坂本多加雄選集のこと(四)

 解説――恐るべき真実を言葉にする運命
 

坂本多加雄

 本書では、たとえば、日本でもっぱらドイツの良心を象徴するものとして称賛されるヴァイツゼッカー演説に関しても、ナチスの他民族への巨大な犯罪が、ドイツ人全体への復讐を招き寄せることを防止するために、懸命になって構築した論理の所産であることを指摘する。すなわち、ドイツの戦後処理の態度を、高潔な倫理観のあらわれというよりも、あくまで、そのしたたかな政治的意思の発顕として理解するのである。著者は、さらに、ドイツの日本に対する「悪意」にも言及しているのだが、そうした著者の姿勢に、「ドイツに見習え論」とは逆の、ドイツへの執拗な批判の意図を感じとる読者もあるかもしれない。

 しかし、著者の本意は、おそらくそこにはない。著者は、むしろ、日本が、ドイツを含めて西洋諸国に真に学ぶべきことを主張し、しかも、それは、「ドイツに見習え論」などが言うところとは、まったく別のことだと説くのである。その点は、著者が、本書で、西洋に「学ぶ」ことを、「崇拝」することから厳格に区別しながら、次のように述べていることに示されている。「われわれが学ぶべきは現実に対する西洋人の対応の仕方、リアリズム、自国民を守ろうとする生命力であって、その歴史観や戦争観などではない」と。言い換えれば、西洋の主張している個々の言説の内容を学ぶのではなく、そのような主張の背後にある精神の構えを学ぶべきだというのである。

 ところで、西洋人のそうした精神の構えの根幹にあるのは、いま引いた部分にある「生命力」に他ならない。ちなみに、「生きるため」とか「生きようとする意思」といった言葉は、著者の多くの文章に見られるものであるが、私たちは、ここで、著者が、ニーチェの専門的研究者であることを思い出すべきなのかもしれない。すなわち、著者の念頭にあるのは、個人や人間の集団が自らの生存を賭けて行動する姿勢には、外側からの安易な毀誉褒貶(きよほうへん)を超越するような、ある厳粛ななにものかがあるという認識であり、そして、このことをいささかも心に留めない言論は、どこか軽薄なものとなるという思いではないだろうか。

 著者の見るところ、ドイツの戦後処理の仕方にも、このような懸命に「生きよう」とする激しい意思が発顕しているのである。本書の意図が、世上の「ドイツに見習え論」を逆転して、単にドイツ批判を展開するところにあるのではないことも、以上のことを考慮すれば、自ずから了解されるであろう。

 さて、そうした見地から、改めて、日本の戦後処理の仕方を問題とするような議論を見てみると、そこには、当のそうした議論が全く自覚していないような、別の深刻な問題がうかがわれるように思われる。すなわちそうした議論は、自らの生き残りを賭けて行動しているドイツの姿の全貌に眼が届かず、ひとえに倫理的な模倣像のみを投影して、それに倣(なら)えと説いているのだが、実は、それは、今日の日本が、国家として「生きる」ということの切実さに対して、あまりの鈍感に陥ってしまっていることのあらわれではないのかということである。そして、それは、ひょっとすると、戦後の安楽な環境の中に置かれ続けてきたことで、日本自身の「生命力」が衰弱しつつあることを暗示しているのかもしれないのである。本書は、そのように訴えているように思われる。

 先にも述べたように、本書は、論争の書である。にもかかわらず、著者自身は、自分が、その文章の厳しい表現のはしばしから推測されるような「硬骨漢」ではないことを示唆する。確かに、「硬骨漢」といった言葉は、著者の言論人としての本領を充分に語るものではないかもしれない。それでは、著者の言論人としての活動を導いているものは何か。それは、おそらく、「なにものかに動かされたかのごとく、当時の世人の意に逆らう恐るべき真実を次々と言葉にするしかなかった『運命』」であろう。これは、著者自身がマキャヴェリと韓非を論じた文章の一節にみられる言葉である(『人生の価値について』新潮社)。本書は、そうした著者、西尾氏の「運命」から紡(つむ)ぎだされた貴重な一冊に他ならない。

(学習院大学教授)

年末のお知らせ

 あまり気のきかない話ですが、『江戸のダイナミズム』の事項索引の作成に年末までかゝり切りになり、私の手を離れたのは26日でした。担当の編集者はまだまだ作業がつづき、校了は年明けになるそうです。すべての作業が三冊分あるので、いつまでも身軽になれません。それでも、私はやっと年末に解放されました。

 そんな事情で今月は他にたいした仕事も出来ませんでしたが、店頭にはかろうじて三つほどお知らせするものが出ています。WiLL2月号の「無抵抗主義で国家も国民も自滅する」という評論が今月の新作です。

 『撃論』(西村幸祐・山野車輪責任編集オークラ出版)というコミックオピニオン誌が出はじめ、Vol.①で「日本はナチスと同罪か」と題し、私の論文の一部がマンガ化されています。

 関岡英之編『アメリカの日本改造計画』(イーストプレス)に私の今年の評論のひとつである「保守論壇を叱る」が「巻末特別収録」として再録されています。とても大事なテーマを語った一篇なので関岡氏の慧眼に感謝しています。

 日本文化チャンネル桜12月31日(日)夜8時~午前0時「日本の未来 アジアの未来――再び日本の核武装を語る――」に出演します。4時間討論のパネリストは黄文雄、田久保忠衛、西岡力、西部邁、西村真悟、平松茂雄、宮崎正弘の諸氏、それに私です。

 司会は水島総氏です。

 
 良いお年をお迎え下さい。

坂本多加雄選集のこと(三)

 私の書いた月報にあげた坂本さんの解説文とは、『異なる悲劇 日本とドイツ』の文春文庫版に寄せられた文章である。最近『日本はナチスと同罪か』(WAC出版)と改題再刊された一書である。坂本さんを偲んで、ここに同解説文を紹介する。

 解説――恐るべき真実を言葉にする運命
 

坂本多加雄

 ここ数年来、先の戦争における日本の「加害者責任」と「戦後補償」の問題が世上を賑わしている。最近のいわゆる「従軍」慰安婦をめぐる論議もその一環である。そして、そのことに関連して、日本の戦争への反省の仕方は、ドイツに比べて不十分である、それゆえ、日本もドイツに見習って正しい戦後処理を行うべきだといった論議が流布されてきた。

 本書は、こうした「ドイツに見習え論」とでも称しうる議論が、歴史への深い理解を欠いた安易な立論であることを指摘して、徹底的な批判を加えた論争の書である。ドイツを模範として引き合いに出す主張は、一部の大マスコミやドイツの事情に通じていると称する人々によって繰り広げられたため、直接、ドイツの実情に接する機会が少ない日本の多くの人々は、釈然としないものを感じながらも、それを受け入れざるをえないような状況に置かれてきた。そうしたなかで、ドイツの文学・哲学に精通し、さらにはドイツのみならず、ヨーロッパ大陸の各国事情に詳しい著者によって、このような内容を持つ書物が記されたことは、まことに画期的な意義を有していたと言うべきであろう。三年前に本書が出版されて以来、それまでのような単純な形の「ドイツに見習え論」は、少し下火になったという印象がある。

