坂本多加雄選集のこと(三)

 私の書いた月報にあげた坂本さんの解説文とは、『異なる悲劇 日本とドイツ』の文春文庫版に寄せられた文章である。最近『日本はナチスと同罪か』(WAC出版)と改題再刊された一書である。坂本さんを偲んで、ここに同解説文を紹介する。

 解説――恐るべき真実を言葉にする運命
 

坂本多加雄

 ここ数年来、先の戦争における日本の「加害者責任」と「戦後補償」の問題が世上を賑わしている。最近のいわゆる「従軍」慰安婦をめぐる論議もその一環である。そして、そのことに関連して、日本の戦争への反省の仕方は、ドイツに比べて不十分である、それゆえ、日本もドイツに見習って正しい戦後処理を行うべきだといった論議が流布されてきた。

 本書は、こうした「ドイツに見習え論」とでも称しうる議論が、歴史への深い理解を欠いた安易な立論であることを指摘して、徹底的な批判を加えた論争の書である。ドイツを模範として引き合いに出す主張は、一部の大マスコミやドイツの事情に通じていると称する人々によって繰り広げられたため、直接、ドイツの実情に接する機会が少ない日本の多くの人々は、釈然としないものを感じながらも、それを受け入れざるをえないような状況に置かれてきた。そうしたなかで、ドイツの文学・哲学に精通し、さらにはドイツのみならず、ヨーロッパ大陸の各国事情に詳しい著者によって、このような内容を持つ書物が記されたことは、まことに画期的な意義を有していたと言うべきであろう。三年前に本書が出版されて以来、それまでのような単純な形の「ドイツに見習え論」は、少し下火になったという印象がある。

 もっとも、本書を読まれた方には既に明らかなように、本書の内容は、単に、ドイツに詳しい「情報通」によって記された、ドイツ戦後賠償の「裏事情」の暴露といったことに尽きるものではない。そこでは、日独両国の戦争の相違についての比較史的な検討、通常の戦争犯罪とナチスの犯罪との法理論上の区別、そもそも歴史探求と倫理的評価は如何に関わるべきかといった深遠な問題について、まことに広い視野から、様々に考察が展開されているのである。ちなみに、著者は、本書の前年に出された『全体主義の呪い』(新潮社)で、旧ソ連圏諸国におけるかつての共産党政府への責任追及の動きが、ナチスへの責任追及と共通する問題を孕んでいることを論じて、日本が十分感知しないままに過ごしつつある「第三次大戦」の世界情勢の新たな展開という見地から、今日の諸問題を見直すべきことを提唱したが、本書もまた、そうした広範な歴史的パースペクティヴを継承したところに成立しているのである。

 本書を読んだ後で、「ドイツに見習え論」を眺めると、それが、日本人の「国際感覚」の欠如をあげつらいながら、実際は、半世紀前の連合国側の戦争観に拘束されたまま、もっぱら日本の国家権力を批判しようという意図のみが先走り、ドイツの事情についても、そうした日本中心のまことに狭隘な視野に入る事柄だけを取り上げて、しかも、それを現在の日本人の感性から一方的に解釈しているに過ぎない点で、逆に、真の国際感覚の欠如を露呈してしまっていることが明白になるであろう。

つづく

「坂本多加雄選集のこと(三)」への5件のフィードバック

  1. 坂本先生の解説文を改めて読んでみて、すこし飛躍的かもしれませんけれど、「つくる会」の当初の精神を今、もう一度検討すべき段階なのかな、というようなことを感じました。西尾先生が様々な著書や実践活動で明らかにされたドイツとの戦争責任比較論が意味するものは、これも西尾先生がどこかでおっしゃっていたことだと思うのですけれど、「日本的単純さ」への警鐘、ということだと私は思います。
     二次大戦の同盟国だったというただそれだけのことで、何も根拠がない日本とドイツの様々な「類似論」へと論理が単純化されてしまう。西尾先生が正しく指摘されたように、日本・ドイツ類似論はほとんど完全な誤謬です。しかし、西尾先生の指摘がすばらしいのは、それを誤謬と指摘することにとどまらないことですね。そこにはドイツ人が自己の戦争責任論の異常性を隠蔽するための「作為」が、様々な形でつくりあげられている、ということを鮮やかに指摘していることですね。ドイツ・ロビイスト達の暗躍、ドイツでの日本バッシングの驚くほどの差別感情、そういう様々なものが集結して、「日本はドイツと類似している」という感情論が形成される。ところが日本側では、その感情的結論のみを鵜呑みにし、薄っぺらなロマン主義を言っているわけですね。これが西尾先生のおっしゃる、日本的単純さ、ということですね。
     「日本的単純さ」は決して左派だけに巣食っている、と考えるべきではないですね。たとえば、今、保守派の多くが対中国警戒論みたいなことを言っていますが、1970年代後半、中国政府が日米安保容認論や自衛隊増強論を言って、保守派の多くが中国万歳みたいなことを言っていたことを、私達はすでに忘れかかっています。中国は別に日本に好感をもって言ったのではなく、ソ連の自国(中国)への脅威に対抗するための術として、そういうことを主張していたに過ぎません。にもかかわらず、国内の保守派の大半が、中国の見解を「善意」ととらえる単純さに陥りました。「善意」も「友好」も、それを向こうが持ち出してきた時が一番危険である、ということは、国際社会の常識のイロハであるにもかかわらず、ですね。私達は普遍的感覚という意味でのコモンセンスに目覚めるべきであり、そのために、まずは日本人として、国民の歴史を正しく主張できることからスタートしよう、というのが「つくる会」の始まりの主張だったのだ、と思います。ドイツにせよ中国にせよ、自国の政治的利益のためなら、日本の歴史など改竄するのは、朝飯前なのですね。
     ところが、いつの間にかその精神は忘れさられようとしています。台湾を巡る見解の水準の低さなどそのいい例というべきでしょう。これについても西尾先生は、台湾の日本の「善意」についてはそのまま鵜呑みするべきでない、と一貫して正しく主張されています。しかし「つくる会」の私の知己の少なからずが、一時期の保守派の中国ブームを裏返したかのような、単純な親台湾論を絶えず口にしている。もし、中国や韓国がある日、急に「親日」になったら、果たして両国を信用していいのでしょうか。むしろその「親日」こそ、最も疑わなければならないのですね。悪い意味での「繰り返し」への沈みが、保守派全体に生じてきているといえると私は思うのですが、「つくる会」の精神は、そういう「繰り返し」を否定するものとしてあるべきだ、と思います。西尾先生や坂本先生の著作は、そうした「つくる会」の始まりの精神を、「つくる会」に属していないにもかかわらず、私にいろんな形で教えてくれます。 

