西尾幹二全集第9巻『文学評論』の刊行

 私の全集は過去の作品の集合ではなく、再編であり、再生であることを秘かに誇りにしていることを、今度出た第9巻『文学評論』ほどはっきり示した例はないだろう。今まではどの巻にも一冊ないし二冊の主要著作があった。今度はないのである。一巻ぜんぶばらばらのものを再編成した集合作品集である。愛読者の方でも知らない文章が多いはずである。その第9巻がついに出版された。あらためて目次を紹介させて頂く。

 文学評論は私の故地であり、根拠地である。私の発想の基本には文学がある。そのことにすでに気がついている方も多いだろうが、後半生の仕事から私を知った方は、これほどの分量の文学評論が書かれていたことはあまり知らないだろう。

 私はこの道へ再び立ち戻るかもしれない。やり残したテーマが私を待っているからである。本巻の「後記」を読んでいたゞくとそれが分る。

 全集発刊のペースはじりじり遅れていて、3ヶ月に1巻のペースは少しづつ難しくなっている。全巻講読の機会をとり逃がしていて、それでもまだ講読のお気持をお持ちの方は、国書刊行会の永島成郎営業部長(Tel 03-5970-7421)と相談して欲しい。9巻までを一度に購入しないでも毎月一巻づつ買って9ヶ月で追いつく、等々の便利な方法をいろいろ考えてくれるはずである。よろしくお願いしたい。

 また最寄りの図書館に買い入れ要請をして、そこで読んでいたゞくことも可能だと思う。

  目  次

Ⅰ 初期批評

 批評の二重性
 現代小説の問題(付・二葉亭四迷論)――大江健三郎と古井由吉
 日常の抽象性――開高健『夏の闇』をめぐって
 観念の見取図――丸谷才一『たった一人の反乱』と山崎正和『鷗外闘う家長』

Ⅱ 日本文学管見

 日本人と時間
 『平家物語』の世界
 『徒然草』断章形式の意味するもの
 人生批評としての戯作――新戯作派と江戸文学
 本居宣長の問い
 明治初期の日本語と現代における「言文不一致」
 漱石『明暗』の結末
 芥川龍之介小論
 漢字と日本語――わたしの小林秀雄

Ⅲ 現代文明と文学
 
 智恵の凋落
 批評としての演出――シェイクスピア『お気に召すまま』
 愚かさの偉大さ――黒沢明『乱』とシェイクスピア『リア王』
 オウム真理教と現代文明――ハイデッガー「退屈論」とドストエフスキー『悪霊』などを鏡に
 韓非子の説難
 歴史への畏れ
 便利すぎる歴史観――司馬遼太郎と小田実

Ⅳ 現代の小説

 八〇年代前半の日本文学
 老成と潔癖――現代小説を読む
 「敗戦」像の発見――明るい自由な時代の不安

Ⅴ 文学研究の自立は可能か

 作品とその背後にあるもの

Ⅵ 作家論

 高井有一
 柏原兵三 Ⅰ Ⅱ Ⅲ
 小川国夫
 上田三四二
 綱淵謙錠
 手塚富雄
 江藤淳 Ⅰ Ⅱ Ⅲ
 石原慎太郎

Ⅶ 掌篇

 大岡昇平全集の刊行にふれて
 平野謙と批評家の生き方
 「近代文学」について
 文壇の内と外
 三島由紀夫『青の時代』について
 一度だけの思い出
 ツルゲーネフ『父と子』
 私の読書遍歴
 私が出会った本――ニーチェ『悲劇の誕生』と福田恆存『人間・この劇的なるもの』
 ドイツ文学を選んだこと
 トナカイの置物――加賀乙彦とソ連の旅
 柏原兵三の文学碑
 近代文学 この一篇

Ⅷ 一九八八年文壇主要作品論評

 「新潮」 (一九八八年一~三月、同十月)
 
