平成26年坦々塾新年会

 2月も雑誌論文で苦労しました。

 『WiLL』4月号に、「アメリカの『慎重さ』を理解してあげよう」を書きました。ただし、これは副題にまわり、「『反米』を超えて」が本題になったようです。本題をつけたのは花田編集長です。

 『正論』4月号は3回の連載が終りました。「『天皇』と『人類』の対決―大東亜戦争の文明論的動因 後篇」です。やっと終りました。3回で100枚論文になりました。

 ところで、1月の坦々塾の新年会の報告分を渡辺望さんに書いてもらいました。以下の通りです。

渡辺 望

 1月25日午後4時より、坦々塾新年会が水道橋の居酒屋「日本海庄屋」でおこなわれました。新年会の進行は前半は西尾先生の新年に際してのお話、そして坦々塾新会員の紹介、そして後半は懇親会という順序でした。

 参加者は10名の新入会員の方を含め48名を数えました。新入会員のお名前を挙げさせていただきますと、赤塚公生さん、伊藤賢さん、片岡紫翠さん、竹内利行さん、田中卓郎さん、恒岡英治さん、松原康昭さん、村島明さん、藪下義文さん、渡辺有さんです。皆様、坦々塾の参加に至る経緯をお話くださいましたが、それぞれ多様な形での西尾先生・坦々塾へのアプローチを経ての参加でした。

 新年会の始まりに際して、西尾先生の本筋でのお話とは別に、2月9日に迫っている東京都知事選への先生の田母神俊雄候補への強い支持期待が表明されました。また西尾先生の著作『真贋の洞察』(文藝春秋社)が、会員の今後の思想考察の深化に役立つよう、会員に一冊ずつ無償で先生より提供されました。懇親会は三時間以上に及ぶ大議論の席となりました。 

 さて、当日の新年会報告を西尾先生のお話を中心に以下記したいと考えますが、当日の先生のお話の主要内容だった、アメリカ論を中核にした近年の日本を巡る国際関係論については、先生の近著の『憂国のリアリズム』『同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説くときがきた』と内容が重なるように感じられます。そこで、両著作と先生のお話を行き来しながら、先生のアメリカ論をまとめることで、新年会報告の大枠にいたしたく思います。

 「反米」と「親米」、あるいは「親米保守」と「反米保守」という言葉が、西尾先生に限らず、最近の論壇人の論考に多く出てくるようになってきているように思います。それについて自分は色々な感想を持つのですが、これは今回の新年会ではなく、前回の年末の全集記念講演会でのことなのですが、先生が「自分は反米ではないんですよ」と言った途端、「意外だな・・・」というニュアンスのような苦笑の集まりの笑い声が聴衆の皆さんから起きたことを思い出します。

 ところがしばらくして先生が「自分は反米ではなく離米だ」といったときには、聴衆の感情的な反応は何もありませんでした。おやおや・・・と私は思いました。聴衆の皆さんは西尾先生の最近のアメリカ論の本当がわかっているのだろうか?と自分は感じました。「自分は反米でも嫌米でもなく離米」、この言葉は新年会の西尾先生のお話でも再び登場しました。それだけではない、私があげた先生の近著でもある言葉です。

 「反米論」というのはそもそも、たいへん雑多な立場を意味します。反米論と親米論、親米保守論と反米保守論という区分がとりあえず可能だとして、現在、最も先鋭に親米保守論の位置にいる(と思われる)論客の一人に田久保忠衛さんがいます。その田久保さんとやはり親米保守論に位置する古森義久さんとの『反米論を撃つ』という対談本があるのですが、この本を読むと、戦後日本の反米論の系譜がよく整理されていて面白い。両者の主張を一言で言えば、戦後日本の反米論の大半が、全くくだらないものだったということです。

