産経新聞への私の対応(一)(4月1日訂正文加筆有)

 29日朝の産経新聞29面に昨夜の「つくる会」理事会の内容が報道されているが、11時12分に、「つくる会」本部から「FAX通信」第170号が送られてきた。この通信の発行者は「つくる会」本部である。

 それは理事会報告の概要を伝えた後で、四角で囲んだ次の特別記事を掲げて読者に注意を促している。

 

『産経新聞』(3月29日付朝刊)で報道された理事会の内容は、憶測を多く含んでおり、「つくる会」本部として産経新聞社に対して正式に抗議しました。とくに、「西尾元会長の影響力排除を確認」「宮崎正治前事務局長の事務局復帰も検討」は明らかに理事会の協議・決定内容ではありませんので、会員各位におかれましては、誤解することの無いようにお願い致します。

 上記内容は会長の承認を得ているはずである。会長の意向に反して何ものかが捏造記事を記者に流したことを意味する。理事会に出席していたある人に電話で聞いた処によると、新聞は他にも事実に反することを書いている。八木氏が先に解任された主な理由が会長としての職務放棄、指導力不足にあったことが昨夜の理事会で確認されているのにそれは述べられていない、など。

 産経新聞の記者の中に明かに会の一部の勢力の謀略に協力して、捏造記事を※書く者がいることが以上で明瞭になったので、私に対する名誉毀損も含まれているので、本日、産経新聞住田良能社長に書簡を送り、事実調査をお願いした。記者の名を公表し、厳重に処罰することを要求した。書簡は29日付の郵送である。

※下線部分を以下のように訂正いたします。
それとは気づかずに、公式見解と記者が取材で得た事実を区別しないで

(上記訂正理由:渡辺記者から次のような内容を含む通信が管理人宛にきましたので、記事そのものが捏造ではないことを確認し、一部訂正いたしました。)

FAX通信についてのつくる会への抗議に対して、けさ種子島会長から電話で返答がありました。要旨は「記事が間違いだという意味ではない。今大事なときなので、過激な人たちを収めるために『公式発表と記者が取材で得た事実は区別して読んでほしい』という意味でFAX通信に書いた。辞めた西尾先生がブログなどでつくる会に言及することは理事一同迷惑している。また、宮崎さんについては記事の通り4月から戻ってもらう」との内容でした。

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参考記事

つくる会、八木氏を副会長に選任 夏までに会長に復帰へ

 新しい歴史教科書をつくる会は28日の理事会で、会長を解任されていた八木秀次理事を副会長に選任した。7月の総会までに会長に復帰するとみられる。同会の内紛は事実上の原状回復で収束に向かうことになった。

 つくる会は先月27日、無許可で中国を訪問したことなどを理由に会長だった八木氏と事務局長だった宮崎正治氏を解任。種子島経氏を会長に選任していた。副会長だった藤岡信勝氏も執行部の責任を取って解任されたが、2日後に「会長補佐」に就任していた。

 しかし、地方支部や支援団体から疑問の声が相次いだことなどから再考を決めた。藤岡氏は会長補佐の職を解かれた。種子島会長は組織の再編などを進めた後、7月に予定されている総会までに八木氏に引き継ぐとみられる。宮崎氏の事務局復帰も検討されている。

 理事会では西尾幹二元会長の影響力を排除することも確認された。種子島会長は「会員の意見を聴いたところ、八木待望論が圧倒的だ。内紛はピンチだったが、『創業者の時代』から第2ステージに飛躍するチャンスにしたい」と話している。

(3月28日、産経ウェッブより)

寒波襲来の早春――つれづれなるままに――(五)

 たてつづけに二つの映画を見た。「男たちの大和」と「Always 三丁目の夕日」である。どちらもあと数日で上映が終わると聞いたので、都内でかろうじて上映されている場所と時間をインターネットで調べて、仕事のあいまを抜って見て来た。

 呉に行って海事歴史博物館「大和ミュージアム」でこういう映画があることを知った。それでともかく見なくてはと思った。博物館にあった大型模型が映画にも使われたそうだし、あの近くに別に野外セットがまだ残っていて、そちらにも観光客が押し寄せているらしい。そんな噂話に私も釣られたのである。

 でも、何だろうなと思った。あゝいう作り方をされるとかなわないな、と私は少しやりきれない気持だった。映画館の内部では終わりに近づくにつれすすり泣きで一杯だった。私も涙が溢れた。雪の降る中の母と子の別れ、岩壁に手を振る赤子を抱えた将校の妻、なじみの芸者に黙ってあり金を全部渡して立ち去る男、そして僅かな兵隊の給金の中から田舎の母に送金する15歳の少年兵、生き残ったもう一人の少年兵も父母兄をすべて戦争で失い恋人も広島の原爆で逝く。「私は何も守れなかった」と老いた彼は呟く。―――

 私もたしかに涙を抑えがたかったが、後で考えると妙なのである。感傷的につくられていて、完全な反戦映画である。大和の最期については本も多く、私はあまり読んでいないが、こんな個人的なエピソード集にしてよいのだろうかなと疑問に思った。

 映画は戦争の運命をぜんぜん描いていない。「亡国のイージス」という映画も肉親の愛憎のテーマにすぎなかったが、たしかにあれよりは歴史を扱っている分だけ現実感はある。けれどもイメージとして観客の心に残るのは巨艦の自爆出動という愚挙と若者たちの犬死のスペクタクルシーンにほかならない。いまだにこういう映画しか作れないこの国では九条改正ですら難しいのかなと思った。

 けれども、あの映画の製作者は自分では真正面から戦争の運命を描いているつもりになっているのではないかとも思った。反戦映画の意図はなかったかもしれない。製作者の心事を私は測りかねて今でもいる。

