阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「四十一」

(6-29) 偉大な思想というのはそれ自体が一つの宇宙である。外の現実を内包しつつ、現実とはまたもう一つの別種の現実を形成する。それゆえに現実を追認する思想にとどまらず、現実を見通し、さらに動かす力をも秘める。
 そういう場合に現実と夢との間にいかなる境界線があり得るだろうか。

(6-30)戦争の反省とか、福祉の実現とか、それはそれなりにいかに重要であったにしても、考えてみればそれ自体が決して価値にはなり得ないこうした問題を、これまでさも「思想」であるかのようにかつぎ回って、時間稼ぎをしてきたメッキがついに剝げ落ち、今や目標を欠いたのっぺりした平板さはどうにもごまかしようのないわれわれの現実である。

(6-31)ここまでは言葉で言えるが、ここから先は言えないという断念、あるいは言えば勝手な空想になるからそれはしないという自己限定が世の多くの批評文にどれほど欠けていることだろう。なにか非常に気の利いた思いつきを批評対象にかぶせるようにして、文明論の構図の中に巧みにこれを按配(あんばい)し、いかにも巧妙にわかったような物の言い方がなされる。が、その対象についてはそうも言えるが、またその反対のことも言えるのではないかという自己疑問が総じて乏しい。

(6-32)今のこの変化の激しい社会のなかで、なにびとが保身なしで生きられよう。だが、それが保身にすぎぬことを知っている人は意外に一貫した姿勢をとりつづけているものである。自分の僅かな保身にも鋭敏であり、自分の僅かな虚偽にも自覚的だからである。だが、その僅かな虚偽もまた、虚偽とは言えず、結局は「自己」なのだということにも敏感でなければならない。

(6-33)現代では物を有り難いと思う気持ちがなくなっているのに、それでいてどういうわけか、ちょっとした物品の不足に、敏感に、神経質に反応する習慣が身についてしまっている。

(6-34)実際にはなにものをも所有せずにいて、しかもすべてを所有しているのと同じ落ち着きをもって生きることは、われわれ凡人には容易になしがたい理想であるとはいえ、ひょっとしたらこれが幸福の観念のきわまるところであるのかもしれない。

(6-35)いくら昔より今の方が豊かになったと言われてみても、人間は昔の苦痛などをたちまち忘れ、今の不足をかこつばかりである。これは人間性の常である。人はただ目の前の自分の富と他人の富とを比較することしか知らない。

(6-36)人間は自分とほぼ同じような人間が自分よりも恵まれているということこそが、もっとも許し難いことに思われる

(6-37)より良き生活以外に生活の目標がないということは、人間がなにかのために生きるのではなしに、生きるために生きることのうちにしか生の目標が存在しないということに外ならない。このような現実に人は息長く耐えることが出来るのであろうか。

(6-37’)芸術や学問の仕事のうちに本当に人生の目標があるといえるのかどうか、そういう疑問にぶつかっていないような人の芸術や学問などは、およそ信用に価しないであろう。どんな仕事にも目標などはないのだ。むしろそう悟った方がいい。この人生に目標がないように。とすれば、この文明が目標もなくただ果てしなく前進しているのと同じように、つきつめて考えれば、すべての仕事に目標はなく、だからといってなにか有意義な課題を外部に求めて、教養とやらを身につければそれでなにかの目標に達したと考えるような甘やいだ教養主義も、単なる自己満足でしかなく、暇つぶしの一つだくらいにきっぱり考えた方がいい。
 そう悟ったときに人は解決を外に求めず、自分自身に立ち還るより他に道がないことに気がつくであろう。そこから先は各自の課題である。自分を導いてくれるいかなる処方箋も、いかなる指導書も存在しないのだ。このことをはっきり知ること以外に、生活への強い信頼は生まれてはこないはずである。

(6-38)外的条件の窮乏が人に強制する精神的緊張は、窮乏が解除されればたちまち消えてなくなるのであるから、もともとがけっしてまっとうな緊張とはいえないのである。外的条件が現在のように弛緩(しかん)し、生活環境がぬるま湯のような状態であるときに、人がなお緊張と向上と自己の豊富さを実現することこそ、人間としての本来のあり方だといってよいであろう。

(6-39)すべて賢いことは古典のなかで言われつくされている。人間はいつの時代にも同じ愚かさを繰り返しているので、昔の本は幸いにもいつまでも新しさを失わないでいられるようだ。

(6-40) 他人を笑うことはたやすく、自分を笑うことは難しい。
 他人の目からみれば取るに足らないことが、当人にとっては真剣このうえないことになるのは、考えてみれば、これが人生の当たり前のことであって、その限りで人生にはつねになにほどかの喜劇性が秘められている。

(6-41)近代小説は人間をありのままに知ろうとする情熱、すなわち人間性への謎の認識欲によって進歩してきた。しかしそこにはそれなりの欠陥がある。近代小説には何のために人間をありのままに知ろうとするのか?という目的がそもそも欠けている。

(6-42)ニーチェを読むことは、読者の側の一つの変身であり、運動であり、闘いである。

(6-43)われわれはとかくその場にいない友人の悪口を言う。悪口という快楽から逃れられる人間は少ない。しかし一つだけ、言ってはならない悪口がある、と私は思う。誰々さんが君のことをこんな風に悪く言っていた、という告げ口である。その場合相手は誰々さんよりも、告げ口した人間にやがて深い怨みを抱くようになるだろう。なぜなら悪口を言われた当人は、その場に居合わせていない友の、知らなかった一面をはじめて覗き見た思いがして、背筋の寒くなる思いがするとともに、あんな話は聞かない方が良かったのだとやがて後悔するに違いないからである。

(6-44)一般に、道徳上の告白は、他人に知らせたくない秘事を公開するのであるから、真実の表現に違いないとみなされがちである。けれども告白者がある部分の真実を告白することで、代わりに、別の部分の真実を見まいとして、告白の動機そのものに蔽いを掛けてしまう場合も決して少なくない。

(6-45)友人が真実を告白し、自分は卑怯であったとか、罪を犯したとか語る言葉の背後にひそむ彼自身のもう一つの心の闇に、私たちはじっと目をこらす必要があるだろう。たいがいの場合、告白した人間をやがて私たちがうとましく思うようになるのは、彼の過去の罪を責め始めたからではなく、告白によって罪を軽くしようとしている彼のもう一つの動機に、私たちがなにか釈然としない、胡散臭い性格をかぎ当てているからである。

(6-46)競争が悪いのではなく、競争が人間性を破壊する関係ないし状況がいけないのである。そもそも人間社会から競争がなくなってしまったら、人間は成長しなくなる。競争はいわば発展の母である。

(6-47)私たちは決して友人が欠けているのではない。人の友たる資格が私たち自身にあるのかどうか、自分に対するその問いが、なによりも吟味されなくてはならないのである。

(6-48) 青年の純粋さなどは当てにならないのである。
 青年は世間との不調和をたやすく自己の高貴さととり違える。だがなにか世間的な事柄に成功して、不調和がとり除かれると、そういう孤独な青年に限って、意外にいや味な出世主義者に変貌することがままあるからである。不調和にいじめられ、心がねじくれたあげくに、人間の弱さというものがたどる運命は見えすいている。
 若い時代に、いかにも世間がわかったような老成したものの言い方をする青年も私は好かないが、しかしその反対に、自分の若さに盲目的に溺れている青年も私にはうとましいのである。そういう人は意外に早く年をとるものである。

(6-49)孤独に価値があるのではない。また自分を孤独にする世間が本当の敵なのではない。敵は自分の心の中にある。自分を否定する力をもたない者には、肯定すべき自分の唯一の価値が何であるかもわからないのである。

(6-50)思想は出来上がった、動かない完成品でもなければ、思いつきや、気のきいた機智の類でも決してない。
 思想とは私たちひとりびとりの生き方にほかならないのである。

(6-51)ある行為が言葉になったとする。しかし言葉になった瞬間から、秘められていた行為の内奥は、すでになにほどか形骸化しているのである。しかしそれでも、残された言葉がわれわれに語りかける力をもっているのは、言葉の奥にあるもの、言葉では十分に捉え切れていないなにものかが、表面の言葉を支えているからだ。

(6-52)第一どうして人はそんなに本を読む必要があるのか。場合によっては本など読まなくても、人間は立派な生活人として一生をまっとうすることが出来るのである。そして、この観点を欠いたら、いくら多くの読書を重ねてもたいした稔りは得られないだろう。

(6-53)もし優れた本を本当に理解したならば、場合によってはその本が読み手の人生を毒することがあるというくらいのことを、彼は承知していなくてはなるまい。一冊の書を読んで、自分に有益であったなどと気楽な感想を語れる読者は、その書物をまるで理解していないのか、あるいは理解するに値しないほどつまらない書物であったのか、そのいずれかであろう。

(6-54)かつては無教育の人間が他人に支配され易いと信じられていたのに、今では教育をさずけられた人間が、かえって情動に動かされ易く、他人の思想に操られ易い存在と化しつつある。そして能率と繁栄を目標とする以外に歴史を動かす思想はなく、休息と安全性が大衆の唯一の志向となりつつある。
 創造者にはもっともふさわしくない時代が到来しているのである。
 教育や学問は今やそれ自体のためにあるのではなく、右の目的を満たすための手段にすぎなくなっている。

(6-55)人々はなにごとにつけてほどほどで、怜悧になり、あたりさわりのない生き方で、その日その日をやり過ごすことに疑問を覚えない。誰も論争せず、集団で事を構えることはするが、個人の責任で争おうとする者はいない。他人に対する無関心は、表向き冷ややかな社交辞令とほどよい釣り合いをみせている。ときになにか人生や社会の大きな疑問に突き当たってそれを表明する人が現れたなら、たちどころに嘲笑されるのが落ちである。
 こうした状況を「成熟」とか称して現状肯定する思想家がもてはやされ、その分だけ時代の文化は老衰し、活力を失っていく。だが、少量の毒ある刺戟をふり撒いた、いくらかどすをきかせた身振りやポーズが現れると、人々はこれを喝采するが、本気で毒を身に浴びる者はどこにもいない。毒ある刺戟も機智の一種であり、演技であり、芝居であるとみなされている。利口者がなによりも尊重され、あるいは歴史書に慰めを求め、あるいは永生きするための健康書にうつつを抜かす。そして、にぎやかな鳴物入りの漫画のような思想が現れるとぱっととびつき、明日にはそれを屑籠に入れて、人々はともかく一時の快い夢をみることが出来たといって喜ぶのである。