 言うまでもなくまず左翼的な反米主義という「伝統的」な反米主義があります。この流れはかなり弱体化したとはいえ、依然として朝日新聞その他に相当数存続している。西尾先生も著書で言われていますが、1970年代くらいまでの日本の言論界はまったくの左翼主導、ソビエト、中国、北朝鮮礼賛で、それらの共産国家に対峙するアメリカを支持すること自体が「保守」である証しでした。福田恆存ですら「日本はアメリカの「妾」でなく「正妻」になれ」と言っていた時代です。この時期におおっぴらにアメリカ批判とナショナリズム的姿勢を一体させていたのは、三島由紀夫と、先生が著書で引かれているような赤尾敏の銀座辻説法くらいのものだったのではないでしょうか。

 「伝統的」な左翼的な反米主義は要するに、アメリカの軍事攻勢を受けている各地域でおこなわれている残酷な情景や管理統制をとりあげて、「反」を突きつける、というやり口なわけですが、当然なことに、アメリカの軍事攻勢の対象になっている勢力の残酷については無視を決め込む、という稚拙なものです。ベトナム戦争でアメリカに対峙する「正義」なる北ベトナム政権がベトナム人民におこなった大量虐殺をベトナム反戦運動が問題にすることは決してなかった。この反米左翼の思潮の相当部分が、(時折、親中国・親韓国化する)アメリカという虎の衣を借る狐になって親米左翼化し生き残ろうとしている由々しき現状も進行しています。

 しかし、以下は田久保さんの本に書かれていることではないのですが、こうした伝統的な反米左翼はもっと根本のところで大きな欺瞞をもっていると考えられます。それは戦後アメリカの軍事攻勢や政治攻勢をラディカルに否定するのなら、大東亜戦争の最終期において、日本は本土決戦を継続すべきではなかったか、という避けて通ることのできない問題を避けてしまっていることです。

 もし本土決戦を続ければ、日本国家は物理的には壊滅し、凄惨な殺戮の中、国土の少なくとも半分は東側陣営に組み込まれ、皇室の存続もあやうくなっていたでしょう。少なくとも今日のような日米安全保障体制はなかったに違いない。しかしそのことはまさに、「アメリカの傘下に入ることを拒否しつくした日本」「アメリカに徹底的に抗戦を続けて壊滅した日本」という、反米主義の実現の極地に至ることを意味したのではないか。日本の破滅と引き換えに、日本が「反米の聖地」になったかもしれないのです。しかし「甘え」に浸っている大半の反米左翼はこの苦しい問題を考えることをしない。

 だから戦後の日本の時間はすべて「虚妄の時間」であるという後ろめたさが本来、反米主義には圧し掛からなければならないことになります。けれど「虚妄の時間」を拒否して、「本土決戦=日本の破滅」を受け入れれば、こうして語っている自分たちも消滅するのかもしれないのですから、それは簡単に拒否できるものではない。「虚妄」はさらに重くのしかかってくる。「反米」は決してやさしい思想ではないのですね。それどころか、戦後最大の難問なのかもしれない。少なくともその難問の重さを、「伝統的」な反米左翼は何ら認識していないといえます。

 田久保さん古森さんの本に戻りましょう。この本は後半に至り、「反米保守」の旗をかかげた西部邁さん小林よしのりさんへの激しい批判を展開します。これは小林さんたちが田久保さんたちを批判したことの再批判という面もあるようですが、つまり保守主義的立場からの「反米」が可能か、という問題になります。西部さんはかつては湾岸戦争でアメリカの軍事介入を前面支持したように、一面的な反米主義者ではなかったのですが、ここ10年間くらいに、猛烈な反米主義に転じました。その西部さんに私淑している小林さんがそれに追随して反米主義のアジテーションをあちらこちらでしているということは、案外よく知られていることです。

 西部さん小林さんの幾つかの反米主義の本(『反米の作法』など)田久保さん古森さんの批判本を読み比べる限り、両者の対立は田久保さん側の「完勝」です。田久保さん古森さんはこれでもかこれでもかと西部さん小林さんを言葉遣いの間違いのレベルからこきおろしているのですが、残酷なくらい全部あたっているんですね(笑)

