大変興味深く拝見させていただきました。 さまざまな戦後処理が存在する中で、我々日本人が「負」の財産ばかり背負わされていることを、いかに認識替えすべきか、私たちはどこで認識を間違ってしまったのか、そのことを淡々と追求していかなければならないと思うわけです。 西尾先生はご自身のご研究の中で、さまざまな角度から、日本という国の強さと弱さを洗い出していらっしゃいますが、再度日本が、日本人が、自分に自信を持ち直せるには、天皇国家を軸とした国体が必要なんだと常々おっしゃっておられます。 そのことに少しだけわたくし個人の身の回りの出来事から、語らせていただきます。 実は私の職場には内モンゴル出身の女性(27歳)がおります。 彼女は19歳の時に日本に留学生としてやってきました。 その女性と先日ある作業を共にすることがあり、その作業をしながら、いろんな話題をしたのですが、彼女は歴史が一番苦手だと言うんです。 どうやら地元ではあまりその面を重視しないそうで、彼女の地元ではとにかく語学に優れた人間が最重視されるそうなんです。 実際彼女は4カ国語を話せます。地元の言葉、中国語、日本語、英語を少々。彼女の日本語は、とても聞き取りやすく、顔立ちもやはりモンゴルの血が流れているせいか、日本人っぽく、わたしは最初彼女は日本人かと思ったくらいです。 そこで私が知っているモンゴルの歴史を、できるだけかしこまらないように気遣いながら教えたんです。すると彼女はこういうんです。 「モンゴル人はどちらかというと、みんなおとなしい人が多いですよ。争いごとが苦手なのかなぁ、そんな感じがします。会話も普段は本当におとなしいです。中国人も普段はそうなんですけど、なぜか食事をはじめるとみんなうるさくなるんです。どうしてこんなにうるさくなるのかわからないけど、わたしも最初はびっくりしました。普段あまり喋らない子が、食事をすると突然しゃべりだすことが多いです。中国人はみんなそんな人が多いです。」 なるほどなるほど・・・と思いながら聞いていると、こんなことも言ってました。 「モンゴル人は他人と仲良くすることが一番大切だというのがありますね。喧嘩することはあまり好きじゃない。出会う人と仲良くする習慣が強いと思います。」 こんな民族性がモンゴルの歴史と深く結びついているのかなぁと思いました。実際彼女は職場で多くの日本人から親しまれていて、彼女の悪口をいままで聞いたことがありません。 そんな彼女が歴史が苦手だというので、チンギスハーンのことや、マルコポーロのこと、それに関連してコロンブスのことまで教えたんです。 インドのムガール帝国のムガールはモンゴルという言葉がインド化されてそう呼ばれるようになったんだよと教えると、おもしろそうに聞き入っていました。 彼女いわく「ハーン」というのは「王様」という意味だそうで、モンゴル人には苗字というものがないそうです。それは初耳でした。 彼女の話を聞いていて感じたのは、間違いなく内モンゴルという場所は、中国ではあっても実際はそこに住んでいる人間は、みなモンゴル人だという認識が強いということ。 そして普段から聞く耳を持っているということ。人の話を聞き分ける能力の凄さには頭が下がります。 この傾向は中国人にも当てはまるかもしれません。中国語自体が様々な音の響きを持っていることが原因かもしれません。 そんな会話から感じたのは、モンゴル人はそうした民族性からも、大陸を制覇する能力が備わっていたということなのかもしれません。彼らの言葉を聞き分ける能力は、最大の武器だったということなんでしょうか。 それに比べれば、日本人は概ね単一言語民族ですから、その弊害がどこかにあらわれて、「覇権」という意思が働きにくいのかもしれません。もちろんそれ以外にも多くの要素が絡まって、日本という国が内側に縮こまる習性をどうしても守ってしまう、これもしかたのない話となるのでしょうか。 しかし、我々には内なる強い思いというのも同時にあるようにも思います。 他国の言葉には長けていないけれど、ある種その反動というか、煮詰まった我々の言語から生まれる超日本的な感覚というのもあって、駆け引きのない純粋な人間性というものがそこにはあるように思うのです。 それが良い悪いは別として、間違いなく色濃いものとなってそれがあように思われます。 そんな日本人の民族性を補うかのように、日本人のステータスを維持しているのが、西尾先生のおっしゃる「天皇国家日本」なんだろうと思うのです。 簡単に言えば我々日本人は、天皇陛下のゆりかごの中で過ごしているということだと思うのです。この安心感が様々な現象を生んでいる。感情の骨子がここにある。そのことを無視しようという意見には、無条件で違和感をおぼえる。ものごとの判断の規定は、このゆりかごを脅かすかどうかの査定が基準値となっている。 そんなふうに感じ取った次第。 返信
