『GHQ焚書図書開封 4』の刊行(三)

 『諸君!』終刊号の編集長であった内田博人氏から贈本に対する丁寧な礼状をいたゞいた。私には嬉しい内容であったので、ご承諾を得て掲載する。

 どこが嬉しかったかというと、各種の「国体」論者の「真贋」を私が弁別して書いたという処である。「その善悪両面を公平な視点で浮き彫りにされた」とも記されている。たしかにそこがポイントである。

 また文中に319ページという指摘があったので、そこを抜き書きする。岸田秀氏との対談というのは日米の歴史について岸田氏と一冊の対談本を出すことを指す。対談は8月16日、18日に8時間かけて修了した。

謹啓
 酷暑の日々がつづきます。過日は「GHQ焚書図書開封」の第四巻をお送りいただき誠に有難うございました。夏休み中に一気に拝読。多くの示唆に満ち、シリーズ中の、もっとも重要な一巻となるのではないかと感じました。

 思想家の真贋を明快に弁じて文藝批評の本領を示される一方、大衆的な作風で知られる山岡荘八や城山三郎氏の作品を対象にえらばれたのは、意外かつ新鮮な印象でした。

 戦後社会のなかで、まったく忘れ去られていた「国体」の一語をよみがえらせ、その善悪両面を公平な視点で浮き彫りにされた、きわめて意義のふかいお仕事と存じます。

 319頁のご指摘にあるように、国体意識は戦後、正当な歴史的地位をあたえられることもないまま、日本人の無意識の底に追いやられてしまいました。憲法論議における退嬰も、対外的な弱腰も、俗耳になじみやすい網野史観の横行も、結局は、名をうしなった国体論がもたらす厄災の諸相ではないでしょうか。岸田秀氏との対談ではぜひ、このあたりを議論していただきたく存じました。

 国体意識の名誉挽回が、戦後的迷妄を乗り越える、ひとつの突破口になるのではないか、とかんがえます。

 今年後半も刊行のご予定が目白押しで、ご多忙な日々がつづくことと拝察します。何卒ご自愛ご専一にお願いいたします。

 少々涼しくなりましたら、一献、ご一緒させていただければ幸いです。

 略儀ながら書中にて御礼のみ申し上げます。 
              

敬具

平成22年8月17日      

文藝春秋 内田博人

西尾幹二先生

 敗戦を迎えて国家体制が崩壊し、国体という観念は一挙に過去のものとなってしまいました。万世一系の天皇を中心とする国体観念を疑ってはならないとするタブーも、消滅してしまった。だから「天ちゃん」「おふくろ」「セガレ」という呼称も生まれたわけですが、では、かつての日本人が当然のごとく信じていた認識はどうなってしまったのか。みんなが杉本中佐の本を買って一所懸命に読んだ当時の意識はどうなってしまったのでしょう?まったく消えうせてしまったのだろうか?それとも無意識の底に温存されているのでしょうか?

 そのあたりの問題を整理しておく必要があります。国体論のどこが良くてどこが悪かったのか。杉本中佐の思想は単純きわまりないものだったけれども、あれがなぜ広範囲に受け入れられたのか。戦後、そうした吟味はなされたでしょうか。

 徹底した自己検証も行わないまま、単純に「軍国主義」というレッテルを貼って片づけちゃったのではないでしょうか。じつは、「軍国主義」という単純な言葉で否定して後ろを見ない姿勢は城山さんの『大義の末』にも当てはまります。しかし、後ろを見ないということは、かえってたいへんな問題を残すのではないかと思います。本当の意味での克服にならないんじゃないか。「軍国主義」という言葉でばっさり片づけてしまうと、自分の国の宗教、信条、信念、天皇崇拝‥…といったものを他人の目で冷やかに眺めるだけで終わってしまいます。あの時なぜあれほどにも日本の国民が戦いに向かって真っ直ぐに進んでいくことができたのか、という動かしがたい事実がそっくりそのまま打ち捨てられてしまう。その結果として何が起こるかといえば、“別のかたちの軍国主義”が起こるかもしれません。

 国体論でもファシズムでも、これをほんとうの意味で克服するには外科医がメスを入れるような感覚で病巣を切除するだけではダメなのです。――日本人がなぜ国体論に心を動かされたのか。われらの父祖が天皇を信じて戦ったという事実に半ば感動しつつ、半ばは冷静に客観化するという心の二つの作用をしっかりもって考えていかないといけない。真の意味での芸術家のように対応しなければいけないと思います。

 簡単にいえば、ある程度病にかからなければ病は治せないということです。そうしないと問題は一向に解決しない。病は表面から消えても、歴史の裏側に回ってしまう。それは、ふたたび軍国主義がくるという意味では必ずしもなくて、たとえば「平和主義」という名における盲目的な自家中毒が起こることも考えられます。否、すでに起こっています。今度もやはり自分で自分を統御することのできないまま「平和」を狂信して、自国に有害な思想をありがたがって吹聴して歩いたり、領土が侵されても何もせず、国権を犯す相手に友好的に振る舞ったり、国際的に完全に孤立してバランスを崩し、最終的に外国のために、日本の青年が命を投げ出すようなバカバカしいことが起こらないともかぎらないのです。

