保守をつぶす「保守の星」
安倍首相は、介護士の給与改善や待機児童解消などについて問われると、あわてて迎合しようとします。もちろんその対策を講じること自体を悪いと言っているわけではありませんが、国家の運営を司る中心テーマではない。「左」の勢力に引きずられて国民におもねるかのように「やっています」「やります」と首相がペコペコ頭を下げるのは見苦しい限りです。これらの案件は担当大臣の発言に任せるべきです。
第一次内閣の時から、安倍首相には左にウイングを伸ばすという発想がありました。左に迎合することで自らの勢力を広げようという意図からでしょうが、実はそれが第一次内閣の足を引っ張ったのです。そそのかしたのはブレーンと称する一群の人々で、おそらく首相は彼らに惑わされたのでしょう。
たとえば、靖國神社にそっと参拝して、「行った、行かない」を公にするつもりはないと言ったり、いち早く河野談話と村山談話を継承すると宣言したり、ひいては、祖父・岸信介の戦争責任まで容認したり、内閣成立直後に相次いだ信じられない発言に、いったい何が起こったのだろうと、保守派勢力は呆然としたことを忘れもしません。
左がかった総理大臣ならば、保守派は批判と攻撃をやめず、拉致問題その他の運動を勢いよく展開し続けたでしょう。しかし安倍さんは「保守の星」と言われただけに、第一次内閣が成立したとき、「安倍さんが何でも全部やってくれる」と安心して、「もういい、これで大丈夫だ」と拉致被害者救出運動は潮が引くごとく衰退したことを、私は今でもありありと覚えています。拉致問題の解決が途方もなく困難である現実を目の当たりにしながらも、安倍首相から「絶対に解決する」という勇ましい言葉が出てくると、「ほかでもない、保守の星が言うのだから」と、保守運動家は皆、安堵し、期待し、そしてもうこれでいいということになってしまった。
つまり、保守をつぶすのは保守の星なのです。第一次内閣で起こったことが今また起ころうとしているのではないか。憲法改正はどうなったのでしょう。安倍政権の本来の課題はたった一つ、これ以外になかったはずではありませんか。
いろいろな国際情勢の変化に応じて外交にも努力されたし、これまでの内閣ができなかったことをいくつも実現させたし、対米関係も改善させた。安倍政権が大きな業績をあげたことを私は非常に評価しています。しかし、一内閣一課題、これが基本です。
安倍の中曽根化
人気をさらに二年延ばすための慮りのみが先走っているのなら、「戦後政治の総決算」を叫んで何もしなかった中曽根康弘内閣と同じ不始末を、同じ怠惰を、国民への同じ欺瞞を繰り返すことになるでしょう。
日本経済情勢は必ずしも悪くはありません。失業率や有効求人倍率、就職率といった雇用統計も、かなりいい数字を示してきて、もとより旧民主党政権の時代を思えば、非常に高く評価できるし、その限りでは安倍内閣の経済政策はうまくいっています。中国経済の失速やEUの混乱など国際的に不利な条件が相次いで起こるために円高になったりしていますが、これは安倍内閣の失政ではない。首相が心配しなくても、国民はわかっています。
にもかかわらず、首相の言動には、自分で掲げた真に重要なテーマを在任中にやらないのではないかという疑いを抱かざるを得ないところがある。憲法問題に対する気迫の欠如もそこはかとなくみられるだけに心配です。
ある科学評論家が、迎撃ミサイルで核攻撃を防ぐのは不可能と説き、発射前に核基地を破壊する以外、技術的に確実な防衛の方法はないと語ったことがありますが、私は同様の話を防衛省の元幹部から聞いたことがあります。
1994年に北朝鮮のミサイル基地を米国が爆撃するチャンスがありましたが、韓国に迷惑がかかるからと、カーター元米大統領が訪朝して、核開発凍結と査察受け入れを認めさせる米朝枠組み合意が結ばれ、爆撃は取りやめになりました。しかしその後、北朝鮮による「弱者の恫喝」が日を追って激しくなったのはご記憶のとおりです。2006年には北朝鮮の第一回目の核実験を許しました。米国はイラク戦争を理由に、中国にこの問題の主導権を委ねて六カ国協議でお茶を濁し、そうこうしているうちに基地を爆撃・破壊することも難しくなってしまった。
PAC3では守れない