 最近つくられる戦争映画は軍人の動作が軍人らしくない。どことなく誇張されていて不自然である。兵役のない国でそれはある程度致し方ないとしても、問題はシナリオである。なぜ日本が戦争しなければならなかったのかが分らないストーリーである。運命感がにじみ出ていない。なぜ軍は自爆とみすみす分って一機の飛行機の護衛ももうなくなってから航行に向わせたのか。あるいは兵は承知で死地へ赴いたのか。

 この「なぜ」を映画は語らないからリアリティがない。否、この「なぜ」はいまだに日本の国民が答えていないので、そもそも映画がトンチンカンになるのは仕方がないのかもしれない。というよりも、この手の映画はいまだに日本人の手では作れないし、作ってはいけないのかもしれない。

進歩のない者は決して勝たない 負けて目ざめることが最上の道だ

日本は進歩ということを軽んじ過ぎた

私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた

敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか

今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ

日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか

 映画の中で白渕磐大尉が男たちの死ぬ決意の前の乱闘をおさえてこれを語るシーンがある。遺言からの再現らしい。この語は尊いし、重い。たゞストーリーの全体と画像の展開がこの語を生かす組み立てになっていない。突然この言葉が語られても、観衆には重さがよく伝わらない。

 いったいいつ日本人は自分の戦争を正確に表現する映画を作り出す日が来るのであろう。

 「Always 三丁目の夕日」は昭和33年の東京、私の大学四年生の頃の下町の舞台を再現し、なつかしい事物と風景に溢れていたが、ストーリーはやっぱり人情哀話である。庶民の笑いと涙の物語である。こういう話にしたてないと日本では映画はつくれないのだろうか。

 二つの映画を見た日はどちらも寒く、私は帽子を吹き飛ばされるほどに風も強く、まさに「寒波襲来の早春」だった。

寒波襲来の早春――つれづれなるままに――(四)

 日録のコメント欄に、ある人が拙論をほめて次のように書いてこられた。

 

 西尾先生、諸君4月号-『かのようにの哲学』が示す智恵-、密度の濃い素晴らしい論文でした。皇統の問題は、日本人の実質的宗教的信仰心の問題であると同時に、近代合理主義に対する懐疑的態度としての保守思想の問題でもあるわけです。つまり日本人固有の問題であると同時に普遍的な問題でもある。この問題を同時に解決してくれる一つの在り方が「かのようにの哲学」です。本西尾論文がここ最近沸き起こった皇室典範改定慎重論の流れの中で達した結論ではないかなと思います。(以下略)
                    総合学としての文学 2006年3月1日

 方向は大づかみされているが、こんな風に理路整然とまとめてもらえるような立派な仕上がりの論文では決してない。たゞ私は一寸考えてみて論じ尽くせなかった難しいテーマの入り口を示すことは出来て、探求はこれからだと思う一問題に突き当たった。それは日本、中国、西洋のそれぞれにおける王権と神格との関係の比較である。

 西洋にはGODという、中国には「天」という絶対超越的な神がいて、代りに世俗の王権はいかに専制的であっても神格をもたないのではないか。ところが日本の天皇はカミである。神格をもつ御一人者である。たゞし、カミの概念が西洋や中国のそれとは異なる。

 どう異なるかはむつかしい。あの論文では神話と歴史の関係で少し考察してみて、途中で深追いせずに引き返した。入り口を示すだけで終ってしまった。天皇はカミである代りに世俗の権力を持たない。一方武家のような世俗の権力には神格がない。こういう日本の歴史の二重性、いわゆる「権威と権力の分立」は、地上に神を持たない西洋や中国の権威と権力の構造とは自ずと別のはずである。

 それはそうとして、鴎外の「かのようにの哲学」は今回の論文の中心主題では必ずしもない。論文の標題は編集長がつける。私が草稿に添えた原題は「皇室問題の本質は歴史にあらず信仰にあり」であった。長過ぎたので「かのようにの哲学」が用いられたのであろう。そのために誤解される可能性がある。

 別の編集者の加藤康男さんが新刊の『人生の価値について』の礼状に添えて、次のように書いてこられた。冒頭に「書斎人」とあるのは、つくる会決別の挨拶状に私が「これからは書斎にもどる」と書いたことに応じている。

 ご無沙汰しておりますが、「書斎人」として充実された日々をお送りかと拝察申し上げております。
さて、「諸君」の信仰論を拝読して、誠に腑に落ちていたら「人生の価値について」をご恵贈いただき、後半は特に一挙に読了させていただきました。先生ご自身が過去の病との戦いの中で、何か信仰にも似たものがあって、それが読み手の側にも伝わってきたのではないかと思えたからです。
信仰とは、例え神の存在を信じていない者にでも、伝わるのでしょう。ブログにも書かれていたご友人の病へのお気遣いの中にも、似たような一種の「信仰」が見えました。
この「信仰」なるものの正体は、小生には分かりませんが、こういうものが長い年月、日本人を繋いできた皇室問題と不可分であることはもっと多くの人に知って欲しい問題です。

 「信仰」といわれるとたちまち照れ臭くなるのが私の常である。否、大概の日本人がそうである。が、皇室問題はつきつめるとそういう方向の問題ではないかと考える。それを勘違いして、歴史、歴史と人々が騒ぐので、女系でも皇統はつながる論拠が歴史の中にあるとかないとかいう横道にそれた議論(田中卓、所功、高森明勅諸氏の)になるのであろう。

 「信仰」といわれて応答の言葉に困って私は加藤さんにすぐ次のように返書を認めた。

 お久しぶりです。年をとると行動力鈍く、集中力も落ち、そのぶん一日が短く、せわしない日々をおくっています。

わたしに信仰はありません。どんな宗教もわたしには遺憾ながら単に文化的知識です。日本の平均的人間がそうであるように。しいていえば信じているのは亡き母の愛です。最近犯罪事件をみて、母に愛されなかったひとがあんがい多いのではないかと考えたりします。私はその点では幸せでした。
拙著「人生の価値について」をご一読賜りまことにありがたくぞんじます。

