我が好敵手への別れの言葉

「正論」平成三十年三月号より

 人はおりふしに自らの歴史に深い闇を見る。たいていは行動力がそれを気づかせない。否、行動力のある人ほど闇の奥底の色は濃いのかもしれない。

 西部邁氏はフェアーな人だった。私たちが一番頻繁に顔を合わせたのはテレビ朝日の討論番組、朝まで生テレビだった。例えば外国人単純労働者の受け入れ是非をめぐるテーマが討論された場面などで、テレビ出演に慣れない私を西部氏は上手にリードしてくれたものだった。大島渚氏や野坂昭如氏等の名だたる仇役者たちから私を終始守ってくれた。その名だたる中に舛添要一氏がいた。私の位置から一番遠い席より手を大きく振り上げて私を指さして「このレイシスト!」と叫んだ。聞き咎め、窘(たしな)めたのもやはり西部氏だった。場違いだろう、無礼な言葉は慎め、というようなことをたしか言ったのを覚えている。

西―西論争の日々

 それより前であったか後であったか思い出せないが、舛添氏と西部氏と私の三人がパリで落ち合って数日間を一緒に過ごす機会があった。今から約三十年前、1986年9月に読売新聞社主催の円卓会議が日本から七人、ヨーロッパから十二人の知識人を集めてパリで開催された。西部氏の「日本の産業の成功は文化の犠牲の上に成り立つ」という近代日本を否定するポジションペーパーが、ヨーロッパ人の出席者の中で人気を博した。日本の自動車生産台数が世界一になって六年目のこの頃、電子部門の日米ハイテク競争が取り沙汰され始めていた。置き去りにされかねないヨーロッパは日本の進出にひどく神経質になっていた。

 当時のヨーロッパのメディアには、まるで異質な星雲からの未知の生物の出現のように日本人を扱い、日本の教育や労働慣行から休暇の取り方まで嘲る論調さえあった。西部論文の日本批判は彼らにとって渡りに船だった。私はあえて西部氏に異を唱え、反論した。二人の間で日本文化の是非をめぐる激しい論争が繰り広げられた。対立は四つのセッションのうち三つにまで影響した。日本人記者団からは「西―西論争」などと冷やかされたが、ヨーロッパ人の眼前で日本人同士が互いの主張をぶつけ合う光景は彼らの目には新鮮に映ったらしい。会議の最終日に議長のフランス人をして、今回は日本人が多様性を持つ国民であることを初めてリアルに感じさせた、と言わしめたほどだった。

 二人の論争は明治以来の日本の西洋化=近代化をめぐる永遠のテーマに関わっているので、簡単に終わる話ではない。それなのにここまで発言しなかった舛添氏が最後になって「本日の二人の論争は私のような若い世代にとってはもう終ったテーマであって、世代の差を感じさせるばかりだ」と言い出したのには驚いた。いったいこの種のテーマに世代論を当てはめることは可能であろうか。え?と私は耳を疑ったほどだった。

 私と西部氏はその夜パリの裏町で生牡蠣にワインを楽しみ、意気軒昂だった。舛添氏の世代論には西部氏も呆れ返っていた。二人は意気投合、パリ会議は激論を戦わせた二人の仲をかえって近づけた。

 主催者の読売新聞社側は、二人にはパリで言い残したことが相当あるに違いあるまいと踏んで同社の月刊誌『THIS IS 読売』(1987年1月号)のほゞ一冊の半分近い大幅ページ数を提供し、論争のつづきを思いのたけ語らせてくれた。公平で面白い全記録が残り、「西尾幹二全集」第10巻に保存された。

 興味深かったのは二人の結論が最終段階で接近したことである。それは理解とか寛容ということとは違う。西部氏は論争の最中も、終結後の資料の扱いにおいても、瑣末事に心乱されることなく、一貫してフェアーだった。

つくる会とテロをめぐる確執

 二人の間に距離が生じ、対立の軋みが見え始めたのは、1996年12月に「新しい歴史教科書をつくる会」が発足してからである。私が歴史、西部氏が公民の教科書の責任者になって以来であった。協力し合わねばならない関係なのに、そのことが苦痛となる事件が相次いだ。一口でいえば、公民の教科書は作りたくないのだけれど仕方がないから作ってやるのだと言わんばかりの彼の横柄な態度、しかも実際には作りたがっていた、そのウラの感情が私は分っているので、相手が素直でないことへの私の苛立ちは半端ではなかった。
 
 同じ一つの会を共同経営していくという責任感情がまるきりないことは次に起こった別の事件でさらに発覚した。私は2000年3月に台湾を旅行し、紀行文を本誌に公表した。西部氏によるそれへの攻撃が始まった。ときはまさに教科書検定の直前に当り、さらに採択をひかえた微妙な時期なので、「つくる会」の会員から内輪もめしないでくれ、という悲痛な手紙が何通も届いていた。私は反論はもとより釈明も弁解も封じられたかたちだった。私のそういう縛られた不自由な条件を西部氏は知っていた。私は氏のもう一つの側面を見た。

 局面いかんにより滅茶苦茶なことを言ったり書いたりする人だ、ということである。ニューヨーク同時多発テロが起こり、保守言論界の一部に左翼返りが生じ、非常に怪し気なムードが辿ったときがある。イスラムのテロリストを見て、真珠湾と特攻を思い出すという、アメリカ人ならともかく、日本人においてはあってはならない倒錯があっと驚くほどの勢いで有名保守系知識人の間にも広がった。旧日本軍をタリバンになぞらえ、弱者の反乱として先の大戦を説明する類の安易な歴史観である。

 私はあのとき西部氏も相当に危ない崖っぷちに立っていたように思える。「テロリズム考」(本誌2002年2月号)で、あらゆる革命はテロであり、大化改新もそうだったから、テロは歴史の進歩の動因の一つで、テロを不当とするなら「退歩が歴史の真相であったことを認めるのか」などと読者に迫るのである。そう脅かしておいて、テロの正当性をまず確認する。次いで社会は法律だけで成り立つのではなく、道徳という価値の体系を持っている。だから「合法ではないが合徳」というテロがあり得る、と言って、言外にアルカイダ・テロルを支持してみせる。しかし、もしそうであるならば、アメリカの軍事行動も「合法ではないが合徳」のテロルの一種とみなしてよいのではないか、という自然に思い浮かぶ読者の疑問には、一顧だにしない。

 保守らしいことを語っていた人が事と次第によってはとんでもない言説を振り回す可能性があることを示唆しているといえまいか。

 氏が主幹である『発言者』(2001年12月号)の座談会で、一人が西部先生の言葉として、「ビンラディンの顔はイエス・キリストに似ているとおっしゃった。私はハッとしました。大直観だと思います」を読んだあの当時、私はあゝ、危いな危いなと思ったものだった。どうして西部氏はキリストの顔を知っているといえるのであろう。知らなければ似ているも何もないではないか。人類の中でイエス・キリストの実物の顔を思い浮かべることができる人が本当にいるのだろうか。氏はここまで意識が浮遊することが起こり得る一人であったことはほゞ間違いない。

どこか、うらめない

 氏は二人が対座しているときに突然自分を茶化すようなおどけたことを言って、思わず微笑ましくなることがある。タクシーの隣りにいて、誰か若い人を叱責したときの話をして、「俺がいくら叱ってもさまにならないんだ。招き猫みたいな顔だって言われるんでねぇー」。そう言って片手を上げてひょいと私の方を見た上半身は薄暗いライトの中でまさに招き猫そのものなのだ。このように自分で自分を笑えるお茶目ぶった余裕があの人がみんなに愛された理由なんだと思う。