戦後の日本は米国の核抑止力に依存して、薄氷を踏むような平和をまがりなりにも守ってきましたが、それにしても、北朝鮮の脅威に対して、迎撃ミサイルとイージス艦二隻で防衛できるというような楽観論がまことしやかに語られ過ぎてはいないでしょうか。北がミサイル発射を表明すると、テレビ画面では、地対空誘導弾パトリオット3(PAC3)を運ぶ自衛隊の映像が流れ、イージス艦がどうこうと説明されて、一般の国民は自衛隊が守ってくれると信じて安心してしまう。
今の段階では、北朝鮮は予告発射しており、ミサイルが落ちる水域は限られている。しかも一定以上の冒険はしないと予想されるので、たしかに北の撃ち損じた一発のミサイルを撃ち落とすことはできるかもしれません。しかし実戦で北が相次いで何発も撃ってきたら、迎撃ミサイルを千台、万台並べたとしても防衛は難しい。隙間をぬって一発落ちたらおしまいです。日本を確実に守るためには基地を破壊する以外にありません。そういう議論がまったく出てこないのはなぜでしょう。
中国の核ミサイルについても同じことが言えるのですが、中国の問題は米国の核対応を措いてはとうてい対応できず、さしあたり米国が手を出しかねている北朝鮮を日本は自分への脅威の課題とみなすべきです。経済制裁をしていれば事足れりと考えるのは、北朝鮮の脅威をあまりに軽く見ているのではないでしょうか。経済制裁というは、東京裁判で証言されたように「宣戦布告」と同義です。つまり、日本は北朝鮮に事実上、宣戦布告をしているのです。何をされても文句が言えません。そのことを米国は知っているし、当の北朝鮮も中国もわかっているけれど、日本だけまったくその自覚がない。
我が国政府は、口を開けば、「経済制裁を強める」「ヒト・モノ・カネだけでなく、いろいろな方法で制裁を強める」とバカの一つ覚えのように言う。そして、国民を安心させるため日本の防衛は万全だと言わんばかりにPAC3やイージス艦などの映像を流す。これは国民を騙していることにほかなりません。
憲法改正が遠のくばかり
安倍首相がはっきりと真実を語らず、国民の目を現実から逸らさせている限り、憲法改正ができるはずがない。国民が日々、他国の脅威に不安と恐怖を抱きつつ生きていくのはつらいことかもしれませんが、たとえばイスラエルで人は日々そうやって生きているのです。
国民に真実を伝えず、テレビの映像で国民を安心させて、不安の正体を知らせないならば、憲法改正は事実上不可能だし、愚かな野党を黙らせることもできません。
真実と向き合わず、無知ゆえの安心の上に成り立っている虚妄の平和、しかし、どこか隙間風のような不安が絶え間なくつきまとう、私はそんな状態を「平和の猥褻感」と呼びます。恥ずかしいという感覚がないのです。
今回起こったバングラデシュのテロ事件で、我が日本人が七人犠牲になったと日本のメディアは大騒ぎしていますが、型にはまった怒りの声を上げるだけです。政府も「各国と協力してテロへの対応に全力を尽くします」という紋切り型の声明を出すだけです。
これに対して、九人の犠牲者を出したイタリアのレンツィ首相は「イタリアは団結している。我々はISなどという狂信者には屈しない、断固戦う」と発言しています。
日本の政界、官僚にはそもそも戦う意志がないのではないでしょうか。外務省はただ警告を発する程度だから、若い人たちは危機感を持たず、軽い気持ちで外国へ出かけて行くようです。しかし、そんなものではないという現実が見えてくると、今度は怖がって引っ込んでしまう。それがいまの日本国民の体質です。
我が国の政府は、いち早く憲法を改正して当たり前の国になりたいという願望を持ちながら、自らの手足を縛るような情報を自ら発信したり、情報を隠したりしている。これは、我が国の防衛省、外務省、法務省その他官僚機構、官僚諸氏の不作為であり、同時にこれらを指導している保守党政府の責任です。何をやっているのだ、というのが私の感懐なのです。
私は『全体主義の呪い』(1993年、新潮社)で、共産主義崩壊後の世界では、全体主義の呪いは西側に移るであろうという予感、チェコ・ポーランド・東ドイツなどの東ヨーロッパ諸国は共産主義の悪に目が覚める一方で、西ヨーロッパ民主主義国は新しい全体主義の帳に閉ざされるであろうという予言を語っています。そして、その時代はすぐに訪れました。
WiLL 9月号より
つづく