中国、この腐肉に群がるハイエナ(一)

 ヨーロッパから見るとロシアも中国も東方の大国で、専制独裁の皇帝制度の歴史を擁した国々である。イワン雷帝やスターリンのイメージがプーチンに投影されるし、歴代の中国皇帝は毛沢東や蒋介石だけでなく、金日成にも、カリスマ性という点だけでいえば李登輝にも、典型としてのある雛型を提供している。これに対し欧米の国家指導者は性格を異にしている。前者のアジア型指導者を「聖人」、後者を「法人」の呼び名で興味深く整理したのは中国文学者の北村良和氏だった(『聖人の社会学』京都玄文社、一九九五年)。私は面白いな、と思った。「聖人」の「聖」とは道徳的宗教的意味ではない。

 欧米の指導者はたとえ独裁者でも、例えばナポレオンやヒットラーを見てもアジア型皇帝の非法治主義の系譜は引いていない。皇帝がいなければ国家統一がどうしてもできないという民衆の心の古層にある暗黙の前提、奴隷的依存心の欲求度が違う。欧米型独裁者は永つづきしない。アジア型は伝統を形づくり、同じパターンが繰り返される。民主主義にはどうしてもならない。

 ひるがえって日本はどうかというと――ここからは北村氏とは少し違う考えになるが――日本は昔から法治主義の国ではあるが、二典型のどちらにも入らないのではないかと思う。天皇はどの類型にも当て嵌まらないからだ。日本の政治が何かと誤解されつづけるのはそのためである。また、カリスマ的政治指導者がわが国に出現しないのもそのためである。欧米も、アジアの国々も、自分たちの歴史の物指しで日本の政治権力を測定し、勝手に歪めてああだ、こうだと騒ぎ立てることが多い。まったく迷惑である。

 今はアメリカがアメリカ型民主主義をアジアに移植した成功例としてわが国を、再び歓迎しようとしている。しかし少し違うのである。民主主義に関する微妙な誤差が大問題になる可能性もある。

 他方、中国や韓国は、実証主義を欠いた歴史認識、歴史を自己の政治的欲望の実現に使おうとする前近代的意識に立てこもり、そこを一歩も踏み出すことはない。討議も論争も成り立たない。そのいきさつをアメリカは理解しているのだろうか。

 しかしここに来て新しい厄介な事態が出現した。技術や生産力を高め豊かになれば体制を転換させ、民主主義国家に近づくであろうとアメリカが期待した中国が逆の道を歩き始めたのだ。習近平はスターリン型独裁者、アジアのあの「聖人」になろうとし始めている。中国国民はひょっとしてそれを希望し、期待するのかもしれない。

 中国の大学ではマルクス主義の教育理念の再確認がはじまった。次々と上層部に逮捕者の出る汚職撲滅の名において独裁的手法が強化されている。経済データひとつ正確には公表しない秘密主義。日本の国家予算規模の巨額を海外に持ち逃げする党幹部の個人犯罪とその犯罪を罰すると称して政権の権力闘争にこれを利用する二重の犯罪。そこに法治主義のかけらもない。水・空気・土の汚染と急速に広がる砂漠化によって人間の住めない国土になりつつある理由も環境保護の法を守るという最低限の自制が行われないためだ。格差の拡大などという生易しい話ではない富の配分のデタラメさ。臓器移植手術にみるナチス顔負けの人間性破壊。チベット・ウィグル・内モンゴルでの終わりのない残虐行為と南支那海・東支那海への白昼堂々たる領土侵略。しかもこれらの情報のいっさいから国民が疎外されている言論封圧の実態こそがスターリン型国家がすでに再来しているしるしといってよいのではないだろうか。

 一九八九年十一月九日の「ベルリンの壁」崩壊のあの喜びの声はアジアではいったいどうなり、どこへ行ってしまったのだろう。

つづく
正論6月号より

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です