 もっとも、本書を読まれた方には既に明らかなように、本書の内容は、単に、ドイツに詳しい「情報通」によって記された、ドイツ戦後賠償の「裏事情」の暴露といったことに尽きるものではない。そこでは、日独両国の戦争の相違についての比較史的な検討、通常の戦争犯罪とナチスの犯罪との法理論上の区別、そもそも歴史探求と倫理的評価は如何に関わるべきかといった深遠な問題について、まことに広い視野から、様々に考察が展開されているのである。ちなみに、著者は、本書の前年に出された『全体主義の呪い』(新潮社)で、旧ソ連圏諸国におけるかつての共産党政府への責任追及の動きが、ナチスへの責任追及と共通する問題を孕んでいることを論じて、日本が十分感知しないままに過ごしつつある「第三次大戦」の世界情勢の新たな展開という見地から、今日の諸問題を見直すべきことを提唱したが、本書もまた、そうした広範な歴史的パースペクティヴを継承したところに成立しているのである。

 本書を読んだ後で、「ドイツに見習え論」を眺めると、それが、日本人の「国際感覚」の欠如をあげつらいながら、実際は、半世紀前の連合国側の戦争観に拘束されたまま、もっぱら日本の国家権力を批判しようという意図のみが先走り、ドイツの事情についても、そうした日本中心のまことに狭隘な視野に入る事柄だけを取り上げて、しかも、それを現在の日本人の感性から一方的に解釈しているに過ぎない点で、逆に、真の国際感覚の欠如を露呈してしまっていることが明白になるであろう。

つづく

坂本多加雄選集のこと(二)

 坂本多加雄選集のこと(一)の続きです。 

 選集のⅡ巻目の月報に私も寄稿していることは前回にも語った。それは次のような内容である。

偲ぶ会のこと

 永田町の星陵会館で平成14年12月21日、新しい歴史教科書をつくる会と民間憲法臨調が主催する「坂本多加雄先生を偲ぶ会」が行われた。高橋史朗氏の司会で始まり、まず田中英道氏が「常識を大切にする、壮士風ではない」つくる会の性格形成に、坂本氏がいかに貢献したかを語った。三浦朱門氏は、坂本氏が歴史を物語だと言ったのは、歴史を現在の枠で見るのではなく、それを形成した往時の人の意図や課題に即して見ようとしたからだと評価し、田中氏とは逆に「坂本さんは国士ともいうべき人」と語った。

 来賓の自民党中川昭一氏は「あのいかがわしい靖国懇談会」(というお言葉を使った)のさ中に、ただ一人まともといっていい戦いをした坂本先生への感動を述べた。つづいて私が話をした。録音テープを再現する。

 「よく言われることでありますが、死んで初めてその人の姿がくっきりと見えてくる、そういうことばがございますが、私は彼に先に死なれ、このたびあらためて次々と著作を読む機会を得ました。そしてご著作の文章のリズムに――やはり現代では52歳の死は夭折ですからね――いわば業半ばにして、仕事の絶頂期に逝った人のはげしい息遣い、切ないまでの、急いで生きた人の足取りが感じられました。

 坂本さんは予想よりもずっと大胆な思想家であったのだな、という思いを改めて致しました。普通、静かな思索家と思われていた彼が――つくる会の会合では付和雷同せず、さりとて独断専行もなさらず、同調的で、しかも意志的で、責任感もお強かった――、その彼が、じつは静かなたたずまいとは別に、非常に緻密な思索の奥に、思いもかけない飛躍的独断――これはご文章の世界について申し上げているわけですが――、論議上の思い詰め方、切り込み方、逆説的な言葉の転調、そういうものを、私は今回読み進みながら、何度も何度もくり返し感じました。あゝなるほど、早く逝った人らしい、そういう言葉遣いだったんだなァ、と改めて思った次第であります。

 大量の本を次から次へと読み、読書中毒ではないかという読み方で、知識を呑み込み、慌ただしく吐き出しているような著作もございます。かと思うと、学問と政治、哲学と歴史、認識と行為といった相反する概念の矛盾の中にあえて身を置いて、その矛盾を構造的に解明しようとしたご著作もありました。代表作『象徴天皇制度と日本の来歴』はさしずめその一つです。

 坂本さんは歴史は物語であり、来歴であるとおっしゃいました。坂本さんならではの大胆なこの規定は、歴史教科書の世界では有効で、ありがたい思想でしたが、よく考えてみますと、とてもきわどい危ない思想でもあるのです。なぜなら歴史が民族の物語であり、来歴であるなら、国境を越えた歴史の客観性、普遍性を否定してしまっているのですから。あくまで自分の生きている共同体の幻想だけが歴史であると断定しますと、人類の歴史というものはどこかへ行ってしまいます。その矛盾、その危機を、彼は最初から意識しておりまして、無知でそういう言葉を弄していたわけではないのです。

 彼はハイデガーを使ってこの矛盾、危機をどう乗り越えるかを説明しています。ハイデガーを使う人というのはどうも危ないところがある。いつでも死を思うところに立ち還る。人間が人間としての本来のあり方、本来的自己に立ち還る、そこに死のモチーフがあるのですが、坂本さんは日本の歴史が死を思うことが二度あったと言います。19世紀の初頭と昭和20年です。日本人はそれぞれこの時期に、自分たちの『来歴』を思い出しました。それがつまり『国体』という概念です。

 歴史は必ずしも物語ではないのかもしれませんが、坂本さんはあえて物語であると承知して言おうとする。歴史はフィクションだと言ったら大変なのです。そんなことは言えない。そこで、そのきわどい矛盾を乗り越えるために、行動が必要になった。政治行動が必要になった。学問と行動、認識と実践を統合しないと学問も認識も前へ進まない、そういうタイプの学者だったんだと今にして思います。

 書斎の人でありながら、そこだけでは完結しない。物静かな思索家でありながら、思考の論理に飛躍があり、思いのほか大胆だったと、先に申し上げたのはこのことであります。」

 私は政治参加(アンガージュマン)が坂本氏の哲学の必然から出ていて、凡百の政治学者とそこが違う点だと言ったつもりである。話の最後に私は彼の学者としての誠実さを伝える逸話を添えた。坂本氏が私のある本の文庫本の解説を書いてくれたことがある。彼は私の別の関連本を二冊、つまり一冊の本の解説を書くのに都合三冊読んで書いた。「こんな篤実な人はいない。坂本さんはそういう人だったんです」と私は結んだ。

 私につづいて四人の挨拶があり、献花が行われ、参列者全員によって彼が好んだ「海行かば」が斉唱され、散会した。

私の感想

 石原隆夫さんの誠の志のあるご文章を三篇拝読した。御礼とともに、若干の感想を述べたい。

 「つくる会」の新しい理事諸氏は会の10年の歩みをよく知らないし、内紛の経緯もはっきりは分っていないようだ。他方、旧い理事諸氏は分っているけれど、福地惇氏を除いてみんな事なかれの態度で、自分の保身に走るかあるいは無責任に欠席しつづけているらしい。この侭いけばこの会は草刈り場になり、会員組織とそうバカにならない額の預貯金が誰かに攫われてしまうのも時間の問題だろう。

