「新しい歴史教科書をつくる会」に再び暗雲が漂い始めたと知ったのは9月末の西尾日録に依ってでした。扶桑社が「つくる会」意向とは無関係に執筆者を一本釣りして新しい教科書を作り、代表執筆者に岡崎氏を据えるという情報でした。
その後「つくる会」東京支部が独自に情報収集を重ねて判ったことは、あろうことか、自身の不行跡で「つくる会」の信用を地におとしめた八木氏の教育再生機構と「つくる会」を、扶桑社を中心に一本化して教科書を作る企みが進められていると言う事でした。その準備会議を三者協議と呼び、そこに「つくる会」の小林会長が一人だけ参加し、理事会はつんぼ桟敷に置かれているという状況です。
9月27日に我々は会長宛に情報開示と三者協議の無効性を訴える要望書を出しましたが、何度かの催促でやっと10月24日に会長との会談が実現したのです。
会談で判ったことは、三者協議とは「つくる会」の主体性を全く欠き、扶桑社の意図するシナリオに乗った会長の姿でした。我々は更に三者協議に加わる意図と理由を問い質していますが、未だに会長からは誠意ある回答を頂いていません。
その様な経過の中で、今まで曖昧であった点について扶桑社が明確に意思表示をしてきたのです。
11月21日の三者協議とやらで、扶桑社の片桐社長が「つくる会」の小林会長と教育再生機構の八木氏に申し渡したのは以下の三点でした。
これを知って、10年の長きに亘って共に教科書作りで協力し合ってきただけに、扶桑社の変節と傲岸不遜な物言いに、怒りと共に裏切られた思いに駆られました。
①組織の一本化。
②藤岡と八木は教科書執筆者から降りること。
③教科書編集権は扶桑社にあり、それには執筆者選択権も含まれる。
①の組織の一本化は「小林会長と会談して判ったこと」の2番に記したように、岡崎氏の提案によるものであり、三者協議のもともとの目的であるからいわばだめ押しの発言でしょう。②も「小林会長と会談して判ったこと」にも記しているように(14番)以前から八木氏は執筆者から降りても良いと言っており、それに対して小林会長は八木氏が降りて藤岡氏が残るわけにはいかないと考える、などと我々に話していたのですから、これも三者協議で何度か話題に出て瀬踏みしたものを最終通告として出してきたものでしょう。その証拠に八木氏はその場で「降りる」と表明したそうで、いわば出来レースと言えます。八木氏が降りれば「つくる会」の宥和派や八木派の会員から、当然藤岡氏も降りるべきだと言う声が澎湃として起こるだろうとの読みでしょう。
問題は③です。この主張が通るならば、②は蛇足であり、言わずもがなの主張です。仮に扶桑社が編集権と執筆者選択権を持った場合、扶桑社の編集者と歴史観で常にやり合ってきた代表執筆者の藤岡氏を外し、西尾氏を執筆者から外すと共に彼の執筆分をも削除し、全てを換骨奪胎して「新しい歴史教科書」とは似ても似つかぬ教科書にしてしまうことも容易に出来る権限を持つ事になります。
そんなことはあり得ない、八木氏が黙っていない、と仰る人が出てきそうですが
八木氏は扶桑社から「引っ込め!」と言われて「YES」と答えている人ですし、前回の「つくる会」の騒動で彼が取った犯罪的な行動は左翼にとっては格好の攻撃材料となりますから、八木氏が教科書作成に係わることは難しいのではないでしょうか。その上、今の「新しい歴史教科書」は、彼が「つくる会」の会長だったときに出来たものであり、それを否定して「朝日新聞に批判されない教科書作り」などと無責任な事を平気で言う人の教科書では採択が不利になるのは目に見えています。
「教育基本法」の改正で文科省の検定基準が変わる為、歴史教科書の書き換えに他社は躍起になっているようですが、私たちの「新しい歴史教科書」はその点、殆ど書き換える必要が無く、無用な経費を掛けなくとも良いと言う意味で企業的には有利な教科書なのです。もし経費を掛けても更に自尊史観を高める書き換えが必要と考えるならば、扶桑社は率先して「つくる会」に要請し、今までの「つくる会」+「扶桑社」の体制で改訂版を作ればよい筈です。
しかし藤岡氏や西尾氏を外す企みから見えてくるのは、それによって相当な書き換えが必要となるのですから、少なくとも経費は問題にしていないと言えます。
