日本は自立した国の姿取り戻せ

産經新聞(平成31年3月1日)正論欄より

 天皇陛下のご退位と新天皇陛下のご即位という近づく式典は、日本人に象徴としての天皇のあり方を再認識させている。昔から皇室は政治的な権力ではなく、宗教的な権威として崇(あが)められてきた。皇室は権力に逆らわず、むしろ権力に守られ、そして静かに権力を超えるご存在であった。

 武家という権力がしっかり実在していて、皇室が心棒として安定しているときにこの国はうまく回転していた。そこまでは分かりやすいが、「権力を握ってきた武家」が1945年以来アメリカであること、しかも冷戦が終わった平成の御代にその「武家」が乱調ぎみになって、近頃では相当程度に利己的である、という情勢の急激な変化こそが問題である。
 

≪≪≪平成は地位落下の歴史と一致≫≫≫

 皇室は何度も言うが精神的権威であって、政治的権力ではない。昔から武士とは戦いを交わすことはなく、武士の誇示する政治力や軍事力を自(おの)ずと超えていた。第二次大戦の終結以後も同様である。しかもその武士が外国に取って代わられたということなのだ。ここに最大の問題、矛盾と無理が横たわっている。さらにそのアメリカはもう日本の守り手ではなくなりつつあり、史上初の「弱いアメリカ」の時代が始まっている。

 平成時代の回顧が近頃、盛んに行われているが、平成の30年間はソ連の消滅が示す冷戦の終焉(しゅうえん)より以降の30年にほかならず、日本の国際的地位の急激な落下の歴史と一致する。冷戦時代には世界のあらゆる国が米ソのいずれか一方に従属していたから、日本の対米従属は外交的にあまり目立たなかった。しかし今ではこの点は世界中から異常視されている。世界各国は日本がアメリカと違った行動をしたときだけ注目すればいい。
 
 わが皇室は敗戦以後、アメリカに逆らわず、一方的に管理され、細々たるその命脈を庇護(ひご)されたが、伝統の力が果たしてアメリカを黙って静かに超えることができたのかとなると、国内問題のようにはいかない。当然である。各国はそのスキを突いてくる。かくてわが国は中国から舐(な)められ、韓国から侮られ、北朝鮮からさえ脅かされ、なすすべがない。

≪≪≪自分で操縦桿を握ろうとしない≫≫≫

 今の危うさは、昭和の御代にはなかったことだ。すべて平成になってからの出来事である点に注目されたい。平成につづく次の時代にはさらに具体的で大きな危険が迫ってくると考えた方がいい。

 125代続いた天皇家の血統というものが世界の王家のなかで類例を見ないものであり、ローマ法王やエリザベス女王とご臨席されても最上位にお座りになるのはわが天皇陛下なのである。125代のこの尊厳は日本では学校教育を通じて国民に教えられてさえいない。そもそもその権威は外国によって庇護されるものであってはならず、日本国家が本当の意味での主権を確立し、自然なスタイルで天皇のご存在が守られるという、わが国の歴史本来の姿に立ち戻る所から始めなければならない。

 天皇、皇后両陛下が昭和天皇に比べても国民に大変に気を使っておられ、お気の毒なくらいなのは、国家と皇室とのこうした不自然な関係の犠牲を身に負うているからなのである。
 ではどうすればよいか。日本国民がものの考え方の基本をしっかり回復させることなのだ。

 アメリカに「武装解除」され、政治と外交の中枢を握られて以来74年、操縦席を預けたままの飛行は気楽で心地いいのだ。日本人は自分で操縦桿(かん)を握ろうとしなくなった。アメリカはこれまで何度も日本人に桿を譲ろうとした。自分で飛べ、と。彼らも動かない日本人に今や呆(あき)れているのである。

≪≪≪憲法改正を飛躍の第一歩に≫≫≫

 もっとも、操縦桿は譲っても、飛行機の自動運航装置は決して譲らないのかもしれない。日本人もそれを見越して手を出さないのかもしれない。しかし問題は意地の突っ張り合いを吹き飛ばしてしまう「意思」が日本人の側にあるのか否かなのだ。

 1945年までの日本人は、たとえ敗北しても、自分で戦争を始め、自分で敗れたのだ。今の日本人よりよほど上等である。この「自分」があるか否かが分かれ目なのである。「自分」がなければ何も始まらず、ずるずると後退があるのみである。

 2009年4月8日に今上陛下が事改めて支持表明をなさった日本国憲法は、日米安保条約といわば一体をなしている。憲法と条約のこの両立並行は、アメリカが日本人に操縦桿を渡しても自動運航装置を決して譲らない、という意向を早いうちに固めていた証拠と思われる。日本国民の過半が憲法改正を必要と考えるのは、逆にまともに生きるためにはたとえ不安でも自立が必要と信じる人が多いことにある。

 日本製の大型旅客機が世界の空を自由に飛行し、全国に130カ所ある米軍基地を撤退してもらい、貿易決済の円建てがどんどん拡大実行される日の到来を期待すればこそである。憲法改正はそのためのほんの第一歩にすぎない。(にしお かんじ)

朝日新聞に出たインタビュー記事

(平成と天皇)政治との距離を聞く 2017年12月14日朝日新聞より

 ご発言、政治性含めば危険  西尾幹二氏

 ――保守派の中には退位への反対論もありました。

 「人間は誰もが自己表現への欲求を持っているが、天皇陛下ほどそれを充足させる手段が奪われている方はいない。退位のご意向をにじませた昨年8月の『おことば』は一種の表現衝動だったのではないかと、私は解釈する。ご自身の身分の変更についてなら許されると、お考えになったのではないか。摂政を置けばいいといった反対論は『天皇はロボットであればいい』と言っているのに等しく、陛下の苦しいお立場への理解がまるでない。ただし、自己表現が政治的なテーマに向かうと危険だ」

 ――陛下の発言の政治性を指摘する声もあります。

 「2009年の天皇、皇后両陛下のご結婚50年の記者会見で、陛下は憲法に関して踏み込んだ政治的発言をなさった。その後も同じ方向性の発言を繰り返しておられ、陛下が平和主義を唱えているのは事実らしい。そうした姿勢は自主憲法制定、憲法改正を求めてきた戦後保守勢力の否定にもつながりかねない」

 ――なぜ平和主義を唱えることが問題なのですか。

 「陛下のご発言は、政治的権能のあるなしに関わらず影響力が大きく、国民を縛りかねないからだ。日本は戦後、米国という権力に守られてきたが、その米国が今、様変わりしている。平和を外国に頼っていればいい時代は終わりつつある。陛下を『最大の平和勢力』と呼ぶ者もいるが、陛下のご発言が国民の利害と一致しない状況が生まれたらどうするのか。国民が国際情勢を見極めながら自由に議論し、判断できるようにさせていただきたい」