 繰り返しになりますが、ある程度病にかからなければ病気は治せません。どこまでも他人事(ひとごと)であれば、ほんとうの意味での病を治療し克服することはできないのです。

『GHQ焚書図書開封 4』P319~321

残暑お見舞い申し上げます

 「日録」の読者の皆さん、今年の夏は本当に格別に暑い夏でした。そして今も暑さはつづいています。いかゞお過ごしですか。

 私は5月~7月にかけて仲小路彰の『太平洋侵略史』全6巻を読んで解説(80枚)を書く仕事と、拙著『GHQ焚書図書開封 4』を刊行することで大わらわでした。前著『日本をここまで壊したのは誰か』の主要論文は2月から4月にかけて書きましたので、そのあとひきつづき休息がありませんでした。「日録」の更新も思うにまかせませんでした。

 その間内閣は変わり、日本経済の行方に黄ランプが灯り、気力のない国民の不甲斐のなさが八方で論じられています。菅内閣の「謝罪マニア」ぶりが気分を重くしています。そして8月の恒例の終戦をめぐるテレビ放映をみました。

 チャンネル桜の水島さんがご自身のニュース解説の時間帯に30分、以上のような日本の今の状況についてどう考えているかを語ってほしいといわれ、8月19日夜放映されました。

 ここに同社の許可を得て私の動画画面をご紹介することで、残暑お見舞いに替えさせていたゞきます。

坦々塾報告(第十八回)報告(二)

 6月5日(土)第18回坦々塾において、すでにご案内の通り、私が「仲小路彰の世界」という題の下で、約一時間余の話をしました。「仲小路彰」は聞き慣れぬ名前と思う人が多いでしょう。

 国書刊行会から7月末に彼の『太平洋侵略史』全6巻 が復刻再刊されました。この本は仲小路が昭和16年5月から昭和18年9月までの間に集中的に書き上げた作品で、戦後GHQから没収発禁とされました。本年5月から7月初旬まで私はこの本の解説を書くため調査研究を進めていました。坦々塾での講演は中間報告といってよく、この後に仲小路について新たに分ったこともあり、以下の要約文は5月末の段階の私の認識を反映しています。

 浅野正美氏によってまとめられた要約文は以下の通りです。

太平洋侵略史〈1〉 太平洋侵略史〈1〉
(2010/08)
仲小路 彰

商品詳細を見る

西尾幹二先生 「仲小路 彰」

 仲小路彰(なかしょうじ あきら)とは一体何者か。伝記的事実がほとんどわかっていない謎の哲学者である。戦後も政府の要路の近くにいて、五校時代の同級生佐藤栄作とは生涯親交を結び、鋭い現実洞察に基づき折々に提言をしていた。生涯音楽を愛し、ピアノを弾き、三浦環や原智恵子、加藤登紀子らと交流し一千曲に及ぶ作曲と詞を書いた。

 今回復刻される仲小路の著作「欧米列強による太平洋侵略史 全六巻 国書刊行会」は西尾先生が解説を書かれる。そのパンフレットから先生の推薦の辞を一部引用する。

 『彼は決して偏狭な日本主義者ではなく、地球人類史の未来を見据えた総合人間学体系を目指し、戦後は、山中湖畔に隠棲しながら、終戦から佐藤内閣の頃まで、保守政権の政治外交に影響を与えた隠然たる存在であった。

 しかし表に立つことをせず、孤独を好み、その寓居に人が訪ねてくることを嫌う神秘的な哲学者で、限られた若者とのみ交流し、音楽を愛し、さながらスイスの山紫水明の地に仮寓したニーチェのようでさえあった。』

 仲小路は東条内閣では参与の地位にいた。生涯独身を通し膨大な著作と原稿を残した。今回復刻される「太平洋侵略史」は、17世紀からの太平洋侵略史の中の一部、幕末史である。幕末史とはいえ、安政の大獄の手前で終わり、維新から文明開化は出てこない。

 仲小路は歴史を語るとき単眼に陥ることなく、複数の断面図を用いたため視点が壮大であった。複眼を用いた。自分の言葉では話さず、当時のテキストを引用しそれに対する解釈や説明をしない。同時代の一次資料を原文で、しかも地理的に複数開示することで、歴史を立体的に展開し、テキストそのものに語らせることで、全体の判断は読者に任せるという姿勢を通した。現代の人間が現代人の主観(実はGHQ史観)で語ってしまう(実証主義の正体)愚を冒さない。これは歴史の当事者が、つまり歴史そのものが叫んでいるということである。

 講義の冒頭、仲小路が大東亜戦争敗戦の際に書いた文章、原文は口語体の難解なものを西尾先生が現代語文に直した文章が読み上げられたのでここに再録する。

「我らかく信ず」 仲小路 彰   昭和20年8月18日(執筆は15日か?) 

