「ドイツ大使館公邸にて」と題し六回にわたって書いた拙文は、久し振りにのんびりした随筆スタイルで記したせいか、評判が良かった。あれは面白かったですよ、と声をかけてくれる人が何人もいた。友人たちからもメールの感想文が届いた。ドイツ大使の三島由紀夫論がとりわけ一番関心を持たれた。
眼のご不自由な足立さんもいつものように音声器で読んでくださっていて、次のような感想を寄せてこられた。
私が最も興味を持った点は、西尾先生がご指摘されたこと、すなわちドイツ大使が、”ナショナリスト””ナショナリズム”には”敵”としての外国が存在するものであるのに三島由紀夫にはそれがそんざいしていないという指摘でした。
実は私は2月に二つのグループが別々に拙宅を訪れ、酒と食事をともにして議論したことを思いだしたからです。
一つのグループは北京時代の部下達でありもう一つはジャカルタ時代の部下達でした。
その中で、戦後の占領軍の”検閲”や”焚書”について話が及んだ際に、この問題を我国自身の問題であることを放擲して、「アメリカが悪かった。」として今日の状態をアメリカの責任にして終わるならば、そのことは韓国人や中国人が総てを日本の責任にしてしまうことに等しいのではないか、という議論が出てきたことです。
これは重要なことであり、我国が本当に自立してこれからも予想されるあらゆる困難に立ち向かうためには必要なことであると感じた次第です。
三島のナショナリズムに特定国を”敵”としていないことはそれ自体日本の”国体”につながることであると私には思えるのです。
足立誠之
足立さんのいつものお言葉には感服するのが常だったが、今回は一寸違うのではないかと私は思った。銀行時代のお仲間は反省好きの日本人の典型で、自分を道徳的に清廉に保てば国際社会に生きる上でも支障はない、まず自分の誠実を起点にせよ、と日本社会に自省を求める「あぶない善意の人」ではないかと私は思った。自分を主張できない日本人の弱さの代表例ではないかとさえ思ったが、いかがであろうか。
アメリカ占領軍の「検閲」や「焚書」は比較を絶した悪であり、ナチスや旧ソ連の一連の外国政策に匹敵するレベルである。また戦後韓国人や中国人が総てを日本の責任にして責め立てる慣例も、やはり世界に例の少ない戦略めいた政治謀略の匂いがある。不正直とか嘘つきとか恥知らずといったモラルの問題では必ずしもないことにわれわれは気がつき出している。
最近のアメリカや中国の行動は日本をかつて苦しめたルーズベルトと蒋介石が握手した時代の再来を思い起こさせるものがある。日本人の善意や誠実で立ち向かうことは泥沼にはまった戦前の失敗をかえって繰り返すことにならないだろうか。
同じ坦々塾のメンバーの池田俊二さんの次のコメントに私はむしろ説得されている。
三島が外なるhostile enemyを見てゐないといふ大使の説が先生の「心に一つの衝撃の波紋を投げた」のはもつともです。私も意表を突かれました。
たしかに三島はあまりにも内省的、自閉的、自虐的であつたかもしれません。しかし彼に外のenemyが見えてゐなかつたとは思はれません。アメ公、露助、チヤンコロ、鮮公、その他のあらゆる惡意は自明の前提だが、そんなことに言及する暇がないほど、、あらゆる現實を見ようとしない「現代日本の腐敗と空虚」に對する彼の怒りがあまりに強かつたのではないでせうか。
但し「腐敗」といふやうな高級なものがあるとは、私には思へません。「空虚」もあまりぴったりしません。これまた適切な言葉でないかもしれませんが、一言でいへば日本人の「劣化」の方がいくらか當つてゐるのではないでせうか。
怒りを忘れた日本人の「劣化」があまりにひどく進行しているので、三島由紀夫は怒りの持って行き場がなく自決したのだという考え方は大筋において当っていると思う。日本民族に向けられた「諫死」である。
三島には敵がいなかったのではない。敵は自明の前提であった。彼が死んで40年近くになり、敵はようやくはっきりとその姿をわれわれの前に見せ始めているように私には思える。トヨタ問題といい、捕鯨妨害問題といい、中国人流入問題といい、外国の対日心理をめぐる情勢は第二次世界大戦前とそっくり同じになってきている。
たゞそれに気がつかないのが、池田さんが言う日本人の「劣化」である。その劣化の原因について、彼は福田恆存の言葉を引いて次のようにつづけている。
その原因は、「漱石のうちにはヨーロッパ的な近代精神と日本の封建意識と兩方がせめぎあつてゐて、前者がけつして後者と妥協しなかつたことに大きな苦しみがあつたのです」「兩者がめつたに妥協できぬといふことこそぼくたち日本人の現實なのであります」(福田恆存による角川文庫版「こころ」の解説)と言はれてゐる、その「現實」に妥協どころか、少しも向合はず、全て曖昧に、だらだらと過して來たことではないでせうか。