 言葉遣いの面はともかくとして、全体的にみて、西部さん小林さんが掲げている「反米」は、反米の「反」だけしかわからないのは、私のようにアメリカ論の専門家でない人間にもよくわかります。批判対象のアメリカの実体がぜんぜん見えてこない。たとえば西部さんは「アメリカ=WASP」論を振りかざしますが、田久保さんが批判するように、アメリカの主導権を握っているのは相当がユダヤ人であるという常識的な視野がゼロ。またあるいは英米可分論と英米不可分論という、近代史で時期をわけて慎重に論じなければならない重要テーマについても西部さんはイギリスは伝統主義の国だといい、「アメリカはヨーロッパという故郷を喪失している」というふうに断じているだけで、アメリカ=反伝統、ヨーロ
ッパ=伝統主義というブツ切りにしているだけです。

 アメリカが嫌いで仕方ないのは個人的趣向としていいとして、西部さんたちにはアメリカという国への「驚き」がないのではないか、と私は思います。史上かつて存在したことのない国家であるアメリカという国への「驚き」がない。驚きがないから、アメリカを既存の歴史の概念の枠組みに強引に単純に当てはめる。西部さんはアメリカを「ソビエトと同列の左翼国家」なんていっているんですね。そんなふうにいうならフランス革命の思想を輸出してきた近代フランスだって立派な「左翼国家」ではないでしょうか(笑)

 この「アメリカ嫌い」にはリアルポリティックスへの考察もないですから、北朝鮮をどうするか、ベトナム戦争はどちらが正しかったのかどうかという言及もない。もしアメリカが不在だったら、北朝鮮に「戦後日本」が独力で対峙し、ベトナム戦争にだって「戦後日本」は介入しなくてはならなかったでしょう。イラクの問題と違い、これらは近隣の東アジアでの日本にかかわる出来事です。言及したっていいのですが、そこまでの想像力はなく、結局、西部さんがやっていることはイラク擁護みたいなことに陥り、これはベトナム戦争のべ平連の思想と何も変わらず、つまり伝統的な反米左翼と同じになっていく。
 
 言うまでもなく、西尾先生のアメリカ論は西部さんのような乱暴なアメリカ論とは無限の距離があります。新年会のお話で「日本はアメリカに依存して生きている。安全防衛だけでなく食料や水までも依存している。この依存しているという事実から離れられないことは認識しなければならない」と先生は言われました。このお話を私なりに解釈すると、日本がアメリカに依存してきたこと、そして戦後世界でアメリカがしてきたことは全部が全部、間違いだったということではない、それは厳然たる事実で見つめないと話が観念的になってしまうよ、ということになると思います。

 たとえばベトナム戦争でのアメリカの介入自体は間違いではなかった。北ベトナムに正義なんてなかったのです。もちろん、イラクにも北朝鮮にも正義はない。これは親米保守だろうが反米保守だろうが、「保守」の面から揺り動かすことのできない点であって、この点は田久保さんたち親米保守派と西尾先生は見解を一にされると思います。

 問題は、アメリカの「正義」が、短期間的な戦後のリアルポリティックスからみれば妥当なのだが、長期的に考察すればだんだんといかがわしい面が見えてきて、リアルポリティックスから本質論に向いて考えざるを得なくなるという点です。たとえば、なるほど、ベトナム戦争や朝鮮戦争はアメリカの正義であり、西側自由主義の聖戦だった。しかしそのことと、20世紀前のアラスカやハワイ、フィリッピンの侵略は軌を一にしないものなのかどうか。中国と組んで日本に包囲網をつくったアメリカと、冷戦終了後も世界に軍事基地を維持しているアメリカは、同一のものなのではないか。同じ根源から同じように起きていることが、時代によって正義に見え、時代によって侵略そのものに見えるとしたら、そ
の根源とは何なのか。