(6-56)現代の指導者は民衆の喜ぶようなことしか言わず、一方民衆は、忍耐して困難を解決していこうとする気持ちを最初から持っていない。どっちにしても「煩わしすぎる」のである。今よりいっそう安楽で、いっそう快適な生活条件を目指すということ以外に、個人も国家も生の目標を見出せなくなっている。今や「地球は小さく」なり、「怜悧な」人間たちは「地上に起こったいっさいについて知識をもっている。」

(6-57)日本人が学校へ行くのは、生活保障のパスポートを手に入れるためである。あるいは階層意識上昇に役立つお墨附きを獲得するためである。その前提は容易にくつがえりそうもない。ありていにいえば損得勘定の問題にすぎない。そしてそれが公平かどうかが疑わしくなると、世を上げて大騒ぎになるのである。

(6-58)わが国では、大学問題が言葉のもっとも本来的な意味での大学問題であったためしがあるだろうか。大学が今世間の関心を集めているようだが、大学における学問研究の内容の適否についてはだれも論じないし、寡聞にして学問の理念が問われたという話も聞かない。受験生の平等・不平等の問題、すなわち青年が社会へ出てからの生存競争に、異常なまでの興味がもたれているのである。

(6-59)大学の文学部においても、外国語の授業以外には言語教育はなされていない。教養課程の学生は、まだまだ国語の「読み・書き」の基本を継続して教えられるべき年齢だと私は思う。しかし実際に文章の緻密な読解という本来の言語教育を行っているのは、ドイツ語やフランス語や英語の授業であって、日本の大学では外国語教育がいわば国語教育の肩代わりを演じているといっても言い過ぎではないのである。文学を自由に多読すべき年齢の、若い柔軟な心に、専門的なおぞましい研究家意識をたきつけ、感受性をずたずたにしてしまうのも、日本の文学部における教育の仕方である。ああ何たることよ、と私は思う。

出典全集第六巻
「Ⅳ ドイツの言語文化」より
(6-29)(250頁下段「北方的ロマン性」)
(6-30)(293頁下段から294頁上段「ドイツの言語文化」)
「Ⅴ 古典のなかの現代」より
(6-31)(330頁下段「知的節度ということ」)
(6-32)(337頁下段「人は己の保身をどこまで自覚できるか」)
(6-33)(341頁下段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-34)(343頁上段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-35)(346頁上段から下段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-36)(347頁上段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-37)(349頁下段から350頁上段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-37’)(353頁上段から下段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-38)(356頁下段「富と幸福をめぐる一考察」)
(6-39)(365頁下段「古典のなかの現代」)
(6-40)(369頁下段から370頁上段「古典のなかの現代」)
(6-41)(373頁下段から374頁上段「古典のなかの現代」)
「Ⅵ ニーチェとの対話―ツァラトゥストラ私評」より
(6-42)(381頁下段「まえがき」)
(6-43)(388頁上段「友情について」)
(6-44)(389頁上段「友情について」)
(6-45)(389頁下段「友情について」)
(6-46)(395頁上段「友情について」)
(6-47)(400頁上段「友情について」)
(6-48)(402頁「孤独について」)
(6-49)(412頁下段「孤独について」)
(6-50)(418頁上段「現代について」)
(6-51)(418頁下段「現代について」)
(6-52)(421頁下段から422頁上段「現代について」)
(6-53)(422頁上段「現代について」)
(6-54)(423頁上段「現代について」)
(6-55)(424頁上段から下段「現代について」)
(6-56)(428頁上段「現代について」)
(6-57)(431頁下段「教育について」)
(6-58)(431頁下段「教育について」)
(6-59)(434頁下段「教育について」)

「阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「四十一」」への16件のフィードバック

  1. ;

    哲学のレースで勝つのは、いちばんゆっくり走ることのできる者。

    つまり、ゴールに最後に到着する者だ。

    *

    18/03/08 , 子路。

    20:47

  2. 僕の顏をどうしてくれる!?

    「棟上げのときに首相夫人が来られることになっている」「どうするの、僕の顔は」との森友・籠池さんの發言、秀逸ですね。

    さう詰め寄られた役人たちの表情・狼狽ぶりが目に見えます。そこから、一
    擧に走りだしたことは間違ひありません。なにがなんでも・・・。ゴミなぞ、「あつた」でも「なかつた」でも、どつちでもいい、とにかく急げ!

    それを「忖度はなかつた」と、安倍總理大臣は斷言しました。自分のことで
    はない。役人のことですよ。人の心の中がどうして分るのでせうか。總理や
    昭恵夫人の言動を役人がどう感じたかーーそれは役人本人にしか分らない筈です。安倍さんに言へるのは「そんな風に忖度されようとは思はなかつた」が限度でせう。

    しかく、安倍さんにはまともな論理が通じません。彼に外交交渉など出來る
    はずがありません。” 地球儀俯瞰外交 ” ”積極的平和主義”の無内容・イ
    ンチキなことは、夙にBruxellesさんから講義で教へられました。

    「教養がない」「度胸がなく、肝腎のところで逃げる」とは、西尾先生による安倍評で、完全に同感ですが、その根本は頭が惡いの一言に盡きるでせ
    う。どんなにいいことを教はつても身につかず、判斷力も、それに基いた勇
    氣も出ないのです。あのふやけた表情とおどおどした物腰がそれを示してゐるのでせう。

    外國に要人を訪ね、ディナーを共にし、記念撮影ーーそれだけのことです。
    安倍さん、 ホントに嬉しさうですね。お土産を持つて行くので、一應歡迎し
    てもらへるのでせう。イキイキとしてゐます。

    ” 外遊” は安倍さんの最高の趣味でせう。 そして、トランプ大統領との
    「もつとアメリカの武器を買へ」「承知しました」以上の成果は、私の知る
    限りゼロです。なんたる國費の無駄使ひ!テレビで握手の場面などを見た支持者は、なにかやつてくれたやうに錯覺するのでせうね。

    昨日テレビで有名な評論家が「森友の眞相は窮めなければならないが、それによつて安倍首相を失ふことになれば、朝鮮半島情勢に鑑みて、國益を大きく損ふ」と言ひました。

    いまだに、安倍神話・イリュージョンを追つてゐるのですね。今まで、安
    倍さんが何をやつてくれたのですか。今後何を期待するのですか。せいぜい、「日本の方針・對應は100%アメリカと同じだ。常に」と宣ふことく
    らゐでせう。役人・外務次官がゐれば十分です。心配することは何もありません。

    閑話休題。私自身、役人と附合ふことが職業だつたので、冒頭の籠池發言の場は十分想像できるつもりですし、籠池さんの巧みさに舌を卷きます。

    彼はしかし、多分かういふ科白が常に有效であるとは限らないことも知つてゐたのではないでせうか。

    偉い人の名前を持ち出すことは、役人(といふよりも、誰に對してでも)お
    ほむね效きます。しかし中には、氣骨があるといふか、素直でない役人もゐて、それが逆效果になることもあります。彼の上司の名などを出すと途端に不機嫌になり、 反動的に出て來る役人もゐます。 「俺が上司の前に這ひつくばると思ふのか!」。

    その心理はよく分ります。かういふ人が課長の場合、「この件は本來、私の方で局長にお願ひすべきだが、あなたがOKしてくれれば、局長が、よもやNOとは言はないと思ふので、最初に頼みにきた」といふ風に持ちかけます。

    大抵、課長は上機嫌になり、「さうだな。局長は僕が言ひくるめるよ。間違
    ひなく進めるから、安心してゐていいよ」といふことになります。

    彼としては、自分が、その上司たる局長をも實質的に支配する力を持つてゐると認められたことが無性に嬉しいのです(勿論、こちらのさういふ思惑が裏目に出て、大失敗といふこともありましたが)。

    誰しも、強い者に對しては弱いが、一方プライド・虚榮心もあります。それ
    らが、どのくらゐの割合を占めてゐるかを、相手の一人一人について、見究める必要があります。

    そして、この件は上から行くか、下から行くか、それとも眞ん中から行くか
    ーーは、事の性質の他に、相手の役人の性質により決めます。その段階で、ことの成否は90%決まります。

    上記の課長は「眞ん中」、課長補佐または係長(起案は彼等がします)は
    「下」、 局長は「上」といふことになります。更に、その「上」の事務次官のところまで行く場合もたまにあります。

    私は若い頃から附合つた役人が昇進しきつた前後には、屡々次官室を訪ねましたが、そこで話を決めたことは、そんなに多くありません。見榮から、虎の威を假りたと思はれるのが嫌だつたせゐです。

    局長にOKを貰つた後、課長に會ひ、起案者たるべき補佐・係長も同席す
    る場で入念に打ち合せて、これで我が事なれりと思つてゐたのに、スムー
    ズに進まないといふこともあります。役所だけでも大組織なのに、加へて
    外局・外廓團體にまでことが及ぶ場合など、時として、流れが止まつたり
    します。そこまで注視して、手を打たなければならない。私はそれを土管
    掃除と稱してゐました。元から遠くなるほど、詰まりやすくなります。

    さういふ役人の(ではなく、人間の)性分を見拔く力が祖父・岸信介や大叔
    父・佐藤榮作にあつて、安倍さんにないのは、役人經驗の有無のせゐではなくて、ただ資質(頭腦・感性)の差によるのでせう。

    昔の日本國民はそれくらゐのことは、簡單に分つた上で、総理大臣を評
    価してゐたのではないでせうか。

  3. 国会に男がいない!

