『遠い日の幻影』感想文

土屋六郎氏による感想文がコメント欄に投稿されました。
皆様に読んで頂きたいので、こちらに投稿します。(管理人)

西尾幹二『遠い日の幻影』について 第1章「暮らしのつれづれに」は、二つの短章による序奏で始まり、戦時中の少年期の思い出を語るエッセイが続く。父君・母堂の面影や疎開先で「大きく体内に吸いこんだ」移り変わる四季のみずみずしい描写は読者に強い印象を残すであろう。氏の『少年記』が描き切った牧歌的な部分でもある。そして、葬式や墓の話、死をめぐるエッセイがいくつか並び、われわれの内省や微苦笑を誘う。

 西尾氏の文章は世の通念をはぎ取り鮮やかな認識を提示するのが魅力である。
 「よく子供は厳しく育てよ、という。過保護はろくな結果を生まない、ともいう。しかし私は画一化されたそういう言い方を好まない。もし私が集団疎開に送られていたら、私のようなタイプの、家族の愛にだけ包まれ、家族の外の世界には恐怖以外を感じなかった社会性の未発達な子は、どんなに辛い、苦しい体験をしたか分からない。場合によっては、精神の形成に致命的傷を与えられていたかも知れない。私は母の動物的母性本能から出た、子供を自分のそばから離すまいとしたあの必死の行動によって、しっかり守られたのである」。

 また、『断念について』では古代ギリシャの哲学者エピクテトスの断章集(フラグメント)の読み方を教えられる。奴隷であったエピクテトスの言葉「自由人になる唯一の道は、われわれの力の及びうる範囲内にないものを軽蔑することである」を氏は以下のように解説する。

 「心の平静は、ここでいう『軽蔑する力』の大きさによって得られる。負け惜しみとか引かれ者の小唄と間違えられかねない。けれども、奴隷の身で一般人と同等の、あるいはそれ以上の自由の意識を得るための断念には、強い意志の力が秘められていると私は見る。激しい情熱が前提とされているようにも思える」。
 「古代の哲人の言葉はどこか過度に論理的で、人情味に乏しいと思われる例が多い。エピクテトスも例外ではない。
 だが人情の板ばさみになって自殺したり、派閥にはさまれてウロウロするたぐいの現代人の人間的弱さは、本来自分に属していないものを『軽蔑する力』、古代的断念の覚悟の、余りといえば余りの欠落のせいである。
 断念は決して諦念ではない。諦めではない。意志の働きの帰結であり、願望との戦いの結果である」。
 批評、評論が文学になるのはただこういう文章によってである。

 「水のかき消える滝」という歌人で小説家・内科医の上田(うえだ)三四二(みよじ)を悼む文章に、仏教の教えは来世を期待することと同じではない。むしろ期待しない心を鍛えることにある」という印象的な言葉があるのを付言しておく。 第2章「私の本棚から」では多彩な本と著者が論じられる。

 『私の読書遍歴』では、「ニーチェと小林秀雄と福田恆存を愛読してきた。というより耽溺してきた。ドストエフスキーやパスカルもよく読んだ」と書かれるが、読者は何の不思議も違和感もないであろう。萩原朔太郎についても、少年期の耽読の対象として氏の読者は承知しているはずだ。その後に挙げられる、山村暮鳥、井伏鱒二、三木露風、近松秋江、荷風、中勘助『銀の匙』を見ると、氏の心に織られた別の生地が垣間見られる。また、少年期に出会った『異邦人』、『地下生活者の手記』に「魅きこまれた」という記述に、氏の生涯のテーマ「精神の自由」の秘密が潜んでいるように思われる。

