ゲストエッセイ
勇馬眞次郎
今日はこの場をお借りして「北方領土」について書かせて頂きます。敗戦後、父がソ連軍捕虜となり兄二人が満洲引揚で亡くなっていますので昔から関心を抱いてきました。情報不足や的外れなことがあればご指摘賜りたいと思います。
旧臘、長門市で日露首脳会談が鳴り物入りで行われ、予想通りプーチンに引き分けどころか寄り切られ、「合わせ技一本」の負けとなり、国民として深い失望を禁じ得ませんでした。領土問題を棚上げした経済協力、つまり遣らずぶったくりの食い逃げの目に合っています。安倍首相を貶したくはないのですが、これは歴史的な日本の外交敗北だったと思われます。
国内の政敵を次々に殺害し、チェチェン、クリミア、シリア他の世界各地の戦争に関わり、血と硝煙の匂いを漂わせドスを利かせたプーチンに比べ、平和ボケした与党の三世政治家たる安倍氏では、交渉に臨む迫力が違ったのではないでしょうか。国際的影響力と発言力をもつプーチンとの格の違いも悪さをしたのか、結局懸念された通りの結果となりました。
プーチンは日本のマネーと技術で“ロシア領土”の北方4島を開発させる「共同経済活動」を先行させることに成功しただけでなく、西側諸国によるクリミア制裁に日本を使って楔を打ち込み足並みを狂わせることにも成功したのではないでしょうか。安倍氏は「両国の信頼関係を醸成し」「平和条約への第1歩を踏み出した」などと綺麗ごとを述べていますが経済協力が将来の領土返還につながる保証は一切なく、要するに日本側の成果(実利)はゼロだったことになり、将にプーチンの対日外交の大勝利に他なりません。今回のトップ交渉で日本側が得るべきだったのは、事前に政府サイドが頻りに喧伝していた「領土返還」の約束でしたが会談後の両者の声明では一言も触れられませんでした。
かような結果になるくらいなら、読売・日本テレビインタビューでプーチンが「領土問題は存在しない」と言い放った時点で、西村眞悟氏主張の通り、「話しあう議題がなくなったのだから訪日無用」と云って会談を断り、プーチンを日本に入れるべきではなかったことになります。これは決して結果論ではなく、この結果は始めから可成りな確率で予測できたことでした。
安倍氏は巌流島の佐々木小次郎さながら2時間40分も待たされた挙句の90分余の密談だったわけですが、勿論この交渉でどの様な密約が交わされたのか、政府レベルでどのような取決めが裏でかわされたのか、どのような背景があるのかマスメデイアの報道する情報以外知るよしもありませんが、影響力をもった(御膳立てした)とも言われる鈴木宗男のテレビ番組発言で推測は可能です。
安倍氏は会談後正式に「4島での経済活動はロシア法でも日本法でもない特別な制度で」と云い、プーチン氏は明確に「ロシア法が適用」と云い、明らかに矛盾する説明になっています。「特別な制度」と言いながらその中身を定義しなければ全く空疎でナンセンスです。
日本は対露投融資3000億円をコミットしたと報じられていますが、嘗てサハリン1プロジェクト、サハリン2プロジェクトで手痛い目に会っていることを忘れてはならないでしょう。樺太の油田、天然ガス田の開発プロジェクトです。「共同経済活動」で日本側に齎される利益やリスクを真剣に客観的に検証しているのでしょうか。日本のビジネスチャンス拡大、資源確保などが挙げられていますが、ここでも食い逃げされる恐れはないのでしょうか。
70年前にソ連が日本の敗戦時にした国家犯罪はクリミア併合などとは比べ物にならない悪辣なものでしたが国際社会も日本国民もその事実を殆ど知りません。安倍氏は「互いに正義を主張しては問題は解決しない」と云ったそうですが、このような発言が出るということは、日本の正義が何で、ロシアの不正義が何であるかをキチンとレクチャーを受けていないと言わざるを得ません。