 この間、故坂本多加雄さんの献身ぶりを思い出して掲示したばかりだが、初版本が出た平成13年、みんな頑張ったあのころが「つくる会」のピークだった。誠の志を持つ人が「つくる会」の役員であるべきなのに、どうも伝えられる限りでは今の役員諸氏はありふれた日本人社会の縮図、官僚社会の悪い処ばかりを集めたような無気力な集団に見える。

 石原さんの三つの報告文を読むと、あちこちに見られる今の日本の悲しい社会現象を見ているときと同質のものを感じ、心が沈む。まことに残念で、やるせない。

  この中で次の六行が眼目だと思った。

 この経緯から見えてくるのは、扶桑社から突きつけられた三条件は、理事達はそれほど深刻な問題と受け取っていないのではないかと言うことです。それとも見たくないものを突きつけられて見ない振りをしているのか、扶桑社がそんな事を出来るわけがないと高を括っているのか、教科書の内容や理念が変わっても教科書が出せれば良いと扶桑社に魂を売り渡す覚悟をしたのか、何とも判断がつきませんが、私たちの期待を見事に裏切った事は間違いありません。

 私は以上の中で一番真実に近いのは最後のケース、「教科書の内容や理念が変わっても教科書が出せれば良いと扶桑社に魂を売り渡す覚悟をした」ケースが今の理事会と過半の会員諸氏の判断なのではないかと考えている。べつに「覚悟」なんかしていないとは思うが、「教科書が出せれば良い」「内容は他の七社よりましならばいい」くらいに漠然と考えているのではないだろうか。

 その証拠に、理事会でも評議会でも会報でも、歴史観論争ひとつ起こっていない。安倍総理の変心ぶりで従軍慰安婦強制連行否定説も、南京事件まぼろし論もあぶなくなっている。米国が正しかったとする太平洋戦争史観への疑問ひとつ検定を通らない時代がひょっとすると足早に近づいているのかもしれないのに、そういうことを互いに議論しようという空気さえ今の「つくる会」の周辺には生じていない。

 熱情を失ったも抜けの殻のような意味のない団体になりかかっている。

 扶桑社が「教科書編集権は扶桑社にあり、それには執筆者選択権も含まれる」と言っているそうだが、それなら次に出す教科書は「つくる会」の教科書とはもう言えない。

 「つくる会」は理念を持って始まった運動団体であった。その理念の下で教科書をつくる。だから内容をきめる編集権も、執筆者選択権も会にある。そして、出版社はその結果を全面的に受け入れる。そういう契約で10年以上やってきたはずだ。

 今その前提をくつがえすというのなら、「つくる会」は扶桑社から離れ、別の出版社を捜す以外に「理念」を活かす方法はまったくないことになる。

 こんなことはみんな知っているのに今にわかに知らない振りをしているのである。古参の理事で今なお会に残留している藤岡、高森両先生は百もご承知のことであろう。今どうお考えになっているのか。会員の前にご所信を披瀝なさる義務がおありではないか。

 みんなでだんまりをきめこみ――各自が自分だけいい形で残りたいと思って――その場その場をやりすごしてたゞ時間稼ぎをしているようにみえるので、石原氏に理事会は今や「当事者能力がない」と断案を下されたのである。

 妙な連想だが、私の目にも今の「つくる会」は日韓併合前の朝鮮半島のようにみえる。外国(注・外の団体)に魂を売っている人がトップにおさまって、自己管理能力をすでに失っているのである。

 「教科書編集権」と「執筆者選択権」は「つくる会」という戦後最大の保守運動にとっての生命線である。これを捨てれば自らを失うことになるのである。

 扶桑社と産経は今まで良き協力者であったが、この生命線をこれからは守らないというのなら、おさらばするしかないだろう。

 教科書を出してくれる出版社は平成8年に三社と交渉し、三番目が扶桑社=産経であった。このことを事情を知らない新しい理事諸氏におしらせしておく。二社が承諾し、一社がことわった。

 だから「つくる会」と扶桑社=産経とは無期限では決してない契約関係にあり、運命共同体ではない。お互いにフリーに考えるべき立場にある。

 歴史観において中国にもアメリカにもブレない、出版社とも対等に交渉できる見識ある会長がほしい。主体性あるしっかりした人物、日和見主義者ではない強固な意見の持主、政治屋ではなく日本の歴史に関する理想を掲げることが出来る人――そういう人材こそが指導性あるリーダーにならなければいけない。理事の中にそういう人物はいるのである。

 私は今の「つくる会」の現状にひどく失望しているが、絶望はしていない。

 今や風前の灯ともいえる現状だが、灯は消えないだろう。それを祈りつつ、年の瀬に、一年を思い出し、感想の一端を述べておく。

理事会その後

石原隆夫
「つくる会」東京支部副支部長、1級建築士・設計事務所主宰

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 12月14日は、扶桑社が「つくる会」に突きつけた三条件への対応を話し合う理事会が開かれる日でした。理事会がどの様な結論を出すのか、私たちは固唾を呑む思いでいました。
「理事の皆様へ」で要請したように、「つくる会」の存亡を巡って理事達の熱い議論が為されているに違いないと思っていましたが、昨日までに集めた複数の情報によると、私たちの期待は空しかったと思い知らされました。

 会議は夕方6時に開かれ、7時からは忘年会が予定されていたというのです。

 これ以上はないと思われる重要な会議を、たった1時間で済ませようというのは理事会の信じがたい怠慢と言うべきでしょう。その上、忘年会が予定されていたとは・・・酒など飲んで浮かれている場合か、と思わず毒づきたくもなります。これでは最初から理事達には重要会議という意識が無かったのではないかとも思えるのです。その証拠に4名もの理事が欠席し、最初に緊急を要しない報告が延々となされ、福地副会長の緊急動議という形で本題が発議されたというのです。

 一般的な常識では会議の議題は事前に出席者に明示されているべきでしょう。だが、先月21日に扶桑社社長に要望書を出したとき、社長から突きつけられた三条件を巡り、先月末に開かれた執行部会では、三者協議路線は破綻したという福地副会長と会長との大激論(大喧嘩)が演じられ、流会となったと聞きます。その後、執行部会は開かれず、理事会への議題等の整理も出来ないままに14日の理事会となったそうです。そのような訳で、一理事(副会長)の緊急動議という変則的な形で重要議題が提起されたというわけです。

 いずれにせよ、重要な理事会の主要議題が、緊急動議などというやり方でなされるなどは奇妙というほかありません。しかも、福地副会長の動議で時間も延長され、宴会の開始が小一時間遅れたというのも間の抜けた話です。肝心の本題については多少の討論が行われたようですが核心的な意見はなく、某理事からこれは重大な問題提起なので次回にじっくりと討議するほうが良いだろうとの発言で継続審議となったようです。

