松本徹氏の『あなたは自由か』評

『あなたは自由か』を2018年(平成30年)に出してから、この本の主題の何たるかを読者がつかみかねていることに気がついた。もともとこの本には「自由をめぐる七つの考察」という副題をつける予定があった。自由の概念は七つに分れ、一貫して展開されていませんよ、と言いたかったからである。

「自由」は非歴史的な概念である。それなのに歴史を題材にしている。この矛盾も読者を戸惑わせたに違いない。「あとがき」をよく読んで下さいと申し上げるしかない。

そんな中で前三島由紀夫文学館長の松本徹先生が書いて下さった次の評文は私にはありがたい内容の一文であった。書評ではなく、私の全集の月報(第19巻、未刊)のために書いて下さったものだが、ポイントをつかんでおられ、広い読者のために役立てると思われるので、ご許可を得てここに掲示する。

尚、それに対する松本先生にあてた私の感謝の返事もご参考までに掲げておく。

明治150年ではなくて  松本徹

 三島由紀夫は自決する四年前の昭和41年(1966年)の晩春から夏にかけて、林房雄と対談(『対話・日本人論』41年10月刊としてまとめられた)したが、それまでと異なった態度を、林にみせた。これまで林の著書『大東亜戦争肯定論』と小説『文明開化』に対して絶賛、手紙を書き送っていたが、この席ではまったく触れないばかりか、林が再三、その件を持ち出しても無視した。三島の中の何かが変わったのだ。

 そうして対談の後半、大東亜戦争の敗因に話が及ぶと、鋭く対立するようになった。林は当時の日本が高度な科学技術の水準に達していたものの、それに応じた物量がなかったためだと主張すると、三島は、西洋文明の摂取でもって西洋に対抗しようとしたこと自体が「最終的な破綻の原因」だと厳しく言う。そして、物量だけの問題と捉えるなら、基本的に現状肯定の立場と変わらない。敗戦後、経済の高度成長を推進して来たのと同じ立場ではないかと、嫌悪感さえ示すのだ。

 そして、わが国の文学者が果たしてどこに自らの立脚点を認めているのか、と問いかけるのである。敗戦によって自分はこれまでの歴史伝統との断絶を覚えたが、決して完全に断絶したのではなく、子供の時に体験した二・二六事件を想起し、そこからさらに神風連へと及んだ、と述べる。これでは歴史伝統の捉え方が狭すぎるが、当時、『豊穣の海』第二巻『奔馬』の中の「神風連史話」の執筆にかかっていたという事情があったと思われる。

 こうした変化については拙著『三島由紀夫の時代―芸術家11人との交錯』(水声社刊)で記したが、この三島と林の対立は、かなり厄介な意味を持つと思われる。文明と文明が衝突する際に、どのような対処の仕方があるか、そこには文明なり国家の存亡が懸ってもいるのだ。そして、三島が自決するに至ったのには、この態度決定が係わっていて、林にしても後に、厳しい自責と哀悼の思いに苦しむことになった。

 この問題は、いま、一段と厳しさを増して、われわれの問題となっていよう。

 そのところを改めて考えるのには、西尾幹二さんの近著『あなたは自由か』(ちくま新書)が提示していることが大きな意味を持つ、と思う。

 西尾さんの愛読者にとっては珍しい指摘でないかもしれないが、その要点の一つを一言でいえば、歴史は百年や百五十年で区切ってではなく、少なくとも五百年の幅をもって考えるべきだとする主張である。最近では明治百五十年といったことが盛んに言われている。昭和では明治百年が言われ、平成の末には明治百五十年といったことが盛んに言われている。これでは林房雄の考えの枠の外には出られない。ヨーロッパ近代を全面的に受け入れ、その延長としてわれわれの現在と未来を考える段階に留まってしまう。

 いま求められているのは、ヨーロッパ近代なり、それに寄り添うことによって展開して来たわが国の在り様を根本に考え直すことであり、そのためには「明治から百五十年」の枠を大きく越え出なくてはならないのである。

 現にこの時代の枠組みを広げるだけでも、この世界の様相は大きく変わろう。例えば西尾さんのこの著書の第四章四節の題が、「欧米五百年史にみる〔人類〕」という概念の鎖国性」なのである。「人類」の概念は、世界性、普遍性を最もよく示しているはずなのだが、じつはヨーロッパとアメリカの内側のことであって、その外に対しては、一転、「鎖国性」を示す、と歴史的現実を冷厳に指摘する。

 西尾さん自身、若い時の著書『ヨーロッパの個人主義』では、ヨーロッパ近代の内側に入り込み、その理想をもっぱら見ていたから、現実が分らなかったが、一歩外へ出ると――ということは、日本人として本来の場所に立つと、「鎖国性」を露わにして、強力に迫って来ると分かる。明治以降、殊に大正、昭和と時代が進むにつれ、殊にイギリス、そしてアメリカが日本に対して示したのが、この恐るべき「鎖国性」であった。独善的、かつ、過酷に対応、日本を戦争へと追い込み、占領下に引き据えた、と捉える。

 大東亜戦争の開戦へ至る道筋、そして敗戦、当初の占領政策について、この視点から見なくてはならないことを教えてくれる。これは必ずしも過去になったわけではないのである。西尾さんの責任編集『地球日本史』、引き続いての著書『国民の歴史』によって打ち出された視点だが、以降の思索も踏まえられ、この著書はさらなる広がりと厚みを持つ。

 初めに触れた三島由紀夫と林房雄が持ち出した問題にしても、より広いところに持ち出し、さらに深めて考えるのを可能にするように思われる。殊に三島の場合、陽明学から水戸学へ、さらに神風連へと至っただけに、先への展望を開くのが難しい。そのところを打開するには、歴史をさらに遠くへと遡る必要があるだろう。三島自身にしても、最晩年、古事記、万葉集まで遡って『日本文学小史』を書いていたのである。

  

松本先生への令状 

前略

 御原稿拝受しました。

 予想した通り、深く納得のいく内容でした。
近代西洋の摂取の十分・不十分のレベルの問題にわが国の運命を置いて見ていた林、三島の時代認識ではたしかにもう間に合わず、近代西洋自体が自らの文明の行方をしかと見ていなかった、自らの行方がどこに行くのかわかっていなかったことも含めて今はページを白紙に戻し、500年史観を必要とするであろうという私の主張をおおむね理解して下さったように受けとめられ、うれしく存じました。

 とりわけ西欧文明の「人類」という概念の鎖国性の一語に気がついて下さったこと、これを強調して下さった唯一の例でございました。この点にも御礼申し上げます。

 あっちこっちへ概念が散れるような書き方をした一書でしたので、真意を分って下さる人も少なく、貴稿に救われる思いがいたしました。ありがとうございます。

 早速全集第19巻月報のトップ欄に掲載させていただきます。

 尚、貴稿を出す前に私のブログ「西尾幹二のインターネット日録」にのせさせて下さい。あの本はこういう風に読むのだという見本になると思うからです。

松本徹様                    2019年1月20日  西尾幹二

もうひとつのポピュリズム

 大学教養部時代の友人のY君(西洋史学科へ進んでテレビ会社に勤務した旧友)から6月9日に学士会夕食会の講演会でEUに関する講演を聞いたといい、そのときのペーパーと講師の論文を送ってきた。講師は北大の遠藤乾さんという国際政治学者で、最近中公新書で『欧州複合危機』という本を出しているらしい。私はその本を読んでいないが、Y君には次のような感想を送った。一枚の葉書の表裏にびっしり書くとこれくらいは入るのである。

