西尾幹二全集第9巻『文学評論』の刊行

 私の全集は過去の作品の集合ではなく、再編であり、再生であることを秘かに誇りにしていることを、今度出た第9巻『文学評論』ほどはっきり示した例はないだろう。今まではどの巻にも一冊ないし二冊の主要著作があった。今度はないのである。一巻ぜんぶばらばらのものを再編成した集合作品集である。愛読者の方でも知らない文章が多いはずである。その第9巻がついに出版された。あらためて目次を紹介させて頂く。

 文学評論は私の故地であり、根拠地である。私の発想の基本には文学がある。そのことにすでに気がついている方も多いだろうが、後半生の仕事から私を知った方は、これほどの分量の文学評論が書かれていたことはあまり知らないだろう。

 私はこの道へ再び立ち戻るかもしれない。やり残したテーマが私を待っているからである。本巻の「後記」を読んでいたゞくとそれが分る。

 全集発刊のペースはじりじり遅れていて、3ヶ月に1巻のペースは少しづつ難しくなっている。全巻講読の機会をとり逃がしていて、それでもまだ講読のお気持をお持ちの方は、国書刊行会の永島成郎営業部長(Tel 03-5970-7421)と相談して欲しい。9巻までを一度に購入しないでも毎月一巻づつ買って9ヶ月で追いつく、等々の便利な方法をいろいろ考えてくれるはずである。よろしくお願いしたい。

 また最寄りの図書館に買い入れ要請をして、そこで読んでいたゞくことも可能だと思う。

  目  次

Ⅰ 初期批評

 批評の二重性
 現代小説の問題(付・二葉亭四迷論)――大江健三郎と古井由吉
 日常の抽象性――開高健『夏の闇』をめぐって
 観念の見取図――丸谷才一『たった一人の反乱』と山崎正和『鷗外闘う家長』

Ⅱ 日本文学管見

 日本人と時間
 『平家物語』の世界
 『徒然草』断章形式の意味するもの
 人生批評としての戯作――新戯作派と江戸文学
 本居宣長の問い
 明治初期の日本語と現代における「言文不一致」
 漱石『明暗』の結末
 芥川龍之介小論
 漢字と日本語――わたしの小林秀雄

Ⅲ 現代文明と文学
 
 智恵の凋落
 批評としての演出――シェイクスピア『お気に召すまま』
 愚かさの偉大さ――黒沢明『乱』とシェイクスピア『リア王』
 オウム真理教と現代文明――ハイデッガー「退屈論」とドストエフスキー『悪霊』などを鏡に
 韓非子の説難
 歴史への畏れ
 便利すぎる歴史観――司馬遼太郎と小田実

Ⅳ 現代の小説

 八〇年代前半の日本文学
 老成と潔癖――現代小説を読む
 「敗戦」像の発見――明るい自由な時代の不安

Ⅴ 文学研究の自立は可能か

 作品とその背後にあるもの

Ⅵ 作家論

 高井有一
 柏原兵三 Ⅰ Ⅱ Ⅲ
 小川国夫
 上田三四二
 綱淵謙錠
 手塚富雄
 江藤淳 Ⅰ Ⅱ Ⅲ
 石原慎太郎

Ⅶ 掌篇

 大岡昇平全集の刊行にふれて
 平野謙と批評家の生き方
 「近代文学」について
 文壇の内と外
 三島由紀夫『青の時代』について
 一度だけの思い出
 ツルゲーネフ『父と子』
 私の読書遍歴
 私が出会った本――ニーチェ『悲劇の誕生』と福田恆存『人間・この劇的なるもの』
 ドイツ文学を選んだこと
 トナカイの置物――加賀乙彦とソ連の旅
 柏原兵三の文学碑
 近代文学 この一篇

Ⅷ 一九八八年文壇主要作品論評

 「新潮」 (一九八八年一~三月、同十月)
 
  告白の抑制――辻井喬『暗夜遍歴』
  言葉の届かぬ領分――高井有一「浅い眠りの夜」『塵の都に』
  健康な、余りに健康な――野坂昭如『赫奕(かくやく)たる逆光』
  自然人の強な生命力――八木義徳『遠い地平』
  生の暗部への対応――黒井千次『たまらん坂』、田久保英夫『緋の山』
  
 「海燕」 (一九八八年九月~八九年二月)
 
  主題不在の変奏――吉本ばなな『うたかた╱サンクチュアリ』、丸谷才一「樹影譚」
  時代の映像――安岡章太郎『僕の昭和史Ⅲ』、新井満『尋ね人の時間』
  日常と深淵のはざま――色川武大『狂人日記』、石原慎太郎『生還』
  世界像の明暗――中野孝次『夜の電話』、村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』
  陰画の必然性――阿部昭『父と子の連作』、坂上弘『突堤のある風景』

Ⅸ 文芸時評
 
 「季刊芸術」(一九七〇年一~三月)
  「日本読書新聞」(一九七二年一~六月)
 文芸時評のこと
 共同通信配信(一九八一~八四年抄録)
 文芸時評家対談・座談会の記録一覧

Ⅹ 書評

評論

小林秀雄『感想』 桶谷秀昭『保田與重郎』 入江隆則『幻想のかなたに』 秋山駿『魂と意匠――小林秀雄』『山口剛著作集』全六巻 高橋義孝『文学非芸術論』 ベーダ・アレマン『イロニーと文学』 島崎博・三島瑤子編『定本三島由紀夫書誌』

小説

芝木好子『隅田川暮色』╱『貝紫幻想』竹西寛子『春』╱『読書の歳月』 上田三四二『花衣』╱『惜身命』 古山高麗雄『小さな市街図』 井上靖『本覺坊遺文』 柏原兵三『独身者の憂鬱』╱『ベルリン漂泊』 高井有一『遠い日の海』╱『夜の蟻』 立松和平『歓喜の市』辻井喬『暗夜遍歴』 中野孝次『はみだした明日』

追補一 桶谷秀昭・西尾幹二対談 戦後三十年と三島由紀夫

追補二 江藤淳・西尾幹二対談 批評という行為――小林秀雄没後十年

後 記

平成26年坦々塾新年会

 2月も雑誌論文で苦労しました。

 『WiLL』4月号に、「アメリカの『慎重さ』を理解してあげよう」を書きました。ただし、これは副題にまわり、「『反米』を超えて」が本題になったようです。本題をつけたのは花田編集長です。

 『正論』4月号は3回の連載が終りました。「『天皇』と『人類』の対決―大東亜戦争の文明論的動因 後篇」です。やっと終りました。3回で100枚論文になりました。

 ところで、1月の坦々塾の新年会の報告分を渡辺望さんに書いてもらいました。以下の通りです。

渡辺 望

 1月25日午後4時より、坦々塾新年会が水道橋の居酒屋「日本海庄屋」でおこなわれました。新年会の進行は前半は西尾先生の新年に際してのお話、そして坦々塾新会員の紹介、そして後半は懇親会という順序でした。