 大東亜戦争はいかにしても回避不可能な歴史の必然であり、諸民族の背後にあって相互に戦わせる何らかの計画があったこと、そしてそれはアメリカを中心とする金融と軍需主義のメカニズムで、日本はその世界侵略に対するアジアの防衛と自存自衛のためにやむなく干戈を交えたまでで、我が国に戦争責任もなければ侵略の意図もなかった。

ついて大東亜戦争の第一次的目的、大東亜宣言で述べられた目的は、戦局の勝敗とは関わりなくすでに達成され、日本の成功はいかにしても否定しがたい。なぜなら、真の勝敗は武力戦の範囲を超えていて、今次戦争の目的は大東亜の復興防衛、世界の全植民地の開放にあった以上、これはついに達成され、しかも敵方の大西洋憲章からポツダム会談にいたる目的も、つまるところ大東亜戦争の理念に帰するのであるから、勝敗とは関係なく日本の創造的なる行動は成功したといっていい。

欧州戦線も悲惨な運命を経過し、我が国には原子爆弾が投下され、(この時点で原爆投下を確言していることに注目)全地球は地獄さながらの修羅場と化した。人類と国家をこれ以上再滅させるのはそもそも大東亜戦争の目的に沿わない。何としても本土戦場化を回避しなければいけない。さもなければ敵の悪魔的方法で大和民族の純粋性は壊滅させられる。国体を護持し、皇室に累をおよぼすことは絶対に避けなければならない。そのために和平工作が必要となるが、利益や対面に囚われず思い切って不利な条件をも甘受すべきである。

日本軍の満州を含む大陸からの全面撤兵、太平洋諸島の領土放棄、兵力の常駐はこれからの世界ではもはや有利にならない。今日の軍需産業は有力なる武器をもはや生み出せないので、全面的改廃はむしろ進める。大艦隊や歩兵主力の陸、海軍はすでに旧弊となり、次の大戦には不適切でありむしろ不利である。大軍縮はおろか軍備撤廃さえ恐れるに及ばない。ここからかえって新しい創造が生まれて来るのである。

そもそも今度の戦争では作戦の指導者に欠陥があった。一見不利な和平条件と見えても、現在の日本の誤れる旧秩序、誤れる旧組織を全面交代させるのに和平の条件がどんなに過酷なものでも、それはむしろ最良の道になると考えるべきである。

中略

大東亜戦争の終結は世界史的に見る場合、絶対に敗戦にあらざることを徹底化し、むしろ真に勝敗は、今後の国民の積極的建設の有無によってのみ決せられる。(引用終わり)

 日本は幕末と、大東亜戦争と、そして現在と、三度続けてアメリカに敗れた。

 今回の講義は浩瀚な仲小路の著作から、西尾先生が重要と思われる部分を抜き出して朗読し解説を加える形で進められた。英露が日本を併合しようとした秘密文章では、英の冒険家トーマス・クックを使ってカムチャッカに上陸、露は船を出して英を助けるという作戦が練られていた。日本は非武装であるから占領は簡単である。この時露はシベリアにコサック兵1万4千人と多数の水兵を実際に移動していた。

 英ヒュートン号長崎侵入事件では、長崎奉行松平図書頭康平が責任をとって切腹したが、その後松平の霊は長崎諏訪神社に康平霊社として祀られたという。こうした現在の歴史書には語られていないことも書かれている。私も手元にある大佛次郎著「天皇の世紀」の第一巻を読んでみたが、康平の切腹の記述はあったもののその後については何も書いてなかった。

 このあと、ハリス、堀田正睦、水戸斉昭といった当時の表看板とでもいうべき人物が、幕末の日米交渉においてどのような発言をしていったかということが披露されたが、最終的に日本はアメリカに敗れる。我が国の第一の敗戦であった。我が国は一ヶ月近く返答を保留し、ハリスは堀田のことを信に置けない人と嘆かせた。彼の立場から見れば日本は不誠実であったが、日本人は正直で全部受け身で戦った。現在もそうであるように、これは我が国の宿命であろうか。条約の条文も米の素案が元となり、我が国は何一つ提出することができなかった。そこには宗教不可侵と治外法権も含まれていたが、特に後者の治外法権は我が国が日露戦争で勝利するまで解消することができなかった。

 この三者の中で異彩を放つのが水戸斉昭であった。徹底した攘夷論者である彼は、進退窮まった幕府に頼られて意見を求められた際の、いよいよ水戸藩に役割が回ったと得意満面、しかも嫌みたっぷりな文章が残されている。現実を見据えて開国になびく堀田に対して、斉昭は大いに反対し、100万両を出してくれれば、蒸気船を建造し、大砲を作り、自分が直接アメリカに乗り込んで交渉すると宣言する。西尾先生が孤軍奮闘する水戸老公を、現在のご自身の存在になぞらえたときには場内が爆笑に包まれた。

 ハリスは開国を促すにおいて、数々の甘言を弄した。日本がうるし工芸品を輸出すれば、暇に暮らす人が仕事に就くことができ、それによって幕府の収入も増える。中国と米の通商は74年にわたるが米人の居留はわずかに200人、何も怖いことはない。この件を聴いていて、現代もまったく変わっていないことに思いが至った。グローバリズムというのは、東西冷戦終結がもたらした結果だと思われているが、蒸気船の発明というテクノロジーがネットワークを短縮させることで地球を狭くし、すでに150年も前にグローバリズムを現出せしめていたのであった。現代がそうであるように、大国の横暴は弱小国の犠牲と悲哀の上に成り立ち、富はいつでも偏在した。世界史上ただ一人、我が国だけが欧米列強の野望の前に敢然と立ち塞がり独立の気概を示した。水戸斉昭の無念は、やがては国学の勃興となり我が国が戦争を戦う上での偉大な精神的バックボーンとなっていく。

