秋葉忠利広島市長と日本会議広島は同列である。

ゲストエッセイ 
早瀬 善彦
京大大学院生、日本保守主義研究会学術誌『澪標』編集長

 

8月6日に広島で予定されていた田母神氏講演会は、秋葉忠利広島市長の卑劣な脅迫にも屈することなく無事行われることが決定したという。そのこと自体は歓迎したい。

 民間団体が主催する講演会に「待った」をかけた秋葉広島市長の凶悪かつ卑劣極まりない権力行使には、唖然とするほかない。共産主義者の正体みたり!とはこのことであろう。言論弾圧体質が骨の髄までしみ込んでいるからこそ、市長という立場も忘れてとっさにこうした暴挙に出てしまうのであろう。

 しかしながら、それ以上に看過できないのは、秋葉氏の言論弾圧にたいする主催者側(日本会議広島)の対応である。主催者関係者は以下のように語ったという。

 「私達は市長以上に核廃絶を願っている。北朝鮮や中国の核実験が問題になるなか、真の平和のためにどうすればいいのか、という趣旨の講演会がなぜふさわしくないのか全く理解できない」

 さらに、日本会議広島が中国新聞に掲載した意見広告が問題である。

 「1.『核兵器のない世界』は私たちの願い」と題した上で、「核兵器廃絶は私たちの願いです。本会には被爆者や被爆二世の方々も多数おられ、平和を希求する思いは誰にも劣るものではありません。」と謳っている。

 続けて、「2.北朝鮮の核に触れないヒロシマの『平和宣言』への疑問」では、「『核兵器も戦争もない世界』を実現するには、その精神を高く掲げつつ、万全を期して現実的脅威に備えることが必要です。そのためには客観的に現状を把握し、具体的施策を考え努力することが大切です。」と主張しているのである。

 仮に、保守を自認する日本会議広島が心の底からこうした思想を持っているとしたら、それはそれで大きな問題だとしかいうほかない。

 「万全を期して現実的脅威に備えることが必要です。そのためには客観的に現状を把握し、具体的施策を考え努力する」のならば、核の廃絶など決して現実的な選択肢には入ってこないはずである。というのも、核廃絶と平和は現状において、決して結びつかないからだ。

 たとえば、冷戦中、地政学的にも陸軍力においても不利を極めていたアメリカが、ソ連にたいし、かろうじて優位性を維持できた大きな理由は、長距離(中距離も含む)核ミサイルの存在にある。

 第二次大戦後の国際社会、つまり核兵器が世界各国に実戦配備された世界では、どんなに政治的に対立した国家同士も、直接的な戦争だけは何とか最小限にとどめようと務めてきた。この歴史的事実は誰しも認めるところであろう。

 通常の国民国家同士の争いにおいては、恐怖の度合いが抑止の信頼性につながるという哀しい現実がある限り、真の世界平和を目指すのであれば、現状における核の廃絶はおよそ現実的な政策ではない。

 かつて、サッチャー首相が語った「われわれは核兵器の無い世界ではなく、戦争の無い世界を目指すべきです。」という言葉ほど心理を鋭くついたものはないだろう。

 日本会議広島の今回の態度をみている限り、彼らも所詮は「戦後民主主義の常識」から完全に抜け出すことのできない、うす甘い心情的左翼なのではないかと思えてくる。

文:早瀬善彦

私は知りたがり屋(一)

 この間当ブログで、伊藤悠可さんが5回にもわたるゲストエッセイで、私が「専門家嫌い」であることを論題としてとり上げてくださった。この問題は、私が若い頃ニーチェに惹かれたのが彼の「学者嫌い」にあることも関連していて、語ればきりがないほどいろいろなことがある。

 伊藤さんは幸田露伴を引いて「雑学好み」ということを対概念として語っていた。たしかに世にはスケールの大きい雑学の大家がいる。私の友人にも舌を巻くようなそのタイプの人がいる。概して歴史家に多い。『歴史通』という雑誌が出始めたが、多方面な知識に通暁した「通」は歴史家に向いている。

 残念ながら私はそのタイプではなく、歴史を書いていて、最初から歴史家失格である。歴史家は私の書くものを歴史ではないというだろう。私は専門家嫌いだが、とりわけ歴史の専門家は一番好きになれない。料理の専門家や、薬の専門家や、犬の専門家のほうがよほどましである。