 参加者は10名の新入会員の方を含め48名を数えました。新入会員のお名前を挙げさせていただきますと、赤塚公生さん、伊藤賢さん、片岡紫翠さん、竹内利行さん、田中卓郎さん、恒岡英治さん、松原康昭さん、村島明さん、藪下義文さん、渡辺有さんです。皆様、坦々塾の参加に至る経緯をお話くださいましたが、それぞれ多様な形での西尾先生・坦々塾へのアプローチを経ての参加でした。

 新年会の始まりに際して、西尾先生の本筋でのお話とは別に、2月9日に迫っている東京都知事選への先生の田母神俊雄候補への強い支持期待が表明されました。また西尾先生の著作『真贋の洞察』(文藝春秋社)が、会員の今後の思想考察の深化に役立つよう、会員に一冊ずつ無償で先生より提供されました。懇親会は三時間以上に及ぶ大議論の席となりました。 

 さて、当日の新年会報告を西尾先生のお話を中心に以下記したいと考えますが、当日の先生のお話の主要内容だった、アメリカ論を中核にした近年の日本を巡る国際関係論については、先生の近著の『憂国のリアリズム』『同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説くときがきた』と内容が重なるように感じられます。そこで、両著作と先生のお話を行き来しながら、先生のアメリカ論をまとめることで、新年会報告の大枠にいたしたく思います。

 「反米」と「親米」、あるいは「親米保守」と「反米保守」という言葉が、西尾先生に限らず、最近の論壇人の論考に多く出てくるようになってきているように思います。それについて自分は色々な感想を持つのですが、これは今回の新年会ではなく、前回の年末の全集記念講演会でのことなのですが、先生が「自分は反米ではないんですよ」と言った途端、「意外だな・・・」というニュアンスのような苦笑の集まりの笑い声が聴衆の皆さんから起きたことを思い出します。

 ところがしばらくして先生が「自分は反米ではなく離米だ」といったときには、聴衆の感情的な反応は何もありませんでした。おやおや・・・と私は思いました。聴衆の皆さんは西尾先生の最近のアメリカ論の本当がわかっているのだろうか?と自分は感じました。「自分は反米でも嫌米でもなく離米」、この言葉は新年会の西尾先生のお話でも再び登場しました。それだけではない、私があげた先生の近著でもある言葉です。

 「反米論」というのはそもそも、たいへん雑多な立場を意味します。反米論と親米論、親米保守論と反米保守論という区分がとりあえず可能だとして、現在、最も先鋭に親米保守論の位置にいる(と思われる)論客の一人に田久保忠衛さんがいます。その田久保さんとやはり親米保守論に位置する古森義久さんとの『反米論を撃つ』という対談本があるのですが、この本を読むと、戦後日本の反米論の系譜がよく整理されていて面白い。両者の主張を一言で言えば、戦後日本の反米論の大半が、全くくだらないものだったということです。

 言うまでもなくまず左翼的な反米主義という「伝統的」な反米主義があります。この流れはかなり弱体化したとはいえ、依然として朝日新聞その他に相当数存続している。西尾先生も著書で言われていますが、1970年代くらいまでの日本の言論界はまったくの左翼主導、ソビエト、中国、北朝鮮礼賛で、それらの共産国家に対峙するアメリカを支持すること自体が「保守」である証しでした。福田恆存ですら「日本はアメリカの「妾」でなく「正妻」になれ」と言っていた時代です。この時期におおっぴらにアメリカ批判とナショナリズム的姿勢を一体させていたのは、三島由紀夫と、先生が著書で引かれているような赤尾敏の銀座辻説法くらいのものだったのではないでしょうか。

 「伝統的」な左翼的な反米主義は要するに、アメリカの軍事攻勢を受けている各地域でおこなわれている残酷な情景や管理統制をとりあげて、「反」を突きつける、というやり口なわけですが、当然なことに、アメリカの軍事攻勢の対象になっている勢力の残酷については無視を決め込む、という稚拙なものです。ベトナム戦争でアメリカに対峙する「正義」なる北ベトナム政権がベトナム人民におこなった大量虐殺をベトナム反戦運動が問題にすることは決してなかった。この反米左翼の思潮の相当部分が、(時折、親中国・親韓国化する)アメリカという虎の衣を借る狐になって親米左翼化し生き残ろうとしている由々しき現状も進行しています。

 しかし、以下は田久保さんの本に書かれていることではないのですが、こうした伝統的な反米左翼はもっと根本のところで大きな欺瞞をもっていると考えられます。それは戦後アメリカの軍事攻勢や政治攻勢をラディカルに否定するのなら、大東亜戦争の最終期において、日本は本土決戦を継続すべきではなかったか、という避けて通ることのできない問題を避けてしまっていることです。

 もし本土決戦を続ければ、日本国家は物理的には壊滅し、凄惨な殺戮の中、国土の少なくとも半分は東側陣営に組み込まれ、皇室の存続もあやうくなっていたでしょう。少なくとも今日のような日米安全保障体制はなかったに違いない。しかしそのことはまさに、「アメリカの傘下に入ることを拒否しつくした日本」「アメリカに徹底的に抗戦を続けて壊滅した日本」という、反米主義の実現の極地に至ることを意味したのではないか。日本の破滅と引き換えに、日本が「反米の聖地」になったかもしれないのです。しかし「甘え」に浸っている大半の反米左翼はこの苦しい問題を考えることをしない。

 だから戦後の日本の時間はすべて「虚妄の時間」であるという後ろめたさが本来、反米主義には圧し掛からなければならないことになります。けれど「虚妄の時間」を拒否して、「本土決戦=日本の破滅」を受け入れれば、こうして語っている自分たちも消滅するのかもしれないのですから、それは簡単に拒否できるものではない。「虚妄」はさらに重くのしかかってくる。「反米」は決してやさしい思想ではないのですね。それどころか、戦後最大の難問なのかもしれない。少なくともその難問の重さを、「伝統的」な反米左翼は何ら認識していないといえます。

 田久保さん古森さんの本に戻りましょう。この本は後半に至り、「反米保守」の旗をかかげた西部邁さん小林よしのりさんへの激しい批判を展開します。これは小林さんたちが田久保さんたちを批判したことの再批判という面もあるようですが、つまり保守主義的立場からの「反米」が可能か、という問題になります。西部さんはかつては湾岸戦争でアメリカの軍事介入を前面支持したように、一面的な反米主義者ではなかったのですが、ここ10年間くらいに、猛烈な反米主義に転じました。その西部さんに私淑している小林さんがそれに追随して反米主義のアジテーションをあちらこちらでしているということは、案外よく知られていることです。

 西部さん小林さんの幾つかの反米主義の本(『反米の作法』など)田久保さん古森さんの批判本を読み比べる限り、両者の対立は田久保さん側の「完勝」です。田久保さん古森さんはこれでもかこれでもかと西部さん小林さんを言葉遣いの間違いのレベルからこきおろしているのですが、残酷なくらい全部あたっているんですね(笑)

