「吉本隆明氏との接点」(三)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 四度目の接点は、最近の原発事故をめぐってである。吉本氏の発言はいわゆる保守派を喜ばせた。さすが吉本さんだ、偉いの声もあった。これに反し、私の脱原発発言はいわゆる保守派の中で孤立し、今も孤立している。ここで保守派というのは石原慎太郎、櫻井よし子、渡部昇一、中西輝政、西部邁、小堀桂一郎、森本敏、田母神俊雄などまだまだたくさんいる国家主義的保守言論人のことで、名の無い、無言の保守的一般社会人のことではない。

 私は「現代リスク文明論」(『WiLL』2011年11月号に次のように書いている。

 過日、NHKのテレビ討論で原子力安全委員の奈良林直さんという方が「使用済核燃料の再処理の技術は、人類の2500年のエネルギー問題を一挙に解決する道である」と、胸を張って高らかに宣言するように語ったのを、私は呆気にとられて見守った。大きく出たものだと思った。プロジェクトが現に目の前で行き詰っているというのに、あまりに楽天的なもの言いに、他の発言者たちからただあちに反論がなされていたが、この言葉は私には、戦後ずっと原子力の平和利用にかかわってきた人々の、幻想的進歩信仰をさながら絵に描いたような空言空語に思われた。これこそまさに、中国の鉄道官僚にどこか通じる、足許を見ないで先を急ぐ前進イデオロギーの抽象夢にほかならないと私は思った。

 私が本稿で語った「現代リスク文明」は、工業社会の失敗なのではなく、その成功ないし勝利の帰結としての自己破産にほかならない。現代はいろいろな分野で「進歩の逆転」ということが起こっている。便利なものを追い求めた結果、便利が不便に、自由が不自由に転じるケースは無数にみられる。貧しい時代に「学校」は解放の理念だったが、いつしか抑圧の代名詞になった。「脱学校」という解放の理念からの解放が求められる逆転が起こっている。

 同じようなことが多数ある。原子力の平和利用も鉄腕アトムの時代には解放の理念だったが、自己逆転が生じた。発達が自己破壊をもたらした。

 1938年に『「反核」異論』を書いた吉本隆明氏は最近、「技術や頭脳は高度になることはあっても元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発はやめてしまえば新たな核技術も成果もなくなってしまう。事故を防ぐ技術を発達させるしかない」(毎日2011年5月27日)と語った。これは正論である。

 かつて、文学者が集団で反核運動を行い、アメリカのパーシングⅡ配備には反対しつつ、ソ連のSS-20には何も言わなかった中野孝次氏らの単眼性を戒めた吉本氏らしい言葉であり、私も「あらゆる科学技術の進歩に起こった禍(わざわい)はその技術のより一層の進歩でしか解決できない」と書いたことがあり、原則的に同じ意見ではある。鉄道や航空機等の事故はたしかにこの範疇(はんちゅう)に入り、失敗は進歩の母であり得るが、しかし原子力技術はそういう類の技術ではないのではないか。

 どんな技術も実験を要する。そして実験には必ず失敗がつきまとう。失敗のない実験はない。失敗から学んで次の進歩に繋ぐ。しかし、唯一回の失敗が国家の運命にかかわるような技術は技術ではないのではないか。吉本氏は、「進歩の逆転」が起こり得る現代の特性にまだ気がついていないのではないか。事故の確率がどんなに小さくても、確実にゼロでなければ――そんな確立はあり得ないが――リスクは無限大に等しい。それが原発事故なのである。

 私は宇宙開発にも、遺伝子工学にも、生体移植手術にも疑問を抱いている人間である。今詳しくは述べないが、人類は神の領域に立ち入ることを許されていなかったはずだ。制御できなくなった「火の玉」が自らの頭上に墜ちていうるのを、まだこの程度で食い止めていられるのは、偶然の幸運にすぎない。

