なぜ危機を隠すのか WiLL 2016年9月号より
中国の脅威を説かずして何が憲法改正か。首相の気迫欠如が心配だ
必要な事実を伝えない
元航空自衛隊司令官の織田邦夫元空将が6月28日に、中国空海軍の戦闘機が我が自衛隊のスクランブル(緊急発進)機に対し、極めて危険な挑発行動をとるようになった、と公表しました。中国軍機が攻撃動作をしかけてきたので、自衛隊機は不測の事態が起きかねないと判断し、ミサイル攻撃を回避しつつ戦域から離脱したというのです。
思えば、平成25年1月に東シナ海で中国海軍艦が海上自衛隊の護衛艦とヘリコプターに射撃管制用レーダーを当てた一触即発の事件もありました。織田氏は、今度のトラブルも、空中衝突やミサイル発射に至る可能性は十分にあると指摘し、産經新聞の取材に対して「常識を度外視して、中国軍機が尖閣上空まで近づいてきている。これが常態化すれば領空の安定は守れなくなる」と強調しています。
軍事評論家で織田氏の先輩にあたる佐藤守元空将は6月30日付の夕刊フジで、我が航空自衛隊機の戦域離脱について「中国機は、空自は逃げたとみているだろう。中国機は今後もっと強硬に出てくる」と語り、さらに「安倍首相が『今までは自衛隊に我慢を強いてきたが、今後は領土・領海・領空を守るために断固たる措置を取る』ぐらいアピールしてもいい」と述べています。「中国には常識は通用しない。尖閣を奪われたら、鹿児島の島々まで一気に取られかねない。日本の覚悟を示す必要がある」と。
すでに参議院選挙戦に入っており、他のメディアはこの事件を報道しませんでした。ただ7月5日になってやっとNHK夜9時のニュースで、日中両国機接近の危うさはとりあえず伝えられました。ただし、ここまで突っ込んだ分析や話にはもちろん触れていません。
安保法制が審議されていたころ、テレビのコメンテーターが朝から晩まで何をしゃべりまくっていたか、皆さんはご記憶でしょう。集団的自衛権を批判するのはもちろん自由です。しかし、中国が今申し上げたような軍事的威嚇をしていて、それが日増しに緊張の度を強めているという大前提を、テレビのコメンテーターは決して口にしない。代わりに、日本政府が戦争の準備をしていると、逆のことばかりを言うのです。千年一日のごとく同じ調子だから、愚民は騙される。日本人の愚劣さそのものですが、日本のメディアはまことに恐ろしい。なぜなら愚劣さは商売になるからです。
中国は平成25年ごろからガス田を一方的に開発し、東シナ海全体を奪おうと着々と歩を進めてきているのに、今回の中国軍機の事例と同じように産經新聞以外はほとんど報じないできている。いったい日本のメディアは何を考えているのか。実は裏に何か魂胆があるのではないかとさえ疑いたくなります。中国に不利なことは一切書かないと規制がかかっているような東京新聞の例もある。朝日・毎日・東京・地方紙(共同通信)のみを読んでいる一般読者は、目の前に起こっている現実を知らされずに暮らし、あっという間に破局を目の前に迎えるということになりはしないでしょうか。
新聞とテレビの恐ろしさは嘘を伝えることに必ずしもあるのではなく、必要な事実を伝えないことにあります。わざとなのか、見えない指令に動かされているのか、区別しにくい。その分らなさは戦後ずっと続いています。本当に日本を共産国家にしたいと思っているのか、それとも、そこまで深く考えず、どこからの指令ということにも気づかないで各メディアが全社挙げて一定の方向に盲目的に走っているのか。それを問いただしたいと思うことが何度もあり、また実際に問いただしたこともありました。しかし返事は返ってこなかった。
私もその末端に位置しているつもりですが、単に現実の動きや事実を伝えようとするだけの勢力を彼らは「右翼」呼ばわりして、自らの不作為の犯行を公共の名でごまかし、正当化する。これは断じて許せません。
中国の非を訴えるべきだ