 ■黙る保守、すがるリベラル

 ――天皇や皇室をめぐる言論状況はどうでしょう。

 「左右双方に危うさを感じる。まず、改憲を主張する保守派の多くはなぜ、陛下の平和主義的なご姿勢に疑義を表明しないのか。皇室を守りたい一念ゆえとも言えるが、皇室の問題になると恐れおののいて沈黙するようでは近代人として未成熟だ。保守派の中には、少数だが、いまだに天皇の『臣下』と自称する者がいる。皇室について言挙げすると、『朝敵』と批判する人たちもいる。そうした言論状況は、安倍晋三首相を『保守の星』として持ち上げ、他の評価を寄せつけないような、今の保守メディアを覆う硬直した空気ともつながっている」

 「一方でリベラル派は、改憲阻止のために陛下を政治利用しているのではないか。陛下のお力に取りすがろうとする姿勢は、彼らの護憲の主張に反し、過去の反皇室の言説とも矛盾する。改憲の問題においても、陛下のご発言の影響は測りがたい。既に憲法上の限界を超えている恐れもある。これ以上、一方に寄り添うような姿勢をおとりにならないでいただきたい」

 ――安倍政権の皇室問題に対する取り組みをどのようにみていますか。

 「安倍氏は、かつては男系の皇統を維持する方策として旧宮家の皇籍復帰などを提唱していたが、首相になってからは何もしない。『保守』と称しながら困難なテーマには深入りせず、保守政治家としての責務から逃げている。勢力拡大のため左にウィングを伸ばそうとしているが、これでは左右双方から信用されない。『保守』をつぶすのは『保守の星』ともなりかねない。結局、安倍氏の根っこは『保守』ではなく、ただの『戦後青年』である」

 (聞き手・二階堂友紀)

    *

 にしお・かんじ 35年生まれ、82歳。ドイツ文学者、評論家。電気通信大名誉教授。著書に「ニーチェ」「全体主義の呪い」「江戸のダイナミズム」など長編評論が多数。「西尾幹二全集」(全22巻)を刊行中。

 ◇天皇陛下の退位日は2019年4月30日と決まった。これまでたびたび問われてきた皇室と政治の向き合い方は、どうあるべきなのか。3人の識者に聞いた。

オバマ・習近平会談、皇室の新しい兆し、そして私の新刊(二)

 『週刊新潮』6月20日号に「『雅子妃』不適格で『悠仁親王』即位への道」という目をみはらせる巻頭記事が掲げられている。日本の歴史の中で「幼帝」というのは何度もあった。小学生、中学生でも天皇に即位できる。摂政をつければ問題はない。今上陛下、皇太子、秋篠宮の三人による頂上会談が昨年来つづいていて、そこで煮つまった案だという内容の記事である。週刊誌といえども、ここまで書く以上、それなりの証拠があってのことであると思う。

 皇后陛下が雅子妃を見放した、という書き方である。何かとんでもない事件があってとうとう事ここに至ったのかもしれない。宮内庁も官邸も動いているという書き方だが、宮内庁長官はそんなことはない、と直ちに新潮社に抗議した。記事では雅子妃だけでなく、皇太子に対する両陛下の失望が公然と語られている。さりとて、皇太子は短期間でも一度は即位しないと、日本の皇室のあり方として具合が悪い。秋篠宮は兄弟争いの図を避けるために、即位を辞退している。かくて「幼帝」の出現ということになる。

 私の読者ならお分りと思うが、以上の流れは本当かどうかはまだ分らないのだが、実現すれば大筋において私が書いてきた方向とほゞ一致している。私はすべての焦点を「雅子妃問題」に絞って書いてきた。だから批判や非難も受けた。そして、雅子妃に振り回される皇太子の不甲斐なさにも再三言及してきた。私は「廃太子」(橋本明氏)とも「退位論」(山折哲雄氏、保阪正康氏)とも違う立場だった。そして、何度も天皇陛下のご聖断を!と訴えた。ついに「ご聖断」が下りたのだとしたら有難い。「幼帝」というアイデアは陛下以外の誰が出せるであろう。正夢であってほしいと祈っている。

 『週刊文春』6月13日号にも重大な記事がのっていた。読者アンケート1500人で、皇后にふさわしいのは雅子妃38%、紀子妃62%という結果を報じていた。皇室問題をアンケートで論じるのは間違いだが、各週刊誌とも堪忍袋の緒が切れた趣きがあるのが面白い。雅子妃は今月18日に予告していた被災地お見舞いをまたまたキャンセルした。

 私の新刊『憂国のリアリズム』のリアリズムというところに注目していただきたい。この本も6篇の私の皇室論を収めている。読んでいる方も多いと思うが、あらためて題名と出典だけを書いておく。

『憂国のリアリズム』の第四章「皇族にとって自由とは何か」
「弱いアメリカ」と「皇室の危機」(THEMIS)
「雅子妃問題」の核心――ご病気の正体(歴史通)
背後にいる小和田恒氏を論ずる(週刊新潮)
正田家と小和田家は皇室といかに向き合ったか(週刊新潮)
おびやかされる皇太子殿下の無垢なる魂
  ――山折哲雄氏の皇太子退位論を駁す(WiLL)
皇后陛下讃(SAPIO)

 私は皇室問題について書くのはもうここいらで止めよう、と思って、WiLLの担当者に昨日その話をしていた処へ、本日、『週刊新潮』の驚くべき記事に出合ったのである。

 間もなく出版される『憂国のリアリズム』と併せ読んで、問題の落ち着くところが何処であるかを皆様も占っていたゞきたい。

 『週刊新潮』の記事内容の続報を知りたい。

追記: 皇室典範の改正報道に抗議  「朝日新聞」6月14日号より

 内閣官房と宮内庁は連盟で13日、宮内庁長官が皇位継承をめぐる皇室典範改正を安倍晋三首相に提案したと報じた「週刊新潮」の記事は「事実無根」だとして、同誌編集部に抗議文を送り、訂正記事の掲載を求めた。風岡典之宮内庁長官は記者会見で「このようなことは一切なく、強い憤りを感じている」と述べた。菅義偉官房長官も会見で「皇位継承というきわめて重要なことがらで国民に重大な誤解を与える恐れがあり、極めて遺憾」と語った。週刊新潮編集部は「記事は機密性の高い水面下の動きに言及したものです。内容には自信を持っております」とコメントしている。

『週刊新潮』の記事

 『週刊新潮』(2月23日号)に「『雅子妃』をスポイルした『小和田恒』国際司法裁判所判事」という題の記事を書きました。週刊誌をお読みになった方が多いかもしれませんが、お読みになっていない方のためにここに掲示します。

 「雅子妃」をスポイルした「小和田恒」国際司法裁判所判事

雅子妃が療養を始められてすでに8年が過ぎた。なぜ、このような事態が続いているのか。その謎を解く1つのカギは、父親の小和田恒氏(79)にあるという。評論家の西尾幹二氏(76)は、小和田氏を「皇室とは余りにそりが合わない人格」と分析するのだ。

