阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「四十一」

(6-29) 偉大な思想というのはそれ自体が一つの宇宙である。外の現実を内包しつつ、現実とはまたもう一つの別種の現実を形成する。それゆえに現実を追認する思想にとどまらず、現実を見通し、さらに動かす力をも秘める。
 そういう場合に現実と夢との間にいかなる境界線があり得るだろうか。

(6-30)戦争の反省とか、福祉の実現とか、それはそれなりにいかに重要であったにしても、考えてみればそれ自体が決して価値にはなり得ないこうした問題を、これまでさも「思想」であるかのようにかつぎ回って、時間稼ぎをしてきたメッキがついに剝げ落ち、今や目標を欠いたのっぺりした平板さはどうにもごまかしようのないわれわれの現実である。

(6-31)ここまでは言葉で言えるが、ここから先は言えないという断念、あるいは言えば勝手な空想になるからそれはしないという自己限定が世の多くの批評文にどれほど欠けていることだろう。なにか非常に気の利いた思いつきを批評対象にかぶせるようにして、文明論の構図の中に巧みにこれを按配(あんばい)し、いかにも巧妙にわかったような物の言い方がなされる。が、その対象についてはそうも言えるが、またその反対のことも言えるのではないかという自己疑問が総じて乏しい。

(6-32)今のこの変化の激しい社会のなかで、なにびとが保身なしで生きられよう。だが、それが保身にすぎぬことを知っている人は意外に一貫した姿勢をとりつづけているものである。自分の僅かな保身にも鋭敏であり、自分の僅かな虚偽にも自覚的だからである。だが、その僅かな虚偽もまた、虚偽とは言えず、結局は「自己」なのだということにも敏感でなければならない。

(6-33)現代では物を有り難いと思う気持ちがなくなっているのに、それでいてどういうわけか、ちょっとした物品の不足に、敏感に、神経質に反応する習慣が身についてしまっている。

(6-34)実際にはなにものをも所有せずにいて、しかもすべてを所有しているのと同じ落ち着きをもって生きることは、われわれ凡人には容易になしがたい理想であるとはいえ、ひょっとしたらこれが幸福の観念のきわまるところであるのかもしれない。

(6-35)いくら昔より今の方が豊かになったと言われてみても、人間は昔の苦痛などをたちまち忘れ、今の不足をかこつばかりである。これは人間性の常である。人はただ目の前の自分の富と他人の富とを比較することしか知らない。

(6-36)人間は自分とほぼ同じような人間が自分よりも恵まれているということこそが、もっとも許し難いことに思われる

(6-37)より良き生活以外に生活の目標がないということは、人間がなにかのために生きるのではなしに、生きるために生きることのうちにしか生の目標が存在しないということに外ならない。このような現実に人は息長く耐えることが出来るのであろうか。

(6-37’)芸術や学問の仕事のうちに本当に人生の目標があるといえるのかどうか、そういう疑問にぶつかっていないような人の芸術や学問などは、およそ信用に価しないであろう。どんな仕事にも目標などはないのだ。むしろそう悟った方がいい。この人生に目標がないように。とすれば、この文明が目標もなくただ果てしなく前進しているのと同じように、つきつめて考えれば、すべての仕事に目標はなく、だからといってなにか有意義な課題を外部に求めて、教養とやらを身につければそれでなにかの目標に達したと考えるような甘やいだ教養主義も、単なる自己満足でしかなく、暇つぶしの一つだくらいにきっぱり考えた方がいい。
 そう悟ったときに人は解決を外に求めず、自分自身に立ち還るより他に道がないことに気がつくであろう。そこから先は各自の課題である。自分を導いてくれるいかなる処方箋も、いかなる指導書も存在しないのだ。このことをはっきり知ること以外に、生活への強い信頼は生まれてはこないはずである。

(6-38)外的条件の窮乏が人に強制する精神的緊張は、窮乏が解除されればたちまち消えてなくなるのであるから、もともとがけっしてまっとうな緊張とはいえないのである。外的条件が現在のように弛緩(しかん)し、生活環境がぬるま湯のような状態であるときに、人がなお緊張と向上と自己の豊富さを実現することこそ、人間としての本来のあり方だといってよいであろう。

(6-39)すべて賢いことは古典のなかで言われつくされている。人間はいつの時代にも同じ愚かさを繰り返しているので、昔の本は幸いにもいつまでも新しさを失わないでいられるようだ。

(6-40) 他人を笑うことはたやすく、自分を笑うことは難しい。
 他人の目からみれば取るに足らないことが、当人にとっては真剣このうえないことになるのは、考えてみれば、これが人生の当たり前のことであって、その限りで人生にはつねになにほどかの喜劇性が秘められている。

