『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(八)

 良寛が「雪」ならば西行は「月と花」、そして明恵は「月」である。

 本書は哲学の本ではない。一面では歌論である。救済の理念はとどのつまり詩的表象の外にはない。古人の詩魂の外にはない。

 にも拘(かか)わらず、著者が哲学的宇宙論の論理構造に救いを求めるほかなかったもう一つの側面が、本書の重要な特徴でもある。

 さりとて、その宇宙論も、さいごには雪や月や花が出てくる上田三四二に特有の詩の世界であり、文学的世界像にほかならない。そして敢(あ)えていえば、文学的イメージの展開によってしか望むことも触れることもできない、証明不可能な宇宙論を扱おうとしていたのだともいえなくはない。

 およそここで扱われたたぐいの宇宙論は、哲学者も数理物理学者も最終局面では文学的イメージに終るほかないといわれるような、なんとも不分明な世界なのであって、従って本書の著者が数理論的な追究を十分に果し得なかったにしても、だからといって常識を逸脱した気紛れな方向を走ったわけではけっしてない。

 これは現代人にふさわしい方向を目ざした歌論であり、宇宙論でもあるといってよいのではないか。

 そして、このような一面では数理論的な「時間論」になぜ著者がにわかに激しくのめりこんだかがむしろ問題である。

 それは彼が、自らなにかを予知していたかのごとく、時間が限られていることの自覚、「心の混乱」に襲われ、何とかそれを克服しようとした、倒れそうになる自分との闘いの表現ではなかっただろうか。静寂のなかにある叙述の集中と熱気は、それを裏書きして余りあるように思える。

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 昭和59年は著者にとり多産な年だったと前に述べた。『この世 この生』は9月に上梓されている。しかし春頃から血尿が出て、悩んでおられたと聞く。夏に二度目の大患で癌研泌尿器科に入院した。入院直前までに本書の刊行準備を終えていた。本当はもう一篇、近江(おうみ)永源寺開祖の寂室元光(漢詩を残している)について書く予定であったそうだが、それは断念した。

 最初の大患から18年も経(た)っていた。再発であったのか、新しい部位での発病であったのかについては、私は知らない。

 亡くなられたのは昭和64(平成元)年、天皇崩御の翌日であった。

 『この世 この生』は昭和59年度の読売文学賞を受賞している。

おわり

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(七)

 もしも現世を超えた彼岸にいかなる超越原理も存在しないとしたら、静止した永遠もまた存在しない。時間は円環をなし、万物は永劫に回帰する。インドにも古代ギリシアにもあった時間観念、ショーペンハウアーやニーチェにもひきつがれた想念が、著者によって、良寛や道元のことばの中に探索され、確認される。

 回帰する時間の構造は、極大、極小ともにかぎりのない空間の構造にも照応する。時間も空間も無限であるなら、いっさいの尺度はどこまでいっても相対的でしかない。

 自分は限りない微粒子から成り立っている以上、微粒子の一つ一つを宇宙とするさらに限りなく小さい自分が存在しないという保証はない。

 また自分をも微粒子とする宇宙が自分を包んでいる以上、その宇宙を微粒子とするさらに大きな宇宙が存在しないという保証もない。しかも極大へ向けても極小に向けても、いっさいが無限である。

 著者はこういう想念に驚きを覚えるとともに、ある慰さめを得ている。救いを見ている。それが大事である。

 しかも、著者は哲学者でも、数学者でも、物理学者でもない。ロジックは不徹底であるほかない。そこがまた魅力である。肝心要(かなめ)なところにくると、歌人としての詩的イメージが決め手になる。

 良寛の手毬遊びが紡(つむ)ぎ出す時空の深奥は「三千大千世界(みちあふち)」の名でよばれる。しかしそれは「雪」が降りつもる越後(えちご)の五合庵(ごごうあん)と切りはなして考えることはできない。

 「良寛の雪は、この円環をなして回帰する時間の隙間(すきま)隙間に降っている。時の沈黙を満して降っている。」

つづく

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(六)

 私は右の時評で、死病に襲われた近い仲間たちの懊悩(おうのう)の深さ、あわてぶり、命を惜しむ病人の執着の強さに、作者は自然なやさしさで対応していると述べたが、彼は病人たちの心の混乱にいつも自分の心の混乱を重ね合わせて見ていたに相違ない。