 言葉遣いの面はともかくとして、全体的にみて、西部さん小林さんが掲げている「反米」は、反米の「反」だけしかわからないのは、私のようにアメリカ論の専門家でない人間にもよくわかります。批判対象のアメリカの実体がぜんぜん見えてこない。たとえば西部さんは「アメリカ=WASP」論を振りかざしますが、田久保さんが批判するように、アメリカの主導権を握っているのは相当がユダヤ人であるという常識的な視野がゼロ。またあるいは英米可分論と英米不可分論という、近代史で時期をわけて慎重に論じなければならない重要テーマについても西部さんはイギリスは伝統主義の国だといい、「アメリカはヨーロッパという故郷を喪失している」というふうに断じているだけで、アメリカ=反伝統、ヨーロ
ッパ=伝統主義というブツ切りにしているだけです。

 アメリカが嫌いで仕方ないのは個人的趣向としていいとして、西部さんたちにはアメリカという国への「驚き」がないのではないか、と私は思います。史上かつて存在したことのない国家であるアメリカという国への「驚き」がない。驚きがないから、アメリカを既存の歴史の概念の枠組みに強引に単純に当てはめる。西部さんはアメリカを「ソビエトと同列の左翼国家」なんていっているんですね。そんなふうにいうならフランス革命の思想を輸出してきた近代フランスだって立派な「左翼国家」ではないでしょうか(笑)

 この「アメリカ嫌い」にはリアルポリティックスへの考察もないですから、北朝鮮をどうするか、ベトナム戦争はどちらが正しかったのかどうかという言及もない。もしアメリカが不在だったら、北朝鮮に「戦後日本」が独力で対峙し、ベトナム戦争にだって「戦後日本」は介入しなくてはならなかったでしょう。イラクの問題と違い、これらは近隣の東アジアでの日本にかかわる出来事です。言及したっていいのですが、そこまでの想像力はなく、結局、西部さんがやっていることはイラク擁護みたいなことに陥り、これはベトナム戦争のべ平連の思想と何も変わらず、つまり伝統的な反米左翼と同じになっていく。
 
 言うまでもなく、西尾先生のアメリカ論は西部さんのような乱暴なアメリカ論とは無限の距離があります。新年会のお話で「日本はアメリカに依存して生きている。安全防衛だけでなく食料や水までも依存している。この依存しているという事実から離れられないことは認識しなければならない」と先生は言われました。このお話を私なりに解釈すると、日本がアメリカに依存してきたこと、そして戦後世界でアメリカがしてきたことは全部が全部、間違いだったということではない、それは厳然たる事実で見つめないと話が観念的になってしまうよ、ということになると思います。

 たとえばベトナム戦争でのアメリカの介入自体は間違いではなかった。北ベトナムに正義なんてなかったのです。もちろん、イラクにも北朝鮮にも正義はない。これは親米保守だろうが反米保守だろうが、「保守」の面から揺り動かすことのできない点であって、この点は田久保さんたち親米保守派と西尾先生は見解を一にされると思います。

 問題は、アメリカの「正義」が、短期間的な戦後のリアルポリティックスからみれば妥当なのだが、長期的に考察すればだんだんといかがわしい面が見えてきて、リアルポリティックスから本質論に向いて考えざるを得なくなるという点です。たとえば、なるほど、ベトナム戦争や朝鮮戦争はアメリカの正義であり、西側自由主義の聖戦だった。しかしそのことと、20世紀前のアラスカやハワイ、フィリッピンの侵略は軌を一にしないものなのかどうか。中国と組んで日本に包囲網をつくったアメリカと、冷戦終了後も世界に軍事基地を維持しているアメリカは、同一のものなのではないか。同じ根源から同じように起きていることが、時代によって正義に見え、時代によって侵略そのものに見えるとしたら、そ
の根源とは何なのか。

 親米保守論が依拠しているリアルポリティックスの「リアル」は、せいぜい1950年から1990年くらいまでの現実でありアメリカの歴史です。それを崩すような反米論がありうるとすれば当然、もっと長いスパンでのアメリカの歴史になるのですが、戦後の反米論は米西戦争や南北戦争を何も問題にしてきませんでした。西部・小林のコンビも然り。そうした長いスパンでの歴史論が田久保さんたち親米保守論の最大の弱味であるにもかかわらず、です。

 比べて西尾先生の親米論への反駁が強力であるのは、歴史論で武装している幾重にも面があるからに他なりません。西部さん小林さんのアメリカへの悪罵を何十並べても、「南北戦争の北軍に20世紀のジェノサイドの起源があった」という西尾先生の反アメリカ論の重みに適うことは決してないでしょう。常に「歴史論からリアルポリティックス論へ」、この順序が反米論のあるべき方法論ではないかと思います。

 「アメリカは気まぐれである」というのも西尾先生がよく言われる歴史論です。これはアメリカが、世界中に果てしなくアメリカニズムを輸出する本能と、そうではなくて非介入の方に縮こまる本能の両極に揺れ動く不可思議な二面性をもっている国だ、ということです。この前者と後者の揺れ動きの気まぐれが、国際政治の現実にその都度、創造や破壊をもたらし続けてきている。西尾先生がよく引かれる例ですが、中国国民党と提携して日本を叩いたかと思えば、突然、中国国民党を見限って結果、中国大陸の共産化が生まれてしまった。二面性あるいは多面性がアメリカの本質で、一面的にしかアメリカを見ない西部さんたちの反米論はぜんぜん的外れだといえます。

 こんな「気まぐれな国」という性格もまた、世界史上、例がないのですが、その「気まぐれ」が新世紀に入ってきてだんだんひどくなってきて、米中提携論の強化に乗り出したり、日本の慰安婦問題に介入したりすることもしたりして、それはアメリカの国力の減退も大きくかかわってきている。西尾先生がお話の中で言われた「古臭い日本・ナチス同一論が再びアメリカの中にあらわれてきた」ということは、親米派のアメリカ像もまた古臭くなったということであって、こういう段階にさしかかったアメリカと離れる時期に来たと考えるのがまず妥当であろう。これが西尾先生の「離米論」であり、これはきわめて新しい「21世紀の反米保守論」なのです。

 このように親米論も古臭くなってきたのですが、同時に、従来の反米論の古臭さということもあるので、新しいアメリカ論は、今までの親米論・反米論の両方と対峙しなければならないでしょう。田久保さんが幾度も嘆くように、戦後日本にある反米論は保革問わず、西部さんのような「アメリカが嫌いだ」といいたいだけの乱暴な形の反米論、さらには伝統的な反米左翼論に先祖帰りしてしまう傾向がある。これは何度強調しても強調しすぎるということはない。日本が戦時下に受けた空襲その他のアメリカの戦争犯罪と、アメリカが世界各所でおこなってきた軍事的介入の現場での出来事を感情的に同一化してしまう。そこから先は思考停止しか待っていません。単純なる反米論の誘惑、といっていいのかもし
れません。

 西尾先生と福井義高さんの対談で「アメリカには別所毅彦のような直球で対決しては駄目で、関根潤三のような軟投でなければ駄目だ」という話が出たことが思い出されます。西部さん流の古い反米論は「直球」なのでしょう。だから親米保守派に簡単に打たれてしまう(笑)様々な顔=打法を持つアメリカだからこそ、西尾先生の著書には、「さようならアメリカ」という論題もあり、「不可解なアメリカ」もあり、「ありがとうアメリカ」もある。西尾先生のアメリカ論は「軟投」なのです。私はこの「軟投」の意味がよくわかるし、自分もこの「軟投」の立場に組したいと思います。