戦争で奪い返せないのであれば交渉力と謀略で返させるしかありません。その交渉には従来の手法と根本的に違った技を駆使しなければ土台無理なのです。
えんだんじ氏もご指摘になった通り、鈴木宗男はこの北方領土返還等の話し合いを食い物にして受託収賄、斡旋収賄、政治資金規正法違反で実刑判決を受けています。この類の者らの雑音を黙らせ、対ソ情報戦略を確実に遂行することしか領土返還を実現する道はありません。国家主権の問題に「島民の墓参」といった人道的な問題を絡ませることは却って問題を矮小化するものです。
会談前、プーチンは「歴史のピンポンをやめるべき」と牽制しましたが、この歴史問題こそロシアの最大の弱みであり今後の対露交渉の鍵を握ります。ロシアの対日歴史負債つまり日本はロシアに対して大きな「貸し」があること、ロシアが日本人に対して犯した国家的犯罪を国内と国際社会で衆知させ、返還が「ロシアの神聖な義務」であることのコンセンサス(国際世論)を作りあげる教育宣伝活動です。政府がやるべきですが民間に任せて非公式にしかも大々的に実施すればかなりな効果が期待できるでしょう。ロシアの有力な知識人であるアルハンゲルスキーやソルジェニーツィンは日本に返せと主張していますが今ロシア国内でこの意見をロシア人が公表すれば殺されるでしょう。しかし日本をベースにロシア国民に周知させる方法はあるはずです。
反対にロシアの対日世論工作を封じる必要があります。嘗て故瀬島龍三はロシアの極めて有力な誓約抑留者という名のスパイでした。現在も工作員が政財界、マスコミに野放しになっている可能性は高く彼らを徹底的に摘発し排除しない限り日本の情報工作は成功しないでしょう。
外交は所詮武力の背景がなければ無力です。核兵器を持たず憲法以下の法令で自ら手足を縛りあげている自衛隊しか持たない日本はロシアのような国からは侮りの対象でしかなく、まともな外交交渉の相手とは見ず、まともに領土の交渉をする気にもならないのではないかと思います。北方領土や樺太・千島をいざとなれば腕力で奪取する勢いがなければ領土は永遠に返りません。
要するに、謀略と武力の二つの基本を取り戻さないかぎり日本は外交交渉で永久に負け続けるしかなく、国際社会での日本国の地位すなわち首相の格もこの二つにかかっています。
1年前にTel Quel Japon の故Bruxelles氏から教示されたのですが、嘗て2人のロシア人有力者が以下の発言をしており、彼らの意見をその交渉に活用することが極めて有効であり、それ以外に北方領土を打開する方法はないとさえ思われます。対露交渉に向け日本人専門家(木村汎氏/袴田茂樹氏/佐藤優氏/鈴木宗男ら)が種々意見を公表しましたが、皆な大同小異で従来の発想を免れず、4島返還は絶対に無理でしょう。この鈴木宗男などはフジテレビの番組で「一島でも二島でも・・返還できれば」と自慢そうに首相との近さを吹聴していました。これまで日本が領土交渉で一歩も前進できないのは交渉手法が根本的に誤ってきたからと認識しなければ又失敗を繰り返すだけです。
国後・択捉にミサイル配備がされたあとに、「首脳間の信頼関係を」などと生ぬるいことを云うようでは駄目です。西尾先生も確かご指摘だったと記憶しますが、配備を撤去することが交渉の前提だと言わなければ交渉は始めから負けです。ウイッテ、スターリン、フルシチョフ、グロムイコ、エリツィン、プーチンなどロシアの歴代の指導者はみな狡猾で信義を知らず、約束を破ることを屁とも思わない奸知に長けた食わせ者揃いでした。彼らに自民党や政府の紳士方には太刀打ちできないのではないでしょうか。松岡洋祐のように豪胆に決然と交渉できる人材でなければ国民は国益を賭けた交渉を任すことが出来ません。