 西部先生の業績って何でしょうか、と昨日編集者に聞かれて、私はしばらく考えてからこう答えた。

「彼の学問的業績については私は分らないし、何も答えられません。たゞ、世の中の空気をひとつだけ替えたものがある人です。あの人は、保守だ、保守だと、『保守』という言葉を振り翳して世の中を渡ろうとしましたね。こんなに恥しい二文字を美しく盛り立てて歩き回った人はいませんよ。元来人気のない嫌われ言葉でした。『保守停滞』『保守頑迷』『保守反動』・・・・・これは日本では会社の名にも政党の名にも使えません。それなのにあの人が胸を張って騒ぎ立てたおかげかどうか分りませんが、『保守的』であることを若者が好むようになってきました。でも、若者が好むムード的保守感情は危険な崖っ淵を歩んだあの人の叫びとはまるっきり逆の方向を向いているのかもしれませんがね。でも、どこかうらめない所がある人だったんですよね。」

御厨貴座長代理への疑問

 私は天皇御譲位をめぐる問題については発言しないことに決めていて、今までのところこれを実行している。

 以下に示すのはやはり同問題そのものへの発言ではない。
御厨貴氏は有識者会議の座長代理である。座長はたしか経済界の有力者で、従って「代理」が事実上の座長であることは他の同種の有識者会議の例にもみられる通りである。
御厨氏は果してこの重要なお役目の座に坐るにふさわしい思想の持主であろうか。

NHKスペシャル「シリーズJAPANデビュー 第二回 “天皇と憲法”」
2009年5月3日放送

東京大学・御厨貴教授:
「で、問題はだからやっぱり、僕は、天皇条項だと思っていて、この天皇条項が、やっぱり、その、如何に非政治的に書かれていても、やっぱり政治的な意味を持つ場合があるし、そういう点でいうと、あそこをですね、やっぱり戦前と同じように、神聖にして犯すべからず、あるいは、不磨の大典としておくのは、やっぱり危険であって、そこに一歩踏み込む勇気を持つことね。天皇っていうのは、だから、その主権在民の立場から、どう考えるかってことを、本格的にやってみること、これね、みんなね、大事だと思いながらね、絶対口を噤んで言わないんですよ、危ないと思うから、危ないし面倒臭いし、ね。だから、ここを考えないと、21世紀の日本の国家像とかいった時に、何で天皇の話が出て来ないってなるわけでしょ、そういう、やっぱり、やっぱり、天皇って、そういう意味では、国の臍ですから、この臍の問題を、つまり日本国憲法においても臍だと思うな、考えないと、もういけない時期に来ている、と僕は思います」

 以上はどう読んでも、皇室の存在は「主権在民の立場」にとっては障害になっている、ということを言っているのではないだろうか。「21世紀の日本の国家像」は共和制がふさわしいという意見の持主ではないだろうか。
こういう先入観をもっている方が今回の有識者会議の事実上の代表であることは果して許されることであろうか。

遺された一枚の葉書

遠藤浩一氏追悼文

 私は1月3日に遠藤浩一さんから葉書をいただいた。5日に知人から「未確認情報ですが、遠藤さんが亡くなったらしいんです」と電話が入った。一体何を言っているのかと訝しみ、福田逸さんに問い合わせた。福田さんも聞いておらず思い切って奥さまに電話を入れて事実を確認し、私にも知らせてきた。奥さまは取り乱しておられる由、私は面識もないので遠慮して電話は控えた。葬儀は執り行われないというのでどうしてよいか判らない。いただいた葉書の日付をみると12月31日に書かれていて、1月1日に投函されている。内容は贈呈した私の新刊本へのお礼である。年賀状の端に書けば済むし、他の人はそうしているのに、十行にわたって本の中味に及んでしっかりした文字で書かれている。年内に間に合わせようと急いで書いて急いで出したものらしい。礼儀正しい人なのである。ひょっとすると絶筆かもしれない。この一枚の葉書をどう扱ってよいか後で考えたい。

 1月10日に彼もメンバーである「路の会」という勉強会の新年の集いがあった。急逝で気を鎮められない人が多く、21人も集まった。しかし急死するようなご病気があったとは誰も聞いていなかった。死の前後の情報も伝わってこない。なぜ逝ったの?と繰り返し呟くのみである。十日経ってこれを書いているが、私はまだ彼の死を受け入れる気持ちになっていない。現代では55歳は夭折である。12年前に坂本多加雄さんの死に私は同じこの夭折という言葉を用いたことを思い出した。

 私が遠藤浩一さんに出会ったのは39年前の1976年、彼が高校三年のときであった。私の側に初対面の認識はない。彼がそう言うのである。彼の母校県立金沢桜丘高校の創立記念祭で私が講演したのは覚えている。彼は会場で聴いていた一人である。数年前に電話でそう言い、何を話したかすっかり忘れていた私に「ちょっと待って下さい」と言ってどこからか講演録をさっと持ってこられた。「どこに置いてあったの?」とその早さにびっくりしていると、いつも書棚の一角に置いてあるんですと言われてさらにびっくりし、ひたすら感激し、申し訳なくさえ思った。

 「個人・学校・社会――ヨーロッパと日本の比較について」と題した私の話を収めた校友会誌のコピーを後日送ってくれた。モントリオールオリンピックの年で、韓国の選手たちは金メダルを獲ると高い報奨金をもらえるのに日本の選手にはそれがない、という不平不満が一種の社会問題になっていた。私は保証のない自由、それが本当の自由ではないか。自由とは自己決定であり、つねに安全とは限らないのではないか。悪を犯す自由も、怠惰である自由も、真の自由のうちには含まれているのではないか、というようなことを高校生を前に必死に説いていた。遠藤少年の琴線に触れたことは間違いない。私と彼とは23歳も違うが、師弟関係ではない。あれからずっと「真の友情」が続いた。民社党の月刊誌『革新』の編集者になってからたびたび私は訪問を受け、今度調べると八回のインタビューが全部彼の手で論文として纏められていた。彼の理解は早く正確だった。

 2002年に「路の会」のメンバー20人で合同討議本『日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったのか』を出した。遠藤さんは自分は戦争直後を知らない世代だがと断った上で、永井荷風の『断腸亭日乗』の昭和20年9月16日の記述を読み上げた。荷風が「国民の豹変して敵国に阿諛(あゆ)を呈する状況」を見て、戦時中「義士に非ざるも……、眉を顰め」ずにはいられない、と述べている箇所にとくに注目している。荷風は戦時中、日本軍部に秘かに冷や水を浴びせていたことはよく知られ、戦後しばしば賞賛されたが、遠藤さんはそういう個所ではなく、戦後たちまち所を替えて米占領軍に「阿諛(おべっか)」を呈するわが国民に冷や水を浴びせている荷風の姿勢に目を向けている。そして8月15日より以降、荷風が「しばらくの間、休戦」といい、「敗戦」とも「終戦」とも言っていないこと、戦意の継続意志の表明があることに着目し、「義士」にあらざる荷風が解放感で大喜びしたりせず、アメリカは依然として「敵」であり続けたことを重視している。こういう個所を読み落とさず、しかと目を据えている点に遠藤さんの本領があった。