社会的には既に公害に等しい存在の朝日新聞ですが、戦前戦後でスポンサーが替わり、180度も姿を変えても、端から見ている人に対して、顔を赤らめるでもない恥知らずの幇間にすぎなかった事が、GHQの文書ではっきりしたことは、これまでも分かっていた事だとはいえ、より一層腹立たしく思えます。 しかもそんな新聞をインテリが読むものだと信じてきた多くの人々は、まともな人なら苦々し思いにかられ、何十年も大切な時間や費用を無駄に費やしてきた事を悔やむに違いありません。 しかしこんな新聞の系列である朝日カルチャーセンターやNHK文化センターが、今もなお、多くの一般人に様々な教養講座を提供していることを考えると、文化芸術を含めた戦後の風潮が、いかに根強くはびこっているかが分かります。 テレビをつければ、頻繁に出てくるのは相変わらずシンガポールや香港の話題であり、多民族国家やグローバル礼賛がこれでもかと宣伝されています。 また国民の方も、英語力を始め、欧米的価値観や教養をどれだけ多く身に付けているかを評価基準にして、互いの背比べに必死になっている様は、中韓を始め、他のアジア諸国の留学生に引けを取らないという、滑稽な状況まで出現しています。 そんな風潮の一例が、外見から中身まで「国籍不明の日本人」でしょう。マスコミがもてはやすこうした類の人物像が、普通の人々にとっての理想像であるかどうかは別にしても、若者の心に少なからず大きな影響や、無用な劣等感を与える一因になっていることは確実です。 そんな中、一部のスポーツマンたちの、日本を強烈に意識した清々しい振舞いは、それなりの環境にあれば、日本の若者も変わるのだという可能性を示していて、ホッとするのではないでしょうか。 話が本題から外れて恐縮ですが、こんなスポーツの世界に対し、独自の主張をしている人物がいます。日本本来の武術を追求している甲野善紀氏(1949-)です。 自ら「兵農分離以前の剣術を理想とする剣術遣い」と称する甲野氏は、長年の研鑽によって、古来から伝えられた本来の剣術は、胸を張り膝や肘を伸ばして竹刀を扱い、床を叩きつけるように動き回る現代の剣道とは、全く違っていたはずだと主張します。 つまり明治期の欧化政策によって、旧幕時代のものは何でも古臭いといった風潮に支配された結果、西欧化された剣道が生まれたというのです。 実際明治時代、二代目の京都府知事槙村正直は、「剣術など旧弊の最たるものだ」と断じ、取締りを強化し、剣術の稽古をしていると、反政府主義者だと拘束されかねなかったそうです。 そのため、欧化政策がかなり社会に定着した明治30年代になって、再び国粋的尚武の気風が台頭してきたにも拘わらず、復活を許されたのは、日本人お得意の和洋折衷の現代剣道だったというのが、甲野氏の結論です。 こうした歴史的事情の積み重ねで、武道全般がどうなったかは、柔道を見れば明らかです。 もともと柔道が世界的に普及したのは、技の中に、テコの原理など欧米人にも理解しやすい面が多かったからであろうと、甲野氏は推理しますが、現代柔道が体格や体力、また運動神経の良し悪しが物を言うスポーツに近付けば近付くほど、我々日本人にとって違和感の強いものになっている事は周知の通りです。 少し前の産経新聞に、剣道の国際試合で、韓国の選手が礼節も何もない闘志むき出しの試合で、日本人の優勝が危ぶまれていると書かれていましたが、このまま行けば、剣道すらいずれスポーツのKENDOになっていくであろうことは、容易に予想がつきます。 こうした状況を踏まえ、特筆すべきは、現代の武道をダメにしているのは、西欧的な「科学的トレーニング志向」だと甲野氏が主張していることです。 