長野県諏訪地方は本州のほぼ中央、太平洋からも日本海からも一番遠い山間の狭小な盆地である。諏訪大社には上社と下社があり、さらに上社は本宮・前宮、下社は春宮・秋宮が鎮座する二社四座という独自な構成になっている。上下とあるが二社四座に社格における序列、上下関係はない。現在諏訪神社は全国に5,000社以上あるといわれているが、四社すべてがその5総本山ということができる。現在一般的には、上社が男神、下社がその妃神、女神と伝えられているが、これは後年の創作と思われる。下社では毎年2月1日と8月の1日に、御神霊の遷座祭を執り行う。2月から7月までは里宮である春宮で五穀の豊穣を見守り、8月から1月までは山宮である秋宮にお帰りになる。
春宮が立地する場所は、下社の信仰圏である諏訪湖北部の沖積台地、いわゆる扇状地の最上部にあたり、その平野を作り出している砥川(とがわ)のほとり、ちょうど山と平地の境目に位置する。さらにこの川は霧ヶ峰高原の西端に源流を発し、そこには下社の奥宮が祭られていることから、下社は水と農業を主体とした祭祀と考えて間違いないと思う。
上社には前宮と本宮があるが、この二社の性格は下社とは違って、半年ごとの遷座祭は行われない。大まかにいってしまうと前宮が土着諏訪信仰の聖地、本宮が大和朝廷によって秩序付けられた諏訪信仰と考えられている。今日お話しする内容は、この上社前宮のことが中心となる。
古代信仰を研究する人の間で「諏訪がわかれば日本がわかる」ということがいわれている。これは古代諏訪がある種のアジール(守護聖地)として、中央の統制に組み込まれない独自の祭祀を維持していたのではないかと考えられているためで、それが解明されることで古代日本の正史には残らなかったある一つの姿を解明できると考えられているからである。閉じられた空間の中で独自に進化することを一般的にガラパゴス現象ということがあるが、古代から中世の諏訪がまさにそうした状態にあったのではないかと考えられている。一例を挙げると、諏訪には長い間仏教が入った形跡がなく、確認されている最古の仏教寺院は西暦1293年と極めて新しい。文書、考古学的発掘によっても、これをさかのぼる年代に仏教が普及していたことを示すものはまだ見つかっていない。7世紀以降、我が国は朝廷が中心となって熱狂的ともいえる情熱をもって仏教を受け容れて来たが、そうした時代にも諏訪は頑なに仏教を拒み、古代信仰と共に生きていたと考えられている。
もう一つ不思議なことは、712年の古事記編纂から程ない721年、元正天皇の時代に諏訪は信濃から独立して一国の地位を与えられている。強大な信仰圏と、それがもたらす潤沢な経済的基盤があったために一国として充分成り立つと中央が認めたのではないかと考察する学者もいるが、10年後の731年、聖武天皇の時代に信濃に戻されている。
諏訪を巡る動きを時系列に追ってみると、西暦685年、天武天皇は諏訪の近くに行宮を作らせている。天武天皇は翌年崩御されたので、実際に天皇が行幸されることはなかったと思うが、勅使の派遣はあったのではないか。691年、持統天皇は都で諏訪の神を10数度祀らせている。702年、文武天皇のもと吉蘇路(後の中山道木曽路・現国道19号線)が着工され、713年に開通。この開通によって都と諏訪の旅程が短くなった。そしてつかの間の諏訪の独立と再併合となる。朝廷にも強く諏訪を意識せざるを得ない何らかの要因があったとみてよい。8世紀半ばの国家プロジェクトというと国分寺の建立があげられる。741年3月、聖武天皇によって号令されたが、そのことと信濃への再併合は何か関係があるのではないか、という指摘もなされている。例えば、一国である以上その国には国分寺を建立する必要があったが、諏訪はそれを拒んで信濃に再編入される道を選んだか、諏訪という小国では国分寺の建立費用をまかなえなかったのではないか、ということが考えられる。
いずれにせよ諏訪では650年以上にわたる仏教の空白期間があったといってよい。13世紀以降は諏訪も仏教を盛んに取り入れ、本地垂迹、神仏習合も抵抗なく受け容れていった。