 拝復 欧州新観察のペーパー及論考一篇ありがとうございます。フランスの選挙結果は、私には遠藤氏と違って、健全のしるしではなく、フランスのドイツへの屈服、ドイツと中国(暗黒大陸)との野心に満ちた握手、反米反日の強化、等々でフランスには幸運をもたらさないように思えてなりません。

 フランスは衰弱が加速している国です。それなのに自由、平等、博愛のフランス革命の理念に夢を追いつづける以外に「ナショナルアイデンティ」を見ることのできない今のフランス国民は、ルペン支持派とは別の、もう一つのポピュリズムに陥っているのではないでしょうか。マクロンもまたポピュリズムの産物だと私は言いたいのですが、いかがでしょうか。

 フランスは三つに分裂している国です。(A)ドイツに支配されてもいい上流特権階層(B)反独・国境死守のルペン派(C)共産党系労働者階層の三つで、この三分裂は欧州各国共通です。一番現実的なのは(B)で、(A)(C)はフランス革命前からずっとつづく流れです。

 (A)が勝ったので、イスラム系移民が増大し、フランス経済は悪化し、マクロンは早晩窮地に立たされるのではないでしょうか。

                           以上 勝手ご免

endou

2015年の新年を迎えて(三)

 正月十日に高校時代の級友早川義郎君から次の書簡が届いた。彼は元東京高裁判事、退官後は数多くの海外旅行を経験し、著書数冊を出した。著書は美術と地誌学的関心からなる本が主で、例えば韓国や日比谷公園に関するものなどが近著である。

 私の全集の最初の巻、すなわち第5巻『光と断崖―最晩年のニーチェ』のときに「月報」を書いてくれた人だ。全集月報の第一号だったので覚えている方もいようか。

拝啓
 正月早々執筆等に忙殺されていることでしょうね。小生風邪をひき、4日ほど寝込んでしまいました。治りかけてから早速貴兄のGHQ焚書図書開封10「地球侵略の主役イギリス」を拝読しましたが、大変面白く、なるほどなるほどと頷きながら、一気に読み終えました(ちゃんと読んだ証拠に206ページ4行目「礼状→令状」と348ページ2行目「野郎自大→夜郎自大」の2か所の誤値発見)。

 アムリトサル事件のことはあまりよく知りませんでしたが、まさに暴虐の一語に尽きます。アイルランドでも同じようなことをしていますから、ましてやインドではということになるのでしょうか。このほか知らなかったことも多く、啓蒙されること大でした。

 我々のイギリスに対する見方は、日露戦争の際日英同盟が日本の勝利に役立ったということで、多少点が甘くなっているのかもしれませんし、物心ついてから我々が知るイギリスというものが、2度の大戦を経て衰亡の道をたどる20世紀後半の姿であったということで、搾取と暴戻をきわめたイギリスの植民地支配を過去のものとして見逃しているところがあるようにも思われます。これなどまさに貴兄のいうわれわれの「内なる西洋」のなせる業かもしれません。

 アメリカとイギリスとの歴史的関係に関する貴兄の指摘にも教えられるものがありました。アングロ・サクソン同士の一枚岩の同盟関係といっても、それはごく最近のこと、アメリカの軍事的、経済的覇権が確立してからのことで、それまではしばしば対立と牽制の関係にあったことがよく分ります。第二次大戦以後の米ソの緊張関係や一昔前の英仏のヨーロッパでの覇権争いに目を奪われているせいかもしれません。

 それにしても、幕末・維新の元老たちはえらかったですね。佐幕も勤皇も英仏との深みにはまらず、絶えず日本の将来を考え、アヘン戦争を他山の石として対処していたあたりはさすがだと思いますが、武士の躾にはやはりそれだけのものがあったのでしょうか。開封11が楽しみです(今度は自費購入しますので、お気遣いなく)。

 甚だ粗雑な感想で申し訳ありませんが、一筆御礼まで。
                                     敬具
西尾幹二様                     早川義郎

 尚、同書は『正論』3月号で、竹内洋二氏が書評して下さることになっている。また、宮崎正弘氏が早くも年末に氏のメルマガに書いてくれている。併せて御礼申し上げる。

福井雄三氏からの全集第9巻『文学評論』感想

ゲストエッセイ
福井雄三 歴史学者・東京国際大学教授

西尾幹二先生

 ご無沙汰いたしております。西尾幹二全集第9巻『文学評論』、第14巻『人生論集』、夏休みに時間をかけてじっくり熟読いたしました。
 
 先生の芥川龍之介に対する評価については、私もまったく同感です。私はなぜ芥川があそこまで巨匠ともてはやされ天才扱いされるのか、さっぱり理解できな
いのです。芥川はその古今東西に及ぶ希有の教養を土台にした創作活動を行いました。その批判精神に満ちた鋭い知性は、評論やエッセイ、あるいは短編小説の分野で多少見るべきものを生んだが、所詮は単なる教養人、物知りの域を出ることはなく、彼独自の思想・世界観を形成するまでにはいたっていません。私は芥川の作品に対して、清朝時代の訓詁学者のような枝葉末節の緻密さは認めるが、いわゆる芸術作品としての感動というものを感じません。世間で評価されているほどには、彼の作品に対して知性のきらめき、知的興奮というものを、さほど感じないのです。

 芥川は自尊心がきわめて強く、知的虚栄心も強く、マスコミの自分に対する評価を異常なまでに気にしていました。彼が自分の死後の名声にまで汲々としていたことは、遺稿集の中からも明白に見てとれます。先生の指摘されるごとく、彼は自殺したから死後も名前が残ったのです。彼のライバルだった菊池寛は、後年の大衆小説とその私生活のゆえに、ややもすれば通俗作家扱いされますが、そんなことはない。若き日の彼の作品は実に鋭い切れ味と冴えを示しております。私は芥川より菊池寛のほうが、はるかに作家としての天賦の資質を持っているように思います。

 先生は菊池寛の初期の戯曲『義民甚兵衛』をご存じですか。私は中学一年のときこれを読んで異常な衝撃に襲われました。人間のどろどろしたエゴイズムと醜
い姿を、ここまで赤裸々にえぐり出した菊池の才筆に圧倒されたのです。当時東大生で卓抜した秀才だった私の兄が「なに、これは村人たちのエゴイズムさ。最も醜悪なのは村人たちさ」と一刀両断してのけた口調が、いまも鮮明な記憶として残っています。私はこの戯曲にあまりにも衝撃を受けたので、高校の文化祭のクラスの出し物で、この演劇をやろうと提案したのですが通りませんでした。

 彼らの師匠であった夏目漱石についても私は疑問を抱いております。そもそも漱石の文学自体が、非常に通俗で低俗な要素に満ちているというのは、以前から
指摘されていたことです。ドストエフスキーの作品が実は意外にも駄作だらけであるのと同様に、漱石の通俗性についても、かつて昭和初期の新進気鋭の論客た
ちが喝破したことがあります。漱石が朝日新聞の連載小説の人気専属作家であり、締め切りに追われながら原稿を書きまくったこともあいまって、彼の作風が著し
く大衆的であり、一歩間違えば三文小説に転落しかねない、ぎりぎりのきわどい要素をはらんでいることは確かに事実です。この点、彼のライバルであった森鴎外の作風とは、明らかに一線を画す必要がありましょう。

 『こころ』の文学作品としてのできばえについても評価が分かれるところであり、これを駄作とみなす声もあります。Kと先生の二人の自殺が大きなテーマとなっていますが、はっきりいってこの二人が自殺せねばならぬ必然性は、作品の構成上どこにも見当たらない。最後の土壇場で乃木大将の殉死が登場し、先生が号外を片手にして「殉死だ、殉死だ」と叫びながら「明治の精神が天皇に始まり天皇に終わった」などと何やら意味深な言葉をつぶやいて死んでいく。このあたりなどは読者から見れば、はっきり言って三文小説にすらなっていない、ずさんな結末です。