 歴史の専門家は過去の一時代の一地域の一家族のことを詳しく調べあげてそれで満足するというようなところがある。その知識が時代と文化の全体とどう関係するかに余り関心がない。これは西洋でも同じであるようだ。ドイツ史を志した友人がドイツで学位を取った。聞けば、ドイツのある地方の農業共同組合の歴史を丹念に調べたものらしい。何でそんなことをするのか関心の由来を尋ねたが、要領を得なかった。知的関心ではあるが、思想的関心ではのだ。アナール学派というのかなにか知らないが、今の歴史学は妙である。

 私の「専門家嫌い」はいわゆる「雑学好み」というところから出たタイプとはどうやら異なるようである。ならばどういうタイプかといわれると、説明は難しい。ある事柄を詳しく正確に知ろうとする努力は貴重だが、そのことだけに満足している人を見ていると、それはあなたの人生とどういう関係があるのですか、という質問をつねに浴びせたくなるのである。

 人間は何をするにも知識を必要とする。知識を基礎にする。しかし私は知識は手段である、と若い頃からずっと思っていた。どんな知識も人生の目的にはなり得ない。知識自体に価値はない。知識は何か価値あることをするための階段にすぎない。

 知識は人間を歪めることがある。豊かな知識は人の判断を迷わせることがある。知識は行動力を鈍らせる。人から生気を喪わせる。それでも、なにをするにしても目的を達成するには知識を必要とするであろう。知識は要するに必要悪にすぎない。

 例えば、ソクラテスからわれわれが学ぶのは、今この現代社会で生きているわれわれの生の現場に当てはめて、何が知(ち)であり、何が無知(むち)であるかの直接の教えでなくてはならない。直ちに実行できる体験でなくてはならない。

 ところがソクラテスに関する現代の専門家が教えてくれるのは、ソクラテスが知と無知について何を考えていたかということの知識にすぎなくなっている。それはギリシア語のできる専門家の調査結果報告であって、彼ら自身は自らの出した結論のなにひとつとして、今の生の現場で、実行できていない。彼らは知識を示すが、その知識を信じていない!

 例えば万葉集の専門家の本を読むと、われわれが万葉集の時代の古人と同じように生き、同じような心を持とうとすることは途方もなく難しいはずなのに、それがどんなに不可能なほどに難しいか、その絶望が語られていない。万葉集の古人も現代のわれわれと共通する関心と意識を抱いていたから、これを読めばわれわれの感性も豊かになるだろう、といったたぐいの世迷いごとに満ち溢れている。それが現代の文学教養書の古代へのアプローチの習性である。

橋本明『平成皇室論』について

 今上陛下の学習院初等科からの同級生であった橋本明氏(元共同通信社総務)が『平成皇室論』という一書を最近出した。朝日新聞社からである。それについて私は一昨日(7月10日)、『週刊朝日』のインタビューを受けた。

 この本はすでに報道されている通り、皇太子ご夫妻の進退について相当に思い切った提言をしている。雅子さまの行状について、私的外出や公務の直前のキャンセルなどを系統立てて詳しく記録的に語り、今後皇后としての激務をこなせる可能性は少ないと見て、次の三つの選択肢を提言した。

 (一) 雅子さまは「別居」して治療に専念する。
 (二) 皇室典範を改正して「離婚」していたゞく。
 (三) 皇太子さまは自ら次期天皇になるのをやめて秋篠宮に座をゆずる「廃太子」の道を選ぶ。

 以上のような、三つの選択肢を考えるべき時が来ているという思い切って論理的に整理された内容の提言を行った。

 誰でもこのくらいのことはすでに考えているし、驚くほど新鮮な内容ではないが、たゞ公開の文書で妃殿下の行状を詳しく述べ立てた後でのこの三提案だから、事実上の「皇后失格宣言」といってもいい。

 インタビューなどのまとめに手を入れた1000字ほどの私のコメントは、次の『週刊朝日』に掲載される。著者の橋本さんも言っているが、この面倒なテーマの「けじめ」をつけられる実行者は天皇陛下のほかにはいない。陛下以外に問題を解決できる人はいない、と私も思う。

 それなら私にしても橋本さんにしてもなぜ書かずにいられないかというと、将来の皇室の変質が心配で、それに伴い日本の未来がさらに心配だからである。国民の一人として声を挙げずにいられないのは当然である。