 彼自身が命を惜しみ、あわてていたのだと思う。

 彼は医師としての優越者の余裕で病人にやさしくしていたのではない。自分の心の混乱が他人の苦悩の姿に写し出されるのを見ていた。隅々(すみずみ)までそのことに気がついていた。それゆえの秘(ひそ)かにして切実な心の闘い、倒れそうになる自分の弱さとの闘いが、内的に結晶し、あの独特な、すべてを包みこむような柔和でやさしい文体を生み出したのであろう。読者の心を静寂にする文体の効果は、ひとえに死を恐れる自分への正直さ、素直さと、それを乗り越えようとする精神的闘いから生じている。

 『この世 この生』で死をそれ自体として直視した四人の宗教的人格を読み解こうとした著者の傾倒ぶりもまた、このような自分の心の危機の克服のためであったように思える。

 文中に「良寛に惹(ひ)かれて十五年、すなわち再発をおそれて過ごしたそれだけの期間」というような文言がふと吐息のように洩(も)れ出ているためばかりではない。冒頭部分に「死の際(きわ)まで死を思わないで生きることは人間の生き方のもっとも健全なものにちがいない。」とある一行に、私はかえって著者の死の自覚の深さをみる。

 そして、この評論の中心主題が「時間」であることに、あるいは彼岸の救済を排した上での時間と永遠の問題であることに、端的に、著者の主要動機がよみとれるように思える。

 叙述の流れがあるモチーフにさしかかると転調し、にわかに急迫する例は、評論では珍しくないが、本書にもそのような屈折点がある。それは「時間」である。

 「道元は時間を憎んでいるかに見える。」と書かれた「透脱道元」の中の一行からあと、著者は急速に一つの関心に向かって自己集中し、われを忘れる勢いである。

 そこまでの叙述は道元の単なる解読である。ていねいな解説といってもいい。ところが屈折点からあと、著者の「自分」が出てくる。はっきり表に出てくる。

 「遊戯良寛」でも同じようなことがいえる。手毬(てまり)をついて「一二三四五六七(ひふみよいむな)」と歌う「良寛のそれは文字ではない。時間である。」のあたりからあと、評論の主題は歌論から宇宙論へ転じていく。

つづく

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(五)

 ここで私のかつての時評(昭和59年8月号)を、もうひとつお読みいただきたい。

 〈七つの短編から成る上田三四二氏の連作「惜身命」(文学界)が今月の「天の梯(はし)」で完結した。一編ごとに異なる、死病に襲われた知友の悲痛な運命の転変を叙し、この地上に暫時(ざんじ)生をつないだ人間のはかなさに静観の目を注いでいる。

 医師であり歌人である作者は、この両方の世界に仲間がいて、いずれも中年から初老へかけての年齢なので、重病に襲来されることは珍しくない。死という「遁(のが)れぬ客」の到来を悟った病人の心は揺れる。

 文学、学問、思想、政治、信仰……これらはある程度の健康が保証された者がやる遊戯にすぎない、死に追い詰められた人間には無関係だ、と叫んでやけくそになる心境も真実なら、医者も女房もありがたい、今日生きていられたことがありがたいのだ、という生をいとおしむ心境になるのももう一方の真実である。

 上田氏はこのように動揺しながら死のふちにのぞむ者のそば近くに、自分の気持ちを寄り添わせていく。

 氏は慈愛の気持ちを片時も放さないが、しかし宗教家のような無理な構えはない。医者らしく死を見詰める客観性を保持している。それでいて、自分が出会った一人一人の人間の運命を大切にする思いはつねに深く、篤(あつ)い。感傷的では決してない。自然なやさしさが、作者の人格そのものから発している。この自然さこそが作品の魅力のすべてである。

 氏は医師として「大勢の患者に接しながら、自分が病気になってはじめて、死という亀裂(きれつ)の淵(ふち)の深さを覗(のぞ)いた」と書いているように、氏自身の八年間の大患の経験が、死者に寄り添うこのやさしさの根源を成していることは言うまでもないが、しかし、果たしてただそれだけがすべてだろうか。

 自ら病気をしても、そこから何も学ばない者は学ばないのだ。

 上田氏が自然に振舞っているのは患者に対してだけではない。文学に対してもそうである。否(いな)、氏は自分自身に対して自然に振る舞っている。あるいはそうあろうと努めている。そこにこの作品の、他者に対するやさしさがいやみにならず、命を惜しむ病人の執着の強さに女々しさも悲惨さも感じさせない、独特な視点の取り方がある。

 作者に宗教的意図はないが、地上のこの生は無常であろうとする超越的な目がどこかに生きていることを感じさせる作風である。

 最近氏が上梓(じょうし)したばかりの「夏行冬暦」と並んで、本作は本年度最も注目すべき成果の一つとなるに相違ない。〉

 事実、昭和59年は、駈(か)け急ぐかのような多産な年だった。故磯田光一氏と私とがその頃何年か担当した『東京新聞』の年末回顧「文壇この一年」でも、上田三四二『夏行冬暦』『惜身命』『この世 この生』の三作が59年度の特筆すべき成果として取り上げられ、私はベスト5の一つに選んでいる。一年に力作が三冊も上梓されたスピードぶりにもわれわれは目を見張っていたのである。