 雅子妃殿下のご父君、外交官小和田恒氏の七十九年の人生は、妃殿下の一連の不可解な行動がなかったら誰の関心をも呼ばず、無難に外交史の一隅に小さな名を留めるに過ぎなかったであろう。妃殿下は果して親孝行をしたのか、それとも親不幸だったのか。私の判定は後者だが、そう思うのは戦後史に迎合して必死に生きた小和田氏の生涯に多少とも憐れみを覚えているからである。

 私は今度、小和田氏の雑誌対談やインタビュー記事など資料9編を読んでみた。そこから浮かび上がるのは、アメリカ占領下の日本無力化政策にいかなる疑問も不安も抱かなかった、既成権力にひたすら従順で用心深い小心な一官僚の姿である。

 安全保障はアメリカに委ね自らは再武装せず経済福祉の追求に全力をあげるべしという「吉田ドクトリン」と、その基礎にある憲法第九条は、小和田氏にとっては時代が変わっても動かぬ永遠の真理、神聖な大原則であるかに見える。世界の新たな情勢下で、軍事力の分担すべき責任がふえている昨今、憲法を改正して再武装への道を開くべきだ、と主張する人がいるが、「この質問に対する答は『ノー』であるべきだ、と思う」とはっきり書いている(『参画から創造へ』第四章)。

 小和田氏が、日本は過去の自分の行動のゆえに国際社会の中で「ハンディギャップ国家」だと言い立てていることはよく知られている。中韓両国に永久に謝罪しつづけなければならない国という意味であろう。1985年11月8日の衆議院外務委員会で土井たか子氏の質問に答えて、小和田氏は東京裁判においてわが国は中国に対する侵略戦争を行った、これが「平和に対する罪」である、サンフランシスコ平和条約第十一条において日本は「裁判を受諾する」と言っている以上、「裁判の内容をそういうものとして受けとめる、承認するということでございます」と答弁しているが、これは百パーセント解釈の間違いである。

 平和条約第十一条は巣鴨に拘禁されている戦犯を赦免、減刑、仮出獄させる権限は講話が成立した以後、日本国にのみあることを明示している内容でしかない。英文では、その内容のjudgments(判決)を受諾する、と書かれていて、「裁判」を受諾するならtrialかproceedingsかが用いられる。国際法学者・佐藤和男氏は英語だけでなくフランス語、スペイン語の正文も参照して、日本は東京裁判そのものを十一条で「受諾」しているわけでは決してないこと、講話後もあくまでも東京裁判史観に縛られることを良しとする日本悪玉論が政府内にも残っていることに強い警告を発している(『憲法九条・侵略戦争・東京裁判』、原書房)。

 要するに小和田氏はその師・横田喜三郎氏と同様に、何が何でもあの戦争で日本を一方的に、永久に、悪者にしたい歴史観の持ち主なのだ。

 傲慢で権威主義者

 1990年に湾岸戦争が起こり、翌年、小和田氏は外務事務次官になった。審議官時代から、氏は自衛隊の派遣に反対の立場をとっていた。彼の非武装平和主義は湾岸戦争で破産したはずだった。櫻井よしこ氏から対談で、日本人は人も出さない、汗もかかないという国際世論からの批判があるが、と問い詰められても彼は何も答えられない。ドイツがNATO地域外に派兵できるように基本法を改正する件に触れて、「日本の場合は、まだそういう状況まではきていない」と彼はしきりに客観情勢を語ることで弁解する。だが、「そういう状況」をつくらないできたのは小和田氏たちではなかったか。櫻井氏に追い詰められ、「日本という非常に調和的な社会の中で、できるだけ事を荒だてないで処理したい」と思わず三流官僚のホンネを口に出して、私は笑った。

 すべての外務官僚がこういう人ばかりではない。現実を変えようと戦った人もいる。元駐米大使の村田良平氏は日本の自立自存を求めた理想主義者で、その回想録の中で、アメリカが日本の核武装を認めないなら、在日米軍基地を全廃するべしと言っている。

 アメリカの核の傘が事実上消えてなくなっている極東の現実を直視している。徹底した現実家だけが徹底した理想家になれる。小和田氏のような現状維持派は現実も見えないし、どんな理想とも無縁である。彼は船橋洋一氏との対談で、日本という「国を越えた共同体意識」の必要などと言っているが、それは理想ではなく、ただの空想である。

 理想を持たない空想的人格は決して現実と戦わない。戦わないから傷つくこともない。用心深く周囲を見渡して生き、世渡りだけを考える。ドイツ語にStreber(立身出世主義者、がっつき屋)という蔑視語があるが、小和田氏のことを考えると私はいつもこの言葉を思い出す。

 自分の国を悪者にしてこうべを垂れて平和とか言っている方が、胸を張り外国と戦って生きるより楽なのである。そういう人は本質的に謙虚ではなく、身近な人に対しては傲慢で、国内的にはとかく権威主義者である。

 運が悪いことに、皇室とは余りにもそれが合わない人格だ。なぜなら皇室は「無私」の象徴であるからだ。天皇皇后両陛下が現に国民の前でお示し下さっているたたずまいは、清潔、慎ましさ、控え目、ありのまま、飾りのなさ、正直、作為のなさ、無理をしないこと、利口ぶらないこと――等々の日本人が最も好む美徳の数々、あえて一語でいえば「清明心」ということであろう。1937年に出た『國體の本義』では「明き浄き直き心」ということばで表現された。

 皇后陛下のご実家の正田家は、自家とのへだたりを良く理解し、皇室に対し身を慎み、美智子様のご父君は実業世界の禍いが皇室に及んではいけないと身を退き、ご両親もご兄弟も私的に交わることをできるだけ抑制した。一方、小和田恒氏はさっそく国際司法裁判所の判事になった。私はそのとき雑誌で違和感を表明した。小和田氏は領土問題などの国際紛争のトラブルが皇室に及ぶことを恐れないのだろうか。雅子妃の妹さんたちがまるで皇族の一員のような顔で振舞い、妃殿下が皇族としての必要な席には欠席なさるのに、妹たち一家と頻繁に会っているさまは外交官小和田氏の人格と無関係だといえるだろうか。

 確信犯的無信心の徒

 雅子妃は2003年9月以来、宮中祭祀にほとんど出席されていない。ご父君は娘に注意しないのだろうか、これが巷の声である。娘が皇室に入ったのは、ある意味で、「修道女」になるようなことである。覚悟していたはずだ。個人の問題ではなく国家の問題である。勤労奉仕団に一寸した挨拶もなさらない。スキーやスケートなどの遊びは決して休まず、その直前に必ず小さな公務をこなしてみせるので、パフォーマンスは見抜かれている。皇后になれば病気は治り、評価も変わる。今の失態を人はすぐ忘れると、ある人が書いていた。あるいはそうかもしれない。私もかつてそう言ったことがある。しかしそれは妃殿下にウラオモテがあり、畏れ多くも天皇のご崩御を待っているということであろう。天皇皇后に会いたくないとは、今までに前例のない皇太子妃であり、日本国民は代が替わってもこのことは決して忘れはしない。

