ヨーロッパから見るとロシアも中国も東方にあるが、脅威を受けて来たのはロシアで、中国は久しく哀れで無力な国であり、いま力をつけて来たからといっても、ヨーロッパには直接危害の及ばない政治的に無関係な国である。じつは昔から、大戦前からそうだった。イギリスやアメリカが日本の大陸政策にあゝだこうだと難癖をつけて来た戦前のある時期を思い起こして欲しい。イギリスは例えば満州の実態を何も知らないで、国際連盟の名において、満州の治安には正規軍を用いず憲兵で当たれ、というような要求をしてきた。大陸は軍閥の内戦下にあった。千々に乱れていたその治安をどうやって憲兵だけで守れるであろう。日本政府は呆れてものが言えなかった。国際連盟を相手にせず、の気持になるのはきわめて自然な成り行きだったのだ。
こんな風に遠いアジアのことには無理解で、しかも植民帝国としてさんざん利益を吸い上げた揚げ句、危いとなったらさっさと逃げて行く。それがヨーロッパやアメリカのしたことだった。政治的負担を背負うのはつねに日本だった。今また同じようなことが始まっている。
中国主導によるアジアインフラ投資銀行(AIIB)に英国を先頭に仏独伊などヨーロッパ代表国の参加意思が表明され、世界57カ国にその輪が広がり、日米両国が参加しなかったことが世界にも、またわが国内にも、少なからぬ衝撃を与えたように見受けられる。中国による先進七カ国(G7)の分断は表向き功を奏し、アメリカの力の衰退と日本の自動的な「従米」が情けないと騒ぎ立てる向きもある。
しかし中国政府の肚のうちは今や完全に見透かされてもいるのである。これまで中国のGDPを押し上げる目的で用いられた産業は不動産業だった。今や不動産はバブルとなって、次の時代の何らかの高付加価値の新産業の創出が課題となっているが、残念ながらそれは見当っていない。自動車販売は中国市場が世界一である。けれども平均して民衆の所得水準が上がるにつれて中国車は売れなくなった。価格は安いが故障が多く、先進国との技術の差は埋められないどころか、ここへきて一段と引き離されているのが実態であると聞く。
中国が改革解放の時代を迎えた三十年ほど前、道路、鉄道、そして不動産に向かったのは、格別の独自技術の開発を必要とせず、先進国からの技術移転と模倣、そして得意の人海戦術で、一息にGDPの拡大を図ることが出来ると見たからであろう。事実それは成功し、GDP世界二位を豪語するに至っているが、しかしこの先どうなるのであろう。中国は過去三十年間の国力上昇時代に重大なチャンスを逸したのではないか。発展する国は必ず次の時代を予告する技術革新をなし遂げているものである。中国にはそれがなかった。移転と模倣にはもう限りがある。これからの労働力減少に備えてはロボット技術の発展が不可欠だといわれるが、中国の水準はあまりに低すぎる。
であるならいまこの国が考える政治的経済的戦略構想が、自分の国の外への、自分の国をとり巻く地域へのインフラ投資となるのは理の当然であろう。道路、鉄道、港湾、ビル建設を外へ広げる。今までやって来てうまく行った方策を海外展開する。それ以外にもう生きる道がない。中国は鉄鋼、セメント、建材、石油製品などの生産過剰で、巷に失業者が溢れ、国内だけでは経済はもう回らないことは自他ともに知られている。粗鋼一トンが卵一個の値段にしかならないとも聞いた。
加えてこの計画には人民元の国際通貨化、ドル基軸通貨体制を揺さぶろうとする年来の思惑が秘められている。南シナ海、中東、中央アジアの軍事的要衝を押さえようとする中国らしい露骨な拡張への布石も打たれている。こんなことは世界中の人にすべてお見通しのはずだ。
