伝統と変遷」をはじめ「平和共存」、「労働者の経営参加」、「日本資本主義発達史」、「現代の思想」、「戦後教育の検討」、「中国問題と日本の選択」、「地方自治体の在り方」をはじめ、多くの問題を取りあげ実施したが、特に「日本文化の伝統と変遷」は、竹山道雄、高坂正顕らを中心に四年間にわたり毎年夏期に行った。このテーマは戦後、初めて日本の歴史を新しい視点から文化史的に検討したもので、その討議は高く評価された。記録は新潮社から単行本となるとともに、サイデンステッカー氏により英訳され、国際的にも紹介された。
(中略)

 
自由主義擁護の国際雑誌『自由』発行の経緯

 1959(昭34)11月から、『日本文化フォーラム』の運動に共鳴する人々や自由主義擁護のために闘う人々の雑誌『自由』が発刊された。

 この『自由』発行について、世間では『日本文化フォーラム』の機関誌と評していたが、確かに『日本文化フォーラム』の目的を、少しでも多くの人々に理解してもらうために出されたものである。しかし、当初から経理も編集も別であった。

 1957、8年頃、C・C・Fから私のところに世界各国で出している雑誌、「エンカウンター」(英)、「デア・モナト」(独)、「ブルーブ」(仏)、「フォールム」(墺)、「クェスト」(印)、「チャイナ・クォータリ」(英)、「サーヴェイ」(英)と提携出来る雑誌を、日本で発行出来るかどうかを問合せてきた。

 私としては『日本文化フォーラム』で発行するのが一番良いと思ったが、一般から機関誌視されるおそれもあり、また執筆陣の幅も狭くなるとの意見もあったので、別組織をつくり編集代表を竹下道雄氏にお願いすべく交渉した。幾たびかの交渉のなかで、「編集委員会」制をとるならという提案が出されたので、竹山氏を中心に委員として木村健康、林健太郎、関嘉彦、平林たい子、別宮貞雄、河北倫明(のちに福田恆存、西尾幹二)の各氏に承諾願って発足した。誌名『自由』は他に『フォーラム』をはじめ、幾つかの提案があったが、最終的には、笠信太郎氏の意見もあり『自由』に決った。そして、四号目から発行所として「自由社」を設立したのである。

 この誌名の決定については、いくつかの秘話がある。当初、1951年1月に廃刊になった『改造』の商標権を買ってはという話があった。そこで三輪寿壮先生の関係で、私を援助してくれていた小島利雄弁護士が、商標権を預っているといわれた栗田書店の栗田確也社長と懇意であったので、打診してもらったが、何とも大きな金額で話にならず、ご破算になった。そして漸く『自由』に決ったので登記しようとしたら、この商標はS社がもっているという。そこで、弁護士をたてて交渉、譲渡料を支払って決着がついた。

 その後の『自由』の活動評価については、立場によって相違するが、『朝日新聞』(62・3・19)紙上で、横山泰三氏が政治漫画を描き、右に『自由』、左に『世界』そして、「両誌には相互排除的なところがある」と、わが国の思想界の対立状況を解説しており、更に都留重人氏(一橋大教授)も『朝日ジャーナル』(63・12・29)誌上で、

 「著者のなかに雑誌に対する選択性があるんだね。『自由』に書く人は『世界』に書かない。この両誌には相互排除的なところがある。『文春』も多少選択しますね」

 と語っていることを紹介すれば、60年安保後数年の『自由』が、それなりの役割を果たしたことを知って戴けると思う。なお、『自由』の創刊の辞は、竹山道雄氏の筆になる。

 「・・・・・・立場として守りたいのは、正しい事実の認識の上にたつ、正しい論理の追求である。真理の基準は、教義への適合ではなくて、事実と合致していることなのだから、事実と論理への誠意さえあれば、たとえどんなに立場がちがっていても、すべての人が話し合うことができるはずである。・・・・・もし他日になってふたたび社会の状勢が変って、万一にも、この立場を棄てて、ある特定の教義を強いられるようなことがあっても、それには従わない。時流によって性格を変えて左し右しはしない・・・・」

 というもので、これが雑誌『自由』の基本的立場である。

 『自由』を主導したメンバーが日本文化会議を創立し、その機関誌を文藝春秋から出す計画がありました。最終的には、機関誌ではなく、普通の雑誌スタイルにしたいとの社側の意向があって、月刊誌『諸君!』が発刊されました。

 『自由』を主導したメンバーは自由主義の立場を唱えるより自由な発言の場をさらに求め、産経新聞のコラム「正論」が立ち上げられました。新聞のコラムを月刊誌に再録したいという要望があって、雑誌『正論』が誕生しました。『正論』はむかし永い間コラム「正論」の記事を収録していたのを覚えている人は少なくないでしょう。

 自由社の『自由』は『諸君!』『正論』の母胎なのです。

(文・西尾)

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