    池田様、僭越ですが、安倍個人を論っても無意味ではないでしょうか。昨年の議論の蒸し返しですが、①日本外交は「役人・外務次官がゐれば十分」ならば安倍首相でもよく、②安倍以外の誰が(西尾先生が対談した石破や麻生、岸田など)首相になっても日本の政治が安倍よりよくなるとは思えません。ならば安倍を貶めてはならないことにならないでしょうか。③立憲民主などが政権を執った場合を想定していると思いますが、「安倍首相を失ふことになれば、朝鮮半島情勢に鑑みて、國益を大きく損ふ」という評論家はその意味で正しいと思います。

    私も前から安倍イリュージョンを捨てていますが、安倍政権以外の自民党政権、まして野党連合政権になれば、日本が益々悪くなることは間違いなく、大いに心配です。9条は心配していたとおり2項温存に決まったようですが、これも見方によっては、何も手をつけないよりはマシ、安倍氏もマシ、なのではないでしょうか。

    安倍氏の個人的能力・資質については同感です。しかし、むしろ憂うべきは、現在の国会審議でも明らかなように、国会に、ということは日本の政界、官界に、漢(おとこ)や武士(サムライ)がいなくなったことと思います。枝野などが論争を挑むなら嘗ての浜田国松が寺内首相に挑んだように、「俺の推測が誤っているなら割腹して首相に謝罪する。なかったら首相が割腹せよ」と詰め寄ればいいでしょう。福山、辻元、福島など野党幹部は在日といわれ愛国心のかけらもないどころか反日活動の輩であるのに、与党のだれも、彼等にいいようにやられるだけで、彼等を叩こうとも戦おうともしません。安倍氏も「妻が関与ならボクは議員辞職する」ではなく「腹を切る」でしょう。両サイドとも真剣味のない、いい加減な論争を国民の前で繰り広げ、マスメディアは面白がって伝え、国民は熱心にこのくだらない薄っぺらで愚かなモリカケの茶番を観戦し、有難がっています。 

    このようにして戦後70年が過ぎ、日本の国威と国益が少しづつ、しかし確実に蝕まれました。ブリュッセル女史はブログに拠って命懸けでこれと戦い、無念のうちに果てました。昨日でしょうか、北の白豚が習近平と何やら会談し、次いでトランプにも会うようです。そのトランプは、安倍の自分への笑顔は、「貿易黒字でほくそ笑む」笑顔だと安倍氏も日本国も聞き捨てならない冗談か本音を平気で口走っていますが、安倍氏は反論しません。侮辱されれば腹を切るのが武士ですが、安倍氏は何度腹を切ればすむのでしょう。

    “あたりさわりのない生き方で、その日その日をやり過ごすことに疑問を覚えない。誰も論争せず、集団で事を構えることはするが、個人の責任で争おうとする者はいない。”

    “現代の指導者は民衆の喜ぶようなことしか言わず、一方民衆は、忍耐して困難を解決していこうとする気持ちを最初から持っていない。どっちにしても「煩わしすぎる」のである。今よりいっそう安楽で、いっそう快適な生活条件を目指すということ以外に、個人も国家も生の目標を見出せなくなっている。”

    快適な生活を送っているうちに、どこかから核弾頭が落ち、数千万人が死んで目覚める。それでは手遅れということを戦前の庶民は知っていましたが今の国民は知らないようです。

  4. 勇馬樣 恐れ入りました。「安倍を貶めてはならない」ですか。
    安倍内閣擁護・支持運動でも起さねばならないやうですね。私など
    無力ですから、好きなことを口走つてよろしいとお目こぼし頂けると
    ありがたいのですが。「安倍さんの他に誰がゐる!?」の一言で、
    口を封じられて5年以上經つてもお許しが出ないのですね。

    「無念のうちに果て」たBruxellesさんから、「徹底的
    に批判すべきを批判することこそが、抗議の声を上げることこそ
    が、安倍氏に勇気を与えることになるのでは、ないでしょうか?」
    (原文のまま)と諭されたことを思ひ出しました。彼女も未だ安倍
    さんを完全には見限つてゐなかつたのですね。

    後に、「自分は安倍批判で、友人を失ひ、村八分にされてきつか
    つた。あなたはあまり安倍批判をしない方が身のため」と忠告さ
    れ、「自分は村八分にされるほどの身分ではありませんので、御
    心配なく」と答へたこともありました。

    以下は彼女からの最後のメールの一部のコピペです。勇馬樣以
    外には通じないかもしれず申し譯ありませんが、彼女の眼力を
    示す一例としてーー

    安倍談話の時は、突然Tel Quelを完全無視して
    安倍支持に回った人で、私の入れたコメントさえ
    無視、挙句に削除。要するに時勢に与した
    ひとです。

  5. 池田様、もう5年経ちましたか。この間、少しも進歩しないばかりか、生意気にも口封じをしたことさえすっかり忘れておりました。私も意識せずに時勢に与しているのかも知れませんが、安倍談話の時は、たしかBruxellesさんから、私のブログだけ合格点のコメントをもらった記憶があります。褒められたことは忘れにくいのでしょう。

    「安倍氏に勇気を与えるために、批判すべきを批判する」のは、人物を見限っておらず、能力や人格を認めた上で、政策を批判するものですが、池田様は政策だけでなく人物も見限っていらっしゃる。見限った上で、勇気を与えるためでなく、批判するのは何のためでしょうかと、野暮な質問はしません。安倍さんは勇気を与えても無駄、または却ってよくないというのであれば、誉めるべきかもしれません。

    日本を何とかしたいという思いから又拙い議論を繰り返してしまいました。所詮は井戸端会議、床屋談義、どうも糞真面目な性癖から抜け出せません。5年もたちましたが少しも進歩していません。
    ただ、村八分にされるほどの身分ではないことと、安倍さんら政治家を、政策ではなく人格や人物のレベルで論じることが共通すると思うのも僭越でしょうか。WGIPによって政治家だけでなく国民全体が劣化し、今の世代は前世代とは違う民族に変質しているような気がします。この辺はどうお考えでしょうか?「一度洗脳された青島も橋田も平和を墓場までまっていく」と以前お書きになっています。個人はそれでのいいのですが、民族が亡ぶまで洗脳され続けるとなると、これは悲劇というよりも喜劇です。

  6. 口封じ・村八分・アグネス・平壤への切符

    勇馬樣 (A) 「安倍談話の時は、突然Tel Quelを完全無視して安倍支持に回」ら れたことは間違ひないのですね(そして、誰かの「口封じ」をされたのですね)。

    ただ後に、(B)私が安倍談話を「奴隸宣言」と呼んだ際、 勇馬さんは全面的に贊同して下さいました。

    (A)と(B)とが矛盾するとは必ずしも思ひません。また、時により、言ふことがくるくる變るなどと批判するつもりもありません。

    安倍さんの一つの言動についても、客觀情勢を考へて對應すべきですよね。如何に間の拔けたことでも、 「安倍政権以外の自民党政権、 まして野党連合政権になれば、日本が益々悪くなることは間違いなく」、 安倍氏が「マシ」で、かつ、 こちらが眞の愛國者なら、 産經新聞、『正論』、『HANADA』、 『Will』etcの如く、安倍總理大臣萬歳!を叫びつづけるべきで、「安倍を貶めてはならない」ですよね。

    私自身は、必ずしも安倍さんが「マシ」と思はず(「石破や麻生、岸田など」と枝野 がヒドイとは同感ですが、安倍さんと彼等を比べて、どちらがどうとは言ひきれません)、且つそれほどの愛國者でもないので、現下の情勢を顧慮することなく、カッとなつて安倍さんを罵ることがあり、この點 はお詫びし、且つ、影響力がないといふ理由で、お許し願ふしかありません。

    勇馬さんの方はどうでせう。その安倍批判は私以上に激しいことが多く、我が黨の士かと思つたら、突如「安倍個人を論っても無意味」との仰せ。
    まあ、前者は安倍批判が本人に勇氣を與へ、さらに彼より「マシ」な者もゐるかもしれ ないとお考へになつた時のこと。
    後者は彼より「マシ」なものはゐないと思ひ始められ た時のことでせうから、それぞれ理由があります。これを非難することはできません。

    ただ、これまでも、突然正反對のことを言ひだされたことがあり、それなり の必然性があるのでせうが、私としては、やはり左翼出身者に共通の性癖(戰術第一?)だなと感じたことは、正直に申上げておきます。そして、それを「糞真面目な性癖」と呼ぶことには疑問があります。

    「村八分にされるほどの身分ではないことと、安倍さんら政治家を、政策ではなく人格 や人物のレベルで論じることが共通する」との仰せ、完全に正解です。私になにほどか の身分があつたり、あるいは、自身の論考を、たとへば「HANADA」に採用されたい場合は、當然全く別の態度をとらざるを得ないでせう。
    それに、私に「政策」がどれだけ分りませうか。政治家の人格や氣質、習性に目が行くのは當然です。
    (附記:前々囘に觸れられた腹切り問答の相手は寺内首相ではなく、寺内陸相でせう)

    閑話休題。以下は勇馬さんとは關係なく、床屋政談を少々。

    1,安倍總理大臣がアグネスチャンの息子の結婚式に出て祝辭を述べたさうですね。
    私は以前からアグネスが大嫌ひで、彼女を見るとムシズが走りましたが、その理由がはつきりしませんでした。

    ところが本欄で、以前 黒ユリ樣から、アグネスの本質は反日と教へられ、膝を叩きました。 なるほど、さう言はれてみれば、日本(人)を小馬鹿にしてやがる・・・。黒ユリ樣の慧眼に改め て敬意を表します。
    最近彼女をテレビで見ることがあまりなく、しかと確認するこができません。 黒ユリ樣、アグネスをもう一度分析してみせていただけないでせうか。

    安倍さんはWGIPの申し子です。この二人が、反日氣質といふ點でピタリと一致する のは 、黒ユリ樣御指摘のとほり當然です。 その安倍さんの言葉尻から、 一部が右翼呼ばはりし、私なども最初勘違ひして、安倍さんにエールを送つたなぞ、今からすれば笑止千萬です。

    2,このところ、北朝鮮の對外活動めざましく、韓國、アメリカ、支那、間もなくロシヤ相手に、次々と派手なアクション。見てゐるだけでも面白い。そして、いつもの通り、 日本だけが蚊帳の外。

    しかし、北は優しく、「日本は改心しないと平壤への切符が手に這入らないよ」と忠告 してくれてゐます。まだ間に合ふよといふことでせう。日本に気
    を使つてゐます。 最後に金を出すのは日本。他 の國は、 なんのかんのと文句は言つても、 名分のない金は絶對に出さない。日本にタカるしかない ーーと讀んでゐるのでせう。