そうならば扶桑社の考える教科書とは、今の教科書でもなく、更に自尊史観を高める教科書でもないとすれば、考えられるのは近隣諸国に配慮した教科書作りではないかと思わざるを得ません。
その鍵を握っているのはフジ産経グループと岡崎氏ではないでしょうか。
そもそも、三者協議なるものは岡崎氏の一本化構想から始まっています。
岡崎氏は西尾氏の日米関係の部分をリライトしてより親米色を強めました。
西尾氏のリライトをしたことで「新しい歴史教科書」での存在感は一挙に高まりました。その岡崎氏は元外交官であり親米派であることはご承知の通りです。
彼が外交官のセンスで次期米政権を予測するのは容易だったでしょうし、日本に厳しい民主党のアメリカとは歴史問題では日米、日中間についてより慎重でなければならないと考えても不思議ではありません。彼が今夏、産経新聞の「正論」で主張し、その結果靖國神社遊就館の歴史観を書き換えさせたのもその一環です。
もう一方のフジ産経グループの産経新聞ですが、「つくる会」発足時より会をバックアップしてくれ、会の発展に貢献してくれた事は誰も否定出来ません。
しかしながら昨年の採択後から今年の春に掛けて、「つくる会」を襲った八木氏を震源とする騒動に於いては、ご承知のように産経新聞は悉く反「つくる会」の立場でした。新聞記者の渡辺氏が自ら関与したと藤岡氏に告白した怪メールやFAX騒動は、記者としてあるまじき行為であり、珊瑚事件の朝日新聞記者よりもある意味その犯罪性については罪が重いと言わざるを得ません。産経新聞は当然渡辺記者の処分を行い、少なくとも「つくる会」関係者に対してはそれを公表すべきでしたが、未だにその様な事は耳にしていません。
理事会には観光旅行に行くと騙し、産経新聞は中国社会科学院に歴史認識の討論の為に八木氏を連れて行きましたが、その行動は我々には唐突に写りました。
「つくる会」と「新しい歴史教科書」をあれほど敵視していた中国と「つくる会」が何らかの接触を持つならば、当然理事会や総会の決議を経て然るべき準備をして臨むべきでしょうが、一切の手続きを省いたあの行動は、「つくる会」会員のみならず心ある国民にとっても、事が歴史認識に関する以上は重大な裏切りといえます。
「つくる会」の運動が歴史認識で日本を批判する中韓には刺激的である事は、「従軍慰安婦」の虚妄を排するために立ち上がった私たちが望んだ結果であり、それを回避するならば「つくる会」と「新しい歴史教科書」の存在意義はありません。何故、唐突にフジ産経グループは当時の八木会長を敵対する中国に差し向け、中国と宥和を計ろうとしたのか大きな疑問でしたが、去る7月半ばに産経新聞が上海支局を開設したという記事を読んで合点しました。
産経新聞はご承知の通り中国に関しては批判的な立場を守る孤高の存在でしたから、中国にとっては煩わしいメディアでした。その産経新聞が上海支局開設を願い出れば、お人好しの日本とは異なり、宥和を条件にやんわりと色々な難問を突きつけたことは想像に難くありません。「つくる会」の支援に疑問を呈し、「新しい歴史教科書」の内容を融和的なものに替えるように圧力を掛けたと考えられます。
関係者の話では支局開設までに1年余り掛かったとのことですからその間の緊迫した折衝は大変なものだったと思いますが、八木氏による社会科学院との唐突な接触は、その圧力の手始めだったと考えられます。その後中国のネットでは「つくる会」が中国に遂に降参した、と流れたようです。
お前の言い分は総て想像だと言われるでしょうが、中国のやり口はぼんくらでない限り、官民とも数多くの事例で実証済みであることは衆知の事実でしょう。
先日、扶桑社が教科書関係者に配った「扶桑社通信・虹7月号」には、東京で開かれた中国社会科学院との会合の記事が載っていました。「新しい歴史教科書」に対する中国側の言い分として、日本が神の国である事を強調している、日本文化の独自性とその優れた点を強調しすぎている、日中戦争に於ける日本並びに日本軍の加害性についても何も書かれていない、日中戦争について都合の良い記述をしている、などと難癖を付けています。日本側はそれなりに事実を上げて反論はしていますが、中国の歴史教科書については何一つ疑問や抗議をすることなく、唯ひたすら相手の難癖に卑屈な言い訳をしたに過ぎません。中国側が言いたかった最大のポイントは「新しい歴史教科書」は「勇気をもって日中戦争は侵略戦争だったと書きなさい」だったそうです。将に扶桑社に対する厳命でした。締めは歴史認識の共有は困難だと言う陳腐な感想ですが、不用意な社会科学院との接触を始めてしまったフジ産経グループにはその付けは大きく、「つくる会」と「新しい歴史教科書」をつぶす為に扶桑社を前面に立てて私たちに難問を突きつけているのが今の騒動の実態なのです。
