訃報を受けて(六)

月刊誌「WiLL2025年1月号より」
追悼 西尾幹二氏 古田博司

西尾氏は最後まで保守主義を体現しようと努められたのではないか

情感豊かな人

 西尾幹二氏が11月1日、亡くなりました。89歳。大往生です。
西尾さんとは生前、さまざまな形でお付き合いをしました。西尾さんを一言で表現すると“情の人”だなと。

  西尾さんとの初めての出会いは、徳間書店で行われていた勉強会「路の会」に講演者として呼ばれたことがきっかけでした。行ってみると長テーブルが置かれて、そこには宮崎正弘氏や高山正之氏、富岡幸一郎氏などが座っていたのです。主宰者であった西尾さんは、私のことを
「東アジア関係で、はじめて教養人と言える人が現れました」
と紹介してくれました。

  私は2017年、西尾さんから『西尾幹二全集』(第17巻)「歴史教科書問題」(国書刊行会)の追補(ほかに渡辺惣樹・石平両氏が寄稿している)を頼まれました。頂いたタイトルは「西尾幹二・ショーペンハウアー・ニーチェ」です。実はそのときに、私は初めて西尾さんのまとまったものを読んだのです。

 その前に西尾さんから電話があり「(全集の付録)月報に寄稿してくれないか」と依頼がありました。原稿用紙3~4枚程度の分量なので、普段は簡単に書けるのですが、そのときは二ヵ月たっても書けなかった。「書けない」と西尾さんに言うのも悪いかなと思い、放っておいたのです。そしたら、当然のように西尾さんから怒りの電話がかかってきた。

 「なんで書いてくれないんだ!」と言われたので「すみません、西尾先生と私は似すぎていて、うまく書けないんです」と答えた。もちろん苦し紛れの言い訳でしたが、西尾さんは、「じゃあ、わかった。代わりに『ニーチェ』(全集第4巻。筑摩書房)を送るから、それを読んで全集第17巻に書いて」と言ってきた。
ただ、『ニーチェ』を読破するのに一ヵ月もかかってしまいました。私は本を読むとき、ポイントを見つけ出すことが得意なので、すぐに読み終わることができます。でも、西尾さんの著作では、それができなかった。『ニーチェ』のあとがきで、西尾さんは、西尾さんの師匠から「読みやすいけれど、読むのに時間がかかる」と言われたと書いています。その通りです。西尾さんの著作はどれも優しい言葉で書かれているのですが、余計なものがたくさんくっついている印象を受けます。
たとえば、
「日本の哲学者の手になるニーチェ論を読んで疑問を覚えるのは、哲学者が現代の日本に生きていて、その中でニーチェの言葉をともかくも自分の生活の体験として読んでいる印象を少しも与えない点である」

 率直に言って、わかりづらい文章です。西尾さんの“情”がそのような文章をつくり出してしまうのでしょう。

 ちなみに、私は西尾さんの文章を誤読して、思想家であれば自分の生活もさらけ出すべきだと思ってしまったのです。それ以降、さまざまな著作物を自分の日々の生活を書くようになりました。ところが、西尾さんの著作をいくら読んでも、日々の生活が登場しない。まぁ、それは当然でしょう。

言霊での会話

 ともかく『ニーチェ』を一ヵ月かけて読み、素晴らしい著作であることも同時に実感しました。西尾さんはマルクス史学をまったくしんじておらず、歴史は歴史家が書いた因果ストーリーにすぎないと評していた。
 

 それを読んで、私は西尾さんは「先見力がある」と思ったのです。その印象があったので、分量は結構ありましたが、割と苦労せずに書くことができました。私は「西尾さんを先見者、予言者であると評したのです。

 追補の原稿を読んでくれた西尾さんから電話があり、「文章が光りを放っている」と絶賛してくれました。私自身、胸をなでおろしたことを覚えています。
どうしてここまで私に書かせることにこだわったのか、今になって本心はわかりませんが、西尾さんは、どうやら自分のことを私に知ってもらいたかったようです。