 つくる会の今後を左右するであろう本理事会の経緯を固唾を呑んで見守っていた我々からすれば、なんとも気の抜けた話であり、当事者能力を欠いた理事会には猛省を促したい思いです。この大事な議論を今しないでいつ議論しようというのでしょうか。重要な決断を常に先送りした事で外部の容喙を招き、問題を大きくし深化させてきた過去の過ちを再び繰り返そうとするのでしょうか。

 この経緯から見えてくるのは、扶桑社から突きつけられた三条件は、理事達はそれほど深刻な問題と受け取っていないのではないかと言うことです。それとも見たくないものを突きつけられて見ない振りをしているのか、扶桑社がそんな事を出来るわけがないと高を括っているのか、教科書の内容や理念が変わっても教科書が出せれば良いと扶桑社に魂を売り渡す覚悟をしたのか、何とも判断がつきませんが、私たちの期待を見事に裏切った事は間違いありません。

 議論の途中で出た、西尾氏を執筆者リストから外したことについて西尾氏の了解を得たかどうかとの問いには、藤岡副会長からは明確な返答が無かったようです。教科書の理念を提示した創業者である西尾氏を無断で執筆者リストから外したとするならば、同じ執筆者としてはあるまじき行為と言わざるを得ません。

 以前、三者協議を厳しく批判して、扶桑社との関係断絶も辞するべからずと意見具申した東京支部、東京三多摩支部に対して、小林会長は「分派闘争」だと妄言を吐いたそうですが、私たちの信頼を裏切る「分派闘争」をしているのは会長自身とそれに同調している理事達ではありませんか。    

 14日には、ある理事は私達の発信する文書に対し「雑音だ!何とかならないのか」と発言したそうですが、本来ならば「つくる会」と「教科書」を守る上で共闘すべき執筆者と会員の関係を、「分派活動」で破壊する当事者能力を欠いた会長と理事達には、責任を取って早急に総退陣していただくべきでしょう。

 ところで継続審議となった動議の内容ですが、三者協議は扶桑社が三条件を突きつけたことで失敗に帰したのだから、「つくる会」は創立精神に則った正当路線に運動方針を変え、今後の苦難を予想してでも勇気をもって闘う新しい路線に即時に転換しよう、というものだったようです。

 これは将に私たちが望む路線であります。
「つくる会」と「新しい歴史教科書」を守るためには苦難の道をも覚悟してこそ、目的が達成されるに違いありません。全国の会員の皆様が心を一つにするならば、道は拓けるものと確信します。

「つくる会」の今への声

 本14日、命運を決する「つくる会」の理事会が開かれるもようです。コメント欄に大切な意見が出ましたので、ここに掲示します。

「つくる会」理事の皆様方へ

 小林会長が推し進めているいわゆる「三者協議」に於いて、さる11月21日扶桑社の片桐社長は以下の三点を小林会長と八木氏に申し渡したそうです。

(1)組織の一本化。
(2)藤岡氏と八木氏は教科書執筆者から降りること。
(3)教科書編集権は扶桑社にあり、それには執筆者選択権も含まれる。

この事は理事各位におかれましては既にお聞き及びかと存じますが、「つくる会」にとっては誠に由々しき事態と言わねばなりますまい。

 私たちは「三者協議」なるものの存在を知ったときから、「つくる会」が何故それに巻き込まれなければならないのか、合理的な説明を求めてきた事は、度々理事各位にお送りしたメールやFAXによってご存じのことと思います。

 しかしながら理事会は、理事会自身が合理的な判断を放棄したまま、小林会長に依る「三者協議」の既成事実化を付帯条件付きで追認してしまいました。

その条件とは(1)「つくる会」設立の趣意書に沿った教科書を作ること(2)藤岡氏を代表執筆者とすること、の2点でした。

 これを知った私たちは、なおも原点に戻って三者協議なるものに「つくる会」が参加しなければならない理由を会長はじめ理事会に問い続けましたが、今に至るまでどちらからも得心のいく説明を頂いておりません。要するに会長はじめ理事会自身に合理的な理由がないのだから説明など出来るはずもないと言うことでしょう。

 片桐社長が申し渡した三点を理事会はどの様にお考えになるか、本日12月14日は、この件につき討議なさる予定と伺っています。

編集権も執筆者選択権も失い、藤岡氏も代表執筆者から降りる「つくる会」とは如何なる存在になるのか、じっくり討論していただきたいものです。

 理事各位は扶桑社が何を「つくる会」に望んでいるのか既にお分かりでしょう。
「つくる会」ではなく「つくれない会」なのです。

保守合同してより良い教科書を作ろうなどという甘言に乗った理事各位の責任は、
「つくる会」十年の歴史を歩んだ先人達や、既に「つくる会」の教科書で勉強している子供達や、採択してくれた自治体に対して限りなく重いのです。

 この期に及んでも、扶桑社に期待を寄せる理事がいるとは思えませんが、もしも
その様な行動を採る理事がおられるならば、お辞めになることを勧告します。

聞くところに依ると、理事会に殆ど出席しない理事や発言しない理事が多数おられるとの事ですが、何の為に理事をおやりになっているのか胸に手を当ててとくとお考え下さい。「つくれない会」になっては理事も用済みとなるのですから。

 本日の会議では全員の理事が発言なさるべきでしょう。そしてその発言録を一般会員に公表してください。私たちはそれを次の行動の為の判断材料とさせていただきたいのです。

 最後に一言申し述べます。

扶桑社がこの時点で最後通牒とも言うべき三点を明らかにしたのは、不幸中の幸いでもあります。あやふやな条件を提示されたのでは判断も付けがたいでしょうが、
これほど明確な侮辱を浴びせられた以上は、戦うしかないでしょう。

先ずは扶桑社に三くだり半を突きつけ、この様な仕儀に「つくる会」を追い込んだ小林会長には責任を採っていただくのが筋ではありませんか。

「つくる会」の理念と使命をもう一度再確認し、既に一人歩きを始めた私たちの「新しい歴史教科書」を守るためならば、今が決断の秋です。

Posted by: 石原隆夫 at 2006年12月13日 23:35

長谷川様

通りすがりの部外者が無責任なことをと思われるかもしれませんが、長谷川さんが書かれたことについて海外在住(在米)のものがいつも思っていることを一言。

分裂は弱さではありません。個々の問題について、たとえ考え方が正反対であっても、『西尾幹二』が群雄割拠する国は強い国です。絶対にアメリカにも中国にもロシアにも負けません。
群雄割拠の『自由』を否定する人、八木前会長や岡崎久彦氏たちのような人たちがいる国が弱い国です。

自分たちが乗る、いい車を作ろうとするからこそ、本物の車ができるのではないですか?国内メーカーが群雄割拠して競争するからこそ外国と太刀打ちできるのではないですか?

どんな強大国が相手でも自国は自国民で守り抜く気骨のある国であって初めて外国とまともな同盟関係が結べます。弱小国(英国)が超大国(フランス・スペイン)に存亡を賭けて戦い抜いた、その悪戦苦闘のなかで生まれてきたのがインテリジェンスですよね。岡崎久彦氏のすることはインテリジェンスの根本に矛盾しているとは思われませんか?