「諸君」4月号論文はいまの言論界に熱っぽい天皇論がおおいので、あえて声なき声をチラットだし、皆さん、ほんとうに天皇の存在をそんなに大事に思っているのは、それ本気ですか、って聞いて見たかったのです。あの論文には少し意地悪がこめられています。江戸前期の「大日本史」が古事記も日本書紀も認めていなかったのを知っていますか、なんてキザな知識をふりまわして、いまどきの保守派をからかって、ほんのすこし戦後の進歩的知識人めいたことをいって、おどかしてやりたいのです。これからもこの手を使ってみます。今の保守派はほんとうにダメです。戦後の進歩的知識人がダメだったのとよく似た意味でダメなのです。

つまり、みんな正しいことを言いすぎるのです。正しいことは犬に食われろです。正しいことの範囲が言論誌ごとに定まっていて、みんなその枠のなかで優等生です。編集者が悪いのか、読者の好みに原因があるのか。というようなことをまた一杯やりながら話したいですね。荻窪にいい店を三軒もみつけましたよ。

つくる会のことはいまあまり考えたくありません。自分から考えなくても、情報が忍びよってきて憂鬱です。今日は週刊新潮からの取材を受けました。記者は何人にも聞くのでしょうから、わたしの考えはどうせ落ち葉の中の一葉です

寒波襲来の早春――つれづれなるままに――(三)

 今月他の都市でした講演のテーマは皇室問題であった。1日に大阪倶楽部で、13日に時事通信社内外情勢調査会の鳥取支部で、14日に同会米子支部で同じテーマについて話した。

 13日に鳥取は雪が降っていた。着陸できない可能性があると知らされたまゝに11:50に羽田から搭乗した。案の定鳥取上空まで行って30分も旋回して、伊丹空港へ戻った。ANAのリムジンバスで新大阪へ案内され、「超特急はくと9号」に乗って鳥取へ向った。さて、「はくと」って何だろう、と不審になりだすと、車掌さんが来るまで落着かなかった。

 「白い兎と書くんですよ」と車掌さんにいわれ、「あゝ、そうか因幡の白兎ですね。」「そうです。」と笑顔で答えられ、やっと納得した。大阪も兵庫もずっと青空が見えた。2時間半の汽車の旅の終り約40分ごろに長いトンネルに入り、トンネルを抜けると外は一面に白い雪国だった。

 駆けこむようにして間に合った駅前のホテルニューオータニ鳥取の会場で、用意されていた夕食会の私の食事は摂らないで早速に話を開始した。今まで雑誌などに書いてきたような内容を思いつくまゝに自由に語ったが、終って不動産会社の社長さんという70歳くらいの方が、米国の占領政策の完成がついに天皇制の破壊という形で到来した、と独り静かに語り出した。聴衆はみんな帰ったのに、彼はしばし席を立たなかった。郵便局のアメリカへの身売り、農地の解体、病院の株式会社化、そしてついに天皇制度のなしくずし的消滅に手をかけるに至って、アメリカの占領は満足すべき終結を見た、と怒りとも悲しみとも言い表せぬことばで語りつづけた。私の言いたいようなことはみんな心ある日本人には分っているのだなと思うと、胸を打たれもし、心強くもあった。

 「あなたの周りの人はあなたの怒りを共有しますか」と私は聞いた。「いえ、ダメです。少数です。この間講演会で竹中平蔵さんの話を聴いて、アメリカにここまで奪われてよいのかと私は質問して食らいつきましたが、司会者に打ち切られました。わしらは無力ですよ。」

 ニューオータニの最上階のラウンジから眺める鳥取の夜景は雪もやんでしっとりと静まりかえっていた。私の年下の友人、鳥取大学の武田修志教授が訪れて来て、夜景を見ながらウィスキーを飲んだ。武田さんは学生に本を読ませる教養の本道につらなる実践教育をすることでよく知られ、そういう体験の教育書も書いて、大学の教養部解体の波に抵抗している理想主義者である。いま小林秀雄に関する本を書いている。

 「先生、驚かないで下さい。」と彼は突然思い出したように言った。「私はいま講義室の掃除を始めているんです。清掃予算が減ってペットボトルや紙屑で教室がよごれる。私が率先して始めてみたんです。手伝う学生もボツボツ出て来ています。教官で手伝う人はいません。こんなことから始めなくてはどうにもなりません。きたない講義室で教育はできないとだんだん気づく人が出てくるでしょう。」

 武田さんは気負っているのでも、気取っているのでもない。質朴なお人柄である。彼は『諸君!』4月号の拙文「『かのようにの哲学』が示す知恵」にしきりに関心を示した。宗教心と皇室問題についてわれわれはしばらく話合った。香奠袋の買い置きをしない日本人の慣習に関する私の書き出しの部分が印象的だったようだ。

 私は武田さんこそが日本人らしい宗教心の持ち主なのだと思った。率先して黙々と講義室の掃除を始めた大学教授。日本の現実のひどさを反映している逸話である。同時に日本人の本来の信仰心のようなものを強く感じさせる方だと思ったが、口には出さなかった。

 西洋の旅をして、教会の内陣でひたすらお祈りをする西洋人を見て、日本人には宗教心がないと口癖に反省を語った一昔前の知識人のエッセーの底の浅さを思い出した。宗教心なんてそんなにご大層な、ことごとしいものだと考えるべきではないと私は思う。

 70歳くらいの不動産会社の社長さんといい、武田教授といい、良い人々に出会って静かに更けていく鳥取の雪の夜の出来事であった。

寒波襲来の早春――つれづれなるままに――(二)

 私は翌7日の12時30分には、海上自衛隊から車が迎えに来た。羽田空港に向った。同行して下さる一等海佐の大塚海夫さん――いつ会っても爽やかで気持のいい紳士――に、プリントアウトしておいた「つくる会顛末記」を機内で読ませた。「まことに残念ですね、まことに。」が彼の口から出た唯一の言葉だった。彼にはそれ以外に言いようがないようだった。