 西尾幹二全集、早いものでもう半ば近くまで刊行されましたね。いつも先生の著書を読みながら、先生の生きてこられた人生を、私自身が追体験しつつ生きているような気持ちになります。私より18歳年長の西尾先生の生き様をたどりながら、私自身の18年後を思い描けるという意味で、これは私の人生の貴重な指針でもあります。それではお元気で、失礼します。

                                    
 平成26年10月7日 福井雄三

武田修志氏の『文学評論』ご論評

 前回、全集編集でいかに苦労しているかを報告したが、いつものように武田修志さん(鳥取大教授)から次のようなご論評をいたゞくと、大変に安堵し、苦労も消し飛ぶ。最初の方に私を評し「忍耐強い」という言葉が出てくるだろう。これは誰も言ってくれなかったが、誰かがきっとそう言ってくれるだろう、と久しく期待しているうれしい言葉でもあったのだ。

前略。
『全集第九巻 文学評論』を拝読いたしましたので、いつものように、短い感想を書かせていただきます。

今回の文学評論、文芸時評の八百ページは、月刊文芸誌を読まないできた私には、ほぼすべてが初読の御文章でした。それで、これら初見の時評、論文を読んで、新たに見えてきた西尾先生の姿が何かあったかと言えば、正直に言って、格別こうと言えるものに気づくことはできませんでしたが、しかし、これまでになかったある陰影が先生の姿に加わりました。それは、時評家としての先生が、大変に穏やかで忍耐強く、無私に徹しておられるお姿です。実に丁寧に「現実」と付き合っておられますね。つまり、月々に発表されるあまたの作品を丹念に読んで、しかし、自分を主張することをできるだけ控えて、この上なく丁寧に、一作一作に対応しておられるように読めました。単に丁寧な対応というだけではなく、時代の抱えている根本的な問題に対する洞察を持っておられので、個々の作品、個々の作家に対しても、作家自身の無意識の問題を的確に指摘することがおできになったのだと思います。ひと言で言えば、先生はある時期、日本の文学界が持った最良の時評家であったのだということを、今回この全集第九巻で初めて知ったような次第です。

印象に残っている言葉、論考について、以下に少し書いてみたいと思います。
649ページ、磯田光一氏の『戦後史の空間』を高く評価する論評の終わりに、こういう言葉が読まれます、「・・一つの疑問は、氏のすべての作業が相対化のための操作、つまり歴史に対する傍観の立場にのみとどまり、未来形成のための氏自身の行動の質がこれではまったく不明だということである。」ー「未来形成のため」という言葉が、私にはたいへん印象に残りました。こういう批判を先生がなさるということは、言うまでもなく、新しい見方を教えてくれる歴史分析も、その究極の役割は、我々の未来を開く、我々の魂を救うところにあるはずだという考えを先生がお持ちだということです。そういう考えは一つの常識かと思えますが、しかし、こういう批判が出てくるためには、批判者がまず、我々の未来にたいして責任を感じているということがなければなりません。短い時評文でも、先生のもの言いには、先生の誠実、責任感がにじみ出ていて、批評された作家にも、心に響くものがあったろうと、私はこういう小さな箇所で感じ取りました。

第一部「初期批評」中の論文「観念の見取図」は、当時、『鴎外 闘う家長』の読者をあっと言わせたことでしょうね。胸のすくような見事な論考だと思います。丸谷才一氏にはそもそも関心を持ったことがないのですが、山崎正和氏の『鴎外 闘う家長』は、実は私も大学生の時に読んでたいへん感心した一人です。大学にはいる直前に江藤淳氏の『夏目漱石』に出会い、文学には評論というジャンルもあることを初めて知り、今度は大学の三年生か四年生頃、『鴎外 闘う家長』を読んで、これにも魅了されて、ちょうど配本され始めた岩波の?外全集を予約するきっかけになったように記憶しています。当時、先生のこの評論をもし読んでいれば、今度は先生に百パーセント説得されて、自分の読みの表面的であることに、さぞかしがっかりしたことでしょう。自分の観念の見取図を最初に作っておき、それに合致する具体的事実のみを拾っていくーこういうやり方は、たしかに、当時の私のように、まだろくろく鴎外を読んでおらず、自分の鴎外像の描けていない多くの読者には、きわめて理解しやすく、評判を得ることになったのでしょう。

また、山崎氏の鴎外像が理解しやすかったというのは、これも先生が御指摘の通り、この「闘う孤独な家長」という鴎外像が当時の「通年によりかかっていた」せいですね。私なども、読んで、この鴎外は「かっこいいなあ」というふうに思ったことを思い出します。 そのほか、この評論の中には、次のような批評家心得第一条と言った言葉も読むことができ、私のような者にとっては、今読んでも教えられるところの多い魅力的な論文です。「批評は、たしかに対象を創り出す作業だが、しかし、批評家の自己表現の道具として、恣意的な虚構をつくり上げればそれでいいというものではない。批評は、いってみれば、いったん自分を捨てて、どこまでも対象に拘束されてみようとする意欲によって成り立つ行為ではないだろうか。単なる認識でもなければ、単なる想像でもない。客観的にとらえることでもなければ、主観的に解釈することでもない。過去にしばられ、過去の中に感情移入し、過去の声をよみがえらせ、それによってはじめて自分を表現できるのではなかろうか。」

第Ⅵ部の作家論で、今回私にとって最も心に残ったのは「石原慎太郎」論です。これを読んで初めて、石原慎太郎を一度読んでみようかという気持ちになりました。これまで、産経新聞で何度か氏の文章に接したことはありますが、読むたびに「この人は日本語の初歩文法がわかっていないのではなかろうか」という疑念にとらえられて、全く読む気がしなかったのです。 この論文は非常によい石原文学の案内になっているのではないかと思います。「太陽の季節」すらまともに読んでいない私も、石原文学を理解するには、先生の引き合いに出しておられる初期作品が大事であろうということが分かるように書かれています。

それから、これは文学論ではありませんが、445ページにおいて、石原氏が非常に広い視野の持ち主であることに触れて、ホーキング博士の講演を、氏が聴きに行ったときのことが述べられています。その際のホーキング博士の「どんな星でも地球のように文明が進みすぎると、その星は極めて不安定になり、加速度的に自滅してしまうのです」という答に、「石原氏は・・・衝撃を受けた」と書いてあります。この場面は、石原という人は信頼するに足る人だという感じがよく出ていて、印象に残りました。(ホーキング博士の「答」は初めて聞きましたが、これは本当に「衝撃的」です。)

第Ⅱ部「日本文学管見」の諸論文はすべて二度あるいは三度読んで勉強させていただきました。「人生批評としての戯作」は特に興味深い論文でした。この論の中に「『通』はひょっとしたら無自覚ながら絶対者なき風土における絶対者の役割をはたしていたのかもしれない。」という一文があり、心に残りました。近代日本においては、これが「教養」ということになったのかもしれないと考えました。「本当に人が完全な『通』になることは可能なことなのだろうか。・・・むしろ自分は『半可通』であることをたえず意識していることが、わずかに『野暮』に落ちずにすむ最後の一線なのではないだろうか。」近代においても、いよいよ絶対者はいなくなり、わずかに教養あることが最後の価値であるかもしれないけれども、教養ある人というのは、せいぜい自分が教養がないということを自覚している人にすぎない・・・というわけです。 そのほかにも、この論文は考えさせるところの多いものでした。