  でも、実際に話をしてみると、どうも会話がかみ合わない。言葉が通じないのです。だから、西尾さんと会話をするときは言霊(精神レベルの非線形言語)でするような印象でした。実際に“言霊”での会話は、よく通じた印象があります。

 というのも、西尾さんは実に情感過多なのですが、私自身には“情”がよくわからない。どちらかというと理数頭の私は、むしろ、そういったタイプの先生とは話が合う。たとえば、藤岡信勝先生はまさにそのタイプです。

 以前、本誌連載の「たたかうエピクロス」で紹介した元NHKアナウンサーの神田愛花に魅かれるのも、彼女が理数頭で理詰めに物事を把握しているからです。

神秘体験あるの?

 西尾さんとの会話の一例をあげましょう。2019年ごろ、西尾さんから突然、電話がかかってきました。
「ちょっと聞きたいことがあるけど、いいか」
と言うので、
「どうぞ」
と答えたら、
「アンタ、人生、不幸だったか?」
と聞いてくる。西尾さんは、いつも私のことを「アンタ」と、呼びます。
「不幸でしたよ。親も自分も子も三代にわたって不幸でした」
「そうか!奥さんは?」
「普通の人ですよ」
と言ったら、
「うーん、そうか」
と唸っている。その後は会話が成り立たなくなり、電話はそこで終わりました。西尾さんは私と会話が通じないと思うからか、直截的に聞いてきます。私も西尾さんの意図がよくわからないから、“言霊”で答えるようにしたのです。

 別の電話で、西尾さんが、
「アンタ、神秘体験あるのか?」
と聞いてきた
「ありますよ」
と答えました。でも、私は「神秘体験」のことを女性哲学者のシモーヌ・ヴェイユにならい「超自然的認識」と言っています。私は、
「西尾先生も見えたり、聞こえたりするでしょう?」
と逆に質問しました。そしたら西尾さんは、
「聞こえん!」
と怒っている。私は続けて、
「映像のときもありますよ」
「そんなの見えない!」
と、また怒る。

 西尾さんのことを私は「予言者」と書きましたが、西尾さん自身は超自然的認識をしたことがなかったのです。西尾さんの告白を聴き、「あ、西尾さんは予言者ではないんだ」と思ったのをよく覚えています。

 また、先に紹介した路の会ですが、終わった後、みんなで会場の近くの居酒屋で打ち上げをしました。その日、私自身、体調があまり芳しくなかったのですが、参加し、二次会までついていったのです。
そこで西尾さんがボソッと私に、
「今まで自分は言論活動をしてきたけど、世界を変えることが全然できなかった」
と言う。私はよせばいいのに、
「西尾先生、私は日本人の東アジア観を変えましたよ」
と無邪気に答えてしまった。そしたら、西尾さんは下を向き、むっつり黙り込む。「まずかったかな」と思ったのですが、西尾さんは何も言わない。西尾さんからすると「何を言っても無駄だ」と思ったのでしょう。

あっけらかんとした教育者

 ともかく私からすると西尾さんの情の部分がわかりにくいのです。哲学者の中島義道氏は西尾さんと情感を交わすのがうまくできたようです。中島氏が月報で「西尾さんについて」と題して寄稿していますが、西尾さんとの会話で中島氏が好きな言葉を紹介しています。酒席の場で、西尾さんは酔っ払いながら「みんなは論文を主任教授に向けて書いている。だが、本当は神様に向けて書かなければならないんだよ」と言ったそうです。中島氏は「そうだ、そうだ」と同感したとのこと。

 私の場合は「ああ、そうなんだ、みんな主任教授に向けて論文を書いているんだ」と驚きましたけどね。主任教授のために論文を書いたことがなかったから、「へえ」と改めて思ったのです。

 中島氏はさらに、西尾さんから「人を傷つけたくなかったら書くのをやめなさい。人を傷つけても書かなければならない時に、血を流して、返り血を浴びても書きなさい」と言われたという。私からすると「はて?」とキョトンとしてしまう。私は説得するために書いていますから。

