この間当ブログで、伊藤悠可さんが5回にもわたるゲストエッセイで、私が「専門家嫌い」であることを論題としてとり上げてくださった。この問題は、私が若い頃ニーチェに惹かれたのが彼の「学者嫌い」にあることも関連していて、語ればきりがないほどいろいろなことがある。
伊藤さんは幸田露伴を引いて「雑学好み」ということを対概念として語っていた。たしかに世にはスケールの大きい雑学の大家がいる。私の友人にも舌を巻くようなそのタイプの人がいる。概して歴史家に多い。『歴史通』という雑誌が出始めたが、多方面な知識に通暁した「通」は歴史家に向いている。
残念ながら私はそのタイプではなく、歴史を書いていて、最初から歴史家失格である。歴史家は私の書くものを歴史ではないというだろう。私は専門家嫌いだが、とりわけ歴史の専門家は一番好きになれない。料理の専門家や、薬の専門家や、犬の専門家のほうがよほどましである。
歴史の専門家は過去の一時代の一地域の一家族のことを詳しく調べあげてそれで満足するというようなところがある。その知識が時代と文化の全体とどう関係するかに余り関心がない。これは西洋でも同じであるようだ。ドイツ史を志した友人がドイツで学位を取った。聞けば、ドイツのある地方の農業共同組合の歴史を丹念に調べたものらしい。何でそんなことをするのか関心の由来を尋ねたが、要領を得なかった。知的関心ではあるが、思想的関心ではのだ。アナール学派というのかなにか知らないが、今の歴史学は妙である。
私の「専門家嫌い」はいわゆる「雑学好み」というところから出たタイプとはどうやら異なるようである。ならばどういうタイプかといわれると、説明は難しい。ある事柄を詳しく正確に知ろうとする努力は貴重だが、そのことだけに満足している人を見ていると、それはあなたの人生とどういう関係があるのですか、という質問をつねに浴びせたくなるのである。
人間は何をするにも知識を必要とする。知識を基礎にする。しかし私は知識は手段である、と若い頃からずっと思っていた。どんな知識も人生の目的にはなり得ない。知識自体に価値はない。知識は何か価値あることをするための階段にすぎない。
知識は人間を歪めることがある。豊かな知識は人の判断を迷わせることがある。知識は行動力を鈍らせる。人から生気を喪わせる。それでも、なにをするにしても目的を達成するには知識を必要とするであろう。知識は要するに必要悪にすぎない。
例えば、ソクラテスからわれわれが学ぶのは、今この現代社会で生きているわれわれの生の現場に当てはめて、何が知(ち)であり、何が無知(むち)であるかの直接の教えでなくてはならない。直ちに実行できる体験でなくてはならない。
ところがソクラテスに関する現代の専門家が教えてくれるのは、ソクラテスが知と無知について何を考えていたかということの知識にすぎなくなっている。それはギリシア語のできる専門家の調査結果報告であって、彼ら自身は自らの出した結論のなにひとつとして、今の生の現場で、実行できていない。彼らは知識を示すが、その知識を信じていない!
例えば万葉集の専門家の本を読むと、われわれが万葉集の時代の古人と同じように生き、同じような心を持とうとすることは途方もなく難しいはずなのに、それがどんなに不可能なほどに難しいか、その絶望が語られていない。万葉集の古人も現代のわれわれと共通する関心と意識を抱いていたから、これを読めばわれわれの感性も豊かになるだろう、といったたぐいの世迷いごとに満ち溢れている。それが現代の文学教養書の古代へのアプローチの習性である。