さらに、他国は知っているかどうかは不明だが、日本でさかんに言われているのは中国はじつは資金不足だという点である。この国の外貨準備高は二〇一四年に約四兆ドル(約四八〇兆円)近くに達しているが、以後急速に減少しているとみられている。中国の規律委員会の公認として一兆ドル余は腐敗幹部によって海外に持ち出されているとされているが、三兆七八〇〇億ドルが消えているとする報道もある。持ち出しだけでは勿論ない。米国はカネのすべての移動を知っているだろう。日本の外貨準備高は中国の三分の一だが、カネを貨している側で、海外純資産はプラスであるのに、中国はゼロである。最近知られるところでは、中国政府は海外から猛烈に外貨を借りまくっている。どうやら底をつきかけているのである。辞を低くして日本に参加を求めてきている理由ははっきりしている。日本人に副総裁の座を用意するから参加して欲しいと言って来たようだ。
AIIBは中国が他国のカネを当てにして、自国の欲望を果たそうとしている謀略である。日米が参加すれば当然巨額を出す側になるので、日本の場合、ばかばかしいほどの額を供出する羽目になる可能性がある。ドイツのメルケル首相が日本に参加を求めたというのも自国の據出金の負担を減らしたいからだろう。安倍政権がいち早く不参加を表明したのは賢明であり、六月末に延ばされた締め切りにも応じるべきではない。
中国は生きる必要から必死になっているのは確かである。それはどの国も同じだから理解できなくはない。世界銀行やアジア開発銀行やIMF(国際通貨基金)など既成の世界金融機関がアメリカの意向に支配されていて、力をつけてきた中国には面白くない。この点に同情の余地はある。中国を支持する声のひとつである。もちろんこの範囲においては理解できる話ではある。
しかし、最大の問題は、中国が遅れて現われたファシズム的帝国主義国家だというあの事実である。「ベルリンの壁」はアジアでは落ちなかったのではなく、いま崩落しつつあるのである。共産主義独裁国家が同時に金融資本主義国家の仮面をつけて、情報統制された国家企業が市場マーケットの自由を僣称する摩訶不思議な現代中国というモンスターの出現こそ、ほかでもない、「ベルリンの壁」のアジア版である。
何とかしてこの怪異なる存在を解体すること、すなわち壁を撤去すること、分かり易くいえば中国共産党体制をなくすことがアジアの緊急の課題である。十三億の中国民衆に自由を与え、中国経済を本当の意味で市場化し(変動相場制を導入させ)、中国人民銀行を政府から独立した近代的金融機関に育て上げること、等である。アジアに残存するすべての不幸の原因はこれがなし得ないでいることである。拉致、領土、韓国の対日威嚇など日本を苦しめているテーマも究極的にはここにある。来たるベルリンサミットでは安倍総理におかれては、中国共産党の消去こそが日本国民だけでなく、中国国民の久しい念願であることを訴え、ぼんやりしているG7の首脳たち、アジアのことになると金儲けのことしか考えない、ていたらくな指導者たちに喝を入れていただきたいのである。
四月十二日午前九時からのNHK日曜討論を拝聴したが、出席者の榊原英資、河合正弘、渡辺利夫、朱建栄、瀬口清之の五氏のうち、自国の矛盾を国際的に解決しようとする中国の暴慢をたしなめ、この国の国家的に偏頗な構造にAIIBの動機があることを指摘していたのはわずかに渡辺氏ひとりであった。他の方々は中国に対するやさしい理解者であろうとばかりしている。しかもそれを日本の国益の立場において語るからどうしても日本の国家と国民を惑わす話になる。朱建栄氏のような政治的理由で収監され、今も中国政府の監視下にあると考えられる中国人を討議者に選ぶNHKの不見識も問責されてしかるべきである。
習近平がアジア版独裁者「聖人」のカリスマ性を誇示し、スターリンや毛沢東の似姿であろうとしている現実に、隣国の日本国民は少しずつ恐怖と警戒感を感じ始めている。テレビの発言者だけが不感症である。イギリスを先頭に、西欧各国が怪異なる国の現実を知らずに――漢字が読める読めないはかなり決定的な差異であるように思える――この国に手を貸そうとしているかに見えるため、日本国民の対中イメージに新たに不安な混乱が生じているように思える。
つづく
「正論」6月号より