 このあたりのことは坦々塾における西尾先生の一貫したテーマとして、毎回の講義の通奏低音として流れている。今回もまた例外ではなかったと思う。次回の「焚書図書開封」はこの国学がテーマになっているということで、出版される日が待ち遠しい。

 昭和42年は明治100年だった。当時小学2年生であった私にもこの時の記憶がかすかに残っている。同世代の知人何人かに尋ねると、懐かしそうに明治100年という言葉に記憶があると話してくれた。NHKが明治100年の特集番組を放映し、もちろん内容はすっかり忘れてしまったが、家族でその番組を見たことと、タイトルバックに映った明治100年という文字のことも記憶に残っている。まだ多くの明治人が存命で、子供心にも「偉大なる明治」というイメージは何一つ具体的な知識はなくとも備わっていた。多分この頃の日本人の共通認識ではなかったかと思う。あと15年で昭和100年を迎える。その時日本人はこの元号の時代を「偉大なる昭和」と呼ぶであろうか。

 今回の仲小路の復刻本を、多くの坦々塾塾生が注文した。歴史に埋もれる宿命にあった仲小路が、このような形で戦後65年を経て再び日の目を見ることができたことは大変喜ばしいことであると思う。

文:浅野正美

坦々塾報告(第十八回)報告(一)

 6月5日(土)に第18回坦々塾が開かれました。報告が遅れましたことをお詫びします。

 この日は次のようなプログラムでした。

 浅野正美氏 諏訪大社の古代信仰
 西尾幹二  仲小路彰の世界
 若狭和明氏(外部講師) 日本人が歴史から学ぶべきこと

 坦々塾のメンバーのお一人である浅野氏のご講話の内容は、浅野氏ご自身が要約文にまとめましたので、以下に報告していただきます。

 長野県諏訪地方は本州のほぼ中央、太平洋からも日本海からも一番遠い山間の狭小な盆地である。諏訪大社には上社と下社があり、さらに上社は本宮・前宮、下社は春宮・秋宮が鎮座する二社四座という独自な構成になっている。上下とあるが二社四座に社格における序列、上下関係はない。現在諏訪神社は全国に5,000社以上あるといわれているが、四社すべてがその5総本山ということができる。現在一般的には、上社が男神、下社がその妃神、女神と伝えられているが、これは後年の創作と思われる。下社では毎年2月1日と8月の1日に、御神霊の遷座祭を執り行う。2月から7月までは里宮である春宮で五穀の豊穣を見守り、8月から1月までは山宮である秋宮にお帰りになる。
春宮が立地する場所は、下社の信仰圏である諏訪湖北部の沖積台地、いわゆる扇状地の最上部にあたり、その平野を作り出している砥川(とがわ)のほとり、ちょうど山と平地の境目に位置する。さらにこの川は霧ヶ峰高原の西端に源流を発し、そこには下社の奥宮が祭られていることから、下社は水と農業を主体とした祭祀と考えて間違いないと思う。

 上社には前宮と本宮があるが、この二社の性格は下社とは違って、半年ごとの遷座祭は行われない。大まかにいってしまうと前宮が土着諏訪信仰の聖地、本宮が大和朝廷によって秩序付けられた諏訪信仰と考えられている。今日お話しする内容は、この上社前宮のことが中心となる。
 
 古代信仰を研究する人の間で「諏訪がわかれば日本がわかる」ということがいわれている。これは古代諏訪がある種のアジール(守護聖地)として、中央の統制に組み込まれない独自の祭祀を維持していたのではないかと考えられているためで、それが解明されることで古代日本の正史には残らなかったある一つの姿を解明できると考えられているからである。閉じられた空間の中で独自に進化することを一般的にガラパゴス現象ということがあるが、古代から中世の諏訪がまさにそうした状態にあったのではないかと考えられている。一例を挙げると、諏訪には長い間仏教が入った形跡がなく、確認されている最古の仏教寺院は西暦1293年と極めて新しい。文書、考古学的発掘によっても、これをさかのぼる年代に仏教が普及していたことを示すものはまだ見つかっていない。7世紀以降、我が国は朝廷が中心となって熱狂的ともいえる情熱をもって仏教を受け容れて来たが、そうした時代にも諏訪は頑なに仏教を拒み、古代信仰と共に生きていたと考えられている。

 もう一つ不思議なことは、712年の古事記編纂から程ない721年、元正天皇の時代に諏訪は信濃から独立して一国の地位を与えられている。強大な信仰圏と、それがもたらす潤沢な経済的基盤があったために一国として充分成り立つと中央が認めたのではないかと考察する学者もいるが、10年後の731年、聖武天皇の時代に信濃に戻されている。

