伊藤悠可
御全集刊行の記念講演会(第五回)を1月19日に了えられてから、西尾幹二先生はことさら誰かにお膳立てを指示されたというわけでもなく、「熱い温泉にでも浸かりたい」と洩らされたそうだ。それを聞いていたのが、このところ坦々塾の会合、講演会等の世話役を買って出てくださっている中村敏幸さんである。
中村さんは群馬県の渋川在住。山と温泉はいくら選んでも品切れにならないほどまわりにある。思い立ったら吉日で、先生は「今すぐ行きたい」と仰言る。無計画に近い旅の計画をすばやく立ててエスコートするのもまた、中村さんは得意である。道連れは何人にするかなどと悩むのはやめて、旅は一泊、「今すぐ」に応じられる人を募って締め切ろう、ということになりプランは固まった。
先生も旅人である。草津の湯は軽井沢に行き来するとき幾度も体験された、伊香保は今さほど魅力を感じない、赤城・水上はさらに物足りない。こうして候補を削ぎ落して最後に残ったのが四万温泉だった。四万温泉郷は県西北端に位置する湯治場。元禄時代、近隣の大名から農閑期に疲れを癒したお百姓まで、湯煙の途絶えぬ里のにぎわいが絵図に描かれている。伝承としては蝦夷征伐の坂上田村麻呂が登場する場所だから、古さという点ではもう説明は要らない。無論、お湯は上質である。
「なら、四万にしましょうか」と中村さんが電話で推奨すると、先生は「一度行きたかったところなんだ」と感慨深げに話されたそうだ。われわれはその理由を旅先で初めて聞いたのだが、なるほど西尾先生が必ず訪ねなくてはならない場所だったのである。後述する。
ちなみに、最近のバス旅行の便利さには驚かされる。八重洲でも丸の内でも豊富に遠距離バスの停留所があって、四方八方の観光地に向けて直行便が出ている。四万温泉へは東京駅八重洲中央口近くから『四万温泉号』に乗れば旅館の前まで連れていってくれるのだ。
2月15日朝、先生のお伴をすることになったのは小川正光さん、松山久幸さん、小川揚司さん、そして私であった。中村さんはバス到着時刻に合わせて車をとばし旅館の玄関で迎えてくれるという段取りだった。参加予定者に都合がつかず断念された方もあり、結局6人と小グループで出発した。
この日、あいにく関東一円には雨雲が下りてきていた。青空と四万川の清流をながめるはずだったのに残念だと思った。「小川揚司さんは酒さえあれば景色などあってもなくても同じだろうが、私はそうじゃない」と無言でつぶやいていると、前の座席で威勢よく缶ビールの栓を開ける音がした。先生の隣の小川さんだった。
天気に落胆することはなかった。低気圧が別の趣向をこらしてくれたのである。関越自動車道・渋川ICを降りて四万街道(国道353号線)に入ると、雨が霙となり霙がやがて雪になった。役場のある中之条町の中心を抜ける頃は、降りつもる細かな雪で山間の景色が白と黒とに分けられていた。真綿をかぶせたようにみえるが、遠い山裾の家は形からして古い茅葺なのだろう。渓谷の川面だけが深い暗がりを保ちコントラストが美しい。「まるで雪舟だね」と前の席から先生の声が聞こえた。
われわれの宿は四万温泉口を入ったばかりの大きなY旅館である。女将もテレビで有名だそうでロビー売店のポスターの顔には見覚えがあった。名を知られて却ってサービスが荒れるところもあるが、ここは何かと行き届いて親切だった。最上階の7階二部屋に陣取ると、夜中であろうと朝であろうと、四つほどある露天・屋内風呂のすべてを制覇しようと話し合った。窓の向こうには急勾配の白い山肌が迫っていて、見下ろすと青く澄んだ清流が音を立てていた。この辺り、中村さんによると熊や猪の姿は茶飯事だという。小さな滝が櫛のように氷柱をぶらさげていた。
全員で川縁の露天風呂に繰り出した。雪を見て、せせらぎを聴いて、ゆったりと体を湯に浸すだけだ。とりとめもなく天下国家の話から大小公私の浮世話をしていると、「おおっ西尾先生、お元気で少しも変わりませんね」と湯船で親しく声をかけてくる年輩があった。先生の知己ではない。向こうが一方的に知己なのである。が、考えてみると、先生なら何処へ行ってもこういう方に出くわすことがあるだろう。ご年輩は自己紹介をはじめると、先生も親しく応じて、のぼせるのではないかと思うほど話に花を咲かせていた。
