少し寒くなりましたね。皆さんはいかがですか。
9月26日の私の講演「昭和のダイナミズム」の内容を上手にまとめて下さり、加えて、ご自身の歴史の見方をご披露くださった阿由葉秀峰さん、ご苦労様でした。ことに最後に「歴史とは何か」に関する短文を拙著の各所から拾い出して並べて下さいましたこと――良く読み込んでいるなァ、と感服しました。どうもありがとうございました。
さて、私の最近の心配は脚力の衰えてきたことです。犬の散歩ぐらいでは足りません。ことにうちの犬は怠け者で、事を済ますと、すぐ「帰る」と言ってきかないのです。
私は毎日一、二時間早足で歩行することが必要なのですが、仕事の時間にくいこむので忙しくなるとつい外出歩行を止めてしまいます。雨など降って三日くらい外出しないでいると、自分の脚のようでなく、身体が前へ出て脚がついて来ないという状態になります。何とかして歩行の時間を確保しなくてはなりません。深刻な悩みです。
三つの課題に責められています。(一)全集のための資料蒐集・整理・配列、校正、後記(自己解説)執筆。(二)『正論』連載(現在15回)。(三)『GHQ焚書図書開封』(現在11巻)のためのテレビ録画、そのための研究と準備。以上三つの課題のために他の一般の仕事が出来なくなっています。健康維持に回す時間をこの中でどう確保するかが今の私の毎日の「戦い」の内容です。
全集第12巻『全体主義の呪い』(第13回配本)が間もなく刊行されます。目次をお目にかけます。
目 次
序に代えて ドイツよ、日本の「戦後処理」を見習え
Ⅰ 全体主義の呪い―――東西ヨーロッパの最前線に見る
前編 罪と罰
第一章 プラハのサロン「黒い馬」にて
第二章 国立哲学研究所でのディベート
第三章 「地下出版物」編集者の確信
第四章 個人の責任はどこまで問えるか
第五章 恐怖の遺産
第六章 ドイツーー魔女狩りのページェント
第七章 人間の罪は区別できるか
後編 自由の恐怖
第八章 ワルシャワの自由の誇り
第九章 埋められぬ断層
第十章 病者の特権
終 章 嗚呼いずこに行く薄明の未来
あとがきⅡ 異なる悲劇 日本とドイツ
ヴァイツゼッカ―前ドイツ大統領謝罪演説の欺瞞
英米からみた日本の謝罪問題
ヴァイツゼッカ―来日演説に見る新たなる欺瞞(その一)
ヴァイツゼッカ―来日演説に見る新たなる欺瞞(その二)
『異なる悲劇 日本とドイツ』がもたらした政治効果とマスコミへの影響―私の自己検証
ドイツの終戦記念日
「全体主義と戦争」再考―毎日新聞インタビュー
欧州戦争と異なる日米戦争の背景Ⅲ 旧共産主義地域への和解と支援が引き起こす地球上の亀裂
コール独首相のしたたかさ
日独共通課題論の誤り
冷戦後の「戦争と平和」考
統一ドイツの行方――われわれが初めて出合ったドイツの悪意Ⅳ 『全体主義の呪い』の改訂版『壁の向こうの狂気』より
前奏曲(プレリュード)――90年代の日本と世界
間奏曲(インテルメツツオ)――北朝鮮、イラク、そして中国という新しい脅威
終 曲(フィナーレ)――「拉致」と「核」で試される日本人の智恵と勇気追補一 恐るべき真実を言葉にする運命 坂本多加雄
追補二 辻井喬・西尾幹二対談 歴史の終結 歴史の開始
追補三 江藤淳・西尾幹二対談 新・全体主義が日本を呪縛する後記
三橋貴明氏はジムで器具を使った歩行運動を定期的に続けていることをブログで読んだことがあります。そのような方法は先生のお好みではないかもしれませんけれど。
導きの星である先生が健康でいらしてくださることは私の切なる望みです。
クリも10歳くらいでしょうか?これくらいになると
人間と同じで ようをたすとサッと家へ向かうのですね。
我が家の老犬も「大 小」終了でUターン200Mでした。
クリとの相性を考えてもう一匹、少し元気な「ワン」と散歩するのが
よいのでは?一案です。そうすると2度散歩となってしむのかな~
家庭内のウオーキングマシーンも先生には負担大かと思います。
渡名喜守明さま とおなじ思いです。健康第一としてお考えください。
全集を英語版、ドイツ語版で世界販売しなければ影響力はゼロ。協力する勢力は無いの?
