(五)
誰が本物であり誰が贋物であるか。誰が本物のリアリストで、誰が贋物の付和雷同者であったかの区別は今の時代にあってこそ愈々なされなくてはならず、戦争に負けたから協力者は全て悪である、とレッテルを貼るのだったら、これは戦勝国の論理ではありませんか。敗戦国がそんな粗雑さで自分の国の歴史への参加者を簡単に裁いて良いのでしょうか。戦争に協力した者は戦争が悪なのだから等し並みに悪である、と言うのだったらこれでは左翼と同じではないですか。この結果決定的にまずいことが起こるのです。戦争には負けたかもしれないが、あの時代の日本には数多くの選択の道があったはずで、その時開戦に追い込まれた協力者の中で誰が唱えていたことが、たとえ負けたとしても貴重な思想であり、選択であったか。負けたか勝ったかだけの根拠をここで問題にするのなら、これは戦争の論理、政治の論理であって、負けても勝っても立派だったかどうかを問わなければいけないわけですから。だったならば、あの時代の日本の運命を道徳基準で決めるのではなくて、国家を襲った歴史の必然性の基準によって評価するということが求められるべきことではないだろうか。私は戦後70年、保守も左翼もこの問題を避けてきていると思います。
だから私は言うのです。私も人生終わりに近づいているから言うだけのことは言っておかなければならないと思っているのですが、彼らが戦後から戦後を批判しているレベルに見え、そこから先に進もうとしないというふうに見えるのは私には不満だと申し上げたのはその所以です。
あの時代の日本の選択、開戦に至る必然性、戦争指導の理念的あり方、それについて思想指導者として誰が正しかったか、誰が私たちにとって理に適うか。正しいという言い方は拙い。誰が今の私たちにとって理に適うか、という評価が下される必要がある。それがされないままに終わってしまっては困る。
例えば国書刊行会が協力して「新しい」本が次々と発掘されている仲小路彰という思想家は、海軍大将末次信正や海軍大佐富岡定俊、昭和15年に軍令部作戦課長に就任していた人物とタイアップしてアメリカ軍との太平洋戦争を避けるべきこと、インド洋から中東へ海軍を動かして、南下するドイツ軍と連携すること、アメリカからのソ連への補給路を断ち、アメリカ軍の参戦の口実を封じることを提案していました。その結果、身が危うくなって昭和19年に東京を離れて山中湖へ隠棲します。仲間の明星大学の教授であった小島威彦(こじまたけひこ)は投獄されます。ルーズベルトが国内世論に迷ってぐずぐずしていた時代ですから、こういう作戦は有効だったのです。すべてを台無しにしたのは山本五十六の暴走です。とんでもない奴ですね。そうなってしまった後は、本当にもう運命みたいなものですね。だから軍部に協力していたとかいないとか、そういうことでその人の思想まで葬ると言うのは、もうここまで。それこそ70年、戦後70年なのです。我々は立ち止まって考えるときが来ているのです。
小林秀雄は、「利口なやつはたんと反省すればいいさ、俺は反省なんかしないよ、」日本人がもっと聡明だったら、もっと文化的だったら戦争なんか起こらなかった、というような馬鹿なことを言うような知識人に向かって、「そんなことはない、日本人を襲ったのは悲劇であり、悲劇の反省など誰にもできない、」「政治と文学」昭和36年12月号で彼は言いました。当時は戦争責任という言葉が吹き荒れていました。左翼の党派的欺瞞が横行していました。福田恆存「文学と戦争責任」昭和21年11月号、吉本隆明「文学者の戦争責任」昭和31年もその辺りを正確に撃っているのです。その辺りの知識人の欺瞞、日本人の欺瞞、嘘ばかり言っていては駄目だよと。我々を襲ったのは悲劇なのだと。それはその通りです。反省して歴史を変えられると思っている愚かさを戒めることにおいてまことにこれらの人々は峻厳でした。厳粛でしたが、そこに留まっていてそこから先がないのです。あるいはそれ以前がないといっても過言ではないかもしれません。
例外は林房雄の「大東亜戦争肯定論」でしたね。ただこの本が私にとって今思うと不足なのは、日米百年戦争を論じているのです。私にとって日米百年戦争がとても新鮮に見えたのは私が戦後つ子で、昭和3年満洲事変から日本は血迷いだしたという戦後歴史観に結局私も踊らされておりました。そういう歴史観に閉ざされていて、そのために林房雄の百年戦争論が大変面白く感じた。でも後で私がGHQ焚書を調べていたら戦争前は全部、誰もが皆そういうことを言っていた。林房雄は卓見を述べたわけでも、新発見をしたわけでもない。大川周明以下多くの人々が皆百年戦争、ペリー以来の戦争を言っているし、更には五百年戦争史観を述べているのは大川周明です。
もうあまり時間が無くなりました。平泉澄の話をしましたので、平泉澄の「我が歴史観」という論文を紹介して終わりにします。こんなに古い本です。これは素晴らしい本です。これをいま、講談社の学術文庫なんかに入れるといいと思いますが、平泉澄は徹底的に否定されちゃっているのです。とんでもない話ですよ。一方で大川周明は全集まで出ているのです。大川周明は復活しているのです。それは北一輝と並んで復帰して、少し左翼っぽいのです。それによって戦後受けているのです、ところが平泉澄は徹底的な日本主義ですから。それで、私が実に感服したというより共感したのは、私の考え方に非常に近いので共感したのですが、ドイツの歴史書をずっといろいろ述べた後で言っているわけですが、最後のところだけ紹介します。ハインリッヒ・リッケルトがどうだとか、ヴィヘルム・ハインリッヒ・リールがどうだとかいろいろ言っているのですが、それからです。