    6月に日朝首腦會談開催といふ豫測がしきりに行はれてゐます。 その論據は知りませんが、あり得るのではないでせうか。

    小泉政權が、田中眞紀子外務大臣のクビを切つたために30ポイントも下つた支持率を、 首相訪朝で一擧に挽囘したことは、 いくら頭の惡い安倍さんでも覺えてゐるで せう。

    このところ人氣の落ちてゐる安倍さんが、9月の總裁選に備へて、同じ手を使ふ可能性はありさうです。

    安倍さんが一昨年の領土をめぐる對露交渉でプーチンにしてやられた際、經濟協力などとすり替へて國民を騙し了せたことは、本欄で以前申しました。あれ以來、彼は、 日本國民なんてチョロイと見縊り始めたのではないでせうか。急に驕慢になりました。
    それまでは、この智慧のない男に大した惡事ができるわけがないとタカをくくつてゐま したが、國民を舐めた上で、政權を維持しようと思へば何をするか・・と少々怖くなりました。

    6月に安倍さんが、北朝鮮に對して日本を賣る可能性はゼロではないやうな氣がします。

    3.私は全く信じませんが、安倍さんは外交が得意だと言はれてゐます。
    最近、トランプ大統領が「安倍晋三首相と話をすると、ほほ笑んでいる。 こんなに長い間、米国を出し抜くことができたとは信じられない」と言つたとか、面白をかしく報じられてゐます。

    本當でせうか。とすれば、「日本の立場はアメリカと完全に同じ」といじらしくも恭々しい安倍さんに對して、あまりな言ひ種ではないでせうか。それとも、米國を出し拔いたと、安倍さんの外交手腕を認めたのでせうか。それほどのやり手であつたなら、それが全く分らなかつた 私など、土下座して詫びねばなりません。

  7. 池田 様  勇馬 様

    ご無沙汰しております。池田様のコメントを拝見し、アグネス・チャンに言及されていたので、再びお邪魔することにしました。

    池田様が仰る通り、私がアグネスのことを書いたのは、昨年の8月末のコメントの中で、でした。ただ池田様が仰るように、私が書いた内容は、「分析」などという高尚なものでは決してなく、16歳(1971)で香港から来日して以来、アイドル歌手として一世風靡した彼女が、雑誌やテレビのインタビューなどで発した言葉の端々で、私がカチンときたものを、思い出して書いたにすぎません。
    どんな人もそうでしょうが、若い時は、同い年の有名人には(因みに安倍首相は一つ年上)、多少なりとも関心を持つのが普通であって、私も例外ではなかったということです。
    したがって、私が書いた内容は、都合の良いことしか書いてないウィキペデアを見ても、ネットでどれだけ検索しても出て来ません。一人の人物のイメージというものは、やっぱり同じ空気を吸った同時代人、とりわけ年齢の近い人たちによって、より「正確」に形作られるのではないでしょうか。
     前置きは終りにして、昨年8月に書いた内容で、アグネスについて書いた部分を転写致します。

    私個人が安倍さんに対して、カチンときたのは、いつだったかアグネス・チャンに「ずっとファンでした」と言ったという記事を見たときだ。新聞や雑誌記事の信憑性など疑わしいことは分かっている。しかしリップサービスだったかもしれないけれど、嘘っぱち記事にも血圧が上がりそうになるのが庶民の私だ。

    アグネス・チャンは、「ひなげしの花」でヒットを飛ばし、十代で香港から来日したアイドル歌手だ。もっともそれを知らない最近の若者は「このおばさん誰?」としか思わないそうだが。
    その後結婚して子連れで「職場」に行ったりして「アグネス論争」を巻き起こしたのを覚えている人もいるだろう。

    私はデビュー当初から、この中国人タレントが大嫌いだった。というのも言葉の端々から、日本人をバカにしているのが分かるからだ。例を挙げるとキリがない。

    「日本に来て、名前が一つしかないのを不思議に思いました。二つあるのが当たり前だと思ってました(笑)」(英語力について)
    「日本に来て英語が通じないのが一番苦労しました。・・・(英語は)どういうわけか、すんなり覚えるんです。・・・皆さんも絶対できます(笑)」
    (職場に子供をつれていくことなど)
    「アメリカに行って、やっぱり自分が正しいことが分かりました」
    (海外留学させている自分の子供について)
    「英語、中国語、日本語など・・・三つはしゃべれるようになってほしいですね。日本語だけじゃかわいそう(笑)」
    (本国で反日教育が行われていることについて)
    「反日教育なんてやってません。アメリカにいた時も、本国と同じ内容だった。日本だけが違う歴史教育をしているんです。」(これは、ネット情報による)

    そんな米中の反日を併せ持ったタレントが、テレビに重宝がられているのだから、最近の偏向メディアが話題になるずっと以前から、つまりアグネスが16歳(1971)で来日、つまり日中国交回復する前から、マスコミはとっくの昔からおかしくなっていることが分かる。今はそれがひどく、或は露骨になっただけだ。

    さて忙しい安倍首相が、彼女に対し「本気でファン」なのかは知らないし、興味もない。ひょっとしたらこうした記事を載せるのも、マスコミが一般人に、安倍さんを嫌いにさせるための魂胆なのではないか、との深読みもできる。

     以上が、昨年8月末に書いたコメント内容です。
    池田様は、最近安倍首相がアグネスの息子の結婚式に出席した、と書かれましたが、初耳でした。でも「やっぱりそうか」と思いました。以前「ファンでした」と言った以上は、招待されれば、断る理由がない以上は、行くでしょう。
     人間関係のバランスに相当神経を使い、テレビの影響力の恐ろしさも知り抜いている安倍首相ですから、中国の窓口でもあるアグネスを、突然無下に突き放す訳にも行かないのでしょう。
     さて最近はネット上に、これまでになくマイナス情報も流されるようになったせいか、テレビ出演も減ったアグネスですが、彼女にとって、日本がこの上もなく金儲けに都合の良い場であることに変わりはないでしょう。
     特に芸能界というものは、一般社会とは隔絶された「ムラ社会」で、庶民とはかけ離れた所で、本来は厳しいはずのエンターテインメントの世界とは異なり、異常に保護されている、という噂は昔から庶民の常識です。
     
    それにしても、高度経済成長期が始まり、テレビも普及し始めた頃は、今のように、政治家までが、テレビ報道にこれほどまでに異常に気を遣うようになるとは、誰も想像しなかったのではないでしょうか。

     ちょっとでも失言すると、政治家の足を引っ張ろうとするマスコミの声があちこちから発せられるが、「では、あなたが政治家の代わりに、活動なさったらいかがでしょう?」とは決して言われることがない世界・・・これほど気楽なことはありません。
    昔なら、若造や新米が偉そうなことを言うと、「あなたは、いつからそんな偉くなったのですか?」と言われるのがオチで、人間というものは、そうそういつでもどこでも、好き勝手なことを言ってはいけないという常識がありましたが、今ではそれもないのでしょう。

     安倍首相に関しては、「他に代りがいない」という事態に対して、私個人は、何も言う事がありません。事実そうなのでしょうから。
     ただ西尾先生がかねがね仰っている事、批判を許さない空気、日本を根本から変えようとする気概が生まれてこない事、つまり恐ろしい「全体主義」が日本列島を、靄のように覆っていることが、危機の本質であることを、片時も忘れてはいけないと思っています。
     中途半端なコメントになってしまい、申し訳ありませんでした。
     
     

    1. 黒ユリ 樣

      「ファンでした」は嘘ではなかつたのではないでせうか。反日支那人と反日日本人が「反日」により、親和・共鳴し合つたーーそんな氣がします。

      外國人の反日は知つたことではありません(反日を賣物にしてゐるとすると問題ですが、それはこの際措きます)が、反日日本人には資質に問題があり、安倍さんなどは、多分一生そこから、拔けきらないでせう。理論化することは私にはむづかしく、勘で言つてゐるのですが、洗腦から自由になりやすいタイプと、縛られ續けるタイプ。

      奇拔な比較をすれば、西尾先生と大江健三郎。兩者は同年齡であり、似たやうな教育を受けたやうですが、あれほど違ひます。
      大江はいまだに戰後民主主義の申し子です。

      安倍さんは大江型だと私は見ました。
      勇馬さんが「青島幸夫や橋田壽賀子も平和を墓場までまっていく」と、以前私が書いたことを覺えてゐて下さいました(私は「平和」ではなく、「反戰」としたつもりですが)。この二人も大江型だと判斷したのです。

      ある學者による、安倍さんの言葉遣ひの分析に興味を覺えました。安倍さんは「國際社會の意志」「普遍の價値」と、よく言ふさうです。これは勿論、「平和を愛する諸國民」「人類普遍の原理」といふ「日本國憲法」の文言に由來してゐます。

      日本人の意志や、日本人の認める價値は惡であり、「國際」と「普遍」こそが尊いのです。安倍さんには、この教へが骨の髓まで沁み込んでゐると思ひますが、黒ユリ樣は一つ違ひの安倍さんをどう見てをられますか。

      私自身が論證拔きで、勝手なことを申してゐるのですから、黒ユリ樣からも自由な觀察・推量をうかがひたいものです。安倍さんが、今後洗腦解除されることはあり得るでせうか。

      (追伸)眞率なコメントをいただきながら反應が遲れて申し譯ありません。家庭の事情(孫どもの大擧襲來)のせゐです。
      勇馬樣にも、なるべく早く御挨拶するつもりです。すみません。

  8. 池田様

    この場で私的な弁明をするのは憚られますが行きがかりですので私の立場を少し説明し、長くなりますが、Bruxellesこと故坦ケ女史の欠陥と慧眼を改めて紹介します。

    3年前2015年の安倍談話の時、勇馬が「突然Tel Quelを完全無視して安倍支持に回った」と、女史が池田様にメールしたようですが、こう非難されたことは間違いなく、但し、この非難は彼女の完全な勘違いでした。彼女との最後のトラブル(長期入院のためTel Quelが長く更新されず広告が出始めたので、彼女から預かっていたパスワードで管理画面に入り、承認待ちだった池田様と私のコメントを承認した事務管理を退院後に罵倒)と同じ彼女特有の決め付けがこのときも働きました。彼女の入れたコメントが余りに見当違いで無礼な言葉だったので削除したことを思い出しました。その後に和解しています。