 その夜は呉に泊まり、江田島の副校長先生ほかから接待を受け、その後大塚一佐の昔仲間である艦長さんや軍医さんと一緒にカラオケを楽しんだ。私は「イヨマンテの夜」まで歌わされた。翌日午前中に講演。演目は「二つの前史」。江戸時代は近代日本の母胎であり、戦前・戦中は戦後の繁栄の前提である。歴史は連続していて切れ目がない。今の若い人を惑わせている暗い江戸時代像も、北朝鮮のような戦争時代のイメージもともに間違っている。明治維新も第二次世界大戦の敗戦も決してそれほど大きな切れ目ではない、等々を具体例をたくさんあげて話した。副校長先生があとで「このはなし、まとめて小さな新書のような本にはなりませんかねぇ」と言って下さったのは嬉しかった。

 午後は江田島の中の教育参考館を見学。ここは二度目であるが、特攻隊の展示は再び眼に痛い。日清日露の貴重な海戦図も初めて見る思いだった。そして、呉市に渡り、ひきつづき新設の「大和ミュージアム」を見学した。

 最近「男たちの大和」という映画が上映されたこともあってか、江田島にも「大和ミュージアム」にも観光客が大挙して押し寄せているらしい。そして不図思った。鞄の中に入っている平松茂雄さんの『中国は日本を併合する』は軍事大国たらんとし、アメリカとの宇宙兵器による戦争をさえ用意し始めている中国の今の現実と比較して、「昔の偉大な日本」を懐かしむ日本人の心を私はどことなく悲しくも、哀れにも思った。展示物が大規模で、展示内容が「軍事大国日本」「技術大国日本」をデモンストレートしていればいるほど、私の心は沈み勝ちだった。

 翌日平松さんがこんな話をしている。「職業柄、人工衛星や宇宙開発の政府の会議によく出席するのですが、今の官僚も学者たちもですがね、びっくりすることに、アメリカの人工衛星や宇宙開発の知識はもっていますが、お隣りの国でこれがどんどん進展していることについては、知識もなければ、関心もないのですよ。」

 私はこう答えた。「毛利さんその他の宇宙飛行士がテレビによく登場しますが、私にはイチローやマツイのように見える。アメリカの宇宙開発という名の大リーグに招かれているいわば招待外国人選手なんですよね。日本人が自分の大リーグを作らなくてはダメなんですよ。」

 そうしなくてはならないという疑問も今の日本人には指導者でさえ思い浮かばないらしいということが、私にはただただ悲しかった。

寒波襲来の早春――つれづれなるままに――(一)

 3月の前半は毎年税金の整理であっという間に時間を空費する厭な歳月である。最後は税理士に頼むのだが、そこまで持っていくまでが容易ではない。家内の援けを必要とする。

 3月の前半にたまたま今年は講演が集中して、3月1日大阪、8日江田島、13日鳥取、14日米子を旅して、私は疲れながら結構楽しい旅行だったが、税金の方は家内に任せる分が多く、税理士に渡すのも遅れて、両方から恨まれた。

 旅行中に『中国は日本を併合する』(講談社インターナショナル)という刺激的な標題の本を読んで、その著者の平松茂雄さんと9日に『Voice』5月号のための対談をした。毛沢東の巨大な戦略によって東シナ海から沖縄に及ぶ広大な海域がしだいに中国のものになりつつある情勢がしっかり描かれている。

 一方に、宮崎正弘さんの「こうして中国は自滅する」の副題をもつ近刊『中国瓦解』(阪急コミュニケーションズ)のような本を読んで、この国に未来はないと思い、少し安心するのだが、平松氏は全然別の考えをもっておられる。中国ダメ論を氏にぶつけてみると、中国がダメな国であることは100年前も、今も同様である。それでいて中国が核大国、宇宙大国、海洋大国を目指して、少しづつ前進し、30年前と今とを比べるといつの間にか驚異的地歩を占めているのは争えない。中国が道徳的、法秩序的、生活的な面においてダメな国であることは今も昔も変わらないし、これからも同じと思うが、そのことと日本への脅威とは別であると仰有っていた。

 原稿のない時間帯には、夜ごとに人と会合する機会がふえてくる。3月3日には扶桑社の編集者真部栄一さんと荻窪で酒を飲み、「つくる会」の今回の推移をみていると、西尾は会を影で操っている「愉快犯」だとさんざんな言いようでからまれた。2月27日の、私がもう参加しない理事会で会長、副会長の解任劇があったことを指している。

 私は会の動きに関心はもっているが――それも日ごとに薄れていくが――影で操れるような魔力を持っていると思われるのは買い被りで、残った他の理事諸氏に対し失礼な見方である。新会長に選ばれた種子島氏がたまたま私の旧友だからだろうが、私が「院政」を企てているという妙な憶測記事を出した3月1日付の産経記事がどうかしているのだ。このところ産経の一、二の若い記者に、一方に肩入れしたいという思いこみの暴走があるのではないか。私は「つくる会顛末記」を書く必要があると感じた。

 八木秀次氏から会いたいと電話が入り、3月5日の日曜日の夜、西荻窪の寿司屋でゆっくり会談し、肝胆相照らした。彼は私の息子の世代である。彼が会を割ってはいけないという必死の思いだったことはよく分った。しかし、それならなぜそのことを辞表を出した三人の副会長や私に切々と訴えておかなかったのか。言葉が足りなかったのではないか、と私は言った。電話一本をかける労をなぜ惜しんだのか。

 すべてことが終ってからの繰り言はこんなものである。八木さんは自分の解任は不当で、自分を支持する勢力はなお大きいので、どうしたら良いかと私に質した。これが会談を求めてきた眼目だったようだ。私は答えようがない。再び指導力を結集して再起を図るなら、次の総会で再選される手を着実に打っていく以外にないだろう、と答えた。そのためには11、12日に行われると聞いている評議員・支部長会議に無理してでも出席した方がいいよ、と忠告した。日程がつまっていて困った、と言っていたが、出席して熱弁を振ったのであろうか。

