今日ご紹介する文章の書き手 武田修士さんは、前にもここで取り上げたことがあります。私と同じドイツ文学の専攻で、鳥取大学の先生です。
いつもお書き下さるのは名文で、書かれた私はうれしくて、全集の編集担当者についお見せしました。彼も深い感銘を受けたようです。
ご自身の体験に即して書かれていて、しかもどこか無私なところに味わいがあるのです。私は自分のことを書かれているから言うのではなく、武田さんはいつも素直に自分を出していて、しかも必要以上には自分を出さないのです。
彼の手紙はファイルして秘匿しておきたいと思います。それでいて矛盾していて、いろんな人に読ませたいとも思うのです。
また前回の「コメント5」の佐藤生さんのように、「宣伝」といわれるかもしれませんが、いわれてもいいから、お見せしましょう。
新年もすでに今日は六日ですが、西尾先生におかれましては、ご家族ともども、良きお正月をお迎えになったことと、拝察申し上げます。今年もお元気でご健筆をふるわれますよう、心よりお祈り申し上げます。
年末年始に「西尾幹二全集 第二巻」に収められた三島由紀夫関連の御論考を再読いたしました。単行本『三島由紀夫の死と私』は、この本が出版されました平成20年12月に一読していましたが、今回全集が出るに及んで、「文学の宿命」「死から見た三島美学」「不自由への情熱―三島文学の孤独」等の評論と合わせ読むことができ、三島事件について理解を深めることができました。『三島由紀夫の死と私』は、先生の「三島体験」の詳しい報告、という控え目な体裁をとっていますが、三島事件と三島文学を理解する上で、最良の導きの書になっていると思います。これから三島文学を論じたり、三島事件に言及する者は、必ずこの書と先生の三島論考を読まなければならないことになるのであろうと思います。
三島事件が起きた昭和45年(1970年)に、先生はすでに35歳の気鋭の新進批評家であり、私は20歳になったばかりの大学二年生にすぎませんでしたので、体験の質が違い、比較はできませんが、しかしそれにもかかわらず、三島事件から受けられた先生の「衝撃」は、私があの事件から受けた衝撃と非常に似かよったものではなかったかと、正直感じました。
私はちょうどその年、それまで一度も読んだことのなかった三島由紀夫の作品を少しまとめて読んでみようと、「金閣寺」「潮騒」「永すぎた春」「春の雪」と続けて読んでいるところでした。「潮騒」には少し心動かされたような記憶がありますが、先生もお書きになっているように、「三島さんの作品に、感動するものがあまりなかった」――そういう感想を持ちました。マスコミの伝える「楯の会」のパレードといったものにも、さしたる関心を持っていませんでした。
ところが、11月25日のあの事件に遭遇して、私は心から震撼させられたのです。第一報は、午後の第一時間目のドイツ語の先生からでした。「三島由紀夫が割腹自殺したみたいだ」、そういう短い言葉でした。その授業が終わって、独文研究室に立ち寄ってみると、何人か人がいて、三島事件について話をしていました。よく覚えているのは、そのとき、30歳に近い独文助手の左翼の女性が「三島由紀夫は何という馬鹿なことをしたのか」というような批判的なことを言ったとき、私の中に激しい怒りが湧いて、「こいつは何も分かっていない!」と私が腹の中で叫んだことです。そのとき三島事件について私は詳しいことは何も知らなかったはずなのですが、確かに、その女性の発言に憤激したのです。たぶん「文化防衛論」をすでに読んでいて、三島由紀夫が何を主張してその事件を起こしたのか、分かったような気がしたのではないかと思います。
そのまま大学からバスに乗って、市内のバスターミナルへ向かいました。わが家へ帰るためです。そのバスターミナルではすでに「号外」が張り出されていて読むことができました。また、待合室のテレビでは事件の報道を流していました。この事件が何のために引き起こされたのか、そのことについて、自分の予測は的中していました。自宅に帰りついてからも、家族と黙ってテレビを見ました。私は何か大きなショックを受けて、しばらく物も言えなかったように記憶しています。衝撃を受けたのは、三島の主張に私が同感したからでもありますが、何と言っても、自分の信じる政治的主張のために、本当に命を掛ける人間がいるのだ――そのことを目の前で見せつけられたからです。