 「大岡昇平全集の刊行にふれて」では「俘虜記」が扱われる。今や忘れられた本のようにも思われるこの名作を、「能うかぎり透明な知性、強度の反省意識に支配されて、情緒や感傷に逃げていない」との評に頷(うなづ)き、この知的興奮をもたらす書物を再び手に取ってみようと思う読者は少なくないだろう。
 また、オイゲン・ヘリゲル『弓道における禅』を論じた『無心』は、肉体運動をつかさどる奥義に穿(うが)ち入った逸すべからざる佳篇である。「人間の身体運動の多くには、われわれの知識の及ばない合目的性が支配し、個体としてわれわれには決して意識されることのない、この上なく高次の知性が、身体の動き全体をつかさどっていると考えなければならない。人間の自己意識などは、この高次の知性からみれば単なる道具にすぎないのである。つまり、人間の思考の行為においては、『私が』なにかをするのではなく、全体をつかさどるこの知性が『私を』働かせ、なにかをさせるのだと言っていい。弓道の師範が、“それ”と呼んだのは、『私』を超えている、この意識されえないものの、独自の働きを指しているのであろうと考えられる」。西尾氏が描いている精妙なメカニズムは小林秀雄の砲丸投げ選手を論じた美しいエッセイ『オリムピア』と共振しているように思う。

 そして、山東京伝の黄表紙の代表作『江戸生(えどうまれ)艶気(うはきの)樺(かば)焼(やき)』という意外なレパートリーを材料に語られる『通と野暮』では、「西欧から法と契約に基づく社会規制を取り入れて百余年を経過したが、日常生活における他者との付き合いで大切にされている部分は」、江戸時代と変わらず依然として、各社会集団において各「個人はきわ立った業績を挙げることなくひたすら自分の『通人』ぶりを人に見せまい、すなわち『野暮』であるまい」という義理と温情と平等を大切にする家族主義的気風であることが指摘される。「『通』を気取ることが結局は一番の『野暮』なのだという逆説が」明治百五十年を超えて牢固として残存しているのが、日本社会であると再認識することになる。多文化共生などという空言の入り込む余地のない文化の規範性の強さに呆然たる思いもする。

 次の『権力』では、古代中国の統治思想である法家(ほうか)、特に韓非子を取り上げ、「日本の歴史の中にはおよそ存在しない規模の人間悪への洞察と、権力希求の構造解明がなされていて、日本人はこれと比べればなんと自我が弱く、お人好しで、センチメンタルな、植物的民族であるかをあらためて思い知らされるのである」と指摘される。「『韓非子』に描かれているような徹底した人間不信と、人間が互いに人間を警戒し、侮蔑し合っているがゆえに要請される法の権威は、なるほど近代国家になってから以降、考え方として西欧世界からも輸入されはしたが-例えばホッブスの国家観―とり立てて日本人の骨身にこたえて体験されてきたという痕跡は見出し難い」。「人間はエゴイズムを持つがゆえに、多数のエゴイズムの調節機関としての国家、あるいは法秩序が、やむを得ぬ必要悪としてーカントやヘーゲルの言うように決して道徳としてではなくー要請される」。「中国史において重要であった、このような悪の自覚と本気で取り組まなかった日本の精神史は、西洋思想と出会っても、同様な問題回避を繰り返して来たように私には思える。例えばキリスト教のうちにつねに愛の思想のみを見て、この思想の献身や自己犠牲や彼岸の救済の理念のうちに、裏返された弱者の権力欲を見とどけたニーチェやロレンスの問いを、日本の精神史は自分の中にどのように位置づけて来ただろうか。とにかく日本は、非常に特殊な国である。自分の内部の権力欲を見たがらない日本人は、他人の内部にある権力欲に対しても警戒心を欠いている」。

 自他の権力欲や人間悪を見ないわれわれの特質は、国会論戦やマスメディアの論調、多くが死屍累々の経済界の海外進出や企業買収を見れば思い半ばに過ぎるであろう。ロレンスの黙示録論『現代人は愛しうるか』の翻訳者福田恆存は、同書を「人間を造りかへる書物」、「この一書によって、世界を、歴史を、人間を見る見方を変へさせられた」、「私に思想といふものがあるならば、それはこの本によって形造られた」と言った。ニーチェ研究家にして「アンチクリスト」の翻訳者たる西尾幹二とともに、西洋の太宗と格闘した例外的な覚醒者である。後段のエッセイ「私が出会った本」の中で福田恆存を論じて、「世間は政論家としての氏の仮面に欺かれて、その奥にある思索人としての氏の巨きさと独創性とを未だに知らない」の一文は、後世によってその意味を読み解かれなければならない。