 ともかく中島氏の文章を読み、つくづく西尾さんは“情の人”なんだなと実感しました。

 泣きの小金治が、父親から「自分のために泣く者になるな、人のために泣くひとになれ」と教わって育ったそうです。これ情です。テレビドラマでも、刑事ものや医者ものは、結局最後は情で終わります。上川隆也氏主演の『遺留捜査』なんか、犯罪者の父を恨んでいた子が父がずっと気遣っていたことを情で示したりします。「結局、お父さんはあなたのことを最後まで気遣って亡くなったのですよ」と、「情の勝利」を告げる。
まさに西尾さんの“情”は、それと同じことではないでしょうか。

 では、西尾さんの“情”の源流がどこにあったのかといえば、やはり、家庭環境の影響が大きかったのでしょう。
西尾さんの自伝的作品「少年記」(『西尾幹二全集』第15巻/国書刊行会)を読むと、西尾さんは上流家庭の出だと感じます。身内の中で一人か二人、働いていないひとがいるのが上流家庭の証拠ですが、西尾さんの家もそうだったのです。
日本の上流家庭は情感過多です。お公家さんの伝統があるからでしょうか。幕末、公武合体運動でどちらにつくか公家の連中はフラフラしていました。佐幕派に翻弄される公家たちの姿を、現場主義の下級武士たちが見て、「宮さんはまったくしょうがないな」と思っていたに違いありません。とにかく情に弱い。西尾間の情感過多も、それに近いものがあるのではないでしょうか。

 ただ、教育に関しては、西尾さんは割り切っていたようです。
というのも、西尾さんは電気通信大学助教授時代の1965年、保守系雑誌『自由』で論文「私の『戦後』観」が新人賞を獲得してしまった。当時は学生運動全盛期ですから、『自由』は異端中の異端でした。
西尾さんはそんな雑誌の新人賞を獲得したことで、有名大学の就職がかなわなくなった。
私は西尾さんに、
「先生はどうして電気通信大学だったんですか」
と聞いたら、
「そこで新人賞を取ったから就職はムリだよ」
と言っていました。教授の推薦が得られなかったのです。別の機会で、西尾さんに、
「電気通信大学で何を教えていたんですか」
と聞くと、
「リルケを教えていたんだ」
「35年間、ドイツ語の詩集を教えていたんですか」
「うん、そう。ドイツ語を読むだけ」
と、実にあっけらかんとしていた。つまり、大学の教育はなるべく省力化し、自身の研究・執筆に集中するようにしたのです。西尾さんはもともと名誉欲・出世欲がなかった。それも功を奏したのでしょう。そうでなければ『西尾幹二全集』が22巻もの膨大な量にはならなかったに違いありません。

元は「反近代」の人だった

 西尾さんと言えば、ニーチェ、ショーペンハウアーの研究・翻訳で有名です。実に素晴らしい業績です。

 ニーチェやショーペンハウアーは西洋哲学の系譜の中では異端だった。もっと言えば「反近代」です。
 西尾さんは「ニーチェはキリストに似ていたのではないだろうか」と書いています。私流の言い方をすれば、ニーチェは向こう側、こちら側の両方を潰したのです。ただ、ニーチェのやったことは西洋社会ではそれほど広がりませんでした。ニーチェよりもルター、ヘーゲルのほうが影響力は大きかったので、存在感が薄まってしまった。

  西尾さんの『全集』(第6巻)は「ショーペンハウアーとドイツ思想」がテーマですが、私は西尾さんに「送ってくださいよ」とねだったことがあります。西尾さんから「ないから買って!」と言われました。結局自分で購入して読んだのですが、またしても20日間くらいかかってしまった。飛ばし読みができない。西尾さんの文体が饒舌だからです。