諏訪の名が中央の歴史に登場するのは古事記における「出雲の国譲り」の場面である。オオクニヌシの息子であるタケミナカタは、アマテラスの使いであるタケミカズチ(鹿島神宮の御祭神)との戦に破れて諏訪まで逃げのびる。ここで国土の譲渡と今後諏訪から一切出ないことを条件に命を助けられる。
1356年、室町初期に「諏訪大明神画詞」(以降画詞)が編纂された。諏訪の風土記のようなもので、小坂円忠という足利尊氏に右筆として仕えた武士が、古老からの聞き取りや言い伝え、古典に登場する諏訪信仰などを収集して、12巻の絵巻物としてまとめられた。原本は紛失しており、文章だけを写した写本が13種類残っている。各巻の外題には後光厳天皇から御宸筆をいただき、尊氏も奥書に署名をしたといわれる。原稿は円忠本人が書き、絵師は本願寺にも作品の残る大和絵の巨匠5人が描き、書も当代一流の能筆家が当たった。
この画詞ではタケミナカタを迎え入れた諏訪の視点から、この時の様子を描写している。出雲族を迎え入れた諏訪には、洩矢の神という土着の豪族がいてミシャグチ様を信仰する強固な信仰圏を形成していた。洩矢の神とは神様ではなく、神様を祀る神官である。このミシャグチという言葉、いまではその意味も神を表す固有名詞なのか、信仰の形態を表す抽象概念なのかまったくわからなくなってしまった。ミシャグチを祀る神社は諏訪だけでなく、丹念に調査した人の資料によると、長野675、静岡233、愛知229、山梨160、三重140、岐阜16、に分布するという。ある郷土史家は、明治の神道統合の際にいわれのはっきりしない神様の多くが、淫祠、邪神として排除され、整理統合されていく中で、ミシャグチ様もその一つとして扱われたのではないかと推理している。多くの祠は別の神様をお祀りし直したり、取り壊されたり、あるいは統合される中で、いわれはわからないながら、何となく昔から共同体の中で大切にされてきた、というただそのことだけで、現在まで少なからぬミシャグチ様をお祀りした祠が残ったのではないかというのである。
現在のミシャグチ様に対する共通理解は、地母神ではないかといわれている。動物、植物、さらには人間をも無限に生み出してくれる地の母の神。それがミシャグチではないか。縄文時代の土偶には、妊婦を連想させる姿のものが諏訪からも多く発掘されているが、こうした受胎崇拝のような感情が基層にあると考えられる。
画詞によると出雲における国譲りの抗争が、諏訪の地においても立場を入れ替えて繰り返されている。洩矢の神にとって出雲族は侵略者になるため、進入を食い止めるために武力衝突があったが、ここでは諏訪が敗れる。「画詞」の描写では、洩矢の神を賊臣(ぞくしん)と書いているが、これはこの本の作者小坂円忠が将軍尊氏に直接仕えるほどの地位にあったため、大和朝廷の縁起書でもある「古事記」に、あるいは体制に敬意を表する必要から、敢えてこうした表現を用いたのではないかと私は考えている。諏訪はかつて鎌倉幕府に忠誠を誓っており、執権北条が足利、新田勢によって滅ぼされたときには運命を共にしている。このように鎌倉と深い関係にありながら諏訪出身の我が身を取り立ててくれた尊氏に対して、円忠は深い恩義を感じ、またその微妙な立場故のバランス感覚も必要とされていたのではないかと思う。
戦いが終わった後、戦後の和平交渉が話し合われ、そこで今後諏訪の地をどのように統治していくかという話し合いが行われ、両者による妥協が成立する。タケミナカタは、自らが天孫族に助けられたように、諏訪の洩矢の神を滅ぼすことなく共存の道を選んだ。
神権政治の時代にあっては、祭祀権を持つ者が同時に地勢権も握っていたが、タケミナカタはこれを譲り受けるかわりに、洩矢の神は祀られ崇められる存在である神(タケミナカタ)の末裔に神霊を付与する、いわゆるシャーマンとしての役割を手に入れる。このシャーマンのことを諏訪では神長官と呼ぶ。神長官と書くが、官は発音せず神長と発音する。
そして洩矢の神の子孫である守矢家が代々その役割を受け継いできた。タケミナカタの末裔は代々諏訪神社の大祝(おおほおり)を継いで行くことになる。大祝というのは、一般的には神職(神主)の最高位を示すが、諏訪では神職ではなく現人神を意味し、極限的な王朝が確立していたといってよい。諏訪以外で大祝の制度があった神社には伊予の三島神社があり、ここでも江戸時代まで大祝は神として崇められていた。