全体800ページの中で、第Ⅶ部「掌編」の中の「トナカイの置物ー加賀乙彦とソ連の旅」は、ほかの文章と比べて、相当に毛色が変わっていて、とても愉快に読むことができました。ほかの文章からは思い描けない先生のお姿も、ここで看取できたように思います。 第Ⅲ部「現代文明と文学」では、「オウム真理教と現代文明」を何度も読み返しました。力作評論ですが、先生も、オウム事件をどう読み解いたらいいか、この論文執筆の時点では、あれこれ考えあぐねておられるようにも感じ取られました。私は、ハイデッガーの「退屈論」を知りませんでしたので、この紹介が最も参考になりました。

こんなふうに一つ一つ取り上げていっても切りがありません。柏原兵三氏の作品はいわゆるベルリンものを読んだことがありますが、機会があったら氏の著作集を読んでみたいと思います。先生と「親友」であった作家、それだけでも興味が持てます。
綱淵謙錠氏の『斬』は、今読みかけているところです。夜、蒲団にはいって読みかけましたが、途中で、「これは悪い夢を見る」と、いささか気味が悪くなって、しばらく放ってあります。先生の解説は、要領を得ているだけではなく、著者にも教えるところがあったのではないでしょうか。
そのほか、先生の書評を読んで読みたくなった本や作家は相当多数ありました。

いつものごとく尻切れトンボですが、今日はこれにて失礼いたします。
御健康に留意なさいまして、ますます御活躍下さいませ。

上記の中で「人生批評としての劇作」について、「通」に日本近世社会における「絶対者」の役割を見ているという私の指摘に関心を寄せて下さってありがとう、と申し上げたい。西洋の近世文学と江戸文化の比較がもっとなされるべきと思う。

それなら武田さん、拙論中の「明治初期の日本語と現代における『言文不一致』をどうお考えになっただろうか。「後記」の第3節に三論文共通のテーマとして取り上げ、帯の文としても出しておいたあの言葉と音、文字と声のテーマについてである。お考えがあればおきかせ下さい。

ともあれ拙著の内容をよく読みこんでいる、レベルの高いご論考をいただいたと認識しました。

九巻帯表

日本の現代小説が朗読になじまないこと、評論や学術論文はさらに耳で聴いて分かるようには書かれていないことに大きな問題が感じられる。言葉は半ばは音であり、声である。文学作品が与える感動は作品と作家を背後から支える何かある「声」に由来する。作家は何かに動かされて語っているのであって、その何かを自分ひとりの力で「描く」ことはできない。(「後記」より)

九巻帯裏

西尾さんと「新潮」   元「新潮」編集長 坂本忠雄氏
この決定版全集の「内容見本」で、西尾さんは「同じことを二度書かないのが私の秘かなプライド」と述べているが、実に多岐にわたる全寄稿文でもそれが実行されているのは自分の思索を行為と同次元においているためだろう。人間の行為は厳密にいえば繰り返しはないのだから。・・・・「新潮」は戦前は文壇雑誌そのものだったが、戦後の再出発に当って昭和21年の坂口安吾「堕落論」を皮切りに、文学を詩・小説・文芸評論の枠から広げ、文学の文章によってその時代の文化の精髄を読者に伝える役割も果たしてきた。西尾さんが敬愛する小林秀雄、福田恆存、田中美知太郎、竹山道雄等の後を引継ぎ、この新しい領域を次々に切り拓いたことを、私は同世代の編集者として心から感謝している。
(「月報」より) 

教育文明論の感想(三)

ゲストエッセイ
武田修志 鳥取大学教授 ドイツ文学

 平成二十五年も余すところ数日となりました。
 お変りなくお元気で御活躍のことと拝察申し上げます。
 こちら鳥取は今日は朝から猛然たる雪降りで、瞬く間に四、五センチの積雪になっています。

『西尾幹二全集第八巻』を読了いたしましたので、ひとこと感想を申し述べます。

 この大冊は、先生ご自身が後記でお書きのように、一つの精神のドラマですね。一九八十年代の十年余りの月日を、日本の教育改革のために、情熱の限りを尽くして孤軍奮闘した精神人の記録です。この全集第八巻に収められた御論考はかつてほとんど拝読したことのあるものですが、今回全編をまとめて読み直し、当時の先生の気迫に圧倒されるような思いが致しました。

この長編物語の中で、今回一番心に刻まれた場面は、先生がその大部分をお書きになった「中間報告」の原稿を、文部官僚たちが膝詰めで先生に書き直しを迫ったあの場面です。先生ご本人のみならず、読者まで胸の痛みを感じるシーンです。審議会委員が削除をもとめているわけでもない文案に手を入れたり、削除したりする、これはまさに思想の検閲ですが、更に、深夜先生一人を、座長以下係官十名余りが取り囲んで、先生の文章の上に直接抹消の線を引いたコピーを渡して、一語一語、一文一文書き直しを迫るーいったいこれは何だと、今回改めて憤りが噴出してきましたが、ここで冷静に考えてみますと、この時こそが、先生が十年の間、情熱を傾けて戦われた「敵」との決戦の時であり、主戦場だったのだと思います。先生は屈辱によく耐えられて、先生にできる限りの勝利を勝ち取られたのです。もし先生があの場面で席を蹴って、退席してしまわれたら、先生ご自身がお書きのように、「中間報告そのものがさらに全面的に骨抜きに」なっていたことでしょうから。「中間報告」が文体をもった、肉声の聞こえる文書として公にされたというだけでも、当時あの冊子を読んだ人には、ある感銘を今に残して無意識のうちに影響を与えていることでしょう。

先生はこの孤軍奮闘のドラマの最後に、こう書いておられます、「私は『価値』を問題にしていたのだ。『価値転換』を問題にしていたのだ。ところが、諸氏はすでに存在する一定の価値の範囲における制度の修正、ないし手直しを考えていたにすぎない」と。これは、このドラマの締め括りの言葉として、誠に的確なものだと思います。全編を読んで、まさにこの通りだと思いました。

 文部省の有能な係官たちがどうして、審議委員が問題にしなかった先生の文案を、なんとしても改竄しなければならないと考えたのか。彼らの歴史理解、人間理解が、日教組風な歴史理解や人間理解に染まっていて、先生の理解に密かに違和を感じ、敵意を燃やしていたということもあるでしょうが、根本的には彼らは、個の価値を尊重し、創造性を最も大事にする先生のような生き方をこそ、否定したかったのではないでしょうか。それというのも、彼らは先生に対して、文案の語句を直すという形で迫ったきたわけですが、本当のところは、(彼らが意識していたか、していなかったかは分かりませんが)先生の文章の文体をこそ改変したかったのではないかと思います。文体というものは、筆者の人間そのもの、筆者の生き方そのものだからです。