 私に最後にくれた例の葉書でも「安倍総理の靖国参拝に、中韓のみならず、米国をはじめとする世界中の国が騒いでみせていますが、これも日本の国家意志の表明が国際政治を左右しはじめていることの証だと思はれます」と書いていた。右は首相の靖国神社参拝の五日後、彼の死の四日前の認定である。

 遠藤さんは若い頃芝居を書いていて、文学の徒である。アマチュアの役者でもあり、声は張りがあり、朗々としていた。政治論より文学の話題を交わすのが楽しかった。福田逸さんを交えて三人で間を置いて飲み会をやっていた。日本橋に炭火を囲む面白い店を見つけたので年が明けたら集まろうよ、とつい先日言ったばかりなので、私はまだ今日の事態を理解することが出来ずにいる。

『正論』2014年3月号より

宮崎正弘さんの出版記念会

 本年(平成25年)10月4日午后6時30分より、市ヶ谷ホテルグランドヒルにおいて、宮崎正弘さんの出版記念が行われました。

 発起人代表として私が僭越ながら最初に祝辞を述べさせていただき、次いで熊坂隆光産経新聞社長の祝辞があり、呉善花氏、日下公人氏と挨拶がつづき、村松英子氏の音頭で乾杯がなされました。そのあと宮崎氏自身の謝辞があり、しばらく休憩食事となりました。

 スピーチが再開され、じつに賑やかで豪華な顔触れでした。井尻千男氏、加瀬英明氏、池東旭氏、中村彰彦氏、高山正之氏、宮脇淳子氏、黄文雄氏、ベマ・ギャルボ氏、田母神俊雄氏、水島総氏、堤堯氏。ここで時間切れとなり、予定されていた各種エキジビションはとり止めとなりました。最後に花田紀凱WiLL編集長が中締めを行い、藤井厳喜氏の元気のいい三本締めで8時30分にお開きとなりました。

 しかしこれで終わらず、有志40名余が10時30分ごろまで同館内の別室で二次会を行い、カラオケ大会を開き、田母神氏の自衛隊を讃える(女性には聞かせられない)歌が拍手喝采でした。

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 さて、私の冒頭の祝辞は、次の通りの内容です(全文)。

宮崎正弘さん、おめでとうございます。

 今日は宮崎さんの現代中国研究の恩恵をこうむり、感謝し、かつ感嘆している方々がここに多数お集まりだろうと思います。私もその一人です。宮崎さんの中国研究はすべて自ら脚で歩いて、見かつ聞いた現地情報を基本とし、それに中国語、英語のメディアからの驚くほど多数の情報をもの凄いスピードで日夜読みこなし、あの有名なメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」――本日10月4日で4037号を数えますが――にほゞ毎日、旅行中以外は休むことなく、ときに同じ日に2度3度と出すこともあり、ここで確認した情報をさらに整理し、ご自身の文明観や国際政治観を書き込んで、次々と本を出され、今日ここに160冊目となる一冊「出身地を知らなければ中国人は分からない」が出て、それを記念し、祝福したく、友人知人がこの場所に相集まった次第です。

 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」は主に21世紀に入ってから書かれたもので、それ以前にも中国論は書かれていますが、この15年ほど広範囲の人々、政界・言論界はもとより、メディア以外にも学者や一般読者にも、中国が日本人にとって重大になるにつれてきわめて大きな影響力を発揮してきました。何より中国の全州に足を踏み入れ、いたるところを踏破し、新幹線ができてくればこれに全線全部乗り、北京と上海しか見ていない新聞記者顔負けの行動力で、どれくらい人の目を開かせ、日本人の知見を広めたか分りません。新聞社の中国特派員が宮崎さんのメルマガを見て書いていると聞いたことがあります。さもありなんと思いました。

 宮崎さん以後、若い現代中国研究家が続々と出現しました。今日お集まりの皆様の中にもいらっしゃると思います。ある人は、世界各地にあふれ出し、欧州アメリカその他をボロボロにするほどに迷惑をかけている中国人移民の生態とその政治的なトラブルを主なテーマにしています。またある人は中国人労働者、農民工の生活の苦しい内実、ことに中国人女性の暮らしぶりやものの考え方について数多くの観察レポートを書いています。またある人は中国と日本政府、官僚、財界人の不正なつながりに光を当て、中国進出の日本企業の陥った非情なる苦境につい徹底的に追及しています。こうした多士済々な活動は、宮崎さんが一度は何らかの形で手を着け、すでに発言し、展開しているテーマのうちにありますが、しかし宮崎さんひとりでは追い切れない特殊テーマの個別的研究といった体のもので、よく考えると宮崎さんが広げた大きな展開図の中で、単身では及ばなかったテーマの個人的追究といったものであって、宮崎さんはいわば現代中国研究の総合的役割を果してきたのだなと思い至るのであります。後から来た世代は宮崎さんの仕事を横目で見て、それと重ならぬように、そこから漏れたテーマに焦点を絞って、意図的に個別の研究をすすめてきました。宮崎さんの中国ウォッチングはそれらの人々の前提であり、先駆でした。すなわち宮崎さんは黙って一つの「役割」を果していたのだな、と今にして思い至るのであります。

 私自身は中国の現場についてほとんど何も知らず、160冊のご成果のあれこれについて意見を述べるのもおこがましく、今日お集まりの方々から各著作の特質について、専門的見地からの的確なお話が伺えるものと思います。だが、それほど重要な宮崎さんの現代中国探査報告、権力の中枢から市井の人々の呼吸まで伝えているレポートの数々は宮崎さんの著作活動の最初から存在したものではありません。今日入口で皆さまにお渡しした著作リストがありますね。後から前へと制作順が逆並びになっていて、最新作がトップに来ています。

 これを見ますと1971年三島論が処女出版で、中国論が出版されたのは32冊目、1986年です。その一冊からまた飛んで、15年間中国論はなく、次は1990年の28冊目にやっと二冊目の中国論が書かれています。そういうわけで、中国論がたくさん書かれるようになったのは2001年より後です。2001年から今日までの68冊のうち45冊が中国ものとなります。私がお知り合いになったのはそれより少し後です。

 では、それ以前の宮崎さんは何をしていたのか。経済評論家であり、アメリカ論者であり、資源戦略や国際謀略などに詳しいグローバルな動機を基礎に置いた国際政治に関する著作家でした。

 私は成程と思いました。中国語の読み書きはもとより、英語の能力が高い。新聞雑誌の英語をもの凄いスピードで読む。メディアの英語は学校英語と違って、背景の広い国際知識をもたないと読めないもので、難しいのです。びっくりするのは世界の無数の政治家、経済人の名前をつねに正確にそらで覚えている。欧米人だけではありません。中東から中央アジアの政局にも詳しく、キルギスとかトルクメニスタン、あのあたりに政変があると、片仮名で書いても長くて舌を切りそうになる固有名詞をそらで覚えていて、次々と出す。パソコンを片端から叩いて、何も見ていないのでしょう。全部頭に入っている。これにはたまげます。

 宮崎さんはどういう時間の使い方をしているのだろうか? いろいろな人の本を次々と書評もしている。私と同じ時期に送られてくる新刊本、整理べたの私がまだ本の封筒の袋を開けていないときに早くも宮崎さんのメルマガの書評欄にその本の書評がもう出ている。一体どうなっているのか。宮崎さんはどういう時間の使い方をしているのだろうか。ほとんど怪物だと思うこと再三でした。記憶力抜群、筆の速度の天下一、鋭い分析力と時代の動きへの洞察力――もう負けたと思うこと再三でした。