  2. 結局、「西尾幹二はシナやアメリカの戦争責任は、どないオモとんねん?」という話ですが…。

    『日本はドイツと同罪か?』という本は読んでいないので、内容は知りませんが…
    タイトルだけ見ると、前提に「連合国に戦争責任はない」があり、本論は「(戦争責任で)一番悪いのがドイツ、次が日本」というプロパガンダになっています。

    少なくとも背表紙には、そういう効果があります。

    終戦直後の『真相は、かうだ!』ぢやあるまいし…(笑

    タイトルをつけたのは出版社だと思いますが、著者にも責任があります。

  3. 坂本先生が池袋の病院に入院されているとき見舞いに参じたとき、先生は痛み止めの処置をされて安静中であった。奥様から病臥の辛さ(肉体の痛み)は相当なものであったといいうお話をうかがったが、その1週間後、先生はこの世の修行を終られ、天国に召された。

    坂本先生は、西尾先生が紹介されているとおり、思想的にも極めて危険で微妙な立場から歴史を論じてこられた。坂本先生の「歴史来歴論」は決して安易な國体回帰論ではなく、その奥に「普遍性」を秘めていた。歴史は物語であり、民族の来歴と語る説き方は、今思い出しても、歴史感覚を俄然奮い立たせ、読者の理解を促進させてくれるものであった。それは面白いことに『国民の歴史』の精神と絶妙なハーモニーを醸し出していた。当時の会員は、純粋にその空気を感じ取り、戦後長いこと閉ざされてきた言語空間からの解放を実感した。つくる会の原点はそこにある。それがここ1~2年、つくる会の中からも、安っぽい俗論にも似た言葉が飛び交うようになった。いつの間にか「異質」が入り込んできたようでもある。

    本当の歴史(に限らず)は「特殊性」と「普遍性」を重層的に備えている。その重層性が「観えなく」なったとき、人は、今まで先生と尊敬されてきた知識人でも世迷言を発するようになる。本物と偽者の差が明確になる。つくる会内紛でもその姿が露呈した。坂本先生がご壮健であったなら、その後のつくる会は、西尾先生の思想ともさらに共鳴を深め、理事会も今とは比較にならない存在感を示したことであろうと想像する。

    渡辺さんのコメントは、つくる会会員の本来のあり方を教えてくれるようでホッとするが、「日本的単純さ」というご指摘は、昨今の社会風潮や、つくる会内部における唖然とする稚拙講釈発言を耳にするにつけても、占領政策の影響がここまできているのか、という実感をあらためて深くさせられる。日本人の「思想力」の衰えを実感する。その回復こそが日本国の最重要課題であり、教育再建の柱ではないかと愚考するが、文科省当局はそんなことを露ほどにも思っていないだろう。

    西尾先生にはまだまだ、「思想力」の回復に向けて粉骨砕身、存分に活躍していただきたい。もちろん、後に続く者も、独立の気概をもって先生以上に研鑽に励まないといけない。下克上を地で実践したお方たちは、図らずも大事な日本社会の再建基盤を破壊した。その昔、小泉信三博士は講演で「巨視的」と「微視的」のバランスをしきりに訴えた。前記の実践者とその支援者は「微視的」に走り過ぎ、着地点を見定めることなく、破壊の限りを尽くし、反省もないまま、随所で教育論を書いたりしゃべったりしていると聞く。やることすべてがマンガである。
    反省のないところ、早晩破綻がくるであろうことを賢者は見抜いている。世の中とはそういうものだ。因果晦まさずとは、歴史の知恵であり(と言うより)真理である。
    社会経験が乏しい者は、熟年者の知恵をこそいただくべきである。そういう常識を持った人でなければ「伝統」云々を語る資格はないと思う。

    話は変わるが、朝日は新聞読者および広告のガタ減りで、社内は不安でいっぱいらしい。大手株主の村山家には正統相続者が不在。一事あったとき、経営上の問題はどうなるのか。朝日の屋台骨がおかしくなるのではないかとも言われている。ハゲタカファンドも、てぐすねひいて待っているのではないか。そんな朝日に愛嬌を振りまくのもいかがなものか。週刊金曜日も黄昏時ではないか・・来年も話題には事欠かないようだ。

  4. 大家の空覚え。大家後なし。大家の偽者、未熟な本物・・・
    昔の人はうまいことを言う^^

    長谷川管理人様、今年一念?お疲れ様でした^^大変ご苦労様でした。
    西尾先生、皆様、善い年をお迎え下さい^^また来年ヨロシク。

  5. 新年明けましておめでとうございます。
    西尾先生の益々のご健康とご活躍を祈念致します。
    皆様良い年をお迎え下さい。

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