 昨年の『WiLL』5月号の私の発言時に、公開の文章で問わずに直接殿下にお会いして口頭で奏上するのが正しく、私は「臣下の分」を弁えない不忠義者であると、ものものしく言い立てる保守派からの攻撃を受けたが、橋本明氏のような天皇陛下にいつでも会える側近でさえ、こうして本を書いて公開オピニオンに訴える形式をとっているのである。この点をよく見届けておいて欲しい。聞く処では橋本さんは陛下がカナダに旅立つ前に見本刷かなにかをいち早く陛下にお渡しになっているようである。

 雑誌や本で世論を喚起するのは現代の常道で、それ以外に肝心の方々のお耳には届かない。否、それをいくらやったとしてもお耳には届かないのかもしれない。橋本さんの今度の本は、私とは違って、間違いなく天皇陛下のお手には渡った。

 橋本さんも言っているが、適応異常とか鬱病とかはそんなに長くつづくものではない。私は雅子妃殿下はご病気かどうかは別として、皇室という環境そのものがいやで、伝統的行事とか日本古来の仕来たりとか和歌とか作法とか、そういう世界からできればなるだけ遠ざかっていたいという心理状態なのではないかと思う。美智子皇后への劣等感もそこには重なっているように思える。

 とすると、皇太子ご夫妻が宮中の主になられた暁には、公務の質をがらと替えてしまう可能性がある。そして、あっという間に病気は治り、代りに国民と皇室の一体感も消えて、まるきり異なった宮中の姿が伝えられるようになるかもしれない。そういうような局面になることを私も橋本さんも恐れているのである。いちばん心配なのはこれである。「民を思う心」が皇室にあり、「明き浄き直き心」の模範の柱が皇室にあるとの信仰が国民にある。その二つの型の呼吸がピタと合っている。それが今はまだある。この両方相俟つ関係がはたして守られていくだろうか。われわれはそれを心配しているのである。

 昨年12月羽毛田宮内庁長官がいわば天皇の意を体して「皇室そのものが(雅子さまに)ストレスであり、やりがいのある公務が快復への鍵だとの論があるが」それに「両陛下は深く傷つかれた」とおっしゃった。これは天皇から皇太子ご夫妻へ向けて二人のあり方を真剣に考え直せよ、というメッセージであったと思う。

 今年2月の皇太子殿下誕生日記者会見で、殿下はいろいろなことをたくさんお話になったが、肝心のこの点についてだけ、記者団から問い質されていたのに、するりと抜けるようにいっさいお語りになっていない。一番のポイントである。難し過ぎて話せなかったのだと思う。勿論ご同情申し上げるが、しかし問題は皇室が妃のストレスになるというここにきわまっているのである。だから橋本さんの本の三選択肢のような具体的な提言が出てきた。いちだんと輪はせばまっている。

 もうこうなったらケジメをつけていたゞくのは天皇陛下御一人のほかにはない、という橋本さんの結論も納得がいく。従って、妃殿下のお振舞に関するわれわれの立言もすでに限界に達したというべきで、もう私は終りにしたい。

 ただこれとは別に橋本さんの『平成皇室論』は妙に政治的なスタンスが介在する。一口でいえば平和主義、平等主義。今上陛下が現行憲法の改正を望まないという趣旨のご発言を、ご即位においても、ご結婚50年の際の記者会見においても、折りにふれなさっていること、また、昔のような格差社会(身分社会)にもどすべきではないとのご意向があるというようなことを、橋本さんは強調している。

 私見ではもう日本が昔の型の身分社会に戻ることはないが、皇室と一般国民の間の垣根が低くなることは皇室の危機に直結するというにがい現実を、橋本さんは見ていない。また、戦争行為を封じた現行憲法が今まで見捨てられないできたのは、日米安保条約とワンセットになっていたからであって、これが今問われている。国内に50個所も米軍基地を許し、米国の意のまゝの戦争にのみ狩り出される可能性をこの侭つづけていてよいのかという疑問は日増しに高まっている。左右両サイドから安全保障への不安が高まっている。今上陛下の現行憲法擁護のご発言は、こう考えると、なかなかに政治的である。日本の左翼に政治利用される可能性がある。否、すでにされ始めている。