 中国論は世に多いが、経済の理法を知らなければ今の中国は論じられません。また逆に、中国の動向を正確に観察していなければ、今の世界経済は論じられません。宮崎さんの仕事は世に出るべくして出て来たのです。

 昭和前期に長野朗と内田良平という蒋介石北伐時代の中国ウォッチャーがいますが、宮崎さんはどちらが好きで、どちらが自分に似ているとお考えでしょうか。一度きいてみたいと思っています。どちらも愛国者ですが、長野朗は農本主義者で、内田良平は日本浪漫派風の国士でした。私は内田良平のほうに似ているのではないかな、などと考えています。

 宮崎さんは人情に篤い。多くの人のために出版記念会の舞台づくりをして下さいました。私もその恩恵に与った一人です。友人思いです。友人の死はもとより、その奥様が急死なさる――そういうとき彼は自分の仕事を捨てて飛んで行きます。友人のために働き、友のために気配りし、自分のスケジュールを犠牲にしてもいとわない。

 私はいつも思うのです。あの「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケズ・・・・・・東ニ病気ノ子ガアレバ行ツテ看病シテヤリ」そうなのです。本当にそうなのです。「丈夫ナカラダヲ持チ、欲ハナク、決シテ怒ラズ、イツモ静カニ笑ツテイル」・・・・・

 本当にそうなのです。仲間で言い合いがあって、少し激しくなってくると、宮崎さんはいつも茶化すような、思いがけない方角からの茶々を入れてみんなを笑わせ、一座の興奮を鎮めてしまう人です。

 「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」・・・・・宮崎さんの場合は玄米ではなく「一日ニ焼酎四合」と言い直したらいいでしょう。そして「少シノ野菜ヲ食ベ」というのは本当で、宮崎さんは飲み出すと物を食べない。これはいけない。健康に悪い。それからもうひとつ煙草を吸いながら酒を飲む。これもいけない。われわれが止めろといくら言ってもきかないのです。

 宮崎さんの生活行動は文学者のそれで、日本浪漫派の無頼派の作家、破滅型の作家のモラルに似ている処があって、そこが心配です。最近は酒の量が少し減っているように見受けます。メルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」の欄外に飲み歩きの記録、消息案内があるのですが、最近その記事がいくらか減っているようで心配です。二、三年前には、西荻窪から中央線に乗って途中で降りないで眠ったまま東京駅まで行ってしまうようなことがありましたが、いくら何でももうそんな無茶はしないで、大事にしていたゞきたいと思います。

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お知らせ3件 追記有り

1、 講演  

 西尾幹二講演会
日 時:11月11日(日)午後1時開場 1時半開演
演 題:小林秀雄と福田恆存の「自己」の扱いについて
場 所:ホテルグランドヒル市ヶ谷
参加費:¥2000
主 催:現代文化会議(電話03-5261-2753に事前に申し込んでください。座席数が限定されているためだそうです。)

2、 対談  

 西尾幹二 VS 福井義高(青山学院大学教授)
  『正論』12月号(11月1日発売)
  徹底検証対談 アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか(上)
――世界救済国家論とオールドライトの思想――

3、 新刊 

  西尾幹二・青木直人『第二次尖閣戦争』
祥伝社新書
11月2日店頭発売
1章 正念場を迎えた日本の対中政策
2章 東アジアをめぐるアメリカの本音と思惑
3章 東アジアをじわじわと浸潤する中国
4章 やがて襲いくる中国社会の断末魔
5章 アメリカを頼らない自立の道とは

追記

 10月31日(水)路の会が開かれ、講師の孫崎享氏が新刊のベストセラー『戦後史の正体』と同じ題のテーマでお話して下さった。参集した会員は桶谷秀昭、高山正之、冨岡幸一郎、宮崎正弘、黄文雄、川口マーン恵美、西村幸祐、田中英道、藤岡信勝、伊藤悠可、倉山満、入江隆則、尾崎護、三浦小太郎、山口洋一、福島香織、北村良和、木下博生、大島陽一、佐藤松男、仙頭寿顕(文春)、小島新一(産経)、力石幸一(徳間)ほか徳間関係者数氏。

 孫崎氏はGHQが戦後日本語をやめて英語を公用語に、円をやめてドル(軍票)を通貨にせよと対日要求したことに身をもって抵抗し、日本を守った外相重光葵(まもる)、以下愛国者の系譜を強調して語ったが、これはとても共感をよんだ。

 総じてアメリカに対し主体的であろうとした日本外交の物語は共感をよぶ。たゞ鳩山由紀夫の「せめて県外移転」を同じ主体外交と氏が捕らえるのには少し違和感があった。

 孫崎視は領土問題に関して「先占の理論」(先に占領している方が勝ち)はもう古く、国際司法ではこれは植民地時代の名残りとみられていて、今では決め手にはならない。決め手は条約にどう書かれているかであるという。

 日本の戦後の領土問題はポツダム宣言受諾から始まる。同条約第8条で日本政府はカイロ宣言を受諾している。同宣言には日本周辺の諸島の帰属は連合国が決めると書かれていて、しかも「日本が中国から盗んだ領土」という文言があり、今後中国が有利であり、尖閣も北方領土も日本固有の領土という言い方は国際的に適用しないことになろう、等々。

 当然ながら会員から異論が続出した。

 日中間での「尖閣棚上げ論」はもともと日本に有利な考え方で、日本が率先してこれをくつがえすのは愚かであり、武力紛争になってもアメリカは介入しない、という氏の持論もくりかえされた。「棚上げ論」に立ち戻りたいというのは氏だけではなく、多分外務省の総意だろう。

 しかし「棚上げ論」は日本が壊したのではなく、中国が日本襲撃の機会を狙っていて、ことここに至ったのだと私は解釈している。私はそういう見方だとこのときにも述べた。

 孫崎氏と私とはアメリカへの不信と警戒において共有する側面があるが、中国観ではほとんど一致しない。中国を巨大市場とし、未来は中国にあるとの経済人に似た考えが孫崎氏にあるが、私はそう考えていない。

 尖閣問題についての私の考えは、昨日刊行されたばかりの西尾幹二・青木直人『第二次尖閣戦争』を見ていたゞきたい。

 路の会の今日の参集者は二十二名を越え、活発な論争が展開された。

追記の追記

 孫崎氏との間でオスプレイをめぐる論争もあった。彼は沖縄の米基地反対運動と同じタイプの考え方を述べたので、私や西村幸祐氏や高山正之氏らが反論した。

 私が沖縄にオスプレイが配備されたことは尖閣対策の一つであろう、と言ったら、孫崎氏は色をなして反駁し、オスプレイは尖閣防衛のためにあるのではなく、アメリカの世界戦略のためだけにあるのであって、尖閣のために使われることは絶対にないと断言した。

 私がなにかで読んだのだが、と断って、沖縄のオスプレイ配備で自衛隊は中国の上陸部隊よりも30分以上早く尖閣に着くことができる、と書いてあったと述べたら、福島香織さんが中国側がいまそのように計算して、オスプレイに脅威をかんじているのは事実、と言った。

