坦々塾報告(第十八回)報告(二)

 6月5日(土)第18回坦々塾において、すでにご案内の通り、私が「仲小路彰の世界」という題の下で、約一時間余の話をしました。「仲小路彰」は聞き慣れぬ名前と思う人が多いでしょう。

 国書刊行会から7月末に彼の『太平洋侵略史』全6巻 が復刻再刊されました。この本は仲小路が昭和16年5月から昭和18年9月までの間に集中的に書き上げた作品で、戦後GHQから没収発禁とされました。本年5月から7月初旬まで私はこの本の解説を書くため調査研究を進めていました。坦々塾での講演は中間報告といってよく、この後に仲小路について新たに分ったこともあり、以下の要約文は5月末の段階の私の認識を反映しています。

 浅野正美氏によってまとめられた要約文は以下の通りです。

太平洋侵略史〈1〉 太平洋侵略史〈1〉
(2010/08)
仲小路 彰

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西尾幹二先生 「仲小路 彰」

 仲小路彰(なかしょうじ あきら)とは一体何者か。伝記的事実がほとんどわかっていない謎の哲学者である。戦後も政府の要路の近くにいて、五校時代の同級生佐藤栄作とは生涯親交を結び、鋭い現実洞察に基づき折々に提言をしていた。生涯音楽を愛し、ピアノを弾き、三浦環や原智恵子、加藤登紀子らと交流し一千曲に及ぶ作曲と詞を書いた。

 今回復刻される仲小路の著作「欧米列強による太平洋侵略史 全六巻 国書刊行会」は西尾先生が解説を書かれる。そのパンフレットから先生の推薦の辞を一部引用する。

 『彼は決して偏狭な日本主義者ではなく、地球人類史の未来を見据えた総合人間学体系を目指し、戦後は、山中湖畔に隠棲しながら、終戦から佐藤内閣の頃まで、保守政権の政治外交に影響を与えた隠然たる存在であった。

 しかし表に立つことをせず、孤独を好み、その寓居に人が訪ねてくることを嫌う神秘的な哲学者で、限られた若者とのみ交流し、音楽を愛し、さながらスイスの山紫水明の地に仮寓したニーチェのようでさえあった。』

 仲小路は東条内閣では参与の地位にいた。生涯独身を通し膨大な著作と原稿を残した。今回復刻される「太平洋侵略史」は、17世紀からの太平洋侵略史の中の一部、幕末史である。幕末史とはいえ、安政の大獄の手前で終わり、維新から文明開化は出てこない。

 仲小路は歴史を語るとき単眼に陥ることなく、複数の断面図を用いたため視点が壮大であった。複眼を用いた。自分の言葉では話さず、当時のテキストを引用しそれに対する解釈や説明をしない。同時代の一次資料を原文で、しかも地理的に複数開示することで、歴史を立体的に展開し、テキストそのものに語らせることで、全体の判断は読者に任せるという姿勢を通した。現代の人間が現代人の主観(実はGHQ史観)で語ってしまう(実証主義の正体)愚を冒さない。これは歴史の当事者が、つまり歴史そのものが叫んでいるということである。

 講義の冒頭、仲小路が大東亜戦争敗戦の際に書いた文章、原文は口語体の難解なものを西尾先生が現代語文に直した文章が読み上げられたのでここに再録する。

「我らかく信ず」 仲小路 彰   昭和20年8月18日(執筆は15日か?) 

 大東亜戦争はいかにしても回避不可能な歴史の必然であり、諸民族の背後にあって相互に戦わせる何らかの計画があったこと、そしてそれはアメリカを中心とする金融と軍需主義のメカニズムで、日本はその世界侵略に対するアジアの防衛と自存自衛のためにやむなく干戈を交えたまでで、我が国に戦争責任もなければ侵略の意図もなかった。

ついて大東亜戦争の第一次的目的、大東亜宣言で述べられた目的は、戦局の勝敗とは関わりなくすでに達成され、日本の成功はいかにしても否定しがたい。なぜなら、真の勝敗は武力戦の範囲を超えていて、今次戦争の目的は大東亜の復興防衛、世界の全植民地の開放にあった以上、これはついに達成され、しかも敵方の大西洋憲章からポツダム会談にいたる目的も、つまるところ大東亜戦争の理念に帰するのであるから、勝敗とは関係なく日本の創造的なる行動は成功したといっていい。

欧州戦線も悲惨な運命を経過し、我が国には原子爆弾が投下され、(この時点で原爆投下を確言していることに注目)全地球は地獄さながらの修羅場と化した。人類と国家をこれ以上再滅させるのはそもそも大東亜戦争の目的に沿わない。何としても本土戦場化を回避しなければいけない。さもなければ敵の悪魔的方法で大和民族の純粋性は壊滅させられる。国体を護持し、皇室に累をおよぼすことは絶対に避けなければならない。そのために和平工作が必要となるが、利益や対面に囚われず思い切って不利な条件をも甘受すべきである。

日本軍の満州を含む大陸からの全面撤兵、太平洋諸島の領土放棄、兵力の常駐はこれからの世界ではもはや有利にならない。今日の軍需産業は有力なる武器をもはや生み出せないので、全面的改廃はむしろ進める。大艦隊や歩兵主力の陸、海軍はすでに旧弊となり、次の大戦には不適切でありむしろ不利である。大軍縮はおろか軍備撤廃さえ恐れるに及ばない。ここからかえって新しい創造が生まれて来るのである。

