「吉本隆明氏との接点」(四)

 吉本氏はラディカルである。根源的である。しかしどこか閉ざされている。

 私は氏の戦争観がずっと気になっていて、今度、「文学者の戦争責任」(1956年)と、「文学者と戦争責任について」(1986年)の二編を取り寄せて、拝読した。ほぼ同じ内容だが、後者は三〇年経っている情勢の変化で、やや視野が広くなっている。

 氏は戦争に協力しなかった文学者なんか一人もいなかった。戦争に反対した文学者も、抵抗した文学者も皆無であり、厳密に考えれば戦争責任の告発は成り立たないという認識に立っていた。そこで左翼の文学組織に属さない文学者をもっぱら戦争犯罪として告発するたぐいの、戦後、氏が目撃した左翼の文学組織による、戦争責任の追及の仕方に、氏は激しく異議を申し立てた所以である。その自己欺瞞の摘発には説得力があり、胸を打つものがある。告発者自身は、自分たちは戦争下でひそかに抵抗していたとか、戦争そのものにじつは反対していたのだとか、手前味噌な評価をつねに用意していたものだった。吉本氏の追及は手厳しい。文学者の戦争責任は文学作品それ自体によってしか弁明ないし表白できない。文学作品はウソをつかない。氏のその方法態度も正しい。

 1986年の論文では、ファシズムとスターリニズムとの間にはわずかな相違しかないという認識にまで進んでいて、左翼の正義も否定されている。

 いまではもう昭和21年(1946年)に左翼の文学組織(民主主義文学運動)によって告発された文学者の戦争責任も、昭和30年(1955年)ころ、わたしたちによって提起されたそれに対する批判も、すべてそれ自体が無効になり解体してしまったというべきだ。ひとつの理由は、戦争責任を問うべき中心的な前衛理念、あるいは優位にたって戦争を裁く前衛理念が存在しないことが、誰の眼にも明確になってしまったことだ。もうひとつ理由をあげれば、「戦争」も「平和」も古典的な概念とまったく異なってしまったことだ。わたしが「戦争」を裁くとすれば、わたし自身のうちにある理念によるだけだし、「戦争」と「平和」について言及するとすれば、自身の定義した概念においてだけだ。

 それなら、吉本氏において戦争はどのように定義した概念として捉えられているだろうか。

 「戦争」は人間が直に砲弾を打ちあい、ミサイルをとばして、陣地や領土を併合することで、「平和」はときに、銃や凶器で殺しあうことがあっても、日常生活の繰り返しが中断したり、切断されたりすることがない状態のことだという考えは捨てられるべきだ。兵士は現在では補助機械であるにすぎない。戦争は米ソ両支配層の演じるボタン押しの電子ゲーム以外のものではない。「戦争」状態をシュミレーションしている平和もあれば「平和」そシュミレーションしている「戦争」状態もあるというように概念は変えられてしまっている。

 米ソ対立の極限状況にあった1980年代のいわゆる「ボタン戦争」の概念が吉本氏を支配していたことがここから伺える。現代戦争のこのニヒルな認識が文学者の戦争責任論など吹き飛ばしてしまったことはまず間違いない。しかしこの認識はまた、日本が米ソ冷戦の谷間にあって「安定」していた、束の間の幸運な時代に許された甘い特権であったことが氏に認識されていない。氏は左翼の党派的欺瞞に対してはたしかに倫理的に厳しかったが、氏の内部に巣くっていた左翼的イデオロギーの残滓が何となく世界を素直に、自然に見ることの邪魔をして、動いていく現代の中で、日本と自分の置かれた位置を冷徹に直視することを不可能にしている。

 現代ではすべての戦争が核戦争になるとは限らない。米ソ冷戦が終わって「不安定」になった世界では核兵器は使えない兵器となり、代わりに通常兵器を用いた戦争の可能性はずっと大きくなった。バルカン半島の戦乱以来明らかになったことである。そういう現実の世界の微妙な変化を吉本氏はどの程度意識していただろうか。

 そもそも先の戦争を意識するときにいきなり「戦争責任」という言葉につかまえられたということに問題があると私は考える。文学者のであれ誰のであれ、「戦争責任」などというものは初めから存在しない。この言葉は敗戦国を無力化するための一方的な宣伝語である。もし日本やドイツにこの語が当て嵌められるなら、それと同時に、同資格において、旧戦勝国の連合国にも当て嵌められなければならないのが「戦争責任」という語の本来の意味である。しかし吉本氏は「具体的に日本国の戦争は、ドイツ・ナチズムやイタリア・ファシズムとの同盟による天皇制下の軍部の主導で推進された理念的な悪だから、これに参加したものに戦争責任がある」というようなことを書き記している思想家である。