  告白の抑制――辻井喬『暗夜遍歴』
  言葉の届かぬ領分――高井有一「浅い眠りの夜」『塵の都に』
  健康な、余りに健康な――野坂昭如『赫奕(かくやく)たる逆光』
  自然人の強な生命力――八木義徳『遠い地平』
  生の暗部への対応――黒井千次『たまらん坂』、田久保英夫『緋の山』
  
 「海燕」 (一九八八年九月~八九年二月)
 
  主題不在の変奏――吉本ばなな『うたかた╱サンクチュアリ』、丸谷才一「樹影譚」
  時代の映像――安岡章太郎『僕の昭和史Ⅲ』、新井満『尋ね人の時間』
  日常と深淵のはざま――色川武大『狂人日記』、石原慎太郎『生還』
  世界像の明暗――中野孝次『夜の電話』、村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』
  陰画の必然性――阿部昭『父と子の連作』、坂上弘『突堤のある風景』

Ⅸ 文芸時評
 
 「季刊芸術」(一九七〇年一~三月)
  「日本読書新聞」(一九七二年一~六月)
 文芸時評のこと
 共同通信配信(一九八一~八四年抄録)
 文芸時評家対談・座談会の記録一覧

Ⅹ 書評

評論

小林秀雄『感想』 桶谷秀昭『保田與重郎』 入江隆則『幻想のかなたに』 秋山駿『魂と意匠――小林秀雄』『山口剛著作集』全六巻 高橋義孝『文学非芸術論』 ベーダ・アレマン『イロニーと文学』 島崎博・三島瑤子編『定本三島由紀夫書誌』

小説

芝木好子『隅田川暮色』╱『貝紫幻想』竹西寛子『春』╱『読書の歳月』 上田三四二『花衣』╱『惜身命』 古山高麗雄『小さな市街図』 井上靖『本覺坊遺文』 柏原兵三『独身者の憂鬱』╱『ベルリン漂泊』 高井有一『遠い日の海』╱『夜の蟻』 立松和平『歓喜の市』辻井喬『暗夜遍歴』 中野孝次『はみだした明日』

追補一 桶谷秀昭・西尾幹二対談 戦後三十年と三島由紀夫

追補二 江藤淳・西尾幹二対談 批評という行為――小林秀雄没後十年

後 記

「西尾幹二全集第9巻『文学評論』の刊行」への4件のフィードバック

  1. さっそく第9巻を図書館にリクエストしました。今年は第2巻「悲劇人の姿勢」を生活の合間に読んでおりました。三島由紀夫や福田恒存などに関する批評が印象に残りました。彼らの共通点は精神的自由人であることだと感じました。自由人にも、人間嫌いの自由人と人間好きの自由人がいますが、両者は圧倒的に後者ですね。
    三島由紀夫のエッセーが都内の本屋に積まれているのを最近見かけましたが、いまだによく読まれているようです。退廃した現代文化も日本文化の一部と全面的に肯定する受容性の高さ(三島は言論自由を無制限に肯定した)を持ちながら、武士道とは非常時の思想ととらえて、当時の日本はクーデターを行ってでも憲法を変えるべき非常時と考えて自ら行動に訴えました。この考え方と行動の驚くべき幅の広さは私のような凡人から見ればやはり相変わらず謎です。
    今年は歴史について考えた年なので、歴史の素人から三島を見ると、三島は自分の小説のなかで、なにかひとつだけ読めと薦めるなら「憂国」を薦めると語っています。その「憂国」はたしか226事件を暗示したものであり、三島は226事件を肯定的にとらえていたと推測されます。三島のような知性の高い人間がなぜ226事件を肯定したのか、226事件が成功すればあの戦争は防げて日本はちゃんとした独立国家になっただろうと考えていたのか。その辺が勉強不足であるせいか、いまだに謎です。三島は歴史認識についてはあまりまとまったものを書いていません。福田恒存もそうだと思います。
    そうであるからこそ、なおさら西尾先生が勇気をもって歴史についてもとりこまれてきたのは「すごい」と思います。文学については、「ニーチェといえば西尾幹二」であるにもかかわらず、以前のNHK教養のニーチェ解説番組などではほかの学者が担当していたのが、まことに残念でした。

