良寛が「雪」ならば西行は「月と花」、そして明恵は「月」である。
本書は哲学の本ではない。一面では歌論である。救済の理念はとどのつまり詩的表象の外にはない。古人の詩魂の外にはない。
にも拘(かか)わらず、著者が哲学的宇宙論の論理構造に救いを求めるほかなかったもう一つの側面が、本書の重要な特徴でもある。
さりとて、その宇宙論も、さいごには雪や月や花が出てくる上田三四二に特有の詩の世界であり、文学的世界像にほかならない。そして敢(あ)えていえば、文学的イメージの展開によってしか望むことも触れることもできない、証明不可能な宇宙論を扱おうとしていたのだともいえなくはない。
およそここで扱われたたぐいの宇宙論は、哲学者も数理物理学者も最終局面では文学的イメージに終るほかないといわれるような、なんとも不分明な世界なのであって、従って本書の著者が数理論的な追究を十分に果し得なかったにしても、だからといって常識を逸脱した気紛れな方向を走ったわけではけっしてない。
これは現代人にふさわしい方向を目ざした歌論であり、宇宙論でもあるといってよいのではないか。
そして、このような一面では数理論的な「時間論」になぜ著者がにわかに激しくのめりこんだかがむしろ問題である。
それは彼が、自らなにかを予知していたかのごとく、時間が限られていることの自覚、「心の混乱」に襲われ、何とかそれを克服しようとした、倒れそうになる自分との闘いの表現ではなかっただろうか。静寂のなかにある叙述の集中と熱気は、それを裏書きして余りあるように思える。
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昭和59年は著者にとり多産な年だったと前に述べた。『この世 この生』は9月に上梓されている。しかし春頃から血尿が出て、悩んでおられたと聞く。夏に二度目の大患で癌研泌尿器科に入院した。入院直前までに本書の刊行準備を終えていた。本当はもう一篇、近江(おうみ)永源寺開祖の寂室元光(漢詩を残している)について書く予定であったそうだが、それは断念した。
最初の大患から18年も経(た)っていた。再発であったのか、新しい部位での発病であったのかについては、私は知らない。
亡くなられたのは昭和64(平成元)年、天皇崩御の翌日であった。
『この世 この生』は昭和59年度の読売文学賞を受賞している。
おわり
上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月