 次のエッセイ「言語と朗読」も、同じく日本に残された問題に触れている。文学作品の朗読を習慣としているヨーロッパでは、「最初に語りかけがあって、それが詩となり、小説となるので」あって、「文学は聴き手となる相手もなしに、ただ空へ向かって表現される独立した抽象的世界ではない」。
 日本でもたとえば枕草子を読めば、平安朝では漢詩も和歌もは朗詠するものであったことが分かるし、聖書の音読は文語訳によってでなくては、西尾氏が言う通り「内容までが薄っぺらに感じられてくる」。

 「明治時代に口語体は言文一致を目指していたはずなのに、言葉の強弱やリズムを失って平板化し、かえって音声化に適さなくなったという逆説が厳としてあるように思われる。
 “語り言葉”である口語体が『語りかけ』に適さず、むしろ『描く』ことに適している。逆に、聴き手に対し音楽性をもって語りかけるには、日本語の伝統としての完成された和文脈・漢文脈の総合体である“書き言葉”、すなわち文語体の方がより適切であろうというのは、大変に微妙かつ不可解な現象であるが、しかしどう考えても、明治以来の日本語を一変させたこの大きな変革に、日本語が『声』を失った根本の原因があるように思えてならない」。

 七五調の韻律と漢文訓読調の諧調から離れた口語で、どう詩の音楽性を成立させるかという試みが例えば萩原朔太郎の詩集『青猫』であった。しかし白秋や中也に横溢しており、朔太郎にしても「純情小曲集」の魅力の源泉を成していた伝統的韻律なしに、詩の富をいかに奪還するか、現代詩人の苦闘は他人(ひと)ごとではない日本語全体の問題である。

 続くエッセイで『戦争直後に日本の戦争を擁護したあるアメリカ要人』と題されたのはヘレン・ミアーズ女史であり、名著の誉れ高い『アメリカの鏡・日本』の核心が次のように紹介される。
「われわれは明治の開国に次いで、先の敗戦を第二の開国と呼ぶ習慣になじんできたが、はたしてそれでいいのだろうか。日本は明治から第二次大戦まで孤独ながらも開かれた道を歩んできて、敗戦後ふたたび」「マッカーサー将軍が日本列島に上陸し、その道を閉ざした」。
 このミアーズの活眼に注目し、その「意味をあらためて熟考してみたい」と語る西尾氏の言を通じて読者も原著に関心をそそられるであろう。

 第2章最後のエッセイ「便利すぎる歴史観―司馬遼太郎と小田実」。
 「司馬は維新を近代革命とみなし、日露戦争を祖国防衛戦争ととらえ、日本人が素朴に国を信じた時代があったことを絵解きした。彼が知識人の世界にではなく大衆的基盤において、戦後の小児病的反戦平和主義を破壊する上で強力な役割を果したことを認めるに吝かではない。けれども明治に対する高い評価と余りに著しいコントラストをなす昭和の否定は一体何であろう?」
 「良いものもいやなものもともに自分の歴史ではないか。暗黒と失敗と愚劣と逸脱の昭和史も、自分の歴史以外のなにものでもあるまい。人は悲劇を後悔しても始まらない。悲劇に終わった歴史もまた自分のいとおしい肉体の一部なのである。いったい歴史に非連続はあり得るのだろうか」。
ドイツ前大統領ヴァイツゼッカ―は、日本に来てこう言った。「十二年にわたるナチス支配はドイツの歴史における『異常な時期』であり、その一時期だけナチスといういわば暴力集団に歴史が占領されたが、今はドイツは彼らを追い払って清潔な民主国家に生まれ変わった」、「それ以前の歴史にもそれ以後の歴史にも悪魔はいない、と」。
 西尾氏は言う。「こんな便利な考え方は通らない。ドイツにおいてもやはり歴史は連続している。ナチスにはそこに至る前史があるはずだ。またナチス協力者千二百万人が裁かれずに社会復帰した戦後史もある」。
歴史に自分の見たいものだけを見て都合よく裁断する点において、司馬遼太郎とヴァイツゼッカ―は同じだと西尾氏は言っているのである。 第3章「ドイツで考えたこと」の中のエッセイ『変化したヨーロッパの位置と日本の学問』は、また違う切り口で日本近代が乗り越えられずにいる問題を提起している。世界のどの新聞も日本経済を扱わない日は一日としてないが、日本の経済学者の論説や分析の紹介はまずない。世界は日本経済自体には関心を寄せても、「日本人のロゴス(言葉)を無視し続けているのだ」。経済学だけではない。「『実存』を欠いた日本の人文社会系学問一般」の学者にその壁を乗り越えるつもりはあるのか。また、「明治以来あり得ないと考えられて来た日本の技術の急伸、能率主義の優位を、どう世界に説明するかは、例えば日本の哲学の重要な課題であるべきはずである」。