    「口封じ」は、口封じではなく質問でしたが、“安倍さんの他に誰がゐる!?の一言で、口を封じられて5年以上經つ”の池田様に対するものです。彼女の勇馬評を池田様が「彼女の眼力を示す」と評価されたようですが前提が間違っています。

    同様に、嘗て突然彼女から非難を浴びせられた保守ブログ主も、「アインシュタインのような天才的能力の持ち主に多い適応障害」と推測されています。彼女の才能とブログの業績はブログ主も私も高く評価したのですが、一面でこのような性格的欠点があったことを没後に指摘することは、西尾先生の西部追悼文と同様、公正の観点から、許されると思いますし、そのことで彼女の業績は損なわれません。

    勇馬も「要するに時勢に与した」と彼女が早とちりしたのは、池田様の誤解と同じ背景があります。時世や権力に迎合する必要のない草莽です。安倍さんの言論(政策)や人格は駄目だが、それでも代わりうる人材が揃いもそろって安倍以下なら消極的に支持せざるを得ないという立場と、安倍政権の政策や歴史観に賛同する積極的安倍支持とは根本的に違います。池田様の3/22コメントを読んで感じたことは、「安倍罵倒は所詮むなしい」でした。安倍個人を論っても、貶めても無意味ではないか、罵倒することで何らの効果もない以上、「現下の情勢を顧慮することなく、カッとなつて」安倍さんを罵倒したり叩いても無意味ではないか、と思ったのですが、こう書きながら、いま思い直しました。

    安倍さんの言論や歴史観は強く批判しなければならないが、一国の首相の性格や人格まで論じることは遠慮すべきと思う気持ちがありました。しかしよく考えれば、性格や人格が言論や歴史観を決定する大きな要素でしょう。WGIPの申し子になったのも彼の気質の弱さ。であれば批判はどうしても性格、人格、氣質、習性にまで及ばざるを得ない、と池田様はお考えなのでしょう。

    日本の政治を変えるには、首相の歴史観を変えねばならず、そのためには国民の世論を変える、それにはこの日録が役割を果たせるならば、野次馬のコメントでも罵倒に多少は効果がある?ならば大いに論い、貶しめるのがいいことになります。左翼出身ではありませんが転向も吝かではありません。

    以下は安倍米国演説を私がブログ(2015.05.02)で徹底批判したときの女史のコメントです。彼女の眼力は実に確かでした。
    “これは完全にアメリカ様の好都合なようにアメリカ様が準備・演出・監督したShowで、日本国民の存在は完全に忘れ去られています。先の戦争で殺された日本兵、外地で暮らしていた日本人、原爆や空爆で殺された内地の国民、今平成の世を生きている、私たち日本国民、原稿をかいた人の頭にも心にも、(過去の・現在の・未来の)日本国民はいずれも存在していません。ですから私は自分の記事にこのタイトル「米人?writerの有能さが際立った」をつけました。
    自分の妻や留学時に世話になった?異国の婦人をこの場に招待してカメラアップをさせる、こういう発想は日本人にはありませんし、
    安倍はエブラハム・リンカーンと同じ発音になるだとか、キャロク・キングの歌だとか、(祖父の日米安保は致し方ないとしても)、完全にこの場を私物化しています。これは安部晋三とアメリカ合衆国の歴史的友愛のshowで、日本人も日本国も、国家の歴史も、何もかもが完全に忘却されています。英語が少しできるなら、たとえば市丸海軍少将の「ルーズベルト大統領への手紙」に少し触れてみてはどうでしょう。東條氏の大東亜共同宣言に触れてみてはどうでしょう。昭和天皇の開戦及び終戦のお言葉に触れて、日本国がたどった戦争を、アメリカ国民に最友好国の最高責任者として、教示すればどうでしょう。
    まあ、そんなことはありえないと、初めからわかっていましたが。「そしてこのVideoはアメリカ国家のお宝になるでしょう。」これが私の感想です。

    私が一番残念なのは、保守の論壇の近似値100%が相変わらず安倍演説に高得点を与えていることです。丸2日間必死にBlog論壇の反応を探りましたが、相変わらずの居酒屋の宴会です。
    貶していたのは、英語の棒読み云々、そんなことは、批判の対象にすべきではありません。あの人が良く練習した努力は認めるべきですよ。顔を上げて間を取り、拍手を促し、拍手が静まるのを待って、云々、米人演出家の指示通り、一語一語噛み締めてよく言っていましたよ。私は大手英会話学校で、全国スピーチコンテストに生徒を出場させるために長年スピーチ指導もしていましたが、ジェスチャー、間のとりかた、文章の区切り方、イントネーション、よく出来ているほうだと思います。私は演説を耳で聞きながら、full textを読んでいましたから、どこをどう読み間違えたか、何処でつまったか、またその原因は「内容を理解していないから」だと瞬時にわかりましたが、そこを論うつもりはありません。 私のBlog記事には面白い写真を入れているので、ご覧ください。

    勇間様の得点がそれでも一番低いように思いましたので、また共感する部分もあり、ここに私の感想を書かせていただきました。しかし日本国の名誉の回復に関しては、望みも息の根も止められました。 #45 Bruxelles”

    以下は私の応答で、米国議会スピーチも安倍談話も「奴隸宣言」と思います。この意見はいまも不変です。

    “スピーチは聴衆に受けなければ無価値という意味では、安倍氏の演説は喝采を浴びたのですから、上出来と評価されるでしょう。しかしご指摘の通り、日本が不在では日本の代表者の演説として、これまた無価値と言わざるを得ません。多少、アメリカ議員諸公に擦り寄ってもいいでしょう、しかし日本の主体性がなくては彼らさえ物足りないことでしょう。戦前の日本が戦後の日本より格段に優れていたのは、日本国家の尊厳が国際社会のなかに存在し、その尊厳の由来は日本独自の理念と矜持を保持していたことでした。伝統への自信をふまえ独自の世界秩序を構想する発想です。この独自性と主体性がないと、強い国に隷属する意識にならざるを得なくなります。安倍総理や自民党のように。大東亜共栄圏のようなコンセプトをもってこそ世界は、嫌いながらも、敬うのではないでしょうか。国際社会でも、警戒されようと侮蔑されるよりましです。日本の庶民は昔から馬鹿にされることよりも和むことを重んじてきたと思います。バックボーンを喪失した日本はエリート不在の大衆国家になり果てました。しかし、日本の名誉回復への命脈が完全に失われたわけではありません。安倍氏は役者でなかっただけです。 なお演説(弁論)は気持ちが入っていなければ駄目です。気合や迫力が欠ければ本当の感動を呼ぶものではありません。その意味で日本の政治家はヒットラーに習うべきです。”

    床屋談義ですが、
    1, アグネスには私も同じムシズが走ります。
    2, 北朝鮮と国交回復すれば経済協力の莫大な金を支払うことが当然のように語られますが、朝鮮には戦前日本の巨大投資と残してきた資産が17兆円といわれす。安倍さんはこれを自働債権として北の請求を相殺し逆に差額を要求する度胸が求められると自分のブログに書きました。「日本國民なんてチョロイと見縊り始めた」安倍さんが、北に日本を売ることを牽制する世論を盛り上げる必要を感じます。
    3, トランプの発言、「晋三と話をすると、ほほ笑んでいる。 こんなに長い間、米国を出し抜くことができたとは信じられない」は放置してはならないと思います。

    腹切り問答の相手は寺内首相ではなく寺内陸相でした。ご指摘ありがとうございます。

  9. 池田様
    補足します。床屋談義3のトランプ発言はネット情報(NYT)では以下のようです。

    「晋三と話をすると、ほほ笑んでいる。 こんなに長い間、米国を出し抜くことができたとは信じられない」よりも、「自分が晋三たちと話すとき、かれらの顔がほくそ笑むのは、こんなにも長い間、米国を虚仮にする(出し抜く)ことができたとは信じられないと内心思うからだ。そのような時代は終わった。」が正確です。
    When announcing $60 billion in tariffs against China on Thursday, Mr. Trump directed a sugarcoated barb against Japan and Mr. Abe.
    “I’ll talk to Prime Minister Abe of Japan and others — great guy, friend of mine — and there will be a little smile on their face,” Mr. Trump said. “And the smile is, ‘I can’t believe we’ve been able to take advantage of the United States for so long.’ So those days are over.”
    Analysts said that Mr. Trump was clearly playing to his domestic audience.

    「あまりな言ひ種」で聴き捨てなりません。国内向けの発言なら猶更本音でせう。「米國を出し拔いたと、安倍さんの外交手腕を認めた」のでは金輪際ありません。本質的に棘のある言葉を甘く包んで言い向けたのですから。安倍さんは今後絶対にトランプに笑顔を浮かべてはならず、つねに習近平なみのしかめっ面で、「米国は常に日本を虚仮にしている」と言わんばかりにトランプ対応するのが安倍外交の本領発揮になり、「日本はアメリカと100%同じ」は早いところ撤回してもらわねばなりません。

    黒ユリ様
    保守のなかの「批判を許さない空気」や「全体主義」に最も果敢に逆らっているのが池田様であり、この日録であると思います。一方でもっと悪質な全体主義は左翼勢力にあり、安倍倒閣一色の世の中です。危機の本質はものを考えない両翼の全体主義と思っていますが、左翼が中国とむすび、右翼が米国とむすび日本を売り渡す亡国の兆しが心配です。

  10. ;

    勇馬さんの言は、本当によく理解出来る!