以下述べるように、「ロシアが日本に負っている歴史的負債を千島列島全てか、せめて4島を返すことが、ロシアの日本に対する神聖な義務である」と、日露戦争時の明石元二郎さながらの諜報によりロシア世論を変え、プーチンには喧嘩腰で臨むことだけが日本に勝機をもたらすと考えます。これをプーチンが受けられなければ決裂させ、平和条約締結を棚上げし、ロシアの莫大な対日補償債務の存在をことあるごとに主張し、永久に日本への負い目を味あわせ続けることが出来ます。安倍総理はつまらない妥協で汚名を日本史に残すよりは、100年かかっても、武力に訴えても、取り戻す覚悟を示して席を立つべきです。
「4島返還がロシアの神聖な義務である」と主張したV.A.アルハンゲルスキー(Valentin Akimovich Arkhangelsky)は何故かウイキペディアに登場せず生存しているかどうかも知れませんが、1928年生まれで作家、ジャーナリスト、イズベスチャ紙副編集長、イズベスチヤ紙別冊週刊ニェジェーリャ誌編集長、ウズベキスタン国会議員、タシケント市長を歴任したソ連中枢の人物です。ロシア人としての良心に根差したこの勇気ある発言はかつてのソルジェニーツィンと共通します。
ソルジェニーツインは、今では忘れられた作家ですが、20世紀ロシア文学の最高峰としてロシア文学史上トルストイやドストエフスキーに匹敵する存在で、北方領土はずっと日本領だったと公言していました。
“(クレムリンは)かつてロシア領であったことのない日本の島々(南千島列島)をエセ愛国主義のとてつもないねちっこさと傲慢さで返還しようとしない。革命前のロシアは自分の領土だと言った事さえなかった。ワシーリー・ゴローニン船長(国後島で幕府役人に捕縛され箱館で幽閉)は19世紀の始めに、プチャーチン提督は1855年に、まさに現在日本が主張している国境線を認めていた。領土の小さい日本にとってこれらの島々の返還は国家的な名誉と威信の大問題であり、来るべき世紀において西欧諸国側からもロシアの南側からも友邦が現れないで、対露圧力が益々厳しくならんとするときに、この友好国獲得の可能性を撥ね退け、独立国家共同体などに走るのか?”
トップ交渉は最後の局面でしかなく、まず日本国民が1940年以降の正しい歴史知識を共有し、領土に関する無関心、無欲、無気力を脱して、歯舞、色丹、国後、択捉の全面返還以外にあり得ないという圧倒的世論が形成されなければなりません。同時並行して、ロシア国内の世論形成も重要であり、アルハンゲルスキーやソルジェニーツィンのような有識者の考えをロシア国民に広く共有させるべく工作でき、更に国際世論を味方につけられれば、安倍総理もプーチンも、それ以外の結論を導くことが出来なくなります。現在日本国内では逆にロシアが、嘗て瀬島龍三など有力な日本人エージェントを使ったように、今も日本国内世論をロシアに有利に誘導する動きが見られるのは極めて遺憾です。
アルハンゲルスキーは以下のように主張します(プリンス近衛殺人事件、瀧澤一郎訳、新潮社―2000年)がこれは日本への強力な援軍であり大いに活用しなければならない意見です。
“これまで日本がロシアの手玉にとられ続けてきた理由は、日本がロシアと外交上対等以下であることを前提にするからであり、日露は決して対等ではなく、ロシアは日本に大きな歴史的債務を負っていることを交渉の前提に出来れば北方領土どころか全千島列島さえ正当に要求できる。”