我々日本人が本来目指し、また尊重してきた武術や生き方ば、体格や体力面で劣っていたり、或は絶対的に不利な状況また死の淵にあったとしても、いかにしてそんな状況に対応するかを、真剣に追求する所にあったはずなのです。 GHQが武道を禁止したのは、戦前の日本人が、例え明治期に出来た西欧化された武道であっても、自らの不利な条件を自覚して必死に精進してきた、その気概を恐れたからでしょう。 実際、生と死の間で苦しんだ戦中の日本人なら、およそ武術が想定する極限状況は日常であって、そこを幾度もくぐり抜けた人々は数知れなかったでしょう。 故三島由紀夫氏が、生前肉体の鍛錬をしたのは、持って生まれた弱い肉体を改造するという目的だけではなく、常に「死」を意識する日本の伝統文化において、精神と肉体は深く結びついていることを認識していたからに違いありません。 そして現代は、日本史上初めて、身体を上手く使いこなす知恵や日本人が理想としてきた生き方全般の伝承が途絶えた時代だと、甲野氏は位置づけます。 先生の表現を借りれば、「和魂が洋魂に食い滅ぼされる」という最悪の状況が、武術家によっても指摘されているのです。 GHQに洗脳されていたことが分かった以上、そこから脱するのは我々自身の知恵によるしかありません。我々の多くが感じているであろう、日常生活から社会生活の中まで、そこで起きている様々な事件や現象に対する強い違和感は、我々が未だ先祖のDNAを受け継いでいる証拠です。 甲野氏は機会あるごとに、現代では漫画の中にしか存在していないと思われている武芸の「秘伝」や荒唐無稽な技も、全くの嘘ではないことを、身を以って体現したり、スポーツ化している現代武道が忘れている、武術本来の目的を復活させる努力を提唱しています。 武道だけではなく、演劇や音楽、またロボット工学や介護現場まで、広範囲の分野から注目を集める甲野氏の身体術ですが、「科学信仰」にまみれた我々日本人によってではなく、外国人によって、より認められ、その結果またそれを日本人が「逆輸入」するという情けないことにならないことを、ひたすら祈るばかりです。 返信
大変興味深く拝見させていただきました。
さまざまな戦後処理が存在する中で、我々日本人が「負」の財産ばかり背負わされていることを、いかに認識替えすべきか、私たちはどこで認識を間違ってしまったのか、そのことを淡々と追求していかなければならないと思うわけです。
西尾先生はご自身のご研究の中で、さまざまな角度から、日本という国の強さと弱さを洗い出していらっしゃいますが、再度日本が、日本人が、自分に自信を持ち直せるには、天皇国家を軸とした国体が必要なんだと常々おっしゃっておられます。
そのことに少しだけわたくし個人の身の回りの出来事から、語らせていただきます。
実は私の職場には内モンゴル出身の女性(27歳)がおります。
彼女は19歳の時に日本に留学生としてやってきました。
その女性と先日ある作業を共にすることがあり、その作業をしながら、いろんな話題をしたのですが、彼女は歴史が一番苦手だと言うんです。
どうやら地元ではあまりその面を重視しないそうで、彼女の地元ではとにかく語学に優れた人間が最重視されるそうなんです。
実際彼女は4カ国語を話せます。地元の言葉、中国語、日本語、英語を少々。彼女の日本語は、とても聞き取りやすく、顔立ちもやはりモンゴルの血が流れているせいか、日本人っぽく、わたしは最初彼女は日本人かと思ったくらいです。
そこで私が知っているモンゴルの歴史を、できるだけかしこまらないように気遣いながら教えたんです。すると彼女はこういうんです。
「モンゴル人はどちらかというと、みんなおとなしい人が多いですよ。争いごとが苦手なのかなぁ、そんな感じがします。会話も普段は本当におとなしいです。中国人も普段はそうなんですけど、なぜか食事をはじめるとみんなうるさくなるんです。どうしてこんなにうるさくなるのかわからないけど、わたしも最初はびっくりしました。普段あまり喋らない子が、食事をすると突然しゃべりだすことが多いです。中国人はみんなそんな人が多いです。」
なるほどなるほど・・・と思いながら聞いていると、こんなことも言ってました。
「モンゴル人は他人と仲良くすることが一番大切だというのがありますね。喧嘩することはあまり好きじゃない。出会う人と仲良くする習慣が強いと思います。」