 一筋縄ではいかないアメリカは、たとえば文学にも現れるのであって、西部さんは小林さんとの対談(『反米の作法』)で、フォークナーとへミングウェイだけ出してアメリカ文学の浅さの個性(?)を語り尽くしている気になっているようですが、ラヴクラフトやエドガー・アラン・ポーのような作家についてはどうなのでしょうか。自分は高校生のときにはじめてポーの作品群を読んだとき、これはフランス象徴派の作家だとしばらく思い込んでしまった。ポーのあの重厚な恐怖の世界は、ヨーロッパとの伝統が切れているどころか、逆により徹底したヨーロッパが実現してしまっているわけで、アメリカ文学の世界はぜんぜん浅くありません。私はポーがアメリカの作家と知ったときの「驚き」は今でも忘れ
られない。以来、私がアメリカについて考えるときは「驚き」がどこかで伴うので、そういう点だけでも、「驚き」に乏しい西部さんたち反米論のアメリカ論に違和感を感じてしまいます(笑)

 西尾先生が「自分は反米ではない」といったときに皆さんに笑いが起きたのは、西尾先生のアメリカ論を、伝統的な反米論とどこかで同一視しているからなのではないか、と感じました。私たちの中には、旧来的な反米論が依然としてどこかにイメージされている。これは繰り返しになりますが、反米論とは、決してやさしい思想ではない。「アメリカ」はあまりにつかみどころのない存在なのです。だからこそ、従来の反米論の系譜とは完全に異質な21世紀の反米論、この西尾先生の試みを皆さんにも正しく理解していただきたいと新年会の西尾先生の話と皆様の反応から私は感じ、このテーマを今年の坦々塾の会で深めていければ幸いと思いました。

 懇親会の時間ののち、20名ほどの面々で二次会のカラオケを楽しむ時間となりました。いろいろな持ち歌の飛び交う場で、楽しい時間はまたたくまに過ぎていきました。

 西尾先生、ご苦労様でした。また幹事代表として最初から最後まで緻密に新年会を運営された小川揚司さん、たいへんお疲れさまでした。新入会員の方を含めた坦々塾の皆様、今年もよろしくお願いいたします。

日本文化チャンネル桜出演のお知らせ

番組名:闘論!倒論!討論!2014

テーマ:「安倍外交とは何か?」

放送予定日:平成26年2月22日(土曜日)20:00-23:00
日本文化チャンネル桜(スカパー!217チャンネル)
インターネット放送So‐TV
「You Tube」 「ニコニコチャンネル」オフィシャルサイト

パネリスト:50音順敬称略

 加瀬英明(外交評論家)
 関岡英之(ノンフィクション作家)
 西尾幹二(評論家)
 馬淵睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
 三宅 博(衆議院議員)
 宮崎正弘(作家・評論家)
 宮脇淳子(東洋史家・学術博士)

司会:水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

教育文明論の感想(三)

ゲストエッセイ
武田修志 鳥取大学教授 ドイツ文学

 平成二十五年も余すところ数日となりました。
 お変りなくお元気で御活躍のことと拝察申し上げます。
 こちら鳥取は今日は朝から猛然たる雪降りで、瞬く間に四、五センチの積雪になっています。

『西尾幹二全集第八巻』を読了いたしましたので、ひとこと感想を申し述べます。

 この大冊は、先生ご自身が後記でお書きのように、一つの精神のドラマですね。一九八十年代の十年余りの月日を、日本の教育改革のために、情熱の限りを尽くして孤軍奮闘した精神人の記録です。この全集第八巻に収められた御論考はかつてほとんど拝読したことのあるものですが、今回全編をまとめて読み直し、当時の先生の気迫に圧倒されるような思いが致しました。

この長編物語の中で、今回一番心に刻まれた場面は、先生がその大部分をお書きになった「中間報告」の原稿を、文部官僚たちが膝詰めで先生に書き直しを迫ったあの場面です。先生ご本人のみならず、読者まで胸の痛みを感じるシーンです。審議会委員が削除をもとめているわけでもない文案に手を入れたり、削除したりする、これはまさに思想の検閲ですが、更に、深夜先生一人を、座長以下係官十名余りが取り囲んで、先生の文章の上に直接抹消の線を引いたコピーを渡して、一語一語、一文一文書き直しを迫るーいったいこれは何だと、今回改めて憤りが噴出してきましたが、ここで冷静に考えてみますと、この時こそが、先生が十年の間、情熱を傾けて戦われた「敵」との決戦の時であり、主戦場だったのだと思います。先生は屈辱によく耐えられて、先生にできる限りの勝利を勝ち取られたのです。もし先生があの場面で席を蹴って、退席してしまわれたら、先生ご自身がお書きのように、「中間報告そのものがさらに全面的に骨抜きに」なっていたことでしょうから。「中間報告」が文体をもった、肉声の聞こえる文書として公にされたというだけでも、当時あの冊子を読んだ人には、ある感銘を今に残して無意識のうちに影響を与えていることでしょう。

先生はこの孤軍奮闘のドラマの最後に、こう書いておられます、「私は『価値』を問題にしていたのだ。『価値転換』を問題にしていたのだ。ところが、諸氏はすでに存在する一定の価値の範囲における制度の修正、ないし手直しを考えていたにすぎない」と。これは、このドラマの締め括りの言葉として、誠に的確なものだと思います。全編を読んで、まさにこの通りだと思いました。

 文部省の有能な係官たちがどうして、審議委員が問題にしなかった先生の文案を、なんとしても改竄しなければならないと考えたのか。彼らの歴史理解、人間理解が、日教組風な歴史理解や人間理解に染まっていて、先生の理解に密かに違和を感じ、敵意を燃やしていたということもあるでしょうが、根本的には彼らは、個の価値を尊重し、創造性を最も大事にする先生のような生き方をこそ、否定したかったのではないでしょうか。それというのも、彼らは先生に対して、文案の語句を直すという形で迫ったきたわけですが、本当のところは、(彼らが意識していたか、していなかったかは分かりませんが)先生の文章の文体をこそ改変したかったのではないかと思います。文体というものは、筆者の人間そのもの、筆者の生き方そのものだからです。