なぜこうなったかは、積年の我が国の政権の対応のせいでもあります。今回も両国機の異常接近の情報をいち早く公開し、国際社会に中国の非を広く訴えるべき絶好のチャンスであったはずなのに、なぜか日本政府はチャンスを逸し、逆に事実を隠蔽し、なんと中国政府が日本機に対して非を鳴らす始末でした。悪いのは日本とされているのです。こうなった原因は、自民党政権の態度、習慣、自己隠蔽、糊塗(こと)・・・・・。自民党はこれを専ら権力維持の手段とし、しかもしれが米国の庇護の下に可能であったから、日本の外交・防衛の『感覚を世界に例のない異常なものにしてしまったためではないでしょうか。
メディアの責任もさることながら、なぜメディアが必要な事実を伝えないかを誰も問わない、政府も問わないことにこそ問題がある。逃げ腰の政府が左の確信犯的勢力にただ調子を合わせるだけで、万事が受け身であり、こと無かれであり、そのために現実に起こっている恐るべき事態の進捗を国民に知らせない――そんなことがずっと続いてきた結果、いまやそれが政治習慣となってはいないでしょうか。
安倍首相は正直に語れ
安倍首相は正直に語ってほしい。
「これから、わが国には、困難ではあっても、どうしてもやらなければいけないことがあるのだ」とはっきり言うべきです。「国民はこれから苦しむことになる」とおっしゃるべきだ。国民だって正直に語ってくれた方がうれしいでしょう。舛添要一前東京都知事の公私混同問題も、最初に「ごめんなさい、うっかりやってしまったことです」と、正直に頭を下げていたら許されたようなレベルの話ばかりでした。あまりに愚かな言い訳をしたことが都民をいらだたせたのです。安倍首相よ、同じことではありませんか。正直にありのままの不安を語ってほしい。そうすればメディアもごまかせなくなります。
安保法制の議論のさなか、法案が通ったら自衛隊員のリスクが高まるのか、という質問に対して安倍首相は「むしろリスクは減ります」と答えました。しかし一朝ことあらば、日本が攻撃しなくても、相手が攻撃してくるかもしれないではありませんか。冒頭で述べた中国軍機の自衛隊への接近、明日にも衝突が起こるかもしれない事態を思えば、それはすでに現実のものとなっているのです。
にもかかわらず、「悪いのは日本だ」と言いつのる中国の厚顔無恥なもの言いすら十分に報道されていない。7月6日付の産經新聞のコラム「産経抄」でそのことに触れていますが、首相が事態を明確にしさえすれば、他のメディア、朝日新聞ですら書かないわけにはいかなくなります。首相よ、「軍事は相手のある話だ。自衛隊員にリスクが高まることがないとは言い切れない」となぜおっしゃらないのか。何月何日に高まるとは言えないかもしれませんが、一般論としては近づく危機を国民に率直に語るべきです。
中国の脅威に言及しないで「政府は戦争の準備をしている」とばかり喧伝するメディアに対しても、安倍首相や安保法制推進派はただ黙っています。ひたすら黙っています。「安保法制は中国対策だ」とはっきり言ってほしいところですが、そこまで言うと外交上さしさわりがあるのなら、「リスクは減る」などと言い逃れをするのではなく、「緊迫する国際情勢を目の当たりにして、なぜこの法案が必要なのか分らないのか!」と堂々と国民に訴えるべきでしょう。それをしないから憲法改正は遠のいていくばかりなのです。
つづく
感銘深く拜讀致しました。
しかも、至つて平明で、私などにも論旨は十分呑込めたと思ひます。
「逃げ腰の政府が左の確信的勢力にただ調子を合せるだけで、萬事
が受け身であり、こと無かれであり、そのために現實に起つてゐる
恐るべき事態の進捗を國民に知らせないーーそんなことがずつと續
いてきた結果、いまやそれが政治習慣となつてはゐないでせうか」。
先生のこのお言葉がすべてであり、私などが附加へることはありま
せん(國防に限らず、今の日本のすべてについて、同じことが言へ
さうです)
ただ先生が「安倍首相への直言」と題した上で、「首相の氣迫缺如
が心配だ」「安倍首相は正直に語つてほしい」「安倍首相よ、同じ
ことではありませんか。正直にありのままの不安を語つてほしい」
「安倍首相は『むしろリスクは減ります』と答へました」「首相よ、