 皇太子殿下は温順で、幼少の頃からご両親にも周囲にも素直だったといわれる。私が恐れているのは皇室がなくなるのではないかという危機感である。小和田氏は代替わりした皇室に対し外戚として何をするか分からない。昔、天皇の顔を正面から見ると目が潰れると言っていた時代がある。今はそんなことを言う人はいないが、皇室に対する畏れと信心の基本はここにある。小和田氏にはどう見てもそういう信仰心はない。彼の師・横田喜三郎氏には皇室否定論の書『天皇制』(1949年)があるが、横田氏にせよ小和田氏にせよ、左翼がかった法律家は日本の神道の神々に対しては確信犯的な無信心の徒である。

 日本の民のために無私の祈りを捧げる「祭祀王」としての天皇が、天皇たりうる所以である。祭祀を離れた天皇はもはや天皇ではない。一説では、皇太子ご夫妻が唱えていた新しい時代の「公務」――天皇陛下から何かと問われ答えなかった――は、国連に関係する仕事であるらしい。何か勘違いなさっている。私が恐れるのは雅子妃が皇太子殿下に天皇としてあるまじき考えを持たせ、行動するように誘いはしないかという点である。まさか皇室廃止宣言をするような露骨なことはできまいが、皇室から宗教的意味合いを排除してしまうような方向へ持っていくことは不可能ではない。「祭祀王」ではない天皇は、もう天皇ではなくただの「王」にすぎないが、権力のない今の天皇は王ですらなくなってしまうだろう。ただの日本国国連特別代表などということになれば、日本人の心の中からは消えてなくなる。

 女性宮家の問題がここに深く関わっている。1月24日発信の竹田恒泰氏のツィッターに、旧皇族の一部の協議が23日に行われ、いざとなったら男系を守るために一族から皇族復帰者を用意する必要があると意見が一致した由である。重大ニュースである。

 私は小泉内閣の皇室典範改正の有識者会議を憂慮して、2005年12月3日朝日新聞に次のように書いたが、これを今改めて提出して本編を閉じる。
 

「もし愛子内親王とその子孫が皇位を継承するなら、血筋が女系でたどる原則になるため、天皇家の系図の中心を占めるのは小和田家になる。これは困るといって男系でたどる原則を適用すれば、一般民間人の〇〇家、△△家が天皇家本家の位置を占めることになる。

 どちらにしても男系で作られてきた皇統の系譜図は行き詰って、天皇の制度はここで終止符を打たれる。

 今から30~50年後にこうなったとき、『万世一系の天皇』を希求する声は今より一段と激しく高まり、保守伝統派の中から、旧宮家の末裔の一人を擁立して『男系の正統の天皇』を新たに別個打ちたてようという声が湧き起こってくるだろう。他方、左派は混乱に乗じて天皇の制度の廃止を一気に推し進める。

 今の天皇家は左右から挟撃される。南北動乱ほどではないにせよ、歴史は必ず復讐するものだ。有識者会議に必要なのは政治歴史的想像力であり、この悪夢を防ぐ布石を打つ知恵だったはずだ」

皇太子殿下の誕生日記者会見(二)

 『週刊朝日』(3月9日号)に皇太子殿下に関する次のような記事が出ている。

 「閣僚や企業のトップが被災地について話すときに、たとえ夫妻で訪ねたのだとしても、会見で『妻が、妻が』と繰り返すだろうか。」

 また「天皇陛下をお助けし、改めて更なる研鑽を積まなければならない」とのお覚悟のことばについて、「研鑽を積む」という言葉は50歳の誕生日から3年連続での登場で、宮内庁幹部が嘆いて、今上陛下が皇太子だったころのお言葉には「率直な思い」「印象に残る言葉」がたくさんあったのとひき比べているという。

 陛下のご手術前に秋篠宮ご夫妻から関係者に病状について細かいお尋ねがあったのに、皇太子ご夫妻からはお問い合わせはなかった。1987年の昭和天皇のご手術に際し、皇太子だったいまの陛下は何かあれば代りをつとめなければならない責任感から行動されていたのに、「いまの皇太子さまには少し危機感が欠けているのではないでしょうか」と宮内庁関係者は首をひねっているという。

 『週刊朝日』は殿下が52歳であられることを今回は特に問題にしている。同年齢の活躍している社会人11人の名を挙げ、カッコ枠でかこって強調している。石田衣良、大村秀章、田中耕一、西村徳文(ロッテ監督)、原口一博、渡辺謙、川島隆太(脳科学者)等々である。相当に辛辣な、毒をふくんだ記事である。

 少し前までは皇太子殿下に対してこれほどひどい批判は書かれていなかった。明らかに世間の目が雅子妃殿下から皇太子殿下に向きを変えつつあるようにみえる。

 私が憂慮していた通りである。このまま行くとやがては今上陛下に鉾先が向けられるようになるだろう。その前に何とかしていたゞかなくてはならないのである。

 幸い陛下のご手術は無事に修了した。皇太子殿下のお誕生日会見は年一回である。来年の会見においては殿下はこういうことを言われないで済むように脇を固めていたゞきたい。まだ時間は残されている。

 週刊誌だからといってバカにしてはいけない。週刊誌と『THEMIS』以外には事実報道はなされていない。

 『週刊朝日』はこうも書いている。皇室ジャーナリストの神田氏が曰く、皇太子の会見に「雅子妃をほめる内容が多いのは、雅子さまが今回の会見録を読むことを意識しているためでしょう。」

 神田氏は妃殿下を「一生お守りする」といった殿下の責任感からだと書いているが、常識的にみれば、心理的なこわばりのせい、妻を恐れているためであろう。

皇太子殿下の誕生日記者会見(一)

 私が最近『WiLL』(3月号)と『週刊新潮』(2月23日号)に皇室に関連する文章を出したので、皇太子殿下ご誕生日記者会見に関する私の意見を聞きたいとある人から問われた。そこで私の考えをついでに少しここに書いておきたい。

 皇太子殿下は大変に損な役割を演じさせられているように思える。お気の毒である。と同時に、こんなことがつづくと国民の信頼が失われる一方だという心配をあらためて強く抱いた。

 皇室評論家で文化学園大学客員教授の渡辺みどり氏の「東宮ご一家にはもどかしさを覚えるばかりだ」という次の発言をまず聞いておこう。

「いまの皇太子さまは、雅子さまの問題を抱えておられるとはいえ、あまりに“内向き”になられているように見受けられます。ご家庭のことばかりでなく、広く国民のためにご活動なさるよう、ご自覚をもってご公務にあたる姿勢が望まれます。現に大震災の時も、秋篠宮家に比べて東宮ご一家のご活動は少ないと感じました。昨年8月に雅子さまと愛子さまは、ご静養のため那須の御用邸に20日間もお籠もりになっていた。栃木まで行かれたのならば、例えば東北の避難所まで足を延ばし、被災地に千羽鶴をお供えになるといったこともできたのでは・・・・・。そう思うと、残念でなりません」(『週刊新潮』3月1日号)