夕げは旨かった。ビールも酒も肴もみんな旨かった。他のテーブルの客はさっさと部屋に帰り、先生を囲んだわれわれのテーブルだけが延長戦をやっていた。部屋に戻ると、今度は宴の第二ラウンドをはじめた。卓袱台につまみが並べられ、またビールからはじめて焼酎や日本酒も飲んだ、と思う。思うというのは半分の記憶だからである。この夜、よく笑ったがよく叱られたような気もする。
翌日、『積善館(せきぜんかん)』を訪ねた。旅館から徒歩十分ほど上流のほとりに立っている四万最古の旅籠である。易経に「積善の家に余慶あり」とある。当主の祖先はもと源氏に仕えた武士。下関から関東に移り、何代かを経てこの四万の地に分家したのが初代「関善兵衛」で、関が原の戦と時代は重なる。以来、子孫の当主は代々この名を襲名し、明治になって15代関善兵衛が自分の名と〈積善〉をかけて宿を『積善館』にしたという。
本館玄関部分は元禄4年に建てられたもので県重要文化財。江戸の典型的な二階建て湯治宿の面影を残している。大正ロマネスク様式の大浴場「元禄の湯」(昭和5年建築)などは道後温泉と同様、記念に入浴したいと思わせる風情がある。後藤新平、中村不折、佐藤紅緑、徳富蘇峰、柳原白蓮、榎本健一、岸信介…とここを訪れた文人墨客を数えればきりがなくなる。近いところでは人気アニメ、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の湯屋の舞台が積善館である。
けれど、先生がぜひ積善館を訪ねたいと仰言ったのは、伝統があって著名人が喜んだ歴史的名所だからというような話ではない。先生の父君と母君が初めて出逢った場所がこの積善館だったのである。ご両親から聞いていた先生の記憶によると、昭和初年頃、銀行員でいらした父君は慰安旅行で遠路遥々、四万を訪れたそうだ。一方、母君はその頃、結核を患っておられ湯治客として滞在していた。
団体客の一人であるお父さまがどうして治癒目的のお母さまと遭遇したのかというと、これは意外なめぐり合いによる。積善館は裏手の山を上るように宿泊施設が建っている。今はエレベーターで手軽に昇降できるが、昔は長い外階段を巡らせていただけかもしれない。どのような状況にあったのか想像するしかないが、とにかくお母さまが階段で転ばれた。そのとき通り掛かったお父さまが咄嗟にお母さまを受けとめ助けたというのだ。
玄関受付すぐ横の板張の梯子段を昇ると、二階廊下の外は急勾配な崖の下にあたる。そしてその崖には斜め上に石段を刻んでいる。昭和初年と今とでは施設形式の異同はわからない。「転んだのはこの階段ということにしておこう」。先生は懐かしそうに廊下の窓から写真を撮っておられた。慰安旅行がなければ、また病気をしておられなかったなら、西尾幹二はこの世に生まれなかったのである。
昼、蕎麦を食べながら先生はこんな話をなさった。「二人(父母)は四万を訪ねたいと言ってたんだ。きっといつか、と待ってたのかもしれない。結局連れてきてあげられなかった。それを思うと悲しいというより、かわいそうという気持ちになりますね」。この旅の三日前まで、私は郷里に帰り父母のいなくなった家で一人、着物やら日用品やらを片付けていた。私の母にも「連れてってほしい」という場所があった。私は「また今度」と先送りして、とうとうそのままにしてしまった。先生の話に思わず胸が詰まった。
帰りのバスの時間になった。一泊とは思えない長い旅だった感覚で帰途についた。先生、皆さん、お世話になりました。
文章:伊藤悠可
(了)
月別: 2013年2月
全集記念講演会「第四巻 ニーチェ」動画後半
全集記念講演会「第四巻 ニーチェ」動画前半
全集記念講演会「第四巻 ニーチェ」感想文
渡辺望氏による感想文