           記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp

「「吉本隆明氏との接点」(三)」への9件のフィードバック

  1. 今から50年ほど前、福田恆存氏は「現代の悪魔」と題する論文の中で、哲学者で核武装反対運動の指導者でもあるバートランド・ラッセル氏らの行動を批判して、こう書いています。
     <(核兵器という)悪魔は一度地上に出現してしまつた以上、二度と地下には潜らぬであらう。……一挙に全人類を死滅せしめる原水爆は「悪魔」であって、一挙に全家族を殺す爆弾は「悪魔」ではないのか。もっと解りやすく言へば……旅客機は「天使」のもので……爆撃機は「悪魔」のものなのか。なるほどそれは用途の差に過ぎぬ。といふことは、用いる人の心の差といふことでしかない。……大事な事は私達が自然科学をどう処理すべきかといふ事である>
     以上は吉本隆明氏の論理に似ています。
     西尾先生は吉本氏の技術論に反論して、こう書いています。
     <唯一回の失敗が国家の運命にかかわるような技術は技術ではないのではないか。……事故の確率がどんなに小さくても、確実にゼロでなければ――そんな確立(ママ)はあり得ないが――リスクは無限大に等しい。それが原発事故なのである>
     さらに<制御できなくなった「火の玉」が自らの頭上に墜ちていうる(ママ)のを、まだこの程度で食い止めていられるのは、偶然の幸運にすぎない>と。
     これでは、核兵器反対論を唱える絶対平和論者の論理と同じではありませんか。「人類は核兵器というダモクレスの剣が頭上に吊るされている状態にあり、何かのきっかけや偶発的な事故で核のボタンが押される危険はつねにある。それが落ちてこないのは偶然の幸運にすぎない」という論理です。
     だが、「悪魔」は一度地上に出現してしまつた以上、二度と地下には潜らない。大事な事は私達がそれをどう処理するか、その普段の努力と知恵にかかっているのではないでしょうか。
     もう1つ、西尾先生は原発の被害に課題に評価しすぎています。大きな誤解です。フクシマ原発で放射線障害による死者は一人も出ていません。今後とも数人程度しか出てこないでしょう。今後、新たな原発事故が起こり、数千人規模の多数の死者が出るようなことはあっても、日本人1億2000万人が全滅するといった、国家の命運にかかわるような原発事故の発生はゼロと思われます。以上は信頼できる専門の医者や原子力関係者およびジャーナリストの論文や報告書を読めば明らかです。
     井本省吾――ブログ「鎌倉橋残日録」を掲載中
     

     

  2. 信頼できる?専門の医者や原子力関係者およびジャーナリストの論は、科学的な裏付けが弱いように思います。今後何人死ぬか、または何人の寿命がどの程度縮まるか、定量的に分からないからといって過小評価するのは危険ではないでしょうか。原発事故で数千人規模の死者が出る時は、周囲数十万人以上に影響が及び避難しなければならない。1億2千万人が全滅しないまでも、これは国家にとって壊滅的な打撃でしょう。原発事故の影響は子々孫々まで影響するという点で、飛行機事故・自動車事故などのように被害が殆ど事故当事者に限定されるものと故意に混同する議論は、納得できない。原発を必要とする国も無論存在するが、日本人にはこのような巨大システムを、想定外の外乱に対応して運転制御する技術はなく、いったん事故が起これば司令塔は的確な指示ができず、現場の特攻精神のみに頼るいつものパターンとなり、収拾がつかなくなることは、今回の東電福島ではっきりしたのではないですか。

  3. 井本省吾様

    西尾先生は原発の被害に課題に評価しすぎています。

    西尾先生は原発の被害に過大に評価しすぎています。では?