 沖縄本島における、中国の侵略に対する警戒心や恐怖心のなさに私はつねづね驚いている、とも言った。沖縄県庁は中国のスパイに支配されているのか、それとも沖縄住民は血統的に中国系が大半で、中国領になった方がよいと思っているのか分からない、これは謎だ、と私は言ったが、孫崎氏のそれへの反論はなかった。

 沖縄人が全員オスプレイに反対で反米闘争は全土を蔽っているといわんばかりの孫崎氏の見解に対し、現地を見て来た西村幸祐氏はそんな事実はなく、反米闘争は沖縄の外から来た左翼運動団体に牛耳られ、メディアが押さえこまれているだけで、住民はまったく違う自由な考え方を持っていると証言した。

「吉本隆明氏との接点」(四)

 吉本氏はラディカルである。根源的である。しかしどこか閉ざされている。

 私は氏の戦争観がずっと気になっていて、今度、「文学者の戦争責任」(1956年)と、「文学者と戦争責任について」(1986年)の二編を取り寄せて、拝読した。ほぼ同じ内容だが、後者は三〇年経っている情勢の変化で、やや視野が広くなっている。

 氏は戦争に協力しなかった文学者なんか一人もいなかった。戦争に反対した文学者も、抵抗した文学者も皆無であり、厳密に考えれば戦争責任の告発は成り立たないという認識に立っていた。そこで左翼の文学組織に属さない文学者をもっぱら戦争犯罪として告発するたぐいの、戦後、氏が目撃した左翼の文学組織による、戦争責任の追及の仕方に、氏は激しく異議を申し立てた所以である。その自己欺瞞の摘発には説得力があり、胸を打つものがある。告発者自身は、自分たちは戦争下でひそかに抵抗していたとか、戦争そのものにじつは反対していたのだとか、手前味噌な評価をつねに用意していたものだった。吉本氏の追及は手厳しい。文学者の戦争責任は文学作品それ自体によってしか弁明ないし表白できない。文学作品はウソをつかない。氏のその方法態度も正しい。

 1986年の論文では、ファシズムとスターリニズムとの間にはわずかな相違しかないという認識にまで進んでいて、左翼の正義も否定されている。

 いまではもう昭和21年(1946年)に左翼の文学組織(民主主義文学運動)によって告発された文学者の戦争責任も、昭和30年(1955年)ころ、わたしたちによって提起されたそれに対する批判も、すべてそれ自体が無効になり解体してしまったというべきだ。ひとつの理由は、戦争責任を問うべき中心的な前衛理念、あるいは優位にたって戦争を裁く前衛理念が存在しないことが、誰の眼にも明確になってしまったことだ。もうひとつ理由をあげれば、「戦争」も「平和」も古典的な概念とまったく異なってしまったことだ。わたしが「戦争」を裁くとすれば、わたし自身のうちにある理念によるだけだし、「戦争」と「平和」について言及するとすれば、自身の定義した概念においてだけだ。

 それなら、吉本氏において戦争はどのように定義した概念として捉えられているだろうか。

 「戦争」は人間が直に砲弾を打ちあい、ミサイルをとばして、陣地や領土を併合することで、「平和」はときに、銃や凶器で殺しあうことがあっても、日常生活の繰り返しが中断したり、切断されたりすることがない状態のことだという考えは捨てられるべきだ。兵士は現在では補助機械であるにすぎない。戦争は米ソ両支配層の演じるボタン押しの電子ゲーム以外のものではない。「戦争」状態をシュミレーションしている平和もあれば「平和」そシュミレーションしている「戦争」状態もあるというように概念は変えられてしまっている。

 米ソ対立の極限状況にあった1980年代のいわゆる「ボタン戦争」の概念が吉本氏を支配していたことがここから伺える。現代戦争のこのニヒルな認識が文学者の戦争責任論など吹き飛ばしてしまったことはまず間違いない。しかしこの認識はまた、日本が米ソ冷戦の谷間にあって「安定」していた、束の間の幸運な時代に許された甘い特権であったことが氏に認識されていない。氏は左翼の党派的欺瞞に対してはたしかに倫理的に厳しかったが、氏の内部に巣くっていた左翼的イデオロギーの残滓が何となく世界を素直に、自然に見ることの邪魔をして、動いていく現代の中で、日本と自分の置かれた位置を冷徹に直視することを不可能にしている。

 現代ではすべての戦争が核戦争になるとは限らない。米ソ冷戦が終わって「不安定」になった世界では核兵器は使えない兵器となり、代わりに通常兵器を用いた戦争の可能性はずっと大きくなった。バルカン半島の戦乱以来明らかになったことである。そういう現実の世界の微妙な変化を吉本氏はどの程度意識していただろうか。

 そもそも先の戦争を意識するときにいきなり「戦争責任」という言葉につかまえられたということに問題があると私は考える。文学者のであれ誰のであれ、「戦争責任」などというものは初めから存在しない。この言葉は敗戦国を無力化するための一方的な宣伝語である。もし日本やドイツにこの語が当て嵌められるなら、それと同時に、同資格において、旧戦勝国の連合国にも当て嵌められなければならないのが「戦争責任」という語の本来の意味である。しかし吉本氏は「具体的に日本国の戦争は、ドイツ・ナチズムやイタリア・ファシズムとの同盟による天皇制下の軍部の主導で推進された理念的な悪だから、これに参加したものに戦争責任がある」というようなことを書き記している思想家である。

 氏は歴史が善悪の彼岸にあり、戦争は地上から永遠になくならないだけでなく、明日にもわが国を襲わないとも限らない。それゆえ政治を防衛問題から考えるべきだという苦い認識に直面しないオプティミストの一面を持っている。先の引用につづけて氏は次のように言う。

 そこでは〈戦争〉の企ては不可能だし、〈戦争〉が悪だということは、現在まで存在するどんな体制や理念にも保留や区別なしに適用されるべきだ。〈平和〉が善であることも、どんな体制や理念にも、保留や区別なしに適用できるはずだ。現在の体制や理念の相違は、世界中どこでも戦争行為に訴えるほどの意味をもっていない。これははっきり言い切っておいた方がいい。

 ここで大切なのは、「世界中どこでも戦争行為に訴えるほどの意味をもっていない」と書かれている個所である。戦争は何らかの「意味」を訴えて初められているだろうか。意味は後から付けられはするが、わけが分からなく始まり、どうにもならない力に衝き動かされるのが常ではないだろうか。

 氏はつづけて「人間が地を這いつくばって戦い、銃器を手にし、血を流し、死を賭してやっていることは、現在では、どこでどんな崇高そうな理由が付けられていても、ただの暴力行為にすぎない。」と書いている。それはその通りである。私はそうであることを否定はしない。しかし「ただの暴力行為」はなくならないし、人類の愚劣は終らないし、それゆえにこそ国防問題を措いて政治は考えなれない。政治と文学などという暢気なことを言っても始まらない局面は、現代日本に迫っていると私は考えている。

 さりとて、思えばこれは吉本氏に限った話ではない。戦後の思想界は最初は圧倒的に文学者がリードした。知っての通り小林秀雄は戦争について利口なやつはたんと反省するがいいさ、私は反省なんかしないよ、と言った。この言葉は有名になり、戦後の保守思想界を動かす語り草となった。似たような発言は後の「政治と文学」(昭和26年12月)に出ていて、日本人がもっと聡明だったら、もっと文化的だったら、あんなことは起こらなかった、というようなことを言う知識人に向かって、小林は日本を襲ったのは正真正銘の悲劇であり、悲劇の反省など誰にも不可能だ、と喝破した。