 親米保守論が依拠しているリアルポリティックスの「リアル」は、せいぜい1950年から1990年くらいまでの現実でありアメリカの歴史です。それを崩すような反米論がありうるとすれば当然、もっと長いスパンでのアメリカの歴史になるのですが、戦後の反米論は米西戦争や南北戦争を何も問題にしてきませんでした。西部・小林のコンビも然り。そうした長いスパンでの歴史論が田久保さんたち親米保守論の最大の弱味であるにもかかわらず、です。

 比べて西尾先生の親米論への反駁が強力であるのは、歴史論で武装している幾重にも面があるからに他なりません。西部さん小林さんのアメリカへの悪罵を何十並べても、「南北戦争の北軍に20世紀のジェノサイドの起源があった」という西尾先生の反アメリカ論の重みに適うことは決してないでしょう。常に「歴史論からリアルポリティックス論へ」、この順序が反米論のあるべき方法論ではないかと思います。

 「アメリカは気まぐれである」というのも西尾先生がよく言われる歴史論です。これはアメリカが、世界中に果てしなくアメリカニズムを輸出する本能と、そうではなくて非介入の方に縮こまる本能の両極に揺れ動く不可思議な二面性をもっている国だ、ということです。この前者と後者の揺れ動きの気まぐれが、国際政治の現実にその都度、創造や破壊をもたらし続けてきている。西尾先生がよく引かれる例ですが、中国国民党と提携して日本を叩いたかと思えば、突然、中国国民党を見限って結果、中国大陸の共産化が生まれてしまった。二面性あるいは多面性がアメリカの本質で、一面的にしかアメリカを見ない西部さんたちの反米論はぜんぜん的外れだといえます。

 こんな「気まぐれな国」という性格もまた、世界史上、例がないのですが、その「気まぐれ」が新世紀に入ってきてだんだんひどくなってきて、米中提携論の強化に乗り出したり、日本の慰安婦問題に介入したりすることもしたりして、それはアメリカの国力の減退も大きくかかわってきている。西尾先生がお話の中で言われた「古臭い日本・ナチス同一論が再びアメリカの中にあらわれてきた」ということは、親米派のアメリカ像もまた古臭くなったということであって、こういう段階にさしかかったアメリカと離れる時期に来たと考えるのがまず妥当であろう。これが西尾先生の「離米論」であり、これはきわめて新しい「21世紀の反米保守論」なのです。

 このように親米論も古臭くなってきたのですが、同時に、従来の反米論の古臭さということもあるので、新しいアメリカ論は、今までの親米論・反米論の両方と対峙しなければならないでしょう。田久保さんが幾度も嘆くように、戦後日本にある反米論は保革問わず、西部さんのような「アメリカが嫌いだ」といいたいだけの乱暴な形の反米論、さらには伝統的な反米左翼論に先祖帰りしてしまう傾向がある。これは何度強調しても強調しすぎるということはない。日本が戦時下に受けた空襲その他のアメリカの戦争犯罪と、アメリカが世界各所でおこなってきた軍事的介入の現場での出来事を感情的に同一化してしまう。そこから先は思考停止しか待っていません。単純なる反米論の誘惑、といっていいのかもし
れません。

 西尾先生と福井義高さんの対談で「アメリカには別所毅彦のような直球で対決しては駄目で、関根潤三のような軟投でなければ駄目だ」という話が出たことが思い出されます。西部さん流の古い反米論は「直球」なのでしょう。だから親米保守派に簡単に打たれてしまう(笑)様々な顔=打法を持つアメリカだからこそ、西尾先生の著書には、「さようならアメリカ」という論題もあり、「不可解なアメリカ」もあり、「ありがとうアメリカ」もある。西尾先生のアメリカ論は「軟投」なのです。私はこの「軟投」の意味がよくわかるし、自分もこの「軟投」の立場に組したいと思います。