 八木さんと会った翌日の6日は新設の女性塾の塾長伊藤玲子さんと6人の幹部メンバーから謝恩だといって市谷グランドヒルに招待された。私が塾の設立に少し協力していたからである。その席上でも「つくる会」のことが話題になった。女性塾の幹部のひとりの女性が「西尾先生はつくる会の会長として会に戻り、藤岡先生とは絶縁すると宣言してほしい」と言ったのにはびっくりした。

 私はこう答えた。「別のある人は『西尾先生は会長として会に戻り、八木先生と絶縁すると宣言して欲しい』と言っている。私にはどちらもできない。だから私は会を離れるしかなかった。藤岡・八木の両氏から等距離であることは、会にとどまっていてはできない。会を離れる以外になかったことはお分かりでしょう。」

 するとその女性は「西尾先生は会を離れてはいけない。藤岡先生を支持してもいけない。どっちも許されない」と言って、さらに私をびっくりさせた。

 「つくる会」の会員内部の心理は混沌としていて、もう私の手に負えない。ことに女性の心は底深く、見えない。女性には愛憎があるだけで認識はない、と誰かの箴言にあったが、やはりそういうことだろうか。

 伊藤玲子さんの昼食会から帰って、「つくる会顛末記」を約8時間かけて書いて、日録に掲示した。私が書いている傍らで長谷川さんが広島からタイプ稿を送り返してこられて、校正も終り、全文清書が終了して掲示されたのは7日午前0時58分であった。主婦の長谷川さんに夜更かし労働を強いたことになり、ご家族の皆様にお詫び申し上げる。

「つくる会」顛末記

――お別れに際して――
          (一)

 私は「新しい歴史教科書をつくる会」にどんな称号であれ戻る意志はありません。

 一度離別決定の告知を公表しており、新聞にも報道され、誤解の余地はないと思っていましたが、産経(3月1日)に私が「院政」をもくろんでいるとわけ知り顔のうがった記事が出ましたので、あえて否定しておきます。

 私は理事会にも、評議会にももはや出席する立場ではなく、会費を払っているので総会の一般席に坐る資格はあるでしょうが、これも今後遠慮しようと考えています。すなわち、いかなる意味でも私は「つくる会」に今後関係を持たないこと、影響力を行使しないことを宣言します。

          (二)

 名誉会長の名で会長より上位にある立場を主宰することは二重権力構造になり、不健全であるとかねて考えていましたので、いわば採択の谷間で、離脱を決意しました。

 次に新版『新しい歴史教科書』は私の記述の主要部分が知らぬ間に岡崎久彦氏の手で大幅に改筆され、この件で、執筆者代表の藤岡氏からいかなる挨拶も釈明もなかったことを遺憾としてきました。採択が終るまでこの件を表立てて荒立てることは採択に悪影響を及ぼすから止めるようにと理事諸氏に抑えられ、今日に至りました。

 旧版『新しい歴史教科書』にのみ私は責任もあり、愛着もあります。旧版がすでに絶版となり、新版のみが会を代表する教科書となりましたので、私の役割はその意味でも終っています。

 また『国民の歴史』は「編/新しい歴史教科書をつくる会」と表紙に刷られていますが、会とも版元とも契約期限が切れましたので、今後の再販本は私の個人的著作として自由に流通させていただくことになります。

          (三)

 しかし1月16日に重要な理事会があり、17日に名誉会長の称号の返上を公表したのですから、昨秋より最近の会内部のさまざまなトラブルに対し私もまた勿論無関係ではありません。私が自らの判断と言動で一定の影響力を行使したことは紛れもありません。

 そこで会の一連の動きに対し私が今どういう見方をしているかをできるだけ簡潔にお伝えし、私の責任の範囲を明らかにしておきます。感情的対立を引き起こしているテーマなので、私に関心のあるポイントだけ申し上げます。他で公表されるであろう資料文献などと併読してご判断ください。

 今回の件はたった一人の事務系職員の更迭をめぐる対立から始まった内紛ですが、人間の生き方の相違、底流にあった思想の相違がくっきりと露呈した事件でもありました。

 「つくる会」は過去にも内紛を繰り返しましたが、今回は今までとは異り、異質の集団の介入、問答無用のなじめない組織的思考、討論を許さない一方的断定、対話の不可能という現象が、四人の理事(内田智、新田均、勝岡寛治、松浦光修の諸氏)からの執行部に対する突然の挑戦状で発生し、私は自分がもはや一緒に住めない環境になったと判断せざるを得ませんでした。

 1月16日の理事会は、さながら全共闘学生に教授会が突上げられた昭和43年―44年ごろの大学紛争を思い出させました。「あァ、会は変わったなァ、何を言ってももうダメだ」と私は慨嘆しました。四人の中の新田理事は、「西尾名誉会長はいかなる資格があってこの場にいるのか。理事ではないではないか」と紋切型の追及口調で言いました。一体私は好んでつくる会の名誉会長をつとめているとでも思っているのでしょうか。八木会長は彼をたしなめるでも、いさめるでもありません。

 「新人類」の出現です。保守団体のつねで今まで「つくる会」は激しい論争をしても、つねに長幼の序は守られ、礼節は重んじられてきました。とつぜん言葉が通じなくなったと思ったのは、12月12日の四理事の署名した執行部への「抗議声明」です。その中には、執行部のやっていることはまるで「東京裁判と同じだ」とか「南京大虐殺問題を左翼がでっちあげて日本軍国主義批判を展開することを想起させる」などとといった見当外れの、全共闘学生と変わらぬ、おどろおどろしい言葉が並んでいました。