(6-41)近代小説は人間をありのままに知ろうとする情熱、すなわち人間性への謎の認識欲によって進歩してきた。しかしそこにはそれなりの欠陥がある。近代小説には何のために人間をありのままに知ろうとするのか?という目的がそもそも欠けている。

(6-42)ニーチェを読むことは、読者の側の一つの変身であり、運動であり、闘いである。

(6-43)われわれはとかくその場にいない友人の悪口を言う。悪口という快楽から逃れられる人間は少ない。しかし一つだけ、言ってはならない悪口がある、と私は思う。誰々さんが君のことをこんな風に悪く言っていた、という告げ口である。その場合相手は誰々さんよりも、告げ口した人間にやがて深い怨みを抱くようになるだろう。なぜなら悪口を言われた当人は、その場に居合わせていない友の、知らなかった一面をはじめて覗き見た思いがして、背筋の寒くなる思いがするとともに、あんな話は聞かない方が良かったのだとやがて後悔するに違いないからである。

(6-44)一般に、道徳上の告白は、他人に知らせたくない秘事を公開するのであるから、真実の表現に違いないとみなされがちである。けれども告白者がある部分の真実を告白することで、代わりに、別の部分の真実を見まいとして、告白の動機そのものに蔽いを掛けてしまう場合も決して少なくない。

(6-45)友人が真実を告白し、自分は卑怯であったとか、罪を犯したとか語る言葉の背後にひそむ彼自身のもう一つの心の闇に、私たちはじっと目をこらす必要があるだろう。たいがいの場合、告白した人間をやがて私たちがうとましく思うようになるのは、彼の過去の罪を責め始めたからではなく、告白によって罪を軽くしようとしている彼のもう一つの動機に、私たちがなにか釈然としない、胡散臭い性格をかぎ当てているからである。

(6-46)競争が悪いのではなく、競争が人間性を破壊する関係ないし状況がいけないのである。そもそも人間社会から競争がなくなってしまったら、人間は成長しなくなる。競争はいわば発展の母である。

(6-47)私たちは決して友人が欠けているのではない。人の友たる資格が私たち自身にあるのかどうか、自分に対するその問いが、なによりも吟味されなくてはならないのである。

(6-48) 青年の純粋さなどは当てにならないのである。
 青年は世間との不調和をたやすく自己の高貴さととり違える。だがなにか世間的な事柄に成功して、不調和がとり除かれると、そういう孤独な青年に限って、意外にいや味な出世主義者に変貌することがままあるからである。不調和にいじめられ、心がねじくれたあげくに、人間の弱さというものがたどる運命は見えすいている。
 若い時代に、いかにも世間がわかったような老成したものの言い方をする青年も私は好かないが、しかしその反対に、自分の若さに盲目的に溺れている青年も私にはうとましいのである。そういう人は意外に早く年をとるものである。

(6-49)孤独に価値があるのではない。また自分を孤独にする世間が本当の敵なのではない。敵は自分の心の中にある。自分を否定する力をもたない者には、肯定すべき自分の唯一の価値が何であるかもわからないのである。

(6-50)思想は出来上がった、動かない完成品でもなければ、思いつきや、気のきいた機智の類でも決してない。
 思想とは私たちひとりびとりの生き方にほかならないのである。

(6-51)ある行為が言葉になったとする。しかし言葉になった瞬間から、秘められていた行為の内奥は、すでになにほどか形骸化しているのである。しかしそれでも、残された言葉がわれわれに語りかける力をもっているのは、言葉の奥にあるもの、言葉では十分に捉え切れていないなにものかが、表面の言葉を支えているからだ。

(6-52)第一どうして人はそんなに本を読む必要があるのか。場合によっては本など読まなくても、人間は立派な生活人として一生をまっとうすることが出来るのである。そして、この観点を欠いたら、いくら多くの読書を重ねてもたいした稔りは得られないだろう。

(6-53)もし優れた本を本当に理解したならば、場合によってはその本が読み手の人生を毒することがあるというくらいのことを、彼は承知していなくてはなるまい。一冊の書を読んで、自分に有益であったなどと気楽な感想を語れる読者は、その書物をまるで理解していないのか、あるいは理解するに値しないほどつまらない書物であったのか、そのいずれかであろう。

(6-54)かつては無教育の人間が他人に支配され易いと信じられていたのに、今では教育をさずけられた人間が、かえって情動に動かされ易く、他人の思想に操られ易い存在と化しつつある。そして能率と繁栄を目標とする以外に歴史を動かす思想はなく、休息と安全性が大衆の唯一の志向となりつつある。
 創造者にはもっともふさわしくない時代が到来しているのである。
 教育や学問は今やそれ自体のためにあるのではなく、右の目的を満たすための手段にすぎなくなっている。