思えば、先生とお付合い頂くようになりましたきっかけが、『日本の教育 ドイツの教育』を、この書が出版されましてからすぐに、読んだことでした。先生のお若い日の御論考「小林秀雄」を「新潮」紙上で拝読しましたのは、私が大学一年生か、二年生の時でしたが、『日本の教育 ドイツの教育』に出会ったときは、私もすでにドイツ語教師になっていて、三十代の初めでした。この新潮選書を読んで、ドイツ文学者にもこういう本の書ける人がいるのだと、強い憧れのような気持ちを抱いたことをよく覚えています。ドイツ文学者が扱うテーマとして非常に斬新であり、また文章が学者風の重たくおもしろみのないものではなく、はぎれよく、味わいがあるー「この人は自分の手本だな」と思ったものです。その後、ある医学部の二年生のクラスで(当時はまだ医学部の学生は第二外国語を八単位学んでいました)、先生のドイツでの御講演をテキストにしたものを取り上げ、一方、日本滞在の長いあるドイツ人の日本論をドイツ語で読み、これを先生のテキストと比較して、感想を書くよう課題を出し、私自身も多少長い感想を書きました。そして、学生と私の「レポート」を先生へお送りしましたら、先生にたいへん喜んでいただきました。その後先生からはたびたび御著書を送っていただくようになり、私は先生の熱心な読者になったのでした。今回も全集第八巻を通読しますと、例えば「教育はそれ自体を自己目的とする無償の情熱である」という意味の言葉が繰り返し述べられています。更に先生はまた、94ページでこうもおっしゃっています、「私が教育について真っ先に言いたいのは、教育家が学校教育についてつねに謙虚になり、限界を知って欲しいということである。教育はつまるところ自己教育である。学校はそのための手援けをする以上のことはなし得ないし、またすべきでもない。教育はなるほど知識や技術を超えた何かを伝えることに成功しなければ教育の名に値しないが、しかしまさにそれだからこそ、われわれが聖人君子でない以上、学校教育は知識や技術を教えることに厳しく自己限定すべきだと私は言いたいのである。」これらの言葉は、先生の教育についての基本理念と言っていいものだと思いますが、これはまた、こういうふうに先生から教えを受けて、、私が教師生活の中で、いつも忘れずに肝に銘じていた考えです。私は教師になって今年で三十九年になりますが、私の教師人生は、こういう先生のお考えをどういうふうに教室で具体化するか、そのことに終始したように、今、感じられます。教師としてのありよう、教育についての考え方等、先生の御著書をいつも参考にして考え、実戦してきたように思い、今回改めて先生への感謝を新たにしているところです。

 今回の全集第八巻が単に「教育論」と題されずに、「教育文明論」と銘打たれているところに、先生の思いがひとつ表れているかと思います。私の勝手な理解では、この書を単に一九八〇年代の教育改善のための具体的提案や議論の記録として受け取らずに、近代の新しい段階へ踏み出して行かねばならない我々日本人の生き方を問うた書と受け取ってほしいという意味ではないかと思います。この新しい近代では、重要な近代概念の二つである自由と平等がどのようにパラドキシカルに理解されることになるか、その理解を誤まれば、教育も社会もある袋小路へ迷い込んでしまうであろう、と。そういう意味で、この書における先生の御奮闘の姿は、少し距離を置いて見れば、(先生も自覚なさっているように)時代の先を一人行くドン・キホーテの姿と見えるかもしれません。そして、このドン・キホーテの理想は、三十年前には半ばしか理解されませんでしたが、おそらく次の世代において、日本の教育と日本人の生き方が問い直されるとき、よみがえってくるのではないでしょうか。それ故、今回、先生の教育論の全論考がこういう全集の一冊という形でまとめられたのは、のちのちのために非常によかったと思います。

 いつものようにまとまりのない感想になってしまいました。
 今日はこれにて失礼いたします。
 よいお正月をお迎えになってください。

平成二十五年十二月二十八日

教育文明論の感想(二)

ゲストエッセイ
岩淵 順 大学院生

拝啓

 西尾幹二著作集三部作の一冊目が刊行され、さっそく私も購入いたしました。現在修士論文の作成と平行しながら着々と読み進めていて、あと少しで読了するとこまで来ています。どの章もどの章もとても知的好奇心が刺激され、且つ色々と考えさせられることが多くあります。

 その感想もいずれまとめて御報告できると思いますが、まだしばらくはこれまで読んだ著作の感想の方を述べていこうかと思います。今回ご報告するのは、『日本の教育 ドイツの教育』を読んだ感想です。

 この本に関してはちょっとしたエピソードがあって、実は手に入れた場所が日本ではないのです。それはどこかというと、今年の春休みに海外旅行で行ったタイで購入したものです。タイ東北部のチェンマイという町で、たまたま見つけた日本食の食堂に行った時に、日本の古本を売っている本棚が何個か置いてあり、その中で見つけたのでした。

 どうやら、そこのタイ人の女性の旦那が日本人で、その人が日本で集めたものを置いていたらしいのですが、まさかこんなところで日本の書籍に、それも西尾先生の著書に出会えるとは思ってもいなかったので、非常に驚いた出来事でした。

 ちなみにそこにはなんと、あの小堀桂一郎先生の『東京裁判の呪ひ』と、あの伊藤隆先生の『昭和史をさぐる』までが置いてあって、これ幸いとばかりにその二冊も購入しました。

 こんな場所でこんな良い本が手に入るとは、随分と好い機会に恵まれたものだと上機嫌でホテルに帰ったことを覚えています。ちなみに、その日本人男性はかなりのインテリだろうと思われるでしょうが、実際はどうもタイ人女性の「ヒモ」をやっているように見受けられました(食堂の空いている椅子に座って終日テレビを見ているだけの生活をしていましたから)。

 というわけで、この本はそのタイ旅行中に読んだものなのですが、実は教育についての本というと、どうも真面目で堅苦しいイメージがあり、最初はそんなに面白いものではないだろうとあまり期待しないで読み始めました。

 ところが、実際に読んでみると、おもしろくないどころではなく、非常に興味深い内容でたちまち夢中になって読み耽ることになりました。

 ドイツの教育制度との比較によって、日本の教育制度の構造が浮き彫りにされ、どこに問題点があるのかということが、とても良く理解できる内容でした。

 教育の平等化をより徹底させようとすると、かえって学校間に差別が出て来てしまうという逆説は、非常に見事な洞察であったと思われます。

 学校のレベルを細かく意識するというのは、まさに私の経験にそのままあてはまることでした。私は進学競争の病理にどっぶりと漬かっていて、その中でさんざん苦しめられてきた類いの人間だったので、この西尾先生の分析にはいちいち思い当たる事ばかりでした。

 大学を受ける時に、少しでも偏差値の高い大学へ行く事に異様に執着し、本当に細かい数字で大学にランクを付けて、また、それを自分のアイデンティティにしようとして、大学の偏差値に対して、今から考えると滑稽なほどコンプレックスを感じていました。

 ついでに、私は会社勤めを一年半程した経験があったので、企業に関する分析に関しても、本質をよく突いていると感心していました。短い期間でしたが、私が実際に会社の中で体験したことを、西尾先生の推察は驚くくらい的確に捉えていたと思います。

 あまり物事の道理をはっきりとさせず、あいまいなままで上司の意向だけが通って行くというのは良くあった事ですし、仕事が出来る出来ないよりも、人当たりの善し悪しや、協調性等で評価される比重がかなり大きかった事を覚えています。(ちなみに私は、昼休みに他の同僚と一緒に昼ご飯を食べに行かないという理由で、協調性に欠けるという勤務評価をもらった事がありました)

 ある一定のレベルの大学を出たという事で、それが暗黙のステイタスのようなものになっているのを感じた事もあります。(役員との交流会の時に、役員の一人が「これからは、学歴も年齢も関係ない時代になりますよ」といっていたのですが、新入社員の学歴を見ると全員いわゆる「日東駒専」以上になっていて、其れ以下の大学出身者はおらず、さらには名簿の並びが年齢順(大学院の出身者がいた)の五十音順に並んでいました)