 しごく当然な感想である。

 次に皇太子殿下の記者会見のお言葉を取り上げてみよう。雅子さまの最近のご様子は?という記者からの質問に対して――

「東日本大震災の被害に大変心を痛め、体調に波があるなかで、被災地の方々に心を寄せ、力を尽くしてきていると思います。また、愛子の学校での問題に関しては、母親としてできる限りの努力を払ってきた1年でもありました。とても大変だったと思いますが、本当に頑張ってよく愛子を支えたと思います」(『産経』2月23日)

 殿下のいつもの通りのお言葉だが、官僚の文章を読み上げている大臣の答弁のように聞こえてしまわないだろうか。どちらに心を配られているかも、これでは丸見えである。殿下はなぜもっと正直に、率直に語れないのだろうか。

 例えば、「じつは私も悩んでいるんです」とひとこと語って、じっと押し黙っていた、なんてシーンが会見中にあれば、国民はみんな胸が痛んで、たちまち殿下は人間的信頼をかち得ることができるだろうに、などと考える。しかしそれがどうしても難しいのだとすると、殿下がいつもウソをついているようにしか感じられなくなってくるのではないだろうか。

 誕生日会見については、事前にこんなことがあったらしい。
 

 「質問は5問。会見は約20分で、記者会の質問に対し、殿下はペーパーを見ながら、入念に選ばれたお言葉を読み上げられます。今回、事前に用意していた質問項目に、微に入り細に入り宮内庁側が注文を付けてきたのです」

 毎年、一カ月前には幹事社が質問項目を提出しておくのが通例。それについては、総務課報道室と事前にやりとりをするという。

 「今回は『ここを変えて欲しい』とか、“てにをは”に至るまで些事にこだわってきて、修正を要請されたのです。特に、もっとも国民が聞きたいであろう、ある質問について、報道室職員が『それはちょっと』と返してきた。もちろん職員が勝手に判断するわけはなく、殿下にご相談しているはずです」(東宮関係者)

 それは、雅子さまの行動が“波紋”を呼んだという部分だった。

 「問題視されたのは、『雅子さまの行動が、週刊誌で報じられ、波紋を呼んでいます』といった部分だったそうです。宮内庁は『波紋を呼んだ』という表現をやめてほしい、と突き返した。

 記者会側は、ずばり愛子さまの校外学習に雅子さまが付き添われたことについて、殿下はどうお考えになっているか、殿下はなぜそれをお許しになったのかをお聞きしたかったのです」(皇室担当記者)(『週刊文春』3月1日号)

 宮内庁と記者クラブの間でこんなやり取りがあったとは知らなかった。これでは皇太子の記者会見は作られたシナリオに従ったお芝居を見させられているようなものである。

 今上陛下の記者会見にはこんなことはない。陛下はゆっくりご自分のお言葉で語る。自然で、慎ましやかで、ウラオモテなどまったくない。つねに平静で穏やかである。

 皇太子殿下のお言葉が型通りで、いささかシラジラしい印象を与えるのは、殿下の置かれた立場、言葉を禁じられた立場がそうさせるのであろう。それは誰がそうさせるのかも天下周知である。

 私はこういう不自然なお言葉が今後もくりかえし展開される将来の可能性に不安を覚える。殿下が「じつは私も悩んでいるんです」と正直に胸のうちを語る日が来ないと、国民の心はますます離れていく。それで、そのまま即位され、お言葉の不自然な従属性に国民が耐えられなくなり、皇室に背を向けるのを私は最も恐れている。

 テレビは何でも映し出す。国民は黙ってすべてを見ているのである。

皇室と国家の行方を心配する往復メール(六)

西尾から鏑木さんへ

 ご返事が遅くなってすみません。漫然と日を送っていたからではなく、著作家として厳しい時間を経過していたからで、その成果が表に出るのは何ヶ月も以後になります。ここのところ「インターネット日録」に時間を割く気力もなくなっていました。

 パソコンでも、活字でも、文字を扱うエネルギーは等量です。一方に打込んでいると、どうしても他方に力を振り向けることができなくなります。そういうときには普通の手紙を書くこともできなくなります。そんなわけでご返事をせずに何日も空けてしまって申し訳ありません。

 話の順序を変えて、アメリカのことから始めます。世界の中で最も出鱈目なことや最も傲慢尊大なことをやってきて、それでいて世界からあまり憎まれないで信頼されているというのが、アメリカという国の不思議な処です。アメリカは反米を恐れません。世界中どこへ行っても反米の声が溢れていて、いちいち驚かないのです。

 力に由来する寛大さ、強さからくる野放図さは、9・11同時多発テロ以来少しさま変わりしているかもしれませんが、それでも根は変わらないはずです。貴兄もそういうアメリカ像を抱いているように推察しました。

 日本などが真似のできないアメリカの政治文化のスケールの大きさは認めた上で、私はアメリカ人の心の底に、自分を信じる余りの他を省みない一方向性、他国を傷つけてもそれに気づかない鈍感さ、パターナイズした正義の押しつけと親切の押し売りを認めます。世界を自分の眼でしか見ないある種の単純さ、平板さは、「帝国」の名にし負うのかもしれませんが、理念なき「帝国」の現われです。アメリカは、たゞ漫然と「世界の長」をつとめているだけで、今後に発展も成熟も起こりそうにありません。

 貴兄のアメリカ像もほゞ似たようなものだと思いました。たゞアメリカの反日感情は「日露戦争以後の日本との行き違い」に起因し、それほど根深いものではないと仰言いましたが、果してそうでしょうか。ペリーの来航は砲艦外交でした。琉球を占領する予定でした。日本が邪魔で、叩き潰す衝動は最初から根強く存在し、外交上の単なる「行き違い」が原因ではないのではないでしょうか。

 さて、話を本題に移しましょう。小泉内閣下の皇室典範有識者会議はいったい誰が望んで秘かに仕掛けられたのかは謎で、いまだに分りませんが、皇后陛下のご意向が強く働いた結果だというような噂は、当初からあちこちで囁かれていました。理由もよく分りません。これも噂が八方にとび交って、口さがないことがいわれつづけましたが、何も確かなことは知りようがありません。

 そういう中での貴兄の最初の指摘には吃驚しました。有識者会議の報告文と皇后陛下のご発語との共通点、ことに「伝統」の概念修正が似ているという発見ですね。よくお見つけになりましたね。つねづね皇室の未来を心配し、なにを読んでも心が敏感に反応するような心理状態になっている証拠です。貴兄こそ現代において稀な皇室思いの「忠臣」です。

 貴兄の発見は上記の単なる噂ばなしを何歩か前進させる傍証のようにも見えますが、それでも確証とはいえません。皇后陛下が「女系容認・長子優先」であらせられるかどうかに関して、われわれが一定の判断を下すには余りに情報が足りないのです。

 そもそも皇室のことは、根本に関してはつねに情報不足です。御簾の奥のことですからね。それでいて、われわれ民衆の目から見て気になるサインが至る処にばらまかれます。われわれはつい皇室の御心をご忖度したくなりますが、本当は不可能なのかもしれません。