つづく

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(四)

 いうまでもなく著者は科学者である。現代人である。客観的にすべてを見ている。

 本書の最初のほうに、人生の時間を「滝口までの河の流れ」と捉(とら)える著者の比喩(ひゆ)と、歴史を見る目とはつながっている。

 昭和41年に著者は結腸癌(がん)で入院手術した。予後のむつかしいこの病気で、再発を恐れつつ、死と向き合って15年以上を経過した。が、だからといって、死後の世界の救済は決して求めない。魂の存続は信じない。身をはなれた心の永続も認めない。

 「身体の消滅のときをもって私という存在の消滅するとき」と観じている。

 「死はある。しかし死後はない。死の滝口は、そこに集った水流をどっと瀑下に引き落とすと見えたところで、神隠しにでもあったように水の量は消え、滝壷(たきつぼ)は涸(か)れている。それが死というもののありようだ。」

 「死を避けることは出来ないが、死後はないと思い定め、思い定めた上は死後の救済に心を労することなく、滝口までの線分の生をどう生きるかに思いをひそめればよい。」

 この決然たる覚悟が、本書において西行、良寛、明恵、道元の四者を選ばせたそもそもの理由であったように私には思える。

 彼岸に救いを求めず、しかし此岸において超越を決せんとする精神、神の死を確認し、いっさいの神の影をも拒否しつつ、しかもなお神の探求者であることをもついに止(や)めなかった精神――それを西洋の歴史においてわれわれは例えばニーチェにおいて知るのであるが、したがって必然的に、本書もまたニーチェの提出した問題――永劫回帰(えいごうかいき)の説などの時間論に現われる――ときわめて近い距離にあるさまざまなテーマを展開させている。

 しかし、私に興味があるのは、上田三四二が四聖を扱うときの、ニーチェなどとはまったく異なる控えめなある種のやさしさ、柔和さである。それは一体どこからくるのだろう。

 四聖はいずれも靭(つよ)い精神である。それなのに、「〈無能〉に良寛の自意識があり、言いかえれば後ろめたさのあることはすでに見たとおりである。和みわたる心の底に、身をよせる悲しみと世界によせる感謝がある。」と彼が書くとき、良寛にではなく、そこに彼は自分の日常の心のあり方をそのまま自然に映し出しているようにみえるのである。

つづく

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(三)

 本書の主役である西行、良寛、明恵、道元それにしばしば言及される吉田兼好と本居宣長は、西行ひとりを例外として、死のむこう側の世界、後世を信じていないひとびとである。いわゆる神秘家ではないひとたちだ。

 「彼(明恵)は彼岸に浄土を求めていない。現世に浄土を願っている。」

 「明恵は〈いま〉という現在の時間を生きた。また〈ここ〉という現在の場所に身を置いた。」

 「道元は現世の悲惨に砕かれない。現世の悲惨はあやまった現世のありようであり、真実現世は浄妙国土、仏国浄土であることは疑いようがないのである。彼は他力門の現世穢土(えど)と彼岸浄土との二分割を虚妄として退ける。」

 「道元はつねに、〈今〉である。存在にとって〈今〉とは、また〈此処〉である。そして存在の第一意義は〈我〉である。道元の生、道元の時空は、今、此処、我あり、である。」

 「兼好は明日死ぬと思えと言う。思うだけでなく、真実、明日死ぬのが人間のいのちだと言う。さいわい明日死ぬことをまぬがれたものも、明後日(あさって)を期することは出来ないだろうと言う。そんなふうに言いながら、彼が後世を頼んだふしは見当たらず、……死後に何の関心も寄せていない。先途ちかき思いはひしと彼をせめているが、後世は……彼の視野に入っていない。」

 「死ねばみな黄泉(よみ)にゆくとはしらずしてほとけの国をねがふおろかさ……ここで彼(宣長)は死後に何の期待も寄せていない。極楽浄土なぞ、絵そらごとだと言っている。」

 西行だけが例外的に死後にまで自己の時間を延長しているとされるが、それも極楽を信じていたという明確なはなしではない。彼にとって死後は死の瞬間に及ばないとされる。死をすらも輝かしいものとする月と花への憧(あこが)れが、花火のように尾を曳(ひ)いて、闇(やみ)に懸かり、闇を照らし渡る――そういう詩的イメージが西行の思い描いた、死のむこう側の世界の表象であるらしい、と作者は考える。