「貴方はグッド・プライムミニスター(首相)だ。でも、悪いけど、日本人の魂は抜かしてもらうよ。グッドバイ」←マッカーサー日本を去るとき、当時の吉田茂に捨て台詞
>昭和52年 「歴史と真実」の一文~江藤淳 週刊現代連載
—同じようなことは日本の戦後史についてもいえる。
実は、高校の日本史の教科書に日本の降伏がどのように記述されているか、2、3の例に即して調べてみた。これは6/19夜のnhkのテレビ・コラムでも紹介したのですが、面白いことに、かの有名な家永教科書、三省堂の「新日本史改訂版」は、この点に関する限りまことに正確で、「日本はポツダム宣言に明示されている条件を受け入れて降伏した」と、書いてある。ところが井上光貞・笠原一男、児玉幸多三氏監修の山川出版社の「詳説日本史新版」を見ると、「日本はポツダム宣言を受託して無条件降伏した」と、書いてあるのです。以前書いたように、無条件降伏をしたのは「全日本国軍」であって「日本国」ではないのですから、この記述は明らかに誤りです。のみならず、山川出版社の「詳説日本史新版」にはポツダム宣言が抄録されているのですが、故意か偶然にか肝心の「われらの条件は左の如し」という降伏条件提示の意思表示をした第五項を省いてある。教科書著者もさることながら、相互にこれだけ矛盾した記述のある教科書を、いずれも検定教科書として認めている文部省の教科書調査官は、一体どういう史眼の持ち主なのだろうと首をかしげざる得ません。—
端的に足腰を鍛える方法があります。
単純なことですが、相撲の四股を踏むことです。
20回も踏めば、息が上がってきます。
伊達に、相撲取りは四股を踏んでいるわけでありません。
大横綱の白鵬も、四股を踏むと足腰が安定してくると言っています。
基本は大事ですね。
皆さんのコメントみててトレーニングもいいんですが、ボディービルダーは ①トレーニング②栄養③超回復のための休養日の3つを重要視してます。②の筋肉をつけるのに効果的なのがアミノ酸です。たんぱく質を分解したものですが、いわゆるプロテインパウダーより吸収率がよく筋肉がつきやすいです。以前テレビの特集でアミノ酸を研究しているお医者さんが老人ホームのお年寄りにアミノ酸入りゼリーを与えたところ、歩けなくなっていたのに筋力が回復して歩けるようなったという番組をみかけました。ですがこういったサプリメントってのはご高齢の方は避けるみたいでうちの高齢の親にもいろいろすすめるんですが、いやがってのみませんね。「きなこ」でもいいんですけどね。私も他のコメントの方と同様に先生にはいつまでもお元気で情報発信してもらいたいです。
「ニーチェが冒涜されている」
私は、双極性障害という精神病を抱えているため、ストレスによって体がつらくて溜たまらず、最近は飲酒することでつらさを紛らわしているのですが、もちろん、暴飲にならないように気をつけてはいますが、焼酎の水割りを、かなり薄くしながら飲むことで、多少は体が楽になるのです。
今日も朝から体がつらかったので、どうにも耐えられず、午後になって、焼酎の水割りを飲んでいたのですが、少し酔いが回ったので、酔い覚ましに近所にある大きな本屋まで散歩をしてきました。
しかし、本屋に入って、一気に酔いを覚ます出来事がありました。
それは、本屋に入って、すぐのところに平積みになっている本の中に、「ニーチェの言葉」という本があったのが目に入ったのです。
売り上げが100万部を超えていると宣伝されていました。
本が売れない時代に、ニーチェの本が100万部も売れているのか、日本の読者層も、まだまだ捨てたものではないと喜びながら、その本を手に取ってみました。
どうやら、ニーチェの言葉を抜き出した箴言集のようになっています。
しかし、よくよく読み進めてみると、訳文が非常に軽いことに気が付きました。
そして、この本を出版した目的が、ビジネス書か、あるいは、成功術の本のような目的であることが分かりました。
ニーチェの言葉が、お手軽なビジネス成功書として翻訳されているのです。
ここまでニーチェを冒涜する行為があるでしょうか?
ニーチェの言葉に、大衆が好む書物は腐臭を放っているというものがあります。
そして、まさに、ニーチェの言葉が、大衆の好むものに変えられてしまっているのであります。
本当に、その本からは、腐臭のようなものが臭ってくると感じられました。
この事実を知ったら、ニーチェは怒る狂うことでしょう。
翻訳者は、ドイツの大学に留学までしているようです。
ニーチェの著書を原文で読みながら、ここまで卑劣な行為を行える神経が理解できません。
いったい、ニーチェの何を読んでいたのでしょうか?