アメリカは心のどこかで深く日本を軽蔑しているのです、共和党政権であれ民主党政権であれ。軍事同盟の代わりに経済権益の妥協を日本に強いているのではありません。軍事も経済もあくまで自国の利益にそうよう日本との同盟を利用しているに過ぎません。だから対中関係(米中関係)は日本とは何の関係もないのです。アメリカの国益に照らし合わせてアメリカが考えることです。六カ国協議事実上中断から北の核実験にいたる一年余りの(米中)交渉のなかで、台湾に次いで日本が米中間の取引の材料になったのではないかと恐れます。

六カ国協議も『つくる会』騒動も郵政民営化選挙もつながってます。在米の人間から見れば、西尾先生・お一人がそのことを見通して孤軍奮闘されているように見えます。

人間は(自らの運命と)戦って初めて自分が何者か、自分が命を賭けて守りぬくものが何か、そして先人が残した叡智の意味するところは何なのか思い知るのではありませんか? 

私は『つくる会』に戦い続けてほしいです。本来政治とは関係のない、そしてそうあるべき『つくる会』が、つまらない出版社の政治的プロパガンダとは手を切って、自ら出版社になって何が悪いのでしょう?

Posted by: 秋の空 at 2006年12月14日 06:08

>秋の空さま
お久しぶりです。

お書きになったこと、よくよくわかります。

でも、現在その「つくる会」本体が八木・扶桑社グループの思う方向に動いていっているようです。会員としてはあまりに残念です。

教科書を出版してよい会社は、義務教育に関してはとても高いハードルが課せられていることをご存知でしょうか?今手許に詳しい資料がありませんが、会社としての実績や社長の資産提示など、ポッと出の弱小新規出版社には教科書を作る資格がないのです。

つまり、扶桑社はすべてのカードを握っているのです。
そして、八木・岡崎グループと扶桑社・産経グループが限りなく親密なのです。

Posted by: 長谷川 at 2006年12月14日 09:20

会員から見た「つくる会」の今

石原隆夫
「つくる会」東京支部副支部長、1級建築士・設計事務所主宰

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 「新しい歴史教科書をつくる会」に再び暗雲が漂い始めたと知ったのは9月末の西尾日録に依ってでした。扶桑社が「つくる会」意向とは無関係に執筆者を一本釣りして新しい教科書を作り、代表執筆者に岡崎氏を据えるという情報でした。

  その後「つくる会」東京支部が独自に情報収集を重ねて判ったことは、あろうことか、自身の不行跡で「つくる会」の信用を地におとしめた八木氏の教育再生機構と「つくる会」を、扶桑社を中心に一本化して教科書を作る企みが進められていると言う事でした。その準備会議を三者協議と呼び、そこに「つくる会」の小林会長が一人だけ参加し、理事会はつんぼ桟敷に置かれているという状況です。

  9月27日に我々は会長宛に情報開示と三者協議の無効性を訴える要望書を出しましたが、何度かの催促でやっと10月24日に会長との会談が実現したのです。

 会談で判ったことは、三者協議とは「つくる会」の主体性を全く欠き、扶桑社の意図するシナリオに乗った会長の姿でした。我々は更に三者協議に加わる意図と理由を問い質していますが、未だに会長からは誠意ある回答を頂いていません。

 その様な経過の中で、今まで曖昧であった点について扶桑社が明確に意思表示をしてきたのです。

 11月21日の三者協議とやらで、扶桑社の片桐社長が「つくる会」の小林会長と教育再生機構の八木氏に申し渡したのは以下の三点でした。
 これを知って、10年の長きに亘って共に教科書作りで協力し合ってきただけに、扶桑社の変節と傲岸不遜な物言いに、怒りと共に裏切られた思いに駆られました。

①組織の一本化。
②藤岡と八木は教科書執筆者から降りること。
③教科書編集権は扶桑社にあり、それには執筆者選択権も含まれる。

 ①の組織の一本化は「小林会長と会談して判ったこと」の2番に記したように、岡崎氏の提案によるものであり、三者協議のもともとの目的であるからいわばだめ押しの発言でしょう。②も「小林会長と会談して判ったこと」にも記しているように(14番)以前から八木氏は執筆者から降りても良いと言っており、それに対して小林会長は八木氏が降りて藤岡氏が残るわけにはいかないと考える、などと我々に話していたのですから、これも三者協議で何度か話題に出て瀬踏みしたものを最終通告として出してきたものでしょう。その証拠に八木氏はその場で「降りる」と表明したそうで、いわば出来レースと言えます。八木氏が降りれば「つくる会」の宥和派や八木派の会員から、当然藤岡氏も降りるべきだと言う声が澎湃として起こるだろうとの読みでしょう。

 問題は③です。この主張が通るならば、②は蛇足であり、言わずもがなの主張です。仮に扶桑社が編集権と執筆者選択権を持った場合、扶桑社の編集者と歴史観で常にやり合ってきた代表執筆者の藤岡氏を外し、西尾氏を執筆者から外すと共に彼の執筆分をも削除し、全てを換骨奪胎して「新しい歴史教科書」とは似ても似つかぬ教科書にしてしまうことも容易に出来る権限を持つ事になります。

 そんなことはあり得ない、八木氏が黙っていない、と仰る人が出てきそうですが
八木氏は扶桑社から「引っ込め!」と言われて「YES」と答えている人ですし、前回の「つくる会」の騒動で彼が取った犯罪的な行動は左翼にとっては格好の攻撃材料となりますから、八木氏が教科書作成に係わることは難しいのではないでしょうか。その上、今の「新しい歴史教科書」は、彼が「つくる会」の会長だったときに出来たものであり、それを否定して「朝日新聞に批判されない教科書作り」などと無責任な事を平気で言う人の教科書では採択が不利になるのは目に見えています。

 「教育基本法」の改正で文科省の検定基準が変わる為、歴史教科書の書き換えに他社は躍起になっているようですが、私たちの「新しい歴史教科書」はその点、殆ど書き換える必要が無く、無用な経費を掛けなくとも良いと言う意味で企業的には有利な教科書なのです。もし経費を掛けても更に自尊史観を高める書き換えが必要と考えるならば、扶桑社は率先して「つくる会」に要請し、今までの「つくる会」+「扶桑社」の体制で改訂版を作ればよい筈です。

 しかし藤岡氏や西尾氏を外す企みから見えてくるのは、それによって相当な書き換えが必要となるのですから、少なくとも経費は問題にしていないと言えます。
そうならば扶桑社の考える教科書とは、今の教科書でもなく、更に自尊史観を高める教科書でもないとすれば、考えられるのは近隣諸国に配慮した教科書作りではないかと思わざるを得ません。

 その鍵を握っているのはフジ産経グループと岡崎氏ではないでしょうか。
そもそも、三者協議なるものは岡崎氏の一本化構想から始まっています。
岡崎氏は西尾氏の日米関係の部分をリライトしてより親米色を強めました。
西尾氏のリライトをしたことで「新しい歴史教科書」での存在感は一挙に高まりました。その岡崎氏は元外交官であり親米派であることはご承知の通りです。
彼が外交官のセンスで次期米政権を予測するのは容易だったでしょうし、日本に厳しい民主党のアメリカとは歴史問題では日米、日中間についてより慎重でなければならないと考えても不思議ではありません。彼が今夏、産経新聞の「正論」で主張し、その結果靖國神社遊就館の歴史観を書き換えさせたのもその一環です。
 