神職はどこまでも人間であるのに対して、大祝はある手続きを経ることによって神、あるいは神の依代になるということである。かつての諏訪にはもう一つの天皇制度(諏訪朝廷)が続いていたということもできる。天皇は皇位継承において大嘗祭を行なうことで践楚が完成するが、諏訪の大祝は神長官から神霊を付与されることによって始めて神格を得ることができ、祀られる存在、生き神となる。神降ろしの秘術は一子相伝による口伝、親から子への口伝えで伝えられたため、文字としては残されなかった。明治維新の廃仏毀釈と神道の統制によって、諏訪の神長官制度は廃絶しこうした神降ろしの秘術も維新と共に消滅した。前回の勉強会で西尾先生がお話しになったように、神話に基づいた絶対皇国史観によって新たに国を束ねていこうという明治政府にとって、わが国に正統ではない現人神が存在するということは絶対に許すことができなかったであろう。守矢家は今も存続し、かつて神長官屋敷のあった場所には今もミシャグチ様の総社が鎮座しています。
宮中の大嘗祭に相当するミシャグチ降ろしの秘技は、大祝となる人物の22日間に渡る潔斎の後、前宮にある柊(ヒイラギ)に神霊が降臨し、その神霊が柊の根元にある巨石に滑り降りたところで、大祝となるべき人物がその石の上に立ち、神長官の祝詞によって神霊を乗り移されて正式に大祝が誕生するといった儀式を行っていたといわれている。
ここで興味深いのは、タケミナカタは諏訪の神との戦いには勝ちますが、洩矢の神と妥協をすることによって、タケミナカタの子孫が正当なる大祝に即位するための神霊降ろしにおいて、古代諏訪信仰の神霊であるミシャグチ様を降ろされていた可能性があるということである。反対側の視点から見ると、洩矢の神は戦いには敗れたが、諏訪の信仰の正統性を維持することには成功したということがいえるのである。これは、戦には敗れても交渉には勝つという大変高度な外交交渉を展開したといえる。国土を失ったように見せかけながら、古くから崇めてきた諏訪の神であるミシャグチ様にはついては、ほとんど失うものがなかった。タケミナカタはオオクニヌシという我が国の名門中の名門の家系を継承し、諏訪の地においては大祝という祭祀王として代々君臨しますが、信仰の基層においては諏訪信仰のミシャグチ様をまとっている。このトリックのような構造を編み出して、諏訪の古代信仰はその後も継承されていくことになった。
さて、古代諏訪信仰には重要な祭祀が二つあった。一つは御室神事(みむろしんじ)と呼ばれるもので、もう一つは大立座神事(おたてまししんじ)と呼ばれるものである。二つの祭祀は繋がった一つのお祭りと考えることもできる。御室神事は、旧暦12月22日、上社前宮境内に穴(この穴が御室)を掘り、そこに8歳の子供六人と大祝、神長官が籠もる。6人の意味は、3人がメインで残りの3人はサブであったという。
この御室の中でどのような秘技が行われていたのか、一部は文章が残っているが、ほとんど何も解っていない。画詞には「神代童体故ある事なり」「其儀式恐れあるによりて是を委しくせず、冬は穴にすみける神代の昔は誠にかくこそありけめ」とあり、こうした言葉から、この子どもたちは最後には人柱となって神に献げられたのではないかと空想する人もいる。
この御室にこもった6人の子供達は、神の依代として、大祝の分身として神長官から神霊降ろしを受けていた。何日にもわたる秘技を受けた後に神霊を降ろされた子どもたちは、ミシャグチ様の分身として地上に姿を現す。
それが旧暦3月酉の日であった。上社前宮境内にある十間廊(じっけんろう)という吹きさらしの建物において大御座神事(おたてまししんじ)が執り行われた。御室に籠もった子供はこの時すでに神霊降ろしを受けて、大祝と同じ神霊を身にまとっている。現人神の分身といってよい。
大御座神事は諏訪神社の数ある例祭でも(年間70を越えるお祭りがあった)最も大切な神事とされており、膨大な費用をかけて行われた。地元で調達できるものとしては、鹿の生肉、鹿肉のミンチと脳みその和え物、フナ、鹿の頭75頭、ウサギの串刺し。アワビなど海産物もたくさんあったが、塩付けにして何日もかけ運んだのであろう。