 私は遥るか遠くから仰ぎ見ていていつも思うのですが、天皇陛下と皇太子殿下に比べて皇后陛下と皇太子妃殿下の方がより多くの人の関心を呼び、話題になり、とやかく語られることが多いのではないでしょうか。女性だからでしょうか。民衆から見て何となく分るものが感じられるからではないでしょうか。天皇陛下と皇太子殿下のお二方は何となく近づき難い、分り難いご存在だからではないでしょうか。どこか神秘的だからなのではないでしょうか。

 貴方のご文章の中で、読んでいてギクッとした決定的に重要な一行がありました。すなわち「こう言っては何ですが天皇家は良くも悪くも民間女性の影響が強すぎるのではないでしょうか。」

 本当に強いのかどうか真相は分りません。ただ民衆の目から見てそう見えるのは間違いありません。私にもそう見えます。

 民間ご出身のお二方には私たちの世界の尺度が当て嵌まるからだと思うのです。判断ができるからです。あれこれ忖度したくなるのは、そもそも想定ができるからです。

 例えば皇后陛下が伝統の養蚕に手をお出しになると聞いて、良くやるなァ、そこまでなさるのかと思うのは、私たちの身に当て嵌めてみて考えているからです。天皇陛下のご祭祀がお身体を使う大変に厳しいものだと聞いても、これには私たちは言葉がなく「良くなさるなァ、そこまでなさるのか」とは考えません。私たちには想像もつかない別世界の出来事だからです。

 皇太子妃殿下は今年も赤十字の恒例の大会に皇族のご婦人がたがずらりと勢揃いされているのにおひとりだけやはりご欠席でした。テレビを見ていてそれと分ると私たちが異様に感じるのは、私たち一般社会の流儀を当て嵌めているからです。皆んながやることをひとりだけやらない、しかも長期間やらないのは私たちの一般的感覚は「異様」と判断します。ましてやその方がスキーやスケートは決してお休みにならないのが知らされているので、「なにか変だ」と思うのは民衆的感覚からいって自然で、避けることはできません。

 赤十字の恒例の大会に皇族のご婦人がたが毎年勢揃いされるのをテレビで見ても大変だともご苦労だとも私たちが特に思わないのは、これも別世界の出来事だからです。

 民間出身の皇后陛下と皇太子妃殿下は宮中の伝統に融けこむご努力をなさるにしても、ご努力をなさらないにしても、私たち民間人の目から判断され、評価されるのを避けることはできないでしょう。私たちは私たちの物指しで判断するからです。貴方が「天皇家は良くも悪くも民間女性の影響が強すぎる」というのは民間女性がやはりはみ出て見えるからでしょう。本当に影響力が強いのかどうか分りません。多分、相当に強いのでしょうが、民間人の社会と皇室の環境の相違が大きく、それが目立つからだとむしろ考えるべきです。

 さて、結論を述べますと、皇位継承問題で皇后陛下が「女系容認・長子優先」なのではないか、という貴方の推理に反対する論拠は私にありません。「皇太子妃は私たちの大切な家族なのですから」と擁護なさったお言葉もかつてありました。たゞほかに貴方の推理に積極的に賛成する材料も私にはありません。いろいろ揣摩臆測する以上のことはなにもできないのです。

 そうはいえテレビその他が皇室報道で皇后陛下にスポットを当て過ぎ、その分だけ天皇陛下の影が薄くなるような報道の仕方に対し、つねひごろ私が疑問を覚えているということを最後にお伝えしたいと思います。「影響が強すぎる」という貴方のご判断は、多分に皇室報道のせいでもあると考えるからです。

 テレビその他が、皇后陛下を気高く典雅な女性に描き出すのはもちろん私は納得して見ている一人ですが、そこには民間女性であるがゆえの今までのご努力への敬意もあり、テレビ側が自分たち民間人の物指しで分り易い価値判断を当て嵌めたがる傾向もあって、本当の皇室報道のあるべき理想に反しているのかもしれません。

 つまり、このようなやり方は皇室を人格主義の型にはめこんで、天皇陛下のご血統の神秘さと尊厳を国民に暗黙のうちに知らしめる皇室報道の本来の目的に添うていないのではないかと危惧されるからです。

 逆にいえばこうです。天皇家が次の世代に移ったときに、テレビやマスコミは何をどう描いていくつもりか、その用意が今から出来ているのか、と私は問い質しておきたいのです。

(了)

皇室と国家の行方を心配する往復メール(五)

鏑木さんから西尾へ

西尾先生

不手際のメールで色々、ご迷惑かけましてすみません。皇族関係者のスピーチとしたのは、私の早とちりで誤りでした。

 「小泉首相の皇室典範会議にまでコミンテルンが手を伸ばしている」というのは先生ご指摘の通り、大方は私の妄想でしょう。

 改めて「皇室典範に関する有識者会議 報告書 平成17年11月24日」をしっかり読んでみました。するとその中で次の様な文言を見つけてしまいました。

・・・・・
II. 基本的な視点
・・・・・

② 伝統を踏まえたものであること

・・・また、伝統とは、必ずしも不変のものではなく、各時代において選択されたものが伝統として残り、またそのような選択の積み重ねにより新たな伝統が生まれるという面がある。・・・・・ (P3)

 皇后陛下のお言葉「型のみで残った伝統が社会の進展を阻んだり、伝統という名のもとで古い習慣が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは好ましくありません」と同様の言い方ですが、一般論としての偶然なのでしょうか。

 たぶん、皇后陛下もこの報告書をご覧になっており、少なくとも反意は持っておられないということではないでしょうか。

 この報告書の結論は、ご承知の通り女系容認・長子優先です。つまり、皇位継承順位は皇太子殿下の次は愛子様となります。

 皇后陛下はご立派な方ですが、皇位継承に関してはやはり女系容認・長子優先なのではないでしょうか。そして、その意向が天皇陛下の判断に影響し、陛下の明確な対応を遅らせているのではないでしょうか。

 まさに悠仁様の誕生は天悠でした。

 アメリカについてですが、私はアバターを観ておりませんので先生のお話で判断しますと、地球人=アメリカ人、宇宙人=インディアン・アジア(日本)人という図式でアメリカの自戒の念が垣間見られるということですね。

 しかし現実世界では、アメリカは屹然と世界と対峙する強靭さがあります。この精神の図太さはある意味羨ましいですが、カルトとまでは言えなくても多分に宗教的です。

 私のアメリカの理解は、近代理性主義に迎合したキリスト教プロテスタントのマインドを国民のベースに持ち、支配層はユダヤの世界支配の野望とフランクフルトマルキストの理想社会実現の野望のリゾーム状態の様なものと考えています。

 私はアメリカを大東亜戦争での日本への仕打ち(原爆投下、無差別爆撃など)から残虐な国家国民と判断しておりました。街で白人黒人をみると今にも拳銃を抜いて撃ってくるのではないかと警戒していました。