  4. 1、を書いた井本省吾氏にご返事します。

    原発と原爆(核兵器)は違います。福田恆存氏が一度地上に現れた以上二度と地下に潜らない「現代の悪魔」と呼んでいるのは原爆であって、原発ではありません。

    原爆は地上から消えてなくならないでしょうが、原発はこれより安価で有利なエネルギー開発法が見つかれば徐々に消えてなくなるでしょう。実際アメリカはシェールガスが発見されてから、新しい原発は作らないと言い出しています。

    原爆(核兵器)も最近では事実上使えない兵器になりつつあり、保有国に政治的威力を与える役割を担い出しています。私はそれゆえ将来における日本の核武装を支持する者です。しかし、原発は敗戦国日本においては核武装の阻害要因にむしろなっていることを論じています(『平和主義ではない脱原発』文藝春秋、参照)。日本の原発はどこまでも戦後平和主義の産物です。だから事故処理もできないのです。

    福田恆存氏と吉本隆明氏とは考え方が似ているのはその通りです。私は両氏とは異なります。

    原発事故と放射能の問題については、2、を書いた若菜氏の仰る通りで、私が付け加えることはありません。強いていえば、日本は地震国で、しかも国土が狭く、放射能の影響は距離の二乗に反比例することを忘れてはいけません。

  5. 西尾幹二様

    ご多忙の中を、拙コメントにご返事をいただいてありがとうございます。
    ただ、少し長くなりますが、もう一度反論させてください。

    <原発と原爆(核兵器)は違います。福田恆存氏が一度地上に現れた以上二度と地下に潜らない「現代の悪魔」と呼んでいるのは原爆であって、原発ではありません>

     そうでしょうか。福田氏はこう書いています。

    <旅客機は「天使」のもので……爆撃機は「悪魔」のものなのか>

     使い方によって、天使はいつでも悪魔になる。原発は典型的ではないですか。だから、「大事な事は私達が自然科学をどう処理すべきかといふ事である」と福田氏は言っています。

     「私は福田恆存氏や吉本隆明氏とは考えが異なります」と言われれば、「そうですか」と申し上げるしかありません。しかし、原発の危険を感じながら、日本の核武装を支持する点は腑に落ちません。通常は、平和利用装置である原発よりも大量破壊兵器である核兵器の方が危険なのではないしょうか。
     
     西尾先生の言を借りれば、「唯一回の失敗が国家の運命にかかわるような技術」の最右翼は核兵器ではないですか。「原爆(核兵器)も最近では事実上使えない兵器になりつつあり、保有国に政治的威力を与える役割を担い出しています」とおっしゃいますが、人間のやることに絶対安全はありません。

     釈迦に説法を承知で申し上げれば、今日の尖閣諸島をめぐる日中の紛争を見てもおわかりのように、敵対関係になった国同士の局地戦が大規模な全面戦争に発展する危険はつねにあります。

    「制御できなくなった『火の玉』(原爆もその一つ――井本)が自らの頭上に墜ちていうるのを、まだこの程度で食い止めていられるのは、偶然の幸運にすぎない」と、書かれている通りです。

     そういう危険を覚悟しつつ、という条件つきで、私も国益の観点から日本の核武装を支持しています。

     『平和主義ではない脱原発』は私も読みました。欧米のコントロールにがんじがらめになり、「原発は敗戦国日本においては核武装の阻害要因にむしろなっていること」はよく理解しました。しかし、「だから、原発を止める」という点には異論があります。

     明治時代、日本は幕末期に結んだ不平等条約と治外法権に苦しみましたが、奮闘努力の末、自力でこれを解消しました。原発の阻害要因に対しても同様にするしかないでしょう。白猫(原発)も黒猫(原爆)も、日本の国益にかなうものはすべて活用する。これが私の立脚点です。

     安全保障問題の理論的支柱の一人であった西尾先生が原発反対とはどうしたことか、と他の保守派とともに首をかしげ、コメントさせていただいた次第です。

     化石燃料の乏しい日本で独立自尊の道を固めるのに、(遠い先のことはともかく)現状では原発は不可欠と考えます。再生エネルギーも大事ですが、現在の技術水準では完備されるのはだいぶ先のことでしょう。
    原発の危険性についてですが、西尾先生が賛成する若菜さんの論理にも反論しておきます。