 もう一方のフジ産経グループの産経新聞ですが、「つくる会」発足時より会をバックアップしてくれ、会の発展に貢献してくれた事は誰も否定出来ません。
しかしながら昨年の採択後から今年の春に掛けて、「つくる会」を襲った八木氏を震源とする騒動に於いては、ご承知のように産経新聞は悉く反「つくる会」の立場でした。新聞記者の渡辺氏が自ら関与したと藤岡氏に告白した怪メールやFAX騒動は、記者としてあるまじき行為であり、珊瑚事件の朝日新聞記者よりもある意味その犯罪性については罪が重いと言わざるを得ません。産経新聞は当然渡辺記者の処分を行い、少なくとも「つくる会」関係者に対してはそれを公表すべきでしたが、未だにその様な事は耳にしていません。
 
 理事会には観光旅行に行くと騙し、産経新聞は中国社会科学院に歴史認識の討論の為に八木氏を連れて行きましたが、その行動は我々には唐突に写りました。
「つくる会」と「新しい歴史教科書」をあれほど敵視していた中国と「つくる会」が何らかの接触を持つならば、当然理事会や総会の決議を経て然るべき準備をして臨むべきでしょうが、一切の手続きを省いたあの行動は、「つくる会」会員のみならず心ある国民にとっても、事が歴史認識に関する以上は重大な裏切りといえます。

 「つくる会」の運動が歴史認識で日本を批判する中韓には刺激的である事は、「従軍慰安婦」の虚妄を排するために立ち上がった私たちが望んだ結果であり、それを回避するならば「つくる会」と「新しい歴史教科書」の存在意義はありません。何故、唐突にフジ産経グループは当時の八木会長を敵対する中国に差し向け、中国と宥和を計ろうとしたのか大きな疑問でしたが、去る7月半ばに産経新聞が上海支局を開設したという記事を読んで合点しました。

 産経新聞はご承知の通り中国に関しては批判的な立場を守る孤高の存在でしたから、中国にとっては煩わしいメディアでした。その産経新聞が上海支局開設を願い出れば、お人好しの日本とは異なり、宥和を条件にやんわりと色々な難問を突きつけたことは想像に難くありません。「つくる会」の支援に疑問を呈し、「新しい歴史教科書」の内容を融和的なものに替えるように圧力を掛けたと考えられます。
関係者の話では支局開設までに1年余り掛かったとのことですからその間の緊迫した折衝は大変なものだったと思いますが、八木氏による社会科学院との唐突な接触は、その圧力の手始めだったと考えられます。その後中国のネットでは「つくる会」が中国に遂に降参した、と流れたようです。

 お前の言い分は総て想像だと言われるでしょうが、中国のやり口はぼんくらでない限り、官民とも数多くの事例で実証済みであることは衆知の事実でしょう。

 先日、扶桑社が教科書関係者に配った「扶桑社通信・虹7月号」には、東京で開かれた中国社会科学院との会合の記事が載っていました。「新しい歴史教科書」に対する中国側の言い分として、日本が神の国である事を強調している、日本文化の独自性とその優れた点を強調しすぎている、日中戦争に於ける日本並びに日本軍の加害性についても何も書かれていない、日中戦争について都合の良い記述をしている、などと難癖を付けています。日本側はそれなりに事実を上げて反論はしていますが、中国の歴史教科書については何一つ疑問や抗議をすることなく、唯ひたすら相手の難癖に卑屈な言い訳をしたに過ぎません。中国側が言いたかった最大のポイントは「新しい歴史教科書」は「勇気をもって日中戦争は侵略戦争だったと書きなさい」だったそうです。将に扶桑社に対する厳命でした。締めは歴史認識の共有は困難だと言う陳腐な感想ですが、不用意な社会科学院との接触を始めてしまったフジ産経グループにはその付けは大きく、「つくる会」と「新しい歴史教科書」をつぶす為に扶桑社を前面に立てて私たちに難問を突きつけているのが今の騒動の実態なのです。

 今、「つくる会」を取り巻く環境は大きく変わろうとしています。
今回の騒動は「つくる会」内部の権力闘争のように見えますが、決してその様な内部抗争ではなく、政治や国際関係、それに付随する企業の論理が大きな圧力となり倫理観やモラルに欠け大義を忘れた者達を手先として「つくる会」を潰そうとしていると見るべきです。

 中国の対日工作は日本のあらゆる分野で着々と進んでいます。
特に歴史認識や台湾問題では、マスコミやメディアを籠絡するに手段を選ばず、露骨な介入をしているのは私たちの想像を超えているのです。台湾の帰属を巡るカイロ宣言について、産経新聞が中国に阿った明らかな誤報をした事で多くの人達から訂正を要求されましたが、遂にこれを拒否しました。私たちにとって産経新聞は一つの希望でしたが、この対応を見ると、中国に又一つ城を抜かれた思いです。更に中国が「つくる会」と「新しい歴史教科書」を潰すことが出来れば、歴史認識に於いては中国の圧勝に終わり、安倍首相の対中外交改善の成果は再び謝罪と贖罪の汚辱にまみれる事になるのでしょう。
 
 決して中韓だけが相手ではなく今やアメリカも其の戦列に加わりました。
日本の理解者と思われていたアーミテージ氏さえ、靖国神社遊就館の歴史観にクレームを付け岡崎氏を擁護しましたし、米国下院議院では従軍慰安婦問題を蒸し返して非難決議をしようしたことは記憶に新しいところです。

 「つくる会」と「新しい歴史教科書」は私たちの意に反して政治や国際の意志に巻き込まれようとしています。しかし、歴史とは過去の真実であり、そこから織りなす民族の物語が歴史教育です。その時代時代の環境や意志に左右されることのない一個の価値観であるべきです。さもなければ子供達に何を信じろと言えるのでしょうか。親米も親中も自由ですが、歴史教科書に政治を持ち込むことだけは許してはならないのです。

 我が国は幸か不幸か、國を売る自虐史観に満ちた反日の歴史教科書も、私たちの自尊史観の歴史教科書も共に出版できる自由があり、子供達に供されています。
どの教科書を選択するのも自由ですが、自尊史観の教科書だけがその存在を抹殺されるとすればそれは日本の悲劇であり、外国から見れば喜劇であります。
「新しい歴史教科書」が世に出たとき、日本は戦後60年の蒙昧から目覚めたのであり、日本そのものの覚醒であると国際は複雑な思いで受け止めました。
その意を呈して国内の反日勢力は半狂乱の反対運動を繰り広げたのです。

 私たちが國内外にその様な大きな影響力を与えた事に、何故誇りを持てないのでしょうか。保守合同の美名に惑わされて孤高を守り得ないとすれば、今までの10年の努力は水泡に帰すことに、何故気がつかないのでしょうか。
宥和を重んじて「新しい歴史教科書」を胡散臭い者達に差し出し、反日勢力が喜ぶような教科書になったならば、子供達に何と説明するのでしょうか。