ロシアの対日歴史負債とは以下の3つです。
1.1941年6月に同盟国ドイツが、2か月前に日本と中立条約を結んだソ連と戦端を開いた時に、日独同盟の好しみで、東からソ連を攻め込めば、ソ連は日独の挟み撃ちで壊滅していました。松岡外相がこの策を執ろうとし昭和天皇が止めさせたと言われていますが、日本が1942年4月に日ソ中立条約を律儀に遵守したことは、4年後にはソ連がこの条約を破ったことと照らし合わせ、日本の歴史的なソ連に対する大きな「貸し」と云えるのです。
2.反対にソ連は1945年2月にソ連は中立条約を一方的に反故にし、その後の非人道的で卑劣極まりない国家的犯罪を犯したという大きな「借り」を日本に負っています。
以下の経緯はソ連が国際社会で隠すべくもない歴史の汚点です。プーチンはよく「第二次大戦の結果、ソビエトが獲得した島」と言い募りますが、事実は、第二次大戦の戦闘終結後に「ソビエト軍が一方的に侵略した」のであり、ソ連は、戦争が終わってから戦争を始め、無抵抗の日本軍に「勝った」と称して9月3日を「対日戦勝記念日」にしています。この詭弁と虚言は日本政府が徹底的に反論して叩き潰さなければならないものです。
1945年2月、ヤルタ会談で米英に対日参戦を密約。
8月6日、広島原爆投下で日本の敗戦が必至に。
8月8日、日本時間23:00、モロトフ外相が佐藤尚武駐ソ大使に宣戦布告文を伝達。佐藤大使が直ちに外務省に、モスクワ中央電信局から打電したが、ソ連政府が公電を遮断したため、果たせず。
8月9日、日本時間00:00ソ連が日ソ中立条約を破って国交断絶、武力侵攻開始、満州・樺太へ侵入開始。満州・樺太の全土で日本民間人へ略奪暴行の限りを尽くす。
8月9日、日本時間04:00日本政府、タス通信、米国の放送により、宣戦布告を知る。
8月10日、日本時間11:15マリク駐日大使が東郷外相に宣戦布告文を手交。
8月14日、葛根廟事件。内モンゴル自治区葛根廟鎮で日本人避難民(国民学校児童とその母親ら)1,000名以上をソ連軍が戦車で虐殺。
8月15日、ポツダム宣言受諾(日本軍戦闘停止)
8月18日、ソ連軍は一方的に戦闘を継続し占守島に艦砲射撃後、上陸して日本軍を攻撃。
8月20日、樺太・真岡に上陸し多数の住民を殺戮(これを映画化したのが「氷雪の門」)。
8月28日以降―9月5日、歯舞、色丹、国後、択捉に上陸。
3. その後の日本人捕虜シベリア抑留、奴隷化という人道に悖る悪逆非道も日本に対する大きな「借り」といえるものです。1945年の敗戦後、極寒のシベリアへソ連政府に強制連行された日本人のうち50万人以上が殺されていながら未だに不問に付されているのです。
アルハンゲリスキーが、ソ連当局が保有する膨大な秘密文書を10年がかりで読み解いたソ連による犯罪的日本人抑留の記録をもとに近衛文麿の嫡男、近衛文隆が受けたソ連当局による逮捕、拷問、暗殺の詳細、その他の関東軍将官、将兵の抑留という名の奴隷化も本書が克明に証言しています。題名が不当であって、「日本人捕虜のシベリア強制連行と虐待および近衛文麿の暗殺」が正しいでしょう。アルハンゲリスキーがソ連の内部文書によって暴露し告発した重要な事実は以下の4点です。
⓵ 大東亜戦争終結時、関東軍は天皇の詔勅と政府の声明に従い自発的に武器を置いたにも拘わらず、ソ連はジュネーブ国際条約に違反し、日本人(軍人・民間人)を少なくも105万人(スターリンの秘密金庫に秘匿された文書による)捕虜にしたうえ暴力的にシベリアへ強制連行し、反人道的な虐待を行った。未集計の収容所の人数を合わせて推計すると250万人以上にのぼる。日本側調査による死者名簿では60万人にすぎず、この数字が現在定着している。