 近代欧州の代表的思想家ヴァレリーやオルテガは欧州以外の文明を睥睨して自らの優位を確信した「断固たる物言い」をしていたが、日本の「とりわけ人文社会系学問はいまだ根底において“ヨーロッパ学”」で、「日本を肯定的に語ることに猛烈な心理的抵抗を示すか、あるいは「彼地(かのち)で教養に(ママ)つけた若い学者に、ヨーロッパに劣等感を抱かない代りに、文化的断絶観や文明の形式の微妙な差異を、もうまったく感じ取ることが出来ない人々が出現している」。
 この辺の景色は日本の知識人を眺めていればさして目新しいものではないが、西尾氏の真骨頂は次のような洞察にある。
 「ヴァレリーやオルテガが見せたあれほどの自信は、ヨーロッパが学芸だけでなく、当時、技術力・産業力・資金力等において世界に冠絶するものを誇っていた、物質文明の力に裏打ちされている。ヨーロッパの知性はつねに自分の力の源泉を正視するリアリズムに立脚している。
だとすれば、(中略)彼らのリアリズムに立脚した自己正視の精神の型をこそ踏襲すべきではなかろうか」。

 今、日本の技術や産業の優位と活用を説いているのは総理大臣高市氏であって、学者からはその成立事情の知的興奮に富んだ論証が絶えてなされないとすれば、日本の人文社会系学問の自立未だし、と言わなければなるまい。 第4章「先人たち、友人たち」は短調で書かれた心に沁み入る文集である。
 哲人田中美知太郎への敬慕の念を湛えたエッセイ、三島由紀夫の姿とその謎を活写した短章、手塚富雄の翻訳がどう優れているかを説き明かしたエッセイ、友人柏原兵三への惻惻(そくそく)たる挽歌。白眉は福田恆存と坂本多加雄追悼文である。
 『現実を動かした強靭な精神―福田恆存氏を悼む』に卓抜な指摘がある。

 「日本の戦後史を知る者は、『平和論の進め方についての疑問』の反対の言論を破壊するエネルギーがいかに大きく、日本の外交的進路にいかに目に見えない影響を与えたか、また『私の國語教室』という一冊の本が、国語のあれ以上の崩壊をいかに強力に食い止めたか、忘れることはできまい。

 世の知識人の言葉は論壇や文壇に作用することはあっても、現実に作用する力をもたない。たいていの思想は実用性に堪えない。しかし福田氏は違う。それは国語問題を保守的文学趣味で論じないで、一貫して文法の問題として論じ切った強靭な合理精神のしからしむる処である。それでいて『言論の空しさ』という文章で、氏は自分の平和論批判が正しかったから世の中が變わったのではなく、『世の中が變わったので、私の考へが正しかったといふ事になっただけの話である』と正確にみている。これは謙遜で言っているのではない。現実の大きさ、恐ろしさ、計り難さ、すなわち運命というものを知る人の言葉である」。

 福田晩年のエッセイ『言論の空しさ』をそのまま言論の有効性への慨嘆とだけ受け取ったわれわれの読解力がなかったということだろう。とすれば、われわれも西尾氏のひそみに倣って言わなければならない。西尾氏は  
 「新しい歴史教科書をつくる会」の運動は「どうしても目ざましい成果をあげることができなかった」(p44)というが、その志は自由社や竹田恒泰氏の教科書へと展開され、決着は今後に託されている。

 また、移民問題にしても、『戦略的「鎖国」論』が出たのは実に1988年に遡る。安倍内閣から菅・岸田・石破へと、その功無きが如く外国人流入は止めどなく増大し続けたが、恐らくは近年どこかで国民意識が臨界点を超え、「日本人ファースト」を掲げた参政党の躍進、外務省・JICAの「ホームタウン」構想への猛烈な反対運動を経て、高市内閣成立で国民意志は明確な転機を画した。西尾氏の著書や媒体での孤軍奮闘が深いところで国民意識を動かして来た結果でないとどうして言えようか。あるいは氏は、「世の中が変わったので、私の考えが正しかったという事になっただけの話である」と言うだろうか。