1月19日、市ヶ谷グランドヒルにておこなわれました西尾先生の全集記念講演会「第四巻 ニーチェ」を拝聴しました者の一人として、講演会の感想を記させていただきたいと思います。
西尾先生はニーチェに関して、実にたくさんの評論、翻訳の仕事を残してこられましたことは周知の通りで、西尾幹二とニーチェの両者のイメージは、戦後日本では水魚のように分かち難く結びついています。だからこそなのでしょうけれど、西尾先生がニーチェを演題にして語られると聞くと、西尾先生とニーチェのかかわりの個人的歴史の整理というものではないか、という先入観を私などはもってしまいがちです。もしかしたら新しい論点はそれほどないのではないか、という下手な先入観です。
しかしその先入観は(幸運にも)まったくの間違いでした。西尾先生が従来展開してこられたニーチェ解釈に、新しいニーチェ解釈が加わり、さらにそれら解釈の現代的意義が加わり、この三者が有機的に連関することで、豊饒かつ新奇な発見に満ちた内容が構成された講演でした。ただ惜しむらくは、三者の結びつきのスピーディーさが、壮大な文明論の入り口に入りかけていたところで講演時間が終えてしまったことでしょう。今回の講演は、完成体ではなく、「入り口」とでもいうべき新しいニーチェ論だったと思います。
たとえば、キリスト教の融通のなさ、対話性のなさということと、現代アメリカの宗教国家性を結びつけていることなどは、実は日本で指摘された方は他にはいないのではないかと感じられるお話でした。ニーチェが生涯格闘したヨーロッパ形而上学が、現代アメリカに再生している可能性を先生は指摘されました。ニーチェを読む精神と「アメリカという国の読み解き」の精神は21世紀に一致するものになってくるかもしれない。ニーチェで理論武装した「アメリカという国の読み解き」というようなものがこれからありうるのかもしれないという「入り口」です。
あるいは、秦郁彦や加藤陽子たち歴史学者が依拠している近代主義的歴史観=「歴史的事実は固有的であり、歴史観は普遍的である」というイデオロギーへの反論は、すでにニーチェにおいて完全になされており、秦や加藤が19世紀の歴史観に閉塞しているという先生の指摘も興味深いものでありました。先生が講演の中途で紹介されたように、ニーチェは仏教をはじめとする東洋的価値観をキリスト教世界に優位するものだと強調していました。
にもかかわらず、キリスト教世界を模範とした近代日本において、ニーチェが一番怒りの対象にしそうな近代主義的歴史学が依然として優位にたっているのは、実に皮肉な現象に他なりません。西尾先生は左翼史観だけでなく、皇国史観も近代主義の一派生と講演内で断じられましたが、ニーチェが現代日本にいても、おそらく同じふうに裁断したことでしょう。ここには、「ニーチェを表層からしか取り入れなかった近代日本」という、これまた大きな文明論の「入り口」がありそうです。
このようにいろいろな「入り口」の発見に出会うことのできた講演会だったわけですが、その発見のいろいろの中で、自分にとって特に新鮮に感じられた話の内容の一つ、提供していただいた「入り口」の一つに「ニーチェとユーモア」ということがありました。ニーチェにおけるユーモアという問題について、今までの私はほとんど無自覚でしたが、西尾先生の講演のおかげで、このことについて少なからず考えることができました。
今回の講演で、西尾先生はたくさんのニーチェの言葉の引用をされましたけれど、たとえばそんな先生の引用の一つに、カントを揶揄する目的でいった、「神はついに物自体になったのだ!」という言葉があり、私は思わず声を出して笑ってしまいました(先生も笑っていました)カントの批判哲学が本当は神とか永遠を否定しうる力をもっていたのに、カントはそれをあえてせずにキリスト教世界に反転して引き返し、そこに引きこもった、そういうある種の哲学喜劇をニーチェは言おうとしている。でも単に論理的に言うのではなくて、ユーモアをこめて書いているのです。ニーチェ自身もこのくだりを書きながら、おそらく笑っていたに違いない。