    RT>> ; 左翼が中国とむすび、右翼が米国とむすび日本を売り渡す亡国の兆しが心配です。

    ;

    ペルシア戦争で、圧倒的に人数で不利なギリシャは、陸軍を狭い道で、海軍を狭い海峡で食い止めようとします。

    *

    日本には地の利が或る。

    売国を企てる者は他所へ行くと良い、その行動で真偽が解る。

    残存勢力で死守スベシ。

    *

    18/04/03

    05:55

    子路

  11. 池田 様

    仰る通り、安倍首相は、本気でアグネスのファンのようですね。(こちらの知ったこっちゃありませんが)。ただ二人とも、自分が「反日」と自覚しているかどうかは怪しいと思います(自覚していれば、まだよい)。

     「多文化共生や国際化」を未だに金科玉条のように崇めている、日本のあらゆる方面の影響からか、在日外国人やハーフ、バイリンガルなどがもてはやされ、該当するテレビタレントなどは、「普通の日本人」より一段上に立ったように、また時代の先兵のように振る舞って来ました。彼らは、外国を知っている、また外国語ができるというだけで、本当の日本を知らないくせに、「普通の日本人」よりも見識があると見なされ、くだらないTV番組でくだらない意見を、また日本に居ながら日本をバカに出来るという最大の我儘を、欲しいままにしてきました。
     しかもこうした傾向は、私の中学高校時代(昭和40年代あたり)のTV番組から既にありました。つまり何でも「日本はダメで、外国がよい」という風潮です。それもこれも池田様が書かれたように、「日本国憲法」の文言に象徴される、「戦前はすべてダメ、戦後はすべてよし」とする風潮と符合するものです。
    こんな我儘が大っぴらに許されれば、普通の能力しかない人間であればあるほど、「自分が偉くなった」と勘違いするのは当然の事でしょう。
     
     こうした「勘違い」人間の一つのタイプがアグネスであり、池田様が引用された大江健三郎でもある、と私は思います。ところが一筋縄ではいかないのが、池田様が仰る通り、安倍首相のタイプです。

     前も書きましたが、安倍首相は若い頃からの持病で大変な苦労をしているし、以前は「教科書問題」にも熱心だったと聞いています。今も一応「拉致問題」を重視していると言っているし、外交における実績もあると多くの論者が言っています。私は、雑誌やネットなどで活躍している、こうした評論家たちや研究者たちの意見を見聞きしているだけなので、こうした聞きかじりの情報の中でしか判断できません。
     
     でもこうした比較的よいイメージがあるにも拘らず、安倍首相を信頼しきれないのは、教科書にも関心を持ち、拉致問題の解決に尽力してきたはずなのに、例のあの七十年談話があるからです。
    「・・・満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした『新しい国際秩序』への『挑戦者』となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。・・・」
    これで「つくる会」に賛同してきた多くの人々の支持を、一挙に失った訳です。

     この談話は、何とかよいイメージで持ちこたえていた安倍首相が、西尾先生の仰るように、「立て板に水」のようによどみなく出てくるその「無用なおしゃべり」によって、戦後レジームからの脱却と言っていた人(安倍首相)は、本当は何も分かっていなかったのではないか」「この人(安倍首相)は偽物ではないか」との多くの人々の疑念を、確定させてしまったのです。

     私は、安倍首相は政治家としてはともかく、思想的には平均的な知性しか持っていないのではないかと思います。安倍首相だけではありません。首相の周辺の「相当しっかりしている」と思われている保守の政治家たちも、首相以上の知性を持っているかどうか怪しい、と私は思っています。

     いや、団塊の世代より若くて、より欠点は少ないのではないか、と一般に思われている安倍首相や私と同世代以下の人間は、思う程、頼りにはならないのです。
    この場で自画自賛するようで、気が引けるのですが、私自身、中学高校時代から感じていた学校教育に対する様々な疑問を、多少の犠牲を覚悟しても、真正面から見据える決心をしなかったら、そして幸運にも20歳そこそこで偶然出会った西尾先生の著作によって、自分の試みが鼓舞されなかったら、今の自分はなかったと思っています。それ以来、私にとって西尾先生の著作こそが「教科書」となり、高校時代までに受けてきた教育は、単なる「捨て石」となりました。

     西尾先生は、過去の著作で、本を読むということは、その影響力によっては、その人の人生を変えてしまう程、恐ろしいものだ、というような事を書かれたと思います。しかし読書に限らず、こうした経験を経なかったなら、人は本当に「自分が自分になる」ことはできないのではないでしょうか。

     阿由葉さんが今回選ばれた言葉の中にもありますが、つまり「思想は行動であり、生き方である」との西尾先生の考え方は、政治家にこそ本当に理解されるべき内容です。
     
    池田様が「日本人の意志や、日本人の認める価値は悪であり、『国際』と『普遍』こそが尊いのです。安倍さんには、この教えが骨の髄まで沁み込んでいると思います。」と書かれたのは、全くその通りだと思います。
    つまり安倍首相が何となく頼りなく見えるのは、日本国の首相でありながら、まるで学生のように「国際」や「普遍」を並べたて、彼が発する言葉の数々には、「俺の言葉が日本人全体の意思であり、俺が日本だ」と言った迫力が、まるで感じられないからです。
    言い換えれば、この人は、本当に日本国の首相であるのか、それどころか、本当に安倍晋三という一人の男であるかどうかも疑わしい、と言われても仕方がないのではないでしょうか。

     と、ここまで偉そうな事を書いてきましたが、こうした厳しい批判を安倍首相にだけ投げかけるのは、あまりにも身勝手のような気がしてきました。
     こうして書いているただの主婦である自分も、日々をできるだけ楽をして暮らそうと腐心しているからです。そんな気楽な立場の人間は、最初から最後まで出ずっぱりの主役のように、常に緊張して台詞を自分のモノにして発する努力など必要なく、背景のその他大勢の中の一人として、大教室の学生の気楽さよろしく、合唱していればよいからです。

     とにかく、誰もが西尾先生になれるわけではありません。
    池田様が、西尾先生の最も古くて、しかも理解が深い最初の読者でいらっしゃるなら、自分は、池田様に続く10本指に入るくらいの読者になりたいな、と勝手に思っている私ですが、正直なところ、「この先生の思想に、本当について行ったら、大変な事になる」という意識もありました。

     もし安倍さんが、本当に「戦後レジームから脱却」することの意味を理解し、政治家として、それを試みていたとしたら、今現在、安倍晋三と言う政治家は存在しなかったかもしれません。そして私達の多くは、そんなことは本当は分かっているのではないか?

     今現在、たった一人の政治家らしい政治家である安倍首相も偽物だとしたら・・・という、世にも恐ろしい世界を想像すらしたくないから、頼みの一本綱である安倍首相を手放したくない、これが本音ではないでしょうか?

     それを真っ向から否定しているのが西尾先生です。当然です。これまでの机上の学者たちとは異なり、西洋を勉強するなら、その毒も合わせて飲み干すべきだと主張し、彼らを乗り越えるには、彼らの武器をも自分のものとして、日本的な美徳をもひとまず脇に置け、といいます。言いにくいこともあえて言葉にし、互いに言いたいことを言い合う勇気を持つべきだ、と仰います。
     話は簡単です。政治家たちが西尾先生の仰る勇気を持ちさえすれば、どんな暴言が飛び交おうが、その中から本物の言論が生まれ、その結果本物の政治家も見えてくるはずだからです。

     政治家のみならず、我々庶民のあらゆるうっぷんも、安倍首相がどうのこうの、ではなく、言いたいことが言えないという現実にあるのではないでしょうか。
     
     またダラダラと書いてしまいました。支離滅裂になったかもしれません。
    池田様のご要望のお答えになったかどうか分かりませんが、最後まで読んでくださってありがとうございました。
      

  12. 勇馬 樣

    黒ユリ樣へのお言葉ですが、「保守のなかの『批判を許さない空気』や『全体主義』に最も果敢に逆らっているのが池田様であり、この日録」との仰せ、痛み入りました。

    Bruxellesさんからの最終メール(平成28年6月8日)の、別の一部分をコピペします(前囘分と併せて全體の7割くらゐです)。

    「すっかり弱ってしまいました。
    まだお返事もできない状態です。

    立ち直れるのかどうかもわかりません。
    ・・・
    あのひととしては、日録デビュー(実は前から何回か
    コメントしています)で歓迎された勢いで
    ・・・
    Tel Quelや日録を見て、10年位に
    左翼から転向した人です。
    50年60年の本質的な保守では無いのです。
    ・・・
    保守の
    感情としての総論は書ける人ですが
    歴史テーマを見つける着眼:検証が全く出来ないのが
    欠点だと思います。歴史よりも政治に関与していきたいのでしょう。
    多分夢は保守を自分が統合して、大きな保守連合を作って・・・

    安倍の正体に関して、耳を傾けてくださったのは
    ○○様、お一人なのです。
    保守はみんな安倍支持でしたからね。
    酷い目にあいましたよ。

    ところでコメント大変興味深かったです。
    このさきますます論壇誌は売れたモン勝ち、
    手段を選ばぬほど傲慢になっていくのでしょうね。

    そうそう死後出版のことを書いていますが
    あれは36,7年前に書いたもので
    今何かを書き残すことは、もう一切不可能になってしまいました。」

    この年の6月5日に、坦々塾の在京有志10數名が「西尾先生を囲んで青葉を愛でる会」を杉竝區の公園で行ひました。
    そこでの雜談の一つとして、西尾先生は、”Will”の分裂と”HANADA”のことをお話しになりました。それに對して私が「二つになつても、どちらでも、安倍批判はできないのでせう」と申上げたら、先生は苦笑しながらうなづかれました。

    そのことを、私は Tel Quelに投稿しました。「安倍批判」はBruxellesさんの大きな關心事だと思つたからです。女史が”コメント”とおつしやつてゐるのは、そのことです。「まだお返事もできない」とは、ブログの中で、あるじとして、私のコメ ントに對應してゐないといふ意味でせう。

    一方、同じ「愛でる會」での、全く別の話題について、伊藤悠可さんが6月28日の本欄に「青葉を観ながら考えさせられたこと」と題して寄稿されました(ゲストエッセイ)。
    サミットの場所を伊勢にしたことを悠可さんは、情理を盡して論じた上、非とされました。

    「日本文化の中心であり、魂のふるさとであり、最も尊い聖地。安倍という人のこだわりそうなことである」
    「動機が子供じみていて深慮に欠けているとも感じられ、少しいやなのである。自分は伝統を最も重んじる政治家だ、伝統の最上といえば伊勢だ、神宮のすばらしさをトップリーダーの眼にやきつけてもらう。言い換えれば図式化された感動づくりなのだ。安倍晋三にはそういうところがある。日本イデオロギーというべきか」
    「サミットはなかば格闘技である。私が反対なのは、神宮が貴いというなら神宮を使うな、という意味なのである。政治の土俵は神宮の対極にあるのではないだろうか。伊勢は遺跡でないし、廟でもないし、施設でもない」