画詞にはこのときの様子を「禽獣の高盛 魚類の調味美をつくす」と表現しているが、はっきりと狩猟文化の痕跡が伺える。
仏教の影響で殺生が禁じられていた時代にも、諏訪神社が発行する鹿喰免(かじきめん)のお札をもっていれば肉食が許されていた。全国を回ってこのお札を売っており、このお札は諏訪神社の経済的基盤にもなっていたと思われる。
生神となった8歳の子どもたちは、神使(おこう)と呼ばれました。神使は馬に乗ってそれぞれの分担する地区を回り、ミシャグチ様の神霊を大地に降り注ぎ、大地に活力を与え、五穀の豊穣を祈って回った。その時ならした鈴が「さなぎの鈴」で、この行事のことを「湛えの神事」とよんでいた。湛えにはさんずいの漢字が当てられているので、農地に豊富な水をもたらすための儀式であったのか、神の降臨を称えたのか、、あるいはその両方だったと思われる。
神使の分担は、内県、小県(おあがた)、外県の三地区に分かれており、ここがかつての諏訪神社の勢力圏と一致するのではないかと思う。神使は、御室に籠もってから一年間、このたたえ神事をはじめとしていくつかの神事を務めなくてはならなかった。次の年の御室神事に新しい子供が任命されるとお役ご免となるが、この後この子供達は帰って来なかったともいわれている。これが人柱説の根拠となっている。
大祝や神使のように、諏訪では人間に神霊を憑依(依り付かせる)させることで、信仰を成り立たせて来た。「我に別躰(てい)なし 祝を以て御躰(てい)となすべし。我を拝むと欲せば須く祝を見るべし。」これは諏訪明神が大祝の口を通して発したといわれている神勅だが、諏訪信仰の特質はまさにここにあるのではないかと思う。
これは余談ながら、織田信長は既存宗教を弾圧したが、戦国時代の1582年武田勝頼を追って諏訪まで攻め込み、上社本宮の社殿も焼き討ちにしている。実際に火をつけたのは息子信忠だが、このときの様子を信長公記はこう記している。
「3月3日中将信忠卿 上の諏訪に至って御馬を立てられ所々御放火 そもそも当社諏訪大明神は日本無双の霊験、殊勝七不思議の神秘の明神なり。神殿をはじめ奉り諸伽藍ことごとく一時の煙となされ 御威光是非なき題目なり。」
信長が本能寺で亡くなるのは上社焼き討ちの三ヶ月後の6月2日であった。この時、明智光秀も諏訪に同行していた。
諏訪信仰はタケミナカタの諏訪入りと戦国の混乱という二度の危機に見舞われたが、幸運なことにどちらにおいても信仰の基盤を失うことはなかった。そして、明治維新という我が国が近代国家として西欧と対峙せざるを得なくなったときに、この我が国でも特異な神長官と大祝によるミシャグチ信仰という形態は滅んだ。それは日本という国が、国際社会の荒波の中に否応なく叩き込まれ、小国といえどもこれに対して一歩も引かずに挑んで行くためにはやむを得ない面もあったのではないかと思われる。大東亜100年の戦いの中で、諏訪神社は、信濃の國一之官、官弊大社、日本第一軍神として崇められ、全国から大きな崇敬を受けた。これは古事記においてタケミナカタが最後まで天孫族に抵抗したレジスタンスとしての精神を高く評価されたためであると思う。
現在では地元でもこうした故事を知る人も少なくなったが、御柱の熱狂を見てもわかるように、神社と氏子は変わらずに強い絆で結ばれている。諏訪の地は6市町村に人口20万人という小さな共同体であり、自らを自称するときに諏訪人というように、諏訪大社の氏子であることに大きな誇りを持っている。御柱における団結を見ると、諏訪という地域が強固な連帯意識で結ばれた祭祀共同体とでも言うべき文化圏を形成しているのではないかと思われるが、実は大変に地域エゴの強固な地域でもあり、先の平成の大合併においても諏訪の6市町村はどれ一つ合併することがなかった。「諏訪を一つに」というスローガンは数十年前から唱えられながら、現実可能性はまったくない。根底にはそれぞれの自治体の経済問題がある。八ヶ岳の裾野に広い農地をもつ町や村は住民も自治体も相対的に恵まれており、貧しい市との合併に難色を示している。これを湖周文化と山浦文化の軋轢と見る人もいる。ユーロ問題の地方版のようだが、ギリシャの悲劇やドイツの苦悩を見ると、理念や夢だけでは現実は運ばないということを強く感じている。
文:浅野正美