『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(二)

 著者上田三四二は医師であり、歌人であり、文芸評論家であるが、ある時期から小説をも書く作家であった。昭和56年の初め頃(ごろ)に私は文芸各誌に氏の小説が並び始めたのを覚えている。構えのない随想的作風に好感を持った。

 たまたま私は昭和56-59年の四年間、共同通信社配信の文芸時評を担当した。この時評は私の少し前に上田氏自身も担当していたはずだが、『信濃(しなの)毎日新聞』や『熊本日日新聞』など約15の地方紙に毎月掲載された。

 私の時評担当の四年間は上田文学の円熟期で、本書所収のほぼすべての論考がこの期に書かれ、本書は59年9月に一冊にまとめられている。

 幸いにも私は、氏がこのように小説にも手を染めた暢(の)びやかで豊かな時期の文学活動に、時評家として触れる幸運に恵まれたのである。

 氏はなるほど小説を書いたのではあるが、およそ小説らしい小説を書こうという下心がなかった。本書所収の「遊戯良寛」が『新潮』に載った昭和57年の同じ4月号に、『海』に「たまもの」、『すばる』に「『月光』ほか」の二短篇が同時発表されている。

 良寛を論じた評論とテーマはつながり、例えば「たまもの」は、ラジオの人生読本という番組で三回の講話をした体験を、録音時の風景もそのままに再録したもので、講話もそっくり小説の内容に仕立てている。これは小説ではないといわれればそうかもしれないが、ちゃんと文学として読ませる。そこに鍵(かぎ)がある。

 自分の講話の内容をそのまま小説にするのは一歩間違えれば嫌味(いやみ)だが、それが少しも嫌味ではない。言葉に味わいもあり、深さもある。その秘密は何であろうかと私は考えた。

 作者には死線を越えた大患の体験がある。歌も評論も医師活動もすべてそれ以来の、生死の境に思いをひそめた無常の意識、宗教の救いを拒否しつつも宗教的精神活動を求める一点に収斂(しゅうれん)し、そこから光を発しているせいではないかとも考えられた。

 次は昭和59年2月号の私の時評文からの引用である。

 〈上田三四二氏の中篇「冬暦」(文芸)も作者の余裕のある精神の所産で、創(つく)った作風ではなく生活記録風の地味な体裁をとっているが、心の及ぶ範囲は広く、深い。

 東京の某診療所に勤める医師香村は、二ヶ月交代で内科医が出張する佐渡の診療所に、真冬の出張を自ら進んで引き受け、家族と離れた二ヶ月間に、自作歌集の選歌と良寛の読書研究をして、文学者として自分の仕事に転機をもたらそうとしていた。

 彼は医師としては消極的で、小さなつまずきの度に身を引きたがり、また人には言えない心の闘いを抱えていた。思いがけず島の療養所には歌を詠(よ)む看護婦ら三女性が待ち構えていて、毎土曜に歌会を開くこととなり、また真野御陵をめぐり、国分寺を訪れ、病院経営の下手な老所長の、子供のまま大人になったような柔らかい性格に触れたりした。香村は孤独を覚悟で来たのに、彼を待ち受けていたのは島の思いやりであった。

 寒さの厳しい佐渡の雪景色を叙しながら、これらの出来事を淡々と語っていく作者の筆は、歌人らしく風雅だというようなことだけではすまない。優しい看護婦の一人を目で追うといった、抑制されたエロスが文章に厚みを添えているし、何よりも読み手の心をくつろげ、次第にしずめていく文体の独特な静寂への効果は、作者が他人へのいたわりと自分への正直さを程よくつり合わせている心の動きにあるといえよう。

 他人へのいたわりは不正直を招くこともあるからである。また逆に正直になり過ぎて、他人に迷惑を掛けることもある。

 上田氏は心のやさしさが嫌みにならない稀有(けう)の人である。……読後の静かな生への感謝のような思いには、深さが宿っている。〉

 小説というのは直(じ)かにその人の生前の情景のなかに浮かび上がらせてくれるのに役立つジャンルである。そしてその人柄(ひとがら)を偲(しの)ばせてくれるジャンルでもある。恐らくご自身の経験を作為なしにそのまま綴(つづ)ったに相違ない右の作品は、本書のような思想的著作が形成されていく前後の作者の生活風景を髣髴(ほうふつ)させてくれるように思える。

つづく

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

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