 『愛国者の死―孤軍奮闘した坂本多加雄氏の急逝』は痛惜と義憤の文章である。
 坂本氏は「『つくる会』の創立メンバーであった最初の四人の一人である。(中略)坂本さんは学問と行動を器用に区別し、それぞれ別の顔を見せようとした人ではなかった。彼の学問は彼の行動に基礎づけられ、その上に成り立っている」。彼の行動が学問に基礎づけられたのではなく、行動が先にあることに注意が必要だろう。最後に坂本氏への弔辞が全文載せられている。その後半では、坂本氏が委員を引き受けた、福田康夫官房長官の私的懇談会「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(通称、靖国追悼懇)への痛烈な批判が放たれる。葬儀にはそのメンバーも参列していたが、もちろんそんなことは問題にならない。西尾氏は坂本氏の霊に向き合い弔いを捧げているのである。
 「貴方はこう言いました。『国の追悼施設は今まで存在した。それは靖国神社であって、かつても今も変わらない。新しい代替施設は必要ない』と。
 坂本さんのこの認識は特別偏ったものではなく、国民の常識のラインに近いものです。
 (中略)坂本さんは日本人として、日本の歴史の連続性を重んじたごく当り前のことを述べたにすぎません。それが会議の席で、孤独な戦いになるのは、そもそも会議の委員の選び方に間違いがあり、好んで曲学阿世の徒が選ばれ、坂本さんがひとり苦悩を深めざるを得なかったのは、思えば痛ましい限りです。坂本さんがこの会議のストレスで病を重くしたことは疑いを得ません。
 (中略)この国の主権を守っているのは政府でも、外務省でもありません。例えば横田めぐみさんのお母さんのような心ある個人です。
 坂本さんもその一人です。
 坂本さん、ありがとう。私たちが衣鉢を継ぎます」。
 先月の自民党総裁選挙で林芳正氏は今以てA級戦犯分祀論を唱えた。政界・学会・経済界・マスメディアの日本のリーダーたちの多くは、依然として国民の常識の水準に達していない。 

第5章「日本および日本人について」
 どのエッセイも西尾氏の言うところは具体的かつ的確にして陰影に富んで深く、いかにもその通りだと思うのだが、時に十分こちらの理解が及ばず、その意味するところをわがものとし得たか、もどかしい一篇もある。
 その中で、平家物語論『日本人と時間』が新たな発見であった。平家物語は一門滅亡の全歴史を描くに、複数の視点を移動しながら多様な認識を並列させ、すべてを相対化する諦念を内にこめて描かれており、一瞬一瞬が完結し、同一の出来事が単調に周期する永遠の時間が流れていると西尾氏はいう。私はそのことに、またそれが日本人の時間感覚であることに、まったく気づいていなかった。西洋長編小説の、「細部が一つ一つ生きて、それが全体へ無駄なく積み重なって行く叙事的論理性」を持つ「ヨーロッパ的時間観念」とは全く別の世界である。氏の認識を獲得できるか、あらためて平家を読んでみたいと思う。

 第6章「ニーチェをめぐって」
 ニーチェを語る、触れれば火を噴くような短章群が並んでいる。
 西尾氏はヨーロッパにとって古代ギリシャは、「美や智慧の唯一の規範であり、青年教育の鑑(かがみ)でもあった」とし、ギリシャ研究は「ただの学問研究ではなかった。ギリシャを現在の自分の生活の場に引き据える実践であり、体験であり、行動であり、ときには信仰にもほぼ近いなにかであった。ギリシャは学習するものでなく、獲得するものであった。自分が主体的に対決し、自分の学問の体験とする相手だった」と言う。二―チェはそうした真の古代学を念頭に置き、『歴史の学問』の一つである既成の古典文献学を排撃」する。「ニーチェは直接性の回復を訴えたのだ。広く、かつ多く知ることは真理体験を困難にすると言っている。血をほとばしらせるような野生の叫びである。学者を顰蹙(ひんしゅく)させる大胆な断定である。そして真の知識は行為と一つになるという、往々にして歴史の曲がり角に過激に現われる『知行合一』の教えがここにも現われている」。