 いったいこれが保守の仲間に向ける言葉でしょうか。私がもう共に席を同じくしたくないと思ったのはこのような言葉の暴力に対し無感覚な、新しい理事の出現です。

 今回の件はいろいろな問題点を提起しましたが、私が痛憤やるかたなかったのは、何よりもこのような荒んだ「言葉の暴力」の横行でした。保守の思想界ではあってはならないことです。

          (四)

 宮崎正治事務局長は人も知る通り性格も温順な、優しい人格です。デスクワークに長け、理事会の記録の整理は緻密で、遺漏がなく、人と人とを会わせる面談の設定などもとても親切で、気配りがあり、私など随分良くしてもらいました。個人的には感謝しています。総会などの運営もぬかりがなく、シンポジウムの開催ではベテランの域に達していました。

 けれども私たちは次の採択のために事務局長の更迭をあえて提言しました。「私たち」とは八木、藤岡、西尾の三人です。三人の誰かが先走っていたということはありません。八木さんは単なる同調者ではありません。率先した提言者のひとりでした。例えば、宮城県県知事が変わり、「つくる会」に好意的な人物らしいと分って、八木会長は対応を宮崎氏に申しつけました。しかし彼は行動を開始しないのです。

 宮崎さんはいい人ですが、独自のアイデアはなく、また果敢な行動力もなく、私が提案したいくつものアイデアも「分りました」というだけで実行されたためしはありません。「難しいからやらないという弁解を最初に口にするのは官僚の常で、つくる会の事務局が官僚化している証拠だ」と叫んだのは遠藤浩一さんでした。

 採択戦の最も熱い場面で、もっと目に立つ運動をしてほしいという現場会員からの支援要請があるにも拘らず、文部省が「静謐な環境を」といったことを真に受けて、積極的な運動をむしろ「やってはいけない。敵と同じ泥仕合をしてはいけない」と抑えつけたのが宮崎さんでした。杉並の採択戦でとうとう藤岡氏が怒りを爆発させました。鎌倉その他からも不満の声がいっせいに上りました。

 宮崎さんは自分の性格の消極性をよく知っています。他人と四ツに組んで対決する人間としての気迫の欠如もよく承知しています。くりかえしますが、彼は几帳面な人ですが、「つくる会」の「事務局長」という対決精神を求められるポストには向いていないのです。

 こう申し上げることで多分ご本人を傷つけたことになるとは私は思いません。自分の性格の長短は誰でもかなり正確に自ら気づいているものです。性格だから変えようがありません。

 ですから、事務局長更迭は穏当な案件なのであって、宮崎氏の雇用解雇はこの段階ではまったく考えられていません。昨年の9-10月頃のことです。

 彼の生活のこともありますから、どういう立場で彼の名誉と給与を守るかが執行部の悩みの種子であり、鳩首会談の中心テーマでした。どこかで誰かが報告してくれるであろうコンピューター問題などが出てくるのはこの後だいぶたってからのことでした。

          (五)

 事務局長としての宮崎氏の不適任性は、事務局を内側から見ている役目を長くつとめた種子島理事や、会計監査の冨樫氏の共通認識であり、私を含む六人の執行部もまた、身近で彼を見ていたから言えることでした。地方にいる理事や、新しく入ってきたばかりの理事にいったい何が分るというのでしょう。

 いいかえれば、こうしたボランティア団体で局長人事に限らず一般に事務局人事は「執行部マター」であります。他の理事は事情がよく分らないのですから、追認するのが常識です。

 ところが今回に限ってそうはならなかった。先述のとおり「言葉の暴力」の乱舞する挑戦的な行動が突如として四人の理事によって展開されました。しかも、驚くべきことが時間と共にだんだん分ってきました。この四人のうち三人は保守学生運動の旧い仲間であり、宮崎氏もまたその一人であり、昔の仲間を守れ!という掛け声があがったかどうかは知りませんが、私的な関心が「つくる会」という公的な要請を上回って突如として理不尽なかたちで出現したことは紛れもありません。

 私はだんだん分ってきて、驚きましたが、同時にひどく悲しくなりました。こういうことはあってはいけないのではなかろうか。

 しかも困ったことにどうもこの動きには背後になにかがあるのです。そしてその背後を八木会長が配慮する余りに、彼がずるずると四人組の言い分に引きずられて、事務局長辞任は西尾や藤岡氏の意志であって自らの本来の意志ではなかったかのごとき声明を出したり、またそれを再び打ち消す逆声明を出したりと、ほとんど信じられない迷走ぶりをくりかえしだしたのでした。これらの文言はすべて証拠として残っています。

 八木さんは会長として会を割れないという一念があったのでしょう。私は今はそう理解しています。宥和を図る、というのが彼の一貫した態度でした。しかし宥和といっても一方に傾きがちで、四人組にいい顔をして、他方に配慮が足りないために、遠藤、福田、工藤の三人が副会長を辞任し、八木氏を諫止しようとする挙に出ました。八木氏には宮崎辞任を急がせるようにという三人の意志がぜんぜん伝わらなかったようでした。この点では他方を甘く見ていたのは失敗だったときっと彼はいま後悔しているでしょう。

 であるなら、八木さんをこんなにおびえさせた背後のもの、それに対する配慮のために自分を失いかねなかった背後の勢力とは何でしょうか。じつは、ここからが微妙で、言いにくい点なのですが、要するにわれわれにとって兄弟の組織、親類のような関係にある団体「日本会議」です。

 「つくる会」は一つの独立した団体です。人事案件はあらゆる独立した団体の専権事項です。どんなに親類のような近い関係にあっても、別の組織が人事案件に介入することは許されません。

 「つくる会」の地方支部は大体「日本会議」と同じメンバーで重なります。日本会議を敵に回すことは「つくる会」の自己否定になる、と八木さんはおびえていました。四人組に対し強く出ることは会を割るだけでなく、日本会議の今後の協力が得られなくなることを意味するのだというのです。