⓶ その内、少なく見積もっても50万人を過労死、凍死、餓死させ、墓を作らせず、墓を壊し、隠滅した。日本側調査による死者名簿では5万3千人にすぎない。
⓷ 近衛文隆(近衛文麿の自決によって公爵位相続)の暗殺はソ連の最高機密で、スターリンが先導し、最終決定者はフルシチョフ。
⓸ 日本の社会党その他のエージェントの協力で隠蔽工作が行われ、抑留生存者の死滅とともにこの国家犯罪が忘れ去られることを図った。
映画「氷雪の門」同様、ソ連に不都合な「シベリア抑留の悲劇」が「東京大空襲の悲惨」、「広島・長崎の原爆の残虐」に比べ極端に言及が少ないのは極めて不自然であり、本書が日本で普及しなかったのもソ連当局と瀬島龍三その他の日本人協力者らが隠蔽工作をしたからと推測されます。
瀬島龍三は、佐々淳行の「私を通りすぎたスパイたち、2016年」でも証言されていますが、「誓約抑留者」という名のソ連スパイでありながら、戦後、ソ連潜水艦の性能を向上させ同盟国の対日信用を失墜させた東芝ココム密輸事件の黒幕となり、伊藤忠商事会長、中曽根元首相や経済界のブレーンを務め95歳で天寿を全うした男で、本書でも、「ソ連参謀本部やKGBで命令された通りを東京裁判で全部証言し、よくやったと誉められた」と暴かれており、戦後レジームを陰で支えた一人ともいえるでしょう。
以上の3つの事実は、日本の敗戦のドサクサのなかで、WGIPとタイアップしたソ連の謀略によって秘匿され、日本の多くの人々が現在に至るまで知りません。国際社会は猶更無関心で、この歴史事実は殆どの国の教科書から抹消され、知る人は少ないのです。安倍総理はプーチンにこの3点を持ち出し、突きつけ、そこから交渉を開始すれば日本が圧倒的に交渉上優位に立てるのです。「ウソの対日戦勝記念日」の廃止と「シベリア抑留」の正式謝罪を求め、抑留者一人一人に労働賃金、慰謝料の支払、遺族には五十倍の額の弔慰金支払を請求し、「北方領土返還」よりも「シベリア抑留問題の解決」が真の日露友好を樹立するために重要な先決課題であり、これを避けた両国間の信頼関係構築はあり得ないと主張することが北方領土返還の近道です。外交交渉では相手の最も恐れ嫌がる弱点を遠慮なく容赦なく突くのが当然で、ロシアは歴史を捏造してまでこの手で日本を攻めていますが、優位にあるはずの日本は和を貴ぶ国民性からか、ひたすら相手を刺激しないよう、摩擦を避け、穏便で平和的な外交を追及し、正々堂々と胸を張って毅然と相手国に要求すべきことを要求しない性癖が出来上がっているように思えてなりません。
最後にアルハンゲルスキーの具体的提案をご紹介します。
“日本は堂々と胸を張って次の十カ条をクレムリン当局に要求すべきだ。”
一.関東軍は天皇の詔勅と政府の声明に従い自発的に武器をおいた。ロシア国会はこの関東軍を捕虜にした事実を非難する決議を採択し、日本に公式謝罪する。
二.対日戦勝記念日を廃止する。そのような勝利はなかった。日本に勝ったのは米国であってソ連ではなく、あったのはソ連の対日侵略行為のみである。
三.「日本人シベリア抑留白書」を刊行する。
四.暴力的にソ連国内に拉致されたすべての日本軍の兵・士官・将官及び無辜の市民は強制抑留者であること、そこからあらゆる問題が生まれたことを認める。
五.ソ連経済復興における日本人の勤労貢献に関する公式データーを公表し、もと抑留者一人一人に賃金を全額支払い、遺族には五十倍の額を支払う。