 諏訪を巡る動きを時系列に追ってみると、西暦685年、天武天皇は諏訪の近くに行宮を作らせている。天武天皇は翌年崩御されたので、実際に天皇が行幸されることはなかったと思うが、勅使の派遣はあったのではないか。691年、持統天皇は都で諏訪の神を10数度祀らせている。702年、文武天皇のもと吉蘇路(後の中山道木曽路・現国道19号線)が着工され、713年に開通。この開通によって都と諏訪の旅程が短くなった。そしてつかの間の諏訪の独立と再併合となる。朝廷にも強く諏訪を意識せざるを得ない何らかの要因があったとみてよい。8世紀半ばの国家プロジェクトというと国分寺の建立があげられる。741年3月、聖武天皇によって号令されたが、そのことと信濃への再併合は何か関係があるのではないか、という指摘もなされている。例えば、一国である以上その国には国分寺を建立する必要があったが、諏訪はそれを拒んで信濃に再編入される道を選んだか、諏訪という小国では国分寺の建立費用をまかなえなかったのではないか、ということが考えられる。

 いずれにせよ諏訪では650年以上にわたる仏教の空白期間があったといってよい。13世紀以降は諏訪も仏教を盛んに取り入れ、本地垂迹、神仏習合も抵抗なく受け容れていった。

 諏訪の名が中央の歴史に登場するのは古事記における「出雲の国譲り」の場面である。オオクニヌシの息子であるタケミナカタは、アマテラスの使いであるタケミカズチ(鹿島神宮の御祭神)との戦に破れて諏訪まで逃げのびる。ここで国土の譲渡と今後諏訪から一切出ないことを条件に命を助けられる。

 1356年、室町初期に「諏訪大明神画詞」(以降画詞)が編纂された。諏訪の風土記のようなもので、小坂円忠という足利尊氏に右筆として仕えた武士が、古老からの聞き取りや言い伝え、古典に登場する諏訪信仰などを収集して、12巻の絵巻物としてまとめられた。原本は紛失しており、文章だけを写した写本が13種類残っている。各巻の外題には後光厳天皇から御宸筆をいただき、尊氏も奥書に署名をしたといわれる。原稿は円忠本人が書き、絵師は本願寺にも作品の残る大和絵の巨匠5人が描き、書も当代一流の能筆家が当たった。

 この画詞ではタケミナカタを迎え入れた諏訪の視点から、この時の様子を描写している。出雲族を迎え入れた諏訪には、洩矢の神という土着の豪族がいてミシャグチ様を信仰する強固な信仰圏を形成していた。洩矢の神とは神様ではなく、神様を祀る神官である。このミシャグチという言葉、いまではその意味も神を表す固有名詞なのか、信仰の形態を表す抽象概念なのかまったくわからなくなってしまった。ミシャグチを祀る神社は諏訪だけでなく、丹念に調査した人の資料によると、長野675、静岡233、愛知229、山梨160、三重140、岐阜16、に分布するという。ある郷土史家は、明治の神道統合の際にいわれのはっきりしない神様の多くが、淫祠、邪神として排除され、整理統合されていく中で、ミシャグチ様もその一つとして扱われたのではないかと推理している。多くの祠は別の神様をお祀りし直したり、取り壊されたり、あるいは統合される中で、いわれはわからないながら、何となく昔から共同体の中で大切にされてきた、というただそのことだけで、現在まで少なからぬミシャグチ様をお祀りした祠が残ったのではないかというのである。

 現在のミシャグチ様に対する共通理解は、地母神ではないかといわれている。動物、植物、さらには人間をも無限に生み出してくれる地の母の神。それがミシャグチではないか。縄文時代の土偶には、妊婦を連想させる姿のものが諏訪からも多く発掘されているが、こうした受胎崇拝のような感情が基層にあると考えられる。

 画詞によると出雲における国譲りの抗争が、諏訪の地においても立場を入れ替えて繰り返されている。洩矢の神にとって出雲族は侵略者になるため、進入を食い止めるために武力衝突があったが、ここでは諏訪が敗れる。「画詞」の描写では、洩矢の神を賊臣(ぞくしん)と書いているが、これはこの本の作者小坂円忠が将軍尊氏に直接仕えるほどの地位にあったため、大和朝廷の縁起書でもある「古事記」に、あるいは体制に敬意を表する必要から、敢えてこうした表現を用いたのではないかと私は考えている。諏訪はかつて鎌倉幕府に忠誠を誓っており、執権北条が足利、新田勢によって滅ぼされたときには運命を共にしている。このように鎌倉と深い関係にありながら諏訪出身の我が身を取り立ててくれた尊氏に対して、円忠は深い恩義を感じ、またその微妙な立場故のバランス感覚も必要とされていたのではないかと思う。

 戦いが終わった後、戦後の和平交渉が話し合われ、そこで今後諏訪の地をどのように統治していくかという話し合いが行われ、両者による妥協が成立する。タケミナカタは、自らが天孫族に助けられたように、諏訪の洩矢の神を滅ぼすことなく共存の道を選んだ。