今、「つくる会」を取り巻く環境は大きく変わろうとしています。
今回の騒動は「つくる会」内部の権力闘争のように見えますが、決してその様な内部抗争ではなく、政治や国際関係、それに付随する企業の論理が大きな圧力となり倫理観やモラルに欠け大義を忘れた者達を手先として「つくる会」を潰そうとしていると見るべきです。
中国の対日工作は日本のあらゆる分野で着々と進んでいます。
特に歴史認識や台湾問題では、マスコミやメディアを籠絡するに手段を選ばず、露骨な介入をしているのは私たちの想像を超えているのです。台湾の帰属を巡るカイロ宣言について、産経新聞が中国に阿った明らかな誤報をした事で多くの人達から訂正を要求されましたが、遂にこれを拒否しました。私たちにとって産経新聞は一つの希望でしたが、この対応を見ると、中国に又一つ城を抜かれた思いです。更に中国が「つくる会」と「新しい歴史教科書」を潰すことが出来れば、歴史認識に於いては中国の圧勝に終わり、安倍首相の対中外交改善の成果は再び謝罪と贖罪の汚辱にまみれる事になるのでしょう。
決して中韓だけが相手ではなく今やアメリカも其の戦列に加わりました。
日本の理解者と思われていたアーミテージ氏さえ、靖国神社遊就館の歴史観にクレームを付け岡崎氏を擁護しましたし、米国下院議院では従軍慰安婦問題を蒸し返して非難決議をしようしたことは記憶に新しいところです。
「つくる会」と「新しい歴史教科書」は私たちの意に反して政治や国際の意志に巻き込まれようとしています。しかし、歴史とは過去の真実であり、そこから織りなす民族の物語が歴史教育です。その時代時代の環境や意志に左右されることのない一個の価値観であるべきです。さもなければ子供達に何を信じろと言えるのでしょうか。親米も親中も自由ですが、歴史教科書に政治を持ち込むことだけは許してはならないのです。
我が国は幸か不幸か、國を売る自虐史観に満ちた反日の歴史教科書も、私たちの自尊史観の歴史教科書も共に出版できる自由があり、子供達に供されています。
どの教科書を選択するのも自由ですが、自尊史観の教科書だけがその存在を抹殺されるとすればそれは日本の悲劇であり、外国から見れば喜劇であります。
「新しい歴史教科書」が世に出たとき、日本は戦後60年の蒙昧から目覚めたのであり、日本そのものの覚醒であると国際は複雑な思いで受け止めました。
その意を呈して国内の反日勢力は半狂乱の反対運動を繰り広げたのです。
私たちが國内外にその様な大きな影響力を与えた事に、何故誇りを持てないのでしょうか。保守合同の美名に惑わされて孤高を守り得ないとすれば、今までの10年の努力は水泡に帰すことに、何故気がつかないのでしょうか。
宥和を重んじて「新しい歴史教科書」を胡散臭い者達に差し出し、反日勢力が喜ぶような教科書になったならば、子供達に何と説明するのでしょうか。
守るべきは「新しい歴史教科書」であり、不明の者達が巣くう組織ではありません。守るべきは60年の蒙昧を打ち砕いた勇気ある執筆者達であり、出版社ではありません。中国に阿り誇りある孤高を捨て企業の論理に走った産経グループとも、編集権と執筆者選定権が我に有りと主張する扶桑社とも、このまま付き合うことは危険です。
(※執筆者リストについては以下のURLをご参照下さい。東京支部掲示板です)
http://www.e-towncom.jp/iasga/sv/eBBS_Main?uid=5428&aid=2&s=1280
終わりに
こうして実名を上げ非難することで、嫌がられ、疎まれ、恨まれる事は承知の上ですが、守るべき事の少なくなったこのご時世にあって、一つぐらい何が何でも守るべしと言い募ることも保守の側に身を置くと自負する者の勤めかと思うのですが。「新しい歴史教科書」を守りきった暁に、反日勢力から恨まれるならば、それが名もない私たちの勲章だと思っています。