 守るべきは「新しい歴史教科書」であり、不明の者達が巣くう組織ではありません。守るべきは60年の蒙昧を打ち砕いた勇気ある執筆者達であり、出版社ではありません。中国に阿り誇りある孤高を捨て企業の論理に走った産経グループとも、編集権と執筆者選定権が我に有りと主張する扶桑社とも、このまま付き合うことは危険です。

(※執筆者リストについては以下のURLをご参照下さい。東京支部掲示板です)
http://www.e-towncom.jp/iasga/sv/eBBS_Main?uid=5428&aid=2&s=1280

終わりに

 こうして実名を上げ非難することで、嫌がられ、疎まれ、恨まれる事は承知の上ですが、守るべき事の少なくなったこのご時世にあって、一つぐらい何が何でも守るべしと言い募ることも保守の側に身を置くと自負する者の勤めかと思うのですが。「新しい歴史教科書」を守りきった暁に、反日勢力から恨まれるならば、それが名もない私たちの勲章だと思っています。 

坂本多加雄選集のこと(一)

 坂本多加雄さんが逝ってから早くも四年が経つ。藤原書店から部厚い二巻本の選集が出てからも一年経った。以前に「日録」でもこの本のために知友が集って、ご父君の援助もあって、選集出版を誓い合ったことを報告している。

 思い出せば亡くなられた年の師走の寒い雨の日に追悼のための集会が行われた。今年もまた同じような寒い年末を迎えている。ここで二巻本の選集のことを遅ればせながら顧みておこう。

 選集は坂本さんの弟子筋の杉原志啓氏が奔走して、実務も担当され、実現の運びとなった。杉原さんがいなければとうてい日の目を見なかった著作だった。

 残念なのは一冊の値段が各8400円+税と高額なことである。序には粕谷一希、解説には杉原志啓、そして二冊の月報に猪木武徳、梶田明宏、北岡伸一、中島修三、西尾幹二、東谷暁、御厨貴、山内昌之の八人が名を並べている。

 Ⅰ、近代日本精神史、Ⅱ市場と国家の二冊に分れ、カタログにはⅠについて、「日本政治思想史研究」を学問として成立させた丸山真男を受け継ぎ、この学問の新たな領野を切り開いた坂本多加雄。秀逸の丸山論、福沢論を始め、近代日本思想史の豊かな遺産を現代に甦らせた諸論考と、「言葉」を手がかりに大正以来の思想史を初めて一望してみせた『知識人』を収録、と書かれている。

 Ⅱ市場と国家については、憲法に規定された「象徴天皇制度」の意味を、日本の来歴に基づいて初めて明らかにした天皇論、国家の相対化や不要論が盛んに説かれるなか、今日における「国家の存在理由」を真正面から明解に論じた国家論、歴史教育、外交など、時事的問題の本質を鋭く迫った時事評論を収録、と書かれている。

 以上はカタログの文言である。ここでは私の月報の文章と、その文中に坂本さんの真摯な性格を物語る一例として取り上げた、往時の彼の解説文を紹介したい。

   彼がいてくれればこんな事にはならなかったとしきりに思う。死なれると存在が大きく見えるものである。生きている人間は生ぐさくて浅間しい。

 思い出すために亡くなられた直後に私が新聞にのせた追悼の「談話」をもう一度読んでもらおう。

 あまりにも早い死を悼む
 学識もあり、洞察力もある優れた知識人だった。あまりにも早く逝った。今思えば、病気が彼の体を急速にむしばんでいたのは、靖国神社の代わりの追悼施設を審議する懇談会で一人正論を主張していた五、六月のことではなかったろうか。

 坂本さんはつくる会創設の最初の四人のメンバーの一人で、教科書のかなりの部分を執筆した。しかし実は、彼の専門の明治維新前後はほかの執筆者が書いた。彼の当初の原稿は批判されたのである。専門家でありすぎ教科書の記述にはなじまない、と。だが、ここからが坂本さんのすごい所だった。近世や戦後史など専門でない分野を進んで担当した上、全体の完成度を高めるために献身的、協力的だった。私は彼に人間的に負けたと思った。

 「一番男らしいのは坂本さんだ」。当時の編集者のこの言葉がすべてを表している。(談)

保守主義と〈スローガンの遊戯〉――(2)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 産経新聞の「正論」欄は私たちの周辺には馴染みの紙面である。しかしながら、近頃は本当に「馴染み」というだけが唯一の価値であって、書いているほうも載せているほうも、これで悲しくないのだろうか、という感想を禁じえない。

 ごく最近の論文を無造作に選ぶ。

 新保祐司さんは、「蛍の光」に千島列島の歌詞があることを初めて知り、先人の辛苦を追憶して感動したという意味のことを書き、松本健一さんは、司馬遼太郎が三島自決を「さんたんたる死」と侮蔑し、その後も〈天皇の物語〉を書かなかったのは深い意味があってのことで、司馬一流のアンチ・テーゼ提出であると書いている。

 少なくとも五十男の保守人士と胸を張るなら、「蛍の光」に千島列島の歌詞があるくらいは知っていてほしい。それよりも「今、時代は唱歌である」という保守論者が増えているらしいが、純情であっても衰弱的懐古だと私には見える。今、時代(のテーマ)は決して〈唱歌〉ではない。新保さんはこれを教育者として子どもたちに伝えたいのだろうか。土井晩翠あたりから詩論を展開すべきであって、文章からは氏の退屈しか伝わってこない。

 司馬遼太郎は朝日などが〈大思想家〉としてキャンペーンを続け、産経もまたいつまでも司馬、司馬という調子だが、司馬遼太郎は「空海の風景」だけを読んでも、皇室を疎ましく感じた人であることが読み取れる。なお、主観的直感だが、実は日本も嫌いな人だと私は思っているのである。松本さんだけではなく、多くの保守論者から反論されるだろうが。

 かつて、といってもわずか三十年の昔である。福田恆存は今月何を語るのだろう、江藤淳と本多秋五が新聞で論争をはじめたがどう決着をつけるのだろう、西尾幹二が次に書くのは東西の精神史だろうか、それとも人生についてだろうか、と私は限られた小遣いを持って論壇誌の発行を毎月心待ちにしていた。

 「碑のように堅い言葉」という表現があるが、そのような言葉を待っていた。私たちが聞きたい言葉、私たちが目に刻みつけたい言葉のために一冊何百円でも惜しくはなかったのである。論争はどちらかを贔屓するために読んだのではなかった。むしろ、福田恆存の場合などは「この人をやっつけられる人が出て来ないのは淋しい」と思いながら両者の剣の切っ先を見ていたのである。

 今はどうか。例えば、西尾幹二と論争(対決)しなければならない知識人は、すでに保守陣営に五人はいる。テーマは置き去りにされているのである。論壇もまた衰微していると言われて久しいが、小林秀雄が言うように言葉は精神である。投げかけられ応えるのは知識人の義務である。