思えば、先生とお付合い頂くようになりましたきっかけが、『日本の教育 ドイツの教育』を、この書が出版されましてからすぐに、読んだことでした。先生のお若い日の御論考「小林秀雄」を「新潮」紙上で拝読しましたのは、私が大学一年生か、二年生の時でしたが、『日本の教育 ドイツの教育』に出会ったときは、私もすでにドイツ語教師になっていて、三十代の初めでした。この新潮選書を読んで、ドイツ文学者にもこういう本の書ける人がいるのだと、強い憧れのような気持ちを抱いたことをよく覚えています。ドイツ文学者が扱うテーマとして非常に斬新であり、また文章が学者風の重たくおもしろみのないものではなく、はぎれよく、味わいがあるー「この人は自分の手本だな」と思ったものです。その後、ある医学部の二年生のクラスで(当時はまだ医学部の学生は第二外国語を八単位学んでいました)、先生のドイツでの御講演をテキストにしたものを取り上げ、一方、日本滞在の長いあるドイツ人の日本論をドイツ語で読み、これを先生のテキストと比較して、感想を書くよう課題を出し、私自身も多少長い感想を書きました。そして、学生と私の「レポート」を先生へお送りしましたら、先生にたいへん喜んでいただきました。その後先生からはたびたび御著書を送っていただくようになり、私は先生の熱心な読者になったのでした。今回も全集第八巻を通読しますと、例えば「教育はそれ自体を自己目的とする無償の情熱である」という意味の言葉が繰り返し述べられています。更に先生はまた、94ページでこうもおっしゃっています、「私が教育について真っ先に言いたいのは、教育家が学校教育についてつねに謙虚になり、限界を知って欲しいということである。教育はつまるところ自己教育である。学校はそのための手援けをする以上のことはなし得ないし、またすべきでもない。教育はなるほど知識や技術を超えた何かを伝えることに成功しなければ教育の名に値しないが、しかしまさにそれだからこそ、われわれが聖人君子でない以上、学校教育は知識や技術を教えることに厳しく自己限定すべきだと私は言いたいのである。」これらの言葉は、先生の教育についての基本理念と言っていいものだと思いますが、これはまた、こういうふうに先生から教えを受けて、、私が教師生活の中で、いつも忘れずに肝に銘じていた考えです。私は教師になって今年で三十九年になりますが、私の教師人生は、こういう先生のお考えをどういうふうに教室で具体化するか、そのことに終始したように、今、感じられます。教師としてのありよう、教育についての考え方等、先生の御著書をいつも参考にして考え、実戦してきたように思い、今回改めて先生への感謝を新たにしているところです。

 今回の全集第八巻が単に「教育論」と題されずに、「教育文明論」と銘打たれているところに、先生の思いがひとつ表れているかと思います。私の勝手な理解では、この書を単に一九八〇年代の教育改善のための具体的提案や議論の記録として受け取らずに、近代の新しい段階へ踏み出して行かねばならない我々日本人の生き方を問うた書と受け取ってほしいという意味ではないかと思います。この新しい近代では、重要な近代概念の二つである自由と平等がどのようにパラドキシカルに理解されることになるか、その理解を誤まれば、教育も社会もある袋小路へ迷い込んでしまうであろう、と。そういう意味で、この書における先生の御奮闘の姿は、少し距離を置いて見れば、(先生も自覚なさっているように)時代の先を一人行くドン・キホーテの姿と見えるかもしれません。そして、このドン・キホーテの理想は、三十年前には半ばしか理解されませんでしたが、おそらく次の世代において、日本の教育と日本人の生き方が問い直されるとき、よみがえってくるのではないでしょうか。それ故、今回、先生の教育論の全論考がこういう全集の一冊という形でまとめられたのは、のちのちのために非常によかったと思います。

 いつものようにまとまりのない感想になってしまいました。
 今日はこれにて失礼いたします。
 よいお正月をお迎えになってください。

平成二十五年十二月二十八日

全集7巻について、西尾先生への手紙

武田修志さんから西尾先生への手紙

 

九月にはいり、さすがの猛暑もいささか勢いの弱まった感じですが、西尾先生におかれましては、その後いかがお過しでしょうか。
 
 先日は出版社から御著書『日米百年戦争』が送られてまいりました。御手配、有難うございました。この書については、次の機会に感想を述べさせていただきます。

 今日は『西尾幹二全集第7巻 ソ連知識人との対話、ドイツ再発見の旅』を読了しましたので、この大著について、ひとこと読後感を申し述べます。
 第一部『ソ連知識人との対話』は、先生がご旅行をなさっているうしろから、とぼとぼとついていくような感じで、繰り返し二度ほど読ませていただきました。先生の好奇心の旺盛さが一番印象に残りました。「この大知識人は、純真な子供のように好奇心にあふれているナ」と、足早の先生を追っかけながら、何かたいへん愉快なものを感じました。通訳官のエレナ・レジナ女史も、次から次に質問を繰り出す先生を、なんと素直な、率直な人柄だろうと、ひそかに、たいへん好感をいだかれたのではないでしょうか。先生の飽くなき知識欲はやっぱりちょっと群を抜いていますね。批評家魂といった言葉が思い浮かびました。

 この書から教えられたこと、考えさせられたことはあまたありますが、思いつくままにいくつか挙げてみますと、まず、ソ連邦の人々の不親切、傍若無人な振舞い、官僚風な対応というのが、やはり印象に残っています。第十二章で語られている、哲学者川原栄峰氏の切符切り替えを助けようとした、日本へのあこがれを持ったあのイントゥーリストの係官の振るまいは、先生が御指摘のように「非常に象徴的」です。「ある面での善良さが、別の面での優しさや思い遣りや心づかいに決して繋らない。いかにもロシア人らしい、デリカシーを欠いた愚直な善人振りである。」この係官の振る舞い方は、我々日本人には全くの驚きであり、「不思議」でもありますが、まわりの人々の反応から見て、その傍若無人な振舞いは、ロシアでは、ごく一般的に認められている・・・。ある社会が、ある「文化」が、人の意識、人の振舞いをどういうふうに形成していくものか、深く考えさせられる場面です。そして、この点で、先生が、その原因を単に「ソヴィエト型社会主義の性格」に求められているのではなく、「ロシア的東方的な非合理な人間関係に起因するのではないか」と考えられておられるところは、私の大いに同感したところです。

 同じようなことですが、作家同盟の作家や評論家諸氏が、「ほとんどまる一日乗車し、同行した場合でも、彼らは運転手にまったく目もくれない」ーこの場面もたいへん印象に残っています。どうしてそういうふうになるのか、この点についての解釈はこの書の先生の論述にゆだねるとして、このあたりを読みながら、我々日本人の人間関係やそこで働かせている意識、感性というものは、たいへん独特のものがあるのだということを改めて考えました。(皇后陛下などが、被災者をお見舞になるときに、自らも腰を低くして言葉をおかけになるーああいう場面をロシア人などが見ると、どういう感想を持つのだろうかと思ったりもしました。)

 第五章「コーカサスの麓にて」では、エドゥガールという三十歳の「優男」の姿がよく描かれていて、印象に残りました。彼がどういう人柄の人であり、どういう考えの持ち主であるかが、巧まざる描写で少しずつ分かってくるのですが、最後に次のように締めくくられていて、これはうまいと思いましたし、またたいへん説得されました。
 「それでも私には、エドゥガールさんが公爵の末裔だと知ったときに、いくつかの謎が解けるような思いがした。なぜ彼だけが私たちの感情の動きを微妙に察した、礼儀正しい会話の仕方で私たちを心服させたのか、合点がいく思いがした。」「都雅、としか言いようのないもの」がエドゥガール氏を包んでいたのは、たしかに、彼が貴族の出であったことと深く関係していたと私も同じように考えました。ーこの本のおもしろさの一つは、先生自身どこかに書き付けておられるように、先生がお会いになった人々の「姿」がうまく描かれていることではないかと思います。 

もう一つ妙に印象に残っていることがあります。何章に書いてあったのかちょっと忘れてしまいましたが、我々日本人は、たとえば鳥取という自分の位置を、海に囲まれた日本全図を思い描いて人に示すのを当然のこととしているが、ロシア人はまずボルガ河ならボルガ河という大河を一本描いて、その西とか東、こちら側とか向こう側といったふうに説明する、ソ連全土というようなイメージはないのだーあの話です。これは、私は今まで人から聞いたこともなく、本で読んだこともなかったので、文字通り目から鱗が一つ落ちました。