 神権政治の時代にあっては、祭祀権を持つ者が同時に地勢権も握っていたが、タケミナカタはこれを譲り受けるかわりに、洩矢の神は祀られ崇められる存在である神(タケミナカタ)の末裔に神霊を付与する、いわゆるシャーマンとしての役割を手に入れる。このシャーマンのことを諏訪では神長官と呼ぶ。神長官と書くが、官は発音せず神長と発音する。

 そして洩矢の神の子孫である守矢家が代々その役割を受け継いできた。タケミナカタの末裔は代々諏訪神社の大祝(おおほおり)を継いで行くことになる。大祝というのは、一般的には神職(神主)の最高位を示すが、諏訪では神職ではなく現人神を意味し、極限的な王朝が確立していたといってよい。諏訪以外で大祝の制度があった神社には伊予の三島神社があり、ここでも江戸時代まで大祝は神として崇められていた。

 神職はどこまでも人間であるのに対して、大祝はある手続きを経ることによって神、あるいは神の依代になるということである。かつての諏訪にはもう一つの天皇制度(諏訪朝廷)が続いていたということもできる。天皇は皇位継承において大嘗祭を行なうことで践楚が完成するが、諏訪の大祝は神長官から神霊を付与されることによって始めて神格を得ることができ、祀られる存在、生き神となる。神降ろしの秘術は一子相伝による口伝、親から子への口伝えで伝えられたため、文字としては残されなかった。明治維新の廃仏毀釈と神道の統制によって、諏訪の神長官制度は廃絶しこうした神降ろしの秘術も維新と共に消滅した。前回の勉強会で西尾先生がお話しになったように、神話に基づいた絶対皇国史観によって新たに国を束ねていこうという明治政府にとって、わが国に正統ではない現人神が存在するということは絶対に許すことができなかったであろう。守矢家は今も存続し、かつて神長官屋敷のあった場所には今もミシャグチ様の総社が鎮座しています。

 宮中の大嘗祭に相当するミシャグチ降ろしの秘技は、大祝となる人物の22日間に渡る潔斎の後、前宮にある柊(ヒイラギ)に神霊が降臨し、その神霊が柊の根元にある巨石に滑り降りたところで、大祝となるべき人物がその石の上に立ち、神長官の祝詞によって神霊を乗り移されて正式に大祝が誕生するといった儀式を行っていたといわれている。

 ここで興味深いのは、タケミナカタは諏訪の神との戦いには勝ちますが、洩矢の神と妥協をすることによって、タケミナカタの子孫が正当なる大祝に即位するための神霊降ろしにおいて、古代諏訪信仰の神霊であるミシャグチ様を降ろされていた可能性があるということである。反対側の視点から見ると、洩矢の神は戦いには敗れたが、諏訪の信仰の正統性を維持することには成功したということがいえるのである。これは、戦には敗れても交渉には勝つという大変高度な外交交渉を展開したといえる。国土を失ったように見せかけながら、古くから崇めてきた諏訪の神であるミシャグチ様にはついては、ほとんど失うものがなかった。タケミナカタはオオクニヌシという我が国の名門中の名門の家系を継承し、諏訪の地においては大祝という祭祀王として代々君臨しますが、信仰の基層においては諏訪信仰のミシャグチ様をまとっている。このトリックのような構造を編み出して、諏訪の古代信仰はその後も継承されていくことになった。

 さて、古代諏訪信仰には重要な祭祀が二つあった。一つは御室神事(みむろしんじ)と呼ばれるもので、もう一つは大立座神事(おたてまししんじ)と呼ばれるものである。二つの祭祀は繋がった一つのお祭りと考えることもできる。御室神事は、旧暦12月22日、上社前宮境内に穴(この穴が御室)を掘り、そこに8歳の子供六人と大祝、神長官が籠もる。6人の意味は、3人がメインで残りの3人はサブであったという。

 この御室の中でどのような秘技が行われていたのか、一部は文章が残っているが、ほとんど何も解っていない。画詞には「神代童体故ある事なり」「其儀式恐れあるによりて是を委しくせず、冬は穴にすみける神代の昔は誠にかくこそありけめ」とあり、こうした言葉から、この子どもたちは最後には人柱となって神に献げられたのではないかと空想する人もいる。

 この御室にこもった6人の子供達は、神の依代として、大祝の分身として神長官から神霊降ろしを受けていた。何日にもわたる秘技を受けた後に神霊を降ろされた子どもたちは、ミシャグチ様の分身として地上に姿を現す。

 それが旧暦3月酉の日であった。上社前宮境内にある十間廊(じっけんろう)という吹きさらしの建物において大御座神事(おたてまししんじ)が執り行われた。御室に籠もった子供はこの時すでに神霊降ろしを受けて、大祝と同じ神霊を身にまとっている。現人神の分身といってよい。

 大御座神事は諏訪神社の数ある例祭でも(年間70を越えるお祭りがあった)最も大切な神事とされており、膨大な費用をかけて行われた。地元で調達できるものとしては、鹿の生肉、鹿肉のミンチと脳みその和え物、フナ、鹿の頭75頭、ウサギの串刺し。アワビなど海産物もたくさんあったが、塩付けにして何日もかけ運んだのであろう。