そこで感じたのですが、自分は哲学書を読んで「笑った」という経験はほとんどない人間です。ところが、ニーチェの哲学書を読んでいると、笑ってしまうことが多々ある。しかもいろんな笑いがある。哄笑、苦笑、微笑、ブラックユーモアなどなど、笑いの種類も豊かです。実はニーチェほど笑い・ユーモアに親しい哲学者は他にいないのではないか。ニーチェ自身も、そのことにきわめて自覚的で、笑い・ユーモアの意義を認めた文章もたいへんに多いのです。
「笑いと智恵とが結ばれるだろう。そしておそらくそのときは<悦ばしい知識>だけが存在することになるだろう」「ツァラトゥストラは予言する。ツァラトゥストラは笑って予言する。我慢できない者ではない。絶対者ではない。縦に横に飛ぶことが大好きな者なのだ」こうしたニーチェの言葉からすると、ニーチェの言うところの超人には、どうも笑いが不可欠なことがわかってくる。笑いやユーモアを定義した哲学者はベルクソンなどはじめたくさんいました。しかし自身の哲学の不可欠の要素として、笑いやユーモアを取り入れた哲学者は、ほとんど稀なのではないでしょうか。
西尾先生も、ニーチェ論『光と断崖』で、『この人を見よ』について、「・・・・この作品で私自身を特別な存在のように語る彼の尊大さが、自己諷刺やアイロニーとうまく手を取り合っていて、読者を爽快な深刻さに心地よく誘う効果を発揮している。ときにはそこに笑いの要素さえないではない」(『西尾幹二全集』第五巻所収)と、ニーチェ哲学のユーモアの存在について指摘しています。晩年の狂気やナチスの思想的利用などによってとかく暗いイメージの漂うニーチェですが、実は少しも暗いものではなく、ユーモアを好みそれを武器にし、好んだだけではなくて、それを生かすことのできるユーモアの天才でもあったのではないか、と思われます。
「ユーモアの天才」という視点で読む楽しみを与えてくれる哲学者がニーチェならば、「ユーモアの凡才」の典型ともいうべき哲学者は、まさにニーチェにユーモラスに批判されたカントでしょう。講演会で西尾先生は、「カントは結局、常識人なのだ」といわれましたが、この場合の「常識人」という言葉の意味は「常識に引きこもる人」という意味だと思われます。普遍的慣習その他の肯定的意味としての「常識」ではなく、世間的現実の妥協ラインとしての「常識」に従う人、ということです。ヴォルテールは「常識は、実はそれほど常識ではないのである」といい両者の常識を区別しましたが、カントの文章世界にはたしかに、時折露骨なほどの、世間的現実、すなわち当時のヨーロッパ世界との妥協をは
かろうとする彼の意図があると私には感じられる。たとえばニーチェには次のようなカント評があります。「カントは物自体を搾取したその罰として、定言命法に忍び込まれ、それを胸に抱きしめてまたもや神、霊魂、自由、さらには不死のもとへと、まるで自分の檻の中へと迷い帰る狐のように、迷い帰っていった。しかも、この檻を破ひらいたのが、ほかならぬ彼の力であり英知であったというのに!」ニーチェはカントによって、ヨーロッパ哲学におけるラディカルな懐疑論が始まっていることを卒直に認めている。にもかかわらず、カントは、再び、キリスト教世界の迷妄な「常識」の数々に、舞い戻ってしまったのです。
狐は狡猾な動物です。カントは自身の哲学の力をもって否定しえたはずの神や霊魂や不死といった概念のもとに、カントという狐は狡猾に舞い戻ってしまった。もしかしたら「迷い帰る」ことさえも、狐の演技かもしれません。このカント評は「神は物自体になったのだ!」という先生の講演会で紹介されたニーチェのカント評と同じ意味であり、同じくユーモアなのでしょう。
カントというと、数々のエピソードから、品行方正な人物をイメージするかもしれませんが、そういうイメージは必ずしも正しいものではありません。カントは哲学論以外に、膨大な数の社会批評めいた文章を残しており、それらを読むと相当に意地悪な人で、世間的常識を纏いながら実は、ニーチェにも増して人間観察と悪口の大好きな人だったことがわかります。しかしその表現はどれも直接的過ぎる。ユーモアや笑いという以前に、何か「余裕」というようなものがない。キリスト教社会の世間的常識からの視線を過剰に意識していたカントは、「悪口」とはいつでも反論可能なふうに論理的なものでなければならない、というような思い込みがあったのではないでしょうか。