 当時は「戦争責任」という言葉が吹き荒れていた。「反省」というのと同じ意味である。左翼の党派的欺瞞も横行していたのは先に述べた通りである。福田恆存「文学と戦争責任」(昭和21年11月)も、吉本隆明「文学者の戦争責任」(昭和31年)も、そこを正確に撃っているのは確かなのだが、しかしこれは小林とほぼ同じ認識でしかない。すなわち「反省」して歴史を変えられると思っている愚を戒めることにおいて三者はじつに峻厳だったが、そこに止まっていて、そこから先がない。あるいはそれ以前がない、と言ってもよかった。文学者の戦争に関するこれらの観念には何かが足りない。「反省」とか「戦争責任論」の虚妄を突いていることは確かで、間違った内容を述べているわけではないのだが、不足感が漂っているのである。すなわち、あの時代の日本の選択、開戦に至る必然性、戦争指導の理想的あり方が他にあったのではないかという可能性の追求、そういうことがなされていない。

 吉本隆明氏も他の同時代の保守系文学者も、日本の戦争の正しさの認識を歴史を遡って検証する意思を抱いていなかった。私は13歳、中学一年の昭和23年に東京裁判の判決文を新聞から切り抜いて日記帖にはりつけ、日本が勝っていたらマッカーサーが絞首刑になるはずだった、と書いていた。私は子供の言葉で歴史は善悪の彼岸にあり、敗北したがあの戦争は正しかったと言っていたのだ。その頃からずっと同じ認識でいる。「戦争責任」というような言葉は終戦まで存在せず、占領軍が持ち込んだ言葉だったことを子供心に知っていた。戦前戦中派はどうしても宿命的に「戦争責任」などという語に囚われるが、そこから先があるはずだ。そんな言葉はもうどうでもいい。私はそう認識していたし、今もそう考えている。

「吉本隆明氏との接点」(三)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 四度目の接点は、最近の原発事故をめぐってである。吉本氏の発言はいわゆる保守派を喜ばせた。さすが吉本さんだ、偉いの声もあった。これに反し、私の脱原発発言はいわゆる保守派の中で孤立し、今も孤立している。ここで保守派というのは石原慎太郎、櫻井よし子、渡部昇一、中西輝政、西部邁、小堀桂一郎、森本敏、田母神俊雄などまだまだたくさんいる国家主義的保守言論人のことで、名の無い、無言の保守的一般社会人のことではない。

 私は「現代リスク文明論」(『WiLL』2011年11月号に次のように書いている。

 過日、NHKのテレビ討論で原子力安全委員の奈良林直さんという方が「使用済核燃料の再処理の技術は、人類の2500年のエネルギー問題を一挙に解決する道である」と、胸を張って高らかに宣言するように語ったのを、私は呆気にとられて見守った。大きく出たものだと思った。プロジェクトが現に目の前で行き詰っているというのに、あまりに楽天的なもの言いに、他の発言者たちからただあちに反論がなされていたが、この言葉は私には、戦後ずっと原子力の平和利用にかかわってきた人々の、幻想的進歩信仰をさながら絵に描いたような空言空語に思われた。これこそまさに、中国の鉄道官僚にどこか通じる、足許を見ないで先を急ぐ前進イデオロギーの抽象夢にほかならないと私は思った。

 私が本稿で語った「現代リスク文明」は、工業社会の失敗なのではなく、その成功ないし勝利の帰結としての自己破産にほかならない。現代はいろいろな分野で「進歩の逆転」ということが起こっている。便利なものを追い求めた結果、便利が不便に、自由が不自由に転じるケースは無数にみられる。貧しい時代に「学校」は解放の理念だったが、いつしか抑圧の代名詞になった。「脱学校」という解放の理念からの解放が求められる逆転が起こっている。

 同じようなことが多数ある。原子力の平和利用も鉄腕アトムの時代には解放の理念だったが、自己逆転が生じた。発達が自己破壊をもたらした。

 1938年に『「反核」異論』を書いた吉本隆明氏は最近、「技術や頭脳は高度になることはあっても元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発はやめてしまえば新たな核技術も成果もなくなってしまう。事故を防ぐ技術を発達させるしかない」(毎日2011年5月27日)と語った。これは正論である。

 かつて、文学者が集団で反核運動を行い、アメリカのパーシングⅡ配備には反対しつつ、ソ連のSS-20には何も言わなかった中野孝次氏らの単眼性を戒めた吉本氏らしい言葉であり、私も「あらゆる科学技術の進歩に起こった禍(わざわい)はその技術のより一層の進歩でしか解決できない」と書いたことがあり、原則的に同じ意見ではある。鉄道や航空機等の事故はたしかにこの範疇(はんちゅう)に入り、失敗は進歩の母であり得るが、しかし原子力技術はそういう類の技術ではないのではないか。

 どんな技術も実験を要する。そして実験には必ず失敗がつきまとう。失敗のない実験はない。失敗から学んで次の進歩に繋ぐ。しかし、唯一回の失敗が国家の運命にかかわるような技術は技術ではないのではないか。吉本氏は、「進歩の逆転」が起こり得る現代の特性にまだ気がついていないのではないか。事故の確率がどんなに小さくても、確実にゼロでなければ――そんな確立はあり得ないが――リスクは無限大に等しい。それが原発事故なのである。

 私は宇宙開発にも、遺伝子工学にも、生体移植手術にも疑問を抱いている人間である。今詳しくは述べないが、人類は神の領域に立ち入ることを許されていなかったはずだ。制御できなくなった「火の玉」が自らの頭上に墜ちていうるのを、まだこの程度で食い止めていられるのは、偶然の幸運にすぎない。

           記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp

吉本隆明氏との接点(二)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 二度目の氏との接点は私からの依頼原稿であった。白水社版ニーチェ全集の『偶像の黄昏』『アンチクリスト』が全集から切り離してイデー選書という名でやはり白水社から1991年3月に刊行された際に、私は吉本氏に解説をお願いした。

 解説「テキストを読む――思想を初源と根底とから否定する」は約25枚の分量のしっかりした内容の評論であった。この機会に氏に直にお目にかかっておけばよかったのに、と思うが、編集者を介しての挨拶で終わり、私から接近しようとあえてしなかったのはいつもの私の悪い癖、いずれそのうち機会があるだろうと先送りする怠惰なためらいのせいだった。

 氏のこのニーチェ論に対する私の評文は残されていない。ただ今一読して、問題を孕んだ、深い内容の充実した一文であることを証言しておく。異見は紙幅がないのでここでは述べられない。

 吉本氏と私の三度目の接点は、オウム真理教事件をめぐってで、「『吉本隆明氏に聞く』への意見(上)」と題した短文(『産経新聞』1995年9月25日夕刊)である。新聞記事だから、麻原被告に対する「理解の表明は不要」「麻原の混乱に手貸すだけ」の見出しがついていた。全文を紹介する。

 詩人・評論家の吉本隆明氏が四回にわたって麻原被告の思想を産経新聞紙上で分析したことに対し、同紙から意見を求められた。

 吉本隆明氏は麻原彰晃について、その「存在を重く評価している」「マスコミが否定できるほどちゃちな人ではない」「現存する仏教系の修行者の中で世界有数の人ではないか」とさえ言っている。これに多くの新聞読者が愕然とし、いらだっているようだ。私は愕然とはしていないが、三点ほど氏に申し上げてみたい。