 しかも当の宮崎氏は「俺を辞めさせたら全国の神社、全国の日本会議会員がつくる会から手を引く」と威したのでした。私はこれを聴いて、いったん会を脅迫する言葉を吐いた以上、彼には懲戒免職以外にないだろう、と言いました。それが私が会長なら即決する対応です。四人組が彼を背後から声援していることは明らかです。

          (六)

 会の幹部は日本会議の椛島事務総長にも、また、同じように背後から宮崎事務局長の立場を守ろうとしていた日本政策研究センターの伊藤哲夫さんの所にも出向いて挨拶に行っています。私は行っていませんが、八木、藤岡、遠藤、福田の諸氏は互いに都合のつく者同士で組んで挨拶と相談のために出向いているのです。

 しかし、ここで一寸変だと思われる読者が多いでしょう。事務局長更迭は独立した組織である「つくる会」の専権事項であって、他の組織の長におうかがいを立てるべき問題ではありません。しかし八木執行部はそうしたのでした。そして余り色よい返事をもらえないで帰って来ています。

 どう考えても妙です。日本会議も日本政策研究センターも、ご自身の事務局員の人事案件について他の組織におうかがいを立てたことがいったいあるでしょうか。私は「つくる会」の「独立」が何よりも大事だと言いつづけました。

 椛島有三さんも伊藤哲夫さんも私がよく知る、信頼できるいわば盟友であることは先刻読者はご承知のとおりです。椛島さんとは夏の選挙戦で大分から宮崎を共に旅し、伊藤さんとは九段下会議の仲間です。宮崎人事に口出しして「つくる会」の「独立」を脅かしてはいけないとお二人はまず何よりも考えたでしょうし、考えるべきでもあります。

 椛島さんは、「宮崎君をまあ何とか傭っておいて下さい」というようなお言葉だったそうです。伊藤さんは「つくる会」の案件だから自分は関知しないし、「つくる会」の運動には政策センターとしてももう直接参加するつもりはないと言ったそうです。(ですが、宮崎氏は反対のことを言っていて「伊藤さんは自分の解任に最終的に同意したわけではない」と最後まで言い張っていました)。

 椛島さんも伊藤さんもあの古い保守学生運動の仲間なのです。今はもう関係ないと仰有るかもしれませんが、日本的なこの古いしがらみが八木会長の行動を徒らに迷わせ、苦しめたことは動かせない事実でした。

 彼は会の「宥和」を第一に考えました。そして、日本会議や日本政策研究センターが協力しなくなるという恐怖の幻影におびえつづけたのです。私の前でもくりかえしそう語っていました。それが事実であることを、椛島さんも伊藤さんもよく考えて下さい。ご自身がそう意図しないでも、相手に知らぬうちに激甚な作用を及ぼすことがありうるということを。

 お二人は何の関係もないと仰有るでしょうし、また事実関係はないのです。しかし「関係」というのは一方になくても他方にあるという心理現実があります。そのことを少し考えておいて下さい。

          (七)

 八木さんは会長ですから会を割るわけにいかないと必死でした。私は会の独立が大切だと思いました。一つのネットワークが一つの会組織に介入して、四人組をその尖兵として送りこんできているのではないかとの疑念を抱きつづけました。

 私だけでなく、他の理事たちは強く危機感を私と共有しました。私がまだ会を立ち去る前です。そして、その危機感は2月27日の理事会までつづいて、四人組のこれ以上の影響を阻止するために八木会長解任という結果をひき起したのではないかと考えます。八木さんの迷いぶりが彼の身を打ったのです。

 コンピューター問題とか、会長中国旅行の正論誌問題とか、いろいろ他にもあるのでしょうが、私は他の問題の意見を述べるつもりはありません。

 八木さんが不手際だったとも思いません。彼は彼で精一杯会を守りたいと念願していたのでした。しかし藤岡さんはじめ他のメンバーも会を守りたいと考え、激しくぶつかるほかありませんでした。

 まず最初に四人組が組織と団結の意思表明をしました。全共闘的な圧力で向かってきました。そこで反対側にいるひとびとは結束し、票固めをせざるを得なかったのだと思います。

 票の採決がことを決するのは「つくる会」の歴史に多分例がありません。初めての出来事です。組織的圧力がまずあって、ばらばらだった反対側があわてて組織的防衛をしたというのが真相でしょう。

 ひょっとすると思想的にみて、現代日本の保守運動に二つの流れがあるのかもしれません。その対立が会のこの紛争に反映したのかもしれません。しかしそれを言い出すとまたきりがなく難しい話になりますので、ここいらでやめておきましょう。

 いずれにせよ今日を最後に、私は「つくる会」の歴史から姿を消すことにいたしたいと思います。

 皆さまどうも永い間ありがとうございました。

 (了)

〈追記〉
 関係者以外の人に誤解の生じる恐れがあると読者の一人から指摘されましたので、追記します。「つくる会」で給与が支払われるのは事務系職員だけで、会長以下理事の活動は無料のボランティアです。ただし講演や出張に対しては報酬が支払われます。給与も報酬も一般平均より著しく低廉であることはいうまでもありません。

忘れることの大切さ

――拙著『人生の価値について』と10年前の自分――

 振り返ってみるとあんな難局を我ながらよく乗り切れたものだ、と思うことが人生にはよくある。体力のことを言っている。私の場合は10年前のことを言っている。これから10年先になると、今私が乗り切っているそれなりの現下の難局を思い出して、よくやったものだと思うようになるのかもしれない。

 『人生の価値について』は約10年前に、2年間に及ぶ北海道新聞の、毎日曜日3枚の連載を一冊にまとめたものだが、この2年の期間中に、私は死の淵に近く立つ二度目の大患をくぐり抜けている。その間に連載を中断してはいない。そのことをある人から葉書をいたゞくまですっかり忘れていた。