    EU委員会(http://manhaz.cyf.gov.pl/manhaz/strona_konferencja_EAE-2001/15%20-%20Polenp~1.pdf)の報告では、石炭や石油による廃棄物や大気汚染物質の方が放射線よりもはるかに多くの人命を奪うということをデータで立証しています。

     過去最大の原発事故であったチェルノブイリ事故でも、国連科学委員会http://www.gepr.org/ja/contents/20120101-04/
    の報告では、6000を超える子供に甲状腺がんの症例が報告され、数十人の死者(その多くは原発作業員)が出たものの、結論はこうなっています。

     <圧倒的多数の住民はチェルノブイリ事故からの放射線がもたらす深刻な健康状態を恐れながら生活する必要はない。彼らの大多数は、自然由来の放射線の年間レベルと同じか、その数倍高い放射線量を被曝した。しかし将来的には、放射性物質が減るにつれ、将来受ける被曝線量は緩やかに減少し続ける。チェルノブイリ事故により住民の生活には著しい混乱が起きたが、放射線医学の観点からみると、ほとんどの人々が、将来の健康について概して明るい見通しを持てるだろう>

     平成24年8月の福島県民健康管理調査http://www.pref.fukushima.jp/imu/kenkoukanri/240813senryousuikei.pdf
    によれば、福島県民の被曝量は健康にまったく影響のない水準です。

     これでも「科学的な裏付けが弱い」でしょうか。

     また、私は「今後何人死ぬか、または何人の寿命がどの程度縮まるか、定量的に分からない」などとは言っていません。

     「今後新たな原発事故が起こり、数千人規模の多数の死者が出るようなことはあっても」と書いたのは「百歩譲って最大限数千人の死者」という意味で書いたのです。

     若菜さんが「原発事故で数千人規模の死者が出る時は、周囲数十万人以上に影響が及び避難しなければならない」と書いていますが、「影響」というのはあいまいな書き方です。「避難」も今回の福島事故では、前掲の福島県民健康管理調査を見れば、結果として原発を基点に半径1~2キロメートル程度の地域を除いて必要なかったことを示しています。

     「原発事故の影響は子々孫々まで影響する」といいますが、どんな科学的データを根拠に書いているのでしょうか。

     「飛行機事故・自動車事故などのように被害が殆ど事故当事者に限定されるものと故意に混同する議論は、納得できない」。

     私の文章は飛行機事故・自動車事故については一言も触れていません。「故意に混同」しているのは若菜さんではありませんか。ただ、「飛行機事故・自動車事故の被害がほとんど事故当事者に限定される」から原発事故とは異なる、という書き方は納得できません。

     飛行機・自動車事故の場合も事故当事者の家族、親族、仕事の関係者の多くに影響するのです。自動車事故を過小評価しているような書き方も賛成できません。

     交通事故死者数は最近でこそ年間5000人を割りましたが、1960~70年代には1万人を越えていました。事故後1年以内の死者まで含めれば今でも7000~8000人規模の人間が死亡しています。負傷者数ともなると、実に2011年で年間85万人です。

     原発が日本に誕生して50年。その間、作業者が放射線障害で2人死にましたが、一般人の放射線による原発事故死者はゼロです。対する交通事故死者数は過去50年間に50万人近い規模になるでしょう。交通戦争といわれるゆえんです。

     「故意に混同」はしていませんが、一体、どちらの事故の方が深刻だと思いますか。交通事故が深刻だとしても事故をなくすために、西尾先生も若菜さんも自動車の製造販売を禁止せよ、とは言わないでしょう。生活、経済の著しい不便を考えてのことだと思います。

     原発事故のない世界は望ましいが、世の中はあちら立てれば、こちら立たず。何かを犠牲にしつつ、現状での最適解を求めるしかない。これが私の申し上げたいことです。

    井本省吾

    追伸:「西尾先生は原発の被害に課題に評価」は「被害を過大に評価」、また「普段の努力と知恵にかかっている」は「不断の努力」の誤りでした。お詫びし訂正させていただきます。