たとえば女性について、(かなりの女性嫌いだったらしい)カントの悪口がこんなふうに炸裂します。「女性の場合には欲望は無限であり、ふしだらは増しても何物によっても抑制されない」「学問をしたがる女性は口髭をつけた方がいい」これが同じ女性への悪口でも、(やはりかなり女性嫌いだったらしい)ニーチェになるとこうです。「完全な女というものは、自分が愛するときは相手を八つ裂きにするものなのだ。私はそういう狂乱巫女たちを知っている。ああなんという危険な、忍び足で歩く、地下に住む猛獣!それでいて何とまあ好ましい」(『この人をみよ!』)この最後の「何とまあ好ましい!」はカントには決して書けないユーモアでしょう。両者の文章を比較してみて、哲学科でカントを専攻
する学生はいてもドイツ文学科でカントを専攻する学生がほとんどいないのはむべなるかな、と私には感じられます。カントがニーチェより劣っていたとか、文学的表現が哲学に必要だとかということでは全くありません。ただ私が考えるのは、本当に自由な観念を持たないと、ユーモアというものは生まれない、そして自己が属している文明なり宗教への批判的精神というものは生まれない、ことです。たとえば先生は講演会で、カントにはインドでのキリスト教宣教師の傲慢を紹介した文章があるといわれました。カントの博学は驚くべきもので、彼の平和論には江戸日本の鎖国政策や日本の宗教について触れているものさえあります。しかし彼の膨大な博学は、決して斬新な文明論を形成するには至らなかった。なぜかといえば彼は狡猾な狐のように、キリスト教社会の檻で再び生きることの代償として「自由でないこと」を
選んだから、です。自分のキリスト教文明を否定するような所為には、彼はあえて踏み出すことはできなかったのです。だからカントには笑いがない。ユダヤの格言だったと思いますが、「自分を笑うことのできるものは、他人から笑われない」という言葉を私は思い出します。ここにいたると、笑い・ユーモアというのは、自身や自身の文明を批判する自由ということと同義になるともいえましょう。
カントが狡猾に選択した不自由に比べ、ニーチェはヨーロッパ文明そのものを敵にまわすことで、実は完全といっていいほどの自由を手に入れた。彼の完全な自由は、一見するとおそろしい孤独を彼に与えてしまったようにも見えるけれども、しかし、彼の哲学書のいたるところにみられるユーモアをも可能にしたということができるのではないか、と思います。哲学論はともかくとして、文明論という面におけるカントとニーチェのスケールの差は、ユーモアの差、つまり自由の差なのではないでしょうか。
今回の先生の講演会を拝聴しまして、ニーチェという哲学者が、あらためてスケールの大きなテーマに生涯を賭けていたことを再認識しました。それは彼の人生を瓦解させたかもしれないし、21世紀に思想的根拠を与えるものだったかもしれません。しかしその巨大さの証しとして、彼の著作のいたるところにあふれているユーモア、笑いというものに注目してほしい、と私は思いました。先生はニーチェの講演会となりますと、幾度も幾度もニーチェの引用でお笑いになりますが、やはりニーチェのユーモアということの真髄を理解されているのではないかな、と私は想像しております。
文:渡辺望
『WiLL』現代史討論ついに本になる(四)
武田修志さんのご文章
今日ご紹介する文章の書き手 武田修士さんは、前にもここで取り上げたことがあります。私と同じドイツ文学の専攻で、鳥取大学の先生です。
いつもお書き下さるのは名文で、書かれた私はうれしくて、全集の編集担当者についお見せしました。彼も深い感銘を受けたようです。