六.すべての日本人墓地を復旧、整備し、記念碑、記念塔、死者の名を入れた墓標を建立する。できうる限り正確な死亡者数を出し、日本側に死亡者名簿を渡す。
七.おおむね日本人の手により完工されたタイシェト・ブラーツク間のバイカル・アムール鉄道は、これを日本幹線と改称する。
八.ハバロフスク裁判など類似の日本人に対する裁判は国際法上の見地から不法であり、全被告者の名誉回復を実施する。
九.近衛文隆(近衛文麿の長男)関連の文書をすべて公開する。元イワノヴォ第四八号ラーゲリの跡地にプリンス・コノエ記念センターを設置する。プリンス・コノエ・フミタカ露日人道基金を創設し、カーゲーベー拷問室における文隆の生と死の物語を一巻本として刊行し、これを映画化し、テレビ・ラジオで放送する。文隆の殺人犯に対する国際法廷を開廷する。
十.しかるべき研究機関にシベリア抑留問題に関する基本文献たるべき研究成果を作成させ、傑出した著作・研究に対し賞金を出す。“
明治になってから、新政権の正統性を誇張するあまり旧政権時代の事績が殊更に無視されがちで、すでに江戸時代に徳川幕府政府が以下のように、小笠原諸島への主権行使の先鞭を付けていたことを忘れることは日本の外交上不利に働いたのではないかと思いますが、北方領土に関しても明治政府は同様のミスを犯し、榎本武揚に尻拭いさせていたことを付言します。
1675年に幕府が島谷市左衛門尉を小笠原諸島に派遣し島々の調査を実施、各地に地名し、此島大日本之内也の石碑も建立。1727年に小笠原貞任が幕府に請願書を提出以後、日本で小笠原島という名が定着。勝海舟の書き残した「海軍歴史II」に拠りますと、1862年に幕府の老中安藤信正が当時の幕臣中傑物と謳われた外国奉行水野忠徳に、「小笠原島開拓の御用仰せつけられ候につきては都合次第、御軍艦に乗り組み、彼の地に、巨細実検いたし、厚く勘弁の上、見込みの趣申し聞けられ候こと」と命じています。水野はこれを受け、遣米使節団を帰国させたばかりの咸臨丸で、小野友五郎、松岡磐吉、甲賀源吾など後に函館戦争で活躍する麾下の士を引き連れ、小笠原に渡っています。その節、居住していた米人Nathan Savory, George Horton、英人Thomas Webbなど主要人物との興味深い対話が記録されています。水野らの認識は、「これら外国人ども、いずれも軍艦、鯨取船等にて水夫(かこ)働き致し居り候者ども、老衰、疾病にて暇(いとま)だし候輩(やから)にて下賤の身柄にこれあり、国命を受け開拓に相越し候者とては一人もこれなく」と、インタビューした結果、結論づけ、彼らに次のように通告し喜ばれています。
「この度拙者ども罷リ越し候儀は当島開拓のため、しかしながら其の方ども退去させ候儀にはこれなく候間、安堵致すべく候」「ついては追々内地より農民ども相移し候間、末永く和合いたし相暮らし候様」
また以下の指示は現在の環境保護の観点からも評価されます。
「山々に棲み居り候獣類は恣に狩り取り候こと相なり難く候」
と禁猟を申し渡し見事は主権行使の実績を残しています。
その後、幕臣佐々倉桐太郎を派遣し正式な測量を行い同年6月には日本駐在の英米仏露独以下の各国外交団に小笠原諸島の領有権を公式に通告していますので、寺島卿がパークスの野望を出し抜いた功績はさることながら、回り道せずとも幕末の先人の外交成果を一言継承すると明言するだけで済んだのではないか、ことほど左様に明治新政府のやったことは幕末の開明官僚の後追いが多いこともわれわれが認識しておくべきことではないか、いま対露外交を担う外務官僚には、これら幕末官僚に学び、彼らに負けない適切妥当な措置を迅速に講じて国益を貫いてほしいものと思います。
了