  2. 全集が一冊一冊と届くたびに、何とすごい人のブログの管理を私はしているのだろうと思う。

    普通に電話で話している限りは、そこまで偉い先生のような気がしないけれど、実は西尾幹二先生は、日本の知性の上質なごくまれな人ではないかと思う。今回は文学評論という、後期の先生の評論しか読んでいなかった私にとって、全然別の面の西尾幹二が、スパスパと小説などの書評を書いていたものの集大成なのでとても新鮮。それも膨大な量。ひとつひとつがすごく緻密。こんな文学評論を書く人間がいると、小説家もうかうかとしていられないだろうと思えるほど、超辛口。

    私が読んでいない本がほとんどだから、その評論があたっているか、自分もそう思えるかどうかはわからないが、きっとそうなんだろうなぁと読む前から信用してしまっている。要所ではきちんと引用があるから、感覚的な印象だけではない証拠が示されている。

    先生に目をつけられた作家はお気の毒に・・・と思ってしまった。こういう全集を出せる日本は健全だとも思う。

  3. > 3
    ニューヨークタイムズを仲間と思っているようですが、だったら、なぜ韓国人慰安婦が奴隷にされたと米軍すなわち米国を訴えたのに、なぜ米国は門前払いを食らわしたのですか? ニューヨークタイムズはこの件をどう思っているのですか。ベトナム戦争の慰安所の慰安婦たちを強制的に米軍は管理した、兵士の健康にかかわるからだ、米軍所属の医師たち、彼らはどう接したか。
    ニューヨークタイムズの東京支局長もやった英国人記者のヘンリーストークスの日本を擁護した本がベストセラーにはいっています。
    わかる人にはいずれわかるでしょう。しかしヘンリーストークスが惜しいのは日本の反日左翼のすさまじさとおそろしさを把握していないことです。
    朝日新聞は1991年ころ、当時進行中の北朝鮮問題よりも、第二次大戦中の慰安婦問題を蒸し返すことが重要な人権と平和問題であると認識したのです。これがなにを意味するか。
    この背景には山ほどのおどろくべき日本ならではの経緯と事情があります。
    人権や平和は重要ですが、リベラルが悪質な共産主義と混同されて、リベラル気質の日本人が次々と反日左翼の勢力にとりこまれていったのが、なによりも日本の悲劇です。実におそろしいことです。
    あとは根気強くバカを言論で退治していくしかないでしょう。
    バカの退治に、わざわざ西尾先生の手をわずらわせることもないのではないだろうと思うので、文学に半分戻られるというのは納得感があります。

    とにかく反日左翼のおそろしさ。
    たとえば戦後日本の歴史を書いた本であれば、まずここに注目します。戦後日本で共産主義者が繁殖したことがどれだけ日本を混乱におちいれたか。これを完全に無視している歴史書は完全にインチキであると断言します。
    どれだけ共産主義というものが学問、マスコミ、教育に万延したことにより日本人の心を荒廃させたか。
    これを反共右翼の妄想ときめつける知識人は絶対にいんちきです。たしかに偏狭右翼は海外に敵をつくりますが、反日左翼は国内に敵をつくり、同国人を徹底的にあらそわせる名人でした。国内で不利になってきたので、中国や韓国に反日憎悪をやきつけたわけです。それも学問をつかって巧妙にやりとげます。これを右翼の妄想などという人間は絶対に信用できません。
    10代のとき図書館の人文系書籍の半分を濫読して左翼というものの、みじめさ、異常さを骨の髄まで痛感しました。
    そのころ、ある左翼作家がこういうことを言っていました。「日本で左翼が衰退したのは、たまたまソ連や東欧、中国が失敗したため。たんに右翼がツイテいるだけ」。驚きました。日本の敗戦の破壊的精神混乱にでも乗じなければ、あれほど最低最悪の共産主義左翼が日本で栄えることなど間違いなくありえなかったでしょう。

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