ご自身の体験に即して書かれていて、しかもどこか無私なところに味わいがあるのです。私は自分のことを書かれているから言うのではなく、武田さんはいつも素直に自分を出していて、しかも必要以上には自分を出さないのです。
彼の手紙はファイルして秘匿しておきたいと思います。それでいて矛盾していて、いろんな人に読ませたいとも思うのです。
また前回の「コメント5」の佐藤生さんのように、「宣伝」といわれるかもしれませんが、いわれてもいいから、お見せしましょう。
新年もすでに今日は六日ですが、西尾先生におかれましては、ご家族ともども、良きお正月をお迎えになったことと、拝察申し上げます。今年もお元気でご健筆をふるわれますよう、心よりお祈り申し上げます。
年末年始に「西尾幹二全集 第二巻」に収められた三島由紀夫関連の御論考を再読いたしました。単行本『三島由紀夫の死と私』は、この本が出版されました平成20年12月に一読していましたが、今回全集が出るに及んで、「文学の宿命」「死から見た三島美学」「不自由への情熱―三島文学の孤独」等の評論と合わせ読むことができ、三島事件について理解を深めることができました。『三島由紀夫の死と私』は、先生の「三島体験」の詳しい報告、という控え目な体裁をとっていますが、三島事件と三島文学を理解する上で、最良の導きの書になっていると思います。これから三島文学を論じたり、三島事件に言及する者は、必ずこの書と先生の三島論考を読まなければならないことになるのであろうと思います。
三島事件が起きた昭和45年(1970年)に、先生はすでに35歳の気鋭の新進批評家であり、私は20歳になったばかりの大学二年生にすぎませんでしたので、体験の質が違い、比較はできませんが、しかしそれにもかかわらず、三島事件から受けられた先生の「衝撃」は、私があの事件から受けた衝撃と非常に似かよったものではなかったかと、正直感じました。
私はちょうどその年、それまで一度も読んだことのなかった三島由紀夫の作品を少しまとめて読んでみようと、「金閣寺」「潮騒」「永すぎた春」「春の雪」と続けて読んでいるところでした。「潮騒」には少し心動かされたような記憶がありますが、先生もお書きになっているように、「三島さんの作品に、感動するものがあまりなかった」――そういう感想を持ちました。マスコミの伝える「楯の会」のパレードといったものにも、さしたる関心を持っていませんでした。
ところが、11月25日のあの事件に遭遇して、私は心から震撼させられたのです。第一報は、午後の第一時間目のドイツ語の先生からでした。「三島由紀夫が割腹自殺したみたいだ」、そういう短い言葉でした。その授業が終わって、独文研究室に立ち寄ってみると、何人か人がいて、三島事件について話をしていました。よく覚えているのは、そのとき、30歳に近い独文助手の左翼の女性が「三島由紀夫は何という馬鹿なことをしたのか」というような批判的なことを言ったとき、私の中に激しい怒りが湧いて、「こいつは何も分かっていない!」と私が腹の中で叫んだことです。そのとき三島事件について私は詳しいことは何も知らなかったはずなのですが、確かに、その女性の発言に憤激したのです。たぶん「文化防衛論」をすでに読んでいて、三島由紀夫が何を主張してその事件を起こしたのか、分かったような気がしたのではないかと思います。
そのまま大学からバスに乗って、市内のバスターミナルへ向かいました。わが家へ帰るためです。そのバスターミナルではすでに「号外」が張り出されていて読むことができました。また、待合室のテレビでは事件の報道を流していました。この事件が何のために引き起こされたのか、そのことについて、自分の予測は的中していました。自宅に帰りついてからも、家族と黙ってテレビを見ました。私は何か大きなショックを受けて、しばらく物も言えなかったように記憶しています。衝撃を受けたのは、三島の主張に私が同感したからでもありますが、何と言っても、自分の信じる政治的主張のために、本当に命を掛ける人間がいるのだ――そのことを目の前で見せつけられたからです。