    私は、この穩かな言葉の連なりを、安倍さんの薄つぺらさ、安つぽさを見拔いて言ひ盡してゐると感服し、 完全に説得されました(それまでは、伊勢について、いいとも惡いとも考へませんでした)。

    6月30日の本欄に勇馬樣のコメントが載りました。私の念裡には上記のBruxelles情報があつたので、警戒的に對しました。特に、「左翼から転向した人」 には、經驗上、信用できないことが多い。ところが、讀んでみると、

    「桜の春は花冷えで嵐も多く、紅葉の秋は侘しさが募りますので、日本の四季でベストのシーズンは将に今、心安らぐ、紫陽花や凌霄花の美しく、梔子の匂う涼しい梅雨の晴れ間ではないかと長い外国暮らしから帰国した後に感じた」
    「心ある方々の心知ったる行楽は私の好きな菅茶山の詩、『老来佳節幾歓場』の一齣だったのではないかと推察します」
    「そのときに会話で微妙な論点の差異が見つかりその違いをぶつけあって楽しむ心も知的で奥ゆかしいと思いました」
    「もし、安倍首相が各国首脳に神道の作法を守った参拝に従わせることに成功していたなら、外交的評価を与えることが出来ましたが、新聞報道によれば要請さえせず勝手な訪問作法に任せた、つまり参拝ではなかった。これは安倍首相が神社参拝の何たるかを知らなかった、または知っていながら政治的に妥協したのでしょう。オバマの謝罪なき広島訪問と同じ図式です」
    「歴史的評価は、・・・『大事なものはそっとしておくもの、・・・伊勢は遺跡でないし、廟でもないし、施設でもない。』に尽きると思います」

    と、ちやんと分つてゐるではありませんか。しかも悠可さんの文章の襞にまで觸れた見事な鑑賞は、私などの足許にも及ばないところで、感じ入りました。
    更に、安倍さんを「変節漢、破廉恥漢に他なりませんが、寧ろ始めから彼の『脱脚』の意味が我々の用語と違い、『米国追随の基本前提に立った脱却」の意味だった」とこき下ろした上に、保守派の人たちの、安倍さんに對する「未だ期待するお気持ち」を分析してみせてくれてゐます。
    轉向者といつても、勇馬さんは別だ。信頼できる。敬意をおぼえました。

    しかしその後、遺憾ながら、Bruxelles情報を思ひ出さざるを得ないことが何度かありました。一々は觸れませんが、「左翼の御出身ではありませんか?」と質問したこともありましたね。
    左翼のイメージは一言では言へませんが、私の若い頃、周圍をうめ盡した左翼の性癖の一つは、戰術至上主義でした。己が主義に忠たらんとし、 その目指す地點に效率的に到達しようとすれば、色々なルート、手段があるのは、左翼に限らない筈ですが、その點の研究に最も熱心で、手段を選ばない傾向が左翼に見られました。

    勇馬樣が戰術を重視し、實に多用な策をお考へになる(そのこと自體は決して惡いことではありません。私のやうな無策こそ困つたものです)ことに感心すると同時に、そこに嘗ての左翼の香が漂つてゐるやうにも感じました。

    「時世や権力に迎合する必要のない草莽です」との勇馬樣の仰せ。” 草莽”は
    ともかくとして、お言葉どほりに事實と信じます。しかし、これだけでは十分ではありません。「迎合」はせずとも、愛國者として、國の爲とあれば、諸般の状況に應じて、色々な取引きをなさるでせう。その結果が、 安倍さんを、 時により「變節漢、破廉恥漢」!と罵つたり、「安倍を貶めてはならない」と宣うたりーーといふことになるのでせう。

    いづれも、その時々に、國の爲にベストと考へての御發言でせう。私のやうに、そこまで愛國に徹しきれない者は、 かくも正反對のお言葉に接するとドギマギしますが、勇馬樣の意圖されたとほり、國の爲になつたのかもしれません。ただ、よしあしは別にして、昔の左翼はかうだつたと、私にはある意味で懷しかつたことは事實です。
    いはゆる左翼の人々と論爭した經驗は僅かですが、昨日の言と今日の言が全く違ふのは、當たり前のことでした。しかし基本の信念は不動と彼等は思つてゐるやうでした。

    先に、黒ユリ樣への御返事で資質といふ語を使ひましたが、氣質といつた方
    が近いかもしれません。左翼氣質といつたものを常に感じましたが、これは
    順序が逆で、ある氣質の人たちが、あの時代、左翼になる傾向が強かつた
    と言ふべきかもしれません。
    「左翼・戰後」について、自身のイメージーーを言葉にすることはむつかしいのでーーに最も近いことを語つてくれてゐると思はれる文章を以下に、コメント拔きで引用して終りにします(漢字の字體は原文のまま)。
    題は「雙面神脱退の記」。掲載誌は『新潮(昭和37年4月號)』。筆者は西尾幹二・26歳。(全集第3卷所收)
    私はスキーの歸りに、田口といふ國鐵の驛(今の妙高高原驛?)の近くの書
    店で、列車の中で讀まうと『新潮』を買ひましたが、偶々この見開き2ページの短文に惹きつけられて昂奮、家に歸つても寐ずに、一晩相對しました。勿論、筆者の名前は初めてでした。爾來56年、あの記憶は消えません。

    「この雜誌に私は二年間參加した。 今年の一月に脱退した。 脱退にいたる經
    緯ならびに文學上の所信をここに書くように言われて、 私がまず思い出したことは、『われらと戰後派というこの試みを行うことが決定した當時の記憶である。同人の一人が、 この中では戰後派をたとえ批判しても本質においては否定せず、批判したあとでも『大きく救う』ことを忘れないようにしようと提言し・・・」

    「私は戰後全體に對してなにも特別なふくみを持っているわけではない。ただ、そのなかには好きな作家もいれば嫌いな作家もいるという、讀者としてのしごく 當り前な常識が私に抵抗感を感じさせたのであり、外から一樣に規定されては書きたいものも書けなくなるし、 ことに嫌いな作家を論じるときに、『大きく救う』などというばかげたことが出來るものか、と單純に不滿だつた。單純な常識というものが失われかけた場には、必ずといっていいほど、不健全な考えがはびこるものである」

    「各人各樣の意見が出てくるのは避けがたいのであるから、戰後派の一人を
    根本的に否定する批評がかりに出てきても不思議はないはずである」

    「要するに、『雙面神』が文學の雜誌であつて政黨のパンフレットでないのなら、このような常識は當然通用するはずである」

    「黨派心旺盛な狂信家が二、三名いるため、タブーが生れ、それが次第に支
    配的になり、同人の口を縛り始め・・・戰後派を否定しては絶對にいけない、というように豫め文壇を黒白に二分する地圖を作っておくような態度が露骨に現れてきて、それを文學への誠實ととりちがえている點が、日本の傳統的な左翼の流儀を、ーー政策論をつねに文學論にすりかえるあの因襲的な遣口を私に思い出させた」

    「私はつねづね堀田善衞氏の文明觀・歴史觀に疑問を持っていた。私自身の
    立場、文化や歴史に對する私の考え方を成り立たせるためには、堀田氏の思
    想を根本から退けなくてはならない。逆に堀田氏が自己の信念を讓らないなら、私の立場をおそらく斷じて認めるようなことはないだろう。それでいいはずである」

    「かの狂信の徒の一人から電話がかかってきて・・・實は他の雜誌に依頼して活字にだけはしてもらうつもりだから、『雙面神』からはおりてもらえないか、と頼んできた。私は斷った。理由は活字にすることが目的ではなく、こうしたことが問題になること自體が私には不愉快だという單純な事情による。彼の言い分によると、堀田氏を否定すると野間氏や武田氏をも怒らせることになり、同人全體がそれだけ文壇に出にくくなってみんなに『迷惑がかかる』というのである。これはどうみても文學的信念ではなくて取引の原理であり、作家の生き方ではなくて處世術であり、世渡りの方法に過ぎない。私はおかしくて仕方がなかった」

    「一帶いつ頃から文學者の心のなかで、このような處世術が神の役割を果し
    だしたかというテーマの方に私はいま興味を覺えている」

  13. 池田様
    染井吉野、山桜、八重桜と、近隣の花見遊山と雑事に明け暮れているうちに舞台が移ってしまいましたが、1年前の池田様の「Will4月号」ゲストエッセーを読み返し、遅れ馳せながら回答いたします。話題が、安倍さん始め「非日本人的新人類」の増殖と関わり、日本を取り戻すための「総合的処方箋」という1年前と同じ課題が未解決です。

    1.私なりの結論を先に述べますと、安倍さんの歴史観を支配するのがWGIP、そうさせるのは安倍さんの弱い個人的資質。これは安倍さんだけでなく、非日本人的新人類たる左翼も保守も、有権者も議員も同じ。私が前のコメントで言った「漢(おとこ)」は簡単に言えば武士道の倫理感覚を共有する者で、ブリュッセル女史や池田様の西尾先生シンパの方々。武士道を戦後世代は教えられず、喪った上、民族の単位でアメリカにWGIPなり憲法なりを叩き込まれたので最早救いようがない。日本人全体の曲がってしまった根性(民族精神)を叩き直さないかぎり日本は救われない。と私は思います。加えて日本人特有の島国根性と軽薄さが日本社会の批判を許さぬ空気を常に作り出す。何でも「精神論」で片付けられるものではありませんが、これが真相ではないでしょうか。

    2、池田様の私への懸念か疑念は、端的に言えば、「転向したとはいえ、おのれの信念や主義にためには手段を択ばず、変節と迎合を恥とも思わず、信用できない左翼の体質を残しているため、安部さんへの矛盾した言葉につながる」ということでしょうか。私自身の事はこの日録ではどうでもいいのですが、「保守の真贋」にも卑見を一部引用して戴いており、今後もこの日録へコメントする際に勇馬が信用できない者とされてはまずいのと、我々の主敵である「左翼」をどう認識すべきかは重要ですので、釈明する必要を感じます。
    池田様は若輩を暖かく庇い乍らも、逃げ道さえ用意されつつ言葉を選びながら、要するに「お前の言説は矛盾し節操がない」「左翼のようにご都合主義だ」と評されているようです。この点で女史の捉え方と共通するものがあります。