そもそも今度の戦争では作戦の指導者に欠陥があった。一見不利な和平条件と見えても、現在の日本の誤れる旧秩序、誤れる旧組織を全面交代させるのに和平の条件がどんなに過酷なものでも、それはむしろ最良の道になると考えるべきである。

中略

大東亜戦争の終結は世界史的に見る場合、絶対に敗戦にあらざることを徹底化し、むしろ真に勝敗は、今後の国民の積極的建設の有無によってのみ決せられる。(引用終わり)

 日本は幕末と、大東亜戦争と、そして現在と、三度続けてアメリカに敗れた。

 今回の講義は浩瀚な仲小路の著作から、西尾先生が重要と思われる部分を抜き出して朗読し解説を加える形で進められた。英露が日本を併合しようとした秘密文章では、英の冒険家トーマス・クックを使ってカムチャッカに上陸、露は船を出して英を助けるという作戦が練られていた。日本は非武装であるから占領は簡単である。この時露はシベリアにコサック兵1万4千人と多数の水兵を実際に移動していた。

 英ヒュートン号長崎侵入事件では、長崎奉行松平図書頭康平が責任をとって切腹したが、その後松平の霊は長崎諏訪神社に康平霊社として祀られたという。こうした現在の歴史書には語られていないことも書かれている。私も手元にある大佛次郎著「天皇の世紀」の第一巻を読んでみたが、康平の切腹の記述はあったもののその後については何も書いてなかった。

 このあと、ハリス、堀田正睦、水戸斉昭といった当時の表看板とでもいうべき人物が、幕末の日米交渉においてどのような発言をしていったかということが披露されたが、最終的に日本はアメリカに敗れる。我が国の第一の敗戦であった。我が国は一ヶ月近く返答を保留し、ハリスは堀田のことを信に置けない人と嘆かせた。彼の立場から見れば日本は不誠実であったが、日本人は正直で全部受け身で戦った。現在もそうであるように、これは我が国の宿命であろうか。条約の条文も米の素案が元となり、我が国は何一つ提出することができなかった。そこには宗教不可侵と治外法権も含まれていたが、特に後者の治外法権は我が国が日露戦争で勝利するまで解消することができなかった。

 この三者の中で異彩を放つのが水戸斉昭であった。徹底した攘夷論者である彼は、進退窮まった幕府に頼られて意見を求められた際の、いよいよ水戸藩に役割が回ったと得意満面、しかも嫌みたっぷりな文章が残されている。現実を見据えて開国になびく堀田に対して、斉昭は大いに反対し、100万両を出してくれれば、蒸気船を建造し、大砲を作り、自分が直接アメリカに乗り込んで交渉すると宣言する。西尾先生が孤軍奮闘する水戸老公を、現在のご自身の存在になぞらえたときには場内が爆笑に包まれた。

 ハリスは開国を促すにおいて、数々の甘言を弄した。日本がうるし工芸品を輸出すれば、暇に暮らす人が仕事に就くことができ、それによって幕府の収入も増える。中国と米の通商は74年にわたるが米人の居留はわずかに200人、何も怖いことはない。この件を聴いていて、現代もまったく変わっていないことに思いが至った。グローバリズムというのは、東西冷戦終結がもたらした結果だと思われているが、蒸気船の発明というテクノロジーがネットワークを短縮させることで地球を狭くし、すでに150年も前にグローバリズムを現出せしめていたのであった。現代がそうであるように、大国の横暴は弱小国の犠牲と悲哀の上に成り立ち、富はいつでも偏在した。世界史上ただ一人、我が国だけが欧米列強の野望の前に敢然と立ち塞がり独立の気概を示した。水戸斉昭の無念は、やがては国学の勃興となり我が国が戦争を戦う上での偉大な精神的バックボーンとなっていく。

 このあたりのことは坦々塾における西尾先生の一貫したテーマとして、毎回の講義の通奏低音として流れている。今回もまた例外ではなかったと思う。次回の「焚書図書開封」はこの国学がテーマになっているということで、出版される日が待ち遠しい。

 昭和42年は明治100年だった。当時小学2年生であった私にもこの時の記憶がかすかに残っている。同世代の知人何人かに尋ねると、懐かしそうに明治100年という言葉に記憶があると話してくれた。NHKが明治100年の特集番組を放映し、もちろん内容はすっかり忘れてしまったが、家族でその番組を見たことと、タイトルバックに映った明治100年という文字のことも記憶に残っている。まだ多くの明治人が存命で、子供心にも「偉大なる明治」というイメージは何一つ具体的な知識はなくとも備わっていた。多分この頃の日本人の共通認識ではなかったかと思う。あと15年で昭和100年を迎える。その時日本人はこの元号の時代を「偉大なる昭和」と呼ぶであろうか。

 今回の仲小路の復刻本を、多くの坦々塾塾生が注文した。歴史に埋もれる宿命にあった仲小路が、このような形で戦後65年を経て再び日の目を見ることができたことは大変喜ばしいことであると思う。

文:浅野正美

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