実際、最近、私は、専門は社会学なのですが、自分の思考力を深めるために、哲学書を読むようにしています。
そこで、ニーチェの著書も、代表作である、手塚富雄先生が訳された、世界の名著シリーズに入っている「ツァラトゥストラ」は、20代の時に読んでいたのですが(読むのに1年かかりましたが)、それと、文庫本で、西尾先生訳の「この人を見よ」も読んでいました。
どちらも非常に難解であり、言葉の細部は理解することが出来ませんでしたが、全体的に、ニーチェが何を意図しようとしていたのかは、おぼろげながら理解可能という感じでした。
それから、40を過ぎて、久しぶりにニーチェの本を開いて見ると、自分の文章読解能力が大幅に上がっていることに気が付きまして、ニーチェの著書が、すらすらと読むことが出来るのですね。
そして、どうしても読んでみたかった、ニーチェの処女作である、西尾先生訳の「悲劇の誕生」を読んでみることにしました。
訳文が非常に分かりやすく明快で、当時、若干30歳であった西尾先生が、ここまで見事にニーチェを訳していたことを知って、改めて、西尾先生の才能の早熟さを垣間見た気がしました(西尾先生は、東大大学院の修士課程までしか出ていませんが(博士号は「論文博士」で取っています)、すでに、修士学生の段階で、東大教授よりも才能が上回っていたので、博士課程に進学する必要がなかったのでありましょう)←30歳の時に、ニーチェについて書いた論文で賞をもらっていますからね。
しかし、訳文は素晴らしかったのですが、私は、「悲劇の誕生」を読んで、物足りなさを感じました。
本当に、ニーチェはこの程度のことしか言わなかったのかと感じたのです。
たしかに、当時の哲学の主流だったアポロン的な考えに対して、デュオニス的な考えを打ち出したことは、非常に画期的なことだったのかもしれません。
しかし、そもそも、それは、当時の哲学が、プラトンの頃から進歩していなかったいうことに過ぎず、退廃していたということだったのではないでしょうか。
そのことを考えると、ニーチェは、古すぎる考えを改めたという、至極、当たり前のことをしたに過ぎないとも言えるわけです。
たとえば、社会学の泰斗である、マックス・ウェーバーにしても、彼の著書は古典となっているのであり、現代においては、特別に新しいことを言っているわけではないということにも共通することです。
フランス社会学の始祖である、デュルケムにしてもそうで、彼は、なぜ社会学というものを打ち立てる必要があったかというと、彼が社会学について述べた著書を読むと分かるのですが、そもそも、当時は、「社会」という概念が存在していなかったのです。
我々が、現代において、日常に使っている「社会」という言葉は、社会学が誕生するまでは存在しなかったのですね。
それまでは、社会というものが存在することが、全く意識されていなかったのです。
そして、「社会」という言葉を使おうとすると、「そんなものは存在しない」と否定されてしまう状況だったのです。
つまり、社会問題を考えるにあたって、そもそも、「社会」というものが存在することを証明しないと、社会問題を考えることも出来なかったのです。
必要は発明の母と言いますが、社会問題を解決する必要性がまずあって、そこから社会学というものが誕生したという歴史があるわけですね。
哲学にしても同様で、人生とは何か、生きることに意味はあるのか、という疑問を解決するために誕生した学問であるとも言えましょう。
話がだいぶ逸れましたが、ニーチェの話に戻しますと、試しに、世界の名著シリーズのニーチェや、西尾先生が訳した「アンチクリスト」や、もっと前に訳されている「道徳の彼岸」に目を通してみましたが、訳文が本当にしっかりしています。
昔になればなるほど、文章は難解ですが、本当に丁寧に訳していると思います。
しかし、最近は、手抜きの訳文が出てきたりもしているのです。
マックス・ウェーバーの「社会学の根本概念」という主著があるのですが、これには、新しい文庫の翻訳と、それより前に訳されたハードカバーのものがあり、両者は訳者が違います。
ハードカバーの方は、2人で翻訳してあります。
そのハードカバーの本の解説を書いている有名な社会学者が、次のようなことを言っているのです。
「新しい訳本に比べると、この訳本は、細部にまで細かくこだわって訳しすぎている気がする。そこまでする必要はないだろう」
一瞬、目を疑いました。
つまり、新しい翻訳は、細かい部分を省略して翻訳しているのです。
それは、手抜きをしているということでしょう。
そんな手抜きの翻訳で、マックス・ウェーバーの本当の意図を読みとることが出来るのでしょうか?
奇しくも、西洋美術史研究の世界的権威である、田中英道先生からいただいた年賀状に、「最近は、世界的に、大学教授の劣化が進んでいます」とありましたが、そのことが実証されている出来事でありました。
さらに補足すると、イギリス社会学のニュー・スターと言われているギデンズ(私は左翼としか思えないが)の「社会学 第3版」という訳書があります。
大学院の入試対策として、ギデンズの原著を読んでいたのですが、その中で、これは明らかに意図的な誤訳である部分を見つけました。
それは、ギデンズが、ある章の中で、「近年において、西洋の知識人の中にも、植民地支配を反省する動きが出ている」と、原著の中で述べていたのですね。
私はそれを読んで、「ああ、やっと、欧米列強の植民地支配を反省する動きが、欧米の知識人の中にも出てくるようになったか」と思ったのですが、翻訳書を読んで愕然としました。
なんと、「西洋も植民地支配を反省している」の一文が、まるまる抜け落ちているのです。
これは「誤訳」などというものではありません。
「西洋も植民地支配をしていて、それを反省している」という事実を隠そうとしているとしか考えられません。
翻訳しているのは、青山学院大学の教授を筆頭とした、すべてが、早稲田大学の社会学研究科に所属していた、あるいは、所属している研究者です。
ここまで書けば、いったい、何を理由にこのような行為を行ったか分かるでしょう。
早稲田といえば、左翼の牙城として知られた大学です。
日本の悪口は言っても、西洋の悪いことは、口が裂けても言いたくない連中なのでしょう。
世界的に、大学教授の劣化は進んでいますが、日本の大学において、それは特に顕著のようです。
(日本の大学の中で、1番にレベルが低いのが社会学です)