 さて、「ソ連知識人との対話」は一九七七年のひと月余りの先生のソ連邦旅行体験を基にして、その後二年余りのうちに書き上げられた著述であり、いうまでもなく、この時期、まだソ連邦の崩壊は、内村剛介氏のような特別な人を例外として、ほとんど誰も取りざたしていませんでした。先生も、この御旅行の時点では、ソ連邦の崩壊というようなことは、まったくお考えになっていなかったと推察できます。しかし、ソ連が崩壊して今や二十年以上が過ぎました。今回私は特に「崩壊後の今から読めば、この本から何が読み取れるか」という観点を持って読んだわけでは全くありませんが、やはり、ソ連崩壊前の時代から崩壊後まで貫く問題は何かと、無意識にも注意を向けていたようにも思います。以下のような言葉が印象に残ったのは、そのためかもしれません。 

 「人間は制作し、工作する動物である。と同時に人間はなにごとかを未来に賭けて生きている存在である。社会主義社会は人間が自分の個性を試して生きようとするこの可能性を廃絶したのではないか。老舗や秘伝による伝統的職人芸ももう生かされないだけでなく、未来へ賭ける実験者としての生の形式もここでは認められない。社会主義は人間の心を尊重するというのはいったい本当だろうか。」(第九章)

 「個体が未来へ向けて自分を賭けて行く実験精神を殺すような世界では、学問や芸術や教育は本来の機能を発揮することは出来ないだろう。」(第九章)

これらの言葉は、社会主義社会が人間の共同体として致命的な欠陥を内部に抱えていたことの、的確な指摘となっています。
 しかし、先生の言説が今も魅力的なのは、ソ連社会の問題点を剔抉していきながら、常に我々の社会の問題点を糾問していくところでしょう。

 「しかし、他方、『全体』との深い関わりがなければ、『個』も生きてこないのである。」(九章)

 「自由とは善い自由と悪い自由を選択し区別する基準が、自分の内部以外にどこもないということに外ならない。自由とはそれゆえ危険なものなのである。」(第九章)

 「われわれのこの生にいったい究極目的は存在するのか?国家や社会の課題がわれわれの生に本来の目的や意味を与えてくれるのか?部分である我々は全体のどこに位置しているのか?個体をつつむ文化や伝統の有機的統一は今日では喪われ、世界を全体像としてとらえるパースペクティブは不可能になっているのではないか?}(第十章)

 「近代的自我は確立した瞬間からじつは解体と不安にさらされていたのだと言い換えてもよい。」(第十章)

 「二十世紀の人間が中心を喪失し、無内容になっている点においては、どちらの社会体制もほぼ同じではないかと私は考えているのである」(第十章)

 先生の読者としてはなじみの主題ですが、こういう我々の社会の抱える中心問題がソ連探訪記においても攻究されているところが、またこの本の魅力であると私には思われました。

 「ドイツ再発見の旅」の部もたいへんおもしろく拝読いたしました。しかし、ちょっとここまでの感想もだらだらとまとまりが無くなってしまいましたので、又の機会にしたいと思います。いつも尻切れトンボで誠に申し訳ありません。

 お元気で御活躍下さい。

     
    平成二十五年九月二日

                 武田修志

福井雄三さんの私信「ラスコールニコフとデミアン」

 友人の福井雄三さん(東京国際大学教授)が次のような読後感想の手紙を送って下さった。ちょっとユニークな観点なのでご紹介する。

西尾幹二先生

 西尾幹二全集第七巻『ソ連知識人との対話』読了いたしました。先生が昭和55年7月に中央公論に寄稿された「ソルジェニーツィンへの手紙」を読んだとき、私の心の中で思わずうなり声が生じました。私も彼の作品は『ガン病棟』から『収容所群島』にいたるまで、あらかた読破しております。うまく表現できないけれどこれまで彼に対して抱いていたもやもやした違和感の正体が、先生の文章を読んでいて一刀両断されたのです。

 「近代社会のいわゆる西側の自由主義体制の自由とは、それを決めてくれるものが各個人の心の外にはどこにもないということに他なりません。そういう覚悟が自由ということの内容を決定するのです。人間には善をなす自由のみならず、悪をなす自由もあるからです。それを外から抑制するいかなる手段も存在しません。あなたにはここのところがどうもおわかりにならないようですが、悪をなすもなさないも、決定権は個人の責任に委ねられているのです。それが自由ということです。その結果、社会が自由の行き過ぎで破滅するような事態がかりに起こったとしたら、それはそれで仕方がない、と申す他ないでしょう。無責任のようですが、自由は原理的にはそこから考えていかなくてはならない。もともと危険を宿した概念なのです。いいかえれば、自由は常に試されているといえるでしょう」

 ソルジェニーツィンがソ連から追放亡命後、西側諸国では彼をあたかも殉教者のごとくに持ち上げ、共産主義イデオロギーに戦いを挑む、自由の闘士であるかのごとくに賛美する風潮が一般的でした。日本の多くの文化人たちも例外ではありませんでした。だがしかしハーバード大学での講演に象徴されるような彼の叫びは(それが彼の偽らざる心底からの純粋な本音だったとしても)微妙なズレがあるのです。それに気づいた人は西側にもほとんどいませんでした。西側の多くの人士が彼のその叫びに同調し、拍手喝采したくらいなのですから。彼は自由の意味をとり違えているのです。
 
 これを見ると、やはりソルジェニーツィンは、ロシア革命後のソ連共産主義イデオロギーの中で精神形成がなされてきたのだ、と思わずにはいられません。帝政ロシア自体ツァーリの圧政のもとに呻吟していたのが、革命で共産主義の恐怖政治にとって代わったのは、ただ単に極端から極端へ移行しただけのことです。西ヨーロッパとはおよそ質を異にする精神風土が、革命後も変わることなく、数百年にわたってスラブ民族を呪縛してきた、ということなのでしょうね。その意味では先生の指摘されるごとく、ロシア人の文化的深層心理は、革命の前も後も途切れずに連続しているのでしょう。ソルジェニーツィンのアメリカ亡命後のあのような言動は、彼の背後に横たわる数百年のスラブの歴史がなさしめているのです。
 
 私の母が以前「西尾先生の著書を読んでいると、数学の難問が解けたときのような爽快感がある」と申しておりました。このたびの先生の文章を読んでいて、先生がここまで真贋を剔抉されたのは、まさに神技のレベルに近いものがあります。
 
 私はいまこの手紙を書きながら、ヘッセの『デミアン』の一場面を思い浮かべずにはいられません。主人公の「ぼく」が、ゴルゴタのイエス受難についてデミアンと語っていたとき、彼はそれまで想像すらできなかったことをデミアンから指摘され、気が動顛してしまいます。それは勧善懲悪といった単純なものではなく、なにかもっと得体の知れぬ不気味な、異教的なものでした。それまで主人公の「ぼく」が、当然のこととして受け入れていた価値観を根底から揺さぶり、市民社会の道徳に懐疑を投げかけ、偶像を破壊し、新たな世界へ、すなわちアプラクサスの彼方へと駆り立てるものでした。

 「ゴルゴタの丘の上に三本の十字架が立っているのは壮大な眺めさ。ところがあの馬鹿正直な盗っ人についてのセンチメンタルな宗教訓話はどうだい。はじめ
その男は悪漢でどんなに悪事を重ねたかわからないくらいなのに、こんどはすっかり弱気になって、改心と懺悔のあわれっぽい祭典をあげるんだからね。こんな
懺悔が墓場の一歩手前でなんの意味があるんだろう。これだってまた涙っぽい味とこの上なくありがたい背景を持った、めそめそした嘘っぱちの本格的な坊主の
話というほかはないよ。もし君がこの二人の盗っ人のうちの一人を友達に選ばなければならないとしたら、または二人のうちのどちらが信頼できるかを考えなければならないとしたら、それはもちろんあのあわれっぽい転向者ではない。もう一人のほうだ。そいつは頼もしい男だし気骨がある。転向なんぞてんで問題にしない。そいつから見れば転向なんてたわごとに決まってるんだからね。そいつはわが道を最後まで歩いていく。そしてそいつに加勢していた悪魔と最後まで縁を切らないんだ。そいつはしっかり者さ。そしてしっかりした連中は、聖書の物語の中じゃ、とかく貧乏くじを引くのさ」