 氏は歴史が善悪の彼岸にあり、戦争は地上から永遠になくならないだけでなく、明日にもわが国を襲わないとも限らない。それゆえ政治を防衛問題から考えるべきだという苦い認識に直面しないオプティミストの一面を持っている。先の引用につづけて氏は次のように言う。

 そこでは〈戦争〉の企ては不可能だし、〈戦争〉が悪だということは、現在まで存在するどんな体制や理念にも保留や区別なしに適用されるべきだ。〈平和〉が善であることも、どんな体制や理念にも、保留や区別なしに適用できるはずだ。現在の体制や理念の相違は、世界中どこでも戦争行為に訴えるほどの意味をもっていない。これははっきり言い切っておいた方がいい。

 ここで大切なのは、「世界中どこでも戦争行為に訴えるほどの意味をもっていない」と書かれている個所である。戦争は何らかの「意味」を訴えて初められているだろうか。意味は後から付けられはするが、わけが分からなく始まり、どうにもならない力に衝き動かされるのが常ではないだろうか。

 氏はつづけて「人間が地を這いつくばって戦い、銃器を手にし、血を流し、死を賭してやっていることは、現在では、どこでどんな崇高そうな理由が付けられていても、ただの暴力行為にすぎない。」と書いている。それはその通りである。私はそうであることを否定はしない。しかし「ただの暴力行為」はなくならないし、人類の愚劣は終らないし、それゆえにこそ国防問題を措いて政治は考えなれない。政治と文学などという暢気なことを言っても始まらない局面は、現代日本に迫っていると私は考えている。

 さりとて、思えばこれは吉本氏に限った話ではない。戦後の思想界は最初は圧倒的に文学者がリードした。知っての通り小林秀雄は戦争について利口なやつはたんと反省するがいいさ、私は反省なんかしないよ、と言った。この言葉は有名になり、戦後の保守思想界を動かす語り草となった。似たような発言は後の「政治と文学」(昭和26年12月)に出ていて、日本人がもっと聡明だったら、もっと文化的だったら、あんなことは起こらなかった、というようなことを言う知識人に向かって、小林は日本を襲ったのは正真正銘の悲劇であり、悲劇の反省など誰にも不可能だ、と喝破した。

 当時は「戦争責任」という言葉が吹き荒れていた。「反省」というのと同じ意味である。左翼の党派的欺瞞も横行していたのは先に述べた通りである。福田恆存「文学と戦争責任」(昭和21年11月)も、吉本隆明「文学者の戦争責任」(昭和31年)も、そこを正確に撃っているのは確かなのだが、しかしこれは小林とほぼ同じ認識でしかない。すなわち「反省」して歴史を変えられると思っている愚を戒めることにおいて三者はじつに峻厳だったが、そこに止まっていて、そこから先がない。あるいはそれ以前がない、と言ってもよかった。文学者の戦争に関するこれらの観念には何かが足りない。「反省」とか「戦争責任論」の虚妄を突いていることは確かで、間違った内容を述べているわけではないのだが、不足感が漂っているのである。すなわち、あの時代の日本の選択、開戦に至る必然性、戦争指導の理想的あり方が他にあったのではないかという可能性の追求、そういうことがなされていない。

 吉本隆明氏も他の同時代の保守系文学者も、日本の戦争の正しさの認識を歴史を遡って検証する意思を抱いていなかった。私は13歳、中学一年の昭和23年に東京裁判の判決文を新聞から切り抜いて日記帖にはりつけ、日本が勝っていたらマッカーサーが絞首刑になるはずだった、と書いていた。私は子供の言葉で歴史は善悪の彼岸にあり、敗北したがあの戦争は正しかったと言っていたのだ。その頃からずっと同じ認識でいる。「戦争責任」というような言葉は終戦まで存在せず、占領軍が持ち込んだ言葉だったことを子供心に知っていた。戦前戦中派はどうしても宿命的に「戦争責任」などという語に囚われるが、そこから先があるはずだ。そんな言葉はもうどうでもいい。私はそう認識していたし、今もそう考えている。

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