 この本ではすでに、日本の教育の最も核心となる問題点を明らかにしてしまったので、問題を解決する方法についても、議論の余地はないように思われます。

 無理に平等にしようとするから、返って差別が強調されることになるわけで、西尾先生が提案した、逆に少し差別を作った方が良いという論が、問題を解決する最良の方法だと思います。

 最初からある程度の差別があれば、案外と差別を意識しなくなるというのが人間の心理ではないでしょうか。ドイツの教育現場を見ると、差別があって当たり前という社会の方が、人間の心が安定している状態にあるというのがそのことを証明していると思います。

 競争が人間性を損なわせるとは限らないという意見も、私は高校の時の経験から納得できます。実は私は高校ではいわゆる劣等生だったのですが、そんな私に対して、学年で上位に入るような、いわゆるエリートといったタイプの人間の方が、成績の善し悪しに関わらず対等に接してくれたのです。

 まん中よりもちょっと上くらいの人間でも、同じような感じだったと思います。それに対して、ひどかったのはまん中よりも下の部類に入る人間、あるいはもう少しで劣等生になるかならないかといった人間です。

 そいつらは自分たちが感じている劣等感をごまかすために、露骨なまでにこっちを見下す言動を、ことあるごとに投げかけて来たものでした。おかげで一時は登校拒否のような状態にまで追い込まれたこともありました。

 しかし、最後は開き直って、「いくらこちらを馬鹿にしたところで、お前もたいして勉強できないということは変わらないだろう」と言ってやったら、さすがにこたえたらしく、その時は激昂していましたが、それ以後は何も言って来なくなりました。

 というように、競争社会においては、下になる人間の方が、自分のアイデンティティを保つために、(努力する代りに)さらに下の人間を叩くという構図になっていて、案外と上の方の人間の方がしっかりした人間だったりするものだと思います。

 ちなみに、私も中学校までは学年でも上位に入るような人間だったので、その時の経験からいって、決して勉強の出来ない人間を馬鹿にするような態度は取らなかったと断言できます。だいたい、自分が努力してより上を目指すということに夢中で、下の人間のことをそんなに意識する余裕が無かったと思います。

 以上のような事から、日本の教育の問題は平等化の行き過ぎであるという事は明らかであり、その解決の為には、多少の差別を容認するしかない、そのことをしっかりと認識する必要があると思われます。(落ちこぼれる人間の問題もありますが、私のようにどん底の状態に堪えて、そこから這い上がってきて、ちょっとやそっとじゃへこたれないという精神力を身につける場合だってあります。エリートの方がその点が弱かったりしますよね)

 ところで、これは余談になりますが、このさい思いきって書いてしまおうと思います。それは、大学のゼミでこの本を話題に出した時のエピソードです。

 私の指導教官なる人物に、西尾先生の書いた『日本の教育 ドイツの教育』という良い本を最近よんだという話をしたところ、私も昔読んだ事があるとの返事が返って来たので、ああ、読んだことあるのですかと問い返したところ、その次に予想もしなかった返事が返って来たのです。彼女がいった言葉はこうでした。
「あれって、ドイツはすばらしいと言っている本でしょ?」
一瞬面喰った私は、思わず「はあっ!?」と聞き返してしまいました。いったいどこからそんな意見が出て来るのか、あまりのことにあっけにとられてしまい、何と反論すればいいのか分らない状態でした。

 いや、だってですね、西尾先生の書いた著書からは、一番遠く離れていて、むしろそうではないということをライフワークにしてずっと主張してきたはずなのに、その著書を読んだ人間からまさかそんな言葉が出てくるなんてとても予測できません。

 私はべつに自分の指導教官を軽蔑して喜んだりするような行為をしたいとは思っておらず、むしろ尊敬できるのなら積極的に尊敬したいと思っている人間です。しかし、こんなことを言っているかぎりは、そうもいかないというのが実際のところです。

 いったいこの人は何を読んでいたのでしょうか。どこをどう読んだら、ドイツを賛美している本であるなどという感想が出てくるのですか。どこにもそんなことは書いてないじゃないですか。

私はこの『日本の教育 ドイツの教育』という本は、ドイツの教育制度と比較しながら、日本の教育制度の問題点を見事に描き出した名著である、と思っています。
 
 その本に対してこんな的外れの解釈しか出来ないということは、これはもう文章読解力に欠陥があると断定されても仕方がない事だと思われます。

 ちなみに、私はもともとこの人には不信感を少なからず持っていたのですが、この出来事によってそれは徹底的なものとなりました。この人の経歴は、東京大学の“教育学研究科”を出ていて、専門は“ドイツの家族社会学研究”ということになっているのです。不審に思いながらも、どこかちゃんとしたところもあるはずだと思っていたのですが、どうやら根本的にダメだったらしいということが証明される結果となりました。

 それにしても、西尾先生が述べられていたもので、本というものは、読者に読まれて初めて価値が出てくるものであるという考えがありましたが、この出来事はまさにその考えが正しいことを証明するエピソードだったと思われます。

 読解能力の無い人間が読んだ場合には、いくらすばらしい名著であっても何の役にも立たないということを、このエピソードは見事に物語っていると思われます。私自身も、まだ西尾先生の著書の価値をすべて自分のものにしているとは思っていないので、もっともっと有効活用できるようにして行きたいと思います。

(追記)
 ところで、江戸時代の教育についてこれを読むことによって、それまでに抱いていたものとはかなり違う印象を与えられました。

 江戸時代の武士の教育というと、『葉隠れ』に代表されるような、「武士道は死ぬことにあり」といった、観念論に終始しているようなイメージを持っていました。

 しかし、実際はもっと現実的で実践的な教育観を持っていたというのを読んで、とても意外であるという感想を持つと共に、このような事実があったとしないと、明治以後の急速な実用主義への傾倒を説明することは出来ないのではないかとも思いました。

 幕末について語る人間がよく使うフレーズに「夜明け前」というのがあり、日本人は明治維新によって、それまでは全く暗愚であったのがいきなり啓蒙されたような語られ方をしてきました。

 しかし、西洋の思想に触れたとたんにいきなり変わってしまうというのでは、あまりに日本人及び日本の文明を軽く見すぎているのではないでしょうか。自主性というものがまるでなく、まるっきり馬鹿扱いしていると憤りを感じます。

 これと関連した話で、坂本竜馬が勝海舟の弟子になる時のエピソードがありますが、あれもどうかと思います。けしからん奴だから斬ってやろうと思っていたのに、会ったとたんに感化されて思わず弟子入りしてしまったというものですが、これも随分と竜馬を馬鹿にした話だと思います。

 そんなにコロッと変わってしまうなんて、なんて主体性の無い人間だという印象を抱きますし、第一、それまで斬ろうと思っていた自分は一体なんだったのかと思ってしまいます。(おそらくこのエピソードは、後になって誰かが創作した俗説だと思われます。竜馬関連の話は十中八九がこの手のものではないかと睨んでいます。坂本竜馬という人物は持ち上げられ過ぎている気がします。本人も迷惑していることでしょう。)