 画詞にはこのときの様子を「禽獣の高盛 魚類の調味美をつくす」と表現しているが、はっきりと狩猟文化の痕跡が伺える。

 仏教の影響で殺生が禁じられていた時代にも、諏訪神社が発行する鹿喰免(かじきめん)のお札をもっていれば肉食が許されていた。全国を回ってこのお札を売っており、このお札は諏訪神社の経済的基盤にもなっていたと思われる。
 
 生神となった8歳の子どもたちは、神使(おこう)と呼ばれました。神使は馬に乗ってそれぞれの分担する地区を回り、ミシャグチ様の神霊を大地に降り注ぎ、大地に活力を与え、五穀の豊穣を祈って回った。その時ならした鈴が「さなぎの鈴」で、この行事のことを「湛えの神事」とよんでいた。湛えにはさんずいの漢字が当てられているので、農地に豊富な水をもたらすための儀式であったのか、神の降臨を称えたのか、、あるいはその両方だったと思われる。

 神使の分担は、内県、小県(おあがた)、外県の三地区に分かれており、ここがかつての諏訪神社の勢力圏と一致するのではないかと思う。神使は、御室に籠もってから一年間、このたたえ神事をはじめとしていくつかの神事を務めなくてはならなかった。次の年の御室神事に新しい子供が任命されるとお役ご免となるが、この後この子供達は帰って来なかったともいわれている。これが人柱説の根拠となっている。

 大祝や神使のように、諏訪では人間に神霊を憑依(依り付かせる)させることで、信仰を成り立たせて来た。「我に別躰(てい)なし 祝を以て御躰(てい)となすべし。我を拝むと欲せば須く祝を見るべし。」これは諏訪明神が大祝の口を通して発したといわれている神勅だが、諏訪信仰の特質はまさにここにあるのではないかと思う。

 これは余談ながら、織田信長は既存宗教を弾圧したが、戦国時代の1582年武田勝頼を追って諏訪まで攻め込み、上社本宮の社殿も焼き討ちにしている。実際に火をつけたのは息子信忠だが、このときの様子を信長公記はこう記している。

 「3月3日中将信忠卿 上の諏訪に至って御馬を立てられ所々御放火 そもそも当社諏訪大明神は日本無双の霊験、殊勝七不思議の神秘の明神なり。神殿をはじめ奉り諸伽藍ことごとく一時の煙となされ 御威光是非なき題目なり。」

 信長が本能寺で亡くなるのは上社焼き討ちの三ヶ月後の6月2日であった。この時、明智光秀も諏訪に同行していた。

 諏訪信仰はタケミナカタの諏訪入りと戦国の混乱という二度の危機に見舞われたが、幸運なことにどちらにおいても信仰の基盤を失うことはなかった。そして、明治維新という我が国が近代国家として西欧と対峙せざるを得なくなったときに、この我が国でも特異な神長官と大祝によるミシャグチ信仰という形態は滅んだ。それは日本という国が、国際社会の荒波の中に否応なく叩き込まれ、小国といえどもこれに対して一歩も引かずに挑んで行くためにはやむを得ない面もあったのではないかと思われる。大東亜100年の戦いの中で、諏訪神社は、信濃の國一之官、官弊大社、日本第一軍神として崇められ、全国から大きな崇敬を受けた。これは古事記においてタケミナカタが最後まで天孫族に抵抗したレジスタンスとしての精神を高く評価されたためであると思う。

 現在では地元でもこうした故事を知る人も少なくなったが、御柱の熱狂を見てもわかるように、神社と氏子は変わらずに強い絆で結ばれている。諏訪の地は6市町村に人口20万人という小さな共同体であり、自らを自称するときに諏訪人というように、諏訪大社の氏子であることに大きな誇りを持っている。御柱における団結を見ると、諏訪という地域が強固な連帯意識で結ばれた祭祀共同体とでも言うべき文化圏を形成しているのではないかと思われるが、実は大変に地域エゴの強固な地域でもあり、先の平成の大合併においても諏訪の6市町村はどれ一つ合併することがなかった。「諏訪を一つに」というスローガンは数十年前から唱えられながら、現実可能性はまったくない。根底にはそれぞれの自治体の経済問題がある。八ヶ岳の裾野に広い農地をもつ町や村は住民も自治体も相対的に恵まれており、貧しい市との合併に難色を示している。これを湖周文化と山浦文化の軋轢と見る人もいる。ユーロ問題の地方版のようだが、ギリシャの悲劇やドイツの苦悩を見ると、理念や夢だけでは現実は運ばないということを強く感じている。

文:浅野正美

『GHQ焚書図書開封 4』の刊行(二)

『GHQ焚書図書開封 4』

あ と が き

 昭和10年代の言論の世界は、それなりに盛んな時代で、出版界も決して沈黙していなかった。まるで自由のない言論封圧の時代のようにいわれるのは間違いで、戦前にも正当と思われなかった思想が抑圧されていただけである。戦前には戦前に特有の活発な言論活動もあったし、時流に投じたベストセラーもあった。

 「戦前に正当と思われなかった思想」が戦後息を吹き返したのは当然であるが、それだけならいいのに、今度は逆に「戦前に正当と思われていた思想」がずっと抑圧されて、今日に至っているのである。「国体」論はその主要部分である。