「歴史の曲がり角」に現われた「知行合一」の徒、例えば後期水戸学派は西尾氏の偏愛する精神の血族であった。
 「ここに、聖書を文字通り『神の言葉』として扱い、手ひどい火傷をする宗教家にも似たなにかがある」。「思想と実生活、認識と行為との一致というようなことに取り憑かれると、人はなにほどか狂的な相貌を帯びてくるのが常である」。「言行一致は身を破滅させる」。
 吉田松陰やゴッホが想起される。小林秀雄の『ゴッホの病気」を引用するのを許されたい。
 「諸君は、私を個性的な人間だと言ってくれるが、私の個性の中で最も個性的なものは何んであったか。私の精神病ではないか。私が戦った当の相手ではないか。私は戦ったが、遂に力尽きて自殺するに至った。正気の時の私も、まことに風変わりな人間であった。私は、私の個性の烈(はげ)しさ故に、優しい弟とも敬愛するゴーガンとも衝突しなければならなかった。誰ともうまくやっていくことが出来なかった。私は、自分の個性を持て余した人間だ。個性的なものなど、なければないで、どんなに済ましかったであろう。諸君は、私が止むを得ず、現したところを、私が失敗したところを言っているのだ」。
 ゴッホは画家になる前、「自分のうちに目覚めた大きな飢渇を癒すものは聖書より他にないと信じ」、「何ものかが牧師という天職に向かって自分を駆りたてると感ずる」(小林秀雄『ゴッホの手紙』)。そして「説教師として単身ボリナージュの炭鉱に赴」き、「手ひどい火傷」をした人である。

 エッセイ「歴史と文学」はエッカーマン「ゲーテとの対話」を引いて始まる。
 「近頃の歴史家にいわせると、ローマの英雄などはみな作り話だということになるらしいが、まあおそらく歴史家たちの言う通りだろう。英雄譚がみな作り話というのは多分本当だろう。しかし本当だとしても、そんなつまらぬことをわざわざ言ってみても仕方がない。ああいう立派な作り話をそのまま信じるほどわれわれも立派であってよいのではないか、と言っている」。
 これとまったく同じ箇所を、小林秀雄が確か戦時中の講演で引いている。また、西尾氏は「江戸のダイナミズム」で神話と歴史について精緻な議論をしていたはずだ。ゲーテの言葉は、「ローマ」を『古事記』と換えればわれわれにも同じ問題になる。神武天皇や日本武尊(やまとたけるのみこと)の英雄譚は、少なくともその一部は、作り話というのが本当のところだろう。だから何だというのか。神話をそのままに信じてきた日本人の心の歴史を否定することはできないし、「神話という事実」は厳存し続けている。
 「ゲーテはある種の疑念を表明した。学問によって真実をさらけ出してみたところで、それはたいしたことではあるまい。それよりも、そんなことをして文献学が古代の理想を壊し、いつしかドイツ人の教養の場から古代精神が模範としての意義を失うような結果になることのほうが、はるかに困ったことなのだ、と」。

 これに続く西尾氏の歴史と科学・歴史と文学をめぐる所説、さらには「私」を消し去った厳密な客観主義歴史家ランケの著作に意図を超えた「文学的な『語り』の魅力がある」という逆説、ニ十世紀の歴史家はまず歴史とは何かの議論・考察・点検に迫られ歴史叙述をしなくなったという趨勢、などが語られるが、この議論は私の手に余る。西尾氏の文章に就いていただくしかない。
 ニーチェにとって「歴史は過去の認識のために必要なのではなく、生と行為と未来のためにこそ必要であったにすぎない。古典文献学という『歴史の学問』から出発した彼は、ヨーロッパの歴史意識そのものを否定し、これを越え、瞬間と永遠が一致する永劫回帰へと突き抜け、古代の密儀秘祭の神秘体験へ向かって、ただ孤独に『疾走』した」。
 このようなニーチェを追い、「人間ニーチェをつかまえる」ために、「原点へもどって、ごくありきたりな一個の人間として、ニーチェが時代の問題にどうぶつかっていったかを見ていった」のが『ニーチェ』と『光と断崖:最晩年のニーチェ』という大著である

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