 しかし日露戦争以後の日本との行き違いで反日感情を醸成させていったという論は、同じ人間としての目で冷静にアメリカ人を見られるのです。

 これ以上は私も先生のお話を伺ってからにしたいと思います。

 雅子様の件は、先生のおっしゃる通りに納得するよう致します。

 そうなればこの際、皇太子殿下は雅子様の病気を理由に皇位継承を辞退なさって、雅子様の病気治療と愛子様の教育に専念されるべきでしょう。離婚して皇位を継ぐというのは天皇として相応しくないと思います。一生雅子様に寄り添い、精神病に病む妻を持つ家庭の長として模範となる生き方を国民に示して頂きたい。そして愛子様をすばらしい日本女性に育て上げることが浩宮様(敬愛を込めてそうお呼びしたい)のお勤めではないでしょうか。そうすることで皇室に対する国民の敬意は、逆に高まっていくと思います。

 そして小和田家の皇室への関与も終わります。

 デビ夫人のブログ見ました。

 私は良くテレビを見ますので以前からこの方は聡明な方だと思っておりました。皇室に対する意見は本当に素直で真っ当なものですね。別の記事で北朝鮮関係のものはセレブの悲しい能天気ですが。

 このブログによると愛子様不登校問題のいじめた側の生徒は転校したのですね。天皇皇后両陛下のご懸念が現実となりました。

 まずは浩宮様の決断ですね。

 私は浩宮様と同い年で、先生が陛下に思いを寄せるのと同様に、私は浩宮様と共に育ってきたという思いがあります。実直で優しい浩宮様が大好きなのです。

 だから、しっかりして下さいと哀願するだけです。

 そして浩宮様は、今上陛下、秋篠宮殿下の良きアドバイザーとして日本という大きな家族の安寧にも尽くしてもらいたい。

 皇后陛下は立派な方ですが、民間出身ということが皇統維持の判断に僅かに狂いを生じさせるのではないでしょうか。そして先生が平成の女傑に選んだほどの方ですから誰も反対しようとしません。

 ここは直系男子の御三人だけでじっくりお話合い頂きたいと思います。

 そして様々な意見がある現皇族の枠組みを維持し、他宮家の皆様の話も良く聞いて頂きたいです。こう言っては何ですが天皇家は良くも悪くも民間女性の影響が強すぎるのではないでしょうか。

 私は最初のメールでしきりに工作機関の陰謀を言っておりましたが、多少被害妄想の誇張がすぎたかもしれません。皇室や政治の問題の多くは日本自身の衰退に原因するところが大でしょうが、先生もおっしゃるように、そこにつけ込み利用しようする外部勢力の存在が感じられてなりません。

 ここは天皇・皇室が日本国の超越した存在として真価を発揮して頂き、賢明な判断で国民を安心させて頂きたいです。

 靖国の英霊が「などてすめろぎは民となりたまいし」と怨嗟の声を発しないように、天皇家男子がしっかりして、日本の国と皇室を守って頂きたいと切に願うのみです。

                      鏑木徹拝

皇室と国家の行方を心配する往復メール(四)

西尾から鏑木さんへ(後篇)

 最近起こった愛子様不登校事件で、天皇皇后両陛下から次のようなお言葉があったと広く伝えられています。「学校や数名の児童が関係する事柄であり、いずれかが犠牲になる形での解決がはかられることのないよう、十分に配慮を払うことが必要ではないかと思う。」(週刊新潮3月25日号に依る)

 子供の世界の全体を見渡していて、皇室の与える影響の大きさを心得ているこのお言葉は、不登校事件は何事かと眉をひそめている国民にはじめて安心感を与えました。もしこのお言葉がなかったら、とても落着きのないものになりました。さすが両陛下のお心配りは違うな、と私も安堵の思いを抱きました。ご皇室と国民の関係を支えているのはやはり天皇皇后両陛下だな、とあらためて確認させられた次第です。

 一方、皇太子ご夫妻からは「愛子の欠席で国民の皆さまにご心配をかけ、私たちも心を痛めております」というコメントが発表されたが、このおっしゃり方に違和感を持った関係者も多かったようです。その後も「母親同伴四時間目限定登校」がつづいていると報ぜられていますが、詳しい事情は書かないようにと報道規制がなされています。ですからそれ以上のことは私共には伝えられていません。何が起こっているかまったく分らないので今われわれはこの事件に関して何も考えることができません。いろいろ憶測しても仕方がありませんから――。

 別の話ですが、昨秋皇太子殿下が演奏に参加された音楽会が開かれ、ご皇室の皆様が会場にお姿をみせたという報道がありました。演奏が終って、雅子妃殿下がおひとり真先に席を立ってさっさと帰ってしまったので会場から驚きの声が上ったと、報じられました。演奏会にひきつづき懇親会が催されたそうですが、妃殿下は欠席されました。そこまでは産経にも、他の新聞にも出ていました。

 むしろ私があっと驚いたのは『アエラ』がそのときのある事件を伝えた記事でした(記事を失くしているので正確に書けないのをおゆるし下さい)。演奏会の間、ご皇族の方々にショールのような膝掛けが配られていました。すでに晩秋で寒いからでしょう。妃殿下はおひとり真先に起ち上がってお帰りになったのですが、そのとき隣席の皇后陛下に、ご自分の膝掛けをぱっと渡して立ち去ったというのです。皇后陛下は驚いて、それをお付きの者に回したそうです。周囲では驚きのざわめきが起こったそうです。

 雅子妃殿下はやはりご病気なのだな、と私はそのとき思いました。以前私は妃殿下は病気ではないのではないかと言っていましたが、正常な人なら皇后に対しこんな礼を欠いた不躾な態度がとれるでしょうか。どういうご病気か分りませんが、仮病ではなく、しかも簡単に完治しないご病気なのではないでしょうか。

 昨年十一月にご病気に関する東宮医師団(じつは大野医師おひとり)からの詳しい発表があると伝えられ、十二月に延期され、一月になっても発表はなされませんでした。小和田氏がオランダから帰国しました。ご自身の病気治療もあったそうです。雅子妃は父親の病気を大変に心配した由です。小和田氏は雅子妃の病気に関する新しい情報公開を心配したのではないかと思いました。

 雅子妃ご自身が医師の予定する情報公開の内容が不満で、自分で納得のいくように手を入れているということも伝えられました。二月にやっと内容は公表されましたが、中味は今まで同様でした。徐々に快方に向かっているがまだ完治していないといういつもの言葉以外に、病気に関する新しい報告はありませんでした。

 私は全文を丁寧に読みました。気がついた新しい点は、私的な海外旅行が妃殿下の治療に役立つだろうという示唆が記されてあることでした。そうこうしているうちに愛子様不登校事件が起こりました。私は二つをつないで想像して、愛子様は国内では教育できないので海外の学校に入れる、という布石を打っているのかな、とも思いました。勿論これは私の推論にすぎません。

 さて、天皇皇后両陛下の配慮に満ちたお言葉が、今度の事件を安堵させ、騒ぎを広げない鎮静の役割を果していると私は先に書きました。勿論その通りです。しかしこのお言葉の効果はどのレベルのものでしょうか。他の子供に犠牲を出させないように、という配慮を示したお言葉は、皇室一般の国民への自制の表現ではありますが、雅子妃の一連の行動への釈明の表現ではありません。