    そこで、折角用意された助け船に乗りますが、愛國者として、御國の爲に状況に應じて、安倍さんを「變節漢、破廉恥漢」と罵ることも、「安倍を貶めてはならない」と牽制することもありました。政局が外交で逼迫していないときの内政問題では罵ることはあっても、北の情勢が大きく動こうとするときに、国会で窮地に陥っている安倍さんへの批判は控えて外交を支えるべきではないか、と。

    3.私ごときの過去のコメントまで覚えていてくださり引用までして戴き恐縮ですが、ここで私事に触れても読者の大方は興味がないでしょう。ただこの日録が重視し唯一リンクするTel Quelのブリュッセル女史との絡みで続ける価値はあると思いますので続けます。ブリェセル女史の最晩年のメールを知って改めて胸が痛むと同時に私への曲解に複雑な思いです。

    女史に、“歴史テーマを見つける着眼:検証が全く出来ない”と酷評されていますが、少しは出来たが故にTel Quelを評価し、尊重し、コメントを続けました。そして歴史テーマが現代政治を論ずる上で必須という視点も彼女と同じで、その側面から共感し合いましたが、実践をどうするかで立場が分かれ、私への非難に繋がったと思います。

    勇馬を「左翼出身」と女史が勘違いしたのは、想像ですが、①彼女の最初のフィアンセが左翼の多い私の出身高校の後輩だった、②私が嘗て彼女に「左翼に統一戦線があるなら、保守も小異を捨てて大同につく救国統一戦線を作ってはどうか」と提案したことがあったからでしょう。または、③私自身が左翼の巣窟の大学で憲法を専攻し芦部教授に影響されていたことを知ったからかもしれません。

    4.池田様は左翼的イメージを、ご自分で言葉にするのが難しい、として西尾先生の新潮論文を引用されました。
    戦後文壇のなかの『批判を許さない空気』や『全体主義』を若き日の西尾先生が批判したのと同じ現象が今論壇でも起きており、引用された新潮論文の「戦後派を安部派に」、「文壇を論壇に」と読み替えよ、と仰っているのでしょう。見当違いであればお許しください。先生は島国根性に無縁だったが戦後文壇は抱えていた、先生は武士道を弁えていたが、戦後文壇は喪っていた。

    「黨派心旺盛な狂信家が二、三名いるため、タブーが生れ、それが次第に支配的になり、同人の口を縛り始め・・・戰後派を否定しては絶對にいけない、というように豫め文壇を黒白に二分する地圖を作っておくような態度が露骨に現れてきて、それを文學への誠實ととりちがえている點が、日本の傳統的な左翼の流儀を、ーー政策論をつねに文學論にすりかえるあの因襲的な遣口を私に思い出させた」
    読み替えを続けると、池田様は、「私はつねづね安倍氏の歴史觀や思想に疑問を持っていた。私自身の立場、文化や歴史に對する私の考え方を成り立たせるためには、安倍氏の思想を根本から退けなくてはならない。逆に安倍氏が自己の信念を讓らないなら、私の立場をおそらく斷じて認めるようなことはないだろう。それでいいはずである」ということになるのでしょう。

    文学の世界では「それでいい」となっても、政治や外交の世界では、御国のためにそれでよくはならず、正しい、WGIPから脱却した歴史観に基づく政策を立てて遂行して貰わなければ国が衰退し、滅亡する、と池田様はお考えとお見受けします。

    「安倍氏を否定すると保守の主流殆どをも怒らせることになり、同人みんなに『迷惑がかかる』というのである。これはどうみても政治的信念ではなくて取引の原理であり、言論人や思想家の生き方ではなくて處世術であり、世渡りの方法に過ぎない。私はおかしくて仕方がなかった」

    私もこのような連中がおかしくてなりません。このような連中は私の周辺にも存在しましたし、「つくる会」にも居たのでしょう。自分の処世のために自分だけそのように世渡りをすればいいのですが、往々にして、他人まで同じ色に塗りつぶそうとします。

    変節漢である安倍さんを変節漢と非難する者は保守ではなく、左翼の仲間と見做すのがニセ保守。ホンモノの保守は安倍批判をせざるを得ぬ。信用できない安倍さんを見抜けない者はホンモノの保守ではない、これも今の私の結論です。

    5、左翼気質(かたぎ)を、「主義のためには手段を選ばない」、「戦術至上主義」とするなら、そにからは遠いと自分では思っています。マルクス主義や共産党の戦術に加わったことも、党派に属したことも1度もないノンポリで、影響をまともに受けたのは、高校時代は林房雄の大東亜戦争肯定論、大学では三島由紀夫の文化防衛論でした。一時、皇室制度は憲法の平等原則、主権在民に反するという考えに転向したことはありましたが、日本の歴史、伝統、文化を学び直して再び転向しました。戦術は手段として必要と考えますが、それが目的となってはならないという常識は終始一貫弁えているつもりです。

    日本に帰ってから、保守言論を読み漁ると同時に、御国の為に至上の措置、最善の手段方法は何かを考えてきました。結局本格的には未着手ですが、池田様のおだてもあって、ネットをうまく使って左派を論理的に折伏する、保守勢力を合同させ日本版FNを作るとかを構想しましたが、故中村燦氏が語ったように「日本の保守はお山の大将、唯我独尊が多く」、しかも最近はオトコ(義侠)が少ないので無理、しかもこの提案は私がまだ深刻な贋保守の本質を知らない時のことでした。左翼への対抗上、安倍政権には批判的消極的支持をせざるを得ないと考えましたが、御説を読み返して、批判的であれ消極的であれ安倍政権を支持してはならず、安倍さんは貶め続けなければならないと考えるようになりました。何となれば安倍さんは歴史観が左翼だからです。

    そして安倍さんたちニセの保守を糾弾しつづけ、本当の保守こそが日本を変革し本来の日本に戻す勢力であることを訴えなければならないと思います。
     
    具体的方法ですが、メデイアが左翼とニセ保守に抑えられた現状では手段はネット、目標は自民党の右に実力ある政党を作る。これ以外に現在の閉塞した状況を打開して本来の日本を取り戻す具体的方法はないと思います。それ以外にどんな方法があるのでしょう。楽秋庵様と同様、私も会社経営のサラリーマン出身ですので、現実的にどのようにすれば日本を正常化できるかその手段方法を模索せざるを得ません。

    これは今でも変わりません。安倍さんを支持する保守も、批判する保守も、西尾先生の言葉を借りれば「日本を尊重する姿勢」は共通します。反日に対しては連合出来る。否、連合し連帯しないとやられる。しかし安倍さんとその一派が保守の面を被った反日、自覚のないWGIPの申し子であれば不可能です。池田様やブリュッセル女史はそう考えたのでしょう。

    しかし、ここで又しかしですが、本当に彼らは反日分子でしょうか?自分で自分を騙している無自覚の反日であれば、教えることで変えられます。「大東亜戦争の高弟」と「謝罪の撤回」と「日本の戦争問題の終局的決着宣言」の3つが揃って初めて日本は立ち直れることを逆洗脳することは可能です。自民党の議員たちは、嘗て中村燦氏のNHK批判、いまは石井望准教授の尖閣の歴史を謙虚に学んでいます。安倍さんも骨の髄からWGIPですが、転向させることは不可能ではない気がします。ブリュッセル女史の言ったように「安倍さんの間違いを指摘して勇気づける」こともあり得るでしょう。

    福田恒存の言った「時の風向きでどうにでも右顧左眄し、無節操なムード的保守」でも結構ではないですか。保守がアクセッサリーに過ぎなくても、節操がなくとも今少なくもアンチ反日勢力であれば、その左翼性を非難追及しながらも、保守の大御所が愛国の救国統一保守戦線を呼びかけ勢力を結集することを図ることができるのではないでしょうか。女史が、“(勇馬は)歴史よりも政治に関与していきたいのでしょう。多分夢は保守を自分が統合して、大きな保守連合”と云ったのは、“自分が”という所以外は当たっています。田母神氏なり若手なり、誰か有力な者の参謀程度の役は果たしたいと思っています。

    7.最後に憲法9条問題が上記にからみますので付け加えます。一応保守論客と認められ著書も出版している小川栄太郎氏の昨年のFBは以下の通りでしたが、この方にも健全な批判精神の不足のみならず理論的思考力の欠如が感じられます。安倍支持派の代表的思考に思えます。

    “(途中一部省略)安倍総理の憲法9条3項加憲論に失望してゐる人達が多いので驚いてゐる。総理が9条改正を明言した事が画期的なんです。(中略)ただし!!3項加憲は非合理なのだから、2項改正をきちんと輿論にすべきだと私は考へる。その為にここから努力するのは自民党保守派や民間の我々の力。総理が9条に踏み込んだ事を評価しつつ、私は、3項加憲ではなく、2項改正を主張し続け、その方向に輿論を説得する努力をします。それが言論の力といふものではないのか?なんでも安倍総理を論評するといふよりも、ぶれない軸を持ちながら実現を見据える言論人が増える事も大切な事なのです。”

    安倍さんの3項加憲を非合理と言いながら称揚するという根本的矛盾に気付かない愚鈍に加えて、その後の自民党案の決定(3項加憲)に対する態度が不明です。自民の最終案決定後の発言がありませんので、結局支持にまわったのでしょう。こうした保守の見え透いた矛盾や欠陥を追及することで日本の論壇が正常化していくと思います。西部氏が生きていれば西尾先生と並んでその有力な一員となったのではないかと思います。

  14. 勇馬 様
    失禮なことを申し、すみませんでした。絶交宣告されるのではと
    心配しましたが、「今後もこの日録へコメントする際に勇馬が信
    用できない者とされてはまずい」とのお言葉に、申し譯ないなが
    らも安心しました。私が決めることではありませんが、從前どほ
    りコメントをお寄せになることを希望します。

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