(6-55)人々はなにごとにつけてほどほどで、怜悧になり、あたりさわりのない生き方で、その日その日をやり過ごすことに疑問を覚えない。誰も論争せず、集団で事を構えることはするが、個人の責任で争おうとする者はいない。他人に対する無関心は、表向き冷ややかな社交辞令とほどよい釣り合いをみせている。ときになにか人生や社会の大きな疑問に突き当たってそれを表明する人が現れたなら、たちどころに嘲笑されるのが落ちである。
 こうした状況を「成熟」とか称して現状肯定する思想家がもてはやされ、その分だけ時代の文化は老衰し、活力を失っていく。だが、少量の毒ある刺戟をふり撒いた、いくらかどすをきかせた身振りやポーズが現れると、人々はこれを喝采するが、本気で毒を身に浴びる者はどこにもいない。毒ある刺戟も機智の一種であり、演技であり、芝居であるとみなされている。利口者がなによりも尊重され、あるいは歴史書に慰めを求め、あるいは永生きするための健康書にうつつを抜かす。そして、にぎやかな鳴物入りの漫画のような思想が現れるとぱっととびつき、明日にはそれを屑籠に入れて、人々はともかく一時の快い夢をみることが出来たといって喜ぶのである。

(6-56)現代の指導者は民衆の喜ぶようなことしか言わず、一方民衆は、忍耐して困難を解決していこうとする気持ちを最初から持っていない。どっちにしても「煩わしすぎる」のである。今よりいっそう安楽で、いっそう快適な生活条件を目指すということ以外に、個人も国家も生の目標を見出せなくなっている。今や「地球は小さく」なり、「怜悧な」人間たちは「地上に起こったいっさいについて知識をもっている。」

(6-57)日本人が学校へ行くのは、生活保障のパスポートを手に入れるためである。あるいは階層意識上昇に役立つお墨附きを獲得するためである。その前提は容易にくつがえりそうもない。ありていにいえば損得勘定の問題にすぎない。そしてそれが公平かどうかが疑わしくなると、世を上げて大騒ぎになるのである。

(6-58)わが国では、大学問題が言葉のもっとも本来的な意味での大学問題であったためしがあるだろうか。大学が今世間の関心を集めているようだが、大学における学問研究の内容の適否についてはだれも論じないし、寡聞にして学問の理念が問われたという話も聞かない。受験生の平等・不平等の問題、すなわち青年が社会へ出てからの生存競争に、異常なまでの興味がもたれているのである。

(6-59)大学の文学部においても、外国語の授業以外には言語教育はなされていない。教養課程の学生は、まだまだ国語の「読み・書き」の基本を継続して教えられるべき年齢だと私は思う。しかし実際に文章の緻密な読解という本来の言語教育を行っているのは、ドイツ語やフランス語や英語の授業であって、日本の大学では外国語教育がいわば国語教育の肩代わりを演じているといっても言い過ぎではないのである。文学を自由に多読すべき年齢の、若い柔軟な心に、専門的なおぞましい研究家意識をたきつけ、感受性をずたずたにしてしまうのも、日本の文学部における教育の仕方である。ああ何たることよ、と私は思う。

出典全集第六巻
「Ⅳ ドイツの言語文化」より
(6-29)(250頁下段「北方的ロマン性」)
(6-30)(293頁下段から294頁上段「ドイツの言語文化」)
「Ⅴ 古典のなかの現代」より
(6-31)(330頁下段「知的節度ということ」)
(6-32)(337頁下段「人は己の保身をどこまで自覚できるか」)
(6-33)(341頁下段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-34)(343頁上段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-35)(346頁上段から下段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-36)(347頁上段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-37)(349頁下段から350頁上段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-37’)(353頁上段から下段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-38)(356頁下段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-39)(365頁下段「古典のなかの現代」)
(6-40)(369頁下段から370頁上段「古典のなかの現代」)
(6-41)(373頁下段から374頁上段「古典のなかの現代」)
「Ⅵ ニーチェとの対話―ツァラトゥストラ私評」より
(6-42)(381頁下段「まえがき」)
(6-43)(388頁上段「友情について」)
(6-44)(389頁上段「友情について」)
(6-45)(389頁下段「友情について」)
(6-46)(395頁上段「友情について」)
(6-47)(400頁上段「友情について」)
(6-48)(402頁「孤独について」)
(6-49)(412頁下段「孤独について」)
(6-50)(418頁上段「現代について」)
(6-51)(418頁下段「現代について」)
(6-52)(421頁下段から422頁上段「現代について」)
(6-53)(422頁上段「現代について」)
(6-54)(423頁上段「現代について」)
(6-55)(424頁上段から下段「現代について」)
(6-56)(428頁上段「現代について」)
(6-57)(431頁下段「教育について」)
(6-58)(431頁下段「教育について」)
(6-59)(434頁下段「教育について」)