 それはともかく、「強烈な意志の肯定の気魄」をみなぎらせるショーペンハウアーが「意志の否定」などと言ったことに対し、西尾さんは「すなわち意志の否定もまた、意志によって達成されるものだと言っていい、これは明らかに矛盾である」と断じました。その矛盾の理由を西尾さんは探索しますが、その一つに「強引に思想を体系化したことにあった」と書いている。

 西尾さんの言説を近代のバリヤーの中で住んでいる凡庸学者が聞いたら怒り狂ったに違いありません。なぜなら「学問に体系はあってもなくてもよい」と平然と言っているからです。普遍知の信じられていたころの近代の学者は「普遍」により近づくべく、生涯の終わりには必ず既存の理念でもって稚拙な体系化を敢行しています。これをかつては「博士論文=墓碑銘」と言っていました。

 ところが、インターネットが普遍知を崩し、グローバリゼーションが国家のサバイバル状態を招来すると、近代の迷妄はたちまち晴れてしまいました。近代の理念の多くは、白日の下にさらされたのです。近代の理念は失われ、「学問に体系はあってもなくてもいい」ことになりました。下手に体系化すると、蟻塚が壊れてしまいかねません。「近代理念」の権化であった社会学者たちは、今や現地調査とアンケート調査しかしていません。

 しかし、そんな西尾さんも、ニーチェやショーペンハウアーを体系化し、そこに自らも入りたかったようなフシがあります。その矛盾に本人は気づいていたのかどうか・・・・。

保守主義者としての苦闘

 ともかく、西尾さんがニーチェ、ショーペンハウアーに魅かれたのは、反近代だったからではないでしょうか。私も近代は大嫌いですから、西尾さんとはその点で通底する思いがあった。

 では、そんな西尾さんが日本について積極的に発言するようになった理由はどこにあったのか、というと、やはり西尾さんの“情”が突き動かしていたのではないか。私の場合、日本のことは副業であって、専門は東西の政治思想史です。だから、「西尾さんはどうしてここまで日本に首を突っ込むのかな」と不思議に思っていました。

 さらに言えば、西尾さんは保守主義や保守思想を自ら体現しようとしたのではないか。

 私の考えを言えば、「保守主義」はないと思っています。岩波書店の『哲学・思想事典』で「保守主義」を調べてみると、「保守主義とは常に自己の時代を何らかの解体の時代ととらえ、それ以前のものの固有の価値を自己の時代と次の時代のために救い出そうとする思想である」。

 ほかにも藤岡信勝氏が編纂した歴史教科書には、英国の思想家、エドマンド・バークを紹介し、バークの著作『フランス革命についての省察』を引用しながら、フランス革命が起きると伝統を破壊する思想や行動を批判し、先祖を顧みない人々は子孫のことを顧みないだろうと述べたと書いてあります。バークはさらにフランス革命を批判し、英国がピューリタン名誉革命の後に王政復古すべきだと言っている。それだけの話であり、内実があまりない。

 そういう意味で「保守主義」はないのではないか。たとえあったとしても、凡庸なものとしてとらえられるのではないか。むしろ、リベラルのほうがカッコイイように感じてしまう。危険ですが。岩波の事典の定義からすると、私は保守主義ではない。もっと言えば、常に左翼・右翼のバランスの中で物事を考えています。

 しかし、西尾さんは保守主義の本質を自覚しながらも、何とか哲学的に後付けしよう苦闘したのではないか。さらに言えば、岩波の事典で定義された「保守主義」とは違う“保守”を自ら体現しようと努力したのではないか。ある意味で理念型かつ近代的だったのです。

 西尾さんは最期まで保守主義をこの手に摑もうと格闘し続けた方であり、そんな姿に共感を覚える人たちも多くいたのです。謹んでご冥福をお祈りいたします。

ふるた ひろし
1953年、神奈川県横浜市生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科東洋史専攻修士課程修了、筑波大学名誉教授。『韓国・韓国人の品性』(ワック)ほか、著書多数。共著に『韓国・北朝鮮の悲劇』(藤井厳喜/ワック)がある。

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