「主観的要素というものは、全ての歴史的把握のうちに必然的に存在してこれを根絶することはできない。個々の時変は、歴史的考察によって初めて同時代に起こった時変の無制限なる集団の内から拾い上げられて一個の歴史的出来事となる。歴史家は自分自身から問題を提案し、これをもって資料にあたってみる。この提案は歴史家に出来事を整理し、諸々の歴史的要機を選り分ける手がかりを与える。そして歴史家はこの問題を解決するために歴史的結論を出すのである。歴史家の現在は、どんな歴史からも切り離すことのできない一個の要機である。そしてこれは言うまでもなく歴史家のその人の個性よりも、彼の生きているその時代の思想界である。あらゆる時代において我々の到達しうるものはただ歴史に対する我々の認識のみであって、決して絶対的な無限に妥当する認識ではない。」
歴史認識というのは相対的なものなのだということを、まず私も非常に強く共感するものであります。
「こう言えば破壊的に聞こえる、けれども我々は恐らく次のことが自然科学についても、また概して人間のあらゆる認識についても一様に変わりがないと許容すべきであろう。昔より数多くの歴史家が現れ、数多くの歴史が著わされたにも拘らず、絶えず新たに歴史家の活動の要求せられるのは、ひとつはこの理によるのである。」
分かりますね。絶えず歴史家が求められるのは、歴史は一つではないと言っているのです。多様だと言っているのです。相対的だと言っているのです。でも総体と言ったら恐ろしい話です。何でもかんでもということになってしまうのだから。
「過ぎ去りし真実は固定して如何にも千古不変であろう。しかし、その事実を如何に把握するかは歴史家の個性及びその時代の思想によってそれぞれ違ってくる。中世に書かれた歴史は、畢竟中世的な把握の仕方である。現代は現代的な把握を要求する。それ故に歴史は絶えず書き改められなければならないのだ。」
まともなことを言っているでしょう。
「昨日は無意味なこととして除かれたものも、今日は重要なる意義を持てるものとして採用せられることは、我等が実際に歴史を取扱う上に屡々、否、常に経験するところである。」
もう一度いいますと、無意味なものとして除かれたものも、昨日は無意味、今日は重要というようなことは絶えず起こることだと。動くということですよね。何が重要で何が重要でないかは毎日違うという、つまり歴史は動いている。我々も動いている、動いているものが動いているものにぶつかるのが歴史です。
「然して、このことは思惟下の人格及び彼が如何に正しく現代を理解しているかが最も重大であることを示す。実際純粋客観の歴史というものは断じてあり得ないのであって、」
韓国人に爪の垢でも飲ませてやりたいですね。
「もしありとすれば、歴史では無くて古文書記録即ち資料に外ならない。」
資料というのはあるわけです。でも資料は歴史ではありません。
「歴史は畢竟、我自身乃至現在の投影。」
私自身の過去に対する投影、つまり主観的だと言っているのです。
「道元禅師の所謂、我を配列して我此れを見る。」
道元禅師が、自分を並べて、そして自分がそれを見るのだと、自分が自分を見ているのだと。道元は「歴史」と言っているわけではないけれど、「我を配列して我此れを見る。」しかもまた、「歴史を除外して我は無い。」と、今度は逆のことを言っているのです。我があるだけではない、歴史を除外して我は無いのです。
「我は歴史の外に立たず、歴史の中に生くるものである。歴史を持つものでは無く、厳密には歴史するものである。だから歴史する行為というものに結びつく。先(まえ)には歴史のオブジェクト、客観に人格を要求した。今は歴史のサブジェクト、主観に人格を要求する。斯くの如く内省してゆくところに現代史観の特徴がある。外へ外へと発展を急いだ時代は既に過ぎた。思うに斯くの如きはひとり歴史に於いてのみ見らるるところではあるまい。全ては今、反省して自己を確立すべき時である。」
大正14年11月の文章です。昭和元年に近い。平泉澄の言っていることは、誠に真っ当な私の胸にピンピン来るような素晴らしい文章であると思っております。歴史のパラドクスということ、「歴史をする」ということは世の中に無いけれど、「歴史をする」というのは「歴史は行動である」ということを言っているわけです。
平泉澄が大戦中にどういうことをしたのか、ということが非常に深く関係してくるので、皆さんご存知なければ最後にご説明しておきます。平泉澄は32歳にして昭和天皇に楠木正成の功績をご進講されています。その前には欧米に留学しています。満洲を視察して溥儀とも会見しています。満洲建国大学の創設にも参画しております。そして昭和20年に東京帝国大学を辞職せざるをえなくなります。
終戦時の陸軍大臣、阿南惟幾は自刃しました。この人は平泉澄の弟子です。続く東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)の次の下村定(しもむらさだむ)。この人も平泉澄の弟子です。帝国陸軍の最期は終戦の直前と直後において平泉澄の愛弟子の指導の下に事後処理を、陸軍は自分を解体したのです。平泉歴史神学は戦争から戦後にかけての行動の導きの星であったということであります。
了 (まとめ 阿由葉秀峰)