 ベルジャイエフは『社会哲学について論敵に送る書簡』の中で、こう書いている。

 保守主義的原理の本質については、その敵だけでなく、別の味方からもよく理解されていない。ここに一つの保守主義のタイプがある。この連中はあらゆる保守主義の名誉棄損のためにいろいろなことをやっている。

 真に保存され、防衛されなければならぬものは、変貌するエネルギーである。もし、そのなかに単に惰性と停滞だけが存在するならば、それは悪であって善ではない。

 嘘の、沈滞した保守主義は過去のもつ創造的神秘と、それが未来の創造的神秘との間にもっている関連性を理解することはできない。したがって過去を滅亡させる革命(進歩)主義は、沈滞した保守主義の裏返しである。革命(進歩)主義は嘘の保守主義、創造的伝承を裏切る保守主義を待ち伏せている懲罰である。(以上、永淵一郎訳)

 まだある。ベルジャイエフの洞察は怖ろしい。「諸君は下賤にも、諸君の父祖が地中に、墓のなかに横たわっていて、自分の声を発することができないのをよいことにしている。(中略)自分の仕事をうまくやるために、また父祖らの意志を尊重することはせず、その遺産だけを利用するために、彼らが不在であることを利用している」。

 小林秀雄が言うように、「諸君が注意して周囲を見渡されたならば、眼を覆はんとしても不可能な現実の姿がある」というのっぴきならぬ事情は、平成の今でも何ら軽重を問うことはできない。私たちの国家や社会はあまりにも、戦後の手抜かりと晦渋の念と内外の悪意とに包囲されている。

 たしかに教育問題も「待ったなし」であろう。だが、教育は六十年間違ってきたなら、善くするには六十年かかる、という考え方がまず正しい発想である。愛国心教育が必要かという世論調査では、必要と答えた人が八割にのぼるといい、或る保守陣営の知識人が機は熟してきたと喜んでいた。世論調査で八割を達成したなら、それは危険な兆候ではないのかと、私などは思う。

 小林秀雄は伝統を、伝統主義によって捉えることは不可能だと言い切っている。今、私たちが見聞きしている数々の運動は、伝統主義の突出ではないと言えるだろうか。

保守主義と〈スローガンの遊戯〉――(1)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 小林秀雄が鎌倉の丘の上に住んでいるという一点で身が引き締まり、澄みきった鋭い眼で見られているような気がしていたと、追悼文にそんな表現をした人があった。今、本が手元にはないので記憶でものを言うのだが、巷の一読者にすぎない私にも、当時その哀惜の気持ちが伝わってきてしんみりさせられたことであった。

 訃報は早春にほころんだ梅が終り、桜はまだ遠い三月一日だったことを覚えている。西暦だ元号だと混乱させられ、また自分がせわしない仕事に入り、数々の過去のエポックを昭和何年と思い出すのが下手になり、小林さんの亡くなられた正確な年も忘れていたが、今調べてみると昭和五十八年三月一日である。

 最晩年に毎日新聞で今日出海との対談が連載され、これは本にならなかったが、ヤケッパチの最期のべらんめえが放たれていて、今日出海は寂しそうで寡黙な聞き役に回っていた。これを読んだとき、日本の曲がり角を私は感じた。いや曲がり角ではなく、時代の転落を小林秀雄の言葉から感じた。あまりにも不機嫌な対談だった。それから二十余年の時が流れた。

 時代の人がいなくなると、時代もまた終るのである。そう決めつけて良いと最近は思う。自分にはそうした信仰めいたものがある。空気ががらりと変わる。何も三島由紀夫の場合のセンセーションを言っているわけではない。静かな詩魂の人、深淵な思索家こそそういうことが言える。当人が時代ごと何かを持ち去るのである。大地をずっしりと抑えていた要の石が取り払われた気がした。

 禅の世界には他宗にみられない孤高な貴族性があって、例えば道元が只管打座(しかんたざ)でひたすら岩のように日日修行をしていさえすれば、この世の中は安定している、という絶対信頼の思想が存在する。小林秀雄を同じように見ていた人がいたと思う。

 小林秀雄が鎌倉の丘の上で息をしていた。その息づかいがそのまま詩魂や思索と重なっていた。鎌倉からの視線を感じて生きた人もあったし、亡き後も、ある問題に遭遇して先生ならどう答えるだろう、と心中で対話する人があった筈だ。氏の熱烈な読者ならばそういうことであろう。だが、同じ思想の列でも運動家という種類の人にはなかなか理解しがたいことである。

 保守と呼ばれる人々は歴史の連続性だとか、伝統思想の継承だとか、先人の魂だとか、そのようなことばかり書き語り叫んでいるのだが、それがどうしたというのだろう。文字通り保守的な〈表題〉だけを連呼していたら、それすなわち保守だというつもりだろうか。

 小林秀雄は偉かったという話を書きたいのではなく、小林秀雄がいつも警鐘を鳴らしていた〈スローガンの遊戯〉が始まっていることが、最近感じられてきて厭な気分なのである。

 小林秀雄は『歴史の魂』と題する講演の最後にこう語っている。

 「今日、日本の危機に際して、諸君が注意して周囲を見渡されたならば、眼を覆はんとしても不可能な現実の姿がある一方、如何に様々なスローガンが往行し人々がこれに足をとられてゐるかがおわかりの筈だと思ふ」

 「わが国の言論界、思想界は嘗て空疎なスローガンにおどらせられ、充分に味噌をつけたのである。それが今日のジャーナリズムを見てゐると、又同じスローガンの遊戯が始まってゐるのである。さういふものと僕等は戦はねばならぬ」

 〈スローガンの遊戯〉と戦うことこそ、「それが詩人の道でもあるとともに、実践的な思想家の道であると信じます」と氏は言っている。この講演は開戦間もない昭和十七年であり、状況は今と比べるべくもないが、小林秀雄の信念が平時有事で揺れ動いたためしはあるまい。

 歩き出した安倍政権に対する疑問や評価は今ここで問題ではない。今、政治権力に傾斜して〈教育〉などで花火を打ち上げている知識人は、もともと自身の言葉を持たないという驚くべき知識人が多いのだが(知識人と呼ばせてもらって良いものかどうかわからないが)、大衆をかき集めて運動の笛を吹いている。

 どうやら政治家とタッグを組んで、という意味らしい。それは日本語では〈野合〉というもので、知識人が最もしてはならないことだと記憶している。こちらの頭がおかしいのだろうか。「安倍晋三を首相にするために」という合言葉がどこからか出始めたときに、ああ、ここも後援会事務所なのか、と思って家に帰りたくなった。

 知識人は、政治家や官僚が「文化」や「伝統」という言葉を使い出したら、あなたたちは一番それらとは遠い存在だから、「どうか口出ししないでくれ」というべきなのだ。安倍首相の「美しい国、日本」も、本来余計なことである。
 
 政治権力への傾斜というのは、時の権力者に知識人として認めてくださいという行為である。筋違いの人にハンコを押してもらう行為である。そのような人がどうして政権を批判し、審判できる立場を取り返せるのか、私にはまったくわからない。

 私たちが目撃しているのは〈スローガンの遊戯〉よりもっとグロテスクな世界なのだろうか。

つづく