 ヘッセはニーチェの一世代下で、青年期に彼の死に遭遇しています。彼自身が「内面の嵐」と呼んだ多感な青春期、彼はニーチェに狂熱的に傾倒し、彼の精神
はニーチェ一色に染まった時期がありました。ヘッセの描いたデミアン像は、ニーチェの化身といってもよいでしょう。『デミアン』は西ヨーロッパのこのような精神史の伝統から生まれた作品だと思います。
 
 これがソルジェニーツィンとニーチェの、つまりラスコーリニコフとデミアンの決定的な違いなのでしょう。この相違はソルジェニーツィンには理解できないと思われます。
 
 暑い日が続きますが、この夏は軽井沢にお出かけですか。近々またお会いしたいです。お元気で。

                                  平成25年8月9日 福井雄三 

 ここにご母堂のことが書かれてあるが、福井さんは鳥取の由緒ある旧家の出で、学識のある立派な高齢のご母堂が単身家を守っておられる。先年私は山陰を旅してご母堂にお目にかかったことがある。それでここに話題をされたのである。

武田修志さんのご文章

 今日ご紹介する文章の書き手 武田修士さんは、前にもここで取り上げたことがあります。私と同じドイツ文学の専攻で、鳥取大学の先生です。

 いつもお書き下さるのは名文で、書かれた私はうれしくて、全集の編集担当者についお見せしました。彼も深い感銘を受けたようです。

 ご自身の体験に即して書かれていて、しかもどこか無私なところに味わいがあるのです。私は自分のことを書かれているから言うのではなく、武田さんはいつも素直に自分を出していて、しかも必要以上には自分を出さないのです。

 彼の手紙はファイルして秘匿しておきたいと思います。それでいて矛盾していて、いろんな人に読ませたいとも思うのです。

 また前回の「コメント5」の佐藤生さんのように、「宣伝」といわれるかもしれませんが、いわれてもいいから、お見せしましょう。

 新年もすでに今日は六日ですが、西尾先生におかれましては、ご家族ともども、良きお正月をお迎えになったことと、拝察申し上げます。今年もお元気でご健筆をふるわれますよう、心よりお祈り申し上げます。

 年末年始に「西尾幹二全集 第二巻」に収められた三島由紀夫関連の御論考を再読いたしました。単行本『三島由紀夫の死と私』は、この本が出版されました平成20年12月に一読していましたが、今回全集が出るに及んで、「文学の宿命」「死から見た三島美学」「不自由への情熱―三島文学の孤独」等の評論と合わせ読むことができ、三島事件について理解を深めることができました。『三島由紀夫の死と私』は、先生の「三島体験」の詳しい報告、という控え目な体裁をとっていますが、三島事件と三島文学を理解する上で、最良の導きの書になっていると思います。これから三島文学を論じたり、三島事件に言及する者は、必ずこの書と先生の三島論考を読まなければならないことになるのであろうと思います。

 三島事件が起きた昭和45年(1970年)に、先生はすでに35歳の気鋭の新進批評家であり、私は20歳になったばかりの大学二年生にすぎませんでしたので、体験の質が違い、比較はできませんが、しかしそれにもかかわらず、三島事件から受けられた先生の「衝撃」は、私があの事件から受けた衝撃と非常に似かよったものではなかったかと、正直感じました。

 私はちょうどその年、それまで一度も読んだことのなかった三島由紀夫の作品を少しまとめて読んでみようと、「金閣寺」「潮騒」「永すぎた春」「春の雪」と続けて読んでいるところでした。「潮騒」には少し心動かされたような記憶がありますが、先生もお書きになっているように、「三島さんの作品に、感動するものがあまりなかった」――そういう感想を持ちました。マスコミの伝える「楯の会」のパレードといったものにも、さしたる関心を持っていませんでした。

 ところが、11月25日のあの事件に遭遇して、私は心から震撼させられたのです。第一報は、午後の第一時間目のドイツ語の先生からでした。「三島由紀夫が割腹自殺したみたいだ」、そういう短い言葉でした。その授業が終わって、独文研究室に立ち寄ってみると、何人か人がいて、三島事件について話をしていました。よく覚えているのは、そのとき、30歳に近い独文助手の左翼の女性が「三島由紀夫は何という馬鹿なことをしたのか」というような批判的なことを言ったとき、私の中に激しい怒りが湧いて、「こいつは何も分かっていない!」と私が腹の中で叫んだことです。そのとき三島事件について私は詳しいことは何も知らなかったはずなのですが、確かに、その女性の発言に憤激したのです。たぶん「文化防衛論」をすでに読んでいて、三島由紀夫が何を主張してその事件を起こしたのか、分かったような気がしたのではないかと思います。

 そのまま大学からバスに乗って、市内のバスターミナルへ向かいました。わが家へ帰るためです。そのバスターミナルではすでに「号外」が張り出されていて読むことができました。また、待合室のテレビでは事件の報道を流していました。この事件が何のために引き起こされたのか、そのことについて、自分の予測は的中していました。自宅に帰りついてからも、家族と黙ってテレビを見ました。私は何か大きなショックを受けて、しばらく物も言えなかったように記憶しています。衝撃を受けたのは、三島の主張に私が同感したからでもありますが、何と言っても、自分の信じる政治的主張のために、本当に命を掛ける人間がいるのだ――そのことを目の前で見せつけられたからです。

 三島氏がバルコニーで自衛官たちへ呼びかけたときに下品なヤジを飛ばしていた者たちがいましたが、彼らに対して「なんという卑劣」と猛烈に腹が立ちましたが、しかし、もし自分があのバルコニーの下にいてあの演説を聞いていたとしたら、「お前は立ち上がって、三島氏の元へ駆けつけることができたか」と自問すれば、百パーセント「否」でした。そういう決断も勇気も自分にはないということはごまかしようもありませんでした。まだ本当の大人ではありませんでしたから、先生のように「三島さんに存在を問われていると感じ」たということではありませんが、自分の日ごろの生き方が全く口先だけのものだというようなことは感じたのです。

 先生は三島氏があの事件を決行するに至った経験や動機を、様々な面から解明しようとしておられて、私にはどれも参考になりましたが、私が第一に説得されたのは、やはり、全集48ページからの「思想と実生活」の考えです。「思想が実生活を動かすのであって、実生活が思想を決定づけるのではない」ということです。三島氏は多面体の天才でしたから、彼があのような行動に出たことについていろんな理屈をつけることができるでしょうが、私には、三島氏の「日本の運命への思い、憂国の情」が決定的な動機であったことは、一点の疑いもないように思われます。

 そして、その「日本の運命への思い、憂国の情」は三島氏やそれを取り巻く少数の右よりの人々だけが共感するようなものではなく、実のところは、もっと多くの日本国民の心に眠っていた思いであり、憂国の情であったと考えられます。ここで思い出すのは、野坂昭如という作家が、しばらくのち何かの雑誌に発表したエッセイのことです。そのエッセイの中で、このどちらかと言えば左よりかと思われる人が、「あの事件の日は、日本中があるしんとした思いに心を一つにした」というような意味のことを書いていたのです。昭和24年生まれの私には経験がありませんが、これは先生が書いておられる終戦の日の「沈黙」と同じものではなかったでしょうか。三島由紀夫の決起の呼び掛けは功を奏しませんでしたが、何もかもが無意味だったわけではありません。我々は一瞬にせよ、彼が求めたところへ心を致したのであり、その瞬間の思いを今も忘れてはいないのです。