 記録によると不整脈悪化で榊原記念病院に緊急入院したのは、1994年12月12日である。連載は94年4月3日に始まっている。病気は過密スケジュールによるストレスが原因である。連載中の2年間は5冊の単行本を出している多産の歳月であった。そして入院はその中間で、「新しい歴史教科書をつくる会」を始める2年ほど前にあたる。

 1994年11月20日に福田恆存先生が逝去された。私は朝日新聞に追悼文を書いた。そして、月刊誌『新潮』からもより長文の追悼文を依頼されていた。先生の青山斎場での本葬儀は12月9日だった。私はその翌日から苦しみだし、12日に病状がにわかに進み、入院した。心室頻拍症という診断を受けた。心電図のモニターでしばしば脈の停止があった。メキシティールが注射された。すんでのところで心臓が止まる危機的状況だったと後で知った。

 私は『新潮』の追悼文を書くつもりだった。先生の訳業のイプセン『ヘッダ・ガーブラー』から書き出す野心的な組み立ての小論にする予定で、必要な本と原稿用紙を病院に運びこんでいたが、医師に制止され、諦めざるを得なかった。

 それでも産経新聞の正月用に予定される「正論」欄を、これは短文だということで、12月15日に完成させている。12日に入院して15日に書いている。よく気力と体力があったなァ、というのは一つにはこのことである。福田先生に関するエピソードの一つを紹介し、「私に踏み絵をさせる気か」という題で発表している。そして19日に退院し、私は自宅療養に入っている。

 わずか一週間の入院生活だった。が、心臓はこわい。あぶなかったのだ。それから2年ほど不整脈に悩んだ。血圧計を日に何度も使用していたが、いつしか完全に不整脈は治った。エパデールという、今も常用している青い魚のエキスの薬のせいかもしれないし、「新しい歴史教科書をつくる会」の活動――1996年12月2日に始まる――がストレスの解消に役立ったのかもしれない。(当時はそうだったが、最近は逆につくる会がストレスになっている。だから手を引いたのである。)

 『人生の価値について』の原稿は札幌の北海道新聞本社へ送るのに、ある通信社の手を経て、送付されていた。二年間お世話になった通信社のB.Hさんに今度出た再刊本をお送りしたら、次のような好意的な葉書のご返書をいたゞいた。

謹啓。御著『人生の価値について』の新刊を御恵贈いただき、謹んで御礼申し上げます。思えば10年以上も昔、電通大の先生のもとにこの連載原稿を頂戴に通いました。毎週いただく原稿を帰りの電車でむさぼるようにして拝読していたことが鮮やかに蘇えります。当時の私の仕事を離れた大きな楽しみであり、思索の羅針盤でもありました。新潮選書で一冊の本になったとき、一人でも多くの日本人にこの名著が広まるように念じたと同時に、読んだ人は必ず己の迷妄を振り返り、少し利口になったような気になるだろうと自身を棚に上げて思ったことであります。新版は廉価であります。さらに読者の輪が拡大して行くことだろうと信じております。日曜日、拝読し直しておりましたら、いつの間にか夜中近くになっていました。まさしく〈巻を措く能わず〉そのものでした。取り急ぎ御礼のみにて失礼いたします。敬具

 私は嬉しかった。かつて何度も読んだはずの方がまた読んで、また引きこまれて、つい夜中近くまで面白くて読んでしまったという、こういう率直なことばが、いつの場合にも作者を何よりも喜ばせる。

 あの本は読みだしたらじつは筋があって、次々と面白くて、先を読みたくなる構成になっている。じつはそうなのだ。そういう文章の組み立てになっている。B.Hさんがその点を再体験したと報告して下さったことが私には感激だった。

 再刊本を決定し、出版して下さったWACの編集者M.Mさんが「三分の二くらいまでは〈面白い本だな〉という印象でしたが、最後の三分の一に入るとオヤという印象で、〈感動させる本だ〉と分りました」と、出版前にわざわざ電話を掛けてこられた。私はこれも嬉しかった。

 「人を感動させる」は、ものを書く人間が密に心に期する最大の願望で、しかもそういう本は滅多に創り出せない。

 ある人が短章集なので一日一篇ずつ読みます、などと葉書をくれたのにはガッカリした。そういう本ではない。一気に読める推理小説のような仕掛けになっている本なのである。一日一篇ずつ読むなどという人は結局読まないでやめてしまうだろう、と思った。

 なぜ最後の三分の一は人の心を摑むのか。1981年のガン体験を15年たってやっと筆にできたのである。それもストレートではない。終りのほうにちょっと出しただけである。しかも書いている最中に二度目の大病を患っていた。

 とはいえこの本は病気がテーマではない。古代中国あり、ヨーロッパ論あり、インドの不可触民あり、オウム真理教あり、宗教・歴史あり、人生に評価はありや、のテーマがあり、母の死への思い出があり、内容は多方面にとぶ。読み直してみて、文章には暗い翳りはないことを再確認した。筆者の気力は充実していた。

 B.Hさんからお葉書を頂くまで、この連載の期間中に入院していたのだということを忘れていた。連載は中断されなかった。そういえばB.Hさんは病院にお見舞いに来て下さったな、と思い出した。病院で一回分の原稿を渡したのかもしれない。

 すっかり忘れていた。何でも忘れてしまう。とくに病気のことを忘れる。時期を忘れる。連載の苦しかったことと楽しかったことは覚えている。私が言いたかったのは「忘れる」というこのことである。10年をつと他人に言われて年号を合わせてみない限り、もう自分の歴史、二つの事件の重なりをすっかり忘れている。

 忘れたいのである。きっとそうだ。心の中から追い払ってあれから10年を生きてきた。だから今、私は生きているのだ。そうなのだ。そうだったのだ。とあらためて生と忘却の不思議について考える。

 生は未来を必要とする。だから忘れるのだ。私は次の10年に向けてまた走り出しているのである。きっと今日このことを書いたことをすっかり忘れるであろう。それでよいのだと思う。