 いずれにしても現世を穢土と見立て後世に望みのすべてを託す「後世者(ごせもの)流」は、西行を含む本書の登場人物のすべてから退けられている。

 現世に生きることに価値を見出(みいだ)さないひとびと、現世は死後のためにのみあり、今生(こんじょう)はただ極楽往生のための準備期間にすぎず、此岸(しがん)のいっさいはもっぱら彼岸のためにしかないと信じるひとびとは、中世から近世へかけての宗教世界に決して珍しい存在ではない。上田三四二はそのような宗教的精神に関心を向けなかった。ここに、この本の著者が選択した第一の前提がある。

つづく

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(二)

 著者上田三四二は医師であり、歌人であり、文芸評論家であるが、ある時期から小説をも書く作家であった。昭和56年の初め頃(ごろ)に私は文芸各誌に氏の小説が並び始めたのを覚えている。構えのない随想的作風に好感を持った。

 たまたま私は昭和56-59年の四年間、共同通信社配信の文芸時評を担当した。この時評は私の少し前に上田氏自身も担当していたはずだが、『信濃(しなの)毎日新聞』や『熊本日日新聞』など約15の地方紙に毎月掲載された。

 私の時評担当の四年間は上田文学の円熟期で、本書所収のほぼすべての論考がこの期に書かれ、本書は59年9月に一冊にまとめられている。

 幸いにも私は、氏がこのように小説にも手を染めた暢(の)びやかで豊かな時期の文学活動に、時評家として触れる幸運に恵まれたのである。

 氏はなるほど小説を書いたのではあるが、およそ小説らしい小説を書こうという下心がなかった。本書所収の「遊戯良寛」が『新潮』に載った昭和57年の同じ4月号に、『海』に「たまもの」、『すばる』に「『月光』ほか」の二短篇が同時発表されている。

 良寛を論じた評論とテーマはつながり、例えば「たまもの」は、ラジオの人生読本という番組で三回の講話をした体験を、録音時の風景もそのままに再録したもので、講話もそっくり小説の内容に仕立てている。これは小説ではないといわれればそうかもしれないが、ちゃんと文学として読ませる。そこに鍵(かぎ)がある。

 自分の講話の内容をそのまま小説にするのは一歩間違えれば嫌味(いやみ)だが、それが少しも嫌味ではない。言葉に味わいもあり、深さもある。その秘密は何であろうかと私は考えた。

 作者には死線を越えた大患の体験がある。歌も評論も医師活動もすべてそれ以来の、生死の境に思いをひそめた無常の意識、宗教の救いを拒否しつつも宗教的精神活動を求める一点に収斂(しゅうれん)し、そこから光を発しているせいではないかとも考えられた。

 次は昭和59年2月号の私の時評文からの引用である。

 〈上田三四二氏の中篇「冬暦」(文芸)も作者の余裕のある精神の所産で、創(つく)った作風ではなく生活記録風の地味な体裁をとっているが、心の及ぶ範囲は広く、深い。

 東京の某診療所に勤める医師香村は、二ヶ月交代で内科医が出張する佐渡の診療所に、真冬の出張を自ら進んで引き受け、家族と離れた二ヶ月間に、自作歌集の選歌と良寛の読書研究をして、文学者として自分の仕事に転機をもたらそうとしていた。

 彼は医師としては消極的で、小さなつまずきの度に身を引きたがり、また人には言えない心の闘いを抱えていた。思いがけず島の療養所には歌を詠(よ)む看護婦ら三女性が待ち構えていて、毎土曜に歌会を開くこととなり、また真野御陵をめぐり、国分寺を訪れ、病院経営の下手な老所長の、子供のまま大人になったような柔らかい性格に触れたりした。香村は孤独を覚悟で来たのに、彼を待ち受けていたのは島の思いやりであった。

 寒さの厳しい佐渡の雪景色を叙しながら、これらの出来事を淡々と語っていく作者の筆は、歌人らしく風雅だというようなことだけではすまない。優しい看護婦の一人を目で追うといった、抑制されたエロスが文章に厚みを添えているし、何よりも読み手の心をくつろげ、次第にしずめていく文体の独特な静寂への効果は、作者が他人へのいたわりと自分への正直さを程よくつり合わせている心の動きにあるといえよう。