三島氏がバルコニーで自衛官たちへ呼びかけたときに下品なヤジを飛ばしていた者たちがいましたが、彼らに対して「なんという卑劣」と猛烈に腹が立ちましたが、しかし、もし自分があのバルコニーの下にいてあの演説を聞いていたとしたら、「お前は立ち上がって、三島氏の元へ駆けつけることができたか」と自問すれば、百パーセント「否」でした。そういう決断も勇気も自分にはないということはごまかしようもありませんでした。まだ本当の大人ではありませんでしたから、先生のように「三島さんに存在を問われていると感じ」たということではありませんが、自分の日ごろの生き方が全く口先だけのものだというようなことは感じたのです。
先生は三島氏があの事件を決行するに至った経験や動機を、様々な面から解明しようとしておられて、私にはどれも参考になりましたが、私が第一に説得されたのは、やはり、全集48ページからの「思想と実生活」の考えです。「思想が実生活を動かすのであって、実生活が思想を決定づけるのではない」ということです。三島氏は多面体の天才でしたから、彼があのような行動に出たことについていろんな理屈をつけることができるでしょうが、私には、三島氏の「日本の運命への思い、憂国の情」が決定的な動機であったことは、一点の疑いもないように思われます。
そして、その「日本の運命への思い、憂国の情」は三島氏やそれを取り巻く少数の右よりの人々だけが共感するようなものではなく、実のところは、もっと多くの日本国民の心に眠っていた思いであり、憂国の情であったと考えられます。ここで思い出すのは、野坂昭如という作家が、しばらくのち何かの雑誌に発表したエッセイのことです。そのエッセイの中で、このどちらかと言えば左よりかと思われる人が、「あの事件の日は、日本中があるしんとした思いに心を一つにした」というような意味のことを書いていたのです。昭和24年生まれの私には経験がありませんが、これは先生が書いておられる終戦の日の「沈黙」と同じものではなかったでしょうか。三島由紀夫の決起の呼び掛けは功を奏しませんでしたが、何もかもが無意味だったわけではありません。我々は一瞬にせよ、彼が求めたところへ心を致したのであり、その瞬間の思いを今も忘れてはいないのです。
今回、先生の三島論を拝読して、この作家について教えられることがたいへん多かったのですが、特に印象の残っていることを一つ上げてみますと、三島氏が、縄目の恥辱を受けた総監は、自決する恐れがあると考えて、自首した学生に総監を護衛するように命じたというエピソードです。先生のご指摘通り、「いかに自衛官でもそんなことが決して起こりえないことは、われわれ今日の日本人の一般の生活常識」です。しかし、三島氏がそんなふうに考える人だったということを知って、私には何か感動させられるものがあります。こういうふうに考えることのできる人だったからこそ、自分の「思想」というものを持つことができたのだと、納得のいくものがあるのです。
御論考「不自由への情熱」の中にこういうご指摘があります、「だが、多くのひとびとがこれまで試みてきた美学的解釈も、政治的解釈も、偏愛か反感か、いずれかに左右され過ぎている。この作家の少年期からの孤独な心、外界と調和できず自他を傷づけずにはすまぬ閉ざされた心、そういうものが見落され勝ちである。外見とは相違する裏側には驚くほど正直な、幼児にも似たつらい率直な心が秘められていた。私はそう観察している。」この評言を、三島由紀夫に関してあまりに少ない知識しか持ち合わせていない私は正確に判定できませんが、しかしそれにもかかわらず、直感的にはまさにこの通りであろうと私には思われました。作家三島由紀夫の生の秘密を最もよく見抜いた人こそ西尾先生であると、今回、関連の御論考をまとめて拝読して再認識したことでした。
いつものようにまとまりのない感想になりましたが、今回はこれにて失礼いたします。
お元気で御活躍ください。平成25年1月6日
武田修志
西尾幹二先生