 天皇陛下は皇族の言動がいかに周囲に大きくはね返るかを経験からご存知です。それが「他の子供に犠牲を出さないように」という社会的配慮に満ちた今度のお言葉になったものと思われます。この点を踏まえて考えると、皇太子殿下ご夫妻は皇族の言動がいかに周囲に大きくはね返るかをまったくご存知ないか、無神経なまでに意に介さないで振る舞っておられます。そこに大きな波紋の生じる理由があります。

 よくKY(空気が読めない)という二字で人を評するいい方がはやりました。まさに雅子妃はKYの典型と呼ぶべきでしょう。皇族の言動が周囲にはね返ることの恐ろしさを、天皇皇后両陛下は経験上よく知っており、皇太子ご夫妻はまったくご存知ないようです。だから学習院への干渉をめぐってモンスターペアレンツなどと呼ばれるのでしょう。自分が引き起こしていることの影響の大きさ、自分の恐ろしさが分らないのでしょう。それが経験の差なのか、ご病気のゆえなのか、それともお人柄から由来するのか――そこに国民の目が集中しているように思います。

 たゞ、皇太子ご夫妻の言動がいちいち引き起こす波動を天皇皇后両陛下はどの程度ご認識でしょうか。両陛下は自らが及ぼす波動を知っています。そこに両陛下の素晴らしさがあります。しかし、それはご自身の言動の及ぼす範囲に限られていて、雅子妃や小和田一家のKYぶりが引き起こす騒動の波紋について、両陛下はどの程度お気づきになっているのでしょうか。どの程度の危機感をお持ちになっているのでしょうか。これが今新たに湧き起こっている疑問です。

 私が憂慮しているのは、この侭放って置くと、国民の非難は次第に両陛下に向かっていくのではないかということです。両陛下は何を考えておられるのか、なぜ皇太子夫妻にもっと厳しい態度で臨まないのか、と。

 そういう声はじつはすでにあちこちで聞かれます。

 スカルノ・デビ夫人という方がいて、私は芸能人かと思い今まで関心がありませんでしたが、ある人に彼女のブログ「デヴィの独り言 独断と偏見」を教えてもらい、バランスのとれた見識のある人と分りました。鏑木さんもここを一寸読んでみてごらんなさい。彼女も天皇陛下が起ち上ってくださることを強く求めています。

 鏑木さんが心配している外国の影響、コミンテルン(?)の介入、皇室へのスパイの潜入はあり得ることですが、雅子妃がゾルゲのような強靭な意志の人で、意識的に加担しているなどとは到底思えません。彼女は弱い人で、女官も侍従も病的なまでに誰ひとりをも信用しないために孤立していると聞きます。一人の担当医と一人の教育係のほかには信頼を寄せる相手はなく、勢い実家の小和田家にすがって生きているようです。そういう意味では皇太子妃の仕事は彼女には荷が重すぎたのでしょう。十分に同情できますが、だからといって日々、皇室を毀損しつづける光景を日本人として黙って見ているわけにもいかないのです。毎日学習院に見張りに出かける元気があって、お庭掃除の奉仕団に会釈することは相変わらず一切なく、スキーに行く体力があって、どんな祭祀にも園遊会のような行事にもお出ましにならないこと今や常態となっている由であります。同じ嘆きをもうこれ以上言いたくありませんが・・・・・・。

皇室と国家の行方を心配する往復メール(三)

西尾から鏑木さんへ(前篇)

 詳しい報告をありがとうございました。貴方がとりあげた旧皇族のスピーチは、誤報と考えていいわけですね。

 若狭氏の著作からとびとびの引用は、著作そのものを丁寧に読まないと分らない内容で、いま私は簡単に応答できません。第二次大戦の旧敵国が「日本人の正義」を消す戦いに成功した、という結論はその通りと思います。ですがコミンテルンが関与したのは占領政策までの話で、小泉首相の皇室典範会議にまでコミンテルンが手を伸ばしているという論の立て方は私にはちょっと理解できません。

 いずれにせよ、他人の著作のとびとびの引用に基いてわれわれ二人の議論を発展させるのは危ういので、この議論はいずれ著作をきちんと読んでからお答えする必要があればしたいと思います。

 たゞ貴方の論の立て方ですと、アメリカよりもコミンテルンのほうが日本の破壊に貢献したというように聞こえました。その結論は、私はさしあたり判断留保しておき、アメリカ文明の破壊性をあらためて考えさせる小さな出来事に出会った話をしておきます。

 過日『アバター』という映画を見ました。3D映像革命という宣伝につられてわざわざ有楽町にまで行ってきました。舞台を宇宙に置き換えていますが、あの映画のアイデアの基本は西部劇ですね。西部の荒野におけるインディアンの掃蕩戦。インディアンはここでは宇宙人で、酋長を中心とした祈祷の大集会、復讐の誓い、弓と矢による宇宙人たちの反撃戦。騎馬ではなく大鳥に乗って地球人の航空機と戦うのですが、西部劇となんにも変わっていませんね。子供はよろこぶでしょうが、長すぎます。

 最後は地球人は自然を破壊しただけで終り、宇宙人に敗れます。映画を見ていて、フィリピン戦争、日米戦争、ベトナム戦争における暴力による地球破壊の罪がアメリカ人のメンタリティに深いトラウマになっていることを証明しているような映画だと思いました。

 地球人が総攻撃を加えるときの標的の中心に、天まで聳える一本の巨樹がありました。あの一本を倒してしまえば全部が総くずれになるといって象徴的位置に見ている巨樹は、アジア各国の王室なのだと思いました。女王蜂を除去すれば蜂の巣はつぶせるとよくいいますね。あれと同じです。アングロサクソンの植民地政策はそういうことを最初から狙っているのだと思います。

 たゞアメリカは日本の皇室を甘く見ていませんでした。ずっと恐れていました。そして今のアメリカ人は皇室をもはや恐れてもいないし、嫌ってもいないでしょう。たゞ1945年~53年頃のアメリカには皇室破壊の深謀遠慮があったと思います。その証拠が、一つは皇室の無力化政策であり、二つ目は国体論143冊を含む「焚書」(本の没収並びに消去)です。

 60年以上経ってその効果が現われ最近とくに顕著になって来ました。貴方がご指摘になっていた神秘感の消失です。国民の多くが皇室にまだ敬愛の念を持っていますが、何とはなき神々しさを感じることが少なくなってきました。今回の貴方の問題意識は国民の冷淡さや無関心もさることながら、皇室自らが国民にまだ残っている敬愛畏怖の念をこわすような自滅行動をくりかえしていることへの痛恨の思いに発していることが、拝読していて分ります。多くの人が心を傷めている問題です。たゞそれが外国の介入から始まったといえるかどうかはまだ分りません。徹底して情報不足なのです。この次にこの問題を少し考えてみます。〔続く〕