  6. 自動車事故は自賠責保険等の損害賠償制度や刑法が完備されております。
    自動車は社会と融和することが既にできたと言っていいでしょう。
    原則的には当事者同士の責任問題であり、人間の一生の中で責任は収まります。
    一方、原発はどうですか。保険制度が全くありません。被害額は未知数です。対象も深刻な場合となると日本国土全域のみならず、地球規模となります。事故の被害は未来に広がりますし、廃棄物処理の問題も未来に続きます。
    チェルノブイリハートという言葉があります。死亡した人間は数えられるかもしれませんが、被爆した子供が肉体や知能の発達が弱くなることも統計的によく知られています。否定する論文もあるかもしれませんが、予防学的には被爆はなるべく避けた方がいいのは間違いありません。

    坂本龍一氏は「たかが電気」と言い批判されました。電気は人々の繁栄に寄与するからです。しかし原発以外の方法でもいくらでも「安価に」電気を作れるという意味では、たかが電気というのは言い得ております。

  7. 原爆と原発、原爆の武器としての超高熱に依る焼き尽くしは無きにしろ、其の物の持つ放射能に就いては未だ不明確、故平和利用と言葉を弄しても原発とて其の脅威少なからずの武器。此処を其の管理責任者たるべき政府が認識しているか否か、戦後政府に望む術無し、此処が問題です。
    武士と刀、他の農工商は不携帯’とすれば刀は其の威力少なからざる武器です。真刃と竹光、他人から見れば同じされど其れを持つ武士自身の心得、是は不同、ここに武士足るの所以又精進が在り周りの信頼を得る分けです。
    戦後日本政府、進駐軍憲法の軍隊不保持に対し、如何なる理由にせよ其の憲法を変えず自衛隊と弄し本来の武器所有者足るの責任と精進を置き去る、戦後も70年近くなれば其の置き去りにした者が何者か自体不明、是が今現在の日本政府の状態ではないですか。
    此処に西尾先生は着眼し、現在の日本為政者に於いては信頼置けず、故に絶対不可、武器絶対不可に有らずです。

  8. 升谷様

    原発にも保険制度があります。昭和36年に制定された「原子力損害の賠償に関する法律(原賠法)」の第八条に、原子力事業者は損害賠償責任保険契約を保険会社と締結せよ、という規定があります。また、保険でまかなえない賠償金は政府が補償すると定めています。

    このように、根拠を示すことが議論の前提ではないですか。「(原発事故は)対象も深刻な場合となると日本国土全域のみならず、地球規模となります」という点についても腑に落ちません。前回も指摘しましたが、科学的理論や具体的なデータに基づかない断定は非生産的です。「被爆した子供が肉体や知能の発達が弱くなることも統計的によく知られています」というのなら、その統計を示すべきです。私はそうしたはずです。

    <原発以外の方法でもいくらでも「安価に」電気を作れる>というのも、根拠不明ですね。いくらでも「安価」に作れるなら、なぜ電力会社は苦労して原発に依存する必要があるのですか?

    もう1つ、保険が適用されているからといって、「自動車は社会と融和することが既にできた」などと断定するのはいかがなものか。自動車事故で死んだ人の家族の悲しみや苦しみは、保険だけで到底納まるものではありません。その悲劇が死者数にして毎年5000~8000人の規模で起こっているのです。それでも最終的には自動車の存在を認めざるをえない。その心理状態を「社会と融和」しているというなら、そうは言えるというだけのことでしょう。

    原発をめぐる心理状況はそうなってはいませんが、その多くは、以上列記した原子力と放射線障害に関する誤解と「放射線が目に見えない」ことによる恐怖心、科学者の間で意見の対立があること、などによるものでしょう。

    井本省吾

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