先生の、日本と西歐の近代はパラレル、むしろ、多くの點で日本の方が先んじてゐたとの御説には教へられ、共感しました。しかしながら、世界を制霸したのは西歐の近代で、日本のそれではありませんでした。そこに遲れて參加した日本の、向うさまに合はせんが爲の努力は眞に涙ぐましいものでした。ところが、2代目、3代目に至ると、合はせる、合はせないといつた意識すらなくなり、萬事ずるずると來た結果が今の日本のていたらくでせう。その根本を深く憂ひたのが、福田恆存であり西尾幹二である――私はそのやうに考へてをります。
「自民黨が最大の護憲勢力だ」(三島由紀夫)、「今の自民黨は左翼政黨である。その代議士の大部分は福島瑞穂なみ」(西尾幹二)、どちらも、根本を見失つた、あるいは見ようといふ氣力さへない現状を見事に言ひ當ててゐる
と思ひます。
世の中には福田恆存の弟子と言いたがる評論家がごまんといて、最近新全集が出てまた増えているので、私をそう呼ばないで欲しいと池田さんにあえてお願いしておくが、それはともかくここで言う「劣化」、現実と向き合わずに全て曖昧に万事ずるずるときた日本人のていたらくの正体について、最近『正論』4月号で、私は多少とも新しい分析をほどこした。45-46ページにかけての「日本の保守とは何であったか」について語った部分である。興味のある向き注意を払ってほしい。
三島の1970年のクーデターに「敵」がいなかったという例のテーマをめぐって、平田文昭さんがさらに一歩踏み込んだ展開を示唆して下さった。
ドイツ大使公邸にて六 の簡単な感想です。
三島は、自民党以上に昭和天皇こをそ最大の護憲勢力、と考えていたでしょう。
彼はクーデターの成功を考えたでしょうか。
成功するということは、昭和天皇が認めるということです。
それが可能と彼は考えたでしょうか。
もし三島に、絶望のかなたの「夢」がもしありうるとしたら、
自衛隊の決起以上に、天皇が認めることが、それなのではないか、とさえ思えます。
こういうことを世の三島論はいいませんね。
先生の『三島由紀夫の死と私』をまた読み返しました。
三島が死によって覚醒を求めた相手は自衛隊でもなければ自民党でもなく、むしろ昭和天皇であったのではないかという大胆な見方である。『英霊の聲』をみればそのことは明らかだが、たしかに誰も触れようとしない。そしてそのことは日本人が万事だらだらと曖昧に生きているうちに少しづつ予想もしなかった不気味なかたちになって国民の前に姿を現わしつつある。GHQの蒔いた種子(皇統を断絶させようとする)が大きく育って皇室をゆさぶっている不安については、ついにテレビでさえ公然と語られるようになった(3月7日テレビ朝日のサンデープロジェクト)。
加えて亀井静香金融大臣が「天皇は京都にお住いになったら」と言い出した。平田さんは先の文につづけてこんなことも言っている。
このところ、皇室の京都還幸論が言われだしています。
発信源はおそらく佐藤優です。
佐藤優が最初というのではなく、彼が影響力をもつ議論を展開した、
或いは、
佐藤優という伝道者を得ることで、この論が影響力を持ち出した、
という構図とみています。
これは偶然か企図されたものかはわかりませんが、
(私は国際的な状況の反映の可能性は捨てきれません)
妙な政治状況があって、これがこの論に幸いしています。
この論をなすものは、みな南朝派です。これも興味深いところです。
このところ、私のなかでは
南朝擁護論、皇室の京都還幸論、唯祭祀主義ともいうべき考えかた
への疑義がどんどん大きくなっています。
これらの思想との対決は、日本の歴史の過去にも、形を変えて
(という意味は南北朝以前からということですが)
ずっと続いてきたようにも考えております。
私は必ずしもよく分らない内容にまで筆が及んでいるので、いつかもっと明確に書いてもらいたいが、われわれは『保守の怒り』においてすでにこのテーマを取り上げている。天皇を文化の象徴化に限定する幸福実現党の京都遷都論への批判を私もあの本で語っているが、佐藤優氏には言及していない。
平田さんは最後に次のように書いている。
ウルトラナショナリズムが、きわめて極端な種類のナショナリズムというのは
考えさせる指摘でした。
ナショナリズムというと、どちらかと言えば、ナチズムを連想させるような観念になった観があります。
パトリオティズムでなく、ナショナリズムの語を使ったときに、
三島とナチの対比が現ドイツ大使の念頭になかったはずはないと思います。
だからこそ、外敵なきナショナリズムが奇異にみえたのではないでしょうか。
まとまりませんが、取り急ぎしたためました。
坦々塾では日録の先をうかがえるのではないか、と期待しております。
平田 拝
3月6日(土)に坦々塾が行われ、私はそこで「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」と題した報告をした。いづれここでも紹介されるであろう。