三島氏がバルコニーで自衛官たちへ呼びかけたときに下品なヤジを飛ばしていた者たちがいましたが、彼らに対して「なんという卑劣」と猛烈に腹が立ちましたが、しかし、もし自分があのバルコニーの下にいてあの演説を聞いていたとしたら、「お前は立ち上がって、三島氏の元へ駆けつけることができたか」と自問すれば、百パーセント「否」でした。そういう決断も勇気も自分にはないということはごまかしようもありませんでした。まだ本当の大人ではありませんでしたから、先生のように「三島さんに存在を問われていると感じ」たということではありませんが、自分の日ごろの生き方が全く口先だけのものだというようなことは感じたのです。
先生は三島氏があの事件を決行するに至った経験や動機を、様々な面から解明しようとしておられて、私にはどれも参考になりましたが、私が第一に説得されたのは、やはり、全集48ページからの「思想と実生活」の考えです。「思想が実生活を動かすのであって、実生活が思想を決定づけるのではない」ということです。三島氏は多面体の天才でしたから、彼があのような行動に出たことについていろんな理屈をつけることができるでしょうが、私には、三島氏の「日本の運命への思い、憂国の情」が決定的な動機であったことは、一点の疑いもないように思われます。
そして、その「日本の運命への思い、憂国の情」は三島氏やそれを取り巻く少数の右よりの人々だけが共感するようなものではなく、実のところは、もっと多くの日本国民の心に眠っていた思いであり、憂国の情であったと考えられます。ここで思い出すのは、野坂昭如という作家が、しばらくのち何かの雑誌に発表したエッセイのことです。そのエッセイの中で、このどちらかと言えば左よりかと思われる人が、「あの事件の日は、日本中があるしんとした思いに心を一つにした」というような意味のことを書いていたのです。昭和24年生まれの私には経験がありませんが、これは先生が書いておられる終戦の日の「沈黙」と同じものではなかったでしょうか。三島由紀夫の決起の呼び掛けは功を奏しませんでしたが、何もかもが無意味だったわけではありません。我々は一瞬にせよ、彼が求めたところへ心を致したのであり、その瞬間の思いを今も忘れてはいないのです。
今回、先生の三島論を拝読して、この作家について教えられることがたいへん多かったのですが、特に印象の残っていることを一つ上げてみますと、三島氏が、縄目の恥辱を受けた総監は、自決する恐れがあると考えて、自首した学生に総監を護衛するように命じたというエピソードです。先生のご指摘通り、「いかに自衛官でもそんなことが決して起こりえないことは、われわれ今日の日本人の一般の生活常識」です。しかし、三島氏がそんなふうに考える人だったということを知って、私には何か感動させられるものがあります。こういうふうに考えることのできる人だったからこそ、自分の「思想」というものを持つことができたのだと、納得のいくものがあるのです。
御論考「不自由への情熱」の中にこういうご指摘があります、「だが、多くのひとびとがこれまで試みてきた美学的解釈も、政治的解釈も、偏愛か反感か、いずれかに左右され過ぎている。この作家の少年期からの孤独な心、外界と調和できず自他を傷づけずにはすまぬ閉ざされた心、そういうものが見落され勝ちである。外見とは相違する裏側には驚くほど正直な、幼児にも似たつらい率直な心が秘められていた。私はそう観察している。」この評言を、三島由紀夫に関してあまりに少ない知識しか持ち合わせていない私は正確に判定できませんが、しかしそれにもかかわらず、直感的にはまさにこの通りであろうと私には思われました。作家三島由紀夫の生の秘密を最もよく見抜いた人こそ西尾先生であると、今回、関連の御論考をまとめて拝読して再認識したことでした。
いつものようにまとまりのない感想になりましたが、今回はこれにて失礼いたします。
お元気で御活躍ください。平成25年1月6日
武田修志
西尾幹二先生
岸田秀氏に三島由紀夫論がありますね。「三島由紀夫の精神は初めから死んでいた」と始まる文章です。小林秀雄が江藤淳に「あんた狂気、狂気と言うけどな、日本の歴史を狂気というか?」と反駁したという話もどこかで目にした記憶があります。西尾先生の「三島由紀夫はNPTを見ていた」という見解もみごとです。個と民族精神を考えるとき、西欧流の個人思想にすでに犯されてしまった現代のわれわれ日本人は、精神的に危機的状況にあるといわなければなりません。