 一筋縄ではいかないアメリカは、たとえば文学にも現れるのであって、西部さんは小林さんとの対談(『反米の作法』)で、フォークナーとへミングウェイだけ出してアメリカ文学の浅さの個性(?)を語り尽くしている気になっているようですが、ラヴクラフトやエドガー・アラン・ポーのような作家についてはどうなのでしょうか。自分は高校生のときにはじめてポーの作品群を読んだとき、これはフランス象徴派の作家だとしばらく思い込んでしまった。ポーのあの重厚な恐怖の世界は、ヨーロッパとの伝統が切れているどころか、逆により徹底したヨーロッパが実現してしまっているわけで、アメリカ文学の世界はぜんぜん浅くありません。私はポーがアメリカの作家と知ったときの「驚き」は今でも忘れ
られない。以来、私がアメリカについて考えるときは「驚き」がどこかで伴うので、そういう点だけでも、「驚き」に乏しい西部さんたち反米論のアメリカ論に違和感を感じてしまいます(笑)

 西尾先生が「自分は反米ではない」といったときに皆さんに笑いが起きたのは、西尾先生のアメリカ論を、伝統的な反米論とどこかで同一視しているからなのではないか、と感じました。私たちの中には、旧来的な反米論が依然としてどこかにイメージされている。これは繰り返しになりますが、反米論とは、決してやさしい思想ではない。「アメリカ」はあまりにつかみどころのない存在なのです。だからこそ、従来の反米論の系譜とは完全に異質な21世紀の反米論、この西尾先生の試みを皆さんにも正しく理解していただきたいと新年会の西尾先生の話と皆様の反応から私は感じ、このテーマを今年の坦々塾の会で深めていければ幸いと思いました。

 懇親会の時間ののち、20名ほどの面々で二次会のカラオケを楽しむ時間となりました。いろいろな持ち歌の飛び交う場で、楽しい時間はまたたくまに過ぎていきました。

 西尾先生、ご苦労様でした。また幹事代表として最初から最後まで緻密に新年会を運営された小川揚司さん、たいへんお疲れさまでした。新入会員の方を含めた坦々塾の皆様、今年もよろしくお願いいたします。

「平成26年坦々塾新年会」への3件のフィードバック

  1. 【用日警報発令】
    これまで反日民族南朝鮮族は、嘘八百並び立てて、さん
    ざんぱら国際社会で、日本人へ悪態の限りを尽くして来
    ました。(例:フランスの漫画祭や国家予算が流れている
    反日サイバーテロ集団VANK
    http://www.youtube.com/watch?v=BCWd4-IoSjk
    による、ディカウントジャパン活動)それがここに来て、
    経済がやばくなってきたため、反日をカムフラージュし
    始めています。しかし、これには要注意です。

    南朝鮮国債のクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)
    権利金は、高水準を継続中です。それだけに留まらず、
    南朝鮮の日本への債務は、その国家予算の何倍もありま
    す。つまり南朝鮮は、経済破綻寸前です。したがって最
    終手段として、日本に泣きつき、援助をしとめ取る魂胆
    を、具現化し始めました。それは、本音からの悲鳴かも
    知れません。このことは、某テレビ番組での、大阪市立
    大学大学院の南朝鮮族の人からのサインからも、見て取
    れます。

    それによると、南朝鮮族の世論は反日的ではなく、首脳
    会談を望んでいる、とのことです。しかし、今後も常に
    explicitでなくても、implicitでも反日基調は不変で
    しょう。よって、このカムフラージュには要注意です。
    この反日カムフラージュモードでは、表面上友好的に振
    る舞い、できる限り日本を利用し尽す戦略で、それは南
    朝鮮族の表現での”用日”です。したがって、真に友好
    的にはならず、状況が改善されほとぼりが冷めれば、突
    然牙をむき反日モード全開となるでしょう。このような
    用日は、以下のように、過去に何回も反復されて来まし
    た。それでも朝鮮族は、決して親日になりませんでした。