 麻原が氏の言う仏教の系譜上、「相当重要な地位を占める」「相当な思想家」であるなら、氏が新聞という公器を使ってあえて評価し、応援しなくても、麻原の思想はいつか必ず蘇るだろう。邪教でなく本物の宗教なら、十年後にでも二十年後にでも発掘する者が出て、再生するだろう。

 しかし麻原は今は、史上例のないテロリストの首謀者として裁かれようとしている。吉本氏も「彼の犯罪は根底的に否定する」と言っている。だとしたら、今はすべて法の裁きの必然に任せ、果たして彼が法的に否定された後でイエスのようの宗教的に蘇るか否か――誰の助けを借りずとも蘇るときはそうなる――黙って判断を未来に委ねれば良いのではないか。

 吉本氏のように、麻原に裁判の過程中に宗教的世界観を語って欲しいなど願望を述べる必要はないのではないか。語るべき世界観が麻原にあるなら、彼は確然と語るであろう。なければそれまでであろう。外野席で応援する必要はない。つまり外から理解を示してやる必要はないということだ。理解の表明は彼の犯罪行動の規模から見て、彼のこれからの覚悟の形成にも本物の宗教であるか否かの論証にも、有害でさえある。

 私自身は麻原の宗教上の教義に立ち入る関心を持っていない。大半の国民は私と同じだと思う。吉本氏が思想家として、教義内容に関心を持つのは自由だが、それを公表するか否かには、時宜と所を得なくてはならない。麻原には「本当はまだ不明なところはたくさんある」と氏自身が留保をつけている以上、関心と関心の表明とは別でなくてはならない。新聞紙上の氏の関心の示し方は、明らかに麻原の肯定であり、評価であり、礼賛でさえある。留保の程度をはるかに超えている。

 次いで、吉本氏は親鸞の造悪論を取り上げ、「善人より悪人のほうが浄土に行ける」という言葉を重視しているが、しかし親鸞は弟子たちに次々に殺人の実行を勧めたわけでも、自ら殺人計画の立案者になったわけでもないだろう。弟子達が悪を犯したほうが浄土に行けるのかとストレートな疑問を述べたとき、「良い薬があるからと言ったって、わざと病気になるやつはいないだろう」と親鸞がたしなめた、と吉本氏自身が過日述べている。つまり親鸞は、自らの内部に問いを立て、その問いの前に立ち尽くしている。一つの答を出してもそれは直ちに否定される。罪を犯したほうが救われるのではないか。これはどこまでも問いであって、安易な答などあろうはずがない。答えが新たな問いを誘発し、果てしなく繰り返される。それが真の信仰者の態度ではないだろうか。そして吉本氏自身がそのように親鸞を語っているのではないのか。

 一体どうして殺人は悪なのかと疑問に思い、そういう問いを問い続けていくことは哲学的にも大切だが、そのことと実際に殺人を犯すこととの間には無限の距離がある。ラスコーリニコフはついに実行してしまうが、実行後にも果てしない問いが彼の後を追いかけてくるのは周知の通りである。いとも簡単に他人の生命を次々ほいほい葬るよう命じたと伝えられる麻原の行動は、親鸞にも、ラスコーリニコフの誰にも似ていない。ここには宗教上の自覚的行為とは別の問題がある。

 最後に「開いた」社会、自由な文明にはつきものの、現代テロリズムの恐怖について一考しておきたい。

 現代はあまりにも自由で、ぶつかっても抵抗の起こらない無反応社会、声をあげても応答のない沈黙社会である。人はあえて、意図的に違反に違反を重ね、自ら「抑圧」を招き寄せようともする。そうでもしなければのれんに腕押しで、自分をしかと受け止めてくれるいかなる「仕切り」にもぶつかりそうにない。としたら、自ら平地に波乱を起こして、敵のない世界に敵を求め、「仕切り」に突き当たるまで暴れてみるしかない。オウム真理教の出現した背景はこれである。そのような社会で、吉本氏のように、テロリストに対してやさしい理解、心ある共感を示すことは、ひたすら彼らと当惑させるだけであろう。彼らは固い、強い「仕切り」をむしろ欲しているのだ。「地下鉄サリン」をやってさえも理解を示す知識人のいる甘い社会に彼らは実は耐えられない。その甘さがついに「地下鉄サリン」を誘発したのではなかったか。吉本氏の発言は、逆説的な言い方だが、麻原を理解しているのではなく、彼の混乱に手を貸しているだけである。

つづく

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」の刊行を記念して、下記の要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。 なお、本講演会は、事前予約不要ではございますが、個々にご案内申し上げる皆様におかれましては、懇親会を含め、事前にご出席のご一報いただけますなら、準備の都合上、誠に幸甚に存じます。ご高配の程、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
            記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp

吉本隆明氏との接点(一)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 私は吉本隆明氏の必ずしも熱心な読者ではなかった。書棚に『共同幻想論』や『自立の思想的拠点』などを置いているが、若い頃、食い入るように読んだという記憶がない。

 それでも、長い評論生活で吉本氏をときに賞賛し、ときに批判するという接点があった。そのまま幾例かを紹介する。要約ではなく、引用する。

 私が文芸雑誌に初めて書いた評論は、「政治と文学の状況」(「文学界」1968年9月号)で、ドイツ留学を終えて帰国した一年後、33歳であった。

(前略)政治の文学化という「政治主義」の立場ではなく、文学の政治化という「政治」の立場をいま一度文学化へと逆転するパラドックスをくぐり抜けない限り、政治を主題にしたあらゆる文学は所詮空しい政治主義文学に転落するであろう。という意味は、現在の日本で政治はここ当分文学の素材になりえないという意味に解してもよい。

 この点で、最近の雑誌の記事のなかで私が興味深く読んだのは、吉本隆明氏と高橋一巳氏との対談(「群像」昭和43年5月号)である。両者の間に微妙なズレがあって、最後まで平行線を辿っているのは、このパラドックスの自覚の有無にかかっている。

 端的に言えば、吉本氏にとって「政治」は自分自身の問題であって、他人の問題ではない。60年安保のときの氏の身をもってした「実行」と比して著しく目立つ最近の氏の政治的沈黙は、それがすでに無言の行動になっているのだが、氏によれば、ベトナムという他国の戦争は「原理的な関心をひかない」のである。日本では「他人の国で起こっていることについては、大いに関心を働かせ、かつ行動をするけれども、自分の国家権力のもとで起こっていることについては、あまり関心をもたなかったり、よく戦えなかったりという、伝統的な苦々しさがある」ためで、それを「自分がどうやって主体的に克服していくのかという問題」以外氏にはあまり興味がなく、「自分ができないならやるなということなんですよ」という以上、ベトナム反戦などは「あんなものはアブクみたいなもの」という揶揄にさえなる。

 ここの所が高橋氏にはどうしても解らないらしい。氏は反戦の動機に賛成なら、自分はなにも出来ないでもせめて応援の言葉をもって協力すべきだという文字通り、「政治主義」の態度を暴露しているからである。これでは政治をただ戦術的に顧慮しているだけであって、政治は自分の問題にはならないであろう。文学の原理に関わってこない。こういう態度は作品に必ず反映するものである。従って、高橋氏の『邪宗門』は、吉本氏によれば、「高度なインテリ向けの大衆小説じゃないかというような面白さなんです」という、まさしく適切な、「政治主義文学」の定義を与えられることになるのである。高橋氏にせよ、大江(健三郎)氏にせよ、誠実を売り物にし、思想と実生活の不一致に無自覚である点では精神のパターンはどこか共通しているように見える。