私は、西尾先生の日録を『宣伝』と思ったことはありません。真の思索家は、集団から離れ、荒野に出て、独り佇み、真理を追い求め、その独創的な思想をつくりあげるものであります。物理的に荒野に出る出ないは別として、この『孤独と独創』の鉄則は未来永劫不変。インターネットの時代になって久しいですが、インターネットの本当の価値は、人間が孤独になる静寂の場(荒野)を提供するところにあるのではないかと、私は思っています。西尾先生の日録は、私にとって先生の思索活動への目次であると同時に、孤独と静寂のなかで自分と日本との絆を確かめる場でもあります。今回のエントリー、西尾先生が『不自由への情熱』で論じられた三島の『心の孤独』と、これを引用して、ご自身の体験を交えて感想を述べられた武田先生のご文章を読み、感銘を受け、改めて自分にとっての先生のブログの意味を考えてしまいました。
私が、三島由紀夫の作品を読んだのは、中学一年、『美徳のよろめき』が最初でありました。同じ年の暮れ、先生の『不自由への情熱』を読んだのですが、バタイユやドストエフスキーを読んだことのない、中学一年の愚か者には、難解すぎて天を仰いだ記憶があります。しかし、先生が結語に書かれた<氏は文学を決然と捨てるというあの「自由」をついに選択したのである>にひどく興奮したのを覚えてます。その後、『英霊の聲』と昭和帝のラジオ放送(人間宣言)の原文を読みました。ラジオ放送の原文を一瞥して、私の目に飛び込んできたのは、『紐帯』という言葉でありました。皇室は国民と運命を共にして敗戦のどん底から這い上がっていくのだという覚悟を昭和帝はこの『紐帯』という言葉に託したのだと私は思ったのです。この紐帯という言葉を見て、私は、スペイン無敵艦隊上陸予想地点(Tilbury)に集結した英陸兵の前で行ったエリザベス女王1世のスピーチを思い出しました。同女王はこのスピーチの中で<戦火の真っただ中で汝らと生死を共にすることを決意した>(being resolved, in the midst and heat of the battle, to live and die amongst you allの仮訳)と述べております。この一言が大英帝国の命運を決しました。昭和帝の戦後の全国行幸は、エリザベス女王1世と同じ、未だ終結していない大東亜戦争の『戦場』たる日本全国をまわり、『紐帯』という言葉に託した自らの覚悟と決意を国民に示したのだ・・・GHQが昭和帝の全国行幸をさまざまな形で妨害したのはそれが理由だ・・・私は、そう思ったのであります。したがって、私は三島の『英霊の聲』に賛同することがどうしてもできませんでした。さらに、私はGHQ憲法は無効決議を経て破棄すべしと思っておりましたので(今でも思っていますが)、三島の改憲論、そして自衛隊二分論に反対でありました。
そんな私が、三島の<などてすめろぎは人間となりたまいし>をもう一度考え直すきっかけ、導きとなったのが先生の『三島由紀夫の死と私』でありました。この本の中で、国防を放棄した国の見せかけの軍隊もどき・自衛隊を、本来の国軍として復活させようとした三島の試みを<二重の意味での『ごっこ遊び』>と評した江藤淳のことが述べられていますが、彼こそまさに現代日本の病理の根幹であると確信しました。駐日ドイツ大使フォルカー・シュタンツェル博士の<三島は自国の外にいかなるhostile enemyをも見ていない>について書かれた『三島由紀夫の自決と日本の核武装』も大変重要な論文だと思います。三島の檄文を、尖閣戦争の真っただ中である今こそ、(尖閣問題を論じる)アメリカのジョセフ・ナイ論文や英国FT紙のギデオン・ラックマン論文と合わせて読んでみると面白いのではないかと思います。
三島氏がいわゆる右翼であったとする言説は私には疑問に思えます。
氏はその精神の極力を尽くして中庸を歩まんとしていたことを、私は最期の檄に読みます。
氏が右に見えるのは、戦後日本が左に偏しているからで、戦後日本が左に偏しているのは、戦前昭和が右に偏していたからだと思えます。
世論が中庸で収まることは稀です。私は安倍政権が右に偏さずに中庸を保つことを切に願っており、政権の歴史的使命をそこに見出します。
武田氏の年齢が私で、西尾先生の年齢が田中美代子先生