 雅子妃問題よりもこの方が深刻な問題であるので、また稿を改めて論じることにする。

『国民の歴史』の文庫化

 6月のほぼまる一ヶ月をかけて『国民の歴史』の文庫化に取り組んでいる。作業が全部終わるのには7月一杯かかり、8月末日が校了で、10月刊行の予定である。文春文庫で、上下2巻となる。

 あの本が出たのは平成11年10月で、ちょうど10年になる。よく売れたから新潮文庫からも講談社文庫からもオファーがあった。しかし本が出て間もない早い時期にいち早く要望してこられたのは文藝春秋であった。原著の版元の扶桑社との間で交した契約書によって、文庫化などの二次利用は5年間禁じられていた。

 短時日で作成した大著なので、口述筆記の章がいくつかあり、そこは文章が粗い。今度丁寧に赤字を入れ修文し、読みにくい個所は平明にした。内容上の加筆もなされた。文庫本を定本とする。

 写真や図版が100点以上もあるので、文庫の作成も手間がかゝる。あらためて目次をご案内する。赤字部分は新しく今度書き加えられた箇所である。

上巻目次

 まえがき 歴史とは何か
1・・・・一文明圏としての日本列島
2・・・・時代区分について
3・・・・世界最古の縄文土器文明
4・・・・稲作文化を担ったのは弥生人ではない
5・・・・日本語確立への苦闘
6・・・・神話と歴史
7・・・・魏志倭人伝は歴史資料に値しない
8・・・・王権の根拠―日本の天皇と中国の皇帝
9・・・・漢の時代におこっていた明治維新
10・・・奈良の都は長安に似ていなかった
11・・・平安京の落日と中世ヨーロッパ
12・・・中国から離れるタイミングのよさ―遣唐使の廃止
13・・・縄文火焔土器、運慶、葛飾北斎
14・・・「世界史」はモンゴル帝国から始まった

 上巻付論 自画像を描けない日本人
――「本来的自己」の回復のために――

下巻目次

15・・・西欧の野望・地球分割計画
16・・・秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか
17・・・GODを「神」と訳した間違い
18・・・鎖国は本当にあったのか
19・・・優越していた東アジアとアヘン戦争
20・・・トルデシリャス条約、万国公法、国際連盟、ニュルンベルク裁判
21・・・西洋の革命より革命的であった明治維新
22・・・教育立国の背景
23・・・朝鮮はなぜ眠りつづけたのか
24・・・アメリカが先に日本を仮想敵国にした(その一)
25・・・アメリカが先に日本を仮想敵国にした(その二)
26・・・日本の戦争の孤独さ
27・・・終戦の日
28・・・日本が敗れたのは「戦後の戦争」である
29・・・大正教養主義と戦後進歩主義
30・・・冷戦の推移におどらされた自民党政治
31・・・現代日本における学問の危機
32・・・私はいま日韓問題をどう考えているか
33・・・ホロコーストと戦争犯罪
34・・・人は自由に耐えられるか
原著あとがき
参考文献一覧
下巻付論 『国民の歴史』という本の歴史

 上下巻にそれぞれ加えた二つの「付論」は50枚論文で、力をこめている。上巻付論「自画像を描けない日本人」は著者による本書の解説というか、意図や狙いを語った文章である。「日本から見た世界史のなかに置かれた日本史」が本来の自国史のあり方であるのに、なぜ日本人にはそれが不可能であったかを考えている。日本列島の地理上の位置や9世紀前半以後の「鎖国」ぎみの歴史の流れも考慮に入れて書いている。

 律令がわが国では不完全にしか定着しなかった。その頃からわが国は東アジアで勢威を競い合う必要がなくなり、王権は動かない存在となり、小世界へと変容していく。じつに明治維新までそうではないか。日本人が自画像を描けないのには理由がある。「世界史」を表象することができなかったのである。

 私は上巻付論に「『本来的自己』の回復のために」という副題を添えたが、「回復」より「発見」ないし「発掘」のほうがよいかもしれない。今考慮中である。なぜなら自画像を描けないのは戦争に負けたからとか、自虐史観がどうとかいう話ではまったくないからである。

 上巻につけた「まえがき 歴史とは何か」は約9枚の簡潔な文章で、歌うように書かれた箴言調の一種のマニフェストである。

 下巻の「参考文献一覧」は当時夢中で没頭した、約400冊の書名を掲げる。10年前のあのときには時間的にも、スペースの面でも、使用した本の名を一覧表にするという当然の措置がとれなかった。今度やっとまともな体裁となるのである。「定本」ないし「決定版」と名づける次第である。

