『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(三)

 本書の主役である西行、良寛、明恵、道元それにしばしば言及される吉田兼好と本居宣長は、西行ひとりを例外として、死のむこう側の世界、後世を信じていないひとびとである。いわゆる神秘家ではないひとたちだ。

 「彼(明恵)は彼岸に浄土を求めていない。現世に浄土を願っている。」

 「明恵は〈いま〉という現在の時間を生きた。また〈ここ〉という現在の場所に身を置いた。」

 「道元は現世の悲惨に砕かれない。現世の悲惨はあやまった現世のありようであり、真実現世は浄妙国土、仏国浄土であることは疑いようがないのである。彼は他力門の現世穢土(えど)と彼岸浄土との二分割を虚妄として退ける。」

 「道元はつねに、〈今〉である。存在にとって〈今〉とは、また〈此処〉である。そして存在の第一意義は〈我〉である。道元の生、道元の時空は、今、此処、我あり、である。」

 「兼好は明日死ぬと思えと言う。思うだけでなく、真実、明日死ぬのが人間のいのちだと言う。さいわい明日死ぬことをまぬがれたものも、明後日(あさって)を期することは出来ないだろうと言う。そんなふうに言いながら、彼が後世を頼んだふしは見当たらず、……死後に何の関心も寄せていない。先途ちかき思いはひしと彼をせめているが、後世は……彼の視野に入っていない。」

 「死ねばみな黄泉(よみ)にゆくとはしらずしてほとけの国をねがふおろかさ……ここで彼(宣長)は死後に何の期待も寄せていない。極楽浄土なぞ、絵そらごとだと言っている。」

 西行だけが例外的に死後にまで自己の時間を延長しているとされるが、それも極楽を信じていたという明確なはなしではない。彼にとって死後は死の瞬間に及ばないとされる。死をすらも輝かしいものとする月と花への憧(あこが)れが、花火のように尾を曳(ひ)いて、闇(やみ)に懸かり、闇を照らし渡る――そういう詩的イメージが西行の思い描いた、死のむこう側の世界の表象であるらしい、と作者は考える。

 いずれにしても現世を穢土と見立て後世に望みのすべてを託す「後世者(ごせもの)流」は、西行を含む本書の登場人物のすべてから退けられている。

 現世に生きることに価値を見出(みいだ)さないひとびと、現世は死後のためにのみあり、今生(こんじょう)はただ極楽往生のための準備期間にすぎず、此岸(しがん)のいっさいはもっぱら彼岸のためにしかないと信じるひとびとは、中世から近世へかけての宗教世界に決して珍しい存在ではない。上田三四二はそのような宗教的精神に関心を向けなかった。ここに、この本の著者が選択した第一の前提がある。

つづく

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

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