『軍事は相手のある話だ。自衞隊員にリスクが高まることがないと
は言ひ切れない』となぜおつしやらないのか」 「『政府は戰爭の準
備をしてゐる』とばかり喧傳するメディアに對しても、安倍首相や
安保法制推進派はただ默つてゐます」「それをしないから憲法改正
は遠のいていくばかりです」
等々のお言葉を連ねられた先生の複雜であらう胸のうちを、失禮な
がら忖度してみます。先生以外の人々に考へていただきたいのです。
私の見るところでは、この御論考の載つた「WiLL」を初め「H
ANADA」「正論」はいづれも、安倍批判は原則御法度です(さ
ういふことになつた事情にはここでは觸れません)。
普通この三誌ならフリーパスの超高名な論客も、「ふるさと創生」
→「女性活躍」→「一億總活躍」→「働き方改革」を「次々と出て
は消える安倍總理の安つぽい思ひつき」と評したところ、書き直し
を求められ、斷ると掲載を拒否されたさうです。
西尾先生のやうな大御所でも、この言論統制から完全に自由ではあ
り得ないでせう。たとへば「正直にありのままの不安を語つてほし
い」が限度で、これを「不安な現状を隱して、嘘ばかりをついてゐ
る」としたら、アウトなのではないでせうか。
この御論考も、さういふギリギリのところでの、苦心されながらの
作業ではなかつたかとお見受けしました。一番嚴しい言葉は「氣力
缺如が心配」です。しかし「心配」はまだ見放してゐないといふ意
味にもなります。他は「語つてほしい」「なぜおつしやらないのか」
と、穩かな希望・注文にとどめられてゐます。「直言」はまだ望みの
ある相手にします(見放すことは認められないのでせう)
しかし、私の想像では、先生はとつくに安倍さんを見限つてをられま
す。ことごとに、それを感じますが、一例だけ。あの70年談話。祖
國を侮辱し、先人を足蹴にしながら、それを我等國民に對して、得々
と語り、諭してゐます。嬉しげで、樂しさうでもあります。あんなこ
とを、先生がよしとなさる筈がありません。あんなに教養も見識も勇
氣もない政治家に先生が望みを托されるわけがありません。
先生の自由さへ制限する理不盡な檢閲。これを打ち破る手立てはない
ものでせうか。
一方、今年に這入つてから、安倍さんのブレーン・側用人・茶坊主た
りし何人かが、舊主人に對して弓を引きました。上述の風向きが變化
し始めたのでせうか。
(以上、臆測だけで書き、申し譯ありません。自分では行間を讀んだ
つもりでしたが)
私は今の日本の外交の現状が、なぜこうなってしまったのかを考えると、その一因に国民感情というものがおそらく関係しているように感じます。
こう書きだすと、本当につまらなくて憎たらしい書き下しになるんですが、簡単に言いますと、戦後の日本はあまりにも国民を大切にし、国民と向き合い過ぎてしまったという考え方が一つ成り立つように思うのです。
どういう意味かと言いますと、戦争の被害をどうやって報いるかの過重が、無言の合言葉となって日本の政治を覆ってしまったのではないか。その責任の根源が誰なのか。本当の意味で理解できないままここまで来てしまった。
それが本当の悲劇なのかもしれないと私は思うのです。
「天皇と原爆」で西尾先生はそれを訴えました。この本を読んで感じたのは、日本精神論です。どんなに犠牲になってもどんなに未来が不安になっても、「戦う」という基本的精神はどこから生まれるのか、その源をもう一度ここで糺さないと、日本は将来さえ見失うよと感じたのです。
最近三浦瑠璃という女性が論壇番組でご活躍されています。とても知識の高い方のようですが、靖国問題の話題になると、少し認識が間違っているようで、靖国は国家の扱いにした方がいいというご判断のようです。
たしかにその方がいまの時世にはてきしていますが、靖国は本来天皇陛下が一番最初に慰めてこそ価値がある宗教団体であり、つまり、言葉に表すことのできないほどに「日本的」な弔い場所です。暗黙の・・・日本的な公共的宗教一団体、と表現したらいいのでしょうか、間違っていたらご指摘ください。