 今回、先生の三島論を拝読して、この作家について教えられることがたいへん多かったのですが、特に印象の残っていることを一つ上げてみますと、三島氏が、縄目の恥辱を受けた総監は、自決する恐れがあると考えて、自首した学生に総監を護衛するように命じたというエピソードです。先生のご指摘通り、「いかに自衛官でもそんなことが決して起こりえないことは、われわれ今日の日本人の一般の生活常識」です。しかし、三島氏がそんなふうに考える人だったということを知って、私には何か感動させられるものがあります。こういうふうに考えることのできる人だったからこそ、自分の「思想」というものを持つことができたのだと、納得のいくものがあるのです。

 御論考「不自由への情熱」の中にこういうご指摘があります、「だが、多くのひとびとがこれまで試みてきた美学的解釈も、政治的解釈も、偏愛か反感か、いずれかに左右され過ぎている。この作家の少年期からの孤独な心、外界と調和できず自他を傷づけずにはすまぬ閉ざされた心、そういうものが見落され勝ちである。外見とは相違する裏側には驚くほど正直な、幼児にも似たつらい率直な心が秘められていた。私はそう観察している。」この評言を、三島由紀夫に関してあまりに少ない知識しか持ち合わせていない私は正確に判定できませんが、しかしそれにもかかわらず、直感的にはまさにこの通りであろうと私には思われました。作家三島由紀夫の生の秘密を最もよく見抜いた人こそ西尾先生であると、今回、関連の御論考をまとめて拝読して再認識したことでした。

 いつものようにまとまりのない感想になりましたが、今回はこれにて失礼いたします。
 
 お元気で御活躍ください。

  平成25年1月6日

                       武田修志

西尾幹二先生

ある友からの手紙

 西尾幹二先生

 先日、西尾幹二全集第三回配本の『悲劇人の姿勢』ちょうど読み終えた、まさにそのときに、第四回の『懐疑の精神』が配本されてきました。冒頭25~36頁の「私の受けた戦後教育」、身につまされる思いで読みふけりました。

 「要するに新教育の理念の名においていろいろ奇怪なことが行われていたのである。先生は教えるのではなく生徒とともに考えるのである。先生はつねに生徒と友達のように話し合おうとする。どうもそういうことだったらしい。終始先生は私たちの考え方に耳を傾けようとする姿勢を示して、アンケートのようなものをさかんに行ったが、子供に確固とした考えがあるわけでなく、私たちは教師の
暗示につられて、結局は教師のしゃべっている「思想」を反復しただけではなかったろうか。私たちは決して一人前の人格として扱われていたのではない。子供を一人前の人格として扱うべきだという民主教育の実験材料にされていただけなのである。
 
 子供はそんなに単純ではない。ある意味では子供ほど敏感なものはない。大人の意図をことごとく見破ることはたしかに子供には不可能かもしれない。しかし大人が大人らしくなく振る舞えば、それが何を意味するかはわからないでも、なにかが意図されているということだけは子供は誰よりも早く敏感に感じとるものである。そこには不自然さがある。というより嘘がある。先生が先生らしくなく
振る舞えば、子供はそこに作為しか感じない。先生と生徒の間には、厳とした立場の相違、役割の相違がある。そういう暗黙の約束があるのを誰よりもよく知っているのは子供である」

 私がこの一文になぜそれほどの衝撃を受けたかというと、実は私自身の受けた教育と大きな関係があるのです。私は昭和41年4月~44年3月、私の故郷鳥取県の某中学校で学びました。この中学校は自主学習という世にも珍しい教育法で全国にその名を知られた有名校であり、日本全国津々浦々から教育関係者がひきもきらず参観に訪れていました。自主学習というのは生徒の主体性を最大限に
尊重し、授業は原則として生徒の自主運営に任せる、というやり方です。生徒たちが自分で主体的に学習カリキュラムを作成し、それに従ってグループごとに黒板に板書し、発表する。生徒たちで選んだ司会や委員の主導の下にクラス全員による質疑応答が行われ、討論し合う。教師はそれを傍観しながらときたま口をはさみ適切なアドバイスを行う。教師のアドバイスは必要最小限に限られ、極力口
をはさまないのが望ましいとされる。
 
 これは戦後しばらくたった昭和三十年代初頭、地元のある校長が発案し、有志の教師たちを巻きこみ、PTAを説得して、半ばゴリ押し的に強行し実現してしまったものなのです。このような現実を無視した、常軌を逸した教育が(志を同じくする者が集まって結成した私塾や新興宗教教団ならいざ知らず)義務教育の公立中学校で成り立つはずがないのです。その不自然さは誰が見ても一目瞭然で
す。これを発案した校長はおそらく、自分の名を後世に残したいという功名心に駆られていたのでしょう。
 
 私は中学に入ったとき、この教育方法に対して子供心におどろおどろした違和感を感じ、この違和感は薄らぐどころか強まる一方で、中学三年間は苦痛以外の何ものでもありませんでした。主体性どころか、これほど生徒の個性を無視したやり方はなく、これは教育に名を借りた精神の暴力、一種の拷問だったと言ってもよい。かつて文化大革命で十代の少年紅衛兵たちが、自己批判せよと迫りなが
ら、大衆団交という名の人民裁判で被告をつるしあげる、あの方式を彷彿とさせるものがあります。私はふてくされ、反抗的になり、浮き上がってしまいました。不良で成績の悪い落ちこぼれの生徒ならいざ知らず、私のようないわゆる勉強のよくできた生徒からそのような反抗的な態度をとられると、教師の立場はなく、教師から見れば私は扱いにくい、憎たらしい生徒だったことでしょうね。

 先生の指摘されるごとく、子供ほど敏感なものはないのです。小学校に入ったばかりの六歳の児童ですら、教壇に立つ教師の人間性を本能的に直感で見抜いています。私は中学校には不快な思い出しかないが、小学校時代は無性に懐かしい。なぜならそこには秩序と権威があったからです。威厳と慈愛に満ちた教師の指導のもとで、思考力と感性の基礎がしっかりと育まれました。
 
 35頁の、大江健三郎に対する先生の批判は胸のすく思いでした。

 「大江さん、嘘を書くことだけはおよしなさい。私は貴方とまったく同世代だからよくわかるのだが、貴方はこんなことを本気で信じていたわけではあるまい。ただそう書いておくほうが都合がよいと大人になってからずるい手を覚えただけだろう。「戦後青年の旗手」とかいう世間の通念に乗せられて、新世代風の発言をしていれば、新思想、新解釈が得られるような気がしているだけである。大江さん、子供の時のことを素直な気持ちで思い起こしてほしい。子供の生活は観念とは関係ない。あるいは大人になっていく過程で、幼稚な観念は脱ぎ捨てていくものだ。貴方の評判のエッセイ集『厳粛な綱渡り』の中から一例。「終戦直後の子供たちにとって戦争放棄という言葉がどのように輝かしい光を備えた憲法の言葉だったか」。こんなことをこんな風に感じた子供があのときいたとは思えないし、いまも決していないだろう」

 大江のあののっぺりとした顔が、これを読んで目をぱちくりしている光景を想像すると、溜飲が下がります。
 
 先生がこれを書かれたのは昭和40年7月、30歳のときだったのですね。私が小学六年で、中学に入る前年の年です。私がもしも当時この論文を読んでいれば、精神的に救われていたかもしれません。それにしても先生の文体というか論理展開のスタイルは、30歳のときと現在と寸分変わっていませんね。50年近く前に書かれた先生の文章が、現在読み返しても新鮮さをまったく失っていない
ばかりか、ますます説得力を増しているのはどういうわけなのでしょうか。 

                                    
   平成24年8月3日
                                    
 東京国際大学教授  福井雄三