 実際は勝海舟はかなりの人物らしいと、事前に竜馬は知っていた上で会いに行ったというのが実際のところらしく、それと同じように、江戸時代にも実用主義に通じるような思想がすでに用意されていたと考える方が自然であるかと思われます。

 常識的に考えれば、やはり歴史とは連続しているもので、何も無い所からいきなり新しい思想が生まれてくるということは、まずあり得ないことだと思います。

 とするならば、明治維新が起こる前に、すでに教育に関する徳の衣更えは完了していて、日本の近代的学校制度はその延長線上に成立したとする考えにも、私は無理することもなく納得することができます。そうでないと辻褄が合わないし、やはりこれは非常に鋭い考察だと思います。

 そのことに加えて、驚異的に教育が一般化した原因として、“村落的メンタリティ”に注目したことが非常に印象的であり、かつ説得力のある考察だったと思います。

 結論からいって、この考察は全く当を得た指摘だと思います。なぜならば、日本人のメンタリティというものは、底流では全然変わらないものだという確信があるからです。

 色々と外的な要因がいわれていますが、所詮は表面的なお題目にすぎず、実際に日本人が行動する時の動機は、だいたいが無意識の「日本的な感情」から派生しているものがほとんどであると見ていいかと思われます。

 現代に目を向けてみても、「自由」とか「平等」などの空疎なお題目をたいした主体性もなく唱えて喜んでいる人間にかぎって、自分というものが確立されず、結局は旧い因習にすがるしかなくなるというのが、大体お決まりのパターンであります(それだったら、最初から普通の生活を送っていた方が、ほっぽど個性的な生き方が出来たのではないかと思ってしまいます)。

 戦前を否定して「進歩主義」を唱えていた多くの日本人が、その裏でもっと旧式の“村落的メンタリティ”に嵌っていたとしても、別段あり得ない話ではありません。意識していないだけに、逆にその作用をもろに受けてしまうものと推察します。

 この“村落的メンタリティ”の作用は、日本社会の隅々に根付いていて、あちらこちらでそこから派生した現象が観察できるものと思われます。どこまでも日本人の行動に影響を与え続けていくのではないでしょうか。

                              敬具

『西尾幹二全集第8巻 教育文明論』の感想(一)

 西尾幹二全集の次の配本がそろそろではないか、どうなっているのかと知友から質問されだしている。たしかに昨年末までに出版されていなくてはならない約束であった。じりじり遅れている。

 第9巻『文学評論』は2月末頃の刊行となる。2ヶ月遅れた。作品の単なる集合ではなく、再編成、再生であるうえに、分量も多い。仕方がなかったのだが、こんなふうに遅れると、先が思いやられる。たゞ編集部は、一年4巻はスケジュール的にとうてい無理なのだとも言っている。私が並行して他の活動も捨てないからである。ご理解いたゞきたい。

 第8巻『教育文明論』について三人の方から感想文をいたゞいた。最初は山形県南陽市の公認会計士・高石宏典さんからで、以前より私の教育論にご関心が高かった方なので、感想文を寄せていたゞいた。

 大学院で勉強中の岩淵順さんは『日本の教育 ドイツの教育』についての独自の体験を、また鳥取大学教授の武田修士さんは全集が出るたびに全巻を読破し、感想を寄せて下さるので、今回も心のこもった一文をちょうだいした。

 以下に三人からのご批評文を順次掲示させていたゞく。

ゲストエッセイ
公認会計士 髙石宏典

 『教育文明論』は後記を含めると800頁余りに及ぶ大分量の巻であり内容的にも広がりが大きいが、私が西尾先生の教育を論じた諸著作の中で予てから最も共感し共鳴していたのは教育観に関する以下の言葉であった。

「何度も言うが、教育は自己教育であって、自分で自分を発見していく行為である。それは各人の自由な魂の内発性以外に何も期待しない立場であって、制度上の自由などとはまったく無関係である。私のこの立場はある意味では極端な理想論だともいえる。」(『全集』298頁、『日本の教育 智恵と矛盾』14頁)

 その共感と共鳴は今でも変わっていない。私が最初に教育は自己教育だと痛感させられたのは、昭和50年代前半の高校生時に遡る。県立高校入試の国数英3教科得点合計で9割前後は出来た私が、その4か月後に実施された高校最初の全国規模の3教科模擬試験では5割強しか得点出来ずに大きな衝撃を受けていた。その一方で、満点に近い点数を獲得した国立高校や私立高校の秀才たちもおり、明らかな学力差が私の気分をさらに暗く重くした。私の出身高校は当時、山形県内で二番手が定位置の進学校であったが、この程度の得点でも上位2割以内の校内順位だったのを覚えている。思えばまさにこの時から、私は否応なしに大学受験競争に巻き込まれ偏差値思考に毒され始めていくことになった。

 教師たちからはこの試験結果について何の説明もなく、私は必要以上に劣等感に悩まされた。未履修の内容が試験で問われていたのだから出来なくて当たり前だったのに、なぜ「気にしなくていい!」の一言があの時なかったのだろう。この厳しい結果と現実から、私は教科書を出来るだけ先へ先へと自分で予習することが肝心だと考え実践しその他にも試行錯誤を繰り返して自分なりに頑張ったが、どう勉強すれば受験に有効なのかその方法をつかみ切れないまま時間は過ぎ、入れる大学に入学して高校生活を終えた。

 「日本の学生は入りたい大学に入るのではなく、入れる大学に入るにすぎない。ごく一握りの大学生を除いて、他の大半の大学生は、厳密に考えると不本意入学者である。これほど不幸で不毛な教育をしている高等教育は世界に他に例がない。」(『全集』589~590頁、『教育と自由』162頁)

 西尾先生が仰るように、私も不本意入学者の1人で偏差値思考に囚われ屈託を抱えて生きていた。それでも、私が入学した昭和50年代後半の国立大学の場合、出席をとらない講義や課題レポート提出で単位が取得できる講義も多く、自由で伸びやかで豊満な時間が与えられたことは私にとって何より貴重だった。勉強は強制されるものではなく、個人個人が好き勝手にやればいいという高校とは好対照の雰囲気が私にはありがたかった。私はこれ幸いとばかり講義にはあまり出席せず、面白いと感じた経済学や会計学などの専門書を基本的には独習して知識を得、大学の試験等に対応した。講義に出なくても成績が悪かった訳ではなく、4年間ほぼ全額の授業料を免除された。西尾先生のご本と出合ったのも大学生の時で、このことは当時の大学の自由で長閑な雰囲気とあり余る時間があればこそだったようにも思う。

 以上のような私の経験に照らして日本の大学が「不幸で不毛な高等教育」だとは必ずしも思わないが、以下の先生の文章から分かるように欧米の大学教育の厳しさは日本のそれとは余りにも対照的で、殊に学問の発展という観点からすれば日本の大学教育は明らかに甘すぎもはや機能不全に陥っていると考えるべきなのかもしれない。