田中美代子さんと、堂本正樹さんとの対談の一部ですが、武田先生、西尾先生に御参考までに。
田中 わたしにとっては、戦後の第一の作家として遠くから仰ぎ見るような人でしたよ。それこそ、文学をやろうとしても、何を目標にしていいかわからない時代でしょう。アカデミズムらしきものもないし、そもそも、それが壊れたところから始まった。混沌とした戦後の暗い時代のなかで、彼だけが輝いてみえました。日本の伝統がしっかりと身体に入っているし、それこそ広く深い東西文学の十字路のような人でした。歌舞伎の台本を書くかと思えば、王朝文学や謡曲を論ずる。ギリシア文明への憧れを語るかと思えば、ジャン・ジュネにオマージュを捧げる、というわけですからね。それとわたしはどういうものか、芥川龍之介とか太宰治みたいな自殺型のタイプの人に強烈なシンパシーを感じていたんですね。どうしたら、こういう自殺型の作家を救うことができるか、ということが、わたしの高校時代からの大きなテーマでしてね。その時、三島由紀夫が登場して、わたしの御本尊だった芥川龍之介をこともなげに否定していて、文学者は自殺するものじゃない、文学とは薬みたいなもの、病気を治す医術であるべきだ、と言ってました。それが大きな支えになって、三島由紀夫にのめり込んでゆけたんです。ところが作品そのものは典型的な自殺型ですね。にもかかわらず、この人は生きている、活躍をしている、ということで、いつまでもついて行ける気がしていた。破壊的な暗い部分もありましたが、最後まで頑張って生きてゆく人と思っていました。その点では、ずっとこだわりがあって、ああいう最期に出会ったときに、約束を破ったじゃないか、という気持が強かったですね。常に身近にいた堂本さんはどうですか。
堂本 劇作家にとって死というものは、時間の典型として目の前にあるものだけれど、三島由紀夫はいつもそれをあっけらかんと語っていた。イメージの死、特に男の死は素敵にエロチックなものと感じていたんだろうな。でも、われわれにとっては三島由紀夫の持っていたイメージの死と現実の死が繋がらない。実際、死の話はよくやっていた。亡くなる少し前に池袋の東武百貨店で「書物の河」「舞台の河」「肉体の河」「行動の河」とわけて、
『三島由紀夫展』をやったときも、死へ流れ入るイメージもあったけれど、いつもの通りだから、われわれも気にしなかった。『禁色』で、稔という喫茶店の親父の囲われものがいて、悠一と仲良くなって幸福なひとときを過ごすでしょう。あすこにはさまざきな共死のイメージがある。蛮賊に襲われて、その矢を帆立て貝でうけるとか、敵兵の銃弾をふたりで受けて抱き合って接吻しながらバッタリ倒れるとか、いろいろな物語を作って稔が死のイメージ遊びをするでしょう。……言葉は悪いけれど、一種のマスタベーションというか、子供の白日夢的というか、そんなものが日常生活の遊びでは当たり前だった。遊びと本物の死が背中合わせになっていたことすら気がつかない。リアリティがなかったということが実際のところだね。事件のあった日、もと国立劇場の中村哲郎から電話がかかってきたんだ。興奮していて、何を言っているのかわからなかった。とりあえずテレビをつけて見てみたわけだよ。そしたら彼が市ヶ谷の自衛隊のバルコニーで演説をやっているので、びっくりしたよ。それでも現実感がなかった。いつもやっている仲間内の幼拙な遊戯のように見えた。ぼくの場合は特に映画の『憂國』の演出をやっていたから、切腹ゴッコにも付き合っていたからね。『憂國』のときは、こうやらないと血が出ないよ、とか、後二寸ぐらいひかないとハエないよ、とか、スタッフのいる前で、切腹の演技指導をやっていたんだからね。
田中 普段から切腹のプレーをやっていた。それで『憂國』を撮ることになり、事件があったから、現実と非現実が交錯してしまって、実感が持てなかったということでしょうか。
堂本 ショックがなかったということは嘘だろうけれど、
以下省略
三島事件が起きた時、最初三島は狂ったかと思いました。盾の会はあくまでも彼の遊びだと思っていました。しかし彼の檄文を繰り返して読むうちに、立場はちがうにせよ、事態を正確に把握していると思いました。戦後の終わりを感じました。しかし制度上はいまだに存続していますが。