こんな民族性がモンゴルの歴史と深く結びついているのかなぁと思いました。実際彼女は職場で多くの日本人から親しまれていて、彼女の悪口をいままで聞いたことがありません。
そんな彼女が歴史が苦手だというので、チンギスハーンのことや、マルコポーロのこと、それに関連してコロンブスのことまで教えたんです。
インドのムガール帝国のムガールはモンゴルという言葉がインド化されてそう呼ばれるようになったんだよと教えると、おもしろそうに聞き入っていました。
彼女いわく「ハーン」というのは「王様」という意味だそうで、モンゴル人には苗字というものがないそうです。それは初耳でした。
彼女の話を聞いていて感じたのは、間違いなく内モンゴルという場所は、中国ではあっても実際はそこに住んでいる人間は、みなモンゴル人だという認識が強いということ。
そして普段から聞く耳を持っているということ。人の話を聞き分ける能力の凄さには頭が下がります。
この傾向は中国人にも当てはまるかもしれません。中国語自体が様々な音の響きを持っていることが原因かもしれません。
そんな会話から感じたのは、モンゴル人はそうした民族性からも、大陸を制覇する能力が備わっていたということなのかもしれません。彼らの言葉を聞き分ける能力は、最大の武器だったということなんでしょうか。
それに比べれば、日本人は概ね単一言語民族ですから、その弊害がどこかにあらわれて、「覇権」という意思が働きにくいのかもしれません。もちろんそれ以外にも多くの要素が絡まって、日本という国が内側に縮こまる習性をどうしても守ってしまう、これもしかたのない話となるのでしょうか。
しかし、我々には内なる強い思いというのも同時にあるようにも思います。
他国の言葉には長けていないけれど、ある種その反動というか、煮詰まった我々の言語から生まれる超日本的な感覚というのもあって、駆け引きのない純粋な人間性というものがそこにはあるように思うのです。
それが良い悪いは別として、間違いなく色濃いものとなってそれがあように思われます。
そんな日本人の民族性を補うかのように、日本人のステータスを維持しているのが、西尾先生のおっしゃる「天皇国家日本」なんだろうと思うのです。
簡単に言えば我々日本人は、天皇陛下のゆりかごの中で過ごしているということだと思うのです。この安心感が様々な現象を生んでいる。感情の骨子がここにある。そのことを無視しようという意見には、無条件で違和感をおぼえる。ものごとの判断の規定は、このゆりかごを脅かすかどうかの査定が基準値となっている。
そんなふうに感じ取った次第。
社会的には既に公害に等しい存在の朝日新聞ですが、戦前戦後でスポンサーが替わり、180度も姿を変えても、端から見ている人に対して、顔を赤らめるでもない恥知らずの幇間にすぎなかった事が、GHQの文書ではっきりしたことは、これまでも分かっていた事だとはいえ、より一層腹立たしく思えます。
しかもそんな新聞をインテリが読むものだと信じてきた多くの人々は、まともな人なら苦々し思いにかられ、何十年も大切な時間や費用を無駄に費やしてきた事を悔やむに違いありません。
しかしこんな新聞の系列である朝日カルチャーセンターやNHK文化センターが、今もなお、多くの一般人に様々な教養講座を提供していることを考えると、文化芸術を含めた戦後の風潮が、いかに根強くはびこっているかが分かります。
テレビをつければ、頻繁に出てくるのは相変わらずシンガポールや香港の話題であり、多民族国家やグローバル礼賛がこれでもかと宣伝されています。
また国民の方も、英語力を始め、欧米的価値観や教養をどれだけ多く身に付けているかを評価基準にして、互いの背比べに必死になっている様は、中韓を始め、他のアジア諸国の留学生に引けを取らないという、滑稽な状況まで出現しています。
そんな風潮の一例が、外見から中身まで「国籍不明の日本人」でしょう。マスコミがもてはやすこうした類の人物像が、普通の人々にとっての理想像であるかどうかは別にしても、若者の心に少なからず大きな影響や、無用な劣等感を与える一因になっていることは確実です。
そんな中、一部のスポーツマンたちの、日本を強烈に意識した清々しい振舞いは、それなりの環境にあれば、日本の若者も変わるのだという可能性を示していて、ホッとするのではないでしょうか。