 「ドイツの大学には試験がない。講義は聴きっぱなしである。市民公開講座となんら変わるところがない。試験がないから、成績もない。成績がないから落第とか、及第ということもない。学年も、在学年限もないのだから、卒業ということもない。何年籍を置いて講義を聴いても、それだけでは何の資格も得られない。(中略)結局、なんらかの資格を取るには、学生は大学の定むるところを当てにはできず、ゼミナールでいい発表をして教授に認められて、上級ゼミナールにもぐりこみ、学位論文を受理してもらうか、さもなければ各種専門職の資格を保証する国家試験に合格するか、いずれかの道を歩む外はないだろう。」(『全集』149~150頁、『日本の教育 ドイツの教育』129頁)

 「アメリカの大学では、競争は入学時の一発勝負ではなく、入学後に始まる。進級の選別は厳しく、落第や退学は遠慮なくどしどし行われる。公立大学には格差があるので、成績いかんで上位の大学へ転出できるし、また成績が芳しくなければ下位の大学へ移動しなければならない。これは「転職」を恥とせず、そこに積極的な人生の意味を見出しているアメリカの企業社会人の生き方と、つながっている。」(『全集』250頁、『日本の教育 ドイツの教育』259頁)

 ドイツとアメリカの大学は何て平等で自由で公正なのだろうか。ドイツの大学は何て厳しいのだろう。ドイツの大学生はこうした孤独と自由に本当に耐えられるのだろうか。アメリカの大学は厳しくても何て親切なのだろうか。ドイツとアメリカの個人主義に立脚した大学のあり方やその後のこれら外国人の生き方は、大学が学歴ブランドで楽園に過ぎずその後は企業等の集団に帰属する日本人的な生き方と何と対照的だろうか。私はこんな風に率直に思わずにはいられない。楽園としての私の大学4年間はあっという間に過ぎたが、その後には、先生が『ヨーロッパ像の転換』で記された以下のような疑問が残っただけであった。

 「一体いかなる恐怖心が日本人を闇雲に学校教育へと駆り立てているのであろうか?たえ間ない欲求不満と競争意識に追いまくられて、自足する幸福を喪い、自己はただ他人との比較においてしか価値を持ち得ず、その結果手に入れたものがいったい何のための知識か、何のための教養か、それがいつも問題なのである。」(『ヨーロッパ像の転換』158頁)

 大学卒業後、私は紆余曲折を経て平成元年にようやく公認会計士第二次試験(現行の論文式試験)に合格し、監査法人に就職して社会人となった。会計士試験への対処法は高校や大学時代と変わらない我流であったが、勉強は他人から教わるものではないと固く信じていたのでその信条を貫いた。高校も大学も私にとっては詰まるところ通り過ぎた場所にすぎなかった。また、一般企業への就職を考えなかったのは、ここでこういう仕事をしたいという具体的なイメージが描けなかったからである。就職後、会計監査の実務経験を通して、職員間の相互牽制の下で仕事をするスタイルが自分にはストレスであることが分かり、法人内の薄暗い監査調書室で独り作業をすることが多くなった。それでも何ら咎められもせずに約8年も勤務出来たのは、創業者で公認会計士でもあった故塚田正紀先生の度量の大きさと鷹揚さに因るところが大きかった。仕事という実践教育を通して、私は自分が何者であるかを少しずつ発見し悟っていった。

 私には、半世紀余りを生きて来て、学校や社会との関わりの中でたとえ仮に深い挫折感を経験せずにもう少しうまく立ち回れていたとしても、結局は今のような自営業の立場で独り仕事をする道を選択していたに違いないという確信がある。今の仕事スタイルが私には最も自然な形である。サラリーマンとは異なり仕事上の集団や個人との関わり方はそれ程タイトではないが、それでも日本社会の中で私をして負の感情に陥らしむ二つのものがある。それは偏差値思考と人並意識である。ここで偏差値思考とは他者との比較において自分を相対的に位置づける受験競争によって植えつけられたあの固定観念であり、人並意識とは日本社会の至る所に蔓延している人は誰しもこうでなくてはならないというあの固定観念のことを意味している。私は、この二つの固定観念が日本人の無意識下に潜伏して、日本社会を息苦しくし卑小化し活力を失わせている大きな原因だと考えている。人は本来、自由感と運命感の交差するところにしか幸福感を感じられないそういう生き物ではないだろうか? 保身のみを考えてちまちま生きることは果たして本当に幸福感につながるのだろうか? 少なくとも私は、人それぞれにおいて二つの固定観念に囚われない自由感と運命感の共存する一筋の道がきっとあるはずだと信じている。

 最後に、『教育文明論』を拝読して今なお印象深いのは、西尾先生が第十四期中央教育審議会委員として文部官僚たちと孤軍奮闘された、ハラハラドキドキの臨場感あふれる答申草稿の変貌過程に関する記述であった。私はこの件を胸と胃を締めつけられる思いなしに読み進めることができなかった。自分の文章を相手の意向で勝手に修正されることは、私の経験上、神経を逆なでされるか腸をかき回されるような思い以外にはありえない。西尾先生の心身のご負担は如何ばかりであられたろうか。そして、この『教育と自由』終章の末節において先生が以下の心情を吐露された箇所を拝読した際に、私はニーチェの『ツァラツストラ』における木炭とダイヤモンドの噛み合わない以下の面白おかしい会話を連想していた。二つの引用文ともに価値と価値とが対立している。

 「最終答申が出るときになって、私の努力の大半が空しくなり、肝心な草稿はほとんど削り取られ、置き去りにされるような思いがしたとき、私は卒然と気がついた。私の考えていた教育改革と他の委員諸氏のそれとは何という隔たりがあったであろう。私は「価値」を問題にしていた。「価値転換」を問題にしていたのだ。ところが、諸氏はすでに存在する一定の価値の範囲における制度の修正、ないし手直しを考えていたにすぎない。」(『全集』686頁、『教育と自由』288頁)

 「「なぜそう硬いのか」―― あるときダイヤモンドに木炭がたずねた。「われわれは近親ではないか」―― なぜそんなに軟らかいのか。おお、わたしの兄弟たちよ。そうわたしは君たちにたずねる。君たちは――わたしの兄弟ではないか。なぜそんなに軟らかいのか、なぜそんなに回避的、譲歩的なのか。なぜ君たちの心にはそんなに多くの取消しと中止とがあるのか。なぜ君たちのまなざしには、そんなにわずかしか運命がないのか。もし君たちが運命であること、仮借なき者であることを欲しないならば、どうして君たちはわたしとともに――勝利を得ることができようか。そしてもし君たちの硬さが、光を放ち、分かち、切断することを欲しないならば、どうして君たちはいつの日かわたしとともに――創造することができようか。(中略)おお、わたしの兄弟たちよ。この新しい表をわたしは君たちの頭上にかかげる。「硬くなれ!」――」(ニーチェ『ツァラツストラ』「新旧の表」29 手塚富雄氏 訳)

 人は所詮、この木炭とダイヤモンドのように分かり合えないのかもしれないが、人が理想を持ちそれを信じて生きていくことは必ずしも無意味ではないのかもしれない。ニーチェのこの言葉はそのようにも読めるし、パイオニア精神を持つ人々の長く険しいそれぞれの道のりを暗示しているようにも思える。
                     (了)