 他人へのいたわりは不正直を招くこともあるからである。また逆に正直になり過ぎて、他人に迷惑を掛けることもある。

 上田氏は心のやさしさが嫌みにならない稀有(けう)の人である。……読後の静かな生への感謝のような思いには、深さが宿っている。〉

 小説というのは直(じ)かにその人の生前の情景のなかに浮かび上がらせてくれるのに役立つジャンルである。そしてその人柄(ひとがら)を偲(しの)ばせてくれるジャンルでもある。恐らくご自身の経験を作為なしにそのまま綴(つづ)ったに相違ない右の作品は、本書のような思想的著作が形成されていく前後の作者の生活風景を髣髴(ほうふつ)させてくれるように思える。

つづく

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(一)

 上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』(昭和59年9月新潮社)の文庫化に伴い、解説を頼まれた。解説を書いたのは上田三四二が昭和64(1989)年に病歿して8年たった平成8年のことである。

 上田は何度もガンの発病を経て18年の歳月を病気とともに生きた。私は生前何度かお目にかかっているし、文通その他交流もあった。

 解説を依頼して来たのは新潮文庫編集部である。通例の解説よりも長くなった。私ものめりこむような思いで通読して、書いた。

 私は上田の私小説が好きで、丁寧に読んでいた。『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』は『新潮』に連載され、小説とは違った宗教評論なので、新鮮な思いで愛読したものだった。

 周知の通り私もガン患者だった。私が舌ガンにかゝりラジウム針刺入手術を受けたのは昭和58年である。それよりも前に私は上田の私小説を愛読し、評価していたから、私の病気と直接のつながりはない。

 私の体験は『人生の価値について』(新潮選書、ワック文庫)の中でごく小さく書きこまれている。

つづく

「斬」の解説(七)

 小説の最初の部分に三島事件への著者の感想が述べられているのはこの点でははなはだ抽象的である。

 著者は三島事件の

「政治的・社会的・思想的あるいは文学的背景ならびに意味については本稿の関与するところではない」

 ときっぱり言っている。これがすでに著者の現代への態度を表している。

 三島事件に関与する現代人好みのあらゆる解釈は著者には単なるおしゃべりにしか思えなかったことであろう。

 著者は割腹と介錯に関する、単なる事実だけを問題にしている。

 三島の割腹が常人のなし得ない精神力をもってなされていること、森田の介錯の失敗は、三島が立派に割腹したことに原因があり、森田の浅い傷は彼の臆病の証拠ではなく、彼が介錯者のためを考えていた沈着の証拠である、等々の緻密な分析は、この本の著者でなければ言えない十分に検証的な指摘であるといえる。

 氏は現場に残された事実の記録だけから推理し、思想的ないっさいの解釈を加えていない。

 三島事件に対するこの明確な態度が、また斬という反時代的な行為を小説に描き、現代的な論議から超然としている著者の態度にもつながっているといえよう。

おわり

文春文庫 綱淵謙碇『斬』解説 昭和50年(1975年11月)より

「斬」の解説(六)

 したがってこの小説の読みどころは、時代背景の描写でもなければ、魔性の女に振り廻される男たちの哀れさでもない。あくまで刑執行のリアルな場面の描写である。

 しかも一回ごとに、執行者の心の変動に応じて違って現われる首斬りの諸相のさまざまな変化こそが――いかに恐ろしく目をそむけたくなろうとも――小説として読みがいのある肝心な個所であろう。

 あるときは緊張しつつもうまく斬り、あるときは動揺して斬り損じ、またあるときは多数の罪人を一人で次々と無造作に斬っていく。

 

「斬首ということは無機物を機械的に斬るのではなく、人間が人間を斬るのであるから、斬る人間と斬られる人間とのあいだに一つ一つの場合でそれぞれ異なった心理的触れ合いが生じるのである。したがってつねに偶発性をともなって斬り手の心理なり感覚を揺り動かす事件が絶えない。」

 立派な志士たちは従容として死を迎えたといわれる。ために彼らは斬りいいように斬られていく。

 斬り手にかえって戸惑いが生じるほど立派な死に方をする人々を前に、斬り手の心が乱れ、刀が萎縮する場合があるという。

「だから志士という存在は、一番斬りやすくていちばん斬りにくい。つまり斬る者の心の戦いが生じるからだ」

 というような著者の鋭い分析を混じえた、各斬刑の現場描写が、いっさいの理屈抜きで、この小説の眼目をなす。

 ここには人間行為の直接性の最も極端な姿が描かれている。

 と同時にこの作品は、初めに述べたように、殴られるだけですぐ倒れてしまうようなわれわれ現代人、反省と議論にばかり耽って自分ではなに一つ行為しないわれわれ現代人の生き方に対する批評にもなっている。

つづく

文春文庫 綱淵謙碇『斬』解説 昭和50年(1975年11月)より