 敗戦で日本のすべては変わったという錯覚を日本国民に与えてきたのはGHQである。日本人にとっては自分たちがそれによって生きてきた時代の思想が他人の手でもぎ取られたり、捨てられたりする理由はない。

 私たちは予想外に戦前の「国体」論と同じ思想の波動の中にいる。「日本人論」というような形で与えられてきたものがそれである。また皇室に対する今の国民のさまざまな感情の動きの原型もほとんどすべて戦前の「国体」論の中にある。

 本書では取り上げていない本だが、大川周明の『日本二千六百年史』は鎌倉時代の成立を「革新」として捉えたがゆえに不敬の書であるとして、蓑田胸喜(みのだむねき)らの批判を浴び、東京刑事地方裁判所検事局思想部に摘発されたりもした。鎌倉時代は武家が活躍した時代で、したがって皇室への反逆の時代であるがゆえにこれを低く見るという歴史観が一世を風靡していたからである。信じられない話である。

 戦争の時代には戦争の時代に特有の歴史の見方があり、論争があった。国民は神勅によって確定された天壌無窮の皇統を仰ぎ奉り、ひたすら忠義の心さえ唱えていればそれでよく、国民に主体性や個人に固有の役割などは求めなくてよいという静的な歴史観を基本に置いた立場がまずあった。文部省編の「國體の本義」はそれにほぼ近い。これに対し当時ただちに反論がまき起こった。こんな考え方では総力戦体制で戦おうとしている軍人たちの精神涵養さえ覚束(おぼつか)ないではないか。わが国体はなんらの理由なしに尊厳なのではなく、国民の個々人の主体性の関与があって初めて成立するものなのである。臣民たる分際を静かに守っていればそれでよいという自然的日本人観から、武人の自立を尊重する意志的日本人観への転換が支那事変たけなわの昭和10年代の思想界を二分する争点だった。山田孝雄(やまだよしお)も、平泉澄(ひらいずみきよし)も、三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)も、みなこのポイントを意識して著作活動を展開していたのである。

 平成の言論界においても皇室論や天皇論は最近珍しくなくなってきたが、やはり同じように、臣民たる分際を守って皇室をひたすら仰ぎ見ていればそれでよいという静的な態度と、そんなことでは現代日本の危機に対応できないので一歩踏み込むべきだという動的な態度とのこの二つの様態があることは、おそらくすでに知られているであろう。

 以上は、歴史は敗戦で切れていないことを示す一例である。戦前の思想は、言葉遣いのなじめなさは別として、予想外に私たちの今の実感に身近な存在なのである。

 であるとしたらGHQが勝手に私たちの視野から切り離した思想の世界をここで取り戻し、再現する手続きは、現在の自分の位置を知る上で重要である。

 戦前に生まれ、戦後に通用してきた保守思想の多くは、とかくに戦後的生き方を批判し、否定してきた。しかし案外、戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていない例が多い。戦前の日本に立ち還っていない。

 戦争に立ち至ったときの日本の運命、国家の選択の正当さ、自己責任をもって世界を見ていたあの時代の「一等国民」の認識をもう一度蘇らせなければ、米中のはざまで立ち竦(すく)む現在のわが国の窮境を乗り切ることはできないだろう。

 しかし、それは戦前の思想の全てを無差別に正しいとすることと同じではない。そこが難しい。本書で私は「国体」論のある種のものに手厳しい批判を浴びせている。

 戦前が正しくて戦後が間違っているというようなことでは決してない。その逆も同様である。そういう対立や区分けがそもそもおかしい。戦前も戦後もひとつながりに、切れずに連続しているのである。戦前のものでも間違っているものは間違っている。戦後的なものでも良いものは良い。当然である。日本の歴史は連続して今日に至っているという認識に何度でも立ち還るべきと私は考えている。

 本書第八章を分担してくださった溝口郁夫氏は昭和20年生まれ、北海道大学工学部土木工学科卒、八幡製鐡(現新日本製鐡)で定年を迎えられたエンジニアである。氏が現代史に関心を持たれ、研究調査を始められた動機やいきさつは『GHQ焚書図書開封 3』のあとがきに記したのでここでは繰り返さない。

 氏は信念の堅い人であり、文献の実証の仕事も大変に手堅い。今後この方面でのさらなる活躍を祈りたい。本書末尾の付録「焚書された国体論一覧」の作成は氏に負うている。

 今までと同様、本書も(株)日本文化チャンネル桜のテレビ放送を基本にしている。私の番組は平成22年6月までの段階で56回に及んだ。今は月二回が平均である。同社社長の水島総氏、古書蒐集のご努力にたゆまない上田典彦氏、録画スタッフの宮木恵未氏、北村隆氏、三石宗芳氏、阿久津有亮氏の熱意あるご支援にあらためて深謝申しあげる。

 本書の制作に当たっては前回までと同様に徳間書店一般書籍局長の力石幸一氏、同編集部の橋上祐一氏にお世話になった。また、同編集者・松崎之貞氏にも今まで同様に全体の調整と細目の補足修正にご関与たまわった。諸氏にあらためて感謝申し述べたい。

平成22年6月13日

著者