はじめまして。当方ちゃおと申します。上記の008さんから西尾先生のブログの存在をお聞きし、昨日初めて訪問しました。昨日、三島由起夫に関しての長文のコメントを書いて、送信しましたが、E-mail欄を入れるのを失念し、そのまま送信したところ、折角作成した文章が一瞬の間に消えてしまいました。コピーも取らずにクリックした結果、見事に消失してしまいましたが、まさに水泡の努力となりました。
今日は、時間がありませんが、これから又改めて三島氏に関してのコメントを寄せたいと思いますが、当方のようなうっかり者を救済する為に、もしも可能でしたら、このようなCarelessミスがあったとしても、作成した文章が消えないようなブログ設定をして頂ければ、当方のようなうっかり者には大いに助かると思います。
宜しくご検討下さい。
Ciao
>ちゃおさま
ブログの設定はなかなか難しいものがあります。
折角の投稿をフイにしないためには、別のところにご自分のコメントを作成し、こちらにコピーなさるのが良い方法だと思います。
あ~~~・・・・・・ざんねん~~~~ってこと、良くありますね。
ああ、西尾先生の奥様ですか。全くその通りで、自身の不注意でしたから致し方ありません。
実は今日、ここに時々投稿されている008さん、即ち山本氏と裏高尾を歩き、道々、先生のお話がでましたので、今日改めてブログを拝見し、当方のコメントに返事がありましたので、再度、コメントした次第ですが、本当は、先生の三島由起夫論を拝読してから、コメントしようろ考えていましたが、当方もかなりの高齢、読書に対する意欲が減退しています。
改めて、先生のブログを拝読し、思う点をコメントしたいと思います。
今回はコピーを取るまでもなく、最初から当方アドレスがインプットされていましたので、予想通り、そのまま送信できました。そこで改めて、当方の三島氏に関する感想をコメントしたいと思います。と言っても西尾先生の著作も読んでいない小生が、何をかいわんやとのお叱りをうけるかも知れませんが。
前回、消えた文章に書いたのは、猪瀬直樹氏の「ペルソナ」に関してのもので、その中で、猪瀬氏は三島氏の幼少の頃からの生い立ち、岡山に於ける徴兵検査、等々から始まり、最後の小説、「豊饒の海」、中で、その主人公の弁護士が、日比谷公園内であいも変わらず覗き見を趣味としている点は、最初の小説、「仮面の告白」に通じるものではないか、との指摘をしている点が印象に残りました。
即ち、学生時代の小説と、自決直前の小説とは、同じモチーフの延長線上にあり、自身は第三者の立場にいて傍観ないし覗き見し、皆と一緒に参加し、行動することはない。
彼の精神的なスタンスはそうであっても現実の行動は、盾の会に見られるように、行動派で、更に率先して自衛隊員まで巻き込もうとした。その行動は結果的に無謀なものであり、盾の会会員及び一部の賛同者を除いて、大きな運動の契機となることはなかった。
若い人、或いは戦後の精神的に後退した日本人に大きなショックを与える事件であったことは間違いない事実であるとしても、それは一過性のものに終わり、ある者に言わせれば、自暴自棄の自殺行為と写ったかも知れません。
当方の個人的な感想は、いや、多くの日本人がそう思っていた筈のノーベル文学賞の日本人初の受賞者は、三島氏に違いない、多分、彼自身もそう信じていた筈のものが、全く予想外に川端康成氏となり、彼はかなりの失望と、その反動としてもステバチ的発想と行動に向かって行ったのではないかと考えます。
勿論、彼の天皇制にかかわる思想は深い物があり、これは又別の機会に感想を述べたいと思いますが、こうした彼の覗き見的趣味、傍観者的立場と、盾の会という行動派とは全く異質の世界ですが、彼自身は「豊穣の海」にあるような混沌、包容、始原、カオス、あらゆるものがそこに纏まって蠢いている、一つの世界にアウフヘーベンして行ったのではない、とみています。
>ちゃおさま
奥様というのがハンドルネームで、本物の西尾先生の奥様ではないのですよ。
今後ともよろしくお願いいたします。
西尾先生が福田恆存の本当の弟子である。西部進は偽者であり、知のモンタージュ美人にすぎない。
西部進の発言を注意深く観察すると、「誰々がこう言っている」としか言っていない。先人の発言を引用しているに過ぎない。先人の発言を記憶している能力はたいしたものだと思うが、自分の魂から湧き出た言葉では無い事を見抜いた。だから、西部進は知のモンタージュ美人と評価する。