天皇責任という一つの精神的認識が、日本人なら感じていて、しかしそれを追及することは絶対しないという精神も勿論あり、では何のために戦うのかという疑問をもちろん心に色々持ちながらも、戦う心を助ける普通の日本人の気持ちを最後に受け止める場所を、天皇陛下ばかりに押し付けることは避けるべきという精神から、靖国は存在しているというのが、私個人の認識です。
間違っていたらご助言のほどお願い申し上げます。
けして天皇陛下が戦争責任を逃れるという口実ではないと、信じていますが、最近全くご参拝されない現実をどう判断すべきなのか、そこは天皇陛下のみ知るところでしょう。
私個人としては、今上陛下がお役目を終わられた際、ご自身のご判断でぜひ靖国にご参拝していただければ、日本国民の考え方がかなり変わるのではないかと思います。
そして同時に皇室の存在の意義というものが本当の意味で論議され、「象徴天皇」という概念がはたして戦後は正しく認識されてきたのかが、まず最初に議題化されるのではないかと思います。
現状の日本国憲法があまりにも頑丈な事への懸念が、私は先の陛下のお言葉の中にあると感じます。その打開策はここから始めなければならないという認識も、おそらく含まれているのではないでしょうか。そうでなければ単に個人的理由でお役目を逃れるでしょうか。確かに健康面から判断すべき点は重要です。そして「象徴天皇」というお役目も、けして楽な仕事ではないことを知らせる意味でのお言葉であるという認識も理解できます。
しかし、私はそのことばかりにとどまることはしたくありません。
陛下は結局皇室の存続と国家の安定を根本的にお考え為さったわけです。
その際に、現行の法律ではそれが維持できないとおっしゃられたわけです。
国民にそれを十分論議していただきたいと願ったわけです。
私たち現代人が今再確認しなければならないことは、国家の安定のために、私たちはどれだけの負担を感じながら過ごしているかという問題です。
ここからは個人的な意見ですのでその点ご認識ください。
本来天皇陛下は表立ったことは強いられませんでした。あくまでもお役目は日本の「天」と「地」を結びつけるためのお仕事をなさるのが、本来のお役目です。
そしてその天皇陛下のお役目をより効率よく国民に認識させる役割を、上賀茂下賀茂両神社が担いました。陛下のお役目の負担を軽減するための仕組みです。
いまもそれはまもられていますが、しかし、東京に遷都されてからは天皇陛下のご負担は増すばかりだったのではないでしょうか。
このことを本当はもっと考えなければならないと思うのですが、なかなか議題にあがりません。その意味で靖国はその負担を全部背負ってしまった神社だと言えるのかもしれません。英霊を祭るという単純な役回りが、政治の苦難まで背負ってしまった。これが靖国の悲劇ではないでしょうか。
つまり「分担」という認識が今の国民から欠如されてしまっている。本当は色んな神社には色んなお役目があり、その認識は正しくあったはずなのに、先の戦争がきっかけとなって戦勝国がそれを木っ端みじんにあつかい、今に至るという流れではないでしょうか。
「あんたどこぞの出身かね」という問いかけが、ちょっと昔ならよく聞いた会話です。
今はそれさえ聞かないようになってしまった。この現象が何かを示していると私は感じます。ちょっとしたそうした確認も、何かを守るための言動だったのでしょう。もしかすると自分がどこぞの人間なのかさえ教わらないまま、生きている日本人がいるのかもしれません。
どうなんでしょうか。歴史に縛られるということが、どんな意味をもたらすのか、自由なご意見を伺いたいです。
私個人としては、歴史に縛られているということが、この国の運命だと思います。
そしてそれが正しくある部分を助長し、結果的に家族は守られるのだろうと。
家族の歴史を語れないことほど、悲惨な現状はないと言うほかなく、もしもそのことが現実にあった場合、最後は自分たちが天皇陛下の血筋のもと、ここまでたどり着いたんだと思える認識が、この国に生きることの価値観に結びつくのだろうと思います。