    ・日韓併合
    伊藤博文も消極的だった日韓併合は、朝鮮族総理の李完
    用からの用日目的の要請で決定された。
    ・日韓基本条約
    この用日目的の条約以降、南朝鮮は奇跡の経済発展をし
    たとされるが、それは奇跡でも何でもなく、日本から
    の援助のおかげで達成されたに過ぎない。
    ・河野談話
    この談話で一切の問題は解決する、という用日目的の南
    朝鮮族の口車に乗せられ、はめられた結果、日本は現在
    のみじめな状況に陥った。
    ・ワールドカップ共催
    南朝鮮でのスタジアム建設に日本の資金が使われ、未だ
    返済されていない、という用日実行のいい例となった。

    今回も、恩知らずの南朝鮮族は、援助のドサクサに紛れ
    て、日本への債務の棒引き踏み倒しを目論んでいるかも
    知れません。

    以上のように、”ぼく・きんけい”との首脳会談は、百
    害あって一利なしです。仮にするとしても、以下の誓約
    を国際社会へ明確に宣言させることが、条件として最低
    限必要です。
    ・朝鮮族は歴史修正主義者であると認める。
    ・捏造の歴史で南朝鮮族は、日本へ多大な損失を与えて
    きた、という事実を認める。
    ・このことに対し、正しく過去数十年の反日の歴史を認
    識し、日本に真摯に謝罪する。

    もし学習効果なく、南朝鮮提示の条件(例:謝罪や経済援
    助)を受諾し首脳会談を受け入れ、過去のようにはめられ
    るという轍を踏むならば、南朝鮮族は日本人を無知で無
    垢で純情可憐な愚者と思い、またもやしてやったりとほ
    くそ笑むことでしょう。

  2. 佐藤浩史さま
    実にタイミングよく素晴らしい【用日警報発令】、大変有難うございます。
    「某テレビ番組での、大阪市立大学大学院の南朝鮮族の人からのサインからも、見て取れます」とあるように、あの番組をみた多くの人たちがしきりに待ち望んだ用日警報発令でした。民間人はすでに皆同じ思いですからこの警報は民間から政府の、政治家の鼻先に突きつけるべき警報ですね。耳元で大きなサイレンを鳴らしながら。

  3. 一月の坦々塾新年会は、例によって侃々諤々・談論風発の一大壮観を呈しつつも、西尾先生をお慕いする者同士の和やかさに満ちた愉しい会となりました。西尾先生はテーブル一つ一つに足を運んでくださり、私も間近にお話をうかがい且つ日頃の自身の考えを述べさせて頂く機会を得ることができました。西尾幹二ファンとしてこれほど幸福なひと時は無いでしょう!改めて西尾先生、そして坦々塾の皆様に御礼申し上げます。

    渡辺さんのご報告文、何やら途中から反米論・親米論に関する深遠な考察へと趣を変えているようですが(笑)、当日の西尾先生のお話と、それに続く宴席での話題の中心は確かに「アメリカ」だったと思います。昨年末の安倍首相の靖国神社参拝に対する米政府の「失望」発言、また昨今しきりに耳に入るアメリカ国内での中韓両国による様々な対日ネガティブキャンペーン等、同盟国アメリカの真意がどこにあるのか、今後どこに向かうのかという命題に、心ある日本人の誰もが神経をピリピリさせている、というのが2014年始めの風景と言えるのではないでしょうか。