 むろん作品には手のこんだ複雑な意匠がほどこされている。知識人の苦悩をさながら検察官のように冷やかに追及する高橋氏はいかにも苦しんでいるようにみえるが、そのじつ作者はいささかも傷ついていない。むしろ作品の人物の苦悩で、作者が自分の誠実を正当化し、救済しようとする手付きが私には先に見えてしまう。が、詳細な作品分析は後日に譲りたい。

 いわゆる教養人の偽善に対して吉本隆明氏にはそもそも自分の苦悩に対する感傷はなく、はるかに男性的で、ひたむきである。非寛容であっても、不誠実ではない。国家という原理を超えようとする氏の自由への無限の意志は、中途半端な、曖昧な立場をことごとく破壊して進む。が、政治と個人道徳とを同次元に置く吉本氏には、ただ無を意志するのでないのなら、どこかやはり政治の「善」を信じているところが感じられる。氏がどんな「体制」をも信じないというのは勝手だが、「体制」に規定され、拘束されている氏の実生活のある部分を信じないわけにはいくまい。従って吉本氏における個人の完全自律への意志は、論理的に見れば、革命か、さもなければ自己分裂か、に行き着くほかないだろう。

 今日、希薄化した日本の空洞文化の中で、「政治」に激突しり生命感を文学化しようとすれば、かように論理的には初めから破綻している以上、自己錯乱に直面するか、共同社会にフィクションとしての神話空間を仮構するか、道は二つに一つであるように思える。吉本氏の最近の沈黙がこの前者になにほどか関係があり、三島由紀夫氏の神格天皇制の提出がこうした自己矛盾を克服するための必要に発しているのではないかという問題がある。芸術の政治化を「実行」しなければ、政治の芸術化もあり得ないという生の逆説に突き当たっている人は、戦時に青年期を送った世界の中では、ともあれこの二人を置いていないのである。

 人間にとって完全な自由、完全な自律はあり得ない。私は現代に生きる私自身の「自己」などというものを信じていない。私は自己の外に、もしくは自己を超えたところに、奉仕と義務の責めを負わねば「自己」そのものが成り立たぬことを考える。「体制」としての左翼を痛罵して止まなかった吉本氏が、今直面している困難は、絶対自我の追求者であった氏を支えているものはそもそも「敵」であり、身をもって孤立の代償を覚悟してなし得た実際行動であったことだ。その意味では「他」に抗して自分を支えるものである以上、それは消極的であることを避けられない。

 個人の完全自律への意志などは可能なことだろうか?それはほとんど狂気に境を接し兼ねぬ。(以下略)

 私は吉本氏における自立への悲劇的意志に感銘すると共に、その目指す方向の空漠たる無目的性に不安を抱いているのである。

つづく

鈴木尚之さんを悼む

suzuki.jpg 

「新しい歴史教科書をつくる会」の事務局長だった鈴木尚之さんが亡くなられてまだ日は浅いが、6月12日15:00~17:00にグランドヒル市ヶ谷で「偲ぶ会」が開かれた。私は必ず行くつもりでいたが、またしても13日原稿〆切りの直前で行かれないので、新事務局長に託して、次の文章を読んでいたゞいた。思えば親しくお付き合いして10年の歳月が流れた。ご冥福を祈る。

鈴木尚之さんを悼む 西尾幹二

 本当は今日ここにお伺いしたかったのですが、余りに日が悪く、明13日に〆切り原稿があって、弁解にきこえるでしょうが、お許し下さい。昔なら夜寝ないで昼間の時間の遅れを取り戻せたのですが、今は体力がなくなりそれだけはもう出来ないのです。

 鈴木さんはどうして逝ってしまったのか。あの円い元気な顔で、「つくる会」の象徴みたいな顔をして、今でもそこにいて笑っているような気がします。元気で、明るい方だけに、突然いなくなったことが、病気がちだった人の死とは違って人生の不条理をひとしお感じさせます。

 一番さいごに電話で私がおはなしをしたのは退院されたと聞いて間もなくです。あの退院は何だったのでしょう。私が電話でお見舞いのことばを述べだして少しして、彼はそそくさと電話を切りたがったのです。変だなと思いました。いつものような明朗さは言葉にだけあって、態度にないのです。ずっと変だなと思いつづけていました。

 そしてしばらく経って藤岡さんからご逝去の知らせを受けました。後で考えてみると、退院したと聞いてから私が電話をしたあのときには、もう鈴木さんは近づく死を覚悟されていたのでしょうね。「可哀そうだなァ」と今、そんな言葉しか思いつきません。生きている者が襲われる生物の不条理を感じるばかりです。

 楽しい思い出はいつもカラオケでした。玄人(くろうと)はだしの名調子の鈴木さんに適う者はいませんでした。私の知らない歌が多く、私が「あれを歌ってよ」と彼に所望するのは石川さゆりの「天城越え」で、鈴木さんは「またあれですか」とあきれたような顔をして、それでもいやがらずに朗々と上手に歌ってくれたものでした。これからあの歌を耳にするたびにきっと私は鈴木さんの歌っている姿を思い出すことになるんでしょうね。

 先日の「つくる会」の祝賀記念会の席上の私のあいさつで鈴木さんのことを少し話しました。同じテーマですが、もう一度今度は少し詳しくお伝えしておきます。

 私の会長時代、野党のある代議士と私がファクスで論争しました。攻撃的なことを言ってきたので、私の名で鈴木さんが三往復ぐらいの論争をしました。私は結果だけを鈴木さんから知らされました。「いいのですか、私が勝手にやって」と鈴木さんが言うので、「どうぞそうして下さい」と私は全面的にお任せしました。鈴木さんは私の名で楽しそうにして反論を重ねていました。その相手となった野党の代議士というのは菅直人でした。

 詳しいことは覚えていませんが、菅直人がインネンをつけてきた文句というのは、「西尾は教科書問題で政治的主張をしている。政治的主張をしたいのなら、自ら衆議院に立候補して議員になってからやれ」というようなことでした。鈴木さんが私の名でどう反論されたかは、今は思い出せません。私は任せていても安心なくらい鈴木さんは堂々と相手を言い負かしていたと思います。

 なぜ菅直人がインネンをつけて来たかというと、「つくる会」の主張が世間に表向き受け入れられないようにみえても、マスコミに連日取り上げられ、大騒ぎになっていたことに対して、菅直人は危機感を覚えていたからだと思います。今から丁度10年前の夏の採択のときです。われわれの主張はマスコミからさんざん叩かれていましたが、今思うと世間から受け入れられ、歓迎されていたことの現われでした。あのときわれわれの主張ははげしい抵抗に合ったように思いましたが、じつは敵陣営にも脅威を与えていたのでした。それも強い脅威を。

 そのときの敵のひとりが菅直人で、今では居坐り総理、ペテン師、ウソつき総理ですが、それでも彼らが天下を取っているのはわれわれが冬の時代にあるということで残念です。これから再び春が来てわれわれの主張が大きく表舞台で受け入れられるときが来ることを信じたいと思います。

 鈴木さんがきっと喜んでくれる、そういう日が来ると信じます。鈴木さんどうか安らかにお休み下さい。みなさまと一緒にお祈りしたいと思います。