 今私は書庫をかき回して、「参考文献一覧」の作成に大わらわで、あと一週間はかゝりそうである。

追悼・川原栄峰先生

 哲学者の川原栄峰先生が逝去されてから早くも2年半が過ぎている。ショーペンハウァー協会の小冊子に私が追悼文を頼まれたのはご逝去後一年半経ってからで、それが活字になったのはさらに半年後だった。すべてはゆっくりしている。今の時代には珍しいが、哲学者の追悼にはむしろふさわしい。

 川原先生は早稲田大学名誉教授。大正10年(1921年)お生まれ。2007年1月24日にご逝去。ハイデッガーやニーチェに関するご論考、翻訳が多く、主著に『ハイデッガーの思惟』(理想社)という大著がある。贈呈を受けている。他にも多くの著作がある。

追悼・川原栄峰先生

西尾幹二(電気通信大学名誉教授)

 川原栄峰先生といつ、どこで、どのようにお知り合いになることができたのか、はっきりした記憶がない。昭和50年(1975年)より前に、個人的ご交際を賜っていたことは間違いないのだが・・・。

 私は先生から教室でお教えをいただいた立場ではない。先生は自分より歳下の、哲学を語り合える若い友人として遇してくださった。そして何となくウマが合った。どこを気に入っていただいたのか分らないが、先生は私に優しかった。お会いしている間、楽しそうにしておられた。

 先生は私の家にもたびたびお出かけ下さり、酒盃を交した。昭和50年から54年の間、私の一家は東京の京王線の奥、日野市の平山京王住宅に初めて一戸建ての家を買って、暮していた。先生はある期間毎月一回、規則正しくわが家を訪ねて下さる習慣を守っておられた。というのには理由があった。

 先生は多分その少し前ではないかと思うが、ご子息を亡くされた。登山中の遭難であったと聞く。先生はその悲運をかきくどくようなことはなかったし、ご子息のことを私の前で詳しく話されたこともない。ただ、その悲しみがいかに大きく、また悲しみを乗り超えようとする努力をいかに辛抱づよくわが身に課しておられたか、当時私の内心にこの点で小さくない驚きが宿っていたのを覚えているのである。

 先生はご子息の墓が八王子にあると仰っていた。そのご命日が何月何日かは覚えていないが、毎月一回、何日かは必ず回ってくる。その日に八王子に墓参をなさる。年に十二回である。墓参の帰路、八王子に近い日野市の拙宅にお立寄り下さるという次第だった。

 私も若かった。私も家内も先生にお会いするのが楽しくてその日をお待ちしていた。それがどのくらいつづいたか、何回だったかは覚えていない。四年間あれば四十八回だが、そんなに数多くはない。さりとて、全部で五、六回ということもない。

 わが家にお立寄りくださっても、くださらなくても、ご子息を偲ぶ先生の月一回の規則正しい墓参はその後もずっとつづいたに違いない。昭和54年の夏、わが家は日野市の丘の上の住宅を引き払って、杉並区に引越した。それから後、先生をお迎えする機会は減り、私も44歳、多事多繁の歳月に入って、先生とのご交際も次第に間遠になっていった。

 いかにわが子への思いが熱いとはいえ、いったい月に一回、中野区のご自宅から八王子へ墓参をくりかえす情熱は何なのだろう、と私は感嘆した。先生は僧籍をお持ちで、宗教上の信念はまた私などとは異なる独自のものをお備えになっているに相違ないとはいえ、並々ならぬお勤めのご意思の表われだと感銘を深くしたものだった。

 学問上のご業績や達成度の高さについては、私などが贅言を重ねるべきではなく、それにふさわしいしかるべき専門学者の言を俟ちたいが、私も先生の翻訳・論文・大著のいずれもの愛読者であり、関心と敬意をずっと抱きつづけてきた。その中で、忘れることのできない一冊がある。私が先生に惹かれつづけた基本はこの一冊だという本である。

 『哲学入門以前』(昭和42年、南窓社)がそれだ。扉を開くと「西尾先生奥様 恵存 川原」とペンでサインが書かれているので、贈呈していただいた本であることは間違いない。線がいっぱい引いてあり、幾度も読んだ記憶がある。