    そんな日本人の不安にいち早く明確に力強く対処の道筋を示してくださるのが、西尾先生の近著『同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説く時がきた』だと思います。先生は「長いタイトルになってしまったがこれしか付けようが無かった」と仰っていましたが、「今、どんな覚悟をし、何をしなければならないか」という事を示す時には、言葉は具体的であるべきであり、主題を判り易く提示するのは効果的です。アメリカに対して「説く」という言葉を選ばれる所がまた絶妙で、「反論」「論破」といった刺激的で挑発的な語彙からは表されない、冷静で説得的な、相互理解の可能性を持った歴史論争の必要性を強く印象付けられるタイトルだと思います。そして現に、現在の危機を克服する対処法はそこにしか見出せないと言ってよいでしょう。中韓両国と冷静な議論を通じて一定の相互理解に達するのは不可能である事が明白になり、更に彼らがアメリカに対して先の戦争の意義をもって友好・非友好の踏み絵を迫っている以上、我々も全力で自己の正当性をアメリカに訴えなければなりません。それも、聞いている相手の支持を得られるように。少なくとも理解を得られるように。

    渡辺さんのご考察の通り、戦後の日本人のアメリカに対する姿勢は、たいへん雑多で複雑怪奇なものだと思います。しかし、日本人の意思、日本国の行動の意義、日本の正当性を世界に向かって「説く」事を避けてきたという点では皆共通するのではないでしょうか。日本を「犯罪性国家」とする連合国及び中韓両国の主張を全面的に受け入れてしまっている左翼勢力はもちろん、「戦後、アメリカの指導の下に新しく生まれ変わった」事を根拠に日本の主張の理解を得ようとする親米保守も、アメリカの主張を否定する事に夢中になるあまり相手の理解可能な価値観や論理や語彙を用いて説得する努力を放棄してしまっている反米保守も、みんな同罪と言ったら言い過ぎでしょうか。

    戦後日本人が自己主張を忌避してきた原因について、西尾先生はアメリカの徹底した占領・洗脳政策とその日本人協力者の存在という歴史の闇を白日の下に明らかにしてくださいました。また、渡辺さんが指摘されているように、反米をラジカルに突き詰めれば先の戦争での本土決戦・一億玉砕を肯定せざるを得なくなるというジレンマも日本人の自己主張を躊躇させてきたであろう要因でしょう。
    この命題については私も自分なりにずっと考えてきたのですが、最近はこんな風に思うようになりました。お読みになってご不快に感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、40代の日本人の一見解としてご容赦ください。
    畢竟、戦後の日本人は、空襲や原爆というアメリカの巨大な軍事力の恐怖に圧倒され、怖くて怖くて、大急ぎで戦犯という人身御供を差し出して何とか助かろうとしたというのが実態なのではないでしょうか。平和主義の経済国家という新たな立場を得る引き換えに、父祖を道義的犯罪人として「売った」のではないでしょうか。どんなに取り繕っても、またどんなに繁栄を手にしても、その後ろめたさからは逃れられないように思います。その後ろめたさが、日本人の自己主張を正統性のない弱々しいものにしてきたと思えてならないのです。そして我々は今、誰も口には出さないけれど本当は、北京をパレードする巨大で猛々しい軍事力の恐怖に気圧され、やはり怖くて怖くて、もう一度父祖を売ろうとしている...そんな気さえします。

    愉しい新年会の感想を書こうと思っていたのに、何やら陰気な妄想話になってしまいました。コメント欄を汚して申し訳ありません。しかし、こんな陰気な妄想に囚われている私も、西尾先生の言説に触れると未来を信じる勇気が湧いてきます。渡辺さんのご指摘にもあるように、アメリカの、そして自由世界の知性の奥の深さはそれこそ巨大で圧倒的なものなのであり、日本人が覚悟を決めて、冷静に、誠実に、そして何より上手に、自己の過去・現在・未来を通じて奉じるところの大義を説けば、必ず理解を示す勢力は出現し、一定の相互理解へ進め得ると信じます。中韓両国は日本をナチスになぞらえようと必死のようですが、専制国家や前近代国家の知性の底の浅さはすぐに馬脚を現すでしょう。かつて西尾先生はある講演で、「次のヒトラーはヒトラー批判の主張を掲げて現れるだろう」と警告なさったことがあります。今起こっている事はそれなのかな、などと思う今日この頃です。

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