話が本題から外れて恐縮ですが、こんなスポーツの世界に対し、独自の主張をしている人物がいます。日本本来の武術を追求している甲野善紀氏(1949-)です。
自ら「兵農分離以前の剣術を理想とする剣術遣い」と称する甲野氏は、長年の研鑽によって、古来から伝えられた本来の剣術は、胸を張り膝や肘を伸ばして竹刀を扱い、床を叩きつけるように動き回る現代の剣道とは、全く違っていたはずだと主張します。
つまり明治期の欧化政策によって、旧幕時代のものは何でも古臭いといった風潮に支配された結果、西欧化された剣道が生まれたというのです。
実際明治時代、二代目の京都府知事槙村正直は、「剣術など旧弊の最たるものだ」と断じ、取締りを強化し、剣術の稽古をしていると、反政府主義者だと拘束されかねなかったそうです。
そのため、欧化政策がかなり社会に定着した明治30年代になって、再び国粋的尚武の気風が台頭してきたにも拘わらず、復活を許されたのは、日本人お得意の和洋折衷の現代剣道だったというのが、甲野氏の結論です。
こうした歴史的事情の積み重ねで、武道全般がどうなったかは、柔道を見れば明らかです。
もともと柔道が世界的に普及したのは、技の中に、テコの原理など欧米人にも理解しやすい面が多かったからであろうと、甲野氏は推理しますが、現代柔道が体格や体力、また運動神経の良し悪しが物を言うスポーツに近付けば近付くほど、我々日本人にとって違和感の強いものになっている事は周知の通りです。
少し前の産経新聞に、剣道の国際試合で、韓国の選手が礼節も何もない闘志むき出しの試合で、日本人の優勝が危ぶまれていると書かれていましたが、このまま行けば、剣道すらいずれスポーツのKENDOになっていくであろうことは、容易に予想がつきます。
こうした状況を踏まえ、特筆すべきは、現代の武道をダメにしているのは、西欧的な「科学的トレーニング志向」だと甲野氏が主張していることです。
我々日本人が本来目指し、また尊重してきた武術や生き方ば、体格や体力面で劣っていたり、或は絶対的に不利な状況また死の淵にあったとしても、いかにしてそんな状況に対応するかを、真剣に追求する所にあったはずなのです。
GHQが武道を禁止したのは、戦前の日本人が、例え明治期に出来た西欧化された武道であっても、自らの不利な条件を自覚して必死に精進してきた、その気概を恐れたからでしょう。
実際、生と死の間で苦しんだ戦中の日本人なら、およそ武術が想定する極限状況は日常であって、そこを幾度もくぐり抜けた人々は数知れなかったでしょう。
故三島由紀夫氏が、生前肉体の鍛錬をしたのは、持って生まれた弱い肉体を改造するという目的だけではなく、常に「死」を意識する日本の伝統文化において、精神と肉体は深く結びついていることを認識していたからに違いありません。
そして現代は、日本史上初めて、身体を上手く使いこなす知恵や日本人が理想としてきた生き方全般の伝承が途絶えた時代だと、甲野氏は位置づけます。
先生の表現を借りれば、「和魂が洋魂に食い滅ぼされる」という最悪の状況が、武術家によっても指摘されているのです。
GHQに洗脳されていたことが分かった以上、そこから脱するのは我々自身の知恵によるしかありません。我々の多くが感じているであろう、日常生活から社会生活の中まで、そこで起きている様々な事件や現象に対する強い違和感は、我々が未だ先祖のDNAを受け継いでいる証拠です。
甲野氏は機会あるごとに、現代では漫画の中にしか存在していないと思われている武芸の「秘伝」や荒唐無稽な技も、全くの嘘ではないことを、身を以って体現したり、スポーツ化している現代武道が忘れている、武術本来の目的を復活させる努力を提唱しています。
武道だけではなく、演劇や音楽、またロボット工学や介護現場まで、広範囲の分野から注目を集める甲野氏の身体術ですが、「科学信仰」にまみれた我々日本人によってではなく、外国人によって、より認められ、その結果またそれを日本人が「逆輸入」するという情けないことにならないことを、ひたすら祈るばかりです。
>黒ユリさま
いつもコメント有難うございます。
GHQの洗脳が証拠もそろい、はっきりとわかった今、
そこから脱するのは私たちの知恵だとのお話、
とても参考になりました。