 「入門以前」という標題に先生の含羞と自負の両方がこめられている。「哲学入門」は普通の題のつけ方だし、出隆に『哲学以前』があり、従って「入門以前」はそのどちらに対しても自分を抑止している謙虚の表現であると共に、そもそ哲学とはどこまでも「入門以前」の心構えでなければならず、人に哲学を説くときにも「入門以前」とは別のいかなるものであってもいけないという確固たるご信條があってのことと思われる。というのも「あとがき」に、哲学者は本を書かないものだ、といきなり先生の言葉が発せられているからである。

 「ソクラテスは本を書かなかった。吹きつける存在の嵐があまりに激しくて、とても片隅によけて本を書くなどということができなかったのだとのことである。イエス・キリストは人ではないと言われるからしばらくおくとしても、釈尊も孔子も本を書かなかった。一流の人物は本を書かなかったのである。つまりたとえどんな立派な本を書いたにしても、本を書くということは、二流以下の人物に下がることなのだ。だから私は本を書かない。――こんなことを言って大勢の学生に大笑いされたことがある。」

 哲学者としての先生の並々ならぬ自負が「入門以前」というタイトルにすでに現れていることは明らかであろう。「自由、歴史、個と普遍、科学の勃興、客観性、弁証法、実存、ニヒリズム」がこの本の目次の区分である。

 ひとつだけニヒリズムの章に忘れもしない比喩があった。「・・・・・である」という本質規定に対して、「・・・・・がある」という実存、何かがあるということを言うために、ヘラクレイトスは火があると言った。この「火」はそれは犬である、猫である、机である、私であるというような「・・・・・である」と規定されるたぐいのものではない。「何である」かはいえないがともかく「何かがある」というときの不気味な「ある」を説明するために、川原先生は面白い比喩を用いた。

 「仮に地上や人間の営みを一万年分ぐらい撮影しておいて、そのフィルムを1時間ぐらいで回して映写してみたらスクリーンに何がうつるだろうか?すべての色は抹殺されて灰色になってしまうだろうか、そして多分、戦争も平和も、大きなあやまちも小さな親切も、デモクラシーもコミューニズムも、何もかもごっちゃになって、『何である』ということは全部消えてしまうだろう。が、しかし灰色の『何か』が、どこからどこへということなしに、不気味に動いているだろう、――永遠に生きる火として!」

 このくだりを私は後日何度も思い出していた。ニーチェのいわゆる「根源的一者」すなわち「ディオニューソス的なるもの」も川原先生のこの比喩でうまく説明できるのではないかと思ったものだった。

 ともかくこの『哲学入門以前』は分り易く書かれていて、しかも根底的に思索することをわれわれに誘ってくれる。私には得がたい、素晴らしい一冊だった。

 その頃私と親しくしていた講談社現代新書のTさんがやはり私と同じようにこの一冊に感激して、先生に執筆を頼みに行った。そうして出来あがったのが『ニヒリズム』(講談社現代新書468号)だった。昭和51年秋刊行である。

 ところが、Tさんは本が出来てから少しがっかりして私に言った。「少し違っちゃったんですよ」「何がですか」「『哲学入門以前』のあのういういしい感動がないんですよ」「あっそうですか。」

 人間は同じことを二度出来ないのである。『ニヒリズム』は別の意味で重要な本だが、すでに先生は次の思索世界へ向かって旅立たれていたのである。

 『ニヒリズム』は昭和48年~49年の私の『歴史と人物』連載中や昭和51年『新潮』掲載のニーチェ論が参考文献として掲げられていた。

 日野市の住宅で先生からハイデガーやカール・レーヴィットに出会った日々の生き生きしたお話を伺った往時の対話を思い出さずにはおられない。

 先生の最晩年、私は多忙にかまけ、つい先生のおそば近くに行って、新しいお話を伺わないで終ってしまったことが残念でならない。

 年賀状にはいつも、「表の宛名書きは孫の手で書かれました」と記されてあった。

(平成20年9月9日記)
日本ショーペンハウァー協会会報 第42号(2009.1.15)。

 終りの方に出てくるT氏とは講談社専務をつとめられた田代忠之氏(昭17年生れ)で、氏も今年の5月に病没された。若い時代に私の『ヨーロッパの